見学会が終わってから二日が経った。その間、克生のクラスである三年C組には、弓道部への入部希望者が数人訪れていた。この休み時間にも、男子生徒が入部届を持って、克生の元に訪れたところだ。

 とても喜ばしいことではあるが、入部しても何人かは数日で辞めてしまう。自分に合うかどうかは入ってみなければ分からないことだ。故に新入生に限らず、入部して間もない退部希望者を、克生は無理に引き止めることはしなかった。

「か~つき! 何見てんの?」

 自分の机の上に並んだ数枚の入部届を見つめていた克生に、陽気な声が掛けられた。三年A組の赤坂だ。赤坂は克生の前の席の椅子に座り、にこっと問い掛ける。

「入部届」

「すっごい。こんなに入部希望があったんだ?」

「ま、半分は辞めると思うけどね」

「そうかもねぇ。あっ、そうだ。あれから泉水はどうなの?」

 急に話を変えられ、克生は困ったように眉根を寄せた。

 どう? と聞かれても、昨日部活を早退させてからまだ姿を見てもいない。三年と二年は階が違うため、廊下ですれ違うこともない。たまに移動教室で見掛ける程度だ。そんな状態で朔良の調子を聞かれても、何とも答えようがなかった。

「どうかな? 調子が戻ってると良いけど、こればっかりは泉水次第だしね」

「そっか。知事杯までには戻ると良いね……」

 精神的な問題は、後々まで引き摺りやすい。ふとしたところで、行射に影響をもたらしてしまうため、完全な払拭が望ましいのだが、それが出来るかどうかは本人次第だった。

「泉水の行射ってさぁ、綺麗だけど何かそれだけじゃないんだよなぁ」

「え?」

「上手く言えないけど、見てて気持ちが良い」

 にっこりと笑いながら言う赤坂の言葉には、克生にも頷けるものがあった。

 流れのある八節や迷いのない不動の心、的中の質――。全てが揃うと、克生でさえもずっと見惚れていたいと思わせる行射を見せることがある。多分、赤坂もそれと同じようなことが言いたいのだろう。

「それが見れなくなるのは、ちょっと寂しい、かな」

 言いながら、表情に陰を落とす。

 暗くなった赤坂の鼻を、克生が軽く中指で弾いた。

「いった」

 弾かれた鼻っ柱をさすり、赤坂が抗議の眼差しを向ける。

 それを受けつつ、克生はふっと笑った。

「大丈夫だよ。きっと」

 ――伊崎くんがいるから。

 根拠はないが、何となく克生にはそんな気がした。

「? 読めないなぁ。克生は」

 ふくれっ面をした赤坂だったが、克生と同じようにふっと笑った。


「おっ? 今日は早い」

 弓道部の顧問室に入った工藤が、入室後すぐ目に入った人物を見て、珍しげに言った。

「馬鹿言え。昨日も早かった」

「僕がいなかったからでしょ?」

 図星をつかれても、仁科は特に狼狽したりしない。

「顧問の務めはしっかり果たした」

「いつもそうしてくれると、ありがたいんだけど」

 やり切った感満載で言う仁科に工藤も呆れる。しかし、今日も早めに来ているということは、仁科なりに何かを思ったからだろうか?

「今日は四限目以降の授業がなかったからな。昨日以上に早く来てやった」

 ふんぞり返って偉そうに言う仁科に工藤が脱力する。心変わりを期待してしまった自分が憎い。

「あぁ、そう言えば、泉水はどうだ?」

 昨日のことを思い出した仁科が工藤に訊ねる。

「あ、そうだった。昨日は悪かったね。帰って来た時にはだいぶ良くなってたよ。今日の部活は大丈夫だと思う」

 仁科の真正面の椅子に腰掛けた工藤も、思い出したかのように礼を言った。

「……部活を早退してから家に帰るまでの短時間で、一体どんな気持ちの変化があったんだ?」

 心底怪訝そうに言う仁科に、楽しそうに笑った工藤は「さぁ?」と言葉を濁した。

「まぁ、浮上出来たんなら良いさ。あとは知事杯の方に焦点を向けてくれれば」

「伊崎くんが見に来るなら、知事杯でも結構良い行射出来るんじゃない?」

「……なるほど」

 含む工藤の言い方に、何かを察した仁科も呆れるように納得した。

「そういや、あいつも昨日部活見に来てたのに、いつの間にか消えてたからな」

 仁科の言葉に、工藤は微笑んだ。

 ――朔良ちゃんの心を占めているのは湊くんかもしれないけど、朔良ちゃんの気持ちに余裕を与えてくれるのは伊崎くんなのかもなぁ……。

 朔良に程良い息抜きを教えてくれる弌夜に、工藤も見習うべきところがあるかもしれないと思った。

「見学会の時、行射したお前の親戚。あれはお前が指導した奴だろ?」

「良く分かったね?」

「何年お前の行射見てると思ってんだ」

「でも、湊くんはほとんど独学っぽいけどね。あの子は見て盗むのが上手い子だから」

「ま、上達するには必要なスキルだな」

「本人が上達を望んでいるならね?」

「……」

 仁科はそこで一旦会話を止めた。そして少し考える素振りを見せる。

「……そういや、弓道部には入ってなかったんだったな?」

 相変わらず感が鋭い仁科に、工藤が小さく苦笑した。

「湊くんにとって弓道は、ただので終わってしまってるからね」

「きっかけ?」

「上達を望むまでの価値を見い出さなかったってこと」

 湊は弓道の腕を上げようとしていない。弓道に対する真摯な姿勢がないから、行射に心を感じない。行射で人を惹きつける朔良とは真逆である。故に湊の行射を見て弌夜が感じた、「正確だけど、綺麗じゃない」という言葉はあながち間違いではなかった。

「はぁ~ん。若いのに随分勿体ない生き方してんな?」

「そうかもしれないけど、それを決めるのは仁科じゃないだろ?」

「ま、それもそうだな。あっと、そうだった。この間の見学会で結構な入部希望者が来たらしい」

 急に話題を変えた仁科に若干振り回されつつも、「へぇ、良かったじゃない」と工藤が軽く返事をする。

 入部希望者が来ているのなら、見学会の目下の目的は達成されたと言えるだろう。

「鍛え甲斐があるよな」

「それ、真面目に顧問としての任務を遂行している人だけが口に出来るワードだと思うけど?」

 ニヤニヤとたちの悪い笑みを浮かべながら言う仁科に、工藤が呆れるように言い放つ。

「おぅ! いつも立派に完遂してんじゃねぇか」

「そうだね。いつも立派に職務怠慢を完遂してるよね」

 無駄に強い口調の仁科の言葉を、やれやれといったように工藤が冷たく受け流す。

「お前ねぇ……そこまで言う?」

「言わせてるのは仁科だからね?」

 さらに、間髪入れずに言葉を返す。

 仁科は不機嫌そうに顔を顰めたが、すぐ表情を戻した。

「去年は入ってすぐ五人辞めたな。今年はどれくらい残るかな?」

「何人でも良いよ。弓道が好きなら」

 あまり関心がないように言った工藤は、長机の上にあった県知事杯のリストを手に取り、選抜候補メンバーの欄に目を通す。だが、そのリストの紙越しに、真正面からじっと見つめる視線を感じた。

「……何?」

「いや。ずっと変わらねぇなと思ってさ」

「何が?」

「筋金入りの鹿

「学生の頃の仁科の異名と一緒だねぇ?」

「……」

 にこっと意味深な笑みを返され、仁科が顔を引きつらせる。

 こういうところも学生時代と変わらず、仁科は工藤に敵わなかった。

「さてと、僕はちょっと出てくる」

 そう言って椅子から立ち上がった工藤に、仁科が「おぉ」と間の抜けた返事とけだる気に手を振って送る。

 それをちらりと一瞥して小さく苦笑した工藤は、そのまま顧問室をあとにした。


 今日も午後の授業をサボっていた弌夜は、弓道場の壁を背凭れにして座り込んでいた。そして昨日の朔良の話を思い出す。

 朔良は自分の生い立ちを弌夜に話してくれた。でも、工藤の言う『一番肝心なこと』は聞けていない、というか朔良本人からは聞けないと思う。

「……」

 髪をくしゃくしゃと掻いていると、「何か考え中?」と突然声が降ってきた。

 驚いた弌夜が反射的に頭上を見上げると、にっこりと笑った工藤が弓道場の窓から覗いていた。

 ――この間のデジャヴか。

 神出鬼没な工藤にげんなりする。

「サボり?」

「……何か?」

「ううん。何も」

「……」

 ――あいつに似てる。

 弌夜は思った。

 工藤は教師ではなく弓道部の師範だ。だからこそ弌夜がサボっていることに対して、口出ししようとは思っていないのだろう。

 とは言え、常識的な大人の対応でないのは確かだ。でもその反応は朔良と似ていた。

「あのさ。そこじゃなくて、場内に入らない?」

「何で?」

「ちょっと話したいから」

 口調の中に有無を言わせない響きがある。

 別に抵抗する気もなかった弌夜だったが、それでもあからさまな溜息を吐いて腰を上げた。

 渋々ながらも動いた弌夜に、工藤は楽しそうに小さく笑った。

「座席があるから二階で話す?」

 弓道場に入ってきた弌夜に、二階席を指しながら工藤が訊ねる。

「別にどこでも」

 指差された二階席にちらりと視線を投げたものの、話が出来る環境であれば弌夜はどこでも良かった。

「じゃあ、ここで良いか。……朔良ちゃんのこと考えてた?」

 床に座った途端、唐突に切り出してきた工藤に、怯むことなく「まぁ、少し」と呟くように弌夜が答える。

「話、聞けた?」

「あれが全部かどうかは分からないけど、多分……」

「そう。良かった」

 工藤は柔らかく微笑む。朔良に対する愛情が見える頬笑みだ。

「泉水の義理の兄貴なんですね」

「まぁ、兄らしいことは何一つ出来てないけどね」

 工藤がそう言って、今度は苦笑する。

 だが弌夜が思うに、朔良の目は工藤を兄として敬っていた。まだ遠慮している節は見受けられるが、二人が本当の兄妹だと言われても何の違和感も感じない。それは二人の関係性が、兄妹として成り立っているからではないだろうか? 工藤が朔良の兄として立ち振る舞えているという、何よりの証拠だと弌夜は思った。

「朔良ちゃんは人の顔色を窺うことが相当長けている。それは今まで歩んできた人生の中で培われてきた、朔良ちゃんの処世術なのかもしれない。でも今は、それが朔良ちゃんの欠点になっているように僕は思うんだよね」

 朔良のことを話す工藤の口調は少し寂しそうだ。

「敏感に感じ取ってしまうから、誰に対してもあと一歩を踏み出すことが出来ない。今まで押し殺してきた感情は、今でも当り前のように押し殺してる。頼ることを無意識に避けてる。工藤家ぼくたちに対しても、ね」

 工藤の話を黙って聞いていた弌夜は、ふと不思議に思い小首を傾げた。

「? でも昨日……」

「そう。だから昨日、伊崎くんと一緒に帰ってきたのを見て少しびっくりしたよ。朔良ちゃんからお願いされた?」

「はい。部活を見に来て欲しいって……」

 頷く弌夜を見て、工藤が嬉しそうに目を細める。

「朔良ちゃんからお願いされるって本当に貴重だよ? それだけ伊崎くんが特別なのかな?」

 にっこり笑う工藤に、弌夜が怪訝そうに眉根を寄せた。

「特別に思われるようなこと、したつもりはないけど」

「伊崎くんにはなくても、朔良ちゃんにはそう思う何かがあったんだよ。でも、僕にも少し分かるかな? 朔良ちゃんの気持ち」

「?」

「朔良ちゃんのこと、どう思ってる?」

「!」

 ――好きか嫌いかを訊ねているのだろうか?

 弌夜は工藤を凝視しながら、黙考した。

 これは、未だ弌夜の中ではっきりとした答えが出ていない難問だ。ただ真剣な眼差しで訊ねる工藤に、正直に答えなければいけない雰囲気を感じた。誤魔化すような言い方は、きっと受け入れない。

「好意は持ってます。弓道じゃなく泉水に興味を持ち始めたことも、泉水のことを知りたいと思ったのも今までになかった。それが恋愛に結びつくのかは、まだ分からないけど」

 ぽつりぽつりと話す弌夜の言葉に、工藤は声を出さず軽く相槌を返す。

「昨日、泉水の話を聞くまではまだ迷ってたんです。昔から面倒事は嫌いだったし、そういうのから避けてきてたから。それに、俺なんかが立ち入って良いのかも良く分からなかった」

 ――聞いても俺には何も出来ない。

 言外に含む弌夜は、少し視線を落とした。

「でも、昨日泉水が言ったんです」

『伊崎くんしか、思い浮かばなかった』

 工藤がいないことで調子を立て直すことが出来ないと言った朔良は、その代理が俺でも良いのかと訊ねた弌夜にそう言ったのだ。

「その時の感情が、俺の答えなのかもしれない」

「嬉しかった?」

 にっこりと問う工藤に、俯いていた視線を上げた弌夜は隣にいる工藤を横目で見たあと、バツが悪そうにすぐに逸らした。

「泉水の兄貴の代理なんて、そうそう出来ることじゃない」

 工藤にしても湊にしても、朔良に対する想いは深く、それを朔良もちゃんと分かっている。そんな深い繋がりのある兄たちの代理なのだ。

「……嬉しくないわけがない」

 弌夜の言葉は、ソッポを向いていてもしっかり工藤の耳に届いた。

 嬉しそうに笑った工藤は、安堵したように「良かった」と呟く。

 ――伊崎くんは、朔良ちゃんのことを全て受け入れる覚悟が出来てる。

 そして、おもむろに話し始めた。

「二人が育った孤児院の院長先生に聞いたんだけど……湊くんと別れる時、朔良ちゃん笑ってたんだって」

 辛い時ほど笑うことで耐えていた。そんな朔良の心情を思うと、遣る瀬無い思いで工藤は胸が満たされる。

「でも朔良ちゃん泣いてたよ。湊くんとお別れになるって知らされた時から、多分ずっと……」

 笑っていたかった。最後の最後まで―――。

「…………」

 何となく分かる、弌夜は思った。

 朔良の性格ならそうだろう。湊を気遣うことを最優先にして、「一緒に行きたい」という言葉を呑みこんで、自分の感情は心の奥底にしまい込む。

 弌夜には、幼い頃の朔良を容易に想像することが出来た。

「辛い時に笑うのも泣きたい時に笑うのも、自分のためじゃなく、周りの人のために何が出来るか考えて出した、朔良ちゃんなりのなんだ。それが間違っているとは言わない。笑うことで朔良ちゃん自身を救ってきたこともあると思うから」

 そう言うと、工藤は少し寂しそうに目を伏せた。

「朔良ちゃんが本気で怒って、喜んで、泣いて、笑って……それが自由に出せる居場所を作ってあげたいってずっと思ってた。工藤家でそれが作れたらって。それこそ本当の兄妹みたいにケンカだってしたかったんだよ?」

 ふっと笑った工藤だったが、すぐに表情を改めた。

「でも、多分……僕らじゃダメなんだ」

「僕ら?」

「僕を含む工藤家も、湊くんを含む成政家も、朔良ちゃんに近過ぎるんだ。朔良ちゃんの出したの中にいる」

 なるほど、と心の中で弌夜は納得した。

 朔良の境遇を知っている近しい人の中では、朔良は自分よりも相手を優先してしまう。どんな時でも、自分の気持ちを押し殺す方を選択するのだ。

「でも伊崎くんは違う。僕らより距離は遠くてやや無関係に近いけど、今の朔良ちゃんにとっては、一番言いやすい人なんだと思う」

 言いやすい? 弌夜は首を捻る。

「だけど、俺よりももっと妥当な人いませんか? 例えばこの弓道部の主将とか。付き合いの長さで言えば、そっちの方がまだ言いやすいんじゃ?」

「克生のこと?」

 工藤が聞き返すと、弌夜が軽く二~三回頷く。

「そうだな。克生は人との間の取り方が上手いからね。自分から聞くことはしないと思うけど、朔良ちゃんが話してくれれば聞く準備は出来てたと思う。弓道部の主将で先輩でもあるしね。でも、朔良ちゃんが話さなかったということは、多分違ったんだと思うよ?」

「違う?」

「自分のことを話す相手が、克生じゃなかったってこと。それに付き合いの長さは、あまり関係ないと思うよ? だって朔良ちゃんが選んだのは、伊崎くんなんだから」

「……」

 にっこりと言う工藤に、弌夜は少し考え込んだ。

 弌夜の言う通り、付き合いの長さで言ったら克生になるかもしれない。大会でも常に射手メンバーに選ばれる二人は、部活中であれば距離は近いし、頼れる先輩なのは端から見てても良く分かるから。

 それでも朔良は、工藤の代理が弌夜しか思い浮かばなかったと言った。それは同じ弓道部の主将である克生ではダメだったということに他ならない。

 そこまで考えて弌夜は自分の前髪をくしゃっと乱した。

「俺のどこが良かったんだか」

 ぼそっと呟いた弌夜に、工藤が忍び笑いをする。

「さぁ? それは朔良ちゃん本人に聞いてみないと分からないね。でも伊崎くんは、朔良ちゃんのこと良く分かってると思うよ?」

 横目で工藤を見やる弌夜が、怪訝そうに眉根を寄せた。

「不調だった朔良ちゃんの行射を見て、朔良ちゃんに合った的確な指摘が出来るのは、伊崎くんだけだと思うから。僕や仁科には多分無理だね」

 そう言われても、的確な指摘が出来ているのか弌夜には全く分からなかった。その時自分が思ったことを朔良に言っていただけだ。それを朔良がプラスに受け取り、自分の行射に活かしたに過ぎない。

「俺じゃないと思う。泉水の受け取り方が上手いんです」

「う~ん。まぁ、伊崎くんには弓道の知識がないから、もしかしたらそうかもしれない。でも、そこから朔良ちゃんがヒントをもらってたことは事実でしょ? だったら、やっぱり伊崎くんのおかげだよ」

 別に強く否定するつもりも、素直に受け取るつもりも弌夜にはなかった。でも工藤が言うなら、そう言う可能性もあるかもしれないと考えさせられた。

「なら、少しは俺も手助け出来たってことですか……」

 どこか安堵したように呟く。

「少しどころじゃないと思うよ?」

 そんな弌夜を見ていた工藤が、にっこりと笑った。

 不調だった朔良が平静を取り戻せたのは、明らかに弌夜の助言のおかげだった。その時、朔良に必要だった言葉を、弌夜は知らずに送っていたのだ。

 ――それを無意識にすることがすごいと思うけどね。

 心の中で思った工藤が苦笑する。そして表情を一変させると、弌夜に真剣な眼差しを向けた。

 気付いた弌夜も、それを受けて表情を改める。

「朔良ちゃんが今まで押し殺してきた感情の代償は大きい。抑えることをずっと当り前だと思ってきた思考を変えるのは、相当難しいことだよ」

「…………」

 それがお前に出来るか? と問われたような気がした。

 朔良の生い立ちを考えれば、自分の意見を言えるような状態じゃなかったことは明白だ。それで、自分の感情を後回しにする今の性格を築き上げた。

 一度身に付いてしまえば取り払うのは難しい。その年月が長ければ長いほど、より深く身に沁みついてしまう。

 ――泉水の場合も、きっと。……でも、多分違う。

「俺に言わせれば、別に変える必要ないと思いますけど。そういうとこ全部ひっくるめて今の泉水だから」

「……」

 今の朔良を築き上げてきたものを、否定しなくても良いと弌夜は思う。

 朔良には必要なもので、それが今までの朔良を支えてきたのだ。そして弌夜は、そんな朔良に興味を持ち好きになり始めた。それなら、それも大切な朔良の一部なのだ。

「それに、本人が変えたいと思った時に変えてからでも遅くないし、周りがどうこうする話じゃない……って、何ですか?」

 話している途中で、真横からじっと凝視されているのを不快に感じた弌夜が、工藤に抗議の眼差しを向ける。

「あ、ごめん」

 我に返った工藤が照れたように苦笑した。

「伊崎くんで良かったなぁと思って」

「何が?」

「朔良ちゃんの相手が」

「?」

 不可解そうな弌夜に、工藤が柔らかい笑顔を作る。

「朔良ちゃんのことよろしくね?」

 よろしくされてしまったが、自分と朔良の関係はまだそこまで達していない。

 どう答えようか、考え込んでいると。

「あの子が泣ける場所、作ってあげて」

「……!」

 続けられた工藤の言葉に、弌夜はハッと息を呑んだ。その口調から強く切願していることが見て取れる。

 それは工藤が作ろうとしてきたが、作れなかった場所だ。それが自分に作れるのかどうか、弌夜は分からなかった。だから約束することは出来ないと思ったのだが。

「伊崎くんには出来ると思うんだ。根拠はないけど、確信してる」

 ――どこからそんな確信を得たんだか。

 弌夜は少し呆れてしまった。それでも朔良が信頼する兄の工藤からそう言われると、本当に出来そうな気がするから不思議だ。

「……期待が過剰な気がしますが?」

「でも過剰なくらいじゃないと、伊崎くんは朔良ちゃん相手に気が引けてしまうでしょ?」

『俺なんかが立ち入って良いのか』

 そう言った弌夜の言葉を、工藤は聞き逃さなかった。

 ――朔良ちゃんはとっくに許可してるのにね?

 工藤が小さく笑う。

「僕は、朔良ちゃんも湊くんも二人とも大切なんだ。二人のためなら何でもするから、出来ることがあったら言って」

 本当に大事そう、と心の中で呟いた。工藤の穏やかな表情が、そう物語っている。

 実際の家族間でも絆が希薄になっている昨今で、工藤のように血の繋がりがなくても、大切に想ってくれる人がそばにいたことが、辛い道のりを歩いてきた二人にとって、一番の心の支えになったはずだ。

 工藤の存在は大きい。その想いの深さと心の広さに、二人はどれほど救われてきたのだろう。本物の兄妹以上に兄妹に見える。

「じゃあ、今日も一緒に下校しても良いですか?」

「!」

 過剰な期待が早くも功を奏したようだ。

 少し窺うような弌夜の言葉に、工藤はふわりと柔らかい笑みを浮かべ「もちろん」と快諾した。


 部活の準備のため工藤と別れた弌夜は、一度弓道場から出て、またいつもの場所に座り込んでいた。

 もうすぐ部活の時間になる。朔良もそろそろ弓道場に姿を見せる頃だろう。

 時間まで横になろうかと思っていた弌夜だったが、遠くから近付いてくる足音に気付き、音のする方に横目で視線を向けていた。

 弓道場は校舎から一番遠い位置に建っている。弌夜のいるところまでは、まずもって誰も来ないはずだ。来るとしても弓道場の戸口で止まるはず。

 だが、その足音はどんどん弌夜のいるところに近付いてくる。

「……」

 横目で弓道場の角を注視していると、その角を曲がって朔良が姿を現した。

「! 良かった。……いた」

 弌夜を見て、ほっとしたような安堵の表情を浮かべる。

 微かに目を見開いた弌夜は、自分を捜していたらしい朔良に、「何?」と無愛想に訊ねた。

「ここにいたから、安心した」

「…………」

 弌夜に近寄りながら小さく微笑む朔良を、弌夜は思わず凝視してしまった。

 俺がいるか確認しに来たのか……とそう思ったが、では何のために? と考えると疑問符が浮かんだ。

 今日はちゃんと工藤がいる。不調だったとしても、弌夜の手助けはもういらないだろう。弌夜を捜す理由が分からない。

「見学、する?」

 弓道場を指差し、朔良が訊ねる。

 弌夜は軽く一回頷くことで答えを返した。

「良かった。じゃあ、私先に行くね」

 そう言って踵を返そうとした朔良の手首を、座った状態で弌夜が掴んだ。

「もう、大丈夫なのか?」

 急に手首を掴まれたことで驚いた朔良だったが、無表情な弌夜の優しい問い掛けに、嬉しそうに頬を緩めた。

「うん。伊崎くんのおかげ」

 笑って言う朔良に、弌夜も安心したかのように手を離すと、「そっか」と小さく頷いた。

「じゃあ、中で待ってるね」

 そう言って、今度こそ朔良はいつもの弓道場の戸口へと向かった。

「……」

 朔良を見送ったあと、弌夜は朔良の手首を掴んだ自分の手をじっと見つめた。無意識に動いてしまうほど、朔良のことが気になっていたらしい。

 はぁ~っと長い溜息を吐いて、弓道場に入るため腰を上げる。

 ふと開いている窓から場内に視線を流すと、ちょうど朔良が戸口から入ってきたところだった。

 昨日とは違って晴れやかな表情をしてはいるが、完璧には払拭出来ていないはずだ。根本的な解決は、何一つしていないのだから。良くも悪くも朔良に影響を与えるのは、いつでも湊ただ一人だ。

「あいつの泣ける場所は、俺のところじゃない」

 朔良の中心にはいつも湊がいる。ちょっと事情を知っているだけの弌夜が割り込んできたところで、それが覆ることは絶対にない。

 長年離れていてもお互いのことを想い合っている兄妹に、つい最近知り合った弌夜が入る隙なんてあるわけないのだから――。

 そう気付いた弌夜は、不思議と落ち込まされた。途端に弓道場に入る気も失せ、またその場に座り込む。そのまま壁に背を預け、顔ごと視線を空に向けた。

「きっと、今、泉水に必要なのは湊だ。成政湊だけが、泉水の心の重しを取り除くことが出来る」

 でも工藤の言う通り、湊自身が動いても何も変わらないのだろう。感情を表に出すことを不得手としている朔良は、当事者である湊の前ではなおさら本音を隠してしまうはずだ。

 吐き出せない朔良の心の声を、湊に届かせるには?

 スタンッ……スタンッ

 耳に心地良い矢の的中音を聞きながら、弌夜は空を見つめていた目を閉じた。


「……き、くん。伊崎くん」

 どのくらい経ったのか、しばらく目を閉じていた弌夜に、誰かが声を掛けてきた。

 眠っていたわけではないが、目を閉じて考え事をしていたため、その声掛けに対して反応が少し遅れる。

「どこか具合悪い?」

 続けて心配そうに問い掛けられ、弌夜はやっと目を開けた。ぱっちりと開いた視界の中に、弓道衣姿の朔良が映る。

「……いや」

 中腰姿勢で心配そうに顔を覗き込んでいる朔良に、弌夜が壁に預けていた背を少し前に倒した。

「部活は?」

「まだやってるけど……」

 朔良が弓道衣姿なのでまだ部活中なのは分かるが、何故ここにいるのか弌夜は疑問に思った。

「射場に伊崎くんがいなかったから、どうしたのかと思って」

 朔良は心配気な表情を浮かべている。

「心配掛けたのか。悪い」

 弌夜が素直に謝る。

 朔良は、部活開始直前まで弌夜と話をしている。見学に行くと言っていた弌夜が、場内にいないとなると心配するのは当然かもしれない。

「……ううん」

 謝られた朔良も、少し驚いたように頭を振った。

「もしかして疲れてるの?」

 弌夜の隣にしゃがんだ朔良が、小首を傾げて訊ねる。

 弌夜は朔良の顔をじっと見つめながら、確かにそうかもしれない……と心の中で頷いた。

 今まで経験したことのないことに神経を使っているため、精神的に疲弊しているのだろう。ただ、やはり苦には感じていなかった。

「あの……伊崎くん?」

 朔良が少し赤面しつつ、弌夜の名を呼ぶ。

 凝視していた弌夜は、朔良の表情で我に返った。見つめ過ぎたようだと気付いたが、弌夜は視線を逸らさない。

 さらに頬を染めた朔良の方が、堪らず弌夜から視線を逸らした。

「やっぱり、今日はもう帰った方が……」

「泉水」

 いつもと様子が違う弌夜を気遣い、帰宅を促した朔良だったが言葉を遮られた。

 名を呼ばれ、逸らしていた視線を弌夜に戻すと、先程とは違い真剣な眼差しで朔良を見つめる弌夜と目が合った。

「待ってるから、一緒に帰ろう」

「え?」

「泉水の兄貴からは許可もらってるから」

 この場合の兄貴とは、いつも一緒に帰っている工藤のことだろう。

 自分の知らぬところで下校の許可をもらっていることに少々驚く。そして弌夜が何故その許可をもらったのか、朔良は気になった。

「ここで待ってる」

「……弓道は、見ないの?」

「泉水、もう大丈夫だろ?」

 ――俺が見てなくても。

「…………」

 弌夜の言外に含まれている言葉に、朔良は目を見開き小さく息を呑んだ。自分がひどく寂しい気持ちになっていることに気付き、俯いてしまう。

 確かに弌夜は弓道に興味を持っていなかった。でも最近は、朔良の行射を見るのが楽しいと言っていた。そう言ってくれたのが朔良は嬉しかったのだが、今はその気持ちすら消えてしまったのだろうか?

 朔良は切な気に目を細め、地面を見つめた。

 急に黙り込んだ朔良の気持ちを察した弌夜が、朔良の額に人差し指を当て軽く上向かせる。

「もしかして、見てて欲しいのか?」

「!」

 意外そうに訊ねる弌夜と目が合った。弌夜の逸らさない視線が、朔良の返事が気になっていることを物語っている。

 弌夜から見据えるように見つめられ、朔良は困惑した表情で視線を逸らした。朔良の頬が少し赤く染まる。そして思考をフル回転させた。

 見てて欲しいのか? と問われれば、見てて欲しいと思うのが朔良の正直な胸の中だ。弓道に興味はないと言っていた弌夜が、自ら見に来るまでになっているのだ。出来ればそのまま弓道を好きになってもらいたい。それは朔良のエゴかもしれないが――。

「伊崎くん、言ってくれたよね? 私の行射を見るのは嫌いじゃないって」

 朔良が弓道に対して、どういう姿勢で臨んでいるのかから、見てて飽きないと、弌夜はそう言った。

「それが嬉しかったの。行射の善し悪しじゃなく、私の弓道に対する姿勢を、行射を通じて見ててくれたのが嬉しかった」

 朔良が目を細め、口元に微かに笑みを浮かべる。

「もし伊崎くんが弓道を見たくないって思っているなら、私は何も言えないんだけど……」

「けど?」

 小首を傾げ先を促す弌夜に少し躊躇った朔良だったが、やがて意を決したように弌夜を見つめ返した。

「伊崎くんに見てて欲しい」

「……」

 やはり朔良に特別視されるのが、弌夜は嬉しいらしい。

 他の誰でもない自分に見に来て欲しいと言われれば嫌な気はしないだろうが、朔良の言葉で思いもよらず浮かれている自分がいることに弌夜は気付いた。

 ――好きってこういうこと、か。

「分かった」

 小さな溜息とともに呟く。そして、朔良の頭に軽く手を置いた。

「泉水が見に来るなって言うまで見に来てやるから、早く中に戻れ」

「ほんとに? 無理、してない?」

 頭から弌夜の手が離れ、朔良が上目遣いに訊ねる。見に来てくれるのは嬉しいのだが、無理強いさせるのは嫌だ。

「無理するようなタイプに見えるか?」

 ――正直見えない。

 でも弌夜の性格は一言では言えないような気がする。一見すると、無愛想で全ての物事に対し無関心に見える。生徒などの言葉を拾い集めれば、輪を掛けてマイナスイメージを持たれてしまうのも否めないだろう。確かにそれも弌夜の持っている一面なのかもしれないが、それだけではない。何に対しても誰に対しても左右されることなく、自分の持っている意見を率直に言える強さがある。だからといって決して独善的なわけではない。弌夜のイメージが邪魔をしてしまっている部分が多大にあるが、威圧的な言葉を使うことはなく、相手の意見を尊重する姿勢もちゃんとあった。その中に弌夜なりの優しさを感じる。

 朔良にはないもので、だから余計弌夜に惹かれるのかもしれない。そんな弌夜に、朔良は何度も助けられたのだ。

「……」

 考え込む朔良を見て、弌夜は悟られないよう忍び笑いした。

 悩ませるつもりはなかったのだが、朔良が難しい顔をして真剣に考えているのが、妙に楽しく感じた。だが、これ以上悩ませるのは可哀そうだ。

「無理なんかしてないから、早く戻れ」

 自分がした質問に、朔良より先に答えた弌夜はふっと小さく笑った。

「……!」

 その弌夜の微笑を正面から受けた朔良は、驚いて思わず凝視してしまった。滅多に見せないその表情に魅入ってしまう。些細な表情一つで、弌夜との距離が少し近くなったような気がするから不思議だ。

「? どうかしたか?」

「あ、ううん……!」

 そう答えたところで、ふと鼓動が速くなっていることに朔良は気付いた。そしてそっと左手を胸に当てる。バクバクしている心臓の音が、弌夜にまで聞こえそうだ。

「泉水?」

 眉根を寄せ、弌夜が朔良の顔を覗き込むように訊ねる。

「な、何でもない。え……っと、じゃあ、中に戻るね」

 気恥ずかしくなった朔良は、そそくさとその場を去った。

 朔良の態度を不審に思いながら、弌夜はその背中を見送る。そして、朔良の姿が見えなくなってから腰を上げた弌夜は「で?」と言葉を発した。

「いつまで聞いてるんですか?」

 立ち上がった弌夜が、呆れたような溜息とともに問い掛ける。

「やっぱりバレてた?」

 弓道場の壁を隔てたそこに姿を現したのは工藤だった。

「泉水は気付いてなかったみたいですけど」

 こんなに頻繁に同じような場面があれば予想ぐらいはつく。工藤はいつもそこから、弌夜と朔良に声を掛けてきていたのだから。

「朔良ちゃんのあんな顔、初めて見たよ。伊崎くんの前だから、かな?」

 弌夜に背を向けるようにして弓道場内の壁に背を預けた工藤は、どこか寂しそうに、でもどこか嬉しそうに微笑む。

 そんな工藤の視界に、弓道場に入ってきた朔良が映った。射場に入ってきた朔良はその場に立ち止まり、少し紅潮した頬を両手で挟んでいる。多分、頬が火照っているのに気付いたのだろう。それから場所を移動させ、射場の隅で数回深呼吸を繰り返すと、自分の弓具を手に持った。

「朔良ちゃんが待ってる。そっちからで良いから、早く入っておいで」

 裏の戸口を指して工藤が促す。

「……はい」

 弌夜も素直にそれに従った。

 スタンッ……スタンッ

 弓道場では相変わらず小気味良い音が響いている。

 それを横目で見つつ、矢取り道を通った弌夜は工藤のところまで歩み寄った。

「朔良ちゃんを動揺させることが出来るのは湊くんだけだと思ってたけど、いつの間にか伊崎くんにも出来るようになってたんだね」

 腕組みをして朔良の行射を見ていた工藤が、隣に並んだ弌夜をからかうようににっこりと微笑む。

 それを見て、弌夜がげんなりと面倒臭そうに顔を顰めた。

「伊崎くん相手だと、普段とは違う朔良ちゃんの顔が見られるから嬉しんだよね」

 そう言う工藤の顔は本当に嬉しそうだ。工藤が見つめている朔良は、今まさに行射しようとしているところだった。

 スタンッ

 的の中心より、やや左の方に矢が中る。

「まだ気になるけど、もう少し練習すれば射癖は改善出来るかもしれないな。伊崎くんは今のどう思った?」

 突然話をふられ、弌夜は若干考え込んだ。

「……その、射癖云々は良く分からないけど、泉水の行射はやっぱり好きです」

「そう」

 隣で柔らかく微笑む工藤を、神妙な面持ちで弌夜が見つめる。

 何か言いたげな弌夜に気付き、工藤が視線を合わせることで話を促した。

「ほんとに……相手が俺で良いんですか?」

「それは伊崎くんの中で、答えが固まったってこと?」

 弌夜の質問には答えず、工藤が窺うように質問返しする。

「慣れない感情だったんで、認めるのが遅くなりましたが」

 それは朔良に対して抱いている感情に、弌夜が名前をつけたという告白だった。

 朔良といると穏やかになる自分に気付いたり、朔良が頼ってくることに嬉しさを感じたりする自分がいる。これまでの弌夜だったらこんな感情を抱いたりはしなかった。でも恋愛感情だと自覚すれば、全てに説明がつく。

「そう。僕は朔良ちゃんが決めた相手なら、大丈夫だと思っているよ」

 微笑みながら弌夜の質問に答える。

 弌夜の気持ちを正確に確かめたかった工藤にとって、さっきの言葉は待ちわびたものだった。そしてそれが工藤の欲する言葉だったことに、嬉しさを隠せない。

「その相手が伊崎くんなら、もっと安心するかな」

 付言された工藤の言葉に瞠目した弌夜は、少し照れ臭そうに顔を顰め工藤から視線を逸らした。前髪をくしゃっと乱し、照れてる顔を隠す。

「でも多分、伊崎くんにとっては湊くんが難関かもね?」

「あ……」 

 確かにその通りだ。この間のように、突っかかられたりする可能性は大いにある。

「湊くんは、朔良ちゃんに関してだけはすごい過保護だから、攻略するのは骨が折れるかもしれないけど……でも、そうだな」

 工藤は目を伏せ少し黙考したあと、再び口を開いた。

「湊くんの守り方は僕とは違うから、正攻法は通用しないかもしれない」

「正攻法?」

「僕みたいに正面から言っても伝わらないと思う。自分が信用しない相手には絶対に警戒心を解かないし、それが朔良ちゃんのこととなったら、尚更……」

「分かります。この間、すごい敵意剥き出しで詰め寄られましたから」

「あ、やっぱりそうだったんだ?」

 湊を学校まで送った日、工藤を待っていた湊が弌夜と話をしているのを見て、工藤も不穏な雰囲気を感じていたらしい。

「まぁ、湊くんの心を開かないと、伊崎くんに対してずっと警戒心は持ち続けるだろうね」

 ――厄介だ……。

 弌夜は心の中でぼやいた。

 警戒心を抱かれている相手に、何をどう言えば弌夜の気持ちが伝わるのだろうか?

「でも湊くんと朔良ちゃんは似てるよ。だから朔良ちゃんを落とせる伊崎くんになら、湊くんの心の扉を開けることが出来ると思う」

 弌夜は、穏やかに言う工藤をちらりと一瞥し、簡単に言ってくれる……と再び心の中でぼやく。

 正確に言えば、現時点ではまだ朔良でさえ落とせていない。そんな弌夜にとって湊はハードルが高過ぎる。

「ヒントを上げるとするなら……荒療治が良いかもしれないね。湊くんは朔良ちゃんみたいに素直じゃないから」

「……性格、曲がりまくってるってことですか?」

 呆れるように言う弌夜に、工藤はふっと苦笑したが、その表情に切な気な色が混じる。

「少し、ニュアンスが違うかな。湊くんの場合は、性格を曲げることで自分や朔良ちゃんを守ってきたのかもしれない」

 工藤の言葉にしばらく黙考したあと、弌夜はおもむろに口を開いた。

「あいつを引き取った成政って、確かあなたの親戚ですよね?」

「親戚だと思いたくないけどね」

「…………」

 射場の床を真顔で睨みつける工藤を、弌夜は見逃さなかった。

 工藤がこんなに嫌悪感を露にするのは初めて見る。だが、それだけ成政家を忌み嫌っていることがひしひしと伝わってきた。

 ――なるほど。いつも穏やかそうなこの人にすら、毒づかせる何かがあるわけか……。

 それなら、性格を曲げなければいけなかったのも多少頷ける。

「まさか……監禁されてた、とか?」

「いっそのことそうしてもらえたら、強引にでも僕たちが介入出来るんだけどね」

 より一層毒舌になる工藤に、若干引いてしまう。よほど成政家が嫌いらしい。

「湊くんは金銭面では何不自由なく暮らしているはずだよ。成政はセイツーグループの総元締めだからね」

「セイツーの?」

 小さく驚きの声を上げる。

 セイツーグループは、ニュースや経済に無関心の弌夜でさえ知っている大手企業だ。最近ではアミューズメントパークを手掛けるということで、ここ二~三日はテレビニュースでも頻繁に取り上げられていた。

 そんな大企業の養子なら確かに何不自由なく暮らせるだろう。だが、金銭面を強調した工藤の言葉には引っ掛かりを覚える。

「それに成政なら監禁なんて手は使わないんじゃないかな。するなら、もっと悪辣な手段を使って湊くんを縛りつけるような気がする」

「……」

 少々エグい話になってきた。

 ――成政湊のバックに、そんな大きな相手がいるとは。

 次第に大人の会話になりつつある話題に、弌夜もどこまで首を突っ込んで良いものか分からなくなってきた。しかし湊に関することは、全て朔良にも関することに繋がるだろう。湊を攻略するには、それら全てを考慮しないといけない。

「そんなに難しい顔、させるつもりはなかったんだけど」

 弌夜を見ていた工藤が、また苦笑した。どうやら黙考しているうちに険しい表情になっていたらしい。

「確かに容易にはいかないかもしれないけど、湊くん自身は全く変わらないよ? いつでも朔良ちゃんが一番」

「……」

 湊は朔良の前でだけは、いつも素直な顔を出す。朔良と一緒にいるのが幸せで堪らない……そんな柔らかい表情。

 湊に対してどんな荒療治が必要なのか、と考えていると「工藤師範」という呼び声が耳に届いた。

「! おっと、いけない。部活中だった」

 遠くから克生に名前を呼ばれ、今が部活中だったことを完璧に忘れていた工藤が我に返る。

 同時にハッとした弌夜も、目の前に意識を戻した。

「あ、そうそう」

 克生の元に向かおうとした工藤が、何かを思い出したかのように声を上げた。

「さっき伊崎くんがいなかった時、朔良ちゃん、一回矢を外したよ」

「……え?」

 驚く弌夜に、工藤がにっこりと微笑む。

「じゃあ。今日の帰りは朔良ちゃんをよろしくね」

 そう言って軽く手を上げた工藤は、弌夜から離れて行った。

 工藤の後ろ姿を見送ったあと、弌夜は視線を朔良に合わせる。

 弌夜は朔良が矢を外した瞬間をまだ見たことがない。不調の時でも的輪ではあるが中っている。

「ったく。そんなところ影響されてどうするんだ」

 呆れたように呟くが、自分が朔良に影響を与えるほどの人物になれていることが正直嬉しかった。

 照れ臭くなって若干頬が緩む。

 だが、悪目に影響させていては意味がない。自分の立ち位置をはっきりと朔良に伝えなくてはいけないだろう。

「……」

 視線の先に朔良が映る。先程工藤が言っていた動揺は一切感じられない。凛としている朔良の姿は弌夜の目に眩しく映り、やはり綺麗だった。

 ふいにちらりと壁掛けの時計を見やる。時間的に、これが今日最後の行射になるだろう。

 啜り足で射位まで歩んだ朔良は、流れのある綺麗な八節で矢を放つ。矢は見事な放物線を描き、小気味良い音とともに的の中心に中った。それは弌夜も思わず頷いてしまうほどの綺麗な行射だった。

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