7
成政家は地元でも有名な資産家だ。現在、会社や病院、ホテル経営など多くの事業を展開している。そしてそれを一手に担っているのが、成政が創設した『セイツーグループ』だった。
そのセイツーグループのトップが、代表取締役会長の
そして徹の息子・
湊が成政家に引き取られてから二週間が経った頃……。
その日、布団に入っても寝つけなかった湊は、水を飲みにキッチンへと向かった。
少しうとうとしながら廊下を歩いていると、途中にある書斎から人の話し声が聞こえてきた。
「どうして朔良さんも引き取らなかったんですか?」
「成政家には跡取りがいない。朔良ちゃんには悪いが、男の子を引き取るのは当然だろう」
何かの書類を選別しながら、由紀也は言い放つ。
「でも……この先、このことで湊さんとの間に亀裂のようなものが生じたら」
「ここにいて何不自由ない生活が出来るんだ。この環境に慣れてくれば自然と忘れる」
――ふざけたことを!!
一気に目が覚めた。朔良に対する想いを軽んじられ、腸が煮え返る。
「もし忘れることがなかったら?」
不安気な麻弥の言葉に、由紀也はイライラしたようにあからさまな溜息を洩らした。
「あの子が、引き取られた恩を仇で返すようなことをするとでも? もしそうなったら、その時に朔良ちゃんを家で引き取れば良い。今はそれどころじゃない。この話は終わりにしてくれ」
吐き捨てるように言った由紀也の言葉は、湊が成政家を裏切らないようにするための手段のように聞こえた。
――そんな理由で、人質のように朔良を利用しようとするなんて!
強く握り締める手が震える。
その怒りをどこにぶつければ良いのか分からないまま、湊は自室に戻った。そしてドアの前にドカッと座り込む。
成政に選ばれるために【朝陽】で頑張っていたわけではない。いつか朔良とともに過ごせる日を夢見て……その日のために湊は頑張っていたのだ。
知らぬ間に涙が頬を伝っていた。その涙は後を絶たず、ボロボロと零れ落ちる。
怒りで泣くのは初めてだ。それだけ由紀也の言葉は湊を激怒させた。しばらく両手で目を覆い、溢れ出る涙を零し続ける。
だが、湊はふと思った。
朔良を守る方法はある。
湊が成政に対して従順を装えば良いのだ。そうすれば、由紀也が朔良を引き取ることはない。
湊は涙を拭った。
――成政の思い通りにはさせない。朔良は絶対に俺が守る。
そう決めた日から、湊は気付かれないように徐々に言動を変えていった。心を開いているかのような態度を二人に見せる。表情はいつも明るくにこやかに。品行方正を心掛け、常に周囲に気を配る、優しい性格を作り上げた。由紀也の望む中学校に通い、学力も常にトップクラスをキープする。
湊は、『由紀也が望む息子像』を完璧にこなしてきた。
「湊さん。お聞きになりましたか? 妹さんが旦那様の遠縁の方に引き取られたそうですよ」
「……えっ?」
――成政の遠縁……?
そんなある日、この頃入りたてだった家政婦の
まさか、成政家が手を回して朔良を遠縁に引き取らせたのだろうか?
「あの、その方のお名前は分かりますか?」
「確か、工藤さんという方ですよ。この間お会いしましたが、とても優しそうなご夫婦でした。息子さんは隣町で弓道を教えていらっしゃると言っていましたよ」
「……そう、ですか」
にこやかに言われたが、湊の心中は穏やかではなかった。
成政家の息の掛った人物が朔良を引き取ったなら、これまで湊が努力してきたことが全て水の泡になってしまう。
いや……もしかしたら、最初から手を打っていたのか?
思い浮かぶのは最悪なものばかりで、焦燥感に駆られてしまう。
工藤がどんな人物なのか分からない。その上、湊には工藤を知る術がない。それでも、どうにかして朔良の今の状況を知りたかった。
そんな悶々とした日々を過ごしていた中、湊の通う中学校の弓道部に工藤という人物が師範として出入りしていることを耳にした。
弓道と工藤という二つのワード。
工藤なんてそんなに珍しい名前でもない。それに弓道を足しても、成政の親戚じゃない可能性は十分にある。
しかしこの時期に、タイミング良く現れるだろうか?
偶然、かもしれない。でも偶然ではないという一縷の望みに掛け、湊は一目散に弓道場へと向かった。
「本日より入部致しました。成政です。よろしくお願い致します」
一か八かの賭けのような心持ちで工藤に話し掛ける。
そんな湊に、優しげな笑みを向けた工藤は、さすがに察するのが早かった。
「よろしく。湊くん」
決定的な答えをくれた工藤に、成政家の人々とは違う雰囲気を感じ取る。
それともう一つ。
「成政が許さない?」
湊が朔良に会うことを戸惑った時、そう言って工藤が鋭く聞いてきたことに、成政寄りの人間ではないことを湊は悟った。むしろ、成政家のやり方を嫌っているかのような態度を見せた工藤に、好感を覚える。
――この人がいる工藤家なら、安心して朔良を預けていられる。
心底安堵し、朔良を引き取ってくれた工藤に感謝した。
「今日、工藤さんに会いました」
その日、学校から帰った湊は包み隠さず麻弥に話した。
自分の中学校に工藤が来ていることも、朔良のことを工藤から聞いていることも全てだ。
湊の話に麻弥の表情が少し引きつる。
朔良が工藤家に引き取られたことを黙っていたことが、後ろめたいようだ。
だがそんなこと、湊にはどうでもよかった。
「今度の土曜日、朔良に会いに行っても良いですか?」
その上で訊ねてみる。
別に断られても良かった。でも、断ることが出来ないだろうことも分かっていた。
今は湊の機嫌を損ねるわけにはいかないだろうから……。
「え……? え、えぇ。何時頃に帰られますか?」
戸惑いつつも許可した麻弥だったが、不安気な表情を惜し気もなく晒していた。
「遅くはなりません。夕飯までには帰り着くようにします」
湊も、麻弥の不安を煽るようなことはしなかった。正直に答え、かつ、成政家の人間であることを演技する。
――朔良だけは絶対に守る。
湊は決意に目を光らせた。
それから弓道部に入部した湊は、その腕をメキメキと上げていた。
弓道の基本姿勢や正確な行射は、人より少しコツを掴むのが上手い湊には、そこまで難しいものではなかった。
だが、湊は最初から弓道を続ける気はない。
弓道は工藤と繋がるための手段。湊の中では、弓道はまだ『不純な動機』のままだった。
「湊くん。ちょっと良い?」
そんなある日、部活が終わって帰ろうとしていた湊に、工藤が話し掛けてきた。
「はい?」
「お家まで送るよ。帰りながら話そう」
「いえ。そんな……」
「遠慮しないの」
若干命令口調の工藤に、困ったように眉根を寄せた湊だったが、ここは素直に頷き返した。
「正門で待ってて。車回してくる」
そう言って校内の駐車場車へと向かった工藤は、しばらくして湊のいる正門まで車で迎えに来た。そして助手席のドアを開け、湊に乗るよう促す。
一瞬戸惑ったが、湊は工藤の車に乗り込んだ。
工藤の運転は性格を表しているかのように、丁寧な運転だった。前が空いていてもスピードを出すことなく、一定の速度で走っている。だからといって遅いというわけでもない。絶妙な速度だ。多分、長時間乗っていても酔うことはないだろう。
そんな快適な車中で工藤の話が気になっている湊は、そわそわと落ち着かなかった。乗車してから数回、ちらちらと工藤を盗み見ている。
「成政さん家は車ですぐだから、本題に入るね」
運転中、湊の視線に気付いていた工藤が、苦笑して話を切り出した。
「湊くん。成政さん家は居心地が良い? 悪い?」
「……」
唐突に訊ねられ目を丸くした湊は、思いもよらない本題に言葉を失ってしまった。どう答えれば良いのか迷い逡巡してしまう。
しかし湊が即答しなかったことで、工藤はその答えの見当がついたようだ。
「正直に答えて良いよ? 僕は成政さんが嫌いだから大丈夫」
「……え?」
反射的に顔を上げた湊は、驚きながら工藤を見つめた。
言葉に反して、笑顔で言い放った工藤に、湊はさらに困惑する。
「今は湊くんの義理のご両親になるから、こう言うのは何か申し訳ないんだけど……僕は昔から成政さんが嫌いだった」
「あ、あの、その理由をお聞きしても……?」
温和な性格をしている工藤が、人に対してこんなにはっきりと好き嫌いを言うとは思えなかった。どちらかというと嫌いな態度をオブラートに包み、嫌っている相手にもその周囲にも気付かれることなく、上手く隠し通すような印象がある。
だからこそ、湊はその理由が知りたくなった。
「……嫌な話を聞くことになるよ? それでも?」
そう前置きをする工藤に、湊が話の内容を想像してみる。
工藤がそう言うのならば、本当にそうなのだろう。きっと覚悟をして聞かなければいけないことになる。
それを加味した上で湊はコクリと頷いたのだが、その反応を見た工藤は、切な気に目を細めたあと、ふっと湊から視線を逸らした。
あまり言いたくない話題だったようだ。
なかなか口を開こうとはしなかったが、それでも無言で待っていた湊に観念したのか、工藤はようやくその重い口を開いた。
「由紀也さんと麻弥さんの間に、息子さんがいたことは知ってる?」
「……え?」
初耳だった。湊はそんな話を今まで聞いたことがない。
由紀也と麻弥が故意に隠していたのだろうか?
半ば呆然としつつ頭を振った湊だったが、ふと引っ掛かりを覚えた。
「息子さんが、いた?」
眉間にしわを寄せ、過去形の言葉に小首を傾げる。
「
運転している工藤の表情が少し陰った。
「ずっと闘病中で入院してて、頑張ってたんだけどね。湊くんが引き取られる二カ月ほど前、だったかな? ……亡くなってしまったんだ」
寝耳に水の話に、湊も動揺する。
――子供がいた? その子供が亡くなってしまったから、俺を引き取った?
「小さい頃から仲が良かったから、僕も何回かお見舞いに行ってたんだけど……ある時、顕人くん、こう言ったんだよね」
『要人お兄ちゃん。僕は何のために頑張ってるのかな? もう……分かんなくなっちゃった』
工藤の表情がさらに曇る。
「十二歳の子供が目に涙を溜めて、それでも笑ってそう言ったんだ。どこでそんな泣き方覚えたのか」
何もかもを受け入れているような大人びた表情が、工藤には痛々しく見えた。
「あの……もしかして、治らない病気とかだったんですか?」
「うん。確かに難病に罹っていたけど、それでも顕人くんはその病気と闘うために、薬の副作用にも耐えて、毎日のリハビリも頑張っていたんだ。それなのに、どうしてそんな言葉が出てきたのか……僕には何かあったとしか思えなかった」
治らない病気。
十二歳で、それでも闘うと思えるようになるまで、どれだけ悩み、どんなに苦しんだだろう? 受け入れるには、相当な覚悟と勇気が必要だったはずだ。
その努力を無にするような、そんな残酷な何か?
「でもそれは、お見舞いの回数を重ねれば自然と分かった。いつ行っても、由紀也さんと麻弥さんの姿はなかったから」
「……それ、どういうことですか?」
聞き捨てならない言葉に、湊が険しい表情で問いただす。
赤信号で止まった工藤は俯いて一つ溜息を吐くと、「ちょっとコンビニに寄って良い?」と目の前にあったコンビニを指差した。
成政家はもう近い。このままでは話も中途半端で終わってしまうだろう。それを察した湊も、「はい」とすぐさま返事をした。
青信号で発進した車をコンビニの駐車場に止める。エンジンも止め、また溜息を一つ吐いてから工藤が重い口を開いた。
「最初の日だけだったんだって。顕人くんのお見舞いに来たの」
寂しげに呟くように答えた工藤の横顔を、湊は凝視してしまった。顕人の心中を思うと、遣る瀬無い思いが込み上げる。
今の自分より一つ下の顕人は、そんな両親のことをどう思っていたのだろう?
「その当時、家政婦だった
「どうして、お見舞いに来なかったんですか?」
「ちょうど事業を拡大しようとしていた矢先のことで、そっちに回ってたみたいだよ。自分の息子を後回しに出来る事業って何だろうね?」
工藤が悔しげに顔を歪める。
「……顕人さんは、どんな思いで病院のベッドで亡くなったんでしょう?」
難病を乗り越えようと努力していたのに、それをそばで一番支えて欲しかった人たちに見放された顕人は、病室のベッドの上で最期に何を思っていたのか……。
そんなことを考え、切な気に目を細める湊に、工藤は再び溜息を吐いた。
「亡くなったのは、病院のベッドじゃない」
「?」
「……自殺したんだ」
工藤の言葉に湊は息を呑んだ。
「病室の窓から飛び降りて……自殺した」
自分の難病を受け入れ、頑張って闘っていた顕人が、死を選んだ。
「せっかくの跡継ぎだったのに、治らないんじゃ意味ない、だってさ」
「え?」
「お見舞いに来てた親戚の誰かがそう言ってたんだって。宮田さんが聞いたらしい。そしてそれを顕人くんも聞いていた……」
湊は眉間にしわを寄せた。
その心ない一言で、顕人がどれだけ傷付き、絶望したか……。
「もう一つ言うと、セイツーグループは大手企業だ。その創設者の孫の自殺は伏せなければならない。会社の名に傷がつくから……」
「傷って……」
「顕人くんの自殺は揉み消された。まぁ、長年の闘病生活もあったから、誰も疑うことはなかったけど……。それでも嗅ぎ付けてくるマスコミや新聞記者には、お金も含めた権力とか、いろいろな手を使って封じたらしいよ。あまり詳しくは知らないけどね」
工藤が成政を嫌っている理由が分かった。
湊を留めるために朔良を利用する手段も、そんな成政ならいとも簡単にやってしまうだろう。そしてそこに罪悪感や背徳感など微塵も感じないのだ。
「その一件があってから、宮田さんも成政家に愛想を尽かして辞めていった。ただ、他言無用だということは念入りに教え込まれたらしい。だからこのことを知っているのは、成政家以外では、宮田さんと僕と、今話した湊くんだけ……」
そう言ったあと、車のエンジンをかける。「遅くなるといけないから、そろそろ向かおうか」と付け足し、工藤は車を走らせた。
「……もう一人子供を産もうとは思わなかったんでしょうか?」
「僕もそう思ったんだけど、顕人くんが幼稚園に入る頃、麻弥さん病気を患ってしばらく入院してたんだ。多分、その時のが影響して……」
――子供が産めない体になったってことか。
工藤の表情から言外の言葉を察する。
「だから俺を引き取ったんですね」
湊がぽつりと呟いた。
「……湊くんが無理にあの人たちに付き合う必要はない。相手が成政だから、少し厄介かもしれないけど、養子縁組を解消することも出来る。その時は僕らも協力するから、ちゃんと言うんだよ?」
そして切な気に付言する。
「あの時は僕も若過ぎて、顕人くんの胸の内を察してあげる余裕がなかった。今でもやっぱり悔しい。だからあの時のような思いは、もう二度としたくない」
工藤の優しさが十分伝わってきた。
最終的には自殺を選んでしまった顕人だったが、毎日来てくれた家政婦の宮田や、工藤に救われた部分もあったはずだと湊は思う。
それに顕人とは決定的に違うものが湊にはある。
「大丈夫です」
湊はきっぱりと断言した。
「俺には朔良がいますから。朔良が哀しむようなことは絶対にしません」
そう言って、大人びた柔らかい微笑みを向ける湊に、工藤は切な気に目を細めて苦笑した。
「……どこでそんな笑い方覚えたの?」
工藤には、湊と顕人が重なって見えた。
そんな工藤に、湊が笑みを深める。
「朔良が工藤さんのところに引き取られて良かった。本当にありがとうございました」
そんな湊を繋ぎ留めているのは、間違いなく朔良だった。
「君たち二人は似ているね。どっちもお互いを想い合ってる。……でも君たちだけでは無理なこともまだまだたくさんある。僕ら工藤家は君たちの味方だから、何かあったらいつでも相談するんだよ?」
「……はい」
湊と朔良のことを親身になって考えてくれる親切な工藤家と、遠縁と言えども親戚関係になれたことだけが、成政家に養子になった湊にとって、唯一の心嬉しいことだった。
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