君に降る想いの欠片
aoi
1
新緑の季節。空は清々しいほど晴れ渡り、爽やかな五月の風がそよいでいる。
車から下りた
陽の光を遮るように左手を翳す。それからふと翳している自分の手に焦点を合わせた。ゆっくりと下ろす手を追うように顔を俯かせる。
「僕のこの手は、いつになったら届くんだろう……?」
ぽつりと呟く。
その声は誰に聞こえるともなく、新緑薫る爽やかな風に掻き消された。
「
背後から名前を呼ばれた
その視線の先には部活の先輩で主将の
長身で引き締まった体格に整った顔立ちを持ち合わせている克生は、女子生徒の間でもとても評判が良い。さらに弓道衣である袴姿の時は、その人気も倍以上に割り増しされる。
校内でも十本の指に入るくらいのイケメンだ。
そんな克生に声を掛けられた朔良は、持っていた弓具を壁に立て掛けると射場をグルリと見回した。しかし工藤の姿は見えない。
小首を傾げていると、「顧問室で待ってる」という克生の付言が聞こえた。
弓道部顧問室は師範である
「明日、よろしくな」
すれ違いざまにポンッと肩を叩かれ、克生に言葉を投げ掛けられる。
疑問に思い一瞬眉を顰めた朔良だったが、師範を待たせるわけにもいかないため、その疑問は保留にすることにした。
弓道場から出て数歩のところにある顧問室のドアの前に立ち、緊張のために少し早くなっている鼓動を落ち着かせる。それから軽くドアをノックすると、中から「どうぞ」という工藤の返事がすぐに返ってきた。
「失礼します」
許可を得た朔良がドアを開け一歩中に入ると、返事をした工藤より先に仁科が視界に入った。
「よぉ~。調子はどうだ?」
クマの絵柄のついたコーヒーカップを片手にニヤリと笑う仁科は、今が部活中であるということを忘れさせるほど、まったりと寛いでいた。しかもスーツ姿だ。
「仁科は無視して良いよ」
奥から弓道衣姿の工藤が、呆れ顔で助け船を出す。
二人は高校からの親友(?)という間柄で、お互いに砕けた接し方をしている。たまに漫才コンビを見ている気分になることは、禁句になっている(工藤が敏感に反応する)ので、ここでは口に出さないでおこう。
「明後日の見学会のことで話があったんだ。ちょっとここに座って」
そう言った工藤は、そばにあったパイプ椅子を引き出した。
促された朔良は軽く頭を下げ、その椅子に腰掛ける。
「明後日の昼休みに予定されてる見学会に、泉水も射手メンバーに入れようと思っているんだ」
「私も、ですか?」
戸惑い気味に聞き返す朔良に、工藤はにっこりと頷く。
朔良の通う
五月中であればいつでも見学会を開くことが出来るが、見学会が開けるのは一回だけだ。そのため、その一回が人気の部活動とかぶらないように、各部活動は見学会日を慎重に計画する。時間帯は昼休みか放課後で行われ、時間は三十分から四十五分の間。そんな規則のもと、新入生の興味を惹こうと、各部活動は見学会に全力を注いでいた。
そして当然ながら、朔良が所属している弓道部も例外ではなかった。
「メンバーは克生と
「……」
それを聞いた朔良は思案顔になる。
今出た名前は全員三年生の男子で、個人戦はもちろん、団体戦の大会でも必ず選抜メンバーに名前が挙げられる実力の持ち主たちだ。
それを思えば、二年生の自分がメンバーに入るのは筋違いのような気がする。ましてや見学会は部活動のお披露目の場。メンバーは厳選して決められるはずなのだが。
「お前推薦したの、その三人だからな?」
黙考した朔良に、仁科が面白そうに笑いながら補足した。
「あまり気負わなくて良いよ。でも、僕も泉水が適任だと思うけどね」
工藤がやんわりと言うが、その言葉は仁科の言葉以上に、朔良に断る気を失わせた。生徒の推薦より、師範の推薦の方が断りづらいに決まっている。
明らかに頷かせるための付言だったような気がしたのは、朔良だけではなかった。
「逃がす気なさそうだぞ? こいつ、こう見えて意外と頑固だからな。諦めて受けろ」
そう言って仁科は大声で笑った。
朔良は困惑した表情で、二人に気付かれないように溜息を洩した。
実力を認められているのだと思えば、朔良にとっても嬉しいことなのだが、大会とは違った緊張感の中で上手く射る自信があるか? と問われれば、頷くのに戸惑いが生じてしまう。
「泉水、いつもの部活と同じことをするだけだよ? 特に変わったことをするつもりはない。それに本来見学会っていうのは、そういうものだろう? 普段通りのことを見せなきゃ意味がない」
朔良の思考を読んだかのように、工藤が言葉を掛ける。
確かに、見学会とは普段の部活動を見てもらうためのものだ。どんな練習をしているのか、どんな魅力があるのか、その部活に入ることで自分にとってどんなメリットがあるのか。
それらを少しでも理解してもらえるように開くのが、見学会の目下の目的である。
「どう? 泉水」
続けて問われ、朔良は逡巡しつつも「……分かりました」と頷いた。
「良かったぁ。絶対オトして下さい、って脅し掛けられてたんだよね。克生に」
「脅し?」
心底安堵したように言う工藤に、朔良は不思議顔で訊ねる。
「泉水の
八節とは、正確には『
動作は八つ。
行射するための下半身を作る『足踏み』、安定した上半身を作る『胴造り』、弓を構える『弓構え』、弓を頭の上まで持ち上げる『打起こし』、弓を左右の手で均等に軽く引く『引分け』、胸の前で弓を思い切り引く『会』、矢を放つ『離れ』、射終えた後の的を見据えている姿勢の『残心』。
射法八節は弓道の基本動作である。弓道をする上で非常に大切な動作ゆえ、日々の練習で必ず身に付けておかなければならない。
工藤はそんな朔良の八節に、克生が惚れているという。
朔良は目を瞠った。
「克生の気持ちは僕も分かる。そこにいる仁科も、ね?」
不意に話を振られ、ちょうどコーヒーカップに口を付けていた仁科は、一瞬眉を上げたが、その後、目を細めコクリと頷いた。
「
当時を思い出し、工藤がふっと忍び笑いする。
隣で自分のことをマヌケと言われても、当の仁科は全く気にしていないようだ。自分で淹れたインスタントコーヒーの香りを、目を瞑って大げさに堪能している。
憤慨しないことを不思議に思っていないところからも、工藤が仁科の性格を知った上で言ったことが、ありありと窺えた。
「……」
真正面から工藤に言われ、自分の行射が人にどう見られているのか初めて知った朔良は、少々照れ臭そうに俯いた。
褒められるというのは、恥ずかしいものである。でも当然ながら嫌な気は全然しない。むしろ、そういう風に見てもらえていたことに、感謝の気持ちが湧いてきた。
「新入生に見せるには一番良い行射です、って克生が言ってた。自分が惚れたんだから、泉水の八節に惚れる生徒は必ずいるはずだ、とも言ってたよ」
工藤がにっこりと笑う。
人前であまり褒め言葉を口にしない克生だからこそ、影でそう言われていたのかと思うと、嬉しさもひとしおである。
「まぁ、赤坂は直感で泉水が良いって言ってたな。真木原も理由は言わなかったが、赤坂の言葉に黙って頷いてたぜ。お前、先輩どもに好かれてんなぁ?」
ニヤニヤと、仁科が口を挟んできた。
仁科が言うと、邪にしか聞こえないから不思議だ。いや、本人が邪な気持ちで言っているから、そう取ってもきっと文句は言わないだろう。
「泉水。仁科は虫……いや、無視ね」
「……お前、今わざとイントネーション間違ったろ?」
「仁科が横から余計なチャチャ入れるからだろ? 嫌なら黙ってな」
本当に傍から見れば、立派な漫才コンビである。
「取り敢えず、これが見学会の流れ。泉水の射順は三番手。真木原の後ね」
工藤から一枚の紙を受け取り、朔良が軽く目を通す。
行射はそれぞれ二回ずつ。正式な大会と同じく、前の人が射終えてから次の人の行射となる。その後は新入生に実際に行射してもらう部活動体験、それから質疑応答の時間が設けられていた。
やはり、体験してみないと分からないことはたくさんある。弓具に触れるだけでも良い経験になるはずだ。
「話はそれだけ。射場に戻って良いよ」
再びにっこりと微笑んだ工藤の言葉に、一つ頷き返した朔良は「失礼します」と一礼して顧問室を退室した。
「おっ、泉水! 聞いた? 明後日のこと」
弓道場に入って最初に声を掛けてきたのは赤坂だった。
赤坂は誰にでも人懐っこく話し掛けるため、先輩・後輩関係なく交友関係は広い。性格もまっすぐで裏表がないことから、男女問わず人気も高かった。
「あぁ、はい。今さっき聞きました」
「そっ。んじゃあ、引き受けたんだ?」
にこっと笑って小首を傾げる様は、格好良いというより可愛いの方が合っている。
童顔な顔立ちが、可愛さをより一層引き立てているのだが、本人は特に気にしていなかった。逆に可愛いと言われ、喜んでいるところを何度か見掛けたことがある。何でも良い方に捉える、ポジティブな性格でもあった。
「俺の次か。射順」
赤坂の後ろから会話に入ってきたのは真木原だ。
真木原はがたいの良い体を揺らしながら、朔良たちの前で足を止める。
無口で無表情なためか、初対面の相手には恐怖心を与えてしまうらしいが、話してみると、とても優しく面倒見の良い先輩である。ただ、慣れるまでに少々時間を有することは間違いないだろう。
そんな真木原から低い声音で訊ねられ、朔良は「はい」と短く返事をする。
「よろしく」
これまた低い声音で言われ、朔良は一つ頷いた。
そんな朔良の頭を二回ポンポンと軽く叩いた真木原は、そのまま二人から離れ、弓具の調整をし始めた。
「あんなふうに見えて嬉しいんだよ、真木原。泉水と行射出来るの」
赤坂から意外なことを言われ、朔良は弓具に向けていた視線を真木原の方に向ける。
「メンバーに泉水が入れば絶対女子の入部も増える、って自信満々に俺に言ってた」
真木原の口から、そんな言葉が出てくるとは思いもしなかった朔良は、内心驚いた。
『先輩どもから好かれてんなぁ~』
そう言っていた仁科の言葉は、あながち間違っていなかった。
「もちろん俺もね? んじゃ、明後日よろしく」
朔良の肩をポンッと叩いて、爽やかに笑いながら、赤坂も自分の射位(矢を射る立ち位置)に戻って行った。
またもや気恥かしい気持ちになったが、明後日の見学会のこともあるので、朔良も気を引き締めるように自分の練習に集中した。
……スタンッ……ストッ
弓道場に小気味良い音が次々に響く。弓道場は基本、静かな空間なため、的中の音も空気中に波紋のように広がるのが分かる。
隣から聞こえるその音にも動じず、朔良は自分自身の精神統一に神経を集中させていた。
目を閉じて深呼吸を繰り返し、自分の鼓動の音を鎮める。そしてゆっくりと開いた朔良の目は、もう正面の的しか見据えていなかった。
八節に倣って姿勢をつくり、静かに弓を引いて朔良が矢を放つ。
スタンッ
その矢は見事な弧を描き、朔良の正面の的に的中した。
「……」
的中したにも関わらず、残心姿のままの朔良は、的を見据えた状態で不満そうに眉を顰めた。
「泉水、会の
難しい顔をしていた朔良に声を掛けてきたのは、工藤だった。
いつの間にか弓道場に来ていた工藤は、朔良の行射を後ろから見ていたらしい。いつもの癖を的確に指摘する。
「ありがとうございます」
残心を解いた朔良は、後ろにいた工藤の方に体を向け深々と頭を下げた。
自分でも納得のいく行射じゃなかった。
工藤の指摘で原因の箇所が分かった朔良は、射位に正座し、改めて呼吸を整え精神統一し始めた。
「不動心なのは相変わらずだな」
弓道場にスーツ姿という、顧問としてはあるまじき格好のままで、工藤に近付いてきたのは仁科だ。
それを見止めた工藤の口角が、微妙に引きつる。
「せめて、弓道衣で来てくれないかな?」
「俺がやるわけじゃないから良いの」
ニヤニヤと変な開き直りを見せる仁科に、工藤はげんなりと諦めの溜息を吐いた。いい加減な態度は、今も昔も変わらない。
だが、こう見えて部員思いなのも工藤は知っていた。
部員の欠点を聞けば、即座に答えることが出来る仁科は、不真面目な態度をとっていても、見るところはちゃんと見ている。部員が行射について訊ねても、素直に教えることはしないが、普段の会話や仕草で何気なく指摘している様は、弓道部の顧問たる一面を堂々と示していた。
残念ながら、それが部員に届かない時もあるが、それでも弓道部の顧問に適任だと工藤は思っている。
結局、そんな部分を知っているからこそ、仁科と友人関係という腐れ縁を続けていられるのかもしれなかった。
「ありがとうございました!」
部活終了時間になり、一か所に集まった部員たちが工藤と仁科に頭を下げ、元気良く声を上げる。
「お疲れ様。明後日は見学会、来月には県知事杯が控えてます。皆、体調には十分気を付けて下さい」
工藤が柔らかな笑みとともに、集まった部員に声を掛けた。
「明日は職員会議があるから、俺は部活には顔を出さない。各自でしっかり練習するように。それから、確かに知事杯が控えてはいるが、だからと言って見学会で手を抜くことは許さん。いい加減な態度で臨んでいたら、その場で退場させるからそのつもりでいろ。他の部員どもは、見学会の選抜メンバーの行射を見て、自分に何が足りないのかを学び、今後の行射に活かすように。以上!」
部員の顔が一瞬でピリッと引き締まる。
腕組みで仁王立ちする仁科から力強く発せられた言葉は、その場の全員に程良い緊張感を与えた。
――さすがだな。
隣に立つ仁科に視線を流し、工藤は苦笑した。
今の仁科の言葉は工藤の胸の内にもあった。しかし工藤が言っても、今のように部員の士気を高めるような上手い言い方は出来ないだろう。
仁科から発せられた言葉だからこそ、部員の心にまで入り込むことが出来る。スーツ姿なのに、不思議と仁科から弓道部顧問としての貫禄を感じられた。
普段はだらけまくりなのに、いざという時いつもオイシイところをもっていく仁科に、工藤は敵わないな……と小さく嘆息した。
「礼!」
克生の号令で、工藤と仁科にもう一度部員が頭を下げる。
そして掃除や使用物品の片付けをするため、部員たちが蜘蛛の子を散らすように散り散りになっていった。
「仁科先生」
クルリと背を向け、弓道場を出ようとしていた仁科に、克生が声を掛けた。
「んあ? なんだ?」
「明後日の見学会は
色的とは、得点を競う時に使用する的のことで、白黒ではなく、赤や青などの色がついている的のことである。
「いや、普段通りで良いだろ? 試合じゃないんだし、部活動を見てもらえば良いんだから」
「分かりました。それから、観覧席までの案内や注意事項の説明は、仁科先生にお願いしても良いですか?」
「えぇぇぇぇぇ~~~?」
仁科は嫌な顔を惜し気もなく露わにする。
それを真正面から受け取った克生は、呆れるように大きく息を吐いた。
「あのですね? 主将である僕は射手メンバーに選ばれてるし、部員たちも新入生向けのしおり作成や観覧席の準備で忙しいんです。当日は先生にも動いてもらわないと、時間内に終わることは難しいです」
「それは僕がするから良いよ」
二人の会話を聞いていた工藤が、間に入ってきた。
「克生も仁科に安心して任せることは出来ないだろ? 僕も明後日は一日空いてるし、部活にもそのまま入れるから」
工藤の言葉に引っ掛かりを覚えた仁科が眉をピクつかせた。
「お前、最初に余計な言葉が入ってたぞ?」
「心からの本音だからね」
「ほんっとに助かります。工藤師範」
克生も肯定するかのように、工藤に深々と頭を下げる。
「お前らなぁ~」
「克生が快く行射出来るように配慮するのも、顧問や師範の務め。そのために動くのは当たり前だろ?」
正論を言われ、仁科はグッと黙り込んだ。そしてバツが悪そうにソッポを向く。
「だからそっちは気にしなくて良い。克生も行射に集中しなさい」
「はい。ありがとうございます」
再度頭を下げ、克生は二人から離れた。
「仁科も。新入生の方は僕がやるから、部員の方に目を向けてやって」
「……」
思考を読まれ、ちらりと視線を投げると、含んだ笑みを浮かべる工藤と目が合った。
仁科が眉を顰める。
「ったく、お前は食えねぇ~な」
「それは、お互い様でしょ?」
にっこり笑う工藤に、どこか敗北感を感じつつ、仁科は深い溜息を吐いた。
大して汚れてもいない弓道場の清掃も終わり、朔良は更衣室で弓道衣から制服に着替えていた。
着慣れている制服に袖を通すと、緊張感から一気に解放されたような心地がする。一息吐いて、ロッカーに付いている鏡で少し乱れた髪を整えた後、朔良は更衣室を出た。
弓道場を出てからカバンを肩に掛け直し、正門へと歩き出す。
ポンッ
「!」
少し歩いたところで、朔良はいきなり後ろから肩を叩かれた。背後を振り返る途中で、真横からにこっと笑った赤坂が目に飛び込んでくる。
「お疲れ。またな!」
部活後も走る元気のある赤坂に、尊敬の眼差しを向けながら朔良が「はい」と返事をしたのだが、その頃には既に声の届かない所まで、赤坂の姿は遠くなっていた。
「……まぁ、いいか」
小さく洩らし、朔良は再び正門へと歩き出した。
渡り廊下の屋根から出ると、真正面から夕陽に顔を照らされる。
その眩しい光に、朔良が手を翳して陽の光を遮っていると、その指の間から人影が見えた。
自分に向かって伸びている影を辿るように朔良が視線を上げると、逆光の中に黎成ではない他校の制服が目に入る。夕陽のオレンジと相まって見えづらくはあるが、身に纏っている制服は灰色のブレザーに黒のズボンだ。そのズボンのポケットに手を入れたまま、目の前の人物は朔良に近寄ってきた。徐々にその輪郭が明らかになる。
「お疲れ様。朔良」
朔良の前で足を止め、にっこりと微笑み声を掛けたのは、
湊は茶髪のさらさらな髪に、目鼻立ちのくっきりとした、これまた端正な顔立ちをしている。どんな格好をしていても、絵になることは間違いないだろう。少し妖しげに光る漆黒の双眸も、その端正さを上手に引き立てている。
一見して華奢な体格をしてはいるが、合気道や空手の段を持つほどの武道の嗜みがあるため、顔や体型に似合わず、腕っ節は強い方だった。
「……湊、今帰り?」
朔良は驚きに目を瞠り一瞬言葉を失ったが、すぐに気を取り戻し湊に問う。
「うん。たまには一緒に帰りたくてね」
優しい笑みは残したまま、湊が一つ頷いた。
「学校終わるの早かったの?」
「うん、ちょっとね。それに俺は、朔良みたいに部活に入ってないから」
朔良の問いに、柔らかく答える。
「湊も弓道すれば良いのに。私より上手なんだから」
この提案に、湊は即座に首を振った。
「朔良の敵になるのは嫌だ」
口調や表情は穏やかでも、その中に有無を言わせぬ頑固なまでの意志を感じる。朔良の提案であっても、入部する気はさらさらないようだ。
「あれ、湊くん? 来てたんだ?」
そんな二人の和やかな雰囲気に、突然声が割って入った。
朔良を追いかけるように走り寄ってきたのは、弓道衣ではなく、ジーンズにTシャツといったラフな格好に身を包んだ工藤だ。羽織り掛けの上着に袖を通し、にっこりと微笑んでいる。
「ご無沙汰しております。工藤さん」
朔良との会話を邪魔されたことに不快を抱くことなく、湊は工藤に対して深々と頭を下げた。
笑みを崩さないその表情は、工藤に会えたことも嬉しく思っているようだ。
「いや、僕のことは気にしなくて良いよ。それより、ご両親とは上手くいってるかい?」
「はい。とても……良くしてもらっています」
湊は軽く頷き、丁寧に答えた。
「そっか」
工藤がほっと安堵の笑みを浮かべる。
「今日は朔良に会いに来たんですけど、帰り、一緒しても良いですか?」
少し窺うように訊ねる湊に、工藤は「もちろんだよ」と即答した。
「じゃあ、今日は湊くんと一緒に歩いて帰ったら? 積もる話もあるでしょ?」
思い掛けない申し出に、湊は微かに顔を綻ばせた。だが、すぐに表情を改める。
「良いんですか?」
「僕は構わないよ。ゆっくり帰っておいで。あっ、湊くんも夕飯食べて帰るかい?」
「いえ、俺は……」
断りづらそうに言葉を濁らせる湊に、工藤はあまり無理強いせず「そう」と微笑んで頷いた。
「気をつけて帰っておいでね?」
二人の頭を軽く撫で、工藤はその場をあとにした。
「……悪いこと、した?」
工藤の後ろ姿を見つめていた朔良に、湊が小首を傾げながら訊ねてきた。
朔良が部活終わりに義兄である工藤の車で、いつも帰宅していることを湊も知っている。だから一緒しても良いかと訊ねたのだが、工藤は快く朔良との帰宅を譲ってくれた。だが自分たちだけで話を進め、朔良の意向を全く聞いていなかったことに、湊は今頃になって気付いた。
眉を曇らせる表情に、申し訳ないという湊の心情が表れている。
覗きこむように顔色を窺ってくる湊に、朔良は首を左右に振って否定した。
「要人さんとは毎日会えるけど、湊とはあんまり会えないから」
物思うように呟いた朔良の言葉に、湊が切な気に目を細めた。正門へとゆっくり歩き出した朔良の後ろ姿が、どこか寂しそうに見える。
「ごめん」
朔良の背中を足早に追いながら、湊が小さく謝った。
突然の謝罪に意味が分からず足を止めた朔良は、振り返り小首を傾げる。
「今度は休みの日に会いに来るから。その時は俺のために時間、割いてくれる?」
問い掛ける声も表情も不安そうだ。朔良の返答次第では、ひどく落ち込んでしまいそうな気がする。
湊の心情を左右させるほどの効力が、自分の答えにあるのか
隣に並ぶ湊を見上げながら、朔良はコクリと頷き返す。
「湊に会えるなら」
「……」
朔良の答えに、一瞬ほっとしたような息を吐き、安堵の表情を浮かべた湊だったが、見る見るうちに幸せそうな満面の笑みへとその表情を変えていった。
相手が朔良でなく他の女子だったら、完璧に落としている微笑である。
だがこれは、他の誰に向けるのでもなく、朔良に対してだから出すことが出来る微笑だ。
それだけ湊にとって朔良は、特別な存在だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます