3
「朔良……」
湊が小さく呟き、辛く泣きそうな表情を浮かべる。
いや、泣いていた。心の中で……。
その泣き声は耳に届かずとも、朔良の心には痛いほど届いていた。
知らない女性に手を引かれ、孤児院である【
「湊もにっこりして?」
泣き顔で別れるのは嫌だ。笑顔の湊が良い。
「……会いに行くから」
そう言い、自分に向けられたぎこちない笑顔。涙目になりながら、それでも湊は笑ってくれた。
「うん」
――また会える。大丈夫。
朔良は心の中で自分に言い聞かせた。
名残惜しそうに朔良を見つめながら、女性と一緒の車に湊が乗り込む。
泣き顔ではないが、それをじっと耐えている湊の表情を見ながら、見送る自分の表情は大丈夫だろうか? と少し不安になった。
乗り込んだ後部座席の窓に貼り付くようにして、何か言いたげに湊が朔良を見つめる。
朔良は一つ大きく息を吸い込み、再び満面の笑みを浮かべた。
「またね」
そして手を振る。
それを合図に発進した車は、見る見るうちに朔良から湊を引き離していった。
「……」
涙が……出るかと思った。
湊が見えなくなった車道を見つめながら、それでも朔良の頬に涙は流れなかった。
悲しくないのだろうか? 寂しく思わないのだろうか? 自分のことなのに、そんな疑問が浮かんできた。
「朔良ちゃん」
呆然と考え込んでいた時、ふいにポンッと優しく肩を叩かれ、朔良は我に返った。自分の隣に立つ院長を見上げる。
「……お部屋に戻ろうか?」
そう言っているのが口の動きで分かったが、院長の言葉は朔良の耳には入ってこなかった。
院長に促され院内に戻った朔良は、ぽっかりと心に穴が空いたような状態で、廊下を歩いていた。そして自室の前に辿り着く。
習慣というものはすごい。どこをどう歩いてきたかも覚えていないが、ぼんやりしていても朔良はまっすぐ自分の部屋に戻っている。
朔良は部屋のドアノブを捻りドアを開けた。
『おかえり。ドッジボール楽しかった?』
高学年向けの児童文学書を呼んでいた湊が、顔を上げにっこりと朔良を迎え入れる。
「!」
一瞬……ほんの一瞬、残像が見えた。
いつもの、光景。
だがそれは、窓から吹き抜ける風の煽りを受けて、バサバサと翻るカーテンが落ち着くと、あっという間に掻き消されてしまった。
「……」
朔良はドアノブを掴んだまま、立ち尽くした。
同室だった湊の痕跡はどこにもない。
読書が好きだった湊の本棚や、孤児だからとバカにされないために一生懸命に勉強していた学習机、真面目なわりに服装には無頓着だった洋服ダンスや、朔良が怖い夢を見たと言っては、たまに一緒に眠った二段ベッド……。
持ち主のいない家具たちが、中身のない不完全な状態で並んでいる。
湊とともに過ごしたものが全て失われたその部屋は、朔良の知る部屋とは全く違っていた。
どこかひんやりとする自分の部屋に足を踏み入れることが出来ず、立ち尽くしていた朔良の頬に一粒の涙が滑り落ちていった。
その道筋を辿るように、涙は次々と流れ出る。
そうなると、もう堪えることが出来なかった。朔良は嗚咽を漏らしながら、その場に泣き崩れた。拭っても拭っても、涙は止めどなく流れる。
たった一人の肉親と別れ、平気なはずがない。
湊にも朔良だけで、朔良にも湊だけだったのだ。いつも一緒に過ごし、笑うのも泣くのも一緒だった。どんなに辛い時でも、湊がそばにいてくれたから朔良は乗り越えることが出来た。
そう。両親が事故で亡くなった時も……。
「湊、……みなっ」
でも朔良は湊に笑顔を強要した。
平気なのだと主張する朔良の笑顔に、湊はどう思っただろう? 悲しんでくれないのか、と落ち込んだりしなかっただろうか? 薄情だと、怒ったりしなかっただろうか?
だが、今の朔良にはそれが精一杯だった。
湊を失った朔良は、その日以降、食事が喉を通らなくなり、外に出て遊ぶこともなくなった。
そして――徐々に衰弱していった。
部屋のカーテンも開けず、二段ベッドの下のベッドで蹲るようにして布団に包まる。暗い部屋の中で、時計の秒針と自分の呼吸の音だけが静かな部屋に響いていた。
湊のいない部屋を見たくない。湊がいないことを実感したくない。
朔良は、湊のいない現実からずっと目を背けていた。そして思考を停止させることで、寂しさという感情を殺すようになっていった。
院長も職員たちも、何とかして悄然としている朔良を元気づけようとしたが、ことごとく失敗に終わり、朔良は反応すらしてくれなくなった。
そんな日々が一週間も続き、様々な手を使い果たした院長も、いよいよ病院を受診させることを考え始めた。強引にでもしなければ、幼い朔良の生命にも関わってくる。
「こんにちは。朔良ちゃん」
そんな時、朔良の前に現れたのが工藤だった。
「初めまして。僕は工藤要人って言います」
布団に包まったままの朔良の背中に、優しげな声で話しかける。
しかし朔良には届いていないようだ。ピクリとも反応しない。
「ここじゃないんだけど、隣町で弓道を教えているんだ。今日は父に言われてね、朔良ちゃんに会いに来た」
何故自分に? などという疑問も朔良の脳裏には浮かばなかった。ただ、工藤から発せられる声という音だけが、部屋にこだまする。
「……」
――なるほど。院長の言った通りだな。
工藤は事前に聞かされていた院長の言葉を思い出した。
『届かないのです……』
そう言って、困りきっていた院長の顔も同時に思い出す。
しかし工藤には、朔良の耳に絶対に届くとっておきの魔法の呪文を持っていた。
「朔良ちゃん。湊くんに会いたくない?」
「!」
その魔法の呪文に、朔良の体が大きく動いた。
工藤はその反応に顔を綻ばせる。どうやら工藤の声が届いたようだ。
「成政はうちの遠縁なんだ。あ、遠い親戚っていう意味ね」
さらに朔良の肩が揺れる。
――親戚……?
一瞬、迷うような間があったが、朔良はゆっくりと体を回転させてから、おずおずと布団から顔を出した。
「!」
反応してくれたことに顔を綻ばせた工藤だったが、朔良の顔を見て一瞬にして真剣な表情を作った。
食事をしていないのが一目で分かるほどに、朔良の頬は痩けていた。血色も悪く目も若干窪み、生きる気力がまるで感じられない。
青白い顔で窺うように不安気に見つめてくる朔良に、工藤は得意の笑顔で応じることにした。
「うちにおいで」
「……?」
工藤の言葉の意味が分からず、朔良は眉根を寄せて微かに首を傾げた。
「遠縁だけど、ちゃんと湊くんに繋がっているよ」
――湊に繋がってる?
「湊くんに会えるよ」
――湊に会える? 会って……良いの?
「
――……行っても、良いの?
「
「……」
工藤の優しい笑顔が、朔良の目に眩しく映る。
それは孤児院の名前と同じ、朝の訪れを告げてくれる柔らかい陽の光のように、暗く閉ざしていた朔良の心を瞬時に明るく照らしていった。
「んっ、くっ……」
心の底から溢れ出すものが我慢出来なくなった朔良は、出していた顔を再び布団の中に戻し、体を小さく丸めてしゃくりあげるように泣いた。
湊と離れた最初の日以来、泣くことをせず食事もせず、ただじっと布団の中で身を固くしていただけだったのだが、それでも枯れることのなかった滂沱の涙は、朔良の頬を瞬く間に濡らしていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます