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第一・第二体育館、武道館、弓道場。
この四つの建物は並列するように建てられており、各館は一つの屋根付き渡り廊下で繋がっている。授業や部活で使用する際は、その渡り廊下を通って、それぞれの館内に移動しなければならない。
部活でいうと、バレー部やバスケ部、卓球部やバドミントン部などは体育館、柔道部や空手部、剣道部は武道館、そして言うまでもなく、弓道部は弓道場を使用する。
部活中は、威勢の良い掛け声やボールの音などが響き、活気に満ち溢れている空間だ。特に武道館は、体格の良い男子の野太い声と、地に重く響く鈍い音が振動し、近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。部活中の時は、覇気がダダ洩れしているからか、オーラが全く違う。
それと正反対なのが弓道場だ。四つの建物のうち校舎から一番離れているため、放課後の度に繰り広げられる帰宅部たちの尽きない談笑や駄弁が、武道館からのダダ洩れ覇気のおかげで、弓道場に届く前に掻き消されてしまう。隣からの異様な空気が度々漂ってはくるが、弓道場は弓道一本なため、体育館や武道館に比べればはるかに静かな空間だった。
学校周囲を囲む木々が、校舎やグラウンドとともに体育館や武道館、弓道場をも等間隔で縁取るように植樹され、学校全体の雰囲気を明るくしている。
そんな心地良い自然環境も整った木々と弓道場との細い路地の一角を陣取っているのが、二年の
「……午後からサボるか」
学生カバンを枕にし横になった弌夜は、五月晴れの青空を恨めしく眺めながら、口癖になっている言葉を呟く。
ここ最近、午後の授業はずっとサボっていた。
特に理由などないが、弌夜にとって午後の授業は一番退屈で、拘束されている窮屈な時間に感じてしまうのだ。
大抵、指定席になっているこの場所でサボっているのだが、それも段々、退屈に感じてしまうようになってきた。新しいことを始めてみようか? と珍しく思ったこともあったが、そうすることすら面倒に思え、行動に移すのも億劫になり、結局、昨日と同じことの繰り返しを余儀なくするのだった。
本気で変えようと本人が思っていないので、この惰性が一番合っているのかもしれない。
「眠い……」
大きな欠伸を洩らしながら、再び呟く。
サボるなら家に帰れば良いのだが、家には専業主婦の母親がいる。説教されることを承知の上で帰るような馬鹿はいないだろう。かといって、制服のまま街中をうろうろして、補導されてもたまらない。
別に勉強が出来ないわけではない。現に弌夜は今までに学年十位以上を三度も経験している。授業に出ていなくても、中間や期末試験の成績は上位に君臨していた。
弌夜の性格なので、無論、塾などの窮屈極まりない空間にいたこともない。ただ、試験のヤマをはるのが、人よりずば抜けているだけなのである。
それでも、学年一・秀才の生徒にも解けない計算問題に、弌夜だけは正解していたり、古文の難読問題もきちんと書けているあたり、ヤマをはる才能だけでは説明出来ない弌夜の非凡ぶりが発揮されていた。
「はぁ~、退屈」
晴天の空に向かって、少し閉じかけの目でゆっくり瞬きを繰り返しながら、ぼんやりと呟く。そしてそのまま重くなってきた瞼に促されるように、弌夜は眠りについてしまった。
……スタンッ……スタンッ
「……?」
それから何時間くらい眠っていたのか、気付いた時にはオレンジ色の夕陽が弌夜の顔面をチラチラと照していた。
周りの木々のおかげで、直接強い夕陽に照らされることはなかったが、それでも眩しそうに目を擦った弌夜は、まだ重たい体をむりやり引き起こした。起きる直前に聞いた音を探すように、開き切っていない両目で辺りを見回す。
スタンッ
再び間近で聞こえたことで音の正体が分かった弌夜は、自分が背にしていた弓道場の壁を見つめた。
「あぁ、弓道か」
――ということは、今はもう部活時間か。
よくよく聞けば、弓道場と隣接している武道館から、筋肉男たちのむさ苦しい野太い声も、ウザいほど耳に入ってきた。
耳障りなどら声に、弌夜の眉も不機嫌に歪む。
これから先は、静かで心地良い眠れる環境ではなく、それとは遠くかけ離れた、騒音とともに頭痛にも苛まれるような環境になる。
「帰ろ」
弌夜はけだるそうに腰を持ち上げた。
制服に付いている埃や砂を払いつつ、何気なく横に視線を投げてみる。
弓道場は窓の部分だけ、細かい網目のある緑色の網が張り巡らされている。流れ矢が外に出てしまわないように配慮されているのだ。
邪魔で仕方なかったが、網目越しに弓道場の中を覗いてみると、弓道部員たちが熱心に部活動に励んでいた。ある者は的を見据えて弓を構え、またある者は顧問と思しき人物の話に真剣に耳を傾けている。
武道館とは全く違い、凛とした程良い緊張感に包まれた弓道場は、とても澄んだ粛然とした雰囲気があり、弌夜の好む環境そのものだった。
スタンッ
矢が的中する音に、弌夜も小さく「おぉ」と感嘆の声を洩らす。その矢は的のほぼ中心に中っていた。
誰が射ったのかと、見ていた的から真っ直ぐ横に視線を流すと、黒髪を一つに束ねた女子部員が目に入った。残心の姿で的を見据えている横顔の輪郭が、夕陽のオレンジ色に上手く縁取りされ妙に綺麗だ。
眠たげに細められていた弌夜の目も、一気に開く。
弓道を深く知っているわけではないのに、その立ち姿から何故だか上手だと思った。
しばらく的を見据えた状態で立っていた女子部員だったが、横から男子部員に話し掛けられたことで、その姿勢は解かれた。
「……!」
半ば呆けるように見つめていた弌夜だったが、ふと自分に重なる影に気付き、意識を手前に向けた。
焦点が合った弌夜の目に、いつの間にか自分の真正面にいた部員の視線がかち合う。
「初めまして。弓道部主将の克生です。もし良かったら、中にどうぞ?」
「……」
網目越しに人懐っこい笑顔で問い掛けられるが、寝起きで回転の悪い今の弌夜の頭では、その意味を理解するのに時間が掛かった。無意識に小首を傾げてしまう。
「急にごめんね? あんまり熱心に見てるみたいだったから、つい。良かったら観覧席にどうぞ?」
付け足された言葉に、あぁ、と納得したように薄く口を開く。
しかしそんなに弓道に興味があるわけでも、入部しようと思っているわけでもない自分が、見学などして良いのだろうか?
そんなことを考えたが、その疑問はすぐに解消された。
「別に勧誘してるわけじゃないから安心して。見たいなぁと思った時に、気軽に見てもらえたら良いんだ。僕たちも観客がいた方が、集中力を高める練習になるから助かるし」
崩れることのない笑顔からも、無理強いする気が全くないことは手に取るように分かる。
その笑顔を見つめつつ、弌夜は少し黙考した。
弓道場の細い路地――結構長くこの場所を自分の居場所と位置付けていたが、弓道自体に興味を持つことはなかった。矢の的中の音も度々耳にしていたが、それでも見ようと思わなかったし、今日にしても単に気分が向いただけだ。
ただ、たった一人の女子部員の立ち姿を見ただけで、目を奪われたことは予想外だった。それに関しては、弌夜自身、驚きを隠せない。
今まで何をするにしても面倒だとしか思わなかった自分が、今は弓道を見てみたいと思っているのだ。驚きもするだろう。
だが、今の自分を変える良い機会なのかもしれない。いつもと違うことをすれば、嫌気がさし始めていたこの怠惰な日々も、少しは変わりそうな気がする。
「じゃあ、少しだけ」
「どうぞ」
歯切れの悪い弌夜の答えにも、克生は笑顔で応諾した。人の良さがここまで滲み出ている人も、そうそういないだろう。女子から好かれる要素は、こんなところにもあった。
「克生先輩」
弌夜を案内しようとしていた克生に、一人の女子部員が声を掛けてきた。近付いてきたのは、立ち姿だけで弌夜の目を奪った、あの女子部員だ。
「ん? どうかした?」
「顧問室で工藤師範が呼んでます」
弓を持ったまま、そばまで歩み寄った女子部員は、そこで弌夜がいることに気付いた。克生の影になって見えていなかったようだ。
微妙に気まずそうな表情を浮かべる。会話を邪魔してしまったと思ったらしい。
「ん、分かった。ありがと」
克生は特に気にすることなく、一つ頷いた。
「じゃあ、泉水にお願いしても良いかな? 彼の案内」
「案内、ですか?」
小首を傾げる朔良に、克生が「見学希望なんだ」と言って笑う。
「じゃあ僕は師範のところに行ってくるから」
「……分かりました」
朔良の返事を聞いてから、小走りで去って行く克生の後ろ姿を見送ったあと、朔良は弌夜の方に向き直った。
「では、向かって左手にある入り口から中に入ってもらえますか? 入ったら、出来るだけ壁際を歩いて私のところまで来て下さい」
そして弌夜側から見た方向の戸口を教える。
――壁際?
朔良の言葉に、意味を図りかねた弌夜が眉根を寄せた。
不思議に思いつつも朔良の指示した戸口から中に入り、言われた通り出来るだけ壁際を歩いて自分を待つ朔良の元に向かった。
スタンッ……スタンッ
歩く道すがら、真横から何度も的中の音が耳に入ってくる。
視線を横に向けたまま歩いていた弌夜は、ここでようやく朔良の言っていた言葉の意味を理解した。
「だから、か……」
部員の行射を見ながら、朔良の元まで辿り着いた弌夜がボソッと呟く。
「正規の入り口は反対側なので、こっちの矢取り道は少し狭いんです。それにこっちは矢道との境が曖昧なので、壁際を歩いてもらいました。今度来る時は、反対側の入り口から入って下さい」
矢取り道とは、的に中った矢を取りに行くための通り道、矢道とは、射場と的場の間にある芝張り(あるいは土)の広場の名称。
とどのつまり、矢が飛ぶ場所からなるべく離れて歩いて来い、という意味だ。
「えっと、私は弓道部二年の泉水と言います。案内といっても見ての通りなので、特に案内するような所はないんですが……」
「敬語じゃなくて良いよ」
弌夜が朔良の言葉を遮る。
「同学年だ。俺は二Aの伊崎」
弌夜の名を知らなかったわけではないが、今まで同じクラスになったことも、喋ったこともなかったため、朔良は自然と敬語で話していた。弌夜に関していろいろな噂も耳にはしていたが、特に嫌悪感や恐怖感などは抱いていない。あまり接点がないからか、遠い存在のように思っていた。
それは弌夜の方も同じだろう。朔良が学年を言ったあと、敬語を崩せと言ってきたということは、朔良の学年も知らなかったことが窺える。
「分かった」
そう言って頷くと、朔良はすぐに敬語を解いた。
「見学するなら、二階の観覧席から見た方が良く見える」
朔良が二階を指差し、観覧席を教える。
二階といっても緩やかな階段は十段弱しかなく、そこまで高いわけではない。席は三十席ほどあり、椅子と椅子の間隔はそれほど広くはないが、射場を一望出来るスペースは充分に確保されていた。
弌夜も朔良が指す二階を見上げ、理解したように一つ頷き返す。だが、すぐ朔良の方に視線を戻した。
「泉水のも見れる?」
「……えっ?」
急に話をふられ、朔良は少し目を瞠った。
「俺、泉水のが見たいんだけど」
「わ、たしの?」
真顔で言われ少し困惑してしまったが、弌夜の案内が終われば自分も部活に戻るので、必然的に朔良の行射も見ることになる。
「私も行射するから、ここにいれば見られるけど……?」
「そ。なら見てる」
「……」
どこか掴み所のない弌夜に、怪訝そうな表情を返すしか出来ない朔良だったが、弌夜が自分から離れ二階への階段を上って行くのを見送ると、気を取り直し自分も部活へと意識を戻した。
二階席に着いた弌夜は、最前列の中央の席に、深い吐息とともに腰を下ろした。弌夜以外に見学している生徒は誰もいない。見学会前なので生徒たち自身が自粛しているのかもしれない。
二階からの眺めは、朔良の言った通り、よく見渡せるようになっていた。少し俯瞰して見ているような格好になっているので、若干、迫力には欠けるかもしれないが、それでも弓道の行射、射術を見るには最適な場所だった。
弓道場全体の粛々とした空気を初めて肌で感じ、弌夜も自然と気が引き締まる心地がする。同時に背筋も伸びているような気がして、どうにもむず痒かった。
「俺には合わない空間なのかも……」
けだるそうに姿勢を崩し、背凭れに体を預けながらぼやいた弌夜だったが、それでも弓道場の雰囲気は嫌いではなかった。基本、静かなところが好きなので、むず痒く感じても窮屈には思わないのだろう。
逆に弓道場の方が、弌夜を拒んでいるような気がするから、自分に合わないと思ってしまうのかもしれない。
スタンッ……ストッ
「どう? 少しは弓道に興味が出てきた?」
次々と聞こえる行射と的中の音に、次第に心地良さを感じていた弌夜に、横から声が掛けられた。
自分の横に立つ人物を見上げるように視線を上げると、そこには先程弌夜を弓道場に招き入れた克生がいた。
「さぁ? あぁ、でも泉水のは見てみたい……です」
どうでもいいような倦怠感を漂わせた態度と表情で言い、最後、思い出したように敬語を付け足す。
だが、そんな細かいことを気にしない克生は、それよりも弌夜の言葉に少なからず驚かされた。
「泉水の行射に惹かれたのなら、君、弓道の素質あるかもよ?」
意味深に言われ、弌夜が眉を潜める。
「あ、泉水の番」
再び一階を見下ろした克生が、戸口側から二番目にいる人物を指差す。
「最初から見ててごらん」
自信あり気に笑う克生を横目でちらりと一瞥したあと、弌夜は朔良の行射に意識を集中させた。
その視線の先で朔良が射位に移動するため腰を上げる。摺り足で射位に立った朔良は、呼吸を整えるようにゆっくり深呼吸を繰り返し、八節に倣って行射した。
スタンッ
矢は見事な弧を描き、的に的中した。中っているのは、ほぼ中心だ。そこからしても朔良の行射の腕前が熟練していることが、素人目にも良く分かった。
先程と同じように、残心姿の朔良の横顔に夕日が当たり、輪郭をオレンジ色に縁取っている。
――やっぱり、綺麗だ。
朔良に見惚れつつ、弌夜がそう思った時。
「綺麗でしょ?」
「!」
驚いた弌夜が、反射的に克生を見つめ返した。
一瞬、心の中を読まれたのかと思ったが、克生の目は残心姿の朔良に向けられていた。
「泉水の行射は、やっぱり人を惹きつける魅力があるんだよなぁ」
しみじみと再確認したように呟く。
「泉水のは流れがあるんだ。だから見惚れる。そう思わない?」
自分に注がれている弌夜の視線を感じていた克生だったが、それさえも気にならないほど、自分の目はまっすぐに朔良を見つめていた。
――何度見ても飽きない。つい顔も綻んでしまう。
そんな克生の表情を盗み見るように見つめていた弌夜は、ほんとに好きそう、と心の中で呟いた。隣から漂ってくる穏やかな空気が、そう物語っている。
だが弌夜は、微かに眉を潜めた。綺麗なのは分かるが、綺麗過ぎるのが腑に落ちない。
「泉水は、弓道どれくらいしてるんですか?」
「えっ?」
ふいに問い掛けられた克生は、射場にいる朔良から視線を外し隣の弌夜を見たあと、「う~ん」と唸り声を上げた。
「中学の頃からしてるみたいだから、三~四年はしてるんじゃないかな? 確かなことは言えないけど」
なるほど、と頷く。それなら射術が洗練されているのも納得出来る。経験年数が長いから、他の人より上手いのは当然と言えば当然だろう。
「弓道歴は長いけど、泉水の場合はそれだけじゃないよ」
再びにっこりと笑った克生から、弌夜の思考を読んだかのような言葉を返される。
「君なら、泉水を見ていれば分かると思う」
簡単に教えようとしない克生の態度から、まるで小テストの課題を出されたような気分になった。自分で考えてみろ、と……。
「じゃあ、僕は射場に戻るね? 好きなだけ見て、好きな時に帰って良いから」
克生の微笑みを正面から受け、少し怯んだ弌夜だったが、小さく手を振って階段を下りていく克生に、感謝の意で軽く頭を下げた。
そして眼下にいる朔良に視線を戻す。
「見てれば分かる、ね」
克生の言葉を復唱し意識して朔良を注視していたが、その意味が分かるまでにそう長い時間は掛からなかった。
何回か自分の行射をし終えた朔良は控えに正座し、他の部員の行射を見つめる。自分の行射に集中するだけでなく、他の部員の行射からも学ぼうという朔良の真摯な姿勢がそこにはあった。自分に足りないところを、見つけようとしているのだろう。的に的中した後の朔良の表情を見れば、先程の自分の行射に満足していないことは一目瞭然だ。的中するだけじゃなく、的中の質の善し悪しまで考えているらしい。
結局、克生の言葉通り、好きなだけ(部活が終わる時間まで)朔良の行射を堪能したあと、弌夜は自分でも不思議なほど満ち足りた気分で帰路に着いた。
部活後、制服に着替えた朔良は学校の正門の前で工藤を待っていた。
ズレ落ちそうになったスポーツバッグを肩に掛け直し体の向きを変えると、自分の真横まで傾いた眩しい夕日が朔良の顔を照らす。目を細め、夕日を遮るように手を翳した朔良は、その翳した手首に着けていた腕時計で時間を確認し、無意識に溜息を吐いた。
――昨日のこの時間は、湊が隣にいたのに。
そんなことを思い、気落ちしてしまった。
朔良が湊に会ったのは、半年ぶりだ。だから昨日は、滅多に会えない湊が自分に会いに来てくれたことが、本当に嬉しかった。
でも、会うと……会ってしまうと、会えない時間の辛さが倍増する。その辛さに耐えるのが、朔良には苦しかった。
「ごめん。待たせちゃったね」
朔良の目の前に車を止めた工藤が、助手席側の窓を開け、運転席から声を掛けた。
「どうかした?」
少し落ち込んでいるような朔良に、工藤も心配気な表情を浮かべる。
「……あ、いえ。大丈夫です」
泣きそうになっていた表情をむりやり笑顔に変え、朔良はいつものように工藤の車に乗り込んだ。
学校に面している道を抜け大通りに出ると、夕方の帰宅ラッシュで家路へと急ぐ車が多く、道路は混雑していた。かくいう朔良たちも、その帰宅ラッシュの混雑に一役買っていることになるのだが、二人ともさして渋滞で苛つくこともなかった。気が長いのか、それとも鈍いだけなのか? 取り敢えず、いつものことなのでもう慣れていた。
日も暮れていき、空の色が徐々に濃い藍色に染まってくると、スモールライトを点ける車が増えてきた。今日も家に帰り着くのは八時くらいになるだろう。
「そう言えば、今日、熱心に朔良ちゃんを見てる男子がいたね? もしかして朔良ちゃんのファンだったのかな?」
車が動き出して最初の赤信号に引っ掛かった時、思い出したように工藤が訊ねてきた。
車窓を眺めていた朔良が、ゆっくりと工藤に視線を向ける。そして少し考え込んだあと、小首を傾げた。
「分かりません。私のことを知らなかったのは確かですが、私の行射を見たがっているようでした」
「ん~、ということは、朔良ちゃんの行射を見て気に入ったってことかな?」
「そう、なんでしょうか?」
「だとしたら、朔良ちゃんを見学会のメンバーに加えたことは正解だったみたいだね?」
にっこりと微笑む工藤に、朔良は複雑そうな表情を浮かべた。どこか面映ゆい。
「昇段審査、受ける気はないの?」
「……」
工藤の言葉に、朔良はグッと口を噤んだ。
強制ではない。それは工藤の優しい表情と穏やかな口調から分かる。
工藤の視線を真横から受けつつ、朔良はどう答えようか考え込んでしまったが、信号が青に変わったことで、工藤の視線も朔良から外された。工藤の気が運転に移ったことで、朔良は少し救われた気分になる。
無毒で無害な蛇を前にした、小さな蛙の心境から脱することが出来、再び車窓を眺めた朔良は、工藤に聞こえないよう小さく溜息を吐いた。
現在、朔良は弓道二段の保持者だ。顧問である仁科や工藤に促され、取り敢えず受けた審査で、見事に合格した。だが、そこから段を上げたいという欲は今の朔良にはなかった。
「朔良ちゃんなら、高校在学中に絶対に三段まで取れる。僕はもっと取れると思ってるけどね」
視線は前に向けたまま付言する工藤を、朔良はちらりと一瞥した。
期待してくれているのかと思えば、もちろん嬉しさはある。今以上に上達したいという思いがないわけでもない。だが、心の準備が出来ていない状態で審査を受けても通らないような気がする。
昇段審査を受けるモチベーションがない今の朔良は、受ける前からすでに気持ちで落ちていた。
「良いよ。無理は言わない。この話はこれでおしまい」
困惑したように押し黙った朔良を気遣い、工藤が苦笑しながら話を終わらせる。
昇段の話が切れたことに、朔良はあからさまに安堵した表情を浮かべてしまった。
「はっきり断っても良いんだよ? 朔良ちゃんは未だに僕たちに遠慮するから」
――しまった! あからさま過ぎた。
工藤が面白そうに笑ったことで、安堵してしまった自分の態度を後悔した。バツが悪くなった朔良は、赤くなった頬を隠すように俯いた。
そんな朔良の心情を的確に読み取った工藤が、聞こえないくらいの小さな息を吐く。そして少し寂しそうに微笑んだ。
「もっと頼って良いのに……わがままも言って良いのに」
口調から工藤の優しさがひしひしと伝わり、朔良が伏せていた視線をおずおずと戻す。
「朔良ちゃんが嫌なら、ちゃんと断って良いよ? 僕は怒ったりなんかしないから」
ハンドルを握る工藤の横顔を眺めていた朔良は、ふと物思うようにゆっくりと視線を下ろした。
受審することを拒否しても、怒らないことは分かっている。それは今までの工藤を見ていれば、簡単に分かることだ。いや、工藤だけではない。工藤の両親も居候の朔良に優しく接してくれる。おかげで朔良は笑えるようにもなった。日に日に増していく、感謝してもし足りない恩を、朔良はいつも感じていた。
「君たち二人とも遠慮し過ぎるから困るね」
苦笑した工藤は、「今日の夕飯は何だろう? 僕も朔良ちゃんも好きな、和食だと良いね?」とにっこりと笑い、さり気なく話題を変えてくれた。
こんな優しさに、朔良は何度も助けられてきたのだ。どんなふうに恩返ししていけば良いのか、それが朔良の一生の課題でもあった。
そして車窓に視線を戻した朔良は、頭の中で先程の言葉を反芻させる。
『君たち二人とも、遠慮し過ぎるから困るね』
二人とも……。もう一人は言わずもがなだった。
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