すっきりと澄み渡るような快晴の中、朔良は学校に向かって歩いていた。学校までは電車から降りて五分ほどの道程だ。いつも早めの電車に乗るためか、朔良の周りに黎成に向かう生徒は片手で数えるほどしかいない。そんなゆったりとした朝の空気が朔良は好きだった。

「おはっ! 泉水」

 突然後ろから肩を叩かれ、朔良は体勢を崩しかけた。

 どうにか踏み止まった朔良が背後を振り返ると、にこにこと元気そうな笑顔の赤坂がいた。

「泉水も朝練しない?」

 人懐っこい笑顔で覗き込まれ、驚いた朔良が顔を少し引く。

 爽やかな赤坂からのお誘いに、たまには朝から行射するのも良いかもしれないと思い至った朔良は、「じゃあ、後で行きます」と答えた。

「今日の昼休みが見学会だしね。泉水も緊張してる?」

「……そう、かもしれません」

 朝から落ち着きのなさを感じていた。その原因を突き詰めれば、多分そういうことになるだろう。

「不動心の泉水が珍しいね? でも、ちょっと安心したかも」

「?」

「そんな一面も悪くないと思うよ?」

 朔良の頭を荒く撫でたあと、そのまま手を振った赤坂は、笑顔のまま走り去って行った。

「……」

 赤坂の態度に不可解さを感じつつ、朔良も学校へと再び足を歩ませた。


 自分の机に学生カバンを置いた朔良は、その足で弓道場へと向かった。

 渡り廊下を通っていると、体育館や武道館から、同じように朝練をしている生徒の威勢の良い掛け声が聞こえてくる。

 妙に気合の入っている体育館や武道館を足早に通りながら、朔良は弓道場へと急いだ。

「あれ? おはよう。泉水も朝練に来たのか?」

 弓道場に入って最初に目にしたのは、主将の克生だった。控えに正座している克生の手には弓が握られている。学校指定のジャージに着替え、弓具の調整をしていたようだ。さすがに朝の短い時間で、弓道衣に着替える部員はいない。大抵は制服やジャージ、女子はそれに胸当てをつけて練習する。

「先輩も朝練ですか?」

「僕だけじゃないよ。赤坂と真木原もいる」

 にっこり笑った克生の後ろから、ちょうどジャージに着替え終えた赤坂と真木原が、更衣室から射場に出てきた。それぞれ自分の弓具を手に、いそいそと調整を始める。

 その様子を横目に見つつ、朔良も更衣室へと向かった。ジャージに着替え、自分の弓具を持って射場に出る。そしてすぐさま調整をし、今日の見学会に向け自分の行射に集中した。


 朝練で行射している四人の周りでは、他の部員たちの手によって、着々と見学会に向けての準備が進められていた。しおりを作製したり、観覧席の準備をしたり、練習で使うゴム弓と巻藁まきわらを用意したりと大忙しである。準備し忘れたものがないか、チェックにも余念がない。

 何か足りないものがあると、準備するのに時間を費やしてしまう。昼休み時間内という短い時間で、どれだけの生徒を魅了させるかは、抜かりのない準備に掛かっていると言っても過言ではなかった。

 スタンッ

 朝練最後の行射を終え、残心を解いた朔良は小さな溜息を吐いた。

 先程まで自分が感じていたものが緊張なのかどうかは定かではないが、落ち着かなかった胸のモヤモヤは、行射することで少し晴れたようだ。

「的場に出ま~す」

 朔良より先に行射を終えていた赤坂が、矢取り道を通り、声掛けをしてから的場へと足を踏み入れる。そして四人が放った矢を回収し、また控えに戻ってきた。

「克生、また的中率上げたんじゃない?」

 回収した矢を克生に渡しながら、感心したように訊ねる。

「どうかな? たまたま今日、調子が良かっただけかも」

 苦笑して答える克生の表情も、どこか嬉しそうではあるが、自分の行射に納得していない部分もあるようだ。

「泉水は調子どう?」

 赤坂が、続けて朔良にも問い掛ける。

 調子を考えて行射していたわけではない朔良は少し考え込んでしまったが、「悪くはないと思います」と無難な答えを赤坂に返した。

「うん。いつも通りが一番!」

 にこにこと笑った赤坂が、朔良の頭を荒く撫でる。

 朔良の答えを、赤坂がどう受け取ったかは不明だが、取り敢えず良い意味に捉えたようだ。

「じゃあ、昼休みに。二人とも遅れないようにね?」

 制服に着替えて、自分のクラスへ向かう赤坂と真木原に、克生が念押しする。

 見学会で遅刻するような部員は、即刻、強制退部だろう。一昨日、見学会を軽んじるなと言った仁科なら、絶対にそうするはずだ。

「分かってるって」

「なら、今日の学食は半分にしろよ」

 軽く答えた赤坂の横で、真木原が真面目な顔つきで釘を刺すように言う。

 容姿からは窺えることすら出来ないが、その会話から赤坂が大食漢なのが分かった。無口な真木原が言うからには、余程なのだろう。

「えぇ~? 俺の唯一の楽しみなのにぃ~」

 語尾を伸ばして抗議するが、真木原の容赦ない冷めた一瞥で、それは即座に却下された。

 赤坂が不満げな表情で口を尖らせる。

「遅刻しなければ、半分じゃなくても良いんじゃないですか?」

 フォローするつもりは、全然、全く、これっぽっちもなかったのだが、朔良の言葉に赤坂が感激したように涙目を浮かべた。

「泉水! お前って良い奴」

 ガシッと手を握られ、あからさまに眉を顰めた朔良だったが、横からきた手刀であっさりとその手が離れた。

「今度こいつの食いっぷりを見に来ると良い。度肝抜かれるぞ」

 手刀を見舞った真木原が、呆れるように言い放つ。

「そうだね。今日だけは学食半分の方が、僕としても嬉しいな」

 克生も口を揃えて言うところを見ると、相当食い意地が張っているのだろう。ならば、二人の言うように半分の方が良いのかもしれない。

 そう思った朔良は、これ以上口を挟まないことにした。

 結局、言い争っても勝ち目のないことに気付いた赤坂は渋々了承し、肩を落としながら真木原とともに弓道場をあとにした。

「泉水も、いつも通りよろしくな」

 二人の後を追うように、弓道場を出ようとした朔良に、克生が声を掛ける。

「……はい。ではまた」

 克生に軽く頭を下げ、朔良は弓道場を出た。


 始業のチャイムが鳴った十五分後、弌夜は欠伸をしながら黎成の正門をくぐった。完璧に遅刻であるが、弌夜はそれを全く気にしていなかった。皆勤賞は随分前にもらう権利を喪失しているし、授業に出なくても成績は良い。

 進学するなら授業態度と生活態度を改めないと内申書に響くのだが、それすらどうでも良いと思っている弌夜に、遅刻するなという方が無理な話だった。

 だらだらと校舎へ向かっていた弌夜だったが、ふいに横にある掲示板に足を止めた。

 そこには今月のスローガンや学校行事、部活動の功績や、なにがしかのコンクールで受賞した生徒の名前などが貼り出されている。ちなみに何もない時は、偉人の有名な格言が貼り出されていたりする。

 弌夜は掲示板のそばまで歩み寄ると、その一角に目を凝らした。

「今日の、昼休み……?」

 弌夜が目にしている場所には、各部活動の見学会の日程が貼り出されている。その横に、【本日の見学会】と題し、今日行われる見学会の部活動が書かれていた。

「見学会か」

 呟いた弌夜は微かに口角を上げ、足取り軽く再び校舎へと向かった。


「おっ! もう来てたのか?」

 顧問室のドアを開け、目に飛び込んできた相手を見た仁科は声を上げた。

「うん。時間があったから、早目に準備しておこうと思って」

 パイプ椅子に座り、コーヒーカップを手にした工藤は、まったりと寛いでいる。

「仁科も今日は弓道衣だろう?」

「あん? 何で俺が……」

「見学会だからと言って手を抜くのは許さないんだろう? 自分が言ったことはちゃんと守らないと、部員に示しがつかないよ?」

 言い返そうとした仁科だったが、笑顔で言う工藤のトゲのある言葉にばっさりと切られた。自分の言った言葉に足元をすくわれ、仁科もグッと言葉を詰まらせる。

「僕もそろそろ仁科の行射、見たいんだけど?」

「……お前の方が上手いだろうが」

「的中率で言うなら、そうかもね? でも泉水のを見てると君を思い出すんだよ」

「……」

 工藤の言わんとしていることは、すぐ理解出来た。

 いつも朔良の行射を綺麗だと言ってる工藤がそう言うならば、仁科の行射も少なからず同じ意味で綺麗だと思っているのだろう。

 仁科はがしがしと髪を乱した。

「お前は……昔っから人を乗せるのが上手かったよな?」

「そして君は、それに乗るのが上手かったよね?」

「……いたいけな友人の、繊細な心を弄びやがって」

「うわぁ、君に最も似つかわしくない言葉だね」

 爽やかな笑顔で工藤も言い返す。

 ポンポンと会話が続く二人の間に、長年の付き合いを感じる。

 腐れ縁とはいえ、何でも言い合える仲というのは、とても貴重で大切なものだ。二人とも心の奥底ではそのことに気付いているので、悪態を吐き合ってはいるが、ある意味、居心地は良かった。

「そう言えば克生から聞いたぞ? 朝練に泉水も出たって。見学会で緊張してんのか?」

 話が変わり、仁科が物珍し気に工藤に訊ねる。

「へぇ、そうなんだ? ん~、でも緊張しても良いんじゃない?」

 軽く返す工藤に、仁科は怪訝そうな表情を向けた。工藤にしては、えらく適当な言葉のような気がする。

「不動心だから、泉水の射技はそう変わらない。だから射癖を直しにくいんだ。最近それで悩んだりしてる。意識してやると今度は的中率が下がるし、意識しなければ射癖が直らない……。嫌なループに入り込んでるよ」

 工藤の話でようやく合点がいった仁科は、「なるほど」と大きく頷いた。

「それなら、いつもと違う環境が功を奏するかもな?」

「……どうかな?」

 工藤が目を伏せ、意味深に言葉を濁す。

 歯切れの悪い答えに、仁科も微妙に眉を寄せたが、それ以上しつこく聞くことはしなかった。


 午前の最後の授業は数学だった。

 黒板にびっしりと書かれている数式や計算過程を必死に書き写し、朔良が自分なりに問題の解き方を理解したと同時に、授業終了のチャイムが鳴り響いた。

「起立、礼、着席」

 週番の号令に合わせて生徒たちが動き、教壇に立つ教師に礼をする。

 再び椅子に腰を下ろした途端、教室中にざわざわとした騒がしさが溢れだした。

 いそいそと教科書とルーズリーフを机の中に直した朔良は、机の横に下げられているバッグから、昼食の入った袋を取り出した。

 今日は見学会があるので、サンドイッチとコーヒー牛乳だ。

 大会の時もそうだが、行射前は若干空腹の方が朔良は調子が良い。自分の体の調整の仕方を知り万全の態勢で臨めるようにするのも、良い行射をする上で大切なことだ。

 そして、サンドイッチとコーヒー牛乳を食した朔良は、袋をバッグに戻すと、そのまま弓道場へと向かった。

「泉水!」

 渡り廊下に出る手前で呼び止められ、朔良は足を止めた。そして頭上を仰ぐ。

「もう弓道場行く?」

 見上げた視線の先には、階段の手摺から少し身を乗り出すように朔良を見下ろしていた克生がいた。

 朔良が行射前はあまり食べないことを克生は知っている。故に午前の授業が終われば、すぐさま弓道場へ向かうだろうと予想していた。

「今から泉水のクラスに行こうと思ってたんだ。弓道場行くなら、鍵、渡しておく」

 そう言って階段上から鍵を放られ、朔良は慌てて手を差し出した。

 自分の両手の上に無事着地した鍵を、ほっとした表情で見つめる。

「俺も食べ終わったらすぐ行くから」

 にこっと微笑んだ克生は、朔良に手を振ってその場から去って行った。

 掌の鍵をなくさないよう握り締め、朔良は再び歩き出した。

 体育館も武道館も、今は昼食時間なので誰もいない。静かな渡り廊下を歩きながら、横から吹き付ける爽やかな風に、朔良は心地良さを感じていた。

 空には雲一つなく、見学会には打ってつけの天気となった。

 弓道場は屋根がついているので、天候に左右されることはないが、雨よりは晴れの方が、幾分か見栄えは良いはずだ。

 弓道場に着いた朔良は、克生から預かっていた鍵を使用し弓道場を開け中に入った。弓道場の窓を開け換気をしてから、更衣室で弓道衣に着替える。最初は慣れずに苦労しながら着た袴も、今では考え事をしながらでも着ることが出来るようになった。弓道衣を身に着けると、気持ちまで引き締まるから不思議だ。自分に冷静さを与えてくれるので、弓道衣を着るだけでも心が落ち着く。

 それから胸当てを付けた朔良は、自分の弓具を手に取り射場へ出た。そして控えに正座し、いつも通り目を閉じて精神統一を図ると、一つ大きな深呼吸をしてゆっくりと目を開けた。

 射位に進み的を見据え、八節に倣い弓を引く。

 ……ストッ

 矢は的の左端にギリギリ中った。朔良は残心姿のまま、苦い顔で的を睨む。

 ――どうもしっくりこない……。それに朝練の時よりひどくなってる。

 残心を解いても、不可解な表情は消えなかった。小さな息を吐きながら足元を見つめる。

 自分の行射が腑に落ちないこの感覚には、感じ覚えがあった。それは湊と関係している。湊と会う度に、朔良は自分のペースを崩していた。良くも悪くも大きく左右されてしまう。それが今回は、悪目に出ているらしい。

 だが、朔良はそれを嫌だと思ったことはなかった。ペースを乱されることより、湊に会えないことの方が嫌だ。

「……今日は無理、かな」

 いつもの行射が出来ない以上、今回は射手メンバーから外れた方が良いだろう。工藤や克生たちには申し訳ないと思うが、見学会が台無しになるようなことは避けたい。

「泉水」

 そう思っていた朔良の耳に、自分を呼ぶ声が聞こえた。

 俯いていた顔を上げ、声のした方に視線を向ける。

「ちょっと、こっち来い」

 開いている窓の網目越しに手招きをしているのは、昨日弓道を見学していた弌夜だった。

 有無を言わせない命令口調に、朔良も少し怯んでしまったが、怪訝気に眉を寄せながらも、ゆっくりと弌夜の元に向かった。

「えっと……何か?」

「鍵、開けろ」

「……えっ?」

「こっちの鍵、開けろ」

 弌夜が指差しているのは、昨日弌夜が弓道場に入った戸口だ。

 自分が入るために、鍵を開けろということらしい。正規の入り口から入れと言った朔良の言葉は、すっぱり聞き流されたようだ。

 朔良は仕方なく、弌夜の指差す戸口の鍵を開けた。

「サンキュー」

 大して心のこもっていない軽い礼を言って、弌夜が弓道場に入り込む。

 今日も見学しに来たのだろうか? と朔良が小首を傾げていると、突然額を人差し指でトンッと押された。

「!」

 俯き加減だった顔が、少々強引に上に向かされる。

 押された額に手を当てた朔良は、意味が分からず瞬きを繰り返した。

「お前、どこ見てんの?」

「……!」

 弌夜の言葉に驚かされたのと同時に、何か大事なことを言われたような気がして、朔良はハッと息を呑んだ。

「的、見えてんの?」

 続けて問われる言葉にも、大きく目を瞠る。

 弓道のことなど何も知らないはずの弌夜に、朔良の行射の何が分かったのか……。だが、素人だからこそ分かることがあるのかもしれない。

「あれ、朔良ちゃん? もう来てたの?」

 背後から声を掛けられ、我に返った朔良が視線を巡らすと、視界の中に弓道衣姿の工藤が映った。

「? 誰かいるの?」

 朔良の後ろにいる弌夜が、逆光でよく見えていないようだ。両目を少し細めて二人を見つめる。

「あ、昨日見学に来ていた伊崎くんです」

「昨日? ……あぁ」

 説明を受けた工藤は、納得したように頷いた。

 ――朔良ちゃんのファンね。

「師範の工藤です」

 にっこりと自己紹介した工藤に、弌夜は怪訝な眼差しを向ける。

「あの、って?」

「!」

 訊ねられた工藤はビクッと肩を震わせ、決まりが悪そうに微かに顔を歪めた。弓道場に朔良しかいないと思って、とっさに呼び慣れた名前で呼んでしまったことを思い出す。

 どう誤魔化そうか考えていると、「あぁ」とのんびりとした朔良の声が響いた。

「『さくら』は私の名前。師範は私の兄だから」

「……へぇ、そういうこと」

 朔良の淡々とした説明に、弌夜もあっさりと納得する。

 妹なのに『ちゃん』付け、兄に対して敬語、兄妹なのに違う姓……など、疑問点はあるが、そこまで興味があって訊ねたわけではないので、そこは追究しない。

 ――深く聞かれなくて良かった……。

 深いところまで詮索されると、説明が難しい分、理解してもらうのに少々厄介だ。淡白な弌夜が瞬間的に抱いた疑問を全てスルーしたことに、工藤はほっと胸を撫で下ろした。

「見学会の練習するなら僕が指導しようか?」

 工藤が気を取り直し、朔良に訊ねる。

「新入生が集まるまでまだ時間あるし。僕の準備は終わってるから」

 にっこりと微笑まれ、少し思案顔になった朔良だったが、「……お願いします」と頭を下げ、工藤の好意に甘えることにした。

『お前、どこ見てんの?』

 本座に座し、深呼吸を繰り返す朔良の頭の中で、弌夜の言葉がリプレイされる。

 朔良としては、いつものように精神統一して、しっかり的を見据えているつもりだった……が、そこでふと何か引っ掛かった。

 ――見据えている、

「泉水の行射、どこが良かったの?」

 朔良の行射に意識を向けつつ、仁王立ち状態で腕組みをした工藤が、隣にいる弌夜に問い掛けた。

「ぎょうしゃ?」

「泉水の矢を放つ姿に、惹かれたんだよね?」

 言葉を噛み砕いて、再度問い掛ける。

 すると弌夜が、「あぁ」と間延びしたような声を上げた。

「最後の立ち姿がカッコ良かった、から……?」

 言葉の最後に疑問符をつけ小首を傾げている辺り、自分でも朔良の行射のどこに惹かれたのか、良く分かっていないらしい。

 だが理屈ではなく、弌夜の持って生まれた感性で、朔良の行射に惹かれたことは理解した。そしてそれは工藤にとっても嬉しいことだった。

「伊崎くん、だっけ? 君、弓道に向いてるかもよ?」

「それ昨日の……部員の人、にも言われましたけど」

 昨日の今日なのに、弌夜は克生の名前をすっかり忘れていた。

 けれど、それだけで工藤は、弌夜の言う「昨日の人」が克生だと察した。自分と同じことを言うのは、部員の中では多分、克生だけだろう。

「俺、弓道には興味がないので」

「……」

 ――弓道には……ね。

 ちらりと弌夜を一瞥する。

 弌夜自身に含む意味はなかったかもしれないが、朔良を見つめる弌夜の眼差しを見ていると、無意識の領域で含みがあるように工藤は感じた。

 それから再び視線を戻すと、ちょうど朔良が八節を始めるところだった。相変わらず流れのある八節をし、呼吸を整えて静かに矢を放つ。

 ……スタンッ

「ん?」

 工藤が小さな声を上げた。

「良いな」

 微かに眉を潜めた工藤の隣で、弌夜がぽつりと呟く。

「どの辺が良かった?」

 弌夜の感想が面白かった工藤は、さらに探るように訊ねた。素人である弌夜の答えに、興味をそそられる。だが……。

「さぁ?」

 小首を傾げる弌夜の答えは、工藤の興味をばっさりと切り捨てるようなものだった。

 おそらく、自分が良いと思ったことさえも、それが何故なのか? という深い部分までは分かっていないだろう。というか、そういうことを考えることが既に面倒臭そうだ。

 それから鑑みても、性格は正反対だが、赤坂のような直感タイプなのかもしれない。

「そっか」

 自分が期待した答えを聞けなかった工藤だが、浮かべた笑みは先程よりも濃かった。

「工藤師範。どう、でしたでしょうか?」

 残心を解いた朔良が、一呼吸おいてから工藤に訊ねる。

 自分でも手応えはあった、と思う。少なくとも一射目よりは良かった。

 朔良自身が納得出来た行射を、師範的な目線で工藤がどう思ったか、朔良は気が気ではなかった。

「そうだね。今のは完璧に近かったかな? 射癖も気にならなかった」

「! 本当ですか? ありがとうございます」

 素直に嬉しさを表に出し頭を下げる朔良に、工藤の顔もつられて綻ぶ。

 久し振りに自分が納得出来た行射に嬉しさもひとしおだ。朔良は安堵して小さく息を吐いた。

 ちゃんと的を見ろ、と弌夜は助言してくれた。

 行射している時、朔良はちゃんと的を見ている、と思っていた。しかしそれは、あくまでも。実際は自分の射癖に気を取られ、的を見ている自分の目は曇っていた。

 それに加え、今は湊の影響も大きかった。意識していなくても心の深い部分で影響を受けてしまう。

 結局、多くのことに気を取られていた朔良は、全てが中途半端になったことで的中率も下げ、射癖も直らないという、おざなりな状態になっていたのだ。

 しかしそんな朔良に弌夜は、今何に集中すべきなのかを教えてくれた。

 朔良の行射に満足した弌夜は、そのまま静かに弓道場を出ようとした。

「あっ! ありがと、伊崎くん」

 背後からの礼に、弌夜が振り返る。

「気付かせてくれて、ありがと。納得出来た」

 そう言って微笑む朔良に、弌夜は驚いたように目を瞠ったあと、複雑そうに顔を歪めた。言われ慣れていない言葉に、どう反応すれば良いのか分からない、といった様子だ。

「これから見学会があるから、見ていってよ」

 面映ゆそうに返答の言葉を探していた弌夜を、工藤が誘う。

「でも俺、弓道には……」

「泉水には、興味あるでしょ?」

 にっこりと食い気味に切り返す工藤に、弌夜は少し気圧された。同時に何かを見透かされているようで、どこか居心地が悪い。

 でも確かに朔良の行射は見たかった。見学会という、部活中とは違う弓道場の雰囲気と、その緊張感を肌で感じてみたい。そしてその中で凛とした姿の朔良の行射を見てみたい。

 弌夜自身も驚くほどに、弓道に……朔良に興味を抱いていた。

 すっと朔良の方に視線を向けると、窺うようにこちらを見つめている目とかち合った。朔良も弌夜の答えを待っているようだ。

「……泉水もするのか?」

 弌夜の質問に、朔良が「うん」と頷く。

「じゃあ、見とく」

 そう言った弌夜は、さっさと二階の観覧席に歩いて行った。

「朔良ちゃんに、良いアドバイスしてくれたみたいだな」

 二階の階段を上る弌夜を見つめつつ、工藤は笑みを浮かべた。

「すみません。遅くなりました」

 弌夜が観覧席に着いたと同時に、克生が弓道場に姿を見せた。走ってきたのか、若干息が上がっている。そして額に汗が滲んでいた。

「全然遅くないよ? 克生」

 部員で言えば、まだ朔良しか弓道場に来ていないので、全く遅くはない。

 工藤は否定したが、克生は首を軽く横に振った。

「いえ。もう少し早く来ようと思っていたのですが、友達に引き止められてしまって」

 そう言う克生の表情は、本当に申し訳なさそうだった。

 克生は主将という肩書きに恥じないよう、常に上手く立ち回っている。部員をまとめることはもちろん、顧問である仁科や師範の工藤にも、あらゆる面で負担や面倒を掛けないよう気を配っているのだ。それは、尊敬にも値する働きっぷりだった。

 小走りで更衣室に向かう途中、「克生先輩」と朔良が声を掛ける。

「鍵、ありがとうございました」

「おう。準備万端って感じだな?」

「……そうですね。少し晴れた心地です」

 穏やかな表情の朔良の返答に、克生はにっこりと笑い更衣室へと消えた。


 それから部員たちが続々と弓道場に集合し、見学会の時間が押し迫ってきた。

 新入生用に、弓具やその他諸々の使用物品を揃える。下準備がある程度整っていたため、手際良く準備は進んだ。

「じゃあ、僕は外で新入生の対応をしてくるから、中はよろしくね?」

「はい。分かりました」

 克生が工藤に頭を下げる。

 こういう時、とても頼りになる工藤がいてくれて本当に良かったと、克生は心の底から感謝した。

「揃ってるかぁ?」

 そんな工藤と入れ替わるように、弓道場に姿を見せたのは仁科だった。格好は弓道衣で様になっているのに、表情や態度は普段と全く変わらず緊張感の欠片もない。本来なら弓道衣を着用しているだけで、顧問としての威厳が如実に表れるはずなのだが、だらけきった仁科には、その弓道衣の効力も効かないらしい。

 しかし昨日工藤に足元をすくわれたことが痛かったのか、普段よりは早目に射場に顔を出していた。

 ――え? もう来た……。

 見学会の準備のチェックをしていた克生が、射場に現れた仁科を見て少し驚く。そして遠い目をしながら、いつもこうなら楽なのに……と心の中でぼやいた。

「赤坂と真木原がまだです」

「ったく、あいつら。まぁだ飯食ってんじゃねぇ~だろうな? ちらほら新入生が来てるってのに」

 がしがしと頭を掻く仁科を横目で見つつ、日頃の自分を棚上げしていることに少々呆れてしまう。まぁ、こういう性格だと知っているから、もう呆れる以外にないことも分かっているのだが……。

 最初はかなり神経をすり減らした克生も、だんだん仁科のいなし方が上手くなっていた。

 ――それよりも弓道が上手くなりたいんだけど。

 ある意味、仁科色に染まっているようで、克生は妙な脱力感に襲われた。

「頼もう!」

 道場破りのような大声を上げながら射場に現れたのは赤坂だ。その後ろに真木原も、苦い顔で立っている。

「お前……うるさい」

 二人が集合し、これで射手メンバーが揃った。

「遅い! お前ら、とっとと着替えてこい!」

 仁科の怒声が響く。

「……」

「……」

 自分たちよりも先に仁科がいることに、二人とも目を丸くした。そして何を思ったか、クルリと後ろを向いて顔を寄せ合い、何やらこそこそと密談し始めた。

「仁科の皮をかぶった宇宙人?」

「それは、宇宙人に失礼だろ」

「ん~じゃあ、天変地異の前触れ?」

「それか学校に隕石が落下する兆候か」

 仁科の行動は二人にとって、いや、弓道部員にとってそれほど珍しいことだった。

 一年の五月に入部して以来、自分たちよりも仁科が先に弓道場にいることはなかったので、そう思うのも無理はないだろう。

「言いたい気持ちは分かるけど、時間がないから早く着替えてこい」

 二人の駄弁に歯止めを掛けたのは克生だった。

 克生の一声ですぐ話を止めた二人は、「おうっ」と返事をし、軽いノリのまま更衣室へと消えていった。

「ったく、あいつらは。んで? 泉水は調子はどうだ?」

 二人のやり取りをしっかりと聞いていた仁科は苦い顔を作ったが、そのあと控えで正座していた朔良に、にっと笑いながら訊ねてきた。

 自分の真横に立つ仁科を、座ったまま朔良が見上げる。

 ――弓道衣姿の仁科先生を見るのは、どのくらいぶりだろう?

 しかし弓道部員とは一味違い、体格からか弓道衣姿が板に付いていた。毎日身に着けているかのように様になっている。洗練された大人の着こなし方がきちんと出来ている辺りが、仁科を侮れない一つの要素になっているのは間違いないだろう。

 そんなことをつらつら思っていたら、知らぬ間に仁科を凝視していたらしい。「どうした?」と不思議そうに問い掛けられ、朔良は「あ、いえ……」と慌てて頭を振った。

「そう言えば、工藤がお前の射癖の心配してたぜ? 改善出来そうか?」

「はい、多分。糸口が掴めましたので」

「ふん? そっか」

 朔良の返事に、仁科はそれ以上深くは聞かなかった。

「あの、仁科先生は……行射しないんですか?」

 少し戸惑ったあと、意を決した朔良は窺うように訊ねてみた。

 せっかくの弓道衣姿なのに(見学会だからだろうが)行射しないのは勿体ない気がする。

 去年の見学会では、仁科や工藤も一射ずつ行射していた。二人の綺麗な行射は、その場の空気を清浄にし、見学していた朔良の心に澄み渡るような心地を与えてくれた。そんな行射ならば、もう一度見たいと思うのは当然の心理だろう。

 上目遣いで答えを待っている朔良に、仁科が意味深な笑みを向けた。

「さぁ? どうかな?」

 そしてそのまま手をひらひら振りながら、朔良から離れて行った。


「以上が弓道部見学会においての注意事項になります。また何か分からないことがあれば質問して下さい。では、時間までもう少しお待ち下さい」

 弓道場の戸口の前で見学会に集まった新入生たちに、手際良くオリエンテーションを終えた工藤は、開いている戸口から弓道場の中を覗き見た。

 中では射手メンバーたちが、それぞれ独自のやり方でウォーミングアップに勤しんでいる。他の部員たちは射手メンバーの邪魔にならないところで、正座で待機していた。

 皆、真剣な表情で真面目に見学会に臨んでいることが分かる。

 一方、集まった新入生たちはといえば、少し緊張した面持ちをしながらも、オリエンテーションが終わった途端、友達とおしゃべりを始めた。

 周りがざわつき始め、射手メンバーたちの気が散らないか工藤が気にしていると、外から「工藤さん」と聞き慣れた声が聞こえた。

 頭の中に思い描いた声の主を捜すように辺りを見回す。

「あ、湊くん! 来てくれたんだ?」

「はい。電話、ありがとうございました」

 嬉しそうに駆け寄ってきた工藤に、湊はどこか照れくさそうに微笑んだ。

 昨日の夜、工藤から電話で見学会のことを聞いた湊は、どうしても朔良の行射が見たくなり、学校の昼休み時間を利用して黎成まで来たのだ。

「ご両親とか学校の方は大丈夫なのかい?」

 心配気に訊ねる工藤の言葉に、湊が微かに苦笑する。

「はい。昼休みに黎成こっちに行くことは伝えてあります。学校の方にも外出許可をもらっていますので大丈夫です」

 湊は嘘をつかない。

 それは工藤が成政と親戚同士で、嘘をついてもすぐにバレるからというわけではない。今までも朔良と工藤にだけは、湊は絶対に嘘をつかなかった。

「そうか」

 安堵の表情を見せた後、工藤はちらりと腕時計に視線を落とした。

 見学会の時間だ。

「あ、ごめん。ぬか喜びさせちゃうかもしれないと思って、朔良ちゃんには湊くんが来ることを伝えてないんだけど……」

 工藤が申し訳なさそうに言うが、それは当然のことだった。

 湊に会えることを朔良がどれだけ楽しみにしているのか、あの幸せそうな表情を見れば一目瞭然である。

 朔良のためを思い、敢えて伝えずにいた工藤の優しさに、湊は柔らかく微笑んだ。

「はい、分かっています。俺は、朔良から見えない位置にいますので」

 いるはずのない湊が突然現れたら、いくら不動心の朔良でも少なからず動揺するだろう。そしてそれは、射技に如実に表れてしまう……。

 もちろん行射の邪魔をするつもりはないので、湊は朔良の視界に入らない場所を探して見学しようと思っていた。

「じゃあ、僕は新入生の案内に行くね? 終わったら待っててくれるかな?」

「はい」

 にっこりと返事をした湊に、工藤も微笑んで手を振り自分の持ち場に戻った。


 そして見学会開始時刻。

 工藤の後に続き、続々と弓道場に足を踏み入れた新入生たちは、初めて目にする弓道場の造りに、目を丸くしながら隅々まで視線を巡らしていた。

 中には経験者もいるのかもしれないが、ほとんどの新入生たちが、立ち入ったことのない弓道場の神聖な雰囲気を肌で感じ取っているようだ。

「新入生の皆さんは、二階の観覧席で見学してもらいます」

 工藤が指を差し、新入生たちを二階の階段へと促す。しかし何故か新入生たちはその場に足を止めたまま、二階席に向かおうとしなかった。友達と顔を見合わせ、戸惑いながら何か言いたげな目で工藤を見つめる。

 新入生たちのその表情に工藤は苦笑した。そしてその原因が、射手メンバーたちにあることも察していた。

 控えに正座している射手メンバーたちは、姿勢を正した状態でまっすぐに的を見つめている。その脇にいる弓道部員たちも、同じような状態でその場に待機していた。誰一人として無駄口を叩いている者はいない。

 そんな張りつめた緊張感が漂う弓道場で、どう動いて良いか分からなくなるのも頷けることだった。

「そのまま正座している部員たちの後ろを通って、二階の観覧席に向かって下さい」

 もう一度工藤が促したことで、戸惑いつつも新入生たちは静かに観覧席へと上がった。

 新入生たちが全員席に着いたのを見計らって、工藤がマイクを手に持つ。

「それでは、弓道部見学会を開きたいと思います。まずは弓道部主将を含む四人の行射からご覧下さい」

 工藤の言葉が終わると、朔良たちはサッと腰を上げた。そして略式ではあるが摺り足で射位へと移動する。

 メンバーが腰を落ち着けたのを見て、仁科が「始め!」と号令を掛け、行射が始まった。

 一番手の赤坂、二番手の真木原が次々と矢を放ち、見事に的中させる。

 そして三番手、朔良。

 ……スタンッ

 流れ良く八節を行い、朔良も見事に的中させた。

「……」

 ――やっぱり……綺麗だ。

 観覧席の一番端に腰かけている弌夜は、心の中でそう呟いていた。凝視したまま目が離せない。

 その弌夜の様子に気付いたのは、朔良ではなく克生だった。

 ――やっぱり泉水の行射は、人を虜にする力があるらしい。

 虜にされた一人でもある克生は、以前の自分を見ているようで複雑な気持ちになり微苦笑に顔を歪めた。

 二順目。

 赤坂も真木原も射手メンバーに選ばれるだけある。二本目もきっちりと的中させた。そしてそれは朔良も同様であった。

 ……スタンッ

 矢が的中したことに、観覧席からパチパチと拍手が起こる。

 弦の震えが止まると同時に、朔良は残心を解いた。

 少し矢乱やみだれ(一射目と二射目の矢の位置が離れていること)したことに眉を顰めたが、朔良は的場に向かって一礼すると、射位から後ろに離れ控えに座した。

 ……スタンッ

 最後の行射も終わり、控えに下がった克生が揃った時点で、射手メンバーは起立し全員で射場に一礼した。

「これが、弓道の行射です。テレビや学校で目にした人もいると思いますが、見るのとやるのとでは全然違います。弓を均等に引き分けることも最初は出来ません。それと、精神状態が如実に現れるのも弓道の特徴と言えます。そのため精神統一は必須です。それは自分の感情をコントロールするという、自分自身の精神の向上にも繋がります。それでは、射場に下りて実際に弓具に触れてみましょう」

 工藤が新入生に説明をし終え、観覧席から移動する。

 ――やっぱり師範が適任だったな。

 工藤のお陰でスムーズに進められる見学会に、克生は一安心した。きっと仁科だったら、説明も脱線しまくりで先に進むどころか見学会も中途半端で終わってしまっていただろう。

 新入生を引き連れて二階席から下りてくる工藤に、克生は心中で深く感謝した。

 そして射場に集まる新入生たちに、部員全員で基本的な礼義・動き・構えなどを一通り説明する。

「引くのにすごい力がいるんですね」

「このまま離して良いんですか?」

 最初は怖々と弓具に触れていた新入生たちだったが、実際に弓を持ち矢を放つことで、弓道の楽しさを実感しているようだった。次々と質問も飛び交い、気付けば見学会の終了時間が迫っている。

 そんな新入生たちのいきいきとした表情から、今回の見学会が成功したことを克生は確信した。

 見学会終了の時間になり、工藤が新入生たちを射場の一角に集める。

「それでは、弓道部見学会はこれにて終了……」

「こらこら、ちょっと待て」

 工藤の締めの言葉を遮ったのは、仁科だった。仁科の右手には弓具が握られており、もう片方は自身の腰に当てている。

「……」

 その仁科の姿に、克生や朔良たち部員全員が唖然とし瞠目した。

 部活動中も弓道衣すら着て来ないのだ。弓具を持っているだけで驚きものである。

 ――仁科先生の行射が見られる?

 弓具を持つ仁科の姿は、朔良に期待感を持たせた。

 朔良が仁科の行射を見たのは一年前の見学会の時以来だ。あれから、もう一度見たいと何度思ったことか……。

 全員の視線を一身に受けながら、仁科は堂々とした態度で、どこか不敵な笑みを浮かべていた。

「工藤。ほら、お前も」

 そして工藤に向かって、弓具が立て掛けてある壁を顎でしゃくった。

 仁科の仕草に、工藤が呆れたように溜息を洩らす。

 ――僕もやれってことね。

 仁科に従うのは少し不本意ではあったが、顧問や師範が行射しないのも確かに締まらない気がする。

 工藤は素直に自分の弓具を手に取ると、仁科が立っている隣の射位に着いた。

 それから姿勢を正した二人は、目を閉じ静かな呼吸を繰り返す。精神を安定させる準備が整った仁科が、先に目を開けた。それに少し遅れる形で工藤も目を開く。

 その後、二人が始めた流れのある八節に、朔良も目を離せなかった。一年前に見た仁科の行射を思い出す。あの時も、今と同じように目を離すことが出来なかった。瞬きすることも忘れ、二人に魅入る。

 多少の動作のズレはあるものの、二人ほぼ同時に弓を構えた。

 そして。

 スタンッ

 ……スタンッ

「……」

「……」

 新入生はもちろん、赤坂も真木原も朔良も、そして克生さえも言葉を失った。

 二人の行射は綺麗で、しかも放った矢は的の中心に中っていた。残心の姿で的を見据えている二人の姿勢と表情が、顧問と師範という威風を漂わせている。

 そんな凛と張り詰めた空気を壊すことなく、二人が残心姿を解いた。

 ――やっぱり綺麗だ。

 半ば呆けたように見つめていた朔良は心の中で呟いた。約一年振りの仁科の行射に、朔良の鼓動が速くなる。

 部活の顧問でありながら、朔良が仁科の行射を見たのは一年前の見学会の時だけだ。顧問ならばいつでも見られると思っていた朔良の淡い期待は、部活に弓道衣すら着て来ない仁科に、すぐに掻き消されてしまった。

 行射しないのか、堪らず訊ねてみたことはあるのだが、工藤や克生でさえ手をこまねいている相手に、朔良が太刀打ち出来るはずがなかった。結局、一度きりしか仁科の行射を見たことはなかったのだった。

 パチパチパチ

 しばらくして、その静寂を破る拍手がどこからともなく聞こえてきた。二人に向けられていた視線が、今度はその拍手の主へと注がれる。

 朔良もつられて視線を上げると、そこに弌夜の姿を捉えた。

「伊崎くん……」

 二階席の隅に座って拍手をしている弌夜の目は、しっかりと仁科と工藤の二人を見据えている。弌夜にとって、二人の行射は拍手を贈るに相応しい行射だったのだろう。

 全ての行動に対して面倒臭がる弌夜が、直感的なセンスで気に入ったというサインでもあった。

 そしてその拍手を皮切りに、思い出したかのように方々から拍手が湧き起った。

「どうも」

 工藤が、贈られる拍手に照れるようにはにかむ。

「久し振りだったけど、鈍ってなくて良かったぜ」

 片手を腰に当ててぼそっと呟いた仁科に、工藤がちらりと視線を向けた。

 ――久し振りの行射で、ここまでみんなの目を惹くことは、僕には出来ないな。

 的中させるには、常日頃の練習や大会などから得ることの出来る感覚と精神力、その中で培われる射技が必要になってくる。

 工藤が知る中で、仁科が行射をした姿を見たのはここ半年以上ない。きっと、部員や生徒たちのいないところでちゃんと練習していたのだろう。

 それを見せないところが、また仁科らしいのだが。

『見学会だからといって、手を抜くことは許さん』

 自身の発した言葉を行動で示してみせた仁科に、顧問としての新たな一面を垣間見た気がした。

 ――いや、違うな。

 工藤が軽く首を横に振る。

 いつもがいつもなだけに、たまにこういう姿を見せられると余計に貫禄を感じられるのかもしれない。よくよく考えてみれば、顧問といえども、弓道の腕を磨くために練習するのは当り前のこと。いつも手を抜いている仁科しか見ていないから、妙な錯覚を起こしてしまうのだ。

 若干、感動すら覚えた工藤だったが、そう思うと感動した自分が情けなくなった。

「弓道部見学会、以上!」

 そして勝手に締めた仁科に、なおさら脱力感を感じる。

 しかしこれが黎成の弓道部の在り方であることは違いないので、見学会の目下の目的は達成されたと言っても良いのだろう。

 見学会終了で、新入生たちも次々と弓道場から自分の教室へと戻って行く。

 それから部員たちは一斉に後片付けを始めた。各場所の清掃担当は決まっているため、着手するのは早い。

「お疲れ」

 他の部員たちと同じように射場の清掃をしていた朔良に、二階席から下りてきた弌夜が労いの言葉を掛けてきた。

 大して感情はこもっていないようだが、最後まで見ていたところをみると、少なからず弓道に興味を持ったのかもしれない。

「今日はありがとう」

 見学会前、絶不調だった朔良は、弌夜の助言のおかげでこの見学会を乗り切ることが出来た。その礼を言ったのだが、弌夜は全く気にしていなかったらしく、逆に何の礼なのか小首を傾げて不可解そうに眉を顰めた。

「伊崎くんの言葉で、自分に足りないものが少し見えた気がしたから」

「……そ」

 礼の意味が分かっても、弌夜の返事は素っ気ない。

「あれ、ちょっと触らせて」

 それよりも弓具の方が気になったらしく、朔良の後ろにある弓を指差してそう言った。新入生たちが弓具に触れているのを見て、触ってみたいと思ったのかもしれない。

 もちろん弓道に興味を持ってもらえるなら、朔良も大歓迎である。微笑んだ朔良は弓具立てに置いていた自分の弓を取ると、「どうぞ」と弌夜に差し出した。

 手渡された弓を、弌夜がマジマジと見つめる。

「工藤さん」

 その様子を横目で窺いながら、湊は他の場所で弓具の整理をしていた工藤に声を掛けた。

「あぁ、湊くん。今日はごめんね。窮屈な場所で見学させて」

 湊に向き合った工藤が申し訳なさそうに詫びる。

「いえ。それは全然構いませんが。今、朔良と話をしている男子生徒は弓道部員ですか?」

「ん? いや、二~三日前から見学に来てる子だよ」

「見学? 入部希望とか?」

「入部は多分しないと思うよ?」

「入部しないのに、弓道部の見学に来てるんですか?」

「う~ん。朔良ちゃんの行射に惹かれてるみたいだけど」

「……」

 湊は目を伏せ黙考した。

 工藤は、弌夜が朔良の行射に惹かれていると言ったが、湊はそうは思わなかった。

 弌夜の目は確実に朔良だけを捉えていた。その眼差しの中にどんな感情があるのか、それを見極めることはこの短時間では出来なかったが、確かに朔良に特別な想いがあるように湊の目には映ったのだ。

 それは朔良の兄である湊だからこそ感じ取ることが出来る直感なのかもしれない。

「朔良」

 弌夜が朔良に弓を返したのを見た湊が、二人に近寄りつつ声を掛けた。

「えっ?」

 その声に、朔良が驚きの声を上げる。

「湊? なん、どうして……」

 朔良と同じように、弌夜も湊に視線を向けてみる。

 身に着けている制服はどこの高校かは分からないが、弌夜でも見たことはあった。しかし、確か学力の高い高校だったはず、という程度の認識だった。

「工藤さんに連絡もらって、朔良の行射見させてもらった」

 ほんの一瞬だけ弌夜に一瞥くれた湊は、すぐ朔良に視線を戻す。

「?」

 湊に睨まれたような気がした弌夜だったが、湊の視線が逸れたことでそれを確認することは出来なかった。

 ――あ、しまった……。

 それよりも立ち去るタイミングを逸してしまったことに悩んでしまう。

 しかしこの場に留まっていても仕方がないし、邪魔をしてはいけない雰囲気が二人から方々に漂っているのが分かる。

 少し悩んだ弌夜は、結局黙って朔良たちから離れようとした。

「あ、待って」

 だが、それに気付いた朔良に呼び止められる。

「あの……良かったら、また見に来て」

 そう言って微笑む朔良に「……気が向いたら」と小さく返事をした弌夜は、弓道場の戸口へと向かった。

 そんな弌夜の後ろ姿を見送っている朔良の肩を、湊がツンツンと突く。

「?」

「突然来てごめん」

「……教えてくれても良かったのに」

「でも朔良、行射に影響出るだろ? それに確実に来られるってわけでもなかったから、内緒にしてたんだ。だけど驚かせたのは、ごめん」

 湊は本当に申し訳なさそうに謝った。

「じゃあ、罰」

「……え?」

 そう言って朔良が湊に渡したのは、先程弌夜に返してもらった自分の弓だった。

「湊くんに行射してもらうの? それ良いね」

「……工藤さん」

 朔良の提案に乗った工藤に、湊が困惑した表情になる。

「大丈夫だよ。弓道部に入ってないなら、他校で行射したって誰も咎めることは出来ない」

「いえ。そういう問題ではなく……」

「僕も湊くんの行射見たいな」

「……」

 工藤にここまで言われてしまっては、湊も断るわけにはいかなくなった。なにより朔良がお世話になっているのだ。断れるわけがない。

「朔良ちゃんが目標にしている湊くんの行射なんて、そうそう見る機会ないから」

 困惑したまま諦めたように小さな溜息を一つ吐いた湊は、制服のシャツの上から来ていたカーディガンを脱ぎ、工藤から借りたゆがけ(弓道をする際装着する分厚い手袋のようなもの)を付けて朔良の弓具を手に取った。

 湊の精神統一は早い。弓具を受け取った時点で、スイッチが入ったかのように自分に纏う空気を変える。

 スタンッ

 そんな湊の手から放たれた矢は、見事に的の中心に中った。

「……変わらないなぁ。湊くんの行射」

 感嘆の声を上げたのは工藤だ。しかしその目は切な気に細められている。

 ――ほんと、中学の時と一緒。

「ありがと、湊。私のわがまま聞いてくれて」

「わがままは全然構わないけど、行射はこれで勘弁して」

 苦笑する湊に、朔良はにっこりと微笑んだ。

「さて。湊くんは学校に戻るんだよね?」

 楽しそうに笑いながら、工藤が訊ねる。

「はい」

 弓を朔良に返しつつ、湊も答える。

「僕が送って行くから、ちょっと待っててくれる?」

「え、でも……まだ見学会のことですることがあるんじゃ……」

「僕の役割はちゃんと終えたから大丈夫だよ」

 電車の乗り継ぎを考えれば、工藤の申し出はすごくありがたかった。しかし、ほんとに良いのかという戸惑いも生じる。

 俯いて考え込んでいると、突然工藤に頭を撫でられた。

「たまには甘えてよ」

「……」

 上目遣いで工藤を見上げると、寂しそうに苦笑していた。

 工藤の優しい言葉に、面映ゆそうに再び俯く。そして小さく「……はい」と呟いた。

「お話中のところ、すみません。工藤師範、彼は?」

 湊の行射を見ていた克生が、工藤に訊ねる。

 やはり弓道に関しては、些細なことでも気になる性格らしい。

「あぁ、親戚の子なんだ」

 大幅に省いて工藤が説明する。間違ってはいないのでこれでいいだろう。

 隣にいた湊も「成政と言います」と丁寧に頭を下げ自己紹介した。

「初めまして。弓道部主将の克生です。その制服って確か央架高校だよね? 弓道部に所属してるの?」

「いいえ。俺は帰宅部です」

 やっぱり、と克生は思った。

 大会で央架の生徒を何度か目にしているが、湊の姿は一度も見たことはない。

 これほどの腕前なら、克生は一度見たら覚えているはず。しかし克生の頭の中に湊の情報は何一つ入っていなかった。

「そっか。入ってたら黎成うちの強敵になってたね。でも弓道部に入ってないのは、ちょっと勿体ない気がするけど……」

「いいえ。そんな……」

 湊が困惑したように苦笑を浮かべ、言葉を濁らせる。

「良かったらまた遊びに来てね」

 克生もそれ以上何か言うことはなかった。そして笑って手を振りつつその場を離れ、再び掃除に勤しみ始めた。

 そんな克生を見ながら、工藤は小さく溜息を吐く。

 深く訊かれたら助け船を出そうと思っていたのだが、空気を読むのが上手な克生は、湊の微妙な反応に気付いたのかもしれない。上手く話を切り上げ、相手に悟らせないようにその場を離れる様は、克生の人柄の深さを思わせた。

 ――高校三年生とは思えない洞察力と気の遣いようだな……。

 心の中でそんなことを思った。

「じゃあ、湊くん。着替えてくるから待っててね」

「はい。すみません」

 軽く手を上げ顧問室に戻る工藤に、湊が深く頭を下げる。

「湊。見に来てくれてありがとう」

「うん。また見せてくれる?」

 優しい頬笑みを向けて聞いてくる湊に、朔良も同じように頬笑みを返しながらコクリと頷いた。

 嬉しそうに微笑み合う二人に、その様子を見ていた何人かの部員たちも、少し顔を赤らめている。まるで恋人同士のような二人の世界に誰も入れそうにない。

「克生。泉水と話してる人って誰?」

 その様子を見ていた一人でもある赤坂が、克生に歩み寄り訊ねてきた。

「……工藤師範の親戚の方で、央架高校に通ってる成政くんだって」

「えっ? 央架って、めちゃくちゃ偏差値高いところだよね? それにあの行射……結構上手かったよ?」

「でも彼は弓道部には入ってないみたいだよ」

「そうなのか?」

 その二人の会話に真木原も加わってきた。赤坂とは違う位置から朔良たちを見ていたようだ。

「俺も小澤おざわと同等の行射に見えたよ」

 小澤とは、央架高校の弓道部主将である。

 その主将と同等の腕を持つ湊に、三人が興味をそそられてしまうのは至仕方ないことだろう。

 思わぬ逸材がいたことに驚きを隠せない。しかもそんな腕を持っていながら弓道部に入部していないことも気になる。

 腑に落ちないながらも、深く詮索するのも良くないだろうと思い、二人から視線を外した克生はそこで考えるのをやめた。

「じゃあ、邪魔になるから外で工藤さんを待つよ」

「うん。気をつけてね」

「……また会いに来る」

 寂し気に言う湊に、朔良はにっこりと微笑み「うん」と頷いた。


 あれから弓道場を出た弌夜は、いつもの定位置で学生カバンを枕に横になっていた。

 あと十分ほどで午後の始業のチャイムが鳴るのだが、弌夜は全く意に介していない。サボる気満々である。

 ――あ、トイレに行っとこう。

 授業が始まった後に廊下をうろうろしていて、教師に見つかりお小言をもらうのは嫌だ。

 思い立った弌夜は体を起こし、校舎へと向かった。

「あれっ? 伊崎くん」

「……」

 そんな弌夜の前に、ちょうど弓道場から出てきた工藤が声を掛けてきた。

 弌夜は少し面倒臭そうな表情を向ける。

「さっきは拍手ありがとう」

「あぁ、いや」

 工藤の行射は確かに綺麗だった。無意識に拍手していた自分が一番感じたことである。それは仁科に対しても然りだ。

「泉水の行射はどうだった?」

「さぁ? 悪くないんじゃないですか」

 ――ということは、だいぶ良かったってことかな……?

 弌夜の言葉の裏が読めるようになった工藤が、心の中でそう解釈する。

「それより、さっき矢を放ってた人の方が気になるけど」

「えっ?」

 弌夜から出た思わぬ言葉に、工藤が瞠目する。弓道場を出る前に視界の端で湊の行射を見ていたらしい。

「どこが気になったの?」

 弓道の知識も経験もない弌夜が、湊の行射が気になったというのだ。

「どこがって、的確なことは分からな……」

「伊崎くんが感じたことを教えて欲しい」

 食い下がる工藤に、少々引き気味に困惑表情を浮かべる。

 弌夜にも、どこが……というのは本当に分からない。そもそも弓道を知らないのだ。的確に言えるわけがない。

 そんな弌夜の言葉など当てにはならないのではないだろうか?

 それでも聞いてくる工藤に、弌夜は観念したように溜息を吐いた。

「よく分からないけど、強いて言うなら……正確だけど綺麗じゃないって感じ?」

 そんな漠然としたことしか言えない。

 だが、工藤は納得したように「なるほど」と頷くと、弌夜ににっこりと笑顔を向けた。

「伊崎くんって、すごいセンス持ってるね」

「……は?」

 弌夜は怪訝そうに眉根を寄せる。

「伊崎くんの今の発言は、弓道だけに『的を射てる』と思う」

 ――変なダジャレまで言ってきた。

 関わるとヤバそうな気がした弌夜は、早々にこの場から立ち去りたくなった。

「あの。トイレ行きたいんで、そろそろ……」

「ん? あぁ、ごめんね。引き止めて」

「あれ、工藤さん?」

 工藤の隣をすり抜けようとした弌夜の耳に、先程耳にした声が入ってくる。

 一瞬足を止めそうになったが、自分には関係ないことなので、視線を向けることなくそのまま校舎へと向かう。

「あ、湊くん。ごめん、着替えがまだなんだ。もうちょっと待っててくれる?」

「ゆっくりで大丈夫ですよ。ここで待ってます」

「ごめんね?」

 そう言って工藤が顧問室に入ったのを見届けたと同時に、表情を一変させた湊は弌夜を追いかけた。追いついた弌夜の肩を掴むと後ろへ少し引き、「ちょっと待て」と声を掛ける。

 肩を引かれた反動で弌夜も振り向いてしまい、渋々湊と対峙するはめになった。

「お前、朔良の何?」

「……」

 何? と聞かれるほどの関係性を築いているわけではないので、問われた瞬間何のことか分からなかった。

 しばし沈黙してしまう。

「まさか、朔良の彼氏……じゃないよな?」

 その沈黙を訝しむように、湊が眉根を寄せて問い掛ける。

「あんた、それ知ってどうするの?」

「知りたいだけだ」

「何の権利があって?」

「朔良の兄という権利だ」

「……」

 ――あいつ、兄貴が二人もいるのか?

 湊の言葉に心の中で呟く。

 しかしもう一人の兄である工藤とは、性格がだいぶ違う。年の差の故なのか、他に何かあるのか。

「そ。でも俺は何の関係もないから。ただ、あいつの弓道に興味があるだけ」

 関わるとろくなことにならないだろうという、弌夜の非凡な嗅覚が働く。

 面倒なことは嫌いだ。

「朔良に興味がある、じゃなくて?」

「さぁ? そこんとこは俺の中でも、まだ答えが出てないところだから」

「お前が分かってないだけで、出てるんじゃないのか?」

「俺が分かってないなら、出てないってことだよ」

「……」

 湊は弌夜を軽く睨みつけるように見つめる。

 そんな湊の刺すような視線に弌夜はげんなりした。自分に関係の無い火の粉を被っているようで気分が悪い。

「っていうか、そうやってあいつに近寄る男、全部排除していくわけ?」

「……そんなつもりはない。朔良にとって悪い奴なら排除するだけだ」

 それが湊なりの朔良の守り方なのだろう。だが、兄としてなら少々干渉し過ぎだ。

「なら、あいつの意思は?」

「もちろん、朔良の意思も尊重する」

「じゃあ、もし仮にあいつが俺を選んだら?」

「全力で阻止する」

「それって矛盾してない?」

「それでも……阻止する」

 少し目を伏せて言う湊に、弌夜は小さな溜息を吐いた。

 何故だか湊にとって弌夜は、『排除するべき悪い奴』という認識に位置づけられたらしい。

 特にそれ自体に文句があるわけではない。他人から見た自分がそう映っても、それはその人の感じ方次第なのでどうすることも出来ない――というか、それを覆そうとするのも面倒臭い。それに今までも相手に好印象を持たれたことはないのだ。今さら変えようとも思っていなかった。

 ただ、湊の『妹を守るやり方』は違うような気がした。

 朔良は自分の道は自分で切り拓ける人間だ。誰かに道を決めてもらわなければ前に進めないような、そんな弱さを感じたことはない。それは朔良の弓道に対する姿勢からも窺い知ることが出来る。

 だから、思う。

「もうちょっとあいつを信用してやれば?」

「……な、に」

 視線を上げた湊が目を瞠る。

「あんたが大切にしてる妹なら、そんな変な相手なんか選ばないだろ? 安心しろよ。俺みたいな奴は選ばないから」

 右手で髪を掻きながら、弌夜は言い切った。

 その態度は不真面目そうに見えるだろうが、弌夜とて考えなしに言ってるわけではない。

 ここ何日かで弌夜が見てきた朔良自身の言動や周りとの接し方、兄である工藤や部活の先輩たちからの慕われようを見ていれば、朔良の人となりは自ずと分かる。それに加え、もう一人の兄という湊に、ここまで大切にされているのならば尚更だ。

「……」

 弌夜の言葉が心の奥底に響く。湊は切な気に目を細めた。

 確かにそうかもしれないと納得してしまった。

 信じているつもりなのだが、自分が今していることは弌夜の言葉を裏付けしてしまった行為だと、湊自身、得心したから……。

 ただ本当に心配なのだ。心配で、大切で、守りたくて、傷付けたくなくて。別れたあの日からずっと、兄としての責任を果たせないままなのだ。あの時から朔良にしてやれなかったことを、今返したい。

「名前は?」

 突然聞かれ小首を傾げた弌夜だったが、特に隠すことでもないため「伊崎弌夜」と短く答えた。

「覚えておく。俺は成政湊」

「……」

 これまた名字が違う。工藤も湊も朔良の兄と言いながら、その姓は二人とも朔良とは違っている。

 スルーするにはさすがに濃い疑問だ。しかしこの手の話は、確実に家庭事情が込み入っているだろう。それに……かなりややこしそうだ。

 ――スルーだな。

 相変わらず弌夜は、煩わしいことに自分から首を突っ込むことはしない。

 しかし、スルーするかどうするかで悩んだのは初めてだった。今までの弌夜なら、こんな簡単な問題に考えるまでもなく答えが出ていたはずだ。

 腑に落ちない思いが生じ、不可解な表情を浮かべる。

「お待たせ。湊くん」

 そこに着替えを終えた工藤が顧問室から出てきた。

「あれ、どうかしたの? 二人とも」

 湊と弌夜の様子に、きょとんとした工藤が不思議そうに訊ねる。

「あ、いえ。ちょっと話をしていただけです」

 弌夜の前から離れた湊が、工藤の方へ近寄りながら爽やかに誤魔化す。

 湊が離れたことで、話も切り上げられたので弌夜もクルリと踵を返し、再び校舎へと向かった。

「そう? もう良かったの?」

「はい。ちょうど終わったところでした」

 弌夜の後ろ姿を見送りながら訊ねた工藤に、湊がにっこりと答える。

「じゃあ、行こうか」

 工藤に促された湊はちらりと弓道場を一瞥したあと、「はい」と返事をし、工藤のあとから歩き出した。


 弓道部の見学会は大成功の内に幕を閉じた。新入部員の確保も十分期待出来そうだ。こうして昼休み時間内にしっかり終えることが出来たのは、師範である工藤のスムーズな進行や、部員たちの抜かりの無い準備のおかげだ。

 克生は改めて部員たちに感謝した。

「よっし。終わったな……解散!」

 一際大きく終了の声を上げる仁科は、自分の仕事をやり切った感満面で弓道場をあとにした。

 ――まあ、仁科のおかげも少しはあるかな……。

 最後の仁科と工藤の行射は、自分にも知らされていなかったことだった。だからこそ弓道部の部員たちも新入生と同じような昂揚感を感じた。

「それにしても……しっかり、士気を高められたな」

 二人の行射を見た時、体が痺れた。洗練された大人の行射。中ることが当り前の行射。その姿勢も空気も克生にはないものばかりで圧巻だった。

 克生は、ふーっと溜息を吐いた。

 結局、仁科の思惑通りのような気がするが、それでも自分にとっても有意義な時間であったことは間違いない。

 ――そこだけは感謝しても良いか。

 克生は微かに苦笑しながら、心の中で仁科に礼を言った。

「先輩。お疲れ様でした」

「お疲れ様でした」

 弓道場の清掃も終わり、部員たちも次々に教室へ戻って行く。

 赤坂と真木原も次の授業が移動教室だったので、克生より先に弓道場を去っていた。

 着替えを終えた克生は、弓道場で見学会の記録を付けていた。放課後でも出来るのだが、克生の性格上、後回しにするのはあまり好まない。こういうことは早く終わらせておくのがベストだ。

「お疲れ様でした。克生先輩」

 そんな克生に、制服に着替えた朔良が声を掛けてきた。

「泉水もお疲れ。今日の行射は結構満足だったんじゃない? いつもと違う感じがした」

「え。見てたんですか?」

 驚く朔良に、克生が軽く「うん」と返事をする。

 射順が朔良の次である克生は、朔良の射技を見ていたらしい。

 自分の行射も控えているのに、そこまで目が行き届いている克生に、朔良は心底感心してしまった。しかも自分の矢もいつも通り、きっちり的に中てているから、その思いは二倍である。

「そうですね……少し糸口が掴めたような感じがあって。まだこれから練習して、しっかり身に付けないといけないんですけど」

「そう、それは良かった。で、見学会はどうだった?」

「思っていたより楽しかったです。それに仁科先生と工藤師範の行射が見られたのが嬉しかったです」

 はにかんで言う朔良に、克生も「実は俺も」と言ってふっと笑った。

「普段から行射してくれたらもっと嬉しいけどな……っと、午後の授業が始まる。泉水、先に行きな」

「あ、はい。じゃあ、また放課後」

「おう。お疲れ」

 朔良を見送ったあと、自分もいそいそと記録を書き終える。そして、弓道場を出た克生は鍵を掛けて教室へと戻った。

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