12
朔良と弌夜が正式に付き合いだしたという嬉しい報告を聞いてから、数日が経った。その時の朔良の幸せそうな表情は、工藤の脳裏に今でも焼き付いている。思い出して、思わずくすっと笑ってしまう。
「工藤師範。急に思い出し笑いしないで下さい。行射に影響が出ます」
工藤の目の前で行射をしていた克生が、怪訝気に眉根を寄せ注意してきた。
妨害があっても、矢を的のほぼ中央に中てている辺りが、克生の主将としての腕を感じさせる。
「ごめんごめん。部活中は部活に集中しなくちゃね」
「お願いします。仁科先生だけでは不安で仕方ありません」
うちの主将はとても手厳しい。
克生の言葉に、工藤は苦笑を返した。
「何か嬉しいことでもあったんですか?」
注意しつつも、克生は工藤の思い出し笑いの内容が気になった。
いつも部活に真面目な工藤が、その部活中に思わず頬を緩ませたのだ。気にもなるだろう。
「そうだね。すごく嬉しいことがあったよ」
「それは泉水と関係することですか?」
「どうして?」
「最近、泉水の行射が少し違って見えるので。まぁ、行射の善し悪しには影響されていませんが、どこか浮かれているような……」
そういうところに克生は鋭い。主将だから身についた術なのか、もともとの性格なのか? 洞察力が人より優れていると、工藤は常々思っていた。
「うん。関係してる。理由は泉水と同じ」
「では、彼も関係していますね」
そう言って笑った克生は、視線を二階の観覧席に向けた。そこには、朔良の行射を凝視している弌夜の姿がある。
――本当に鋭い。
「さすがだね、克生」
感嘆の溜息を洩らしつつ、工藤は肯定の言葉を克生に返した。
「一応、主将という立場にいますので、泉水に限らず部員のことはよく見るようにしています」
「全く、本当に尊敬するよ。主将の鏡だね。仁科にも爪の垢を煎じて飲ませたい気分だ」
「仁科先生には、僕の爪の垢だけでは足りない気がします。是非、工藤師範のもお願いします」
深々と頭を下げる。
工藤は思わず、ぷっと吹き出した。
それから頭を上げた克生は、射位に立っている朔良に視線を向け「でも」と言葉を続けてきた。
「良いと思います。泉水に関しては、この間まで感じていた行射に対する不安定さが消えているような気がしますし、知事杯が控えている今、そうした不安要素が消えているのは、僕としても望ましいことですから」
「そうだね。団体戦ではかなり心強い戦力になると思うよ」
「工藤師範のお墨付きなら相当期待出来ますね」
にっこりと微笑む克生に、工藤もふっと頬笑みを返す。
「僕は克生にも大いに期待しているよ。団体戦もだけど、個人戦も楽しみにしてる」
工藤の言葉に、克生が困ったように眉根を寄せた。
「……今からプレッシャーを掛けないで下さい」
「でも克生はプレッシャーがあった方が力を発揮出来るだろう? それに、期待に応えることに喜びを感じているはずだ。精神面の克生の強さには、僕でも感服するものがあるよ」
「…………」
克生は驚きに目を見開いた。自分のことを、自分以上に把握している工藤に、克生も感服してしまう。
確かに、期待に応える――応えられるように努力するのは好きだ。それが良い結果にも繋がるから、克生のモチベーションは期待されることで上がる。
「工藤師範は、本当に侮り難いですね」
克生が苦笑した。でも見透かされているのは嫌ではない。逆に、ここまで部員のことを深く理解している工藤が黎成の弓道部師範であることを、改めて嬉しく思った。
「さて、そろそろ終了時間だね」
工藤が壁に掛かっている時計を見て、呟くように言った。そしてそのまま視線をずらし、射位に立っている朔良を見つめる。
残心姿の朔良は、工藤の目にとても凛々しく映った。何かが吹っ切れたような表情で、少し心に余裕が出来ているような、そんな落ち着きを感じる。
「じゃあ、克生。頃合いを見て号令掛けてね」
そう言って克生の肩をポンッと叩いた工藤は、壁を背凭れにして腕組みしている仁科の元へ歩みを進めた。
部活中にも関わらず、着崩したスーツ姿で退屈そうに欠伸をしている仁科を見て、呆れた溜息を洩らしてしまう。
――なんで僕はこんな奴を認めてるんだろう?
頭を抱えたくなったが、付き合いが長いせいか仁科の駄目なところと同じくらい良いところも知っている。その良いところが、欠点を補って帳消しに出来るほどの美点だと思ってしまっているから、工藤の頭もどうかしているのかもしれない。
――腐れ縁を続けているのも善し悪しなのかなぁ。
そんなことを心の中でぼやく。
「お前、なんつー顔で近付いて来るんだよ」
近寄ってくる工藤に気付いた仁科が、口端をピクつかせてそう言った。
そこで初めて心の中のぼやきが顔に出ていたことに工藤も気付いた。まぁ、隠すつもりもなかったので、バレてもどうということもないのだが。
「言いたいことがあるなら、直接口で言えよな」
「言いたいことなら山ほどあるけど、この時間帯で収めることは不可能だから、またの機会にするよ」
返しが早い上に辛口である。
仁科は怪訝気に眉根を寄せた。
「何だよ。何か不機嫌なのか?」
「いや、そうでもないよ。ただ、君のその姿に不満があるだけ」
にっこりと微笑みつつ、仁科に苦言を呈する。
いつも言っていることなのに、未だ改善されていないので、注意したところで意味はないのかもしれないのだが。
「知事杯の選抜メンバーは決まった?」
工藤の問い掛けに、仁科はちらりと一瞥したあと「あぁ」と短く答えた。
「そう」
工藤も短く答える。選抜メンバーが誰なのかを問うことはなかった。そのことに仁科が小首を傾げる。
「メンバー、聞かないのか?」
「聞かなくても納得出来るから別にいいよ」
素っ気なく言い返す工藤を見て、仁科は面食らったような表情をしたあと、ぽりぽりと頭を掻いた。そして話題を探すように、「あぁ~」と間延びしたような声を出した。
「そういや、泉水も調子上げてきたな」
「そうだね。大きな悩みの種が一つ減ったからかも」
視線を朔良に向けたまま、工藤は嬉しそうに言う。
「ふん? そら良かったな」
仁科はこういう話に対して、自分から何かを訊ねてくることはない。それは弌夜と同じように面倒だからという理由もあるが、聞いたところで何も出来ないことを分かっているからというのが一番の理由だ。だから仁科は、技術面にしか口を出さない。
精神面で崩れている部員を見て、何も出来ない歯痒さを感じてはいるが、部員にとってその壁が自身の成長の糧になることも分かっているので、自分で乗り越えてくれるのを待つだけで、敢えて精神的な不調には首を突っ込むことはしなかった。それが仁科なりの指導方針なのだ。
横目で仁科を盗み見しつつ、自分にはない仁科のそんな一面を尊敬していることを、工藤は改めて実感していた。
「行射終了。全員集合して下さい」
部活終了の時間になり、主将である克生の声が上がる。
部員たちは一斉に行射を止め、弓具を壁に立て掛け仁科と工藤のいるところまで駆け寄ってきた。そして姿勢を正し、仁科と工藤の言葉を直立したまま待つ。
「知事杯のメンバーが決定した。ホワイトボードにメンバーが記載された用紙を貼ってあるから、各自で確認するように。以上」
仁科の言葉に部員たちが、「はい!」と返事をする。
それから「姿勢! 礼!」という克生の号令に合わせて、部員たちが仁科と工藤に深々と頭を下げた。そして頭を上げた部員たちはいつものように、弓道場の清掃へと散り散りに動き始めた。
「あ、伊崎くん」
二階の観覧席からゆっくり下りてきた弌夜に、工藤が走り寄りながら声を掛ける。
「はい?」
「申し訳ないんだけど、今日は三人で帰ってもいいかな? 湊くんのことが落ち着いたから、よければ伊崎くんにも話しておきたいんだけど」
そう言って微笑む工藤に、階段を下り切った弌夜が少し目を伏せて黙考した。
何かを考え込む弌夜を、工藤は黙って待つ。
「俺が、聞いてもいいんですか?」
少し躊躇いがちに訊ねる弌夜に、工藤は頬笑みを返した。
「全然構わないよ。だけど、もし聞かなくても良いと言うなら、無理に聞く必要はない」
工藤は、弌夜が面倒臭がりなのを知っている。だから弌夜が聞きたくないというのであれば、むりやり聞かせるつもりはなかった。
それでも、きっと弌夜は――。
「聞かせてもらってもいいですか?」
「うん」
窺うような弌夜の返答に、工藤もにっこりと微笑み即答する。そう言ってくれるだろうと、工藤も思っていた。
淡白そうに見えるが、朔良のことに関しては、湊にも負けないくらいの想いがあるはずだから。
「じゃあ、着替えてから車を回してくるから、朔良ちゃんと正門で待っててくれる?」
「はい」
コクリと頷いた弌夜を見てから、「じゃあ、またあとで」と言った工藤はそのまま弌夜から離れて行った。
「解決、したのか」
工藤の後ろ姿を見送りつつ、微かに安堵の表情を浮かべた弌夜は小さな溜息を吐いた。
そして珍しく弓道場の正規の戸口から外に出た弌夜は、戸口から少し離れたところの弓道場の壁に背を預け、朔良が出てくるのを待った。体勢を落ち着けたあと、そっと目を伏せる。
確かに、ずっと気にはなっていた。工藤にも何らかの策があるのだろうとは思っていたが、それが簡単に通用する相手ではなさそうだったから――。
朔良から、工藤と工藤の両親とで養子縁組解消の話をしてくる、というところまでは弌夜も聞いていた。だが、それから後のことは一切聞いていない。
弌夜も詮索するような性格ではないが、良くても悪くても進展しているのなら朔良は弌夜に報告するはずだ。それがないということは、その後の展開を朔良も知らなかった、ということになる。きっと、弌夜以上に遣る瀬無い思いを募らせていたに違いない。
「……」
伏せていた目をゆっくり上げる。
「待たせてごめんね?」
それをおくびにも出さず、こうして普段通りに弌夜と接していた朔良は大したものだ。
弌夜は目の前に現れた朔良をじっと凝視した。
「? どうかしたの?」
無言で見つめてくる弌夜を、朔良も不思議そうに見つめ返す。
「……いや。早かったな。もう掃除終わったのか?」
「これから社会人の人たちが弓道場を使うから、いつもよりは簡単に掃除を終わらせたの」
なるほど、と弌夜は心の中で納得する。
そして壁から背を離すと、両手をするりとズボンのポケットに滑り込ませた。
「工藤さんが、話があるから今日は三人で帰ろうって」
弌夜の口調や雰囲気から何かを察した朔良は、何も聞くことなく「……うん」と小さく答えた。
元々口数の少ない二人だったが、今はそれ以上に重い空気を纏いつつ、正門に向かって歩いて行く。
これまでの工藤の態度を見る限りでは、悪い方向へは進んでない気はするが、どうしても拭い切れないものはある。少しでも良い方向へ進展していることを願いつつ、正門に辿り着いた二人は、工藤の車を待っていた。
二人の周りでは部活終わりの生徒たちの談笑が響き渡り、正門前は生徒たちを迎えに来た親たちの車でごった返している。
この中を車で通るのは困難だろうな、と思っていると、「伊崎くん、こっち」と言って、朔良が弌夜の制服の袖を控え目に引っ張りつつ、正門を背に歩き始めた。
どこに行くのか不思議に思いながら朔良の後を付いて行くと、学校の裏門近くで朔良が足を止めた。
「正門で停車が難しそうな時は、ここで要人さんを待ってるの」
そう言って弌夜ににこっと微笑んだあと、朔良は自分の携帯を取り出し、メールを打ち始めた。おそらく工藤に居場所を伝えているのだろう。
裏門にも部活帰りの生徒たちが数人いたが、正門に比べればかなり少ない。確かに停車させるには裏門の方がはるかに楽だろう。だが、正門の方に生徒が集中するのには、それなりの理由があった。
「ここで、一人で待ってるのか?」
微かに目を細めた弌夜が、朔良に問い掛ける。
その声音は普段と変わらないものではあったが、朔良にはどこか違って聞こえた。
「要人さんには出来るだけ正門の方で待つように言われてる。だからここで待つことはあまりないんだけど……」
窺うように朔良が答える。弌夜の表情は怒っているように感じた。
「その方が良いな。ここは暗過ぎる」
弌夜は、周囲を見回しながら口調を強めて注意した。
この環境を見れば、そうなるのも無理はない。
正門は大通りに接しているが、裏門は道幅が狭い路地に接しているため、人や車の通りが少ない上に街灯も二つしかなく、弌夜の言った通りかなり暗い。個人が経営している小さな店や家屋などもそれなりに建ち並んでいるが、店は部活が終わる頃にはすでにシャッターが下ろされているし、家屋にしても朔良の身長ほどの塀に囲まれているため、裏通りは死角が多い。暗くなると途端に薄気味悪く感じてしまうだろう。
それから鑑みるに、事故は起きなさそうだが、事件は起きそうである。
学校周辺だからといって、お世辞にも安心とは言い難い場所であった。
「泉水。工藤さんと帰らない時は俺に言えよ」
「……」
自分を心配してくれる弌夜に、不謹慎ながらもじわりと胸が熱くなる。朔良は「うん」と小さく答えると、嬉しさに頬が緩まるのを隠すように俯いた。
それからほどなくして、工藤の車が裏門に到着した。
「朔良ちゃん。今回は伊崎くんがいたから良しとするけど、今後はあっちね?」
工藤が正門方向を指差しながら注意する。やはり工藤も弌夜と同意見のようだ。
二人から言われ、朔良は「すみません」と素直に頭を下げた。
「うん。じゃあ、二人とも乗って」
にっこりと微笑んだ工藤が二人に乗車を促す。朔良を先に乗車させ、その後に弌夜が工藤の車に乗り込んだ。
――自然に後ろに乗るんだ。
いつもは助手席に乗り込む朔良が、弌夜と同じ後部座席に乗り込むのを見て、工藤が目を細める。二人が恋人同士であることを見せつけられた気もしたが、それ以上に嬉しさの方が勝った。
――若いって良いなぁ。
そんな年寄り臭いことを思いながら、二人がちゃんと座ったのを確認した工藤は、ゆっくりと車を発進させた。
「二人っきりの下校を邪魔をしてごめんね?」
「……いいえ」
工藤の言葉で赤くなった朔良の代わりに、弌夜が素っ気なく答える。
「あ、そうそう。今日は両親とも遅くなるんだ。父さんは残業で母さんは友達と外食。だから話は家でしようと思ってるんだけど……伊崎くんはお家、大丈夫?」
それは話が長くなることを予見させる言い回しだった。
家では弌夜の帰りを母親が待っている。やはり連絡は入れておくべきだろう。
「後で家に連絡しておきます」
「うん。ついでだから、夕飯も食べていくと良い。伊崎くんの分も用意してるから」
「……え?」
「今日の朝、頼んでおいたんだ。身内が言うのもなんだけど、うちの母親、料理上手いから美味しいよ」
驚く弌夜を余所に、工藤は話を続ける。
先程工藤は「無理に聞く必要はない」と言った。それは弌夜に断る選択肢も与えていたわけだが――。料理を用意しているということは、弌夜が断らないという確信があったことを意味している。
それに気付いた弌夜は小さく苦笑した。
見抜かれてはいるが、断らないと信用されているのかと思えば、そう悪くは思わない。工藤の根回しはいつも弌夜を驚かせるが、不快に思うことはなかった。
そしてしばらく何気ない会話を交わしたあと、ふと思い出したように「そういえば」と工藤が呟いた。
「湊くんと顔を顔合わせるのは二回目になるのかな?」
「…………」
一瞬弌夜の思考が停止する。
――すっかり忘れてた。
成政家を出た湊は、現在、工藤家に居候している。工藤家に行くということは、当然湊にも会うということだ。湊とは見学会の時以来会っていない。思いっ切り牽制されたことを思い出し、弌夜は深い溜息を吐いてしまった。
「大丈夫。湊は伊崎くんを気に入ってるから」
――いや、それはどうだろう?
弌夜は遠い目をしながら心の中で呟いた。
あの時と今では弌夜の立ち位置が違っている。朔良の彼氏という立場に弌夜がつくことを嫌悪していた湊が、弌夜を気に入るはずがない。この状態は、湊にとって好ましいものではないだろう。
「伊崎くんと付き合うって話した時、湊、反対しなかった」
「……え?」
これは弌夜には予想外なことだった。微かに目を見開き朔良を見つめる。
『そうか……』
湊が言ったのは、その一言だけだったという。
「湊くんには分かってたんだろうね」
運転席で二人の会話を聞いていた工藤が話に入ってきた。
「だから伊崎くんに対してだけは過剰に反応してた。それに――」
車は工藤家へと続く最後の曲がり角を曲がった。
「変わったのは、伊崎くんだけじゃないよ」
「? どういう……」
意味深な言葉を吐かれ、疑問に思った弌夜が問い掛けたと同時に車が停車した。横に視線を向けると工藤と書かれた表札が目に入る。どうやらこの二階建ての一軒家が工藤の自宅らしい。
「さ、着いたよ。僕は車を車庫に入れてから行くから、朔良ちゃん、先に伊崎くんを案内してくれる?」
「はい」
頷いた朔良が車から下り、「行こう?」と言って弌夜を促す。
先程の工藤の言葉が気になりつつも弌夜も車を下り、朔良の後に付いて行った。
「どうぞ」
朔良が玄関のドアを開ける。
「お邪魔します」
軽く頭を下げ、朔良に促されるまま家の中に入った。
「…………」
真っ直ぐにリビングに通された弌夜は、そこで微妙に顔を顰めた湊と再会した。
――やっぱりか。
嫌がられることを予想していた弌夜は、思っていた通りの湊の反応に小さく溜息を吐く。
「……どうも」
取り敢えず挨拶をしてみる。
「あぁ」
しかし返ってきた言葉は、弌夜が想像していたものとは少し違っていた。
以前会った時のような嫌悪感を一切感じない。仕方ないといったような諦めのような雰囲気も感じたが、弌夜を嫌っている素振りは見受けられなかった。
朔良の言っていた通り、少しは弌夜のことを認めているのかもしれない。
「お帰り。朔良」
そして弌夜の後ろから姿を見せた朔良には満面の笑みを向ける。
「ただいま。要人さんもすぐに来るよ」
「……うん」
微かに目を伏せ神妙に頷く湊を見て、弌夜は違和感を感じた。
――もしかして、成政湊もどうなっているのか知らないのか?
当事者である湊にも事の進展を話していなかったことに、驚きを隠せない。
工藤の性格を考えると、きちんと決着が着くまでは余計なことを話さないようにしていたという可能性は高いが、湊の心境を思うとどうにも居た堪れない。
引っ掛かりを覚えながらも、朔良が促してくれたソファーに弌夜は腰を下ろした。
弌夜が腰を落ち着けたのを確認してから、キッチンに向かった朔良は、工藤の母親が用意してくれていたという夕飯を準備し始めた。
「……」
「……」
その場に二人にされ、どうにも居心地が悪い。
しかし沈黙はすぐに破れた。
「朔良と付き合ってるって聞いた。本当か?」
穏やかな口調で確かめるように湊が訊ねる。
「そう、だけど」
「けど?」
「あんたは認めないんだろ?」
弌夜は別にケンカを売っているわけではない。もちろん、湊を揶揄しているわけでもない。
『変わったのは、伊崎くんだけじゃないよ』
弌夜を見る湊の目で、その言葉の意味を理解した。だからこそ今の湊の本心を聞きたいと思った。
真っ直ぐに見つめたまま問う弌夜に、湊も視線を逸らすことなく見つめ返す。
しばらく見つめ合っていたが、ふいに湊がふっと小さく笑んだ。
「お前の話をしている時、朔良がよく笑うんだ」
「……」
「朔良の笑顔は何度も目にしてるはずなのに、俺や工藤さんに向けるのとは違って見える。何か……柔らかくて安心してる笑顔」
切な気に目を伏せて言う湊に、弌夜は心の中で首を捻る。その違いは弌夜には分からなかった。幼い頃から朔良を見守ってきた湊だからこそ分かる違いなのかもしれない。
「俺が求めてる朔良の心からの笑顔を、お前が引き出してるんだ。それだけ朔良にとってお前が特別だってことだ。それが分かっていて認めないわけにはいかないだろう」
湊の口調も表情も穏やかだ。自分をむりやり納得させたわけではないようだ。
「ただし、朔良を悲しませるようなことがあった時は容赦しないから肝に銘じておけ」
「分かってる」
そう言って弌夜はキッチンに立つ朔良を見つめた。
朔良は今まで泣くことをしなかった。だがその分、心の中で数え切れないほど涙を流してきたはずだ。誰にも知られることなく、全てを自分の胸の内に秘めて、自分自身をも騙してきた。
もう悲しい涙は流させたくない。その思いは湊と同様だった。
「あと……」
続く言葉に弌夜が視線を戻すと、湊が微妙に顔を歪めて弌夜を見ていた。
バツが悪そうな様子の湊に、弌夜が小首を傾げる。
「今回のことで俺自身、すごく気付かされたことが多かった。お前に言われなかったら、きっと、今も朔良に辛い思いをさせていたかもしれない。そのことに関しては――感謝してる」
「!」
軽く頭を下げられ、弌夜は面食らった。礼を言われるなどと思ってもいなかったため、驚きを隠せない。しかもあの湊が頭を下げたのだ。驚きも二倍である。
「朔良がお前を選んだ理由が分かる」
そして再び湊が苦笑した。
「悪かったな。排除する、なんて言って」
「いや。俺も挑発するようなこと言ったし、あの時の俺だったらそう言われても、仕方がない……いや、まぁ、今でもそう変わりはないけど」
「何の話?」
弌夜が腰掛けているソファーの背後から、のんびりとした口調で会話に入りこんできたのは工藤だった。上着を脱ぎつつ、一人掛けのソファーに腰を下ろす。
対面して座っている弌夜と湊を、正面から見る形になった工藤は、二人のぎこちないながらも穏やかな雰囲気を感じ取り、柔らかな笑みを浮かべた。
――ちゃんと和解したみたいだな。
「先に食事を済ませようか。お腹ペコペコ」
「あ、はい。準備出来てます」
苦笑して言う工藤に、反応したのは朔良だ。工藤の母親が予め用意してくれた夕飯のおかずを、慌ててテーブルの上に並べる。弌夜も来るとあってか、いつもよりボリュームのある料理が用意されていた。
――育ち盛りの男の子は、このくらい平気で平らげてしまうのだろうか?
大皿に山盛りされた料理を見つめながら朔良がそんなことを思っていると、「ごめん、朔良。俺も手伝う」と言って慌てて立ち上がった湊が、朔良の持っていた大皿をひょいっと持ち上げた。
「ありがとう。湊」
「うわっ。今日はいつもより量も品数も多いねぇ」
ソファーからテーブル席の椅子に移動した工藤が、驚いたように呟く。
その後に続いて弌夜も朔良に促された椅子に腰を下ろした。
「伊崎くん来るって言ったから、きっと張り切って作ったんだろうね」
――俺、そんなに大食漢じゃないんだけど。
内心で呟くが、並べられている料理はどれも美味しそうで、正直、完食出来そうな気がしてきた。
「さ、食べようか」
全員が席に付いてから、工藤が手を合わせて「頂きます」と声を掛ける。それに続いて朔良たちも「頂きます」と手を合わせてから、工藤の母親の料理に舌鼓を打った。
――旨い。
一口で分かる。工藤の母親は料理が上手だ。弌夜の母親も下手ではないが、目の前の料理と比べると少し腕は落ちるだろう。それを裏付けるように弌夜の箸はよく進んでいた。
和気藹藹とした談笑と共に食事を終えた四人は、片付けをする朔良と湊をキッチンに残し、弌夜と工藤は最初に座ったソファーへと移動していた。
「今日は急にごめんね?」
申し訳なさそうに謝る工藤に、弌夜は頭を振った。
「いえ。特に用事もありませんでしたし。それに、やっぱり気になってました」
キッチンに立つ二人にちらりと視線を送ってから、目を伏せる。
「湊くんには逐一報告してあげようと思ってたんだけど、少し状況が変わってね」
――それは悪い方にだろうか?
工藤を見つめる弌夜の表情が、途端に険しくなる。
「由紀也さん……あ、成政さんの名前ね。その由紀也さんから返事を先延ばしにされていたんだ」
「先延ばし?」
「うん。まぁ、それについては湊くんたちにも説明するけど、僕ら側からすれば決して悪いことではなくて、前向きな先延ばしだったからこれまで待つことが出来たんだ」
「前向きな、先延ばし?」
怪訝そうに訊ね返した時、朔良と湊が片付けを終えて、弌夜たちの元へやってきた。
人数分のお茶を用意していた朔良が、それぞれの前に湯呑みを置く。そして湊とともにソファーに腰を落ち着けた。
「二人とも、片付けありがとう」
「いえ」
「伊崎くんも帰りが遅くなるといけないから、早速話を始めるね」
工藤の言葉に、三人が無言で頷く。
「結論から言うと、湊くんの養子縁組解消は成立したよ」
「…………」
さらりと告げられた工藤の言葉に、ぽかんと驚きの表情のまま湊が固まる。
「湊くん? 大丈夫?」
「ほ、本当……ですか?」
そして信じられないというように、目を丸めて聞き返した。
湊が思っている成政由紀也とは、表面上は家族や社員を思い遣る良き父親、良き経営者を繕いながらも、自分の利益になることなら、いくらでも冷酷非道な性格になれる人間のはずだ。
――こんなに早く決着するはずがない。何か裏があるんじゃないだろうか? それか、交換条件を出されたとか?
安心したというより、大きな代償がこの後に待ち構えていそうで、逆に怖さが増した湊は、寒くもないのに身震いしてしまった。
「今日までその結論が伝えられなかったのは、由紀也さんの返事を待っていたからなんだ」
「ということは……やはり、最初は反対されたんでしょうか?」
表情を暗くして訊ねる湊に、工藤は「いや」と頭を振った。
「由紀也さんは、僕たちが養子縁組解消の話をした時点で答えをくれたんだ。分かりました、って」
「え? それって、どういう……」
心底怪訝そうに湊が聞き返す。
絶対に拒否されると思っていたのに、由紀也の返答は違っていた。しかも即答だったということに、尚更驚きを隠せない。
「由紀也さんも麻弥さんも落ち着いて僕たちの話を聞いてくれたよ。湊くんの思いもちゃんと伝えた。由紀也さんはしばらく無言で考え込んだあと、それが湊くんの意思ならって了承したんだ」
「…………」
不安そうに顔を歪めている湊を一瞥しながら、弌夜も同じ疑問を抱いていた。
どんなに拒絶されても、確実に養子縁組を解消してもらうために、工藤も秘策を持って成政家に赴いたはずだ。即答したということは、その秘策すら使わずに済んだということなのだろうか?
「多分、由紀也さんは気付いてたんだと思う。湊くんの気持ちに」
憶測にはなるが、工藤は自分が感じたことを話し始めた。
「血の繋がりがなかったとしても、毎日一緒に過ごしていれば、湊くんのことはどんなに些細なことでも分かってしまうものだよ。それが気に掛けてる人なら尚更ね。少しずつ変わっていく湊くんを見ていたら、きっと気付いてしまったんじゃないかな。いつかこんな日が来るだろう、って」
それでも腑に落ちない。由紀也はそう気付いていて、何もしなかったというのだろうか? 湊を繋ぎとめるために、何も……?
「でも、湊くんと離れて暮らしている朔良ちゃんのことも気掛かりだった。このまま二人を離れ離れにさせたままで良いのか、って葛藤もしてたんじゃないかな」
「ま、さか……」
放心状態の湊の口から出たのは、そんな言葉だった。工藤の言葉を疑うわけではないが、湊には到底信じられないことで、二の句が継げない。
「由紀也さん、湊くんとの距離はずっと感じていたらしい。それでも男の子はそういうものだと思い込むことで、湊くんの気持ちを考えることを放棄していた、って申し訳なさそうに話してた」
「……っ」
微妙に湊の表情が歪む。
工藤の話を聞いていると、由紀也が良い人のように思えてくる。だが、これまでの固定観念が纏わりついているせいで素直に聞き入れられない。
「養子縁組解消にはすぐに了承してくれたけど、それでも湊くんのことは実の息子のように思っていたから、気持ちの整理がつくまで少し時間を下さいって、由紀也さんは誠実に答えてくれた。だから僕たちは待つことにしたんだ」
その整理が今日ついたということなのだろう。
それでも湊の表情は晴れなかった。
由紀也のやり方は卑劣で汚くて、自分の利益のために人を利用することを平然とやってのける冷徹な性格の持ち主だと、湊はずっとそう思ってきた。自分も、自分を繋ぎ留めるために必要な朔良のことも由紀也の手駒の一つなのだと――。
実際、そうやって何でも思い通りに操ってきたはずだ。会社のトップという立場にいれば、必要な冷たさなのかもしれない。時には非情な選択をしなければいけない時もあっただろう。
しかし、だからといって許されることではないはずだ。朔良を利用するという言葉を、湊は聞いてしまっている。これまで頑なに抱いてきた感情は、すぐに変えることは出来ない。
湊はきゅっと唇を噛み締めた。
「由紀也さんが、湊くんさえよければ最後にちゃんと話がしたいって言ってたんだけど、どうする? 無理にとは言わないから嫌なら断ってくれても良い、って言ってたけど」
「……」
複雑だ。ずっと嫌悪してきた由紀也と、湊はどう接すれば良いのか分からなくなっている。
「要人さん」
そんな混乱している湊の隣に座っていた朔良が、不意に言葉を発した。
「ん?」
「私が成政さんにお会いすることって出来ないでしょうか?」
「朔良ちゃん、由紀也さんたちに会いたいの?」
朔良はにっこりと微笑み、一つ頷いた。
「私は湊が引き取られてから一度も成政さんとお会いしていないので、ちゃんとお礼が言いたいんです。湊のたった一人の家族として。湊を引き取って下さったこと、それから……また兄妹で暮らせること。成政さんのおかげなので、ちゃんとお会いして伝えたいです」
「……朔良」
朔良の真っ直ぐな思いが、湊の心に響く。
「私は成政さんのことを知りません。要人さんや湊は、私より成政さんのことを知っている分、もしかしたら少し苦手な方なのかもしれない」
ここまでの言動で、二人が成政を良く思っていないことは見て取れた。朔良の知らない成政の何かを、二人が知っているからだろうとは思うが。
「それでも私は感謝しています。あの時、湊を引き取って下さったこと、これまで湊を支えて下さったこと。私にとっては感謝してもし足りない思いです」
成政の裏の顔は知らない。だが、今の湊があるのは成政のおかげであることは覆しようのない事実である。そして養子縁組を解消して、再び湊と朔良が共に暮らせるようにしてくれたのも――。
朔良には感謝の言葉しか見当たらなかった。
「良いと思うよ。由紀也さんに打診してみる」
工藤が柔らかく微笑む。
「……俺も行きます」
自分の思いは工藤に渡した手紙の中に全て書き記した。しかし、やはり由紀也と麻弥にはきちんと会って話をした方が良いだろう。
朔良の言葉に促された形ではあるが、湊も決心したように工藤の目を見つめた。
「分かった、伝えとく。ただ日時は由紀也さんたちに合わせることになると思うけど、それでも良いかな?」
「私は県知事杯の日以外は大丈夫です」
「俺も、大丈夫です」
「了解。じゃあ僕から由紀也さんと連絡取ってみる」
そう言って笑った工藤に、湊と朔良は深く頭を下げた。
「伊崎くんも、長い時間付き合わせてごめんね?」
これまでの話を静聴していた弌夜に、工藤が声を掛ける。
湊と朔良の話だったとはいえ、弌夜の存在を軽く無視していたような状況に、工藤は申し訳なさを感じた。
話を振られ、弌夜がテーブルに落としていた視線を工藤に向ける。
「成政家で泉水を引き取るなら、兄妹一緒に暮らせますよね?
もっともな弌夜の質問に、朔良も湊もハッとしたように工藤を見つめた。
「由紀也さんは空気が読めない人じゃない。湊くんの態度でそれが無理なことは察していた。ただ頭の片隅にはあったって正直に話してくれたよ」
「……じゃあ、落着ってことですね?」
疑問形で訊ねているが、何かを疑っているわけではない。双方が納得した上で決着がついたと、そうはっきりとした完結の言葉を聞きたかった。
それを察した工藤はにっこりと微笑む。
「うん。ちゃんと解決した。養子縁組も解消して、湊くんは工藤家で預かることになる。そして朔良ちゃんとも一緒に暮らせる。由紀也さんも渋々納得したわけじゃない。ちゃんと湊くんの意見を尊重してくれた」
はっきりとした工藤の答えに、弌夜も「そうですか」と穏やかな表情で静かに頷く。
「あっ!」
突然声を上げた工藤が、勢い良く立ち上がった。
「伊崎くん、ごめん。もう九時過ぎだ。家まで送るよ」
「あぁ、大丈夫ですよ。隣町だからそんなに遠くないし」
やんわりと断って椅子から立ち上がる弌夜に、「いや、送る」と工藤が有無を言わせない口調で言い切る。
そこまで強く言われれば断るのも難しいと感じた弌夜は、素直に送ってもらうことにした。
「明日も学校があるから、湊くんと朔良ちゃんはお風呂に入って明日の準備しといてね。じゃあ、伊崎くん行こう」
慌ててリビングから出ようとした工藤を、「あのっ」と言って朔良が引き止める。
「私も一緒に行ったらダメですか?」
「泉水は来なくて良いよ。疲れただろうから今日は早く休め」
工藤に懇願した朔良の頭に弌夜がポンッと手を置く。そしてそのままくしゃくしゃと軽く頭を撫でた。
くすぐったいように肩を竦めた朔良が、上目遣いで弌夜を見つめる。
弌夜は無表情だったが、朔良の視線を真っ直ぐ受け止めていた。
その様子に、嬉しそうに工藤が目を細める。
「そうだね。朔良ちゃんは湊くんとお留守番してて」
「……はい」
すごく残念そうな響きを帯びた声で小さく頷く。
「また明日な」
そう言って朔良から手を離した弌夜は、工藤の後に続いてリビングを出た。
弌夜の後ろ姿をじっと見送っていた朔良は、自分を見つめていた湊の視線に全く気付かなかった。
「ほんと、朔良はあいつが好きなんだな」
少し呆れたような、でもどこか優しい口調で言われ、朔良が反射的に湊の方を振り返る。
「でも分かる。やっぱあいつは良い奴だ」
朔良のことをちゃんと思い遣ってる。それが分かるから、人に対して無愛想な弌夜でも、朔良のことを安心して任せられると思った。
「うん」
湊の言葉を受け、朔良は湊が今まで見たことがないような、幸せそうな笑みを浮かべていた。
工藤家を出た弌夜は、工藤の安全運転で自宅へと向かっていた。
「今日は本当にごめんね。遅くまでありがとう」
「いえ。謝罪も礼もいりません。俺が知りたかっただけですから」
「うん。でも、やっぱり、ありがとう」
「……」
運転しながら礼を言う工藤の横顔を弌夜が盗み見ると、肩の荷が下りたような安堵したような表情をしていた。きっと工藤も由紀也からはっきりとした返事をもらうまでは、気が抜けなかったのかもしれない。
最初の返事を反故にされることも考えていたのではないだろうか? 湊と同じように工藤自身も成政家を嫌悪していたのだから――。
「一つ、訊いても良いですか?」
ちょうど赤信号で車が止まり、工藤が弌夜の方を見つめる。
「いいよ」
「工藤さんが切り札として持っていたのは何ですか?」
「!」
まさか、そこを弌夜から訊かれるとは思ってなかった工藤は、予想外の言葉に肩をピクリと震わせた。
あれだけ工藤が成政家を嫌っている態度を取っていれば、これは自然と浮かんでくる疑問かもしれない。しかしこれは繊細な話だ。工藤としては出来れば回避したい話題だった。
「ちょっと気になったんですが、無理に訊こうとは思いません」
言いづらいことなのかもしれない。そして立ち入ってはいけないものなのかもしれない。
少し強張った工藤の表情で瞬時に察した弌夜は、すぐに質問を取り下げた。
「……ごめんね」
工藤は苦笑して謝ると同時に、弌夜の感の良さに感謝した。
「詳しいことは言えないけど、伊崎くんの言う通り、確かに切り札は持ってたよ。でも、それを出さずに済んだことは、僕自身ほっとしてるんだ。僕も由紀也さんを追い詰めたいわけじゃなかったから」
追い詰めることが出来るほどの切り札だったのかと弌夜は心の中で呟く。
成政にとって、相当な影響力があるものを工藤が用意していたことに、この件での本気度が窺える。
「でもさ、いつまでも先入観に捉われたままじゃダメでしょ?」
切り札を出すことを思い留まることが出来たのは、由紀也の心の変化を目の当たりにしたからだ。そして、その思いが自分に伝わったからだ――。
工藤は静かに息を吐き出すと、表情を曇らせ物思うように目を伏せた。
「……」
工藤の様子は、先程の話には出なかった何かが成政家であったのだと、弌夜に勘付かせるには十分なものだった。
どこか痛々しく見える――。
だが、すぐに「伊崎くんみたいに、僕も変わらなきゃね」と言って苦笑を返してきた。この件に関しては、ここで終わりのようだ。
信号が青に変わり、工藤が車をゆっくり発進させる。
「あ、今の話、朔良ちゃんや湊くんには内緒ね?」
弌夜は頷いて「はい」と即答した。
そして車は弌夜から教えられた通りの道を辿り、弌夜の自宅へ到着する。
「今日は本当にありがとう。親御さんにも挨拶したいんだけどダメかな?」
微妙に嫌そうな顔をした弌夜だったが、瞬時に戻すと「いえ。さっき連絡をいれといたから大丈夫です」と車を下りながら答えた。
「でも、こんな時間まで高校生である伊崎くんを引き止めていたんだよ? 挨拶ぐらいはしておきたい」
工藤も食い下がる。
どうしたものかと弌夜は困惑したが工藤の押しが強く、結局、家へと招くことになった。
「……ただいま」
ボソッとけだる気に帰宅の声を掛けると、「弌夜?」という声と共に奥の部屋から母親が顔を覗かせた。
「あら! お客様?」
「夜分にすみません。黎成で弓道を教えている工藤と言います。今日は弌夜くんを遅くまで引き止めてしまったので、家まで送らせてもらいました。帰宅させるのが遅くなり、申し訳ありません」
パタパタと玄関まで走ってくる母親に、工藤が深々と頭を下げる。
「送って頂いてありがとうございます。遅くなることはちゃんと連絡ありましたし、この子のことは信用していますから大丈夫です。まぁ、今後はもう少し早めに帰宅させるようにしてもらえると、心配性な親としてはありがいのですが」
にっこりと微笑む弌夜の母親は寛大で優しそうな印象を受けたが、芯の強さもありそうだ。弌夜を信用しているということは、弌夜の交友関係なども信用しているということなのだろう。そう言外に含まれているものを感じる。それに加え、角が立たないようにとの配慮なのだろう、やんわりとした注意で工藤に釘を刺した。
「はい。今後は気を付けます」
肝に銘じた工藤が再度深々と頭を下げる。
何となく弌夜の育ってきた環境を垣間見ることが出来、工藤も心の中で顔を綻ばせた。
「じゃあ、僕はこれで。伊崎くん、今日は本当にありがとう」
――だから、礼はいらないって。
表情でそう訴えたが工藤は嬉しそうに笑っただけで、弌夜の母親に軽く会釈したあと、そのまま車に乗って自宅へと帰っていった。
「……!」
相変わらずな工藤を呆れ顔で見送っていると、突然腰を小突かれた。小突いている肘を辿って隣にいる母親に視線を向ける。
「何?」
不機嫌に顔を顰めて言う弌夜に怯むことなく、母親はにっこりと笑顔を返していきた。
「良いことをしたから、遅くなったことは許す」
弌夜は目を丸くした。
これまでの経緯を全く知らないのに、工藤のありがとうという言葉だけで、自信満々に良いことをしたと断言する母親に驚いてしまう。
「さ、早く家に入って」
そう言ってリビングに向かう母親の後ろ姿を見つつ、自分は幸せ者だったのだと気付かされた。無条件に信用されているというのはとても心地良い。だからこそ、その信用を裏切りたくないと思える。
――絶対今回のことが影響してるな。
朔良たちに、家族を想う大切さ、その絆の深さを教えられたから、ふとした母親の何気ない言葉に感謝を覚える。朔良を好きにならなければ、きっと気付かない感情だった。そう考えると、自分の方が礼を言わなければいけない立場だったような気がする。
――感化されまくりだな、俺。
そんなことを思いながら微かに笑った弌夜は、澄んだ夜の空気を大きく吸い込んでから、家の中へと入った。
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