午後の授業はどこか上の空だった。お昼の見学会のことが脳裏にチラついていたからかもしれない。

 仁科と工藤の行射に加え、湊の行射も見ることが出来たのだ。朔良の高揚感がなかなか収まらないのも無理はない。

 そんなどこか浮いたような感じがしつつも、放課後の部活に向かうために、朔良は教科書類を学生カバンに詰め教室をあとにした。

 弓道場に続く渡り廊下を歩き、弓道場の戸口の前まで来た朔良は、ふと思いたって反対側へと回った。

 朔良が練習していると、いつもそこから顔を覗かせる。きっと今日もいるだろう。

「やっぱ、り」

 呟いた朔良の前にいたのは、学生カバンを枕に横になって眠っている弌夜だった。眩しいからか、右腕で両目を覆っている。

 朔良は出来るだけ足音をたてずに近寄った。

「あれから、ずっとここにいたのかな?」

 小さな声で呟くと、「ずっといた」と返事が返ってきた。

「!」

 起きていたことに驚いた朔良は反射的に一歩後ずさる。

 弌夜は右腕を両目の上から動かすと、ぱっちりと目を開いた。

「ごめんなさい。起こした?」

「……いや」

 この場合、午後の授業をサボったことを注意するのが通常ではないだろうか?

 まさか、そんな返しがくるとは思わなかった。しかも、朔良はどこか申し訳なさそうにしている。

 ――面白い奴。

「何? 何か用?」

 弌夜は上半身を起こしながら、朔良に訊ねた。

 その声はどうでも良いような響きも含まれているようだが、片膝を立て、その上に頬杖をついている弌夜の視線はしっかりと朔良に向いている。

「今日の見学会の感想、聞いてみたくて」

「……俺に?」

 不可解そうに聞き返した弌夜に、朔良は一つ頷き「伊崎くんに」と答えた。

 弌夜の意見には、いろんなヒントが散りばめられている。朔良はそこから何かを見い出すきっかけをもらっていた。今日の見学会を通して感じたことを弌夜に聞いてみたい。

「何か、同じこと聞くんだな?」

「? 誰と?」

「お前の兄貴と」

「湊?」

「……」

 弌夜の目が微かに細められる。

 弌夜の中では工藤のことを指した言葉だったのだが、朔良の口から出た名前は工藤ではなかった。兄貴と言われ、とっさに口から出たということは、同じ兄貴でも湊の方がより朔良に近しいのかもしれない。

「……いや。師範の方」

「あ、あぁ……ごめん。そっか。工藤師範、ね」

 朔良も少し混乱してしまった。慌てて訂正する。

 昼休みに湊と会ったからかもしれない。兄貴と言われ、つい湊の名を出してしまった。

「良かったんじゃないの?」

「え?」

「見学会」

「……あぁ」

 話を本題に戻され、朔良は胸を撫で下ろした。そして弌夜の答えに小さく微笑む。

 弌夜が素直に言いそうな言葉ではない分、シンプルに良かったのかもしれない。

「弓道に興味が出てきた?」

「興味ない」

 朔良が窺いながら訊ねたことにも、弌夜はすっぱりと言い切る。

 ここまで言い切られたら逆に清々しい気もするが、弓道が好きな朔良には少しショックな言葉でもあった。

 肩を落とし、諦めの溜息を吐いた朔良の耳に、「ただ……」と弌夜の言葉が続けられる。

「?」

「泉水が弓道してるのには興味ある」

「……え?」

 意外そうに目を見開き、弌夜を凝視する。

「だから泉水のを見てるのは嫌いじゃない」

「わ、たし?」

 朔良は戸惑った。

 自分の行射はまだまだ欠点だらけで、自分の納得のいく行射すら満足に出来ない。たまに出来たとしても、その時だけだ。ずっと続くわけではない。そんな自分の行射のどこが良いのだろうか?

「自信がない泉水の性格が出てるから」

「!」

 朔良が心の中で抱いた疑問に答えてくれたのは良いのだが、図星をつかれたようで少し恥ずかしい。

「でも、そういうのって悪くはないだろ? お前の場合は自信がないから学ぼうとするし、修正しようと努力する。そう考えれば悪いことじゃない」

 弌夜の言葉は、朔良の胸に響いた。

 無口なイメージのある弌夜が言うから、何だか説得力がある。

「そういうの全部から、泉水の弓道は見てて飽きない」

「……」

 弌夜を見つめたまま、朔良は瞬きを繰り返した。

 確かに、未熟だからこそ努力は重ねてきたつもりだ。自分に足りないものを見つけ出し、少しでも自分が目標とする行射が出来るようにしたいから。

 だが、それを弌夜が見抜いていたとは意外だった。

「君たち。こんなところで何してるの?」

 そんな二人の空間に突然声が降ってきた。

 弌夜と朔良が頭上を見上げると、弓道場の窓から二人を見下ろしている工藤の姿がある。

「あ、工藤師範」

「もうちょっとで部活始まっちゃうよ?」

「! すみません。すぐ行きます」

 弌夜と話し込んでいて、部活のことをすっかり忘れていた。慌てた朔良は一目散に反対側の戸口へと向かった。

「伊崎くんは、あっちからどうぞ?」

 工藤が、いつも弌夜が出入りする戸口を指差す。

「……俺?」

 怪訝そうに眉根を寄せた弌夜だったが、にっこり笑う工藤を見て状況を察した。

 ――あっそ。話、聞いてたってことね。

 渋々ながら弓道場の中へ入ると、工藤が手招きをして待っていた。溜息を吐きつつも、工藤の方へ足を進ませる。

「弓道に興味が出てきた?」

 近寄ってきた弌夜に、工藤がからかうように訊ねる。

 ――そっから聞いてたのか。

 弌夜が工藤を少し睨む。

「朔良ちゃんの行射、良く見てるね」

「ていうか、あいつのしか興味ないです」

 結構大胆な告白だと工藤は思ったのだが、弌夜の表情の中にそこまで色めいたものは見当たらない。

 恋愛……というカテゴリーではないのだろうか?

「さっき伊崎くんが言ってたこと、当たってるって思った。でもそれをこの短い期間で見抜くのはすごいことだと思うよ」

「別に」

 そう言って、ちらりと工藤を一瞥する。

 ――やっぱり、あいつとは違い過ぎるな。

 湊のことを思い出し、弌夜はそう思った。

 そもそも雰囲気が違うのだ。それに応じて性格も違ってはくるだろう。ただここまで違う兄弟というのも見たことがない。妹に対する接し方も全く違う。

 工藤は余裕があって、湊には焦りがあるようだ。

 気にはなりつつも、弌夜は話を続けた。

「泉水のを見てから、ちょっと生活変わったし、俺もどこか感謝してるっていうか……」

 いつも怠惰な日々しか過ごして来なかった弌夜が、朔良の行射を見てからというもの、部活の見学はするし、新入生向けの見学会も観覧するし、挙句こうして関わり合いのなかった工藤と並んで話をするまでになっている。

 面倒なことが嫌いなのは今でも変わっていないはずだが、今のこの状況はこれまでの弌夜では考えられないものであることは間違いない。

「そっか。朔良ちゃんに人生変えてもらったんだ?」

「人生って……」

 そんな大仰なことではないのだが、と心の中で呟く。

「朔良ちゃんは秘密主義じゃない。聞けば自分のことを教えてくれると思うけど、多分、一番肝心なことは教えてくれないよ」

「?」

 そして、聞いてもいない意味深な言葉を続けてくる。

「だから朔良ちゃんのことが知りたくなったら、僕のところにおいで」

「知りたくなったら……?」

 弌夜の表情が、難し気に歪められる。

 他人のことにはいつも無関心で、自分のことですらおざなりになっているのに? それに工藤が言う、一番肝心なこととは、きっと弌夜が今まで面倒だと思っていたことに当てはまるだろう。弌夜はそういうものから、極力避けて生活していた。自分のことならいざ知らず、他人の面倒事に巻き込まれるのは御免だ。

 それでも、朔良のことを知りたいと思えるようになるのだろうか?

 弌夜が深く考え込んでいる間に、部員たちが続々と弓道場に入ってくる。その中に克生の姿もあった。

 工藤に気付いた克生が深く一礼する。右手を軽く上げて工藤もそれに応えた。

「朔良ちゃんの行射には興味あるんでしょ? きっとすぐ朔良ちゃんのことが気になってくるはずだ」

 そう言うとにっこり笑った工藤は、「じゃあね。ゆっくり見学していって」と弌夜に言い残し、そのまま克生の元へと向かった。

「……」

 工藤を見送っていた弌夜は、壁に預けていた背中をずるずると滑らせ、その場に座り込んだ。

 自分の中の変化には気付いている。戸惑っている部分もあるが、別に嫌な戸惑いではない。だが、解せない思いがあるのも事実だ。今までの自分を思い返してみれば、変わった部分が良く分かるから。

 弓道には興味がない自分が、それでも弓道場に顔を出しているのは?

 朔良の行射が見たいと思ったのは?

 きっと最初に朔良を見ていなかったら、今も怠惰な生活と退屈な日々を繰り返し過ごしていたに違いない。それはすでに『朔良に興味を持っている』ことと同じだった。

 気付いた弌夜はくしゃと前髪を乱すと、視線の先にいる工藤を軽く睨んだ。

 ――あいつ……分かってたな。

 その工藤は、何かの用紙を持って克生と真剣に話をしていた。弌夜の視線に気付く様子はない。

「見透かされてるっていうのは、気分が悪い」

 俯いた弌夜が不機嫌そうにぼそっと呟く。

 弌夜は工藤の言葉の変化に気付いていた。

 からへ。弌夜の前での朔良の呼び方を変えたのだ。

 弌夜が朔良のことを知りたくなるのを見越した上で、自分の妹であることを前面に押し出してきたということに他ならなかった。

 しかしそれは、湊みたいな牽制ではない。

 工藤からはトゲトゲしさは感じなかった。それどころか、どこか優しく包み込むような雰囲気がある。だから見透かされていることに関して、図星をつかれたが故の気分の悪さはあるが、嫌悪感は一切抱いていなかった。

「あ、泉水!」

「!」

 誰かが呼んだその名に瞬時に反応する。

 顔を上げた弌夜の目に、弓道衣姿の朔良が映った。

「……」

 ほんの一瞬……息が止まった。目を瞠り、しばし凝視してしまう。

 今までも朔良の弓道衣姿は目にしているはずなのに、目の前にいる朔良はいつもと違って見えたのだ。

 どうして? と自分自身で問うまでもなかった。

 大きな溜息を吐く。意識した途端、自分の中で腑に落ちるものを感じた。

 朔良に興味を持った……朔良に好意を抱いていると認めただけで、また景色が違って見える。朔良の姿がいつもと違って見えるのも同じこと。多分、最初に見た時から、そうだったのかもしれない。

 ただ弌夜は面倒だという理由から恋愛方面も避けてきたため、気付くのに時間が掛った。

 面倒事は嫌い。だが、自分が決めた特定の相手のことだったら苦ではない、のかもしれない。

 そんなことを思いながら、今日も弌夜は朔良の行射を部活終了まで見ていた。

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