11

 

 一夜明け、眠い目をしぱしぱさせながら通学路を歩いていた弌夜は、大きな欠伸とともに校門をくぐった。そして当然のごとく遅刻して教室へと入る。遅刻しても、それが弌夜だと分かるとクラスメイト全員が納得するのが面白い。幸いにして一時限目が自習になっていたので、遅刻した弌夜に教師のお小言が飛ぶことはなかった。そのことに少し救われた気分になる。

 自分の席に着いて一息吐き、昨夜のことを思い返した。弌夜の前で泣いた朔良のことを脳裏に浮かべると、無意識に頬が緩んでしまう。

 これまで素直に言えずにいた、朔良自身も知らずに歯止めをかけていたその願いは、口に出すことで光を当てられ、今ようやく叶えられようとしている。

 朔良の思いがやっと報われることに、弌夜も嬉しさを感じた。

 そして今度は、自分自身を振り返った。

 不慣れな感情を自覚してからの展開が早かったように思う。それでもやはり苦を感じていない。それどころか、穏やかな心地さえしている。

 ――恋愛とはこんなに自分を変えることが出来るのか?

 そのことに驚きを隠せないが、そのために自分を変えられるほどの想いがあるのなら、それを恋や愛というのかもしれない。

「ま、あいつの返事は気長に待つか」

 ぼんやりしながら小さく呟く。

 今はきっとそれどころではないだろう。朔良の願いを叶えるために工藤や湊が動くなら、朔良の周りの状況は目まぐるしく変化していくはずだ。必然的に朔良が状況に慣れ、落ち着くまでは待たないといけないことになる。それがいつになるのかは分からないが、もともと怠惰な日々を過ごしていたせいか、その辺の忍耐力はある方だった。

 朔良が焦燥感に駆られて、あの告白に自分の意思とは違う答えを出すようなことになるのだけは避けたい。

「これで、フられたら……どうなるんだろう?」

 弌夜はそこまで考えてなかったことに今さらながら気付いた。

 弌夜をフッたら、朔良はきっと会いに来ないだろう。朔良の性格を考えると、フッた相手と友達になるというのは考えにくい。

 弌夜はあまり拘ったりはしないのだが、朔良の場合はフッたことに後ろめたさを感じるはず。避けることまではしないだろうが、今までのように自分から近寄ることはしなくなるだろう。ということは、弌夜は朔良のそばにはいられないということになる。

 弌夜は熟考した。

 ――それは……何か嫌かも。

 工藤にも、朔良の支えになってくれと言われたばかりなのだ。弌夜も出来ればそうしたい。しかし、こればかりは朔良の気持ちを無視するわけにはいかなかった。朔良が嫌なら弌夜は身を引かなければならない。

「返事を待つしかないのか」

 どう考えても朔良の答えが出るまではどうしようもないことなので、結局、その答えは保留にするしかなかった。


 四時限目終了のチャイムが校内に鳴り響く。

 弌夜にとっては、非常に窮屈で退屈な午前の授業が終わった。

 今日も弌夜は午後からサボるべく、いそいそといつもの場所に向かっていた。

「伊崎くん!」

 その途中、廊下で聞き知った声に呼び止められる。

 自分が好いている相手からの声というのは、どうしてこうも無意識に他と区別してしまうのだろうか。周りの喧噪を押しのけて、その声だけ鮮明に弌夜の耳に届く。

 不思議な心地を感じながら弌夜は顔だけ振り返ったが、それと同時に弌夜の体正面に、朔良が回り込んできた。

 弌夜もそんな朔良の行動に合わせて、振り返らせた顔を元に戻し、自分の正面に立つ朔良を見つめる。

「部活前に少し話、良いかな?」

「進展、あったのか?」

 朔良が声に出して答えない代わりに、目を細め表情を和らげた。

 どうやら良い進展があったようだ。

 朔良の表情からそう察した弌夜も小さく笑い、軽く頷く。

「分かった。いつもの場所にいる」

 そう言って朔良の横を通り過ぎた弌夜は、そのまま去って行った。

「……」

 その弌夜の後ろ姿を見つめながら、朔良の頬が少し赤く染まる。

 ――ちゃんと普通に話せたかな?

 急に心臓の音が早くなる。

 弌夜はきっと知らないだろう。弌夜の名を呼ぶ前に、朔良が緊張を抑えるためにどれほど時間を要していたのか。不動心になるのは得意なはずだったのに、こういう時は上手く使えない。

 だが、告白前と変わらない弌夜の態度に、少し不安……というか少し残念な気がしてしまう。弌夜の性格を考えると、それが普通なのかもしれないが。

 ――いつも通りってのも、何か複雑……。

 小さな溜息を吐いて、朔良は気持ちを切り替える。

 弌夜には少なからず心配や迷惑を掛けてしまった。いや。どちらかというと、朔良が巻き込んだというのが正解だろう。故にその後の事の進展を話す義務がある。それは朔良だけではなく、工藤も言っていたことだ。そして不本意な表情をしてはいたが、湊も同意見だった。

 ――伊崎くんの前で動揺せずに話せるかな?

 そんな一抹の不安を覚えつつ、まだ微妙に火照っている頬を軽く叩き、朔良は午後の授業のため自分の教室に戻った。


 朔良と別れ、校舎から弓道場へ向かう渡り廊下に出た弌夜は、空をちらりと見上げ、足を止めた。

「今日って雨だったか?」

 薄い雲がかかっている空を見て、少し顔を顰める。

 ――雨が降るなら、あそこじゃダメだな。

 どうしたものかと、考えを巡らせていると。

「いや。曇りのち晴れだったから、今から晴れてくると思うよ」

 弌夜の独り言に、突然回答が返ってきた。

 驚いた弌夜が反射的に隣を見ると、そこには弌夜と同じように空を見上げ、流れる雲を見つめている工藤がいた。

「こんにちは」

 弌夜の視線に気付き、工藤も空に向けていた視線を弌夜に合わせる。

「……」

 自分に話し掛けてくるなど、朔良を除いては教師しかありえなかったのだが、その中に工藤まで入り込んできた。

 どこまでも神出鬼没な人物だ。

「早くないですか?」

「いやぁ、仁科に用があったから早目に来たんだけど、仁科って午後から授業あるか知ってる?」

 弌夜は「さぁ?」と首を傾げたあと、「……あぁ」と何かを思い出したように声を上げた。

「俺のクラス、確か六時限目が体育だったから、教官室じゃないですか?」

 仁科は体育教師のため、午後から授業があるなら体育教官室にいるはずだ。

 他人事のように自分のクラスの時間割を告げる弌夜に、工藤がぷっと軽く吹き出す。そして笑った表情のまま、「そう。ありがとう」と礼を言った。

「伊崎くんは、いつものところに行くのかな?」

「はい」

「朔良ちゃんには会った?」

 笑顔を和らげて訊ねる。

「さっき会いました」

「そう……。何だか伊崎くんにはいろいろと迷惑かけちゃったね? ごめんね」

 苦笑して言う工藤に、弌夜は軽く頭を振って否定した。

「そんなふうに思ってないんで、謝られると困ります」

 無表情の弌夜の言葉に、工藤が少し目を見開く。

 実際、弌夜は迷惑だと思っていなかった。自分が苦痛に思っていないことすら不思議に思っていたのだ。持て余していた自分の感情は、それが恋だと認識すると全てが繋がり納得出来た。だから謝られるのは少し違う気がする。

「じゃあ……ありがとう、だね?」

「?」

 突然の礼に、弌夜は小首を傾げた。

「あと、これからもよろしく」

「はぁ」

 工藤の言葉の意味が曖昧で、返す言葉もあやふやになる。ただ、曖昧だったからといって、そこから掘り下げて考えることはしなかった。というか、面倒だったので弌夜は放棄した。

「今日は? 一緒に下校する?」

 先程会った時、話をする約束はしたが一緒に下校する約束はしていないため、弌夜は分からないと言いたげに首を捻る。

「泉水次第なので」

 ――泉水次第、か。

 その言葉に工藤は目を細めた。

 それは朔良の意思を最優先してくれている言葉で、朔良がどちらを選んでも応じるという姿勢が見える。飾り気のない一言だが、ここでも弌夜の優しさを感じた。

 朔良はきっとそれが居心地良いのだろう。自分が気を張らなくても良い場所でいて、自分の心を曝け出しても許されると思う場所。弌夜の隣は、朔良にそんな空気感を与えているようだ。

「僕も朔良ちゃんが選んだ方で良いから、伊崎くんと帰りたいって言った時は朔良ちゃんをお願いね?」

「あ、はい」

 話の切れが良いところだと察知した弌夜は、横目で工藤を見ながら「じゃあ」と軽く会釈し、いつもの場所へと足を進めた。

 ――朔良ちゃんみたいな真面目な子には、片意地張らずに率直な意見を言ってくれる伊崎くんみたいな人が合ってるね。それに、その後のフォローを忘れていない。

 弌夜を見送りながら、そんなことを思う。

「ま、学校での生活態度は改めてもらいたいところがあるけど」

 工藤には、そこが唯一の弌夜の難点だと思ったが、それがまた弌夜らしいのかもしれない。

 工藤は苦笑した。

「おぉ、工藤。来てたのか?」

 そこにタイミング良く仁科が現れる。

 欠伸しながら近付いてくる仁科のその手には、一年の出席名簿が握られていた。どうやら弌夜たちのクラスの他にも体育の授業が入っているようだ。

「今、着いたばかりだよ。それと、これ」

 自分の隣まできた仁科に、工藤は一枚の紙を手渡す。

「書かれている知事杯の選抜メンバーには目を通した。あとここ最近、飛躍的に的中率を上げてきた生徒もいたから、名前を挙げといたよ。知事杯までに、そっちも考慮してみて。あとは仁科に任せる」

「……」

 渡された紙を仁科がじっと見つめる。

 こういう時はすごい集中力を発揮する仁科に、少しだけ感心してしまう。そしていつでも的確な判断を出せる。

坂下さかしたは俺も思ってたな。こいつと遠藤えんどうで悩んだ。でも坂下はまだ射癖の方が気になる。改善出来ているという面で見れば、遠藤の方がポイント高かったんだよな。的中率で言うなら、遠藤より坂下だが……」

 そう言って眉間にしわを寄せた仁科が頭を掻いた。

 工藤が挙げた名前の生徒には、仁科も思うところがあったらしい。この二人の射術に関しては、僅差だったことが窺える。

「でもさ、仁科ってそういうの学生時代から外すことなかったよな?」

 工藤の言う通り、確かに仁科は学生時代から、弓道部顧問が決めた選抜メンバーに意見していた。顧問としてのプライドもあっただろうが、仁科の推薦したメンバーに変更すると、必ず良い成績を残していたという前例もあったため、顧問も渋々仁科の意見を聞き入れていたのだ。

「ま、大会受付まで様子を見て決めるか」

 短い溜息を吐いて、取り敢えず結論を先延ばしにした。

「仁科の目は信じてるから、思う通りにしたら良い。それから僕は少し用事があるから、一旦家に帰ってから放課後また来るよ」

「……りょーかい」

 さり気ない態度で急に信用している宣言をされ、一瞬返事をするのが遅れる。

 この間の行射のことといい今の言葉といい、たまに不意打ちでこう言うことを言ってくるので工藤は侮れない。それが意図的にしろ無意識にしろ、仁科が唯一、心の奥底で弓道でも人格的にも尊敬している相手にこんなことを言われれば、多少照れて動揺してしまうのは至仕方ないことである。

「お前には勝てる気がしない」

「? 何のこと?」

「いや、何でもない。じゃあ、また後でな」

 不思議そうに聞き返してきた工藤に短く返事を返した後、仁科は体育教官室へと向かって行った。

「何だったんだ?」

 腑に落ちない表情をしつつ仁科を見送ったが、学校のチャイムが鳴り、自分の済ませなければならない用事を思い出した工藤は、急いで学校をあとにした。


 工藤の言った通り、薄い雲が掛っていた空は徐々に青空を取り戻し始めた。

 いつものごとく、学生カバンを枕に横になっていた弌夜は、目の前に広がる青空に向かって手を翳してみた。その指の間から光が差し込んでくる。弌夜にとっては嬉しい心地良さだ。

 ――今日もぐっすり眠れる。

 そしてゆっくりと瞼を閉じた。


 どのくらい経ったか?

 そこまで深く眠ってはいなかったため、さほど時間は経っていないと思われるが、傾眠状態だった弌夜の耳に、不意に誰かの足音が聞こえた。その音は弌夜の方に近付いてくる。

 煩い教師陣の中の誰かか? と思ったが、その足音はどこか控え目で、弌夜の頭の中で思い描いたどの教師のものとも違うものだった。

「?」

 目を開け、横になったままの体勢で後ろ肘をつき、上半身だけ起こして、足音のする方を注視する。

 そして、弓道場の角を曲がり弌夜の視界に入り込んできたのは。。

「……泉水?」

「あ、また起こしちゃった?」

 以前と同じく、申し訳なさそうに言うから、弌夜は小さく笑ってしまった。

「いや」

「六時限目、サボっちゃった」

「……は?」

 朔良の言葉に、弌夜は目を丸くした。

 弌夜の中では優等生枠にいる朔良が、絶対にしそうにないことだったので度肝を抜かれる。

「大丈夫。ちゃんと腹痛で保健室に行ってるってことにしといたから」

 ――それは、大丈夫なのか?

 どうにも子供っぽい言い訳に、微妙に顔が引きつってしまった。

「昨日のこと話すとなると、部活時間までに話し終える自信なかったから……」

 俯いて話す言葉の語尾が尻すぼみになる。

 弌夜に怒られるとでも思っているのだろうか?

 しかし弌夜は朔良を怒れるほどの立場にいない。むしろ怒られる側の立場なので、朔良が授業をサボったからといって、何か言えるはずもなかった。

 ただ、これが工藤にバレたら――と思うと、言いしれない恐怖が沸き上がってくる。朔良のサボりは間違いなく弌夜の影響だ。

 だが、朔良にサボりをさせるほどまでに、自分に話すことを重要視してくれているのだと思えば、工藤からの説教も甘んじて受けようという気になる。

 ――これが惚れた弱みってやつか?

「いいよ。俺も気になってたから、丁度良かった」

「!」

 体を起こしながら言った弌夜の言葉に、朔良の表情がパッと明るくなる。

 そして弓道場の壁を背凭れにして座った弌夜の隣に、朔良がゆっくり近付いて腰を下ろした。

「昨日は、泣いたりしてごめんね?」

「いや。何か、すっきりした顔してるな」

「うん。伊崎くんのおかげ」

 地面を見つめている朔良の目が嬉しそうに細められる。

 その横顔を横目で見ていた弌夜の口角が、知らず知らずのうちに上がっていく。

「要人さんにちゃんと話したの。湊と一緒に暮らしたい、って。要人さんの返事は早かったよ」

 工藤は湊と朔良の切望に何ら戸惑うことなく、「分かった」と言って満面の笑みを見せた。

「要人さんは、始めから分かってたみたい」

「長年、泉水たちを見てきたんだ。望んでいることなんざお見通しだっただろうな」

 弌夜のぶっきらぼうな返事に、朔良も苦笑する。

「それで、取り敢えず要人さんのご両親が成政さん家に行って、養子縁組解消の話をしてくるってことになった」

「……」

 朔良から目を逸らした弌夜は黙考した。

 成政相手だと養子縁組を解消するのは容易ではないと工藤は言っていた。 この手の問題は、当人である湊の意思を尊重するというのが道理だと思うが、それで成政は納得するのだろうか? 一癖も二癖もありそうな湊の養親に、工藤夫妻はどう対抗するつもりなのだろう? 成政家の、引いてはセイツーグループの社会的な地位を考えれば、一筋縄ではいかないはずだ。

 ――それとも、何か策があるのだろうか?

「湊が書いた要望書みたいなのを持って、成政さん家に行くみたい。湊は工藤家うちで待機だって」

「……ふぅん」

 なんにせよ、湊と朔良の願いを知っていた工藤なら、そのための対策を前々から練っていたに違いない。湊と朔良がいつ言い出してくれてもいいように、準備をしていたはずだ。だからこそ、満面の笑みで即答することが出来た。

「工藤さんって、やっぱ、すげぇな」

「ん?」

 小さく呟いた弌夜の声が聞き取りにくかったようで、朔良が小首を傾げて聞き返す。

 だが弌夜は、「何でもない」と言って頭を振った。

「じゃあ、あとはその話次第ってことだな」

「……うん」

 朔良の表情に少し影が落ちる。朔良は苦悩していたのだ。

 この話が決裂してしまったらどうなるのだろう? そんな悲観的な考えがずっと頭の中をぐるぐるしていた。それに、これに因って生じると思われる、工藤家と成政家との関係はどうなるのだろう?

 自分には考えも及ばぬことで……でもだからと言って、思考を巡らすことを放棄出来るほど無神経にもなれない。

 これは自分たち自身のこと。この願いを叶えるために自分たちで引き金を引いた。後悔はしていないが、このあと訪れるかもしれない最悪の事態も念頭にあった。

 重い溜息が無意識に零れる。久し振りに泣いて疲れているはずなのに、昨夜はよく眠ることが出来なかった。

 昨日のことを思い出し、俯く顔の角度が徐々に下がっていた朔良の頭の上に、ふいに手が置かれた。

「上手くしてくれるさ。工藤さんは、泉水たちの兄貴なんだろ?」

 弌夜の言葉に、弾かれたように朔良が顔を上げる。

 まるで朔良の心の声が聞こえているみたいだ。それでいて、朔良と湊の二人にとっての工藤の存在意義をちゃんと分かっている。

 胸の奥が熱くなった。今の朔良にとって、これほど心に響く言葉はない。

 弌夜の手が朔良の頭からそっと離れた。それにつられるように、伏せていた朔良の目が弌夜を捉える。

「伊崎くんは気付いてないと思うけど、すごく救われてるの。いつでも、伊崎くんの言葉に――」

 突然、ぽつりぽつりと語りだす朔良に、弌夜も静かに耳を傾けた。

「一番不安になってる時、悩んでる時、話を聞いて欲しい時。そばにいてくれたのはいつも伊崎くんだった。私の話に嫌な顔一つしないで付き合ってくれたことがすごく嬉しくて、ありがたくて……安心した」

 穏やかな表情で朔良が続ける。

「前にね、要人さんに言われたことがあるの。僕たちは家族なんだから遠慮しないでもっと頼って欲しい、って」

 工藤が言いそうな言葉だ、と弌夜は思った。朔良の生い立ちを思い、朔良が気兼ねなく暮らせる場所を作れるように尽くしていたはずだから。

「私はその意味を図りかねていた。考えても分からなくて、そのうちどうしたら良いのかも分からなくなって。ずっとそんなことを考えてたら、今度は態度がぎこちなくなって……。自分でも変な緊張してるって思ってた。でも自分が緊張してることよりも、要人さんが望んでいることを掴めない方が苦しかった。要人さんの思いを理解出来ないことが……悲しかった」

 朔良は自分から、過去のことを話し始めた。

 隣で聞いている弌夜の纏う穏和な雰囲気が朔良には心地良く、気付いたら自然と自分のことを話していたのだ。この間のような、言いたくないという気持ちは薄れている。いや。それは相手が弌夜だからかもしれない。

 ――伊崎くんの隣は、どうしてこんなにも居心地が良いんだろう?

 自分でも不思議な感覚に捉われ、ちらりと隣を一瞥すると、黙って話を聞いていた弌夜と視線が合った。

「……」

 朔良は息を呑んだ。

 無表情でも、朔良の話を真剣に聞いてくれている弌夜を見て、朔良は次第に泣きそうになってくる。

「要人さんたちに恩返しがしたいのに……何一つ出来ない……っ」

「!」 

 弌夜が微かに瞠目した。

 弌夜の見つめている前で、朔良の目から涙が零れ落ちたのだ。次から次へとポロポロ零れる涙で朔良の頬が濡れていく。

「私のことを気遣ってくれるのはすごく嬉しくてありがたいことなのに、何も返せない私には……正直、苦しかった」

 何の関係もない朔良を温かく迎え入れてくれた工藤家に、朔良は負い目を感じていた。食事も入浴も、朔良の部屋も用意してくれ、あまつさえ学校にも通わせてらっている。そんな多大な迷惑を掛けているのに、どうやって返していけばいいのだろう?

「湊と一緒に暮らしたいってことも、本当は言いたくなかった。何も返せてないのに、また迷惑を掛けるって。でも湊も同じ気持ちだと思ったら、余計止められなくなって」

 くしゃくしゃに顔を歪めながら、今までひた隠しにしてきた思いの丈を、堪え切れない涙とともに語る。

 きっと、工藤たちから優しく接してもらえばもらうほど、朔良は心苦しい思いを膨らませていたのだろう。そんな負い目を感じている朔良に、普通の家族のように接してくれと願っても、到底無理な話だ。もしかしたら工藤たちから非情な仕打ちを受けていた方が、まだ朔良には楽だったのかもしれない。

 ハンカチを持っていない弌夜は、しゃくり上げながら流す朔良の涙を、手の甲で少々強引に拭った。

「泉水はさぁ、何で返さないといけないって思うんだ?」

「?」

 弌夜の質問に、鼻を啜りつつ、朔良が怪訝気な表情を返す。

「家族はしがらみだと言う人もいたり、生きる希望だと言う人もいる。その定義はその人その人で違う。それこそ人の数だけあるかもしれない。でも泉水は、工藤さんの言う家族の意味をまだ理解出来ないんだろ? だったら、今返そうとしたってダメなことは分かりきってる」

「……」

 まっすぐに自分を見つめて言う弌夜の言葉に、朔良は瞠目する。

 大事なことを言われている――朔良は直感的にそう思った。

「恩返しするのはそれが分かってからでも遅くないだろ? 工藤さんなら、待っててくれる。そんで、工藤さんの気持ちが理解出来た時に、成政湊と一緒に返していけば良い。違うか?」

 弌夜を凝視する朔良の、瞬きする度に零れる涙を、親指で横に流すように拭う。

 弌夜なりの正論は、朔良も深く納得出来る正論でもあった。

 朔良は弌夜の言葉に肯定するようにしっかりと一回頷くと、再び顔をくしゃくしゃにして涙を流し始めた。

「お前、ほんとは泣き虫なんだな」

 ふっと苦笑して弌夜が言う。そしてそっと朔良の頭を引き寄せ、その腕の中に包んだ。

「……」

 からかい混じりの言葉には、弌夜の優しさと甘さが溶け込んでいる。朔良は改めて、弌夜のことが好きだと実感した。

 緩く抱きしめている弌夜の胸から聞こえる規則正しい鼓動が、朔良の気持ちも徐々に落ち着かせる。流れていた涙もいつの間にか止まり、朔良はその心地良さに浸った。

「泉水?」

 静かになった朔良に、窺うように声が掛けられる。

 その声も好きだと朔良は思った。弌夜から発せられる雰囲気や言葉全てに、朔良は心地良さを感じていた。

「伊崎くん」

「……何?」

 名前を呼び返され、一瞬間が空いてしまった。

 弌夜の胸に頭を預けていた朔良が、少し体を離し上目遣いで弌夜を見上げる。

「昨日の伊崎くんの告白を、受けても良いですか?」

「…………」

 不意に敬語になった朔良の言葉に、弌夜は一瞬フリーズした。

 頭の中で上手く理解することが出来ずに、怪訝気に眉根を寄せ、思わず朔良を睨みつけるように見てしまう。

「えっと、その……私も、伊崎くんのことが好き、なんだ、けど……」

 弌夜の表情で思いが伝わっていないことを察し、もごもごと歯切れ悪く言葉を付け加えたが、言いながら徐々に顔を赤らめた朔良は、弌夜の眼差しに耐え切れなくなりそのまま視線を下げた。

「…………」

 ――盲点だった。

 やっと理解した弌夜は、内心で呟いた。

 断られることばかりを想像していたため、受け入れられた時のことを全く考えていなかったからだ。そのままどうしようかと思案する。

「……?」

 告白の返事を聞いても特に反応のない態度の弌夜に、朔良は不安になった。俯いていた顔を少し上げると、どこか険しい表情の弌夜が見える。

 昨日の告白は、夢だったのだろうか? だがあの時の状況が状況なだけに、不真面目なことを言えるような雰囲気でもなかったはずだ。何より、弌夜の性格を考えると、そんな冗談を言うとは思えない。

「あ、あの」

 何の返答もないことに居た堪れなくなった朔良は、更に弌夜から体を離すとおずおずと声を出した。

「あぁ、悪い。予想外のことに頭がついていかなかった」

 ――予想外の、こと?

 朔良が首を捻る。

 それは自分が告白を受けたことを言っているのだろうか?

 表情には出ないが、自分の返答に戸惑っているらしいということを悟ると、朔良は思いきって聞いてみることにした。

「伊崎くんは、その、私のどこを……」

 好きになったの? とは自分からは言いづらく、言葉を切ってしまう。

 昨日の弌夜の告白は、朔良にとってすごく嬉しいことだった。しかし、よくよく考えるとどうしても腑に落ちない。どう考えても自分が好かれる要素が見当たらなかったからだ。弌夜に対しては、醜態を見せたことだけしか浮かんでこない。一体どこを見て、好きになってくれたのだろう?

「……面倒臭くない、から?」

 朔良の質問の意図を察した弌夜が、朔良から視線を逸らして少し考えたあと、疑問符を付けた形で答えた。

 立てた膝の上で頬杖をつき、どこか考える素振りを見せながら、自分でも良く分からないと言いたげに小首を傾げる。

「多分、泉水も気付いていると思うけど、俺、かなり面倒臭がりだから、こんなふうに誰かのために動いたりとか絶対しないタイプ、だったんだけど……泉水相手だと、それも崩れるみたいだ」

「……」

 自分を分析しながら話す弌夜を、朔良は目を見開きつつ凝視した。

 そんな朔良に気付くことなく、弌夜はさらに淡々と続ける。

「あと、泉水が俺を見つけて走り寄って来るところとか、俺の隣歩いてるとか、廊下でも普通に話し掛けてくるとか……そういうの、悪くないと思った」

「……え? そんなことで?」

 朔良が呟くように問う。

が、俺には重要だったりする。今までにないことだったから……余計に」

 遠くを見ながら答える弌夜を見ながら、朔良の心臓は爆発寸前だった。

 相手を好きな理由は人それぞれだ。顔が好きだからとか、性格が優しいからとか、スタイルが良いからとか、笑いどころが一緒だからとか、千差万別――。

 もちろんそれも立派な理由ではあるが、弌夜の理由はそんな在り来たりなものではなかった。

 朔良の容姿も性格も全く気にしていない。自分の感じた思いだけで、朔良を好んでいると言った。それを無意識の領域で行ったことなら、弌夜の非凡な直感が朔良を選んだということになる。

「正直、泉水に興味もつなんて思ってなかった。弓道にも興味なかったし。でも、泉水の弓道をしてる姿は好きだ。そんなふうに思ったのも初めてだったんだ。そう考えると俺にとって泉水っていう存在はかなり特別な気がしないか?」

「え……っと」

 急に質問され、朔良はどう答えようか戸惑った。

 だが、弌夜にとって面倒だと思っていたことが、朔良に関してだけ全て覆されているというのであれば、それだけ他の人とは違う何かが、弌夜の心の琴線に触れたということになる。とはいえ、それが好きに直結しているのかどうかが朔良には重要なのだが、きっと弌夜の中ではそこまで考えが及んでいないだろう。

 小さく落胆してしまった朔良は、弌夜に告白され一人浮かれていたことを恥ずかしく思った。

「けど、それを含めて泉水が好きだからなんだと思ったら、自分の中で納得出来た」

「!」

 突然思わぬところで再度告白され、大きく肩を揺らし反応した朔良は、一瞬にして顔を赤くした。ついさっきまで心の中で落胆していたから、驚きも倍である。

「今も、泉水の答えを聞いて動揺してるし、なんか……嬉しいと思ってる」

 その動揺が表に出ないところがすごいところだが、取り敢えず人並みの感情は持ち合わせているようだ。

「だから、もし泉水が嫌じゃなければ、俺と付き合って欲しい」

 そう言って溜息をついた弌夜は、頬杖をついていた手で前髪をくしゃりと乱した。

「つーか、悪ぃ。俺もこういうの初めてだから、どう言えば良いのかも、どうすれば良いのかもよく分からない」

 照れる……というより、自分でも慣れていないことに、当惑しているようだ。

 だが、弌夜のどの言葉も朔良には嬉しいもので、同時に赤面させるものだった。それ故に、鼓動を速くさせるばかりで心の整理が追いつかない。それでも、それが弌夜なりの愛情表現なのだと分かると、朔良の中に愛しさが溢れてきた。自然と笑みが零れてきそうになり、慌てて表情を引き締める。

「じゃあ……えっと、よろしくお願いします」

 そう言うと朔良は弌夜に向けて軽く頭を下げた。

 遠くに向けていた視線を朔良に戻し、弌夜が「……良かった」と小さく呟く。緊張していたのか、無意識に安堵の息も一緒に洩れてしまった。

 こんなに早く答えが聞けるとは思っていなかったため、弌夜自身も心の準備が全く出来ていなかった。だから朔良の返事を聞いて、理解するのに時間が掛ったのだが、朔良の返事が自分の望む答えで、弌夜は間違いなく嬉しさを感じていた。

「私も伊崎くんの隣にいられるのが嬉しい」

 はにかむ笑顔で、自分の気持ちを正直に話す。

「……そっか」

 朔良の表情につられるように、弌夜も優しい笑みを浮かべる。

 こんなに穏やかな気持ちになれるのは初めてのような気がした。自分のことにすらあまり関心をもっていなかった弌夜が、生まれて初めて自分の気持ちと真正面から向き合ったからかもしれない。

 朔良相手にしか感じない感情は、弌夜自身の変化に十分な影響を与えていた。

 しかし――と弌夜はげんなりした。

「まぁ、成政湊は許さないだろうな」

「湊? どうして?」

 空を見つめながらぼんやりと呟いた弌夜の言葉に、朔良が小首を傾げる。

「あいつ、泉水のことになるとすぐ熱くなるだろ? 俺みたいな奴が泉水の彼氏になったって分かったら――」

 先日も、もしも話でそんなことを話したばかりだ。その時は弌夜を排除すると言っていたが、もしもではなく本当のことになった今、湊はどう出るのだろう?

「でも湊、伊崎くんのこと良い奴だって言ってたよ?」

「……え?」

「作りたくなかったけど借りが出来た、って」

 朔良の意外な言葉に、弌夜は怪訝そうに眉根を寄せる。

「貸した記憶はないけど?」

「……それ、湊に言ってあげて」

 朔良は小さく笑った。

 湊が弌夜のことを良く思っていないことを朔良も感じていた。それが自分に関することだからだ、ということも――。

 朔良のこととなると、湊は途端に視野が狭くなる。それは朔良を思ってのことなのだが、時に過剰になるから朔良も気が気ではない。

「伊崎くんの良さは、ちゃんと分かってる」

「……そう」

 半ば諦めモードで言い放つ。

「だって私が……好きな人、なんだもん」

 隣で嬉しそうに頬を染めつつ言う朔良を横目に見て、弌夜もつられるように俯く。

 こうも直球で言われると面映ゆい。こういうことに慣れていないから尚更だ。

「あ! もう部活の時間になる」

 不意に腕時計に目を落とした朔良が声を上げる。時間を全く気にしていなかったが、結構話し込んでいたらしい。

「……見ていく?」

 少し考えたあと、弌夜の様子を窺いながら朔良が訊ねる。

 弌夜は一瞬きょとんとし、ふっと微笑むと軽く一回頷いた。

 それを見て朔良も嬉しそうに微笑んだ。

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