10


「今日もお疲れ様」

 部活が終わり、更衣室で制服に着替ている朔良を弓道場の戸口で待っていた弌夜に、着替え終えた克生が声を掛けてきた。

 少し怪訝気に眉を顰めながらも、弌夜も「……どうも」と言葉を返す。

「泉水の最後の行射、すごく良かったね?」

 確かに弌夜の目にも良い行射に見えたが、玄人目から見た克生の意見に、素人の弌夜が何か言えるわけもない。弌夜は「はぁ……」と曖昧に返事をするだけに留める。

「一回、矢を外した時はびっくりしたけど」

 苦笑して言う克生に、弌夜は少し視線を逸らした。

 多分、更衣室で着替えて射場に出た時、最初に弌夜の姿を捜したのだろう。しかし、見に来ると言っていた弌夜の姿がそこになかったため、朔良は動揺してしまった。

 その様子がありありと思い浮かんだ。

「伊崎くんは、泉水の安定剤になってね?」

「!」

 にっこりと笑っていても、口調は威圧的な響きがある。

 弌夜は思わず息を呑んだ。だが、不調の原因になるなと釘を刺してきた克生に、もっともだと内心頷く。自分も影響を与える一人になったのなら、朔良の調子を上向かせる存在になりたい。何よりも、弌夜自身が朔良の行射に惚れているのだから。

「弓道は繊細な競技だ。足のつま先から始まる下半身の胴造り、肩や腕の位置や引きの正確さ、弓や矢を安定させる指先への集中力、的を的確に捉える精密な視線による照準……」

 弓道のことを知らない弌夜に、説明するように真剣な表情で克生が話始める。

「単なる射癖ならば、そこを直せばいい。だが精神的な弊害はこれら全てを狂わせる」

「……」

「何を言いたいか分かる?」

 ――泉水に不安を抱かせるな、ということか。

 弌夜は一つコクリと頷いた。

「それなら良かった」

 克生が再び微笑んだが、先程とは違い柔らかい笑みだ。

 カタンッ

 その時、弓道場の奥から物音が聞こえた。

 ちらりと中を一瞥した克生が「そろそろ泉水が出てくるかな?」と弌夜に聞こえるように呟く。

「じゃあ、俺はもう帰るね」

 そう言うと弌夜に軽く手を上げ、克生は正門へと歩いていった。

「……」

 静かに責められ、そして諭された気がした。

 ――とにかく泉水に精神的負担を掛けるなってことね。

 そう自分の中で得心した時、「ごめん。待たせちゃって」と言いながら朔良が弓道場から出てきた。そして、弌夜のそばに小走りで駆け寄ってくる。

「いや」

「待っててくれてありがとう」

 「ん」と短く返事をした弌夜が先に歩き出したのを見てから、一歩遅れて朔良も歩き出した。

「克生って先輩、すごいな」

 ふいに言われ、少し後ろを歩いている朔良は何のことかときょとんとする。

「さすが、弓道部主将」

 これは揶揄しているわけではなく、弌夜の本心だ。

 弓道部主将だからではなく、人として尊敬出来る人物だと思った。それは、克生の穏やかな雰囲気と落ち着いた言動が、工藤を彷彿させるからかもしれない。

 しかし……と今度は眉を顰める。

 尊敬は出来るが、高校生なのに大人の空気を身に纏っている克生に、弌夜は接する度に複雑な気分にさせられていた。

「克生先輩、頼もしいよね」

「……」

 その通りなのだが、朔良が言うと少しムッとしてしまう。朔良がはにかむから余計に。

 気に食わない弌夜はソッポを向く。

「矢、外したって聞いた」

 そして思い出したように呟いた。

「え?」

 ピクリと朔良の肩が小さく跳ねる。歩みが遅くなり、弌夜から少し距離が空く。

「誰のせい?」

「!」

 続けて問われ、今度は足が止まってしまった。

 朔良はどう答えたら良いのか迷い、頬を染めたまま俯く。

 それから数歩歩いたところで、弌夜も立ち止まった朔良に気付いた。足を止め、そこでしばらく待ってみる……が、朔良がそこから歩き出す気配がない。

 ふっと小さく笑った弌夜は、踵を返し朔良の前まで歩み寄ると体を傾け、俯いている朔良の顔を覗き込んだ。

「言って。誰のせい?」

「……っ!」

 強引に目を合わせてきた弌夜に、驚いた朔良は反射的に顔を上げる。

 姿勢を戻した弌夜にまっすぐ見つめられ、居た堪れなくなった朔良は、再びパッと弌夜から視線を外した。そして地面を見つめ考える。

 誰のせい? と聞かれても、それは自分のせいなのだと朔良は思っているが、弌夜は違う答えを待っているような気がする。

 必死になって考え込んでいたが、頭上から絶え間なく注がれている弌夜の視線に、朔良は耐え切れなくなった。そろそろと上目遣いで弌夜を見上げてみる。

「……」 

 自分を見つめている弌夜の表情はどこか柔らかい。

 滅多に見れない弌夜の顔に胸の奥が熱くなった。そして何故か、優しく促されているように感じた。

 正直に言って良いよ、と。

 朔良は弌夜を見つめ返しながら、そのまま無意識に口を開いた。

「……見に来てくれるって言った」

 囁くように言う。

「ん」

「でも射場にいなかったから」

「……ごめん」

 責められているのに、弌夜は嬉しそうに微笑みながら謝る。

「…………」

 今まで見たことのない弌夜の頬笑みに、ますます凝視してしまった朔良は、自分が謝られていることに気付かなかった。

「俺のせいってことだよな? ごめん」

「! はっ……いや、ちがっ」

 改めて確認されてから再び謝罪された朔良は、その時やっと我に返り、慌てて頭を振る。

 決して弌夜のせいではないのだ。行射の善し悪しは自分のせいで――。

「否定しないで良い。俺のせいなのが嬉しいから、そういうことにしといて」

「……」

 弌夜の柔らかな頬笑みに、朔良の頬がさらに赤く染まる。恥ずかしくなって俯くしかない。弌夜の変化に戸惑いはするが、それでも朔良は単純に嬉しく思った。

「泉水のこと、教えてくれるか?」

「え?」

 ふいに言われ、まだ赤く染まったままの顔を上げた朔良は、何のことかと小首を傾げる。

「泉水のこと、こと、教えて」

 先程とは打って変わって、真剣な面持ちで言う弌夜に、朔良は息を呑んで瞠目する。同時に鼓動が一際大きく高鳴った。

 幼い頃の生い立ちではなく、その時々で感じた感情を教えてくれと言う弌夜に、朔良は動揺を隠せない。

「……ど、して?」

「泉水のこと好きだから」

「…………」

 弌夜のさり気ない告白に、一瞬何を言われているのか分からなかった。色めいたものが見えない弌夜の顔を、眉根を寄せてマジマジと凝視する。

 ――好き? 伊崎くんが……私、を?

「!」

 認識した途端、頬だけではなく、ぶわっと全身が熱くなった。

 脈打つ心臓のリズムが上がる。早鐘のように鳴りだした心臓が、朔良の全身を伝って鼓膜を揺さ振った。

「好きだから知りたい。泉水のこと」

 嘘のない弌夜の言葉が真剣な表情と相まって、まっすぐに朔良の胸に届く。

 ――何を答えれば。どう、答えれば……。

 ぐるぐると考えだけが回って、頭の中を上手く整理出来ない朔良は、口を薄く開きはしたが、そこから言葉を紡ぐことが出来なかった。

 ――告白の答えを……。「はい」か「いいえ」を言わなきゃ……。

 そうは思うが、急な告白に当惑した今の頭では、その答えを導き出すことが出来ない。

 朔良は再び、ぐっと口を噤み、頬を染めたまま俯いた。

「俺の告白に返事はしなくていい。ていうか、良く考えてからでいい」

「……」

 弌夜の付言に、パッと顔を上げた朔良は拍子抜けしたような表情を向けると、よろよろとブロック塀に手をついた。

 その反応を見ていた弌夜は、この一瞬で告白した俺より緊張してたな、と半ば呆れるように心中で呟いた。

「それよりも泉水のこと知りたい。もし、嫌じゃなければ教えて欲しい」

 自分の告白は二の次で良かった。最初から答えを求めて言ったわけではない。それに、どのみちちゃんと考える猶予を与えるつもりだった。

 今、重要なのは朔良の心の声だ。吐き出す相手が自分で良いのか、弌夜も悩むところではあるが、本人に聞かないと分からない。湊には通用しなくても、朔良には正面突破は通用するだろう。その答えがどちらであっても、朔良なら正直に答えるはずだ。

「な、にを……言えば」

 話したくないわけではない。隠しているわけでもない。ただ、何を話せば良いのか分からないのだ。

 朔良の声が震える。

「成政湊のこと、どう思ってる?」

 弌夜は直球で質問を投げてみた。

 自分から話し始めるのが出来ないのなら、こちらから質問する形で答える方が、まだ気が楽だろう。

「……血の繋がった、たった一人の兄で、すごく大切な人」

「その大切な人と孤児院で別れた時、どう思った?」

「…………寂しかった」

 あまり思い出したくないのだろう。

 辛辣そうな表情を浮かべた朔良だったが、少しの沈黙のあと、呟くように答えた。

「成政湊のために笑顔で見送ったのか?」

「…………」

 何かを知っていそうだと口振りで分かる。だが、それに対しては朔良に不快感はなかった。

 弌夜の口から紡がれる音は、嘲笑も同情もない。複雑に絡まった朔良の心の繊細な糸を、一つ一つ丁寧に解すかのように淡々としている。ただ、どこか探るような質問をされ、朔良は落ち着かなくなっていた。

「湊の方が……きっと辛かった。だから、私が泣くわけにいかない」

 泣きそうに顔を歪めつつ、ぽつりと答える。

「工藤家に引き取られたあと、しばらく成政湊と会わなかったのは何で?」

「……湊も成政さん家で頑張ってる時、だったから……」

 朔良の声の震えが大きくなる。

 ――言えない……言いたくない!

 次第に朔良は、弌夜から質問されるのが怖くなった。今まで仕舞い込んでいた感情を徐々に呼び起こされ、言いたくても言えなかったことまで言いそうになる。

 ――嫌だ。これ以上は……。全て湊のためだと言ってしまう。自分の押し付けがましい言い訳に、湊の名を出したくない。

「ごめ……、伊崎くん。もう……」

 手で自分の口を押さえ、弌夜から視線を外す。これ以上は答えられない、と朔良はきつく目を瞑った。

「俺相手に我慢する必要ない」

 朔良の耳元で囁くようにそう言った弌夜は、そのまま朔良を自分の腕で包み込んだ。

「!」

 腕の中で朔良がピクッと反応する。突然のことに、緊張で体が硬直しているのが分かる。

「泉水が我慢する相手は違うはずだろ? たまには本音、言ってみ?」

「……」

 弌夜の腕は強くはない。振り解こうと思えば振り解ける。だが抱きしめられている腕よりも、弌夜の言葉に朔良は混乱させられた。

 ――本音? 本音って、何?

 弌夜の腕の中で沈思する。

 我慢、しているのだろうか? それすら分からない。でも押し殺している感情はある。口にはせず、ずっと仕舞い込んでいるもの。それが弌夜の言うところの本音なのかもしれない。しかし、朔良自身にもどうすることも出来なかった。

「……」

 抱きしめられながら静かに考え込む朔良を、弌夜は黙って見下ろす。心の中で葛藤しているようだ、と察した。

 弌夜に言うことが出来ないのか? それとも、誰にも言いたくないのか? 腕の中で苦しそうな様子の朔良を見て、弌夜は小さく嘆息を洩らす。

 ――本当に、一番大事なことは言わないんだな。

 それが少し寂しくもあったが、弌夜も朔良を苦しめたいわけではない。

「……分かった」

 もともと無理強いするつもりはなかった。工藤の言う通り、朔良の性格はそうそう簡単に変わるわけがないのだから。どうしても話せないなら、弌夜も諦めるしかないのだ。

「泉水が嫌なら聞かない」

 静かにそう言った弌夜は、朔良からそっと腕を解いた。そして朔良から少し距離を取る。

「!」

 しかし半歩足を引いたところで制服のシャツを掴まれていたことに気付き、弌夜は驚きに目を見開いた。

 どうしたのかと怪訝気に眉根を寄せるが、弌夜の胸に額を当てて俯いている朔良の表情は読めない。

 ――泣いて、いるのか?

 掴まれているシャツを見つめつつ、朔良が離れることを拒んでいるような気がした弌夜は、もう一度ふわりと包み込むように抱きしめた。

「泉水」

 そして朔良の頭上から優しく声を掛ける。

「さっき部活中に矢を外したのは射場で俺の姿が見えなかったからだ、って言ったよな?」

 正確にはそんなにはっきりと弌夜のせいにしたわけではない。ただ朔良の言葉は、弌夜のせいだと責めているものではあった。

「俺のせいなのが嬉しいから否定するなって言っただろ?」

 弌夜が何を言いたいのか理解出来ないまま、朔良は取り敢えず小さく頷き返す。

「泉水の特別になれたような気がしたんだ。泉水にとっての、成政湊みたいな立ち位置になれてるような気がして嬉しかった」

 もちろん二人の深い兄妹愛には程遠いだろうが、少なくとも朔良の中で影響を与える一人になったことを確信した言葉だった。

「言えないのか言いたくないのか。それは俺だからそうなのか、他の誰かだったら言えるのか、いろいろ気になるけど無理には聞かない。でも泉水の力にはなりたいと思ってる」

「……」

 弌夜の腕の中で静止したままの朔良は、目を閉じて静かに降ってくる声だけに耳を傾ける。

 弌夜は嘘をつかない。特に強調されたわけではないが、弌夜の性格を知っている朔良にとっては、とても心強いものだった。

 そんな時、急に弌夜がふっと小さく吹いた声が聞こえた。

「お前、甘え下手だけど、たまにこうして素を出すよな?」

 シャツを掴んでいる朔良の手の温もりを感じつつ、弌夜が思い出したように言う。

 工藤が部活を休んだ時も見学に来て欲しいと言ったり、部活見学に来るか心配して、確認するかのように弌夜の居場所に足を運んだり、嫌でなければ自分の行射を見てて欲しいと言ったり……。今考えると、弌夜に対してだけ朔良はかなり甘えているように思われる。それがまた弌夜には嬉しかったりするのだが。

「!」

 朔良も心当たりがあったようだ。弌夜の胸に額を押しつけたまま顔を赤らめている。

 弌夜には何故か素直にそういうことを言えてしまう。そして弌夜も怒らずに朔良の願いに従ってくれていた。

 特に何の接点もなかったのに、ここ数日でグッと二人の距離が縮まっている。それはどちらが歩み寄った結果なのか?

 弌夜に優しく抱きしめられたまま、朔良は黙考した。

 ――伊崎くんになら言っても良いかも、って思ってしまう。

 それは何故?

「……」

 さらに熟考する。

 助けて欲しいわけではない。でも弌夜なりの意見の中に、朔良にとって重要な意味を持つ言葉がいつも埋め込まれていた。そして朔良はそれを聞き逃すことはなかった。

 弌夜は何も言わなくても、不安になっている朔良の胸の内を理解してくれる。口数が少なく、とても愛想が良いとは言えないが、要所要所でそんなさり気ない優しさを見せる弌夜が、朔良は――。

「……好き」

 小さく発した言葉は、弌夜の耳に届く前に、二人のすぐ横を走り抜けていった車の音に掻き消されてしまった。

 朔良が何かを呟いたことだけは察した弌夜が、もう一度促すように「ん?」と訊ね返す。

 弌夜から体を少し離した朔良は、ゆっくりと顔を上げ、弌夜を仰ぎ見た。

 朔良の表情は泣きそうではあるが、涙は流れていなかった。ただその手は未だしっかりと弌夜の制服のシャツを握っている。

「言えなかったこと……言いたかったこと、言っても良い?」

 それは朔良の一番叶えたかった願い。ずっと……ずっと朔良が抱え続けてきた、たった一つの願い。

 弌夜になら言える。言っても許してくれる。

「ん」

 今度はしっかり聞き取った弌夜が一つ頷く。

 窺うように問うた朔良の期待通りの言葉をくれた。それなのに……朔良の中にはまだ迷いがあった。

「でも多分、無理なの。言っても、きっと――」

 朔良の心中の葛藤を弌夜も察する。

 朔良自身も少しずつ自分の中の絡まった糸を解こうとするが、長年言えずにいた言葉は、年月を重ねていくうちに言ってはいけない言葉に変わってしまった。それはまるで暗示のように、朔良の心に錠を掛ける。

 工藤の言うように、その意識を変えるのは難しいことだと弌夜も思う。だが、変えようとする意思が朔良の中にあるのなら、きっと変えることが出来るはずだ。

「泉水一人だったら、そうなのかもな」

「……え?」

「泉水一人だったら無理なことでも、泉水の周りにいる誰かになら簡単に出来ることかもしれないだろ?」

 威圧的に諭すでもなく、抑揚のない声音で弌夜は自分の考えを朔良に伝える。

 その誰かが弌夜でないにしろ、ここが朔良の心の奥底を知るチャンスなのだ。

「口にしないうちから、自分の中で諦めるのは違うんじゃないのか? そんなに泉水の周りにいる奴らは?」

 工藤や成政湊も?

 言外に続く言葉に、朔良の目が見開かれる。そして何故か遠い過去のことを思い出した。

 湊が弓道を始めたと知った朔良が、工藤に弓道を教えて欲しいと、やっとのことで口に出来た時のことを。

 ――そうか。じゃあ、あの時、要人さんが悲しそうな顔をしたのは、自分が信頼されてないと感じたから?

「泉水に頼られて嫌がるような奴は、お前の周りにはいないはずだ。違うか?」

 泣きそうに顔を歪めながら、朔良は頭を振る。

 違わない。朔良もちゃんと分かっていた。ただ自分の周りにいる人たちを困惑させたり、このことで迷惑を掛けたりすることだけは絶対にしたくなかった。

 その思いから言えずにいた言葉。朔良の、唯一無二でいて最大のわがまま。

「湊と……湊と、暮らしたい。一緒にいたい」

 口にした途端、朔良の目からポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。堪え切れない涙は次々に溢れ出て、あっと言う間に朔良の頬を濡らしていく。

 涙で顔をくしゃくしゃに歪ませた朔良の頭を、弌夜が自分の胸に押し当てるようにして隠した。

「そっか」

「……っく」

 誰にも見つからないように、心の奥底に閉まって、がっちりと何重にも鍵を掛けていたこの思いを……この願いを口に出して言うことなど一生来ないと思っていた。口に出したところで何も変わらないのだからと――。

 だから物分かりの良い子を演じるしかなかった。全てのことに不満を言わず、ただ受け入れるだけ。そうして生きてきた朔良にはそっちの方が楽だった。

 でも吐き出せない思いは募るばかりで、自分の中で重みを増していく。それは湊に会う度に膨れ上がり、もはや自分の中で処理することが出来なくなっていた。

 そんな徐々に押し潰されそうになっていた朔良の心のストッパーを、焦らず丁寧に外してくれたのが弌夜だった。今、自分の思いを口に出すことが出来たのは、弌夜がそうやって朔良の心に逆らうことなく心の糸を解いてくれたからだ。

 湊と暮らしたい。

 そのたった一つの言葉すら言えずにいた朔良は、これまで我慢していたものを全て出し切るかのように、涙を流し続けた。

「朔良を、泣かせたな」

「!」

 背後から不意に聞こえた怒りの声に、驚いた朔良が弾かれたように振り返る。

 そこには弌夜を殺しそうな勢いで睨みつける湊の姿があった。学校帰りだったのか、服装は央架の制服のままだ。

 湊がいたことに特に何の反応も示さなかった弌夜は、憤慨している湊を黙って見つめ返していた。

「朔良に何をした」

 一歩ずつ距離を縮めながら、低い声音で弌夜を詰問する。

「湊、ちがっ……」

「見ての通りだけど?」

 湊の逆鱗に触れているのを知りつつ、弌夜はいつもの口調で淡々と言い放った。

 その態度は案の定、湊をさらに激怒させた。

「どんな理由があろうと、朔良を泣かせる奴は容赦しない」

 湊が凄みを利かせ、弌夜に詰め寄る。

「……」

 しかし湊の言葉は、弌夜に不快感を与えた。突然の出来事に涙が止まった朔良の体を自分から離し、逆に湊を睨み返す。

「じゃあ、お前は泉水の泣き顔を見たことがあるのか?」

「? な、に言って……」

「いつも泣きたいのを堪えて笑っていたことに気付きもしないのか?」

「!」

 ――泣きたいのを堪えていた?

 湊は驚愕に瞠目する。

 思いもよらないことを聞かされショックを隠せない湊は、弌夜の言葉を確かめるかのように朔良にゆっくりと視線を向ける。

 湊の視線を受けて、朔良の目から再び涙が零れ落ちた。

 バツが悪くなった朔良は、それでもまだ見られたくないのか、顔を伏せて湊から涙を隠した。

 弌夜の制服の袖をぎゅっと掴む朔良の手が小刻みに震えている。これ以上言わないで欲しい……そんな朔良の心の声が聞こえるようだった。

 だが、弌夜はやめようとは思わなかった。朔良が口にすることが出来たその思いの丈を叶えられる相手が、今、目の前にいるのだから。

「大切な相手を泣かせるのは俺だって嫌さ。出来ればやりたくない。でも、泣きたい時に泣かせてやれないのはもっと嫌だ」

「!」

 先の鋭い刃物で胸を刺されたかのような痛みを感じた。

 弌夜の言葉は正論で、湊は何一つ言い返すことが出来ない。

 ――我慢させていた? でも……一体いつから?

「泉水が大事ですごく大切にしていることは、この間少し話しただけの俺でも分かる。兄貴としてずっと泉水を守っていることも……」

 そばにいることが出来ない湊にとっては、朔良を見守ることは困難だったはずだ。引き取ってくれた成政家のこともある。自分の思い通りに動けないジレンマをこれまで抱えていたに違いない。工藤から話を聞いて、湊が歯痒い思いをしていただろうことは、弌夜にも察することが出来た。

「泉水に心配掛けさせたくない気持ちがあったのは分かるが、だからって泉水を不安にさせるのは違うだろ?」

「……」

 続けられる言葉にも反論出来ない。

 朔良を守るためなら、成政家の駒になることくらいわけなかった。暗い話も汚い話も何も知らずに、優しい工藤家の人々に囲まれ、朔良が幸せに笑って暮らしていてくれれば、それだけで湊は十分だったのだ。そして、その生活を守るのが、兄である自分の役目だと、ずっとそう思っていた。

 でもそれは自分の勝手な思い込みに過ぎなかったのかもしれない。確かに笑って過ごしていたかもしれないが、その裏で朔良はどれだけ苦しんでいたのだろう?

「泣かせたのは確かに俺だが、泣いてる理由はお前だ」

「!」

 声を荒げることなく告げられた言葉に、静かにトドメを刺された気がした。

 湊は唇を噛み締めて項垂れる。

 朔良に合わせる顔がない。

 自己満足で朔良を守っている気になっていた自分は、何て愚かなのだろう。朔良の本当の痛みを分かってやれなかった。大切な妹なのに――。

「泉水」

 ずっと弌夜の袖を掴んでいた朔良が、自分を呼ぶ弌夜の声に反応する。恐る恐る顔を上げ、弌夜を見上げた。

 弌夜は真剣な面持ちで朔良を見下ろしている。

「もう言えるだろ? 今まで抱え込んでた泉水の思いは成政湊が叶えてくれる」

「!」

「泉水も、もう少し兄貴を頼れ。工藤さんを頼れ。頼ることは、弱いことでも悪いことでもない」

 どこか縋るように見上げる朔良の頭を、弌夜がポンポンと軽く叩く。そしてその手を袖を掴んでいる朔良の手に重ねた。

「ここからは兄貴と帰れ」

 自分のシャツから朔良の手を離し小さく微笑んだ弌夜は、そのまま朔良の横を素通りし、項垂れている湊のそばに歩み寄る。

「叶えてやれ。泉水の心からの願いだ」

 すれ違う瞬間に、湊にだけ聞こえるように呟いた。

 叶えてやれるのはお前だけなのだから、そう言外に含んでいるのが一瞬交差した弌夜の目から伝わる。

「……」

 言われなくても、と少しむくれたが、湊は朔良の願いをまだ聞いていない。叶えてやりたいが、朔良が打ち明けてくれなければ、それは出来ないのだ。

 果たして朔良は、こんな不甲斐ない自分に打ち明けてくれるだろうか?

「……さ、くら」

 少し気まずそうな空気を打開したいと、湊が窺うように名前を呼んでみる。

 朔良が応えてくれるのか不安になったが、躊躇いがちに視線をおずおずと上げた朔良を見て、安心した湊はほっと胸を撫で下ろした。

「あの、ごめん。その……朔良の気持ち、分かってやれなくて」

「いや、ちがっ。湊が謝ることはない」

 朔良が慌てて否定する。元はと言えば朔良がちゃんと口にしていれば、こういうことにはならなかった話だ。それか、言わぬまま今まで通り自分の心に鍵を掛け、やり過ごせば良かった。

 だが、と朔良は眉を顰める。

 あのまま隠し通せたとして、自分はその思いに押し潰されることなく、これまでも平気なフリをし続けられたのだろうか? 湊や工藤にも気付かれることなく、自分自身すら騙して……?

 さほど時間を掛けることなく、その答えは朔良の中で出た。それが無理なことは、もう既に行射で実証されていたから。

 今まで出来ていたことが、出来なくなっているということは、朔良自身、もう限界が来ていたということだ。 それを爆発寸前にまで追い込まれる前に、弌夜が吐き出させてくれた。

 これは弌夜がくれた二度とない機会なのだ。朔良は弌夜が解いてくれた心の声を、きちんと湊に自分の声で伝えなければならない。

 頬に流れていた涙の痕を拭い、小さく微笑んだ朔良の心中はとても穏やかだった。

 ――大丈夫。ちゃんと言える。

「湊」

「……うん」

「ずっとね、怖くて言えなかったことがあるの」

「怖くて?」

「うん。怖かった。湊と工藤さんたちに迷惑を掛けることが……。困らせてしまうことが分かってたから」

 湊が強く頭を振る。

「俺は迷惑だなんて思わない」

「うん。そう言うと思った。でも湊には湊の生活があって、成政さんの家で幸せを掴んでいたのなら、私の発言でその幸せを壊してしまう可能性があるでしょ? そう思ったらとてもじゃないけど言えなかった」

「朔良……」

 それをいつから抱えていたのだろう? 湊が孤児院を離れた時からと考えれば、その年月は決して短くない。

 湊は朔良に歩み寄った。そして体一つ分開けたところで足を止める。

 近くで見ると、両目が赤く腫れていた。これほどまでに泣かせてしまったのかと思うと胸が痛んだ。そしてまだ少し涙で湿っている朔良の頬に優しく触れる。

「教えて。朔良」

 お願いだから教えて欲しい。湊は切に願った。

「どんなことでも絶対に叶える」

 ――この願いだけは絶対に。

「湊は幸せ?」

 突然の問い掛けに面食らった湊は、緊張していたこともあり、少し上ずった声で「……えっ?」と聞き返した。

「ずっと、気になってたの。湊は幸せ?」

 微笑む朔良の表情からその意図は掴めない。だが、やはり湊は朔良に嘘は言えなかった。ゆっくりと頭を振る。

「引き取られたことへの感謝は……あるけど、幸せではなかった」

 湊の答えに、朔良は表情を曇らせた。

「どうして?」

「そばに朔良がいなかったから……。朔良がいないのに幸せだなんて思えない」

 苦笑して答えた湊に、一瞬ハッとした朔良は、そのあと面映ゆそうに俯いた。湊もそんなふうに思っていたのかと思うと、胸が熱くなる。

 もしかして、湊も同じ気持ちだった?

「私が言えなかったことは……」

 ずっと言いたかったことは――。

 朔良は再度、湊の目を見つめた。

「湊と一緒に暮らしたいってこと」

 一つ瞬きをしたあと、湊が目を見開く。そして息を呑んだ。

「でも湊の今の生活を壊したくない。だからこの願いは叶えなくても良い」

 ――朔良も一緒に暮らしたいと思ってくれてた?

 呆けたように朔良を見つめる湊に、朔良は苦笑した。

「ね? 湊を困らせてしまった」

 申し訳なさそうに言う朔良に、我に返った湊はゆっくりと首を横に降った。

 ――違う。違うんだ、朔良。

 湊の腕が朔良の体を包み込む。

「み、湊……?」

「困ってない。嬉しいんだ、朔良」

 抱きしめられたことに戸惑った朔良だったが、耳元で聞こえた湊の声に、泣きそうになってしまった。

「俺もずっと考えてたから。朔良と一緒に暮らすにはどうすれば良いのか」

 湊の中に随分前から答えはあった。しかし、まだ未成年で社会的信用性のない湊には出来ないことがたくさんある。その願いを叶えるには、誰かを巻き込むしか方法がない。

 まずは勇気を持って一歩を踏み出さなければ、それを叶えることは不可能だろう。弌夜が言ったように、誰かに頼ることは、弱いことでも悪いことでもないと湊も思うから。

 そしてふと思い出す。

『君たちだけでは無理なこともまだまだたくさんある。僕ら工藤家は君たちの味方だから、何かあったらいつでも相談するんだよ?』

 そう考えれば、工藤はだいぶ前から湊たちに救いの手を差し伸べていた。

 誰かの力を借りず、自分たちだけで生きようと無謀にも思い込んでいた、幼く愚かな自分。

 湊がもっと早く行動に移していれば、成政家で一人耐えていた時間を、朔良と一緒に笑い合えた時間に変えられたかもしれない。

 自分はどれほど無駄な時間を費やしていたのだろう? それを計ることは出来ないが、その時間を取り戻すためにも、今ここで変えなければいけない。この願いが自分だけのものではないと、ようやく分かったのだから――。

「朔良。俺もこの願いは絶対に叶えたい。だから工藤さんに相談してみよう。その結果、工藤さんに迷惑を掛けることになるけど……でも俺たちの味方だと言ってくれた工藤さんなら、何かアドバイスをくれるはずだ」

 朔良から少し体を離した湊は、抱きしめていた手を朔良の両肩に添えた。そして柔らかく笑むように、目を細める。

「俺たちは、誰かに頼る強さを持とう」

 まっすぐに見つめられた湊の目とその言葉に息を呑んだ朔良は、泣きそうに顔を歪めながらもしっかりと頷いた。


 周りはすっかり夜の空気に包まれていた。寒くはないが、少し涼しさを感じる。

 あれから二人を残して立ち去った弌夜は、自分の家へとけだる気に足を歩ませながら、残してきた二人のことを考えた。

 ――成政湊なら上手くやるだろう。泉水の願いを聞き出し、その願いを叶えるために動くはずだ。

 朔良への愛情は誰よりも深い。大切な妹のために奔走するだろうことは、誰が見ても明白だった。

「結局、『荒療治』になったな……」

 結果的に工藤の言葉通りの攻略法を使って成功した形になり、弌夜は卓越した工藤の鋭い思索に感嘆した。

「伊崎くん」

 その相手に名を呼ばれ、反射的に弌夜が視線を向ける。

「お帰りなさい」

「どうも」

 湊が現れた時点で、何となく察しがついていた弌夜は「成政湊と一緒に来たんですか?」と訊ねた。

「ん~、家に帰ったら、珍しいことに湊くんが待っててさ――」

 工藤の話によると、いつも一緒に帰ってくる朔良が工藤の車に乗っていなかったので、訝しんだ湊が工藤から強引に聞き出し、弌夜と帰ってくると知った途端、自分が迎えに行くと言い出したそうだ。

「一人だと心配だったから僕が車を出したんだ。でも学校に向かっている途中で、立ち止まっている君たちを見つけた湊くんが、血相変えて車から下りて駆け出して行っちゃったんだよね」

 困ったように苦笑いを浮かべる。

「……よっぽど俺が嫌いらしいですね」

 げんなりしたように言う弌夜を、首を横に振った工藤が笑って否定した。

「湊くんは、伊崎くんだけは認めてると思うけど」

「…………」

 その根拠を聞こうと思ったが、弌夜は敢えてスルーした。

 朔良のことに関してはまだそこまで話が進んでいないし、湊の許可を得ないといけないというわけでもない。

 要は朔良の気持ち次第なのだから。

「朔良ちゃんと何かあった?」

 そして問われる。

「湊くんって視力良いから、何か見えたんだと思うんだけど?」

 思わせぶりな視線を向けられ、工藤に隠し事は無理だと弌夜は悟った。

 ――泉水と成政湊のことに関しては、すげぇ嗅覚持ってるな。

「工藤さん。あいつの泣ける場所、作って欲しいって言いましたよね?」

「? うん」

 小首を傾げつつも、頷き返す。

「泉水は不器用で、自分の思いを上手く伝えることが出来ない。それは工藤さんが言ってたように、押し殺すことが当り前になっていたからだと俺も思います。だけど伝える術を知らないわけじゃない。言える環境を整えてやれば、泉水もゆっくりと心を開いてくれる」

 弌夜が言うことは納得出来る。

 それは工藤が再三試してきたことでもあったからだ。しかし、工藤ではダメだったことでもあった。

「……そう、だね」

 少し寂しげに微笑む。

「でもその環境を整えられるのは、伊崎くんだけだと思う。僕にも湊くんにも作ることは出来ない」

 だからこそ弌夜に託した。弌夜になら出来ると確信して――。

「……」

 口調から何となく工藤の心中を察した弌夜は、隣に立つ工藤を横目でちらりと一瞥したあと、そのまま目を伏せた。そして「俺が……」と、ぽつりと話し出す。

「泣ける場所にならなくても良いんです。泣く場所は泉水が決めれば良いから。ただ泉水が辛い時や悲しい時、ちゃんと涙が流せるようになって欲しいと、そう思いました」

 笑いたい時に笑い、怒りたい時に怒り、泣きたい時に泣く――。これからは、そういった当り前の中で生きて欲しいと思った。

 そんなふうに思えるまで自分が朔良を好きになっていたことに、今さらながら気付かされる。

「やっぱり伊崎くんは、朔良ちゃんの特別だね」

「?」

「泣いて、くれたんだよね?」

「……はい」

 弌夜の返答に、工藤の表情がみるみるうちに嬉しげに変わる。

「良かった。僕が最後に朔良ちゃんの泣く姿を見たのは、孤児院で初めて面会した時だけだったから」

 朔良はそれから一度も涙を流していない。

 いや。もしかしたら泣いていたのかもしれない。工藤たちに気付かれないように……。

 引き取られたあと、朔良が湊に会いたいと言ったことは一度もなかった。自分は我慢するべきなのだと隠忍自重を貫いてきたのだろう。そのことを気付いていながらも、朔良から請われるまで工藤も動くことが出来なかった。

 でも、もう違う。心の鍵は弌夜が外してくれた。しばらくは躊躇うだろうが、今後は自分の思いを少しずつでも打ち明けてくれるだろう。

「ここからは工藤さんと成政湊に頑張ってもらわないといけません。俺は何も出来ない。泉水の力になってやって下さい」

 そう言って頭を下げる。

 自分如きが言える言葉ではないことも、工藤には言う必要のない言葉であることも重々分かった上で、それでも弌夜は言った。

 それだけ朔良に対する想いが強いという弌夜の意思表示でもあった。

「!」

 弌夜の下げた頭の上に突然手が乗せられる。その手はしばらく乗ったまま動かなかったが、そのあと、ぐりぐりと弌夜の頭を撫でた。

「任せて」

 そして頭から手が離れたと同時に、心強い言葉が返ってくる。弌夜はその手を追うように頭を上げ、工藤を見つめた。

「伊崎くんも、これからも朔良ちゃんの支えになってあげてね」

 工藤は、思い上がりで図々しい弌夜の発言に全く気分を害していなかった。むしろ嬉しそうに、にこにこと満面の笑みを向け、さらに朔良を託す言葉を投げる。

「朔良ちゃんが一番頼りにしているのは君だから」

 そう断言する工藤に、面映ゆそうに表情を歪めた弌夜は「はい」としっかり頷いた。


 「送っていく」と言った工藤の申し出を、「送られるほどの距離でもないので」と言って弌夜は断った。

 工藤に軽く頭を下げ自宅へと向かう弌夜の後ろ姿を見ていた工藤は、ふと朔良の方を優先して欲しいという弌夜の優しさが見えたような気がした。分かりづらいが、ちゃんと朔良のことを思い遣っている。そんな弌夜なりの配慮を工藤は気に入っていた。

「工藤さん。先程はすみませんでした」

 工藤に走り寄りながら、湊が本当に申し訳なさげに謝る。その後ろに同じような表情で朔良もいた。

 角を曲がった弌夜の姿が見えなくなった時、タイミング良く工藤の元に来た二人に思わず苦笑する。

「ほんとに驚いたよ、湊くん。いくら赤信号で止まっていた時だからって、急に車から飛び出したりしたら危ないよ? 今度からはしないこと! 良いね?」

「はい。本当にすみませんでした」

 深々と頭を下げる湊も猛省しているようだ。

 朔良が泣いているのが見えたからとはいえ、危ない行為だったことは湊も重々理解している。体が勝手に動いたから、とは言い訳にもならないだろう。

「取り敢えず家に帰ろう。それからゆっくり話し合おうか」

「……」

 姿勢を正した湊の目に、にっこりと微笑んだ工藤が映る。

 湊はハッとした。

 工藤は気付いている。帰宅してから、湊と朔良が何の話をするのかを――。そして湊と朔良が話しやすいように、人懐っこい笑顔で緊張を解した。これから話されるであろう内容を受け入れる用意や覚悟が既に出来ていることが、表情や言葉で窺える。

「……はい」

 泣きたい気分で一杯だった。工藤から注がれる慣れない優しさに、湊は戸惑うばかりだ。

 その優しさをどれだけ踏み躙ってきたのだろう? 差し伸べた手を取ってもらえなかった工藤はどう思っていたのだろう? そして、そんな自分たちをどんな気持ちで見守っていたのだろう?

 申し訳ない気持ちと深い感謝の気持ちが入り混じり、表情が少し歪む。それを悟られないよう、湊はさっさと車に乗り込んだ。

「さ、朔良ちゃんも車に乗って」

 まだ少し赤い朔良の目を見て、ほっと安心したように工藤が肩を落とす。そして満面の笑みを向けた。

「? 要人さん?」

「いや。ごめん。さ、乗って」

 不思議そうに小首を傾げる朔良に、謝りつつ乗車を促す。

 二人の乗った車は工藤の丁寧な運転のもと、工藤家へと走り始めた。

 それからしばらくして後部座席に座る二人をルームミラーでちらりと見やると、少し晴れやかな面持ちをしていた。

 その様子に工藤が顔を綻ばせる。

 工藤には出来なかったが、弌夜が上手に二人の背中を押してくれたのだろう。自分の力量不足に気分が沈みそうになったが、それでも二人が一歩前進してくれたことは素直に嬉しかった。

 そして帰ってから話されるであろう事柄について、とうに見当がついていた工藤は、ハンドルを操作しながら深慮した。

 二人にとって一番良い結果に繋がるように助力を惜しむつもりはない。それと同時に、成政の思い通りにさせたくないという自分勝手な私心も絡みついてくる。

「……」

 ――いや、一番に考えるべきは湊くんと朔良ちゃんのことだ。

 気持ちを落ち着けるように一つ深呼吸をする。

 それから密かな決意をした工藤は、ハンドルを握る手に力を込め、家へと車を走らせた。

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