騎士団長城の亡霊事件~サイドB~ジャンカルロ編

『騎士団長城の亡霊事件・サイドB~ジャンカルロ編』





 地中海を渡る風が鼻をツンと通り抜けて火照った頭を冷やしてくれる。潮騒が、近い。

 磯の匂いがする海岸線をくねる道路。俺はブレーキもチェーンもガタガタな親父の自転車にまたがって風を真正面に受け、大好きだった親友と、岬の突端へ延々続く道路で車輪を飛ばしている。

 ああそうだ、分かっているさ。これは夢だ。いつもの、浅くおぼろで切ない夢。

 時計の針が巻き戻り、およそ二十年の歳月をさかのぼる。俺も親友も小学生。半ズボンにブカブカの開襟シャツ(恐らく父親のもの)をひっかぶり、カーブにさしかかると海から吹きつける風の圧力に負けぬよう身体ごと自転車を傾けて、懸命にペダルを漕いでいた。

 そして親友は鳥打ち帽を目深に被る。振り返る顔は笑っているようだが、輪郭は背景の青空に溶けてしまっていた。

「早く来いよ、ジャン!」

 コリー系犬人のそいつは、象牙色の背中の毛をなびかせて、立ち漕ぎで加速をつける。俺はどうしても追い付けない。

 やがて道路は上り坂となり、天空に突き出すような岬にさしかかる。だがその突端がなぜか海へ向かって落ち込んでいて、現実世界ではぐるっと岬を回って下るはずの行く先には、俺の脳が映し出す闇があるばかり。

 俺は親友を止めようと半身だけ前に出た。相手のシャツの端を掴むために手を伸ばす。左右上下に翻った布きれは、必死になる俺の事をからかっているように指先から逃げる。

 駄目だイグナシオ。へは行くな。お前にはまだ早すぎるじゃないか…!

 と、そこで夢は途切れた。



 俺は背中を複数の寄生虫が這いずっているような強烈な感触に肘掛椅子から飛び起きる。

「うっひゃあああおえわぁお!」

 俺様がいくら30代の男に相応しい貫禄があったとしても、背中の毛皮に何かが潜り込んでのたくるようなおぞましい感触には叫びを上げずにいられなかった。

「でっ、どっ、ななな何ッじゃこりゃああ!!」

 わたわた背中をまさぐるが肝心のポイントまで手が回らず、虚しくワイシャツを引っ掻くだけ。そのそばに立ち、俺を平然と見上げるボーダーコリー系の小僧が、甲高いボーイソプラノで言う。

「おはよ、ジャンおじさん」

 小僧の毛皮は白と黒に分かたれたモノトーン。瞳はオリーブの葉と同じ濃い緑。小さい半ズボンの尻から出した尻尾はふさふさとして、背の後ろに組んだ両手の上でピョコピョコ踊っている。

 わけあって俺が預かっている親友の忘れ形見、アルフレード=コッレオーニ。10歳の小生意気な糞餓鬼だ。

 そしてここは、俺が事務所兼住居として一棟を丸ごと借り上げているオンボロビルの応接室。何の…って、分からないか?

 この俺様、筋骨隆々たる肉体を誇り、押し出しの強さが我ながら男らしいと思っているシベリアンハスキー系犬人の探偵、ジャンカルロ=デッラ=レグルスの探偵事務所だ。表に看板もかかってるだろう?いいかげん砂埃と錆のせいで多少読みづらくはなっているが。

 今日は5月15日、気持ち良い快晴の金曜日。俺は前日にカタをつけたマフィアからの依頼…「息子の恋人がしっかりした身許かどうか調べて欲しい」という呆れたものだった…で、一週間ろくに眠っていなかった。だから朝飯の後にシガレットなどをたしなみ、知的な孤独に浸るうち眠気に誘われ、椅子に疲れた背を預けひとしきり優雅なまどろみを楽しんでいたのだ。

 大人だけに、それも孤高の精神を持つ者だけに許される時間。そんな気分はいきなり台無しにされたわけだ。

 って、こういう説明を滔々とうとうとしている状況じゃない。背中!俺の背中が何か得体のしれない物に侵食されている!

「お客様だってば」俺に悪戯を仕掛けた餓鬼が、しれっとして続ける。「何度も声かけてるのに、なんで起きないかな」

「アルフ、てめ服に何入れっ…ッ…ッ!うひゃおおお!」

 背中と服の間でウニョウニョ蠢く物体に、情けないことだが悲鳴を上げてしまう。

「とととッ、取れ、取りやがれこの野郎!」

 はいはい、とアルフレードは余裕しゃくしゃくに俺の背中から不快感の正体を引き抜く。なんだか安っぽい蛇のガラクタだった。電動を内蔵しているらしく、ジイジイ鳴きながら身をくねっている。

「ジャンおじさん、びっくりしすぎ」

 無邪気に笑う小僧の脳天をベシャンとはたいてやる。

 痛いなあ何するの、と口答えするところにもう一発仕置きをしてやろうとするが、狭い事務所の中をチョコマカ逃げる。

「ちょ、畜生待てこの!」

「なんで怒るの!僕悪いことしてないでしょ!」

「あのー、ちょっと、よろしいでしょうか…?」

 おずおずと奥ゆかしい調子の声など、俺様の鼓膜には響かない。

 走り回る小さな襟足を捕まえ、ぐいと持ち上げる。生意気なことにアルフレードは抵抗を諦めず、俺の口に両指をかけて「くらえ」と左右へ引き伸ばす。俺も勿論やり返す。

大人おほなをナメやがっへぇ~!わえのおはへめひを食えへるほ思っへんは~!」

ははひへよ~!」

 互いに顔の皮膚をギリギリ引っ張り合うところへ再びすがるように「あの、すいませんが」と紳士的な声がかかる。俺は「何だらんひゃ!?」と振り向いた。

 紫煙にくすんだオフィス用品といくらかの置物、床はゴミもしくはゴミになりかけの物体だらけー…そんな生活臭あふれる我が根城。異彩を放つ虎人の優男が、口許をハンカチで抑えて身をすくませている。

 恐らく20代前半、少なくとも25歳を過ぎてはいまい。正錦の黒地に銀の縞模様を流した洒落た上下揃いのスーツ。糊のきいた染み一つのない白いワイシャツ、光に千鳥格子が浮かび上がる朱のネクタイ、タイピンは24金だろう。それからギラギラしたブランドものの水牛の黒靴。手首にちらりと見えた腕時計は本物のブルガリか?

 赤茶けた毛皮に三日月を引き延ばしたように玲利な眉。右が黒く左は青い印象的な瞳に、女のように長い睫毛、彫りの深い頬。やや鋭い顎のライン。芸術家がモデルにしたがりそうな、ややもすると中性的ななまめかしさを漂わせる顔立ちだ。

 遊び方を心得た金持ちのボンボンか、ナポリあたりのファッション雑誌編集部から撮影に出張ってきたような野郎だ。俺の事務所に全くそぐわないぞ。

 ならばと俺は瞬時にツケをためている町の店や公共料金の種類、数十に及ぶ借金先を脳内データベースに照合する。

 そして「あ」と思い付いた。

「ああ、ステラの店からまわされて来たんだな?」

 ステラ。俺がほぼ毎晩飯を食う、町のレストラントラットリア『アマゾンの女王』のオーナー。こっちもまあ縁があり、お互いに餓鬼のうちからの付き合いだ。経営も大層順調だそうだが、男は面倒になりやすいから店に使わないというちょっと変わった信条を貫いている。だが、それもそろそろ大台に登ろうかというツケの取立てともなれば話は別なのだろう。渉外役に雇ったというならこの見た目からして軟弱な野郎にも納得がいく。

「ここんとこツケがかさんでたからな…」財布を覗き込むとゼロの少ないユーロが何枚か、肩身が狭いですゥ、と言うように弱々しく収まっていた。「う、ちっと厳しいな」

「私はツケの取り立てではありません」恐縮しながら手を振って否定する。伸ばした袖口からは、コロンでなく香水がたちのぼる。洒落っ気もここまでくると薄気味悪い。「私はですね…」

 アルフレードが唇をとんがらして虎人の先を取る。

「だから、この人はお客さんだってば。何回言わせるの?」

 その小憎らしい言い種に拳骨を振り上げる動作を見せてやる。小さな犬人は尻尾を丸めてピュウとシンクに避難した。

「私はロレンソ=セルバンテスと申します。本日は貴方に依頼があって参りました。これが名刺です」

「セルバンテス?ってこたぁ、あんた…」

「あ、はい、お察しの通りスペイン出身イスパーニャです。考古学者でして、学術調査のかたわら、副職に家庭教師などをさせて頂いています」

「へえ、あんたみたいなのが俺に依頼たあ珍しいな」俺は早速腰かけながら名刺を電灯に透かす。怪しげな暗号やら血の染みは無いな。「どこの紹介だ?ああそれから先に断っておくがな、敵討ちとヤクがらみは御免だぜ」

 セルバンテスは来客用の椅子に尻を落ち着かせ、いえいえとんでもない、何をおっしゃいます、と盛んに両手をワイパーのように動かす。華美な装いはどうやら伊達で、中身は青瓢箪の若造らしい。

 名刺は上等な厚紙で、四辺に細かいエンボス加工で縁取りがしてあった。


“ボルヘス家専属家庭教師 ロレンソ=セルバンテス

             考古学博士”


 俺はつい、これは何の冗談だ…と洩らしそうになる。

 ボルヘスといえばシチリアでも五本の指に入る資産家だ。ほんの何年か前までは、随一の、という修飾語がついていたくらいの左団扇の金満ぶりだったのだ。

 ここ最近は世界不況の余波を避けきれず、家業でもあるオリーブやオレンジの畑、それらの加工工場を守るために市内の不動産を手放す羽目になったのが、くちさがないパレルモっ子の下町暮らしに聞こえている。

 住まう世界が違う人間から、どちらかというと探偵よりも便利屋として名高い俺の事務所に話が来るというのがそもそも怪しい。だからまあ、眉唾と言って悪ければ、何か相応の裏があるとしか思えない。

 アルフレードはコーヒーを客人に勧めたまでは神妙な顔でいたが、すぐにはんけが解けて「それなあに?何て書いてあるの?」と野花にたかる虻のように俺の周囲を飛び回る。遠ざけるとかえってやかましくなるので、生返事をして放っておいた。

「突然お邪魔したことをお詫び申し上げます。なにせ探偵の方にお仕事をして頂くのが、その、初めてでして、どのように筋を通せばよいのか分からず…」

「何を誤解してるか知らねえけどな、こちとらヤクザじゃねえんだ。普通に電話してきてくれりゃ二つ返事で出向いてくぜ」

 はあ、そういうものですか、と大袈裟に感心している。念のためここを選んだ理由を確かめると、まず市内の局番で探偵業の一番前にあったからだとかしこまる。

「それだけでなく、こちらは元警察官の方が運営されているとも伺いましたので。依頼の内容につきましても大手の事務所よりこうしたささやか…いえ、単独でお仕事をなさっている方のほうが、どちらかといえばお向きかと存じましたから」

 濁した言葉を俺は聞き逃さなかった。馬鹿にされるのは嫌いだが、婉曲的にカバーされるのはもっと嫌いだ。

「んじゃ早速聞かしてくれや。天下の、とまでいかなくても、お大尽のボルヘス様がこの俺に何の相談だい」

 虎人セルバンテスは一息間を置き「亡霊退治です」と告白した。

 俺はつい、ふが、と豚っぽく鼻を鳴らしてしまった。

「ああ、誤解をなさらないで頂きたいのですが、オカルトの類いの話ではないのですよ」胸元に差し込んでいた純白のハンカチで額をぬぐう。「私の主人の、ボルヘス家当主のお嬢様が、この一月あまり屋敷内に不審な物音がする、亡霊に違いない…と、こうおっしゃいまして」

「ほーお」いい大人が箱入り娘の与太話につきあって、わざわざこんな下町くんだりまでお出ましかい。「気のせいだろ。でなきゃあれだ、最近は分裂症でなくて統合失調症っていうんだっけか?それじゃねえのか」

「お嬢様に精神面での疾患はありません」キッと眉を切り、思いのほか強く反論してくる。「ただその…お母上を亡くされていまして…その影響はあるのでしょうが」

「ああ…まあようするに、そんだけ線の細い嬢ちゃんってこったな」

 セルバンテスは、はあ、と肩を落として上目使いになる。甘えるようなその素振りには、もし俺にそっちのがあったなら大喜びで飛び付くような含羞があったが、あいにく俺は生焼けのピッツァとナヨナヨした野郎がこれまた大嫌いなのだ。

「お引き受け…頂けないでしょうか…?」

「ねえねえロレンソさん、お化けってどんなの?怖いの?」

 俺が少し躊躇している隙に、アルフレードが尻尾をパタパタさせてしゃしゃり出てくる。

「私は見ていないし、幽霊や亡霊を信じるほど非科学的なことはないと思っているんだ。学者の端くれでもあるしね」

「信じてないのに、じゃあ何で仕事を頼むの?」

「私やお父上が言い聞かせるより、プロフェッショナルの[[rb:方>かた]]が一つの形にしてしまったほうが安心できると思っているからだよ」

 なるほど、物の怪のたぐいなど存在しないという部外者からの証左があれば、その娘の心の不安を完全に払拭できるだろう。

 そんならまあ確かに大きなところじゃ引き受けてくれない、と考えるだろうな。実際は今はどこだって仕事が欲しいご時世だし、アホ臭い依頼内容でも断りはしないだろうが。

「要はボーレイとやらの存在を逆証明すりゃいいんだな」何はともあれ、せっかく向こうから迷い込んできた旨そうなカモだ。みすみす見送る手はないな。「いいぜ。受けてやるよ」

「そうですか!ああ、何とお礼を述べればいいか…!」

 セルバンテスは俺の手を双手に挟んで取りすがり、額を擦り付けんばかりに叩頭した。なんて腰の低い野郎かと思い、自然に腹からハハハとあからさまな空笑いが湧いてくる。

「んじゃ、肝心の料金の話をしようか」さ、ここからが腕の見せ処って訳だ…「まずは前金、キャッシュで300ユーロだ。ビタ一文まからねえぞ。そっから経費は別にもらおうか。後金は」

 幾らイロをつけるかめまぐるしく計算している俺の眼前、ヒビ割れが目立つデスクの天板に札束がボトリとこぼれ落ちてきた。

 1、10、100…いや千か?親指の第一関節の厚みを軽く超えそうな折り紙つきの札束に、思考回路がポンと弾け飛ぶ。虎人は大金をスーツの内ポケットから落としてしまった不用心よりも礼儀を欠いたことに汗を吹き出した。

「あああ、失礼しました!これは前金なのですが、足りないとなりますと、いかほど」

 相手がきちんと手渡すために拾い上げようとする前に、俺は本能的にサックリ掴んで懐に放り込んだ。

「ん、まあいいだろう。あんたの熱意にほだされちまったよ」嬉しいやら呆れるやらで、唇がヒクヒクとひきつりそうだ。「この仕事ヤマ確かに引き受けた」

 なんておいしい話だ!鴨が葱、じゃない、スペイン虎が札束背負ってやってきやがった!

 胸をのけぞらしホォウと嘆息する虎人。いちいちオーバーアクションなのが気に障るが、まあ外国人だし、派手な身なりもこの大袈裟で気弱な性格のせいだと済ましていいのかもしれない。俺に依頼をしたあたりにはちょっと納得のいかない部分もあったが、今までの説明で十分だろう。

 何より、この金だ。束になった紙の金は俺にとって百万の言葉より明快な威力があった。

「よし、さっそく今日の夕方から始めるぜ。準備をして6時ぐらいにはあんたんとこの屋敷に行こう。っても確か、街ん中からは離れてたよな?」

「はい、旦那様は郊外にある古城を改装して住居すまいとされています。別名があって有名だそうですが、えー…なんと申しましたか…」

騎士団長城カステッロ・コマンドーロか」

 ああ、それですと首肯する。そういえば、俺達の口馴れたシチリア訛りのイタリア語にも馴染んでいる様子から意識していなかったが、こういう地場的な常識を知らないとこが外国人だな。

「あの、それでですね、非常に申し上げにくいのですが、一つだけお願いしてもよろしいでしょうか」

「おう、言ってみろ」

「あの…その、ボルヘス家はパレルモでも名の通った名士の家だそうで、旦那様もやはり仕来しきたりや礼儀にはひとかたならぬ関心をお持ちです」

「まあそうだろうな」

「ことに私どものような使用人の雇用の折りには、必ず身分や言葉遣い、身だしなみなどを厳しく詮議されます。メイドとスチュワードには制服も支給されております」

「へえ、徹底してるって訳だ」

 それだけじゃない。制服を仕立ててやるほど潤沢な資金が回ってるってこったな。

「ですから…そのう……あの………」

 俺は鍛え上げた雄牛のような胸の前に、ガッチリこま抜いた腕(並みの野郎の太もも位はある)を揺すり始めた。セルバンテスの奥歯に物が挟まった口ぶりは、どうやら癖らしい。

「なんだ、男ならはっきり言えよ、金玉タマキンついてンのかテメエまだるっこしい!」

 イライラから怒りへ移行しそうな俺の科白に、セルバンテスはビクッと感電したようにおののいた。

 それでもまだ「し、失礼になるかと…」と語尾を弱めるので、アヘン!と咳をついてやると、ようやく「お召し物は、きちんとしたものでお願いしたいのです」と白状した。

「服のことか?」

「はい」

「そりゃそうだよジャンおじさん」アルフレードがヒョロッこい首を俺と虎人の間にねじ込んできた。「おじさんの服、食べ物のカスとか染みが一杯でチョーぅ不潔だもん。ね、ロレンソさん!」

「えーと、そ、そういうようなわけ…かな…」

 デスクに飛び込んだ格好で平泳ぎをしながら「おっじさっんきったなーい♪ブーブブー!」と歌うその頭を、トマトのように鷲掴んで持ち上げる。すると「何するのさ、うにゃにゃにゃにゃ」と手足をバタつかせて反抗する。まったく可愛くない餓鬼だ。

 そのままヒョイと投げ捨てる。回転着地してオリンピックの体操選手の真似で得意気にポーズをつけているアルフレードを無視し、俺は必ず上等の服装よそおいで参上するとセルバンテスに約束した。

「それはもう教皇様も厳かに“アーメン”ってな格好でな」

 わずか数ミリずれたら不信仰の部類に入る表現に、セルバンテスは笑いと不安とが入り混じる渋面になる。

「それでは何卒宜しくお願い致します」

 スマートな身体を折る虎人に、応よ、と答えて手を振って送り出した。

 鼻唄をひねりながら、ほくほく顔で札びらを数えていると、トトトと傍に寄ってきたアルフレードがにんまりと言う。

「ねねジャンおじさん、それだけあればさー、僕にも何か買ってくれるんでしょ。ね!」

「馬鹿言ってんじゃねえよ。こいつは俺に来た仕事、お前はただの居候。溜め込んでるツケ払って、残りは俺様が丸々頂くぜ」

「えー、ずるい!おじさんのドケチ!ゲームか漫画ぐらい買ってくれてもいいじゃん!」

「るっせえな…小遣いはやってるだろ」

「あんなんじゃ足りないもん!パパから預かったお金だってあるんでしょ!どうして僕の好きな物を買ってくれないの!」

 歯をひん剥く、いっちょまえな威嚇。なんて小面憎い表情をしやがるんだ。姿形は在りし日の友の面影そのままだのに、中身ときたらまるで違う。甘ったれで我儘で…イグナシオとちっとも似ていないじゃないか。

 イグナシオ=コッレオーニ…俺の親友だった男。約一年前にパレルモの倉庫街で凶弾に倒れた刑事。

 イグナシオは子供の内からいい奴だった。度胸があって理性的。義務教育を終える頃には男振りが良く気さくな好青年ってやつの見本になり、街の誰からも好かれていた。

 パレルモを離れてイタリア中央警察に属する刑事の一人になってから、あちらで結婚し、このアルフレードを作り、また捜査のためにシチリアに帰ってきた。その時には女房と死に別れていた。

 俺はといえばの取れた頃からの街のお荷物、果てはマフィアかならず者かというほど性格が荒かった。

 自動車整備で細々と暮らしていた物静かな両親のどちらにも似ず、反抗的で我儘。欲しいものには大騒ぎし、自分の気に入らない奴は容赦なくパンチで黙らせてきた。

 そんな俺はなぜだか出会ってすぐのイグナシオと馬が合い、一枚のカードの裏表のように常に一緒に行動していた。それに同じく近所に住んでいた娘もつるんで、幼馴染み三人で長い少年時代を過ごした。

 人を殴る才能があった俺は街の空手道場にイグナシオに誘われて通い始め、そこで才能を開花させる。ただし素行と品性が良くない、というもっともな理由で国の代表選手の選定からは漏れてしまった。

 高卒で路頭に迷いかけた俺を拾ってくれたのは、イグナシオが渡りをつけてくれた地元の警察だった。そこに潜り込んでやっぱりチンピラと殴り合いの日々を数年送ったが、副署長の鼻面を瓦割りにしてやったせいであっさり退職。

 そんな俺がアルフレードを預かっているのは、今は亡きイグナシオと交わした最後の約束を果たすためだ。だからこの先こいつが成人するまで面倒を見るつもりでいる。どんなにこいつがでも、だ。

 イグナシオの遺産はアルフレードの名義で定期預金に入れてある。単純に考えればいくらか当座に残し、そこから生活・進学の費用を出す方がラクだ。だが俺は、親友の金に触れたくはなかった。

「…我儘わがままはよせよ」小僧のつむじに手を載せかけてやめる。俺のガラじゃねぇや。「今回の依頼でも借金が綺麗になるか微妙なんだ。それからお前の親父の金は、大きくなるまでとっておかなくちゃいかんだろ」

「ジャンおじさん…」

「分かるよな。な?」

 うん、と素直に牙を引っ込める。こういうところは従順だが、そうなると俺の腹に巣食う天の邪鬼の虫が騒ぎ出す。

「ま、ぶっちゃけお前に金をやりたくないだけなんだよな。そんぐれえなら競馬かポーカーに使」

 おじさん!と今度は本気で怒りだしたアルフレードは、俺の右腕に強烈に噛みついた。



 飯の後には面倒くさくなって忘れそうなので、先に服を調達することにした。

 坂道を少し下るクリーニング店に「おっす親爺オヤジお疲れ服を借りんぜ!」と殴り込み、吊るし棒に整理されたクリーニング済みのハンガーの海から3Xスリーエックスのサイズの上下とワイシャツ、おまけに手頃なネクタイをかっさらう。

 邪魔したぜ、と去ろうとするが。店主の右手がサッと滑りハンガーの柄でベルト通しを釣られた。

「おいおいジャンカルロよう、まっさかロハで持ってくってんじゃねえだろうなあ?」

 店主の兎人は割れた顎を突き出した。

「いいじゃねえか、どうせ一枚や二枚仕上がりが遅れたって大して損はねえだろ。事故ってことにしとけ」

 いーやまかりならん、拝借するなら金寄越せ!店主の語気が強くなる。パレルモっ子の義理人情も薄められたもんだな。

 そこで俺はボソッと耳打ちした。

「海岸通り三丁目」

「はあ?」

「の、映画館の二階」

 親爺の顔色がリトマス試験紙のように赤から青紫へサッと変わる。

「名前はマーガレット、年の頃は30後半、肥り気味でちっと化粧が厚めだな。でもああいうのが好みなんだもんなあ?」

「な、な、な、お前、どうして」

「さてどうしよう。おかみさんに親爺の浮気を伝えるのは大変心苦しい。しかし隠しおおせば、正直であれ偽るなかれと、これ道徳にもとる。いかんともしがたいことだ」

 もっともらしくしかめっ面を作る俺、あたふたと手足を躍らせる店主。

「女房には言うな!今度こそ殺される!」

「ならギブアンドテイクでいこうや。こいつを借りる代わりに、あんたの秘密は守ってやる。トクしたな、たった数着で命拾いできたぞ」

 タカり屋!泥棒!ろくでなし!という賞賛を浴びながら通りへ出る。これで適当な衣服は調達できた。

 さあ、何はともあれ腹ごしらえと、まだむくれているアルフレードを連れて事務所のある裏道からパレルモの街中へ歩く。昼下がりだからちょうど一杯引っ掛けた連中や、大企業のサラリーマンとおぼしき生真面目なおも付きのスーツの男達で大通りは混雑している。

 車が激しく行き交う通りを信号無視で渡り、肩で人波をざくざく割っていく俺の後ろでアルフレードは「おじさんがさ、もう少しお小遣いアップしてくれたらさ…僕欲しいトレーディングカードとかあるのにぃ」とぐちゃぐちゃ文句をしゃぶっている。

「餓鬼のうちから大金持つとロクなことねえぞ」

「何なの、『ロクなこと』って」

「カツアゲされたり、たかられたりするってこった。おめえなんか弱ええからな」

 そんなことするのジャンおじさんぐらいだよ、という返事に言葉が詰まった。なにせ、その二つは俺が小学生の時に覚えたアルバイトだったからだ。相手は大概不良中学生だったが。

「ま、その分今日は好きなもんをたらふく食わせてやるよ」

 日当たりの良い中央通りに面した雑踏の只中にありながら、メレンゲ色の煉瓦壁に葡萄の蔓を絡めさせた外観が、どこか雛びた田舎屋のように優しげな雰囲気を漂わせたレストラン。

 パレルモにある小粋な飯屋といえばここー…『アマゾンの女王』に尽きる。どのガイドブックにも載っていないが、どこよりも美味い料理を出す特別な店だ。

 何より、ここが俺にとって特別なのには理由がある。

 店の前ではウエイトレスが二人掃き掃除をしており、その間に挟まれたように緋色のドレスを纏う狐人の女が品書きのメニューの黒板を書き直していた。

 血のしたたりそうな、それでいて気高い強さを秘めた上物のサテンのドレス。碧い宝石の載った、やはり真紅のハイヒール。靴は女の装飾品だが、この女の場合はそれとは反対に自身が靴をより華やかに見せている。要するに、たとえ素っ裸で突っ立っていたとしても、十二分に美しい女王のような女なのだ---…これが特別でないなら何をもってそう言う?

 こちらに背を向けているから、ドレスのスリットの切れ目に覗く長い足も、その上の尻の盛り上がりも、ばっくり開いた背中の一筆で描いたような背骨のラインもじっくり堪能できる。

 青みがかる長い銀髪を掻き上げながら、その女は何が気に入らないのかチョークを書き付けては消してを繰り返していた。

 ステラ=オノラーテ。俺とイグナシオと餓鬼の頃にはお転婆に走り回っていた幼馴染み。現在いまの通称は『銀の髪のステラ』。

 三十路を越したというのに薄薔薇色の横顔には皺一つ無く、身体は引き締まっている。文明が生まれる以前の原始の夜のように黒い大きな瞳は切れ長の目元に収まり、乙女のたおやかさと女の匂いを同時に醸し出していた。

「ステラさん、こんにちはあ!」

 ぱっと両手を挙げ、アルフレードが駆け寄っていく。まだ少しそそられる後ろ姿を見ていたかった俺は舌打ちを一つ。

 ドレスの膝下から抱きつくアルフレードを、ステラはいやな顔どころか輝く笑顔になって両のかいなに迎えてやる。

「あらぁアルフ、今日は早いじゃない?嬉しいわ、こんな昼間からあんたの顔が見られて」

「エヘへ、ステラさん聞いて聞いて!なんとね、僕達の事務所にさっきね」

「何が『僕達の事務所』だよ、俺の、だろうが」俺は小僧の首根っこを捕らえて、ステラの下腹部から引き剥がす。「ガキ臭いぞ、ベタベタすんな」

 狐人の女は「ちょっとジャン、止めなさいよ。あんたは大人げないわよ」と眉を美しくしかめた。俺は、へっ、と肩をすくめる。

「へいへい、俺が悪うゴザイマスね。どうせ町の嫌われ[[rb:者>モン]]だもんな」

「ジャンおじさんてば、僕にヤキモチやいてんの?」

 小僧の何気無い一言に、かっと頭に血が昇る。「テメェ!」と背中の後ろまで右腕を引いて突き出した。

 しまった、と一瞬思ったが遅すぎた。凶器に等しい俺の正拳は、直撃で瓦を粉微塵に砕く威力がある。

 やべえけろアルフ、と意識の内で叫んだ。それに応えるかのように視界に赤い布地がよぎり、鋭い上段蹴りの一閃がパンチの軌道を逸らす。

 俺の握った拳がアルフレードの頭の横の壁に突き刺さる。そのままレンガをアーモンドクッキーのように砕いて深くめり込んだ。

「………馬鹿!」

 ステラだった。左足で絶妙にバランスを保ち、右のハイヒールを中空に据えた臨戦態勢で俺を睨んでいる。

 危なかった。肘先を弾かれるのがあとコンマ0,1秒遅ければ、確実にアルフレードの頭は潰れた卵のように脳味噌までぶちまけてしまっていただろう。

「しくった」言葉少なに謝り拳を引き抜く。バラバラカランと破片が穴からこぼれ落ちた。「ステラ、恩に着るぜ」

 あーびっくりしたあ、と暢気のんきに構えている小僧。俺は掌を握ったままジャケットのポケットにしまう。

「もう、いつまで経ったらその癖を直すのよ、『核弾頭小僧ヌクラガッツォ』!」

「お前こそ相変わらずの足グセの悪さじゃねえか、『槍脚の女王レイナデラピエルナ・デランチャ』」

 この二つの物騒なやつが、俺様とステラ、互いのかつての通り名だ。これにイグナシオの『怒りの天使アンジェロデラッラッビーア』を合わせて三人で、中学から高校にかけパレルモの小悪党ダニを狩りまくったのだ。

「そのアダ名で呼ばないでよ。未だに知ってる人がいるんだから」

「パリから帰ってこっち、猫かぶりが上手くなったな」

 狐人は珊瑚の箸のような指先で髪をすき降ろし、フンと鼻を鳴らす。

「洗練されたと言ってちょうだいよ。手の早さが変わらないのはあんただけ。ちょっとは進歩しなさい」

 俺は口の端で笑った。俺の性分は一生直らねえかも知れねえな。

「ごめんねジャンおじさん、僕冗談のつもりだったんだ」

 アルフレードは自分を殺しかけた相手に謝る。暴力のなんたるかを知らないからこその無邪気さだ。

 ったく、餓鬼に気を使われてちゃザマぁねぇ。

「阿呆、ちいっと狙いがずれただけだ。ナマ言うんじゃねえ」

「うん。ごめんなさい」

 ステラは店先で箒を抱えたまま、まだおろおろしていたウェイトレス達に「大丈夫だから気にしないで」と手を振り、俺の腰を軽くはたく。

「さ、レストランに来たら用事は一つでしょ。そのツンケンした機嫌のトゲをあたしの自慢の料理レシピで引っ込めてあげるわ」

 丁度ディナー用にメニューを切り替えたとこだから少しばかりボリュームの重くなる肉料理もできるわよ、とテーブルを進めるが、俺はシカトして壁際のバーカウンターについた。

 ここからは頭をチョイと巡らすだけで店の中がぐるりと見渡せる。もっとも犬人の中でも聴力を誇る立ち耳・大耳のハスキー系の俺は、後ろを向かずとも背後で起こる出来事を音で察するくらいはお茶の子さいさいだ。

 アルフレードが「うんしょ、こらしょ」と高い椅子によじ登ろうとして失敗している。腕を掴んで引き上げるとニヘラと笑い、尻尾で空気をあおいではメニューに記された料理の名前を食い入るように読む。いつものことだ。

「こんな端っこに座って、物好きなんだから…あんたには狭いでしょう」

 アルフレードにジュースを注いでやってから、ステラはおもむろにワインの口を切る。

 瓶から細いリボンのように垂れる液体をグラスに受け、香りを確かめて一息に飲み干した。「ん」と空になったのを差し出すと狐人は「おかわり、ぐらい言いなさいよ」とたしなめながらも満たしてくれる。

 店は賑わっていた。奥に陣取った観光客らしい野郎の一団の他は、年寄りかおしゃべり好きなオバハンが固まっている。かといって下品とかこきたない連中とかじゃない。そりゃ中にはすりきれた作業服姿のあまりみっとも良くないジジイもいるが、その横には宝石を編んだネックレスを垂れた乳房と同じ角度にぶら下げた金持ちのババアがいて、相手に楽しそうに話しかけていたりする。

 ここに屯する奴らは、町中の気取ったカフェよりも、ただこの店が好きなだけで集まった連中なのだ。貴賤の分け隔てなく包み込んでくれる女王の城。老いしも若きも、貧しかろうと富めようと、たとえ注文がエスプレッソ一杯だけだとしても。

 俺は子牛のレバーの煮込みにニョッキのモノトーンソースがけ、山鳥の胸腺と山羊チーズをぎっしり詰めた揚げパンとホウレン草のパスタを注文した。アルフレードは悩んだ末に「僕、リゾットがいい!デザートはクリームリコッタね!」とお気に入りに決める。初めて連れてきた日から千年一日、ほぼ毎回同じものを頼んでいる。

「またそれかよ?たまにゃあ別のモンにしろっての。ほらコレなんかどうだ、茄子のベッカフィーコ。美味そうじゃないか」

「やだ。僕これが好きなんだもん、いいじゃん別に」

「それにリゾットの中身は日替わりよ。今日はあたしの新作、名付けて『サラゴサの漁師の夕暮れ風』」

「なんだそりゃ」

 イベリコ豚に海老を合わせたトマトクリームのリゾットだ、とのステラの説明に「どこをどうしたらそんな名前になるんだ。第一お前、あそこにゃ海どころか水溜まりだってねぇじゃねえか」と首を傾げると、「イメージよイメージ、詩情ってもんがあるでしょうが。つまんない男ね」とツンとそっぽを向く。

 ああそれでか、店先であれやこれやと題目タイトルに悩んでいたわけだ。

「僕は好きだな。だって名前ってさ、凝ってる方がカッコいいじゃない」

「ほおーら、この王子さまはちゃんと分かってくれてるわよ?うんもぅ、アルフってば可愛いんだから」

 ステラに良い子良い子と滑らかな指先で頭を撫でくられ、アルフレードは「やめてよ、もー」と赤くなった。

「ケッ、どーせ俺は可愛くねえよ」

「何をくさしてるのよ。あんたにはあんたの良いところがあるでしょ」

 そりゃなんだと水を向けると「いっぱい食べるとこ」とよく分からない答えが返ってきた。

 濃密な湯気を噴き上げる皿が続々と運ばれてくる。ウエイトレスはこぞってアルフレードに触りたがり、困り顔の小僧の頬肉を「やーんタプタプー!」とつまんだり、豊かなバストに頭を挟もうとする。

 羨ましい…もとい妬ましくて腹が立つ…いやいや、食事の邪魔になってしょうがない。「助けてジャンおじさん」と訴えるので「君達、俺とも仲良くしてくれよ」と娘達の尻や胸元に手を伸ばすと、「やだもうレグルスさんてばエッチなんだからあ」などとかわされてしまう。

 悔しくはない…ないんだが………

 なんで洟垂れの餓鬼ばかりがこんなにモテるんだ?ズボンを穿いた生き物でも、股ぐらの道具は俺のサラミに較べりゃ無いも同然なんだぜ?

「あーくそ、面白くもねぇ」

 ワインの残りをラッパで飲む。アルフレードがジャンおじさんそんなに飲んでいいの?と心配そうに見上げてくるが、こんなものは飲んだうちには入らない。せいぜいが嘗めた程度のもんだ。身体は温まりもしない。

「もう一つ面白くないものあげようか。はい、請求書。半年越えは勘弁してもらいたいからね」

 消費税分は出血大サービスよ、と微笑む狐人から枚数は一枚だが後ろに控えたメニューはマタイ福音書第五章の内容ほどもあろうかという請求書を受け取る。

 金額の0を数えて血の気が引いた。

 おかしい。おかしいぞ。いくら二人だからといって、たった数カ月ばかしでユーロの三桁を抜くのか?

「アルフを預かってからこっち、二日と空けずに来るじゃない。それは嬉しいんだけど…原因はこの子よりあんただからね。バカスカ飲み食いするんだもの」

「じゃあ来んなってのかよ」

 そんなこと言ってない、と強くかぶりを振る。

「正直助かってるわ。あんたが柄の悪い輩を来る端から追い払ってくれるから、女だけの店でも何事もなくやっていけるんだし。あたしだけの力じゃ無理だもんね。従業員の皆も有難いと思ってるのよ」

「いっそタダにしてくれりゃいいじゃねえか」

「それはダメ。あたしはね、旦那になる男にしかタダは認めないの」

 ステラはふざけてしまうことができず、つい頑なな表情になる。ったく佳い女だ。しかめっ面をしていてもふるいつきたくなるぐらいなんだからな。

「馬鹿、本気になんなよ」先程から俺の神経は、店の奥、八人掛けのテーブルに向いていた。「自業自得だしな。割りのいい仕事で返せるアテも掴んだし、なんとかなるだろ」

 少し離れたテーブル席でガチャンと食器が鳴り、床にフォークやナイフがばら蒔かれた。英語の大声にウエイトレスの悲鳴に近い口調が聞こえる。どうやら一緒に酒を飲んで楽しまないか、と強硬に持ちかけられているようだ。

 スマートじゃねえなぁ。鼻を鳴らし、俺は酒瓶を下ろしてぶらりと席を立つ。

「こういう場面にゃ俺の腕力も役に立ちまくりだかんな」

 あまり物を壊さないでね、とのステラの忠告を背に、ゆうゆうとその集団に近付く。その内の一人はウエイトレスの娘の一人を後ろから捕まえているが、アルコールが脳まで回ったと見えて、壊れたプレーヤーのように「Let's fuck」を繰り返している。

 まなじりに涙を浮かべた娘の腰を離さない男は、血走った眼を俺に向けた。

 腕も脚も丸太のように太い。上背があってバスケットボールの選手並みにいいガタイをしている。が。

「お兄さん達、ちょーっと羽目を外しすぎたなあ。俺が裏口までご案内してやろう。VIP待遇っつうやつだ」

 極めて愛想良く話しかけたつもりだが、八人とも瞬時に喧嘩腰で喚き出した。どうしてだか俺の笑顔は脅しか挑発に見えてしまうらしい。

「shut your fuck'in face,motherfuckerー!」

 ウエイトレスを離した男が振りかぶる。だが俺の方が早い。ツッと背後へ回り込み首筋に手刀を叩き入れる。手加減したつもりだがドウと倒れて白い泡を吹く。

「なんだ、見かけ倒しだな。やたら鍛えたように見せかけちゃいるが、大方プロテインかなんかで作っただけの見せ筋肉キンなんだろ」

 唖然としている残り七人の男達を素早くはたき、潰し、引っこ抜いて床でやわこくなるまでスタンピングし、ヘロヘロになったらそこで裏口からまとめてポイとゴミの集積所に捨ててやる。おまけに冷水をポリバケツ(生ゴミ用)一杯ざんぶとかけてやったらば、不良外人一味のタタキ・レグルスの気まぐれ風の出来上がりだ。

 店内に戻る。目ざといパレルモっ子は騒ぎがあると見るやいなや一斉に席を立ったようだ。胃袋の次に喋りで脳を満たそうとしていた連中ばかりだったから、逃したところでさほど収支のダメージは無いだろう。それでも残っている豪胆な面々は、カップやグラスを持ち上げ「よくやったブラーヴォ!」と声をかけてくれる。

 バイオレンス活劇のせいで客波が引いたのと、注文のラッシュが過ぎて暇になったようで、ウエイトレスの大群がカウンターに群がっていた。餌食にされているのはアルフレードだ。

「あっ、やっ、やめてえ!くすぐったいし!もう、ジャンおじさあん!」

 コリー人は揉みくちゃにされて悲鳴をあげているが、俺の視点ではそれは女という果肉のたわわな林によるハーレムそのものでしかない。

「アホくさ、しばらくそうしてろ」

「えっ嘘、助けてくれないの?見捨てるの?」

 ちょっくらションベン、と姦しい人だかりから離れた。アルフレードは「裏切者ぉ」と半ベソでなじるが完全無視を決め込む。

「おい」

 ステラに目配せをし、顎をしゃくる。狐人は無言で頷き、俺の後からトイレに近い衝立の陰についてくる。

 ジャケットから煙草を一本出してくわえ、マッチをする。一呼吸置いてから紫煙を天井に吐き出すと、ステラが「何を訊きたいのかしら?」と低声こごえで問うてきた。

「ボルヘス家についての情報が欲しい。まず主人の人となり、女房とその死因、あと知ってることがあればなんでもだ」

「あら、ボルヘス家の調査を依頼されたの?」

「そうじゃない。依頼内容は別件なんだが…ただな、なんかような気がするんだ。根拠はねえんだが」

 元刑事の勘なのねと聞かれて、そうだと頭を掻いた。

「あの家の奥さん、よくここに来てたわよ」

 思いがけない答が返ってきた。

「どんな人かって、そうねえ」ううん…と白蛇のように妖艶な腕を組み、ぽつりと言う。「滅茶苦茶に天然なひとだったわよ」

「はあ?なんじゃそら」

「だってそうとしか言いようがないんだもの。一度だかこんなことがあったわ」

 去年の夏の終わりの夜、まだ早い時刻にボルヘス家当主パルダッサーノと奥方のオフェリアは『アマゾンの女王』を予約していた。

 もっとも先に常連になったのはオフェリアの方。一昨年の開店当初、昼間のランチにふらっと訪れ、以来この店を気に入り通い続けた。

 彼女は純白の毛並みの、どこか少女のような雰囲気をした貴婦人で、自分には気難しいが優しい夫と、頭が良く目に入れても痛くないほど可愛い娘がいるのだとステラにも従業員にも話していたそうだ。

 その夜は初めて夫を連れてきたので、サービスにと取っておきのコケモモの古酒を出した。夫妻が気分上々で乾杯しているところへステラがさりげなく赴き「いかがですかしら、そのコケモモのお酒は」と問いかけると。

 幸福そのものといった微笑みで金髪の猫人は聞き返した。

「ポケモンのお酒って、どういう意味ですの?」

 この一連のやり取りを聞いて、俺の頭上にも?がでっかく浮かんだ。

「なんだそれ、聞き間違えたってことか」

「それだけじゃなくてね、言うことなすこと全部そんな調子なのよ。鼻がしらに絆創膏を貼ってきて『自動ドアかと思って回転扉に逆方向で突っ込んだ』とか、『マニュアル車を買ったけど何処にもマニュアル本がないのよ』って怒っていたり、右はパンプスで左にヒールを履いてきたりなんかしょっちゅうだったし」

「ボケボケじゃねえか。頭ん中のネジが緩んでたんだな」

 そういう言い方しないでよ品がない、とステラは俺の二の腕をピシャリと打つ。

「天真爛漫な方だったのよ。お客さんに分け隔てをする訳じゃないけど、笑うととってもキュートな方だったから従業員の皆からも人気があったわ。市内にお教室を持ってて、刺繍とかフラワーアレンジメントなんかを教えてたみたいでね」

「へえ。んじゃあお前も習ってたクチか」

「あたしは着るのが専門」

 そういやコイツ、フランスでモデル業をやっていたんだよな。

「その女房が一種の変わり者ってのは分かった。旦那の方はどんなやつだ?女房は何が元で死んだんだ?」

「あたしが見たまんまでいいなら、ご主人…ボルヘスさんはかなり恰幅の良い黒豹人で、背はあたしと同じぐらい。ただ人相がねえ、どっちかっていうと良くはなかったかな」

 奥様の死因は心臓の持病だった筈だけど…と語尾を濁すのでつっついてやると、これはあくまで噂だから額面通りにとらないで、と前置きをした。

「ボルヘス家の会社が一時期立ちゆかなくなったのは知ってるわよね」

「おう。不況と為替の影響だろ」

「それにオリーブの加工工場から食中毒菌が出たの。当然負債は膨らんで、市内にある不動産はほとんどを売り払っていたわ。奥さんが亡くなったのはその只中なのよ」

「……まさか」

「そう」厳しい目付きでさらに声のトーンを落とした。「保険金は2百万ユーロ以上。だから噂ではあるけれど、保険会社の調査員が何人もお屋敷に行ったんだって」

 今は事業が本来の軌道に乗って順風みたいね、あたしが知ってるのはそこまでよ…と店内を見やるステラの肩の峰を「どうもなグラッツ」と撫で、カウンターに戻る。

 アルフレードはまだウェイトレスらに囲まれていた。さらにあろうことか20代の娘…それもさっき絡まれていた子だ…のフカフカの胸を枕に船を漕いでいる。

「オラ、帰るぞ小僧」と気持ち良さげに眠りこけるアルフレードの頬を張ると、女達が「レグルスさん酷ーいー!」とこぞって囃す。

 コリー人の襟足を鉤爪にかけ、引きずるように非難の嵐から逃げ、いや、店を出た。



 それから事務所のガレージで親父から受け継いだ日産車のメンテをこなし、午後の五時には鏡の前で紺色の背広に着替えていた。

 アルフレードは俺がツナギで車をいじる間そばにいて工具を取らせたりしていたのだが、腹がくちくなったせいかすぐまた居眠りを始めたので、そっと応接室に運んでソファーに横にした。覗いてみるとまだ鼻提灯を膨らましている。

 俺はしゃがみ込んで寝顔を眺めた。暢気で平和そのものの餓鬼の鼻面をちょっとつまんでみる。「むか…うくん」と眉根を寄せるが起きない。思わず「ふ」と笑いが込み上げてくる。

 こいつは連れて行かない方がいいだろう。大人の汚い面をわざわざ見せることはない。

 イグナシオのいまわのきわに約束したのだ。胸を撃ち抜かれ己の傷から流れた血の海に浸っていたあいつ。抱え上げた俺の腕の中で、最期の力を振り絞り「僕の息子を、…アルフレードを頼む」と言い残し息絶えた。

 今でもあの、冷たくなっていく友の感触を思い出す。そして肝心なときに力になれなかったことを悔やまなかった日は1日たりとも無い。

 イグナシオは誰かに殺された。それも卑怯なやり方で。その相手を探し出し、俺のこの手で喉首へし折ってやる。

 それまではその息子を、アルフレードを、何にも代えて守る。清廉潔白な警官の鑑だったイグナシオのように育ててやるのだ。危険になど近づけるものか。

「行ってくるぞ、アルフ」

 額にキス、なんてのは柄じゃねえ。人差し指でデコピンぐらいがちょうどいい。

 …と、いうここまでの流れは十分も経たずにあっさり崩された。

 メモを残して車に乗り込んだ瞬間に小僧がガレージに駆け込んできて「置いてけぼりなんてヤだヤだヤだぁ!」と、それはもう泣くわ喚くわ地団駄踏むわ、挙げ句の果てには近所の餓鬼を集めて騒ぐぞなどとしゃらくさい恫喝までしてきた。

 それで結局、連れていくことになる。これだから餓鬼は嫌いだってんだ!




「ほわぁー、おっきいお城だねえ」

 コリー人は城を見上げて開口一番、至極ありきたりな表現をした。俺は「この城がデカいんじゃねぇ。お前がチビなだけだ」と返す。

 僕はこれからおっきくなるんだもん!毎日牛乳飲んでるんだから!と小僧は唾を飛ばして恣意的な論拠に基づいた力説をする。

「はいはいソウデスカヨカッタネー」

 俺はスルーし腕時計を確かめた。午後5時50分か。遅刻しないで来られたのは鼻先に吊られた現金の魅力としか言いようがないな。警官時代はタイムカードより総務の勤務管理係と仲を良くして怠慢減俸を回避していたものだ。

 市内からポンコツ車で約30分。丘陵地帯の森を大部分占める広大なボルヘス家の所有地。その奥の開けた場所に騎士団長城カステッロ・コマンドーロはバケツを引っくり返したようなドタマの潰れた円錐形の巨体を誇っていた。

 十年ほど前まではこの城は森も含めて市の管理下にあった。しかし市が財政難に困り果てたところに当時は大変に景気が良かったボルヘス家が身請けを申し出て、建前上民間企業に下げ渡す形で私有物になったのだ。

 俺が子供の頃には社会科見学に来たこともある。外見はその時分と変わらず保たれているようだ。目につくのは窓が増えてちゃんと硝子が嵌まっているのと、空き地だった周辺にぐるりと花壇が増設されているぐらいか。

 駐車場なんてものは無い。そもそも雨の少ないシチリアでは青空駐車でこと足りてしまう。日本だか韓国だか、アジアの国ではアパートを借りるぐらいの金を駐車場代につかうというが、それは屋根つきどころか戦闘機の格納庫並みに贅沢な設備を取り付けているのだろう、きっと。車を我が子のように愛する国民性なのに違いない。

 俺の日産は城の(道が開いている方を正面として)裏手に停めてある。ボルヘス家の自家用車はさすがにガレージに入っているが、これまた鉄筋コンクリートなどではなく木製のこぢんまりとした小屋だ。スレートの瓦で葺いてあって、納屋のような造りは暖かみがある。

「ねえねえジャンおじさん、ちょっと来て」

「んだよアルフ、そう引っ張るな、このスーツは全部借り物なんだからな」

「こっちこっち。この花壇の、ここんところ見て」

 小僧は遠慮無くグイグイ力任せに袖を引く。俺は仕方なしに示された花壇脇にしゃがみ込む。

「あのチューリップの植えてあるとこ、掘り返されてるんだよ」小さな指で花の赤と葉の緑の間に開いた土の部分を差している。「変だよねー」

「……で?」

「だから、何かおっかしーなーって思ったの」

「そんだけか?」

 うん!と言うところへ、ハ!と鼻で笑ってやった。

「探偵ドラマ気取りか何かしらねえけどな、面白くねえんだよ。いいから大人しくしてろ」

「何だよ、おじさんを手伝ってあげようと思ったのに。もう知らない!」

 プイとこちらに尻を向け、城の玄関の門扉へ歩いていく。

「待てコラ、一人で行くな」

 立ち上がりかけ、俺は削り取られた土の断面に目を止めた。

 チューリップの球根が数株、捨てられたままになっている。それはいい。だがポテンとした紡錘状の表面がえぐれて筋ができている。

 拾い上げ、たなごころに転がして土を落とす。やはり自然に[[rb:毀>こぼ]]たれた傷じゃない。固い何かで削いだ跡のようだ。土を掘り返した際に傷つけたというより、前歯を立てて噛んだらこうなりそうな具合にも見える。

 ネズミやモグラだろうか。球根を穴に戻して改めて見渡せば、花壇にはとりどりのハーブもあれば、芥子やセンブリなどの観賞のほかに薬効が期待できる植物も風に揺らいでいる。

 なんなんだ一体、まるで薬草園か魔女の庭だぜ…

 ゴンガン!鉛と真鍮がぶつかる金属音に飛び上がる。アルフレードのやつがドアノッカーで台金をブッ叩いたのだ。

 あんにゃろう、口で言っても聞きゃしねえ。そうして扉の前に着くまでには、球根のことなどすっかり忘れてしまっていた。

「おいアルフ、勝手なことすんなって何回言わせりゃ気が済む」

「はい、どちら様ですか?」

 女の声がした瞬間、ハンマーで殴られたような衝撃を眉の上に受けた。「うぐぉっ」と一声、俺はのけぞり激痛によろめく。

 間の悪いことにアルフレードに向かって頭を下げたタイミングでドアの片側が開き、真っ正面から樫の重厚な木材で額を打ち据えられたというわけだ。

「ごめんなさい!大丈夫ですか!」

 アルフレードは顔を隠して震えている。「プ・ク・クク」と喉を鳴らした忍び笑い。どついてやりたいが、尋常でない痛みに手足が鈍る。

「これが平気そうに見えるんだったらテメエの脳味噌は腐った豆腐だな!あー糞痛ぇこの畜生の○れ〓〓〓のド@▽▽女郎が、そのΩに→してやろうか!!」

「す、すみません、このドア重くって立て付けも悪くって、だからいつもつい強く押してしまって。額、打ったんですか?見せてください」

「………」

「あの、手をどけて傷を見せてもらえませんか?手当てしないと」

「………」

「あの?」

 俺を見上げているのはアフガンハウンド系の娘だった。はち切れんばかりにメリハリのついた健康美溢れる肉体が、メイドの制服に無理矢理押し込められている。

 おおぶりでしかも申し分ない半球をなす乳房はエプロンの胸にバインバインに突っ張り、スカートからすこんと伸びた脚は細すぎず太すぎずムッチリして艶光り。

「もう、聞こえないんですか?」さっさと俺の腕を除けて額を観察する。「あ、打撲傷うちみになっちゃってますね。でも血は……アラ、鼻血?」

 俺の顎の先、下方15㎝で巨乳がゆさゆさ擦れあっているのだ。そりゃ頭に血が昇るし、ポケットに突っ込んだ右手で股間のテントの支柱を抑えようというもの。左手はさっと鼻柱をつねって止血する。

「気にしないでくれ、大した怪我じゃねえ。俺はレグルスっつってな、ボルヘスさんから以来を受けてきた探偵だ」

「ああ、探偵のレグルスさん!承知しております。どうぞこちらへ、旦那様の執務室に御案内します」

 大地の色の精気溢れる毛皮、秀でた額、ツンと上向きの鼻筋、くるくるよく動く大きな褐色の瞳に、あっけらかんとした笑みの絶えない口元。時折輝く八重歯がチャーミングだ。

 魂が内側からはぜてパチパチ火花を飛ばしているような、どことなくチアガールと話しているような気分にさせられる。

 そしてメイド嬢は俺の横にいるコリー人の小僧にも愛想良く笑いかけた。

「こっちのボクは、息子さん?」

 俺とアルフレードは互いに視線を合わせる。そして完璧なユニゾンで「違う!!」とメイド娘に叫んだ。



 俺達を城の中へ通してくれたそのメイドは、アガティーナ=バッジォと名乗った。歳は19で高校を出たばかりだというが、それにしては言葉遣いがしっかりしている。俺の指摘にも「私、ここに来てギャル語を直されたんですよ。それまでは普通の女の子より若干だったんですけど、奥様が熱心に作法を教えて下さって…」とはにかんで見せた。

 城の内部はすっかり様変わりしていた。俺が子供の頃に見学で来たときには、石組みがそのままのところどころうねっている床に壁、怪獣の骨の如く武張った梁という内観だった。それが今や淡いベージュに調えられた漆喰壁に、均されたタイルの床には絨毯敷き。窓という窓には頑丈な厚い強化ガラス、回廊には等間隔でテーブルが据え置かれ、それぞれ色も形も異なる花が生けられている。

 古城の侘び寂びは払拭されてしまっているようだ。むしろ遊園地にあるような、本物に近づけようとする姿勢がよりイミテーション感を強めたアトラクションの趣じゃないか。

 天井の高さと空気に混じる遺跡特有の塵埃じんあいかおりが微かに歴史の余韻を醸してはいるが、出がらしの紅茶のようにかえって余計な陰鬱さを付加するだけ。俺は金持ちのエゴイズムにいいようにされる遺跡に憐れみを催した。

 それにしても…

「えっ、あたしのポケットのコレ?キティのストラップよ。あ、ボクも日本のアニメ好きなの。あたしはねー、『北斗の拳』とか『NARUTO』とか『セーラームーン』がお気に入りなの。カッコいいわよねー、ズビシー!ブシャー!アチョー!ドッカーン!」

 俺はメイドとは慎ましやかに淑やかに会話をするものだと思っていた。イメージ的に…というか、そうあって欲しいとの期待の意味が大きかったのだといえる。

 が、アガティーナは他のメイドやスチュワードに通りすがりざま「お疲れ様です!」と挨拶をするときは頭をビュンと風切り音がするぐらい振るし「執務室は、そこの階段を上がった右、くいっと曲がってこんな感じにあります」と肘先で何かをはたき落とすような勢いで手を閃かせる。所作に気取ったところは微塵も感じさせない。

 屈託のない性格、それに内側から風が吹いているような清涼感のある若さ、それに何といってもエロい体つき。三十路男の助平心が疼き、たちまち頭の中に四十八手の裏表が浮かんでくる。

 ようするにこの娘、俺のタイプなのだ。

 先程からアルフレードはさかんに城についてばかり質問する。「お姉さん可愛いね」「彼氏いるの」「ジャンカルロなんて、どう?」とか気の利いたことは聞けないのかコイツは。

 対してアガティーナは「うーん、あたしは歴史にはあんまり詳しくないのよね」と困りながらも「確かお城ができたのは中世あたりで…ってくらいかな、それ以上は分からないな」と答える表情に淀みはない。かなりの子供好きなのだろう。

 俺は、゛あー…と助け船を差し挟む。

「この城の建設は西暦千百年~千二百年、西ローマ帝国滅亡前後だ。台頭してきたイスラム勢力に対して地中海を守備するための拠点だったんだ。最後の城主は聖ヨハネ騎士団のスペイン分団長で、そのため『騎士分団長城』ってつけられたらしいな」

 キャー、レグルスさん凄い!博学でいらっしゃるんですね!と心からの拍手で感動するアガティーナ。我知らず鼻がぴすぴす膨らんでしまう。

「なあにこれくらい、自慢にゃならんさ。しかし君、このあたりの出身じゃないのかい?」

「それはそうなんですけど、あたし古いものにはあんまり興味がなくって。あと勉強も得意じゃないから歴史に弱いんですよ。こんな由緒ある建物の中で働いているのに、お恥ずかしい限りです」

 城は開放していないが行政府が観光スポットに登録しているため、せめて外観だけでも見ておきたいと近くまで来る観光客もいるようだ。

「もしそんなときに全然説明できなかったら、シチリア人としてカッコがつかないですもんね」

「そんなことないさ。そうだ、良ければ俺が教えてやろうか」

 ニッと口角を上げて誘いをかける。好みの女がいれば躊躇わない。率直に適時にストレートにをナンパのモットーにしているのだ。 

 まあここで「本当ですか!レグルスさんになら教わってみたいなあ」と、きたなら嬉しいんだがなあ。ハハハ、そいつは無理ってもんか…

「じゃあ携帯のアドレス下さいます?」

「お゛あ!?」

 目が口から、いや、心臓が眼窩から、違う、とにかく色んなものが飛び出た。

「だから、今度お茶でもしながらお話をー…ダメなんですか?」

 俺はてっきり性欲が理性を駆逐し、妄想を現実に受肉させたか、あるいは幻聴と幻視を同時に引き起こしたかと危惧する。

「えっ、いや、おう、そりゃもう」

「やったあ!もう超楽しみ!ー…じゃなくて、とっても嬉しい!せっかくなんでレグルスさんの事務所にもお邪魔してみたいんですが、いいでしょうか?」

「ああ、ウチは汚いが来てみたいってんなら」

「是非お願いします!もう絶対、約束ですからね?」

 アガティーナはフフフンフン♪と鼻歌を奏でながら脇を閉めたり開いたり、スキップするように廊下を進む。

 瓢箪から駒、棚からぼた餅、千里の道も一歩から?いや、それは違うか。

 とにもかくにも、こんなことは今までの経験上有り得ない展開だ。

 普段なら数限りなくアタックを繰り返してようやくベッドインに漕ぎ着けるという泥仕合。それでも身体を許してくれればまだいい方で、大概始めに「あ、結構です」とボレーで返されて終わるのだ。

 …だというのに!嘘だろう!?いや嘘では困るんだが、なんなんだこの都合の良い展開は!!

「あーあ、いーのかなー~」

 目尻を下げてデロンと舌を出していた俺に、アルフレードが斜め下から妙に冷めた目線を送ってきた。俺はハッと顎のヨダレをぬぐい、面構えを改める。

「…何だ?」

仕事先こんなとこでナンパなんかしてえ。ステラさんに言い付けちゃおっかな~」

「あいつは関係無えだろ。それにナンパっておめえ意味分かってんのかよ」

「んーと、遊んだりエッチなことするために女の子を誘うこと」

 外していないところが小憎らしい。それもクリーンヒットぐらいは飛ばしている。

「餓鬼は余計なこと考えんな。お勉強だよ、オ・ベ・ン・キョ!聞いてただろ、アガティーナは俺に歴史を教わりたいんだとよ」

「そうなの?」キョトンとするコリーの小僧に「決まってんだろバーカ」と吐き捨てる。が、勿論のこと二人してする勉強とは所謂いわゆる男と女の性の神秘についてであり、その目的は主が与えそなわした互いの肉体を貪ること、これに尽きる。

 煙に巻かれた小僧は「なんだ、僕てっきりジャンおじさんがアガティーナさんに浮気するのかと思ったの」と笑って言った。

 ったくこいつは、いちいち人の臓腑をえぐるような科白を言いやがって…

 俺にはかつて唯一人、惚れに惚れても己の感情をおくびにも出せない女がいた。それが誰かって?こんなとこじゃ言えねえなあ。

 理由を敢えて喩えるなら「古典的悲劇の極み」なのだ、とだけ言っておこう。そして悲劇は喜劇と裏表。当時は苦しくてたまらなかったのだが、今は自分も青かったよな…と若気の至りとして振り返ることもできる。

 しかし胸の痛みは癒えない。恐らく永久に。人生とはそうしたものだからな。

 記憶の淵をさ迷っているうちに執務室の前にいた。アガティーナが黒檀のドアを二度ノックする。

「おー、僕なんだかドキドキしてきちゃったあ」

 アルフレードは大袈裟に深呼吸をする。いや、これから仕事をするのはお前じゃなくて俺だ。

「入れ」

 深い重低音バスが響いた。アガティーナが先に入ってドアを押さえ、礼式に則って中へと招じ入れられる。

 そこは俺の応接室とはまるで違っていた。

 広さはある。だが大統領が公務をこなしている部屋ほどではない…とはいえ大統領宮に行ったことはないので、まあ具体的に測るほど広くはなく狭くもないというわけだ。

 何が違うか。しがない町探偵の事務所と金満家の執務室は、装飾の多寡が明快な差となって現れていたのだ。

 部屋の四隅に立てられたエンタシス様式の柱や、陶器やブロンズの像が並ぶ飾り棚など、至るところに高級な黒檀や紫檀が使われている。壁紙ひとつとっても、金箔と銀箔で透かし模様にされたエトルリアの壺風の蛇が幾万と綾を結んでいた。視点を寄せると立体的に浮かび上がってくる効果は企図したものではないかもしれない。

 その他に、オークションに出せばそれ自体がひと財産になるチッペンデールのデスクに椅子(以前まだ警察にいた頃、押収した盗品に似たようなのがあった)、アールヌーボーを代表するガレのランプ、蘭の鉢植え(白い花弁にピンクのほとばしる大輪の花)、なぜか片隅に日本の甲冑サムライメイル、カーテンはエジプト綿でアメジスト色に染めてある。

 俺はなるたけ焦点は正面からずらさずに、視界の周辺に散らばる豪勢なしつらえの数々を確認した。そうしなければ隣に棒立ちのボーダーコリーの小僧のように、「おおぉ」とおのぼりさんよろしくキョロキョロしてしまう羽目になっただろう。

 デスクの向こう、天空に燃え盛る神の火さながらの夕陽をバックに背負い、ダルマのような影が腕を後ろに組んで仁王立ちになっている。

 パルダッサーノ=デッラ=ボルヘスは悪魔の腹の中のように黒い毛皮の豹人だった。体型はというと、がっしりした大男を万力で縦方向に縮めたらこんな感じだろうという短躯。胸から腹回りにかけてが土管より太い。灰渋の上下揃いに金ボタンが光り、絹の白シャツに深緑の蝶ネクタイ。堅気の格好ではある。

 しかし。

 はてな、俺が受けたのは実業家の依頼の筈だが、間違えてマフィアの事務所に来てしまったかな?

 そんな呟きをしたくなるくらい、ボルヘスは最凶に人相が悪かった。

 疑り深いを通り越し、疑うことしか知らぬのではないかと思わせる山なりの眉の下の底光りのする目。デデンと鎮座するトリュフ鼻、ヤマアラシがくっついたような口髭、油断したら喉笛を食い破られそうな二重顎。

 相手をあからさまに品定めする下ろしかけの半まぶた。俺のことを内心で辛辣に評価しているのが手にとるように分かる。

 いやあ、こりゃあ難物だぞ…と面の皮の一枚後ろで俺はうんざりした。

 それでもこの親爺が現在の雇い主なのだ。そう考えれば渋面を搭載した戦車のような相手も、札束の山に見えてこないこともない。

 せいぜいにこやかに、握手ぐらいはしないとな。

「どうも。私はジャンカルロ=デッラ=レグルスです。宜しく」

 俺は右手を握手の形に差し出して前に進んだ。とりあえずそれが礼儀だろうと思ったのだ。

「フン」

 フン?

 片手を差し出す代わりに顔をしかめ、ボルヘスは傲然と家庭教師を呼ばわった。

「おいロレンソ」と、どこからともなく虎人が現れる。全く気配を感じなかったのだが、まるでニンジャかスパイみたいな野郎だ。「この胡散臭い、一見してヤクザの片棒担ぎのような男が信頼できる探偵なのか」

「はい。こちらのレグルス氏は警察署に勤めてらっしゃいまして、敏腕な警察官と名高かったそうです。現在は退職なされてパレルモ市内で事務所をお持ちですが、市民の警備など安全に関わるお仕事をなさってまして、守秘義務を徹底されている方です。そのお仕事ぶりも清廉潔白かつ勇敢で篤実と評判です」

 セルバンテスは胸からハンカチを抜いて顎と首の境目に当てた。科白のセンテンス一つ一つに動揺が隠されている。まったく肝っ玉が小さいことだ。

「貴様の推挙ならばこそ我が家に立ち入ることを許したのだからな」

「どうぞご安心を。きっと御期待に添う結果を出してくださるでしょう。レグルス氏は口も固く、調査においては有能でいらっしゃる方ですので」

「申し分ないというわけか。まあ、真面目な警官であったと言うなら使ってみてもいいだろう」

 褒めちぎる虎人に、黒豹の調子も幾分和らいでくる。

 積み重なるツケ、減る一方の探偵稼業への依頼。増えていく日雇いの仕事アルバイトに、ヤクザからしつっこく来るスカウトのモーション。そんな出口の見えない日々に降って湧いた金蔓にそっぽを向かれるわけにはいかない。

 ここはロレンソに調子を合わせとこう。おべっか使いは苦手だが、好き嫌いができる経済状態じゃない。まさに背に腹は代えられぬってやつだ。

「いやあ、実はお話を伺いまして、なんでもお嬢さんが大変困っていらっしゃるそうで、それならここは男ジャンカルロ=デッラ=レグルス、微力ながらその不安や恐れを取り除いて差し上げたい!と、こう考えた次第でして」

 普段は受けないような仕事内容だが、情にほだされて特別にー…と言外に匂わせてやる。

「ま、なんと言いますかね。有り余る正義感ってもんがこうズクンズクンと疼くんですよねえ。この城に立て籠り戦った十字軍の兵士達のように、いたいけな子供の為に役に立ちたいんですよ」

「う゛えっ」アルフレードは喉の奥でヤギが絞め殺されたようなくぐもった奇声を発する。「おじさんどうしちゃったの?何が正義」

 俺はサッと左手を伸ばし、ギュリっ、と相手の肩肉に鉤爪をねじ込む。「はんく゜ゃょみ!」と小僧は毛を逆立てる。

 ボルヘスは「お前の隣にいるその、落ち着きの無い少年ラガッツォは何だ」と汚いものを認めたようにコリーの小僧の方に太い人差し指を突く。

「ははは、いやあコイツは私の友人の愛息なんですがね、理由ワケありで私が預かってんですが…一人でいるのが寂しいと泣き喚くもんだから、不承不承連れてきたんで。すんませんねぇ、猫っ可愛がりに甘やかしてまして」

 アルフレードは怒りと憎悪でプルプル耳を震わせている。

「どうしたぁアルフレード、まだベソかいてんのかあ?あん?俺はお前の望み通りつれてきてやったろう?機嫌を直せよ相ぼぐふぉっ!」

 尻に万年筆を刺されたような激痛が炸裂した。ボルヘスとセルバンテスから見えないよう腕を回し、アルフレードが俺の尻たぶに爪を立てている。

「お前達やかましいぞ。さっきから怪しからん声ばかり上げおって」

 不審そうに顔を歪めるボルヘス。雷鳴の冠を被り嵐を呼ぶ深山の魔王の如くだ。

「イ、イヤ、ちょっと、なんでもありやっせんよカハハハ」

 こん糞餓鬼!儲け話をパアにするつもりか!

「…テ・メ・エ!何してやがる…!」

 アルフレードは普段からは想像できないブリッ子っぷりでピコンと小首をかしげた。頬には笑窪まで凹ませている。

「うん、一緒にいられて僕とっても嬉しいよ。だって…」ギュリリリ、と俺様の尻の皮膚を破らんばかりにつねりながら、ネスカフェのパッケージみたいな無邪気そのものの笑顔を作った。が、瞳はくらい復讐の悦びに燃えている。「僕、優しいジャンおじさんのこと、大ぁぃ好きだもん」

 はっはっは、えへへへ、と虚ろな仲の良さを演じながらも、互いに攻撃の手を緩めない。

「フン。能天気な者達だな」

 口ではそう言ったものの、若干和んだ様子の黒豹人。骨肉相食(は)む猛獣さながらの争いを隠しおおせるための小芝居が意外に功を奏したらしい。

「まぁ良いわ。契約を交わした以上はお前に任せる。城の内外は自由に歩き回って構わんが、そこらには防犯システムがあるからな。ロレンソによく聞いて、引っ掛かるようなことがないように。それと、この執務室には勝手に入るんじゃないぞ」

「合点…じゃねぇ、かしこまりましてございますよ」

 へらっと頭を下げたとき、「あの、お父様…」と、消え入るような声がした。

 振り返れば、粉砂糖から生まれたような猫人の美少女…こういう言い方は別にロリコンのケがあるわけじゃない…が、ドアから入ってきていた。

「おおエウリディーチェ、お前は部屋にいなさい。いいね?」

 破顔というには遠く及ばないものの、凶相のボルヘスの目尻に皺が刻まれる。相好を崩しているようだ。スマイルマークを構成する表情筋が欠如した男の微笑みは、どこかしらくしゃみを堪えている殺し屋を思わせる。

 救済を旨とするカソリック団体などのトップに就任していたら、十中八九破滅させたに違いない現実的な経済感覚と凶悪な容貌を備えたボルヘス。そいつが垣間見せる優しさの片鱗。どうやら大事の娘とはこの少女のことだな。

 しかし似ていない父娘おやこだ。毛皮の色もくろしろ、質も剛と柔、面立ちは妖精と怪物。母親の遺伝子が勝っていたのは実に幸運と言うしかない。将来は可憐な姫君になりそうだ。

「もともと私が言い出したことだもの。探偵さんがいらっしゃったんなら、ちゃんと説明しないといけないでしょう?」

「いや、ここにはホラ、汚ならしい連中も来ている事だしな、お前は……」

 汚らしいという言葉はこの際、ちょっとしたジョークと思って聞き流してやろう。…ここが依頼主の居城の中でなきゃ、頭蓋骨がその寸胴ずんどうに陥没するまで殴ってやるところだ。

「そんなことありません」少女はストストこちらに歩いてきて、如才なくスカートの襞をつまんで膝を落とす。「私がお呼び立てした者です。ご足労感謝致します。あの…探偵さん、でいらっしゃいますよね」

「そうだよ、お嬢さん。君の相談を預かりに来たんだ」

「あたし、探偵さんってトレンチコートにソフト帽かパイプを持ってるものと…」

 そんなのお話の中だけだよ、と返す。エウリディーチェという名前のお姫様は、その通りですねと口に手を当てて笑った。いや本当に、この娘こそ深窓の令嬢と呼ぶにふさわしい。

「どうも小さなレディ、俺はジャンカルロ=デッラ=レグルス。市の方に事務所を持ってる。そんでこっちのチビは、まあ助手みたいなもんだな。おいこら、挨拶しないか」

 アルフレードは直立不動で白目を剥いていた。いや、それぐらい瞳孔が狭まっていのだ。

「おい」

「あ、あう、あー…」コリーの白黒の毛皮が倍に膨らみ、尻尾は反り返った羽団扇、呼吸はチアノーゼを起こしたようにぎこちない。「ぼぼぼ僕は、ぼぼ、僕はね」

「ボボボ…?さん?」

「何言ってんだお前。オツムが筋痙攣でも起こしんぎゃっ」

 妙にしゃっちょこばった小僧は、俺の爪先を割らんばかりの勢いで踏みつけた。

「僕はアルフレード=コッレオーニ。君と同い年だよ。よろしくね」

 テメエ何しやがる、いい加減しつこいぞ!と怒鳴りかけ、やめる。

 アルフレードの目の形がどんどん丸くなり、上は桃の尻のように分裂、下は細くなっていった。

 ♡になった人間の両眼を見たのは初めてだ。はたから見ていて恥ずかしくなるぐらいハッキリと、小僧は一目惚れのめくるめく甘い陶酔に飲み込まれている。

 エウリディーチェはちゃんと小僧にも俺にしたのと同様の、自然に身についたらしい気品豊かな挨拶をした。

 子供同士だというのに、この少女の方がずっと大人びている。シチリア訛りの微塵もないアクセントも物腰も、このままローマの社交界に出してもおかしくない程の非の打ち所の無さだ。

 しかしなんだろう、やけに元気が無いというか、透き通った声にもまばゆいサファイアの原石のような眼差しにも翳りがある。

 俺の勘がピーンと立った。こりゃ、幽霊や化け物だけの問題じゃない。その裏側に抱え込んだ別件がある。それも相当厄介な。

 ぽややんとした腑抜け面でいるアルフレードは放っておいて、俺は詳しい話を聞かせてもらいたい旨をボルヘスに請うた。

「ならば客間を使うといい。ロレンソ、こいつらを案内してやれ。ワシはまだ仕事があるからな。いいか、くれぐれもエウリディーチェを頼んだぞ。それと晩餐ばんさんには遅れるなよ」

 でっぷりした身体を本革張りの椅子に沈め、王錫おうしゃくのように万年筆を振りかざす黒豹。その仰せのままに、なよやかな虎人は一礼する。エウリディーチェはフワリと背を向け先頭に立つ。

「それではレグルスさん、アルフレード君も、参りましょうか」



 廊下に出て最初にしたのはネクタイを緩めることだった。

 ったく息苦しいぜ。実の父娘でデスマス調の会話だわ、セルバンテスに至ってはまるで王族の御家来衆みてぇな慇懃さだわ…

 この家の中じゃあスプーンの上げ下ろしさえままならなくなりそうだ。俺だったらとても仕えられないタイプの主人に尽くしているのだから、セルバンテスも大したものだ。いやもしかして、嫌味で尊大な主人との関係性に執着を覚えるような、何か特殊な趣味嗜好があるのか?

「どうかしましたか?」

 セルバンテスに続き俺と並んで歩いていたアガティーナが精一杯声をひそめて訊いてきた。

「ん、ああいや」アフガンハウンド系のメイドはトーンを押さえた俺の言葉を聞き取ろうとすり寄ってくる。その胸がせめて普通のサイズなら何事もないのだが…うおお、肘にフカフカした生暖かい乳房の感触が!「君はいつから、どうしてここで働いてるんだい」

 冷静を装いながらも当たらず障らずな質問を鎮静剤がわりに、アガティーナのバストを今すぐ揉みしだいてしまいたい本能から心を逸らす。

「あたしの場合きっかけがあったんですよ。高一の頃、パレルモまで走りに行ったとき、発作で倒れた奥様を介抱したのが縁でアルバイトに入りましたので…拾われた、って言った方が近いかな」

「ここいらからパレルモまで?えらく健脚だなあ」

「あ、いえ、こっちです」両腕を突き出しグリップを握る姿勢をとる。「バイクで暴走はしったんです。これでも暴走族ぞくだったんですよ、あたし」

 ああ、やんちゃとはこれのことか。

「…びっくりしちゃいましたか?」

 俺は首を振る。「なあに、俺だって昔は荒れてたもんだ。それに女は威勢がいい方が良い」大人しいのは、まあそれはそれでいいんだけどな。

「やった!あたし実はですね…」ぐっと声音を下げるので、今度は俺が耳を寄せる番になる。「レグルスさんみたいな渋めの男の方がタイプなんです」

 おいおいおいおいおいちょっと待て、海に張り出す絶壁から遥かなる波間にザマアミロと叫ぶ前に現状を推し測れ、安請け合いするな、俺!

 俺は頬っぺたをつねる代わりに首を回して肩までほぐした。分かっている。告白されて毛は逆立ち、尻尾は力強くはためき、目尻はアーチに垂れ下がるのが止められない。グフ、グフフフとやにさがる口中などは、聖人ノアが方舟を放棄するぐらいの涎の洪水だ。

「随分ストレートだなあ。気に入ったぜ。しかしあれだな、そこにも相当な男前がいるが、あっちには関心ないのかい?」

 セルバンテスさんのこと?と目線で尋ねてくる。そうだと首肯するとゲーとベロを出した。

「あの人オカマくさくって…ていうかナルシストな線の細い男って嫌いなんです。それよりも胸板があって、二の腕が太い方がいいですよ」

「あー、あいつ何か女っぽいもんな。まさか所謂『広場の向こう側』の人種なのか」

 遠回しに『ゲイ』を意味する表現だったのだが、アガティーナはあっさり否定した。

「だってあたし誘われたことありますもん。バラの花束で」キザも極まればお笑い沙汰だな。「あの人がお屋敷に来たのは意外と最近ですよ。一月前ですから」

「手はまあまあ早いってとこか」

 かなり自負心をくすぐられ、なおかつ据え膳の予感で臍下三寸が…じゃない、胸が膨らむ。

 仕事運におまけして女運まで向いてきやがった。日頃の善行がついに報われるときが来たのだ。

 俺はアガティーナと十年来の知己のように親しく会話を楽しんだ。応接室に着くなり虎人が「ここはもういいから、食堂の準備を」と言いつけて退室させるそのピンと伸びた背中を、いつまでも未練がましく見送ってしまう。

 おっしゃ、てきぱき仕事をこなして一刻もはやくあの娘と二人きりになろう。これはもう一種の義務だ。移り気で地に足つかぬキューピッドが取り持つ男女の縁(えにし)、フイにしたら罪になる。

「さて、嬢ちゃん」一ミリの狂いもなく互いに正対するソファーに人形のように腰掛けるエウリディーチェ。俺はつとめて優しく質問を投げてやった。「に見たものをそのまんま話してくれるかな?」

「私は、母を10ヶ月前に亡くしました」エウリディーチェは科白をぽつぽつ途切れさせながら打ち明けた。しかし表情は決然とし、この年頃ならばそうなって当然の、悲劇に浸る感傷をいささかも匂わせない。「それから、夜眠れなくなって、時々ベッドを抜け出て城の中を歩いては長い時間を過ごしていたんです」

「その亡霊ってのは、そうやって城の中を散歩してて見たのかい?」

「いいえ、最初にあったのは声なんです」

「声?」

 少女はこくりと頷き目を伏せる。その様子から、超常現象に対する疑いを完全に捨ててはいない、成熟に向かう知性の片鱗がほの見える。

 賢さといい態度といい、こりゃあウチで飼ってる小僧とは出来が違うな…と横目を隣のアルフレードに流す。

 コリー人は上の空でモゾモゾぶつぶつやっていた。そして少女をボンヤリ眺める上気した顔は、発情期の動物さながら。

 俺は思わずため息をつく。幸いエウリディーチェはそんなアルフレードには関心を払わず、ひたむきに証言を続ける。

「大体一月位前なんですが、散策していた夜中に鋭い悲鳴みたいなものを聞きました。私はびっくりして寝室に引き返して、ベッドに潜り込んで…。次の晩は何も起こらず、きっと自分の聞き違いか気のせいなんだと思っていました。でもそのうち、ほかの音がするようになったんです」

「そりゃどんな感じだい」

 壁の中で、何かが爪でカリカリこすっているような、そんな音だと猫人の少女は答える。

 想像すると不気味だ。壁の内側から響く物音か…

 そういや俺もガキの頃、ホラー映画を見たあとにはクローゼットの開きかけの隙間や一人でシャワーを浴びる浴室の水音の合間の静寂、窓の外に移るポプラの樹影にさえガタガタ震えて毛布をひっ被っていたっけな。

 それを引き取る形でセルバンテスが「お嬢様の他には、今のところ物音に気付いた者はおりません。私も含めてです。セキュリティにも一切反応しておりませんので、この現象を見極めるためにレグルスさんの力添えを頂きたいのです」と身を乗り出し、エウリディーチェにも目付きで同意を求める。

 俺にはその刹那、少女が冷水を浴びたように身をこわばらせたのを感じた。だが、すぐにかぶりを振る。

「それだけじゃないんです。姿も見たんです。つい一昨日に」

「でもお嬢様、ご覧になったとおっしゃる廊下の防犯カメラには、何も映っていなかったではありませんか」

「だから亡霊なんです。騎士団の亡霊が…機械の眼を欺いて、城の中をうろつき回っているのよ…」

 この城を含めた一帯がかつて戦場になったのは確かな史実だ。オスマン=トルコ帝国軍一万四千に対し、城が擁した聖ヨハネ騎士団に由来するスペイン分団はわずか八百。彼等はそれでも半月持ちこたえた。これは未だに英雄譚として語り継がれている。

 だがまあ、今そんなことを伝えて一層怖がらせてもしょうがない。

「セルバンテス、この城の警備はどうなってるんだ?」

「はい、廊下と城の出入り口には監視カメラが設置されております。あとは、外壁側の窓枠には対人センサーが付属しておりまして、もし不心得者が侵入を試みた場合には電気が流れる仕組みになっております」

「警備室とか警備員は」

「セキュリティ・ルームがこの階にありますが、特に常駐する者はおりません。時間を定めて使用人がチェックはしておりますが…それと旦那様とお嬢様のための避難場所パニックルームが四階にございます」

 オイオイ、随分とお粗末な備えじゃねえか。武器を携帯した強盗に襲われたらひとたまりもないぞ。

「んじゃあそのセキュリティの方を案内してもらおう。嬢ちゃんが亡霊を見た通路のビデオも確認する。それから、くまなく城の中の探索だ。先にマスターキーを貸しな」

「ですからビデオ等は私も確認しておりますので、お手を煩わせる必要は」

「うるせえ」俺はセルバンテスの口上をバッサリ切り捨て、咽喉からグルルと唸りを出す。「いいか、俺の依頼人はその嬢ちゃんで、お前はただの使い走りの家庭教師だ。俺は俺のやり方で徹底的にやる。邪魔しやがったらただじゃおかねぇ。分かったか?」

 左右非対称なセルバンテスの瞳のうち、暗黒の右の眼球に明らかな憤怒が燃え立った。暫くの沈黙のうち、ようよう「………そうでしたね。おっしゃることは尤もです」と唇から押し出すように降参の意を示す。

 表情には出さないよう腹立ちをこらえているようだが、それでも幾枚ものカーテンの向こうで燃え盛る暖炉の炎の如く、憤りが身体から透けて見え、全身の毛穴から透明な蒸気となって立ち昇っていた。

「レグルスさん、ありがとうございます」エウリディーチェが上ずった声で胸に両手を重ねる。「総て貴方に一任します。やっぱり思った通りの人だったわ…!」

 やっぱり?

 俺の疑問には答えずに、猫人はクスリと微笑んだ。

「ちょうど御夕食の時間になりました。お嬢様、食堂に参りましょう。レグルスさんとアルフレード君には使用人の間で申し訳ないのですが、そちらにご用意をさせておりますので」せかせかとエウリディーチェを促しながら虎人は席を立った。アガティーナが戻ってきており、戸口のところで俺に…俺達にひらひら手を振って待っている。「マスターキーまではお貸しできませんが、無くとも調査には支障はないと存じます。個人の居室までお調べになりたいのなら別ですが」

 場合によっちゃあそれもありうる。だが俺の推測では既にこの問題の根っこは2つまで絞られていた。さほど考えるまでもなく片付きそうだ。

「肩が凝ったでしょう?アルフレードはお腹減ったんじゃない?」

 小僧はアガティーナに答えもせずに、セルバンテスを従えて退室する少女にみとれている。俺にポカリと叩かれてはじめて我に返る始末。

「痛ったいってばもう、さっきからひどいよ!」

「るっせぇな、早く来い。飯だとさ」

「ご飯!?夕ご飯まで出るの!!」

 アルフレードの眼がキラキラしてくる。アガティーナが「あたしの叔母さんが腕によりをかけてるわよ。久しぶりのお客様だから奮発する!ってね」と言うので舌なめずりしながら「ね、僕お腹ペコペコだよ。早くご馳走食べに行こ!」と俺の手を引っ張る。

 餓鬼はお気楽なこったなあ…と気が抜ける俺に、アガティーナがポンと背中を押してきた。

 そして陽が沈む。のどかであった丘陵に森閑と薄闇がかかる。光の半日が終わりを告げ、月と星が支配する夜が迫ってこようとしていた。



 いい加減飽きがきそうなだだっ広さの城の、これまた大がかりな台所は、そのまま使用人達の食堂に続いていた。

 多少かまどの煙に煤けているが、それがかえって漆喰壁に家庭的な味を与えている。二列に置かれた厚板テーブルの四辺はどこもお仕着せ姿の使用人達で埋まっている。俺とアルフレードが古めかしいアーチをそのまま残した入り口からヒョイと頭を突っ込めば、彼らはワタワタと立ち上がり「あっちを詰めろ、こっちに寄せろ」の大騒ぎだ。

 なんとか三人分の空きを確保して、俺を挟む形でアガティーナとアルフレードが席につく。

「テーブルが高いんじゃないか」アルフレードは顔だけテーブルの上に見えているので、まるで生首人形だ。「俺の膝に乗せてやるぞ」

「ううんいい、ジャンおじさんいっつも食べこぼすんだもん。頭の毛皮がパン屑だらけになっちゃう」

「なっ、んなことねえぞ!」

「じゃああたしの方に来る?」とアガティーナ。アルフレードは「子供じゃないんだから、これで平気だよぅ」とフォーク・ナイフを握って臨戦態勢をとる。

「やっぱり子供がいるのは良いねえ、賑やかになるよ」「坊や、お歳は幾つだい?お名前は?」「利口そうな顔だねえ」「ワシの孫と同じくらいかのう」「あんたの孫は大学生じゃないか。あたしの孫と似てるよ」「でもなかなか会いに来ないんでしょう?お嫁さんと折り合いが悪いと何の得もないわよ」

 アヒルの巣をつついたように、まあピイピイガアガアよくしゃべる連中だ。ふと見渡すと若いのは余りいない。よくても40代後半ぐらいのがほんの数人だ。

 でっぷり肥え太った頑丈そうな犬人の中年メイドが、まだ泡を立てている熱々のスープで満たされた寸胴の大鍋を「ほっ、ほっ、ほっ」と景気よく運んできた。

「さあさあさあアンタ達無駄口叩いてないで皿を回しな!あたしの特製の合挽き肉団子のクリーム煮だよ!」

 わっ、とテーブルに拍手が起こる。スプーンがコココンコンとビートを刻む。中年メイドの注いだスープ、皮は岩のように固く中は真綿のような丸パン、自家製のオリーブオイルを使った新鮮な野菜のソテーカポナータをたっぷり添えたシチリア風ロールキャベツ、ジャムやバターの壺等がテーブルに行き渡ると、どっしりしたメイドは食前の祈りの音頭をとる。

「本日の糧を我らに与えし天なる父と御子、そして聖ロザリア様に感謝を。アーメン」

 アーメン!

 コロシアムの観衆のごとき無数の手が動く。さっきより1万倍も激しい物音と会話が広い部屋に飛び交った。

 俺は滋味豊かなスープを一息にすすり、丸パンをヒョイと吸い込む。ロールキャベツは二口で胃袋へ。

「アンタが噂の探偵かい」

 いつの間にか太っちょメイドが真ん前の席についていた。形が崩れたのかもとからなのか、これまたバストの盛り上がりが搾乳前の雌牛のようだ。

「俺はジャンカルロ=デッラ=レグルス。仰るように探偵だ。こっちの小僧は俺の餓鬼じゃないが、ちと込み入った理由で一緒に暮らしてる」

「おやそうかい。アタシはジャケネッタでいいよ」にんまりと意味ありげな目付きで、俺のハスキー系の鋭角な耳から鍛え上げられた上半身を審査しアガティーナに言う。「いかにもアンタ好みの、ちょいと渋い男っぷりだねえ?」

「そう。狙ってるからちょっかい出さないでね叔母さん」

「あっはっは、こりゃ大事おおごとだ。お転婆アガティーナティナに婿が来る」割れた銅鑼のような笑い声を上げる。「心配しなさんな。亭主が泣いちまうからアタシは遠慮するさ」

 しゃべくりながらも、おかわりに通りがかった同僚のスチュワードに俺の分も頼んでくれる。

「坊や、顎にスープが垂れてるよ」

 皿に頭から突っ込む勢いで一心不乱にかっこんでいた小僧が「へく?」と顔を上げた。

「お嬢様と仲良くしてやっておくれよねえ」ごしごしナプキンで口の周りを拭かれながら、アルフレードは頷く。「ここのところほとんどお部屋にこもりっきりで塞ぎの虫でらっしゃるから、アタシゃ気が重いんだ。元気づけてやってくれるかい?」またしてもコクンと承諾する。

 そう、良い子だと頭を撫でられ、アルフレードは素直に嬉しがった。

「ジャケネッタさんよ、あんたは嬢ちゃんが見たことについてどう思う?」

「アタシはここで一番の古株だけど、そのアタシがこれまで亡霊を見たことがないんだ。この中にいる皆もそうだし、あり得ないね」

「なるほど。それ以外で最近目についたこととか変わったことはねえか?」ジャケネッタは肩をすくめる。ここでなみなみ注がれたおかわりのスープがきた。「そうか。ところで俺の知り合いがやってる店にここの奥さんがよく来てたらしいんだが」

「オフェリア様が!」

「ああ。亡くなって残念がってた」

「レグルスさん、私は聞いてないです」アガティーナが脇を小突いてくる。「奥様に会われたことがあるんですか?」

「俺じゃなく馴染みの店のオーナーがな」

 なんだそうなんですか、と少しがっかりした様子のアガティーナに、ボルヘス夫人について質問してみた。

「純粋なとこがあって、ちっとばかし個性が強かったんじゃねえのか?」天然ボケ云々は言うのを控えておこう。

「純粋…なんて言葉じゃ足りないかも。街の屑同然だった私をメイドに取りたててくださったり、礼儀も教えてくださって」アガティーナはなんとも懐かしそうに、そして寂しげに女主人を振り返る。「私には全っ然理解できない科学の知識があって、旦那様とお嬢様を愛してらして…ちょっと変わっていらしたけれど、素晴らしいひとでした」

「…どこが変わってた?」

「雰囲気も不思議なところがありましたし、ときどきまるで気配が無かったのにそばにいらしたり…」

 ジャケネッタはさも面白くなさそうに喧しくスープの鍋をさらう。「まるで魔法を使ったみたいにね」おおいやだ気味悪い、と敬虔というより迷信深く十字を切る。

 それを聞いたアガティーナの背中が固くなり、スカートの膝の間に重ねた手がきつく握り合わされる。

「あんな良い人が召されるなんて、神様は残酷です。その為に旦那様もお嬢様も苦しんでらっしゃるんだし…」

「お止めティナ、神様の悪口を言うもんじゃない」ジャケネッタは、ず、とスープをすすって十字を切る。「思し召しあらばこそ天の門は開かれるのさ。アンタもいつまでもクヨクヨしてんじゃないよ。それにあの方の最期には重大な疑いが…」

 ジャケネッタが言いかけた科白に場の空気が凍りついた。それはほんの瞬きの間に過ぎなかったが、ただならぬ濃い陰をまとう、毛皮が粟立つような静寂。

「疑い?何かおかしなことでもあるのか?」

「あ……あの、それは」

「ティナ!」

 ジャケネッタはゆっくり首を振りナプキンを使う。この話はこれまでだ、と雰囲気に教えられた。

「ま、いいや。ところであのセルバンテスってスカした野郎は考古学者だそうだが、なんだってまた家庭教師なんかやってるんだ?」俺も調子が出てきて、どんどん口の利きようがざっくばらんになってくる。「調査してるとかぬかしてたんだが、どんなもんか知ってるかい?」

 ああ、あの方ねえ、とジャケネッタはクジラの腹を連想させる巨大な胸を激しく波打たせながら身を乗り出してくる。

「いやーまあ凄い方だよ。朝は早くから起き出して、お嬢様の授業とは別に夜も遅くまで研究さ。いつでもニコニコしてて気さくで人当たりも良いしねえ。研究の内容?なんだったかな…あ、そうそう、この城の歴史が興味深いとか言っていたような気がするよ。うん、そうだそうだ。アタシもだけど、ここで働くモンは地元の人間だからって古い言い伝えや昔話も聞いて回っていたよお。最後の城主が自分と同じスペイン人だったってのもあるんだろうねえ。なんでも落城の際に騎士団のほぼ全員が聖母の導きで命を救われたって伝説とか、進駐してきたトルコ軍の総長が村娘に求婚した伝説とか、そういった他所よそにない話が面白いんだとさ。働き始めてからはひと月ぐらいしか経ってないが、頑固な旦那様をかきくどいてセキュリティとかでコンピューターを入れさせたり、経理やなんかをやらせてもテキパキこなすらしいよお。オツムも良いし、ここいらじゃちょっとお目にかかれないハンサムだしね、始めはこの娘が色気づいちまうんじゃないかって思ったんだけど」

 ほとんど間をおかず滝のようにまくし立て、四角い顔をややむくれ気味な姪に向ける。余程先程のボルヘス夫人オフェリアの話題から逃げたいのだろう。

「私はあの人タイプじゃないもの。いっつも洒落っ気たっぷり、綺麗好きを通り越して神経質で」アガティーナはフンと空気を嗅ぐように鼻をかざす。「もっとこう、肝が太くて大らかなほうが男らしくていいわ」

「いやいや、アンタは男ってモンが分かってないね。家でグウタラして煙草ふかして自分が平らげたぶんの皿の一つも洗ってくれないよりか、ちっとばかし神経質でも構わないから細やかで気の利く方が良いに決まってるさね。掃除だって、あたしたちを手伝ってくれてるもんと思えばいいじゃないか」

 なんだか聞けば聞くほど俺とは正反対のタイプだな。

 俺は食事の後の食器の片付けは(メニューは缶詰開けてトーストを焼くか、シリアルにミルクを足すのが関の山だが)アルフレードにやらせているし、掃除なんか「埃が降り積もるのは地球の重力による自然現象だ」と割り切っている。男だから家事をしないとか、ナヨっちいからしてるとかの論点じゃなく、その方面の全般が基本的に不得意だし直す気も必要もないからそうなっているだけだが。

「廊下にも花がたくさん生けてあるが、あれもやっこさんの趣味なのか」

「あれは奥様が始めたんです。今は私が引き継がせて頂いてますけど。なんかですね、『ここにはこの花を飾って!』って指定がありまして、言い付けを守らないと凄く不機嫌になられてました」

 そうか、フラワーアレンジメントの講師だったんだもんな。

「種類を指定したのは何か意味が?」と尋ねるとアガティーナは「知りませんけど?」と小首を傾げる。

 俺は食後にコーヒーをもらい、アルフレードが振る舞われたお子様用のジュースを飲み終えたのをしおに、一旦あてがわれた客用の寝室に行ってみることにした。使用人達は、もう少しあと少しと引き延ばして小僧を構いたがったが「夜9時までには寝させる習慣なんでね」と、かわす。いくら平均年齢の高い大人ばかりの職場環境とはいえ、中高年のはしゃぎっぷりにはなぜだか少しく虚ろな印象を受けた。

 子供ならエウリディーチェもいるというのに、この城には子供らしい子供が場に与える活力エネルギーというか、明るさが欠けている。中高年どもはそれを感じているのだろう。

 台所から出るとき、アガティーナがそっとそばに来て「私、まだしばらくは連続で泊まり勤務なんで、さっきの話は二人きりになれたときにお話しします」と素早くウインクしてきた。

「そんならよ、俺の方から迎えに行くぜ。お前の部屋はどこなんだ?」

 賢しげに少し頭を巡らしてから、慎重に答える。「多分洗い物に時間がかかるんで、また食堂ここにいらしてください。行き違いになると面倒ですから」まあ、その日出逢ったばっかりのいかがわしい探偵とデートするのは、この娘がこなす普段のメイド仕事より格段に難度が高いんだろうな。なんせここにゃあー…

 ティナ!と目付け役ならぬ叔母のジャケネッタが張り上げる胴間声。厨房の梁にぶら下げられたニンニクや玉葱の束が、音波を受けてボクシングジムのパンチャーボールのように揺れる。

「はーいっ」と小気味よく返事をし、じゃあ、と俺に手を振ってアガティーナは仕事に戻っていった。

 煙草を唇に挟むかわりに鼻の下を爪で掻く。思わず知らず苦笑が漏れていた。こういう地に足のついた連中と付き合うのは久しぶりで、そのうぶたらしさが世事の垢にまみれてしまったこちらにとってはくすぐったい。

 俺達にあつらえられた部屋は文句のつけようがない、というよりはあえて文句を増やす気にはならない程度のものだった。二人ぶんのベッドにシャワーにトイレさえあるのなら、張り込みには十分すぎる。こちとら建設現場のトイレに一週間缶詰に…まあ、こんなこたぁ知らなくてもいいだろ?

 ぐずるアルフレードには有無を言わせず「寝ろ!」と命令し、可愛いアガティーナちゃんに会いに、訂正、情報を集めるために俺は早速食堂へと降りていった。



 今回のメインディッシュと、その依頼に絡んだ糸。エウリディーチェの見た亡霊とボルヘス夫人の不審な死について話を聞いて、それが済んだら建物内の探索をし、なるべく早めに結果を出す。余った時間でアガティーナと親交を深めるという無駄なく完璧、かつ緻密なスケジュールだ。むふふ。

 弾む足取りもウキウキと、俺は木造のドアを1ピコグラムの警戒心も抱かずノブを引く。

「よおっ、アガティーナはいるかい!」

 返事の代わりにベシャ!と冷たいものが眼前を覆う。

 総てが灰色に変わり、一瞬失明したのかと思った。それが俺様の顔面に叩きつけられた雑巾なのだと理解するまで俺は間抜けな笑いを浮かべていた。

「言いがかりもいい加減にしてよ!」

 叫んだのはアガティーナだった。肩をいからし目を三角に吊り上げ、そこらの地回り者さえ赤面しそうな罵倒を並べ立てる。

「落ち着きなアガティーナ、あたしゃあ別にあんたがやったって言ってるわけじゃないさね」

 俺の斜め前にはジャケネッタの年齢に贅肉の重なった背中がある。両腕を前に突き出したポーズが宥めているのでなかったら、年甲斐もなくゾンビの真似でもしているんだろう。

「言ってるじゃないのよ!」テーブルのそばに立つアフガンハウンド系のメイドは手近な台拭きを取り上げ、オリンピアの砲丸投げよろしく投擲の体勢をとる。「あたしにはね、やましいことなんかこれっぽっちもないわ!」

 これ以上自慢の男前を、使用済みの非衛生的繊維のピッチングの的にされて雑菌の餌食とされてはかなわない。「おいおい、何をツンケンしてるか知らねえが、ちょっと落ち着け」頭をガードしながら前に出る。

「おや、あんた、何しに来たんだい」

 ジャケネッタも毛並を振り乱している。が、こちらは熱を帯びたアガティーナにあてられ熱射病になりかけのようだ。手のつけられない姪っ子の逆鱗にヒイコラしているのか、うんざりしているのか定かではないが。

「調査に決まってるだろ。で、喧嘩の原因はなんだってんだ?」

「ああ、まあ、喧嘩ってわけじゃあないんだよ。あたしはただストック管理の仕事のことを話してるだけなのに、この娘が急に怒りだしたのさ」

 アガティーナはそれを耳にしてますます怒り心頭に達し、口角泡を飛ばして指を突きつけた。

「食料庫の中を漁ってるとか、昔の仲間をんじゃないかとか勘繰られたら怒りたくもなるわよ!」

 いきり立つアガティーナを、俺はフットボールのラインマンよろしく「まぁまぁ」と押し返しす。怒りの周波が物理学の壁を乗り越え、彼女のエプロンも制服のスカートも重力を無視して波打つ。

「あたしゃあ、もしや心当たりはないかと聞きたかっただけさ」ジャケネッタは気まずそうにそわそわエプロンで手をこする。「あんたが悪いなんて、これっぽっちだって思っちゃいないさね」

「ほら、叔母さんもこう言ってるじゃねえか。まずは外の空気で深呼吸でもしようや。な?」

 ここは俺が引き受ける、ああ助かるよ。ジャケネッタとそんなアイコンタクトを交わし、まだ噛みつこうと唸っているアガティーナを引っ張るように食堂の外に連れ出した。

「どうしてあたしが暴走族ぞくを呼んでお城を汚したり食べ物をパクったりするってのよ。そんなこと…できやしないわよ!」

 見えない小鬼を踏みつけるようにずんずん歩くアガティーナ。リングに向かうプロレスラーも裸足で逃げ出しそうな怒りのオーラに、さしもの俺様も圧倒されそうだ。

「叔母さんは勘違いしてるんだろう。年寄りってのは年齢に比例して疑り深くなるようできてるのさ」ここは調子を合わせて会話を持っていくしかない。全国のジジババさんよ、勘弁してくれな。「食いもんが無くなったのかい?最近のことか?」

 アガティーナはかぶりを振る。

「一月くらい前からだって」

「へぇ…汚れってのは?」

 ここにきてアガティーナは足を休め、はーっ…と大きな溜め息を吐き出した。

「すいません、ちょっと頭に血が上っちゃってるみたいです。…ええと、何の話でしたっけ」

「うん。今君が言ってたあたりのことなんだが、もしかすっと俺の受けた依頼に繋がってる可能性があるんだな。ちっと詳しく教えてくんねえか」

 ホントですか?と大きく眉をあげるアガティーナ。

「でも…亡霊退治には関係ないと思うんですけど」

 話の続きを催促するために、俺は笑顔で頷いて見せる。たとえ無関係だったとしても、この娘のガス抜きをしておいて損になることはあるまい。

「叔母さんがいうには、ここ一月の間に食糧庫にストックしていた野菜や果物が頻繁に無くなってるそうです。一度に沢山じゃなくて、昨日はオレンジ一個、今日はジャガイモ二個って感じで少しずつ」つとめて冷静に言葉を選んでいるのは、怒りまで反芻したくないからなのだろう。「汚れ云々っていうのは、城のあちこちの窓に指紋や掌紋が残ってるって。些細なものですけど、いつも綺麗にしてるぶん目立つんだそうです。おまけに、置物の陰で誰か小用を足したんじゃないかというようなイヤな匂いが絨毯に染み付いているんだとか」

「そりゃあ…怪しいな」にわかに亡霊=侵入者説が真実味を帯びてきたぞ。「この城の中に無宿者でも入り込んだか」

「まさか。いくら年配者が多いっていっても、二十人近くスチュワードやメイドがいて、そこまでルーズなことはしませんよ。よしんばどこかに潜んだところで、廊下も部屋も毎日人が通るしハタキもかけますから。一応ですけど監視システムだってあるんだし。誰かがついウッカリってことなんじゃないかと思いますよ…あまり考えたくないけれど」

 2ダースからいる年寄りの誰かのおつむが若干幼稚園児のそれに近くなっていたとするなら、騒いで大事おおごとにすることは憚られるだろうな。

「外の人間は入り込めない、か」こくり。首を縦に振るアガティーナ。「じゃあ人間じゃなかったら?」

「まさか、レグルスさんまで亡霊だって言うんですか!?」

「いやそうじゃない。ただな、世の中にゃあ色んな可能性があるからな。特別小さくて身の軽いやつもいれば、あるいは動物ってことも…」

 そこで俺は言葉を切った。どうしたのかと前に出ようとするアガティーナを制し、息を殺す。

今俺たちがいるのは回廊部分だが、その内側に切れこんだ十字の通路に繋がる壁の陰、それも低い位置からうめくような声が聞こえてくる。

 何事かと色めくアガティーナに人差し指を唇の前で立てて見せ、壁を背にそろそろと進む。やがて角に辿り着き、そうっと片目だけで通路を覗いてみた。

 やけに膨らんだ灰色のゴミ袋。それが上下に膨隆と退縮を繰り返している。…と見たのは錯覚だった。

 うずくまる初老の男。スチュワードの制服ではなく、上等なスーツに身を包まれている。

ボルヘスだった。漆黒の毛皮の額に水銀のような脂汗を散らし、壁に寄りかかるようにして身体の右側を預けている。こめかみにやった左手にはくすんだ純金の指環…オフェリアとの結婚指環が鈍く照明を反射していた。

「おい、あ」んたどうした、そう声をかけようとした。

 キャーーーーーーー!

 俺の隣でアガティーナが、地獄の番犬でさえ怯えるような恐怖の叫びをあげた。

「旦那様っ!」

 俺を突き飛ばすように、いや実際、力の限り押し退けて、犬人の娘はでっぷりと超えた醜い黒豹人の中年親爺オヤジにすがりついた。

「む……アガティーナか」

 ボルヘスがうっすら開いた眼には、苦しみの色がありありと浮かんでいる。

「どうなさったんですか!お具合が悪いんですか!?」

「なに…大したことはない。少しクラッときただけだ」

 俺もボルヘスが立ち上がるのに手を貸すが、アガティーナと俺の二人がかりでもよろけるほどの重さだ。ぼってりした手の甲にも冷たい汗をかいている。こいつはちぃっとばかりまずいんじゃないか?

「内線の調子がどうも良くない。ロレンソに頼んでカプチーノにウィスキーを垂らしてりたかったんだが…な」

「旦那様、私がお持ちしますから、お部屋で少し休まれてください。もう一週間以上まともに睡眠をとってらっしゃらないでしょう?体を壊してしまいます」

 アガティーナは健気なメイドの顔に戻っている。怒り狂うヤンキーの面影は今は無い。

「いや…駄目だ。まだ休むわけにはいかん。朝までに仕上げねばならん指示書がある。農園の改造に関する重要なものだ。遅らせるわけにはいかんのだ」

 ん?今、アガティーナが背中から刺されたようなとんでもない表情をしたぞ?

「旦那様……それは、あの」

「大丈夫だ、…もう歩ける」

 ボルヘスはぶるんと気付けに頭を振って足を出そうとするが、その爪先からもつれた。

 姿勢がアガティーナの方に片寄っていたからたまらない。勢い娘の身体もろとも壁に倒れる。

 しかもこの親爺、たまさかにしろ事故にしろ、アガティーナを壁に押し付けるようにコケやがった!

「うむ…すまん…」

 いや許さないわ、よくもあたしの胸に小汚ない鼻面を突っ込んでくれたわね、このトンチキのヒヒジジイ!

 …と、まくし立てるものと思った。自分の縄張りで威張り散らすボルヘスの大将を俺の気に入りの娘から引き剥がし、レディに対するマナーをデブっ腹に教えてしんぜましょうかとニヤついて、俺は腕を伸ばす。

 だが。

 アガティーナは爆発するであろうという俺の予想をくつがえし、火がついたように赤くなった。

「大丈夫かアガティーナ。怪我はしなかったか」

「…あ、あの…いえ……」

 ボルヘスはゆっくり身を起こし、申し訳なさそうな顔をしたらしい。鼻の上にシワが二本追加され、口の端が裂けて牙がにゅうと出てきたのが邪悪な意図によるのでないならば。

「…ふうむ、お前の言う通りかもしれないな。確かに今倒れては元も子もない。一区切りついたら寝るとしよう」

「あの…あの……旦那様、お部屋まで、私が」

「それには及ばん。探偵について案内しているのだろう。ならば、お前はお前の仕事をしろ。ロレンソに言いつけてくれればいい」

 ボルヘスはそう言って今度はしゃんと胸を反らし、しっかりした足取りを保ちながら自室へ引き上げていった。

 俯く犬人の娘の「何さ、あんなやつ」という呟きを俺は聞き逃さなかった。

「じゃあレグルスさん、すぐそこが監視システムのある部屋です。内線の具合も試してみたいから、ご案内しますね」

 監視モニターが1ダース、操作パネルが1つ、インカム、インタホン、それに機能性はあるがクッションの弾性には人間的なフィーリングが欠けたチェアが一台。それがボルヘス家=騎士団長城の警備室の備える全てだった。

 部屋に入るなりアガティーナは内線で食堂へ繋ぎ、泡立てた熱いミルクとコーヒーの用意をするよう伝えた。次にセルバンテスの部屋にかけて激しく舌を打つ。

「出ない」

 叩きつけるようにフックに戻し、また耳元へバック。

「もしもし、ああ、おばさん?ううん、そうじゃなくて。いつものカプチーノを用意して、おばさんが執務室にお持ちしてくれる?ええそう、あのスペイン人、肝心なときに役に立たないったらー…ハイハイ分かってます、せいぜい口には気を付けるわ。え?…別に。済んだことだからもういいわよ。でも二度と口にしないで。じゃ」

 アガティーナは通話の後しばらく何事かに思いを馳せていた。やがてパッと愛嬌のある笑顔をこちらに戻す。

「あ、ごめんなさいレグルスさん、放っぽらかしちゃって。そのコントロールパネルの使い方分かりますか?」

 俺はモニターに精神の半分を割いたままオウと答える。このの機械なら大体何をどうすればいいかは分かっているからだ。

「ハウツーは問題ないんだが、ちょっとこっち来て手伝ってくれるとありがたい」

 俺の手元を覗き込んだアガティーナが目を丸くする。「わぁ、レグルスさんって見かけによらず器用なんですね。すっごい操作が早い!」前半の部分が気にはなったが、能力を褒められて悪い気はしない。すっかり調子に乗った左右の指は全く違う動きを滑らかに続ける。新人警察官だった頃に、やたらおしゃべりな市街監視員にみっちり教わった経験が今になって活きるとは。

 しかし思えばあの監視員はただの多弁症にかかっていたんだろう。まあ俺だって、日がな一日モニターに映る酔っぱらいの立ち小便とか落書き小僧とか若造どものラブシーンを、それも365日ひねもす眺めさせられては精神が常軌を逸しない自信はない。

 ここのシステムは映像の記録に媒体とハードディスクの両方を使っているらしい。ふんふん、一日ごとにデータとして呼び出せるし、一週間区切りで自動的にDVDに焼くよう設定されてるわけか。なるほどね。

 カメラの定点や可動域、ズーム機能など一通り試してから、おもむろに尋ねた。

「エウリディーチェの嬢ちゃんが怖い目にあったってのは、どこなんだい?」

 アガティーナはパネルの埋め込まれた台に手をついて上体を思いきり伸ばし、縦3つ目横4つ目の画面の左上を指差す。片手のキー操作でカメラを再生モードに切り替え、右手のリモコン操作で昨日の夜まで巻き戻す。

 しばらく青い画面に再生位置を示す黄色の帯と目盛りが映っていたが、05/12(日付確認)のところから読み込みを始める。

 画面に向かい奥へ緩い右カーブを描いている回廊を、カメラは少し俯瞰をつけて映していた。

 左側の方が外壁で、等間隔に窓が並び、一番手前には花瓶を載せた足の長い丸テーブルがポツンと置かれている。

 画面右下のタイマーはずんずん進み、05/14まできた。映っているのは昨日の様子で、窓から西日が差しているってことは、まだ亡霊のショータイムじゃないな。早送り、早送り、最大ペース…と。

 人影がせせこましい幽霊のように画面をよぎる。日光が消える。とりあえず夕食が終わり従業員が帰宅したあたりからスピードを下げ、俺は食い入るように画像に注視した。

 10時から11時、廊下から人足が絶えた。12時から0時。アガティーナが懐中電灯を持って通りすぎる。1時~2時は飛ぶように、3時~4時は瞬く間に過ぎた。

 それからのち、曙光がじりじりと強くなっていき、現世で糧を得て生きる生身の人間が映るまで怪しい影はチラとかすめもしなかった。

 ちなみに姿を表した一番手はなんとセルバンテス。画面の奥からゴーストバスターズさながらの充電式掃除機バキュームを背負い、廊下の絨毯を几帳面になぞりながら次第に大きくなり、えっちらおっちら荷物を揺らして下方へ消えていく。

「いやはやマメでいらっしゃることでごさんすなあ」鼻でハハンと笑ってしまった。「スーツのままじゃテレビショッピングのあんちゃんみてぇだよな」

「どうも最近、やったら廊下が綺麗だと思えば…」アガティーナの反応は俺とは多少異なっていた。唇を噛んでモニター内の優男を睨んでいる。「どこまで媚びれば気がすむのよ」

「君はこいつが癇癪のもとみたいだな」

「だってやらかすことがいちいちいやらしいんだもの。確かに優秀なのは認めるけど…でも、こういうのブリッ子って言いません?」

「確かにそうだな」一旦ビデオを巻き戻し、ややスローに再生する。今度は三倍と二倍の中間ほどの速度だ。「だがな、悪気があってやってる訳じゃない。俺だっていけ好かない野郎だと思うが、評価は公正な方がいいだろう」

 まあ、そうなんですけどね。と、ドッジボールのチームメイトに八百長をされた小学生のように、口を尖らせる。ちょっと引っかけが強すぎたかな。

「たった1ヶ月ぱかしの新参者がボルヘスの懐刀にのし上がりゃあ、そりゃ面白くはねぇよなあ」

「そう!つまりそういうことなんですよ!」軽い気持ちの助け船に、アガティーナは転覆せんばかりの勢いで乗ってきた。「あいつは旦那様の心の隙間につけこんでるだけなんですよ。占領してるって方が正しいかも。コンピューターだの、このセキュリティ設備だの、これまで必要としてこなかったものまで設置させて。おまけに旦那様を言いくるめて、農園をそっくり改造しようとまでしてるんですよ。奥様が丹精込められたオリーブ畑を掘り返して!それだけじゃないわ、お嬢様の為に造られた花壇まで!!」

 ああ、そうか。だからあそこには薬草だのなんだのと植わっていたわけか。と、胸の裡で納得する。

 アガティーナは一気に吐露してしまうと、言葉の奔流の残滓が喉にひっかかったように小さく咳をした。

「あたしは…あたしは奥様の大事にしてらしたものを、あんな外国人に踏みにじられるのが耐えられないんです」

 その時だった。虹色に輝くビーズがポロリとアガティーナの胸元に落ちた。1つ。2つ。

「アガティーナ、おいどうしたんだ?」

 栗鼠の毛色の瞳を収める眼窩からこぼれてくるもの。琥珀かと思うほど煌めく、それは涙だった。

 キッと引き絞られた唇の脇をすり抜けて、後から後から落ちてくる。たちまち玉が繋がって、娘の顔にシンメトリーの流れを作る。

「うっ、うっ、…ひぐっ」

 噛み締めていた奥歯が嗚咽に押し上げられ、突っ張っていた眉毛が垂れ下がった。

 うえぇぇぇん、うぇぇぇぇぇ。

 気丈に見えたアフガンハウンド系犬人の、元は暴走族でも鳴らしただろうメイドが、身も世もなく天井に向かってむせび哭く。

 こういう時、男にできることは2つしかない。黙って抱き寄せてやるか、黙って抱き寄せて相手の唇に自分の唇を重ねてやるか、のどちらかだ。特に相手が女で、しかも互いにモーションをバリバリ全開にかけあっているとなれば、どっちを選ぶか分かるよな?分かるだろ?

「奥様がっ…奥様が遺したものがっ…無くなっちゃう…!」

 俺はやおら椅子から立ち上がり、キュッと締まった腰に腕を回す。抱き寄せても抵抗は、勿論無い。

 俺はアガティーナの髪を撫でた。癖のある亜麻色のうねりからは、清烈な柑橘類の清々しい香りがする。

「あたしは…全部今のままがいい…無理して会社を大きくしなくても…貧乏になったってここで、みんなと働いていたいんです…」

 うんうんそうだな、と顎をくすぐる癖っ毛の感触を楽しみ、折れ下がるメイド娘の耳朶の柔毛に鼻先を押し付ける。

 ああ、なんてすべすべしているんだろう。どこもかしこも俺の毛皮と相性の良い質をしているせいだな。毛並みの太さや密度が合わないと、こうはいかない。

「レグルスさん…あたし、あたしもうどうしたらいいか分からないんです」

 答えてやろうか?何もかも忘れちまえばいいんだよ。

 俺について街に来い。俺の女になれ。もとから息の合った者同士、楽しくやろうや。まずは今ここで、誰の邪魔も入らないお誂えむきの密室で激しくセッションしよう。一発やったら憂鬱な気分も晴れるさ。

 涙にそぼ濡れたアガティーナのオトガイに折り曲げた人差し指を当てる。

「あたしは旦那様が…パルダッサーノ様が心配なんです…壊れてしまうんじゃないかって、それが怖いんです…!」

 唇を吸おうとしたタイミングでの科白に、なぜだか金縛りにかけられてしまった。

 なんだってあのデブ親爺をファーストネームで呼ぶんだ?

「だけど…あたしは奥様の代わりになれないから…そんなこと、奥様のご恩にそむくことだから…」

 あと少し、もう三ミリ上向かせれば俺の勝ち、キスして押し倒して自分のモノにできるぞ。根性だジャンカルロ!男を見せろ!

「大丈夫だ」

 おいおいおいおいおいおい!口をついて出るのは口説き文句の筈だぞ。ちゃんと注文オーダーしたじゃないか、え?言語野の脳細胞君?

 気を取り直して仕切ろうか、脳裏でサングラスをかけた監督がカチンコを鳴らす。じゃあ主演俳優のジャンカルロ君、はいそこで「愛してる」、ヒロインをコンソールに押し倒して唇を塞げ!

 だが己を奮い立たせようとする俺の意識を裏切り、この娘をものにできる最大のチャンスを棒に振る科白が俺自身の舌から空気に印刷された。

「俺が力になってやる。ちゃんと話せば頑固そうなあの大将も分かってくれるさ。さっきだってなかなか感じの悪くない態度だったし、けっこう話せるところもあると思うぜ?」

 はい、はい…、と頷くアガティーナ。しがみついていた涙の粒を、そっと指で払ってやり、俺は二人の間に親密な紳士と淑女にふさわしい距離を作った。もっとも、深いところにある俺の心の声は、そんな痩せ我慢に盛大なブーイングを飛ばしているのだが。

「君にとってあのボルヘスは、ただの雇用者じゃない。そうだな?」

 頼むから認めないでくれよ。

「はい」

 畜生!

「…で、いつからなんだい?」

「いつからって、その、はっきりとはしないんですけど」しゃっくりを押さえるように胸に拳を当てる。「もうずっと前から…奥様に拾われて働き始めてからかもしれません」

「よし。じゃあそこから現在に至るまでをじっくり聞かせてもらおうか」こうなりゃヤケだ。毒食らわばなんたら…相手を殴れ、か?まあいいや。「この一本を見直すまでは時間がたっぷりかかるだろうからな」

 倍速を少し落とした映像は、消灯時刻にさしかかろうとしていた。

 アガティーナの回想はロマンチズムのデコレーションを削ぎ落とした簡素なものだった。

「あたしが奥様と初めて遭ったのは、このお城の近くの農道でした」コンソール台に腰掛け、膝の間に指を組んで微笑む。「明け方にねぐらに帰る途中で、バイクがエンコ起こしちゃって。ハコ持ってる仲間ツレはいなかったから、あたしだけ残って押してくって言い張ったんです。キメてハイになってたのと、なんせツッパってたから…」



 大丈夫かよ、無理するな、と気遣う仲間の声を無視し、アガティーナは「アタシが行けっ、ってんだよ!ボサッと雁首並べんな、目障りだ!」と差し伸べる手を拒否した。

 独りになり、広大なオリーブ畑の砂利だらけの農道を歯を食いしばってバイクを引きずる。ライダースーツは汗みどろになり、蜂や虻や蝿が髪にたかる。陽はどんどん昇り、地平線から水あめのような陽炎が立ち始めた。

 まずいと感じたときは手遅れだった。眼球の奥からこめかみまでノミを打ち込まれるような痛みがし、胃の方は昨夜の乱痴気騒ぎの内容をぶちまけようとしている。

 たまらずバイクのストッパーをおろし、辺りを見回した。腹が立つくらいのんびりした農園が広がるばかり。道の先は、その彼方に霞んでいる。

 そういや、すっかり縁遠くなった叔母が働く大金持ちの家だか別荘だかがこのあたりにある筈だ。この畑…もはや森と言っても差し支えないオリーブの全てがその家の持ち物なのだろうか。

 ベッと唾を吐き捨てた。世の中には自分の家のように、酒に溺れて暴れるばかりの男が父親面して君臨する赤貧の家庭があれば、こんな大農園を所有してぬくぬく暮らしている奴らがいるのかと思うとむしゃくしゃしてしょうがない。

 おあつらえ向きにスプリンクラーが無いかとも思ったが、菜園ならまだしも乾燥と水はけが考慮されたオリーブの木々の間にそんなもの、あるわけがない。あったならバイクに入っているスパナでぶっ壊すのに。

 ああ、水が欲しい。頭が痛い。クソッタレ、なんだって誰も心配して戻ってこないんだ!

せめて日陰で横にならなきゃ。このままじゃ、マジでヤバイかも…

 がくん、と見えていた地平線の高さが視界の半分にまでせり上がった。脚の関節から力が抜け、膝を折ってしまったのだ。

 農道にバッタリ倒れ込む…あれ、こういうの映画で観たな。西部劇で、ラストシーンに背後から撃たれて死ぬ話。「明日に向かって撃て」だっけ。

 あれは作り話の中だけど、この状況は同じなんだ。もう明日は来ない。映画とは違って自分には生死を共有してくれる友達なんかいやしないが。

 皮肉な笑いがクツクツとこぼれる。その拍子に土埃を吸い込んで盛大にむせた。あーあ。

 家族より博打を愛する父親から逃げたい一心で弟妹達を見捨てて家出して、ついには暴走族の仲間からも愛想をつかされて、昼のひなかに緑芳しいオリーブの中で寂しく野垂れ死に。でも、あたしにはふさわしいんじゃない?

 誰からも必要とされてないんだもん。社会のゴミってやつよ。

「あー…もう一度だけ…」ごろんと仰向けになる。照りつける太陽は残酷な殺人鬼の高笑いを上げているようだ。煮るなり焼くなりすきにしなってのよ。「…日本のアニメセーラームーンが見たかったなあ…」

 さく、と乾いた土を踏む音がした。目玉だけを音のした方へ動かす。

 あ、幻覚だ。そう思った。

 仙女と、天使がそこにいたから。

 仙女は頭のてっぺんから腰まで流れるようなウェーブのハニーブロンド。卵形の顔に繊細な目鼻立ち。オーシャンブルーのワンピースにサンダルを履き、銀のカモメのブローチを左胸につけている。

 天使の方はボブカットに近い髪の長さで、背丈は仙女の膝の上までしかない。薔薇色の頬をして、仙女と同じ形の眉を大袈裟に吊り上げる。ピンクのチュチュに黄色のシューズ。縦から見ても横から見ても10代の少女キリスト教連盟YGCAなどには程遠い自分を、興味津々といった様子で眺めていた。

 二人とも猫人で、セッティニャーノの大理石みたいに染み1つ無い真白ましろな肌だ。瞳は紫がかったスカイブルー。二人お揃いで腰に巻いている自分の肌色と同じサッシュが、仙女がさしたパラソルの下ではためいている。

「なんだよ…見世物ミセモンじゃねーぞ…」

 死んでしまうなら、相手が聖人だろうが魔物だろうが、畏れもへったくれもない。

 人生最後の憎まれ口をたたきながら微笑みが浮かんできた。なぜなのかと問われれば、この情景があまりにも穏やかに美しい一幅のスケッチで、いまわの際に目にするものとしては満足なものに思われたせいだ。

 心のなかでソッと呟く。どうぞ、汚れきってしまった私の魂をお取りください。二度と苦界に墜ちぬよう、虫にでも小鳥にでも変えてしまってください…

 仙女はポーチから魔法の杖ならぬ携帯電話を取り出した。そして大至急車を回すよう、使い魔たるスチュワードに命じた。



 2時間後、アガティーナは雲を凝集して作られたような快適なベッドで、ボルヘス家の使用人達から下にも置かぬもてなしをされていた。「喉が乾いた」と言えばペリエが、「小腹が空いた」と言えば香ばしいブラウニーが運ばれてきた。

 そのメイド達のうちで一番貫禄のある中年が数年来挨拶したこともなかった八人目の叔母、ジャケネッタだった。「ティナ、あんたもう少しでお陀仏になるところだったんだからね、奥様に感謝するんだよ」と枕元で言われ、別にあんたが助けたわけじゃないだろ、と言い返そうとしたら丁度本人…オフェリア=デッラ=ボルヘス、娘のエウリディーチェ、そして歳の大幅に離れた夫のパルダッサーノが入ってきた。

「元気になったかしら?」ぶっすり顔の夫と好奇心にウズウズしている娘を紹介すると、まるで旧来の親友に語りかけるみたいな口振りで尋ねる。「貴女、日射病を起こしかけてたの。救急車じゃ間に合わないと思ったから、うちに連れてきたの。気分はどう?」

「ええ、まあ、いっすよ」

 なんだいその言葉遣いは、と叔母がたしなめた。

「なら良かった。今晩はここに泊まりなさい。食べ物に好き嫌いはある方かしら?」

「はい」するっと舌が答えた。そうするのが義務だと言うように。「あたしアンチョビが食えないっす」

「好き嫌いしちゃダメよ!!」

 いきなり血相を変えるので、こちらもまごつく。「え、は、はい」怒鳴られたのも久しぶりだ。

 猫人はアガティーナが頭を下げるのを認めるや、吊り上げた目元をニッコリと緩ませ「とはいえ夕食のピッツァには使わないことにしましょう。実を言えば私もあれ、好きじゃないのよね」と肩をすくめた。

「ワシはあれが大好きだ」それまで黙っていたパルダッサーノが口を開く。低音バスでしゃべる男を、TV画面の外で見るのはこれが初めてだった。「あれとパプリカの入っておらんピッツァなぞ、気の抜けたシャンペンのようなものだぞ」

 オフェリアはコロコロと喉を鳴らして夫の突き出た腹を触り、「貴方は意外とジャンクめいた物がお好きだものね。いいわ、貴方のお皿にはたっぷり入れてあげます」と目を細めた。

 ふん、と大儀そうに認めるパルダッサーノ。少しの挙動でその胸から腹にかけての線が波打って止まることがない。黒豹の大ダルマだ、とアガティーナは思った。

「お姉さん、お病気治って良かったね!」

 父母の間から妖精のお姫さま…いや、エウリディーチェがピョッコリ頭を出す。

「ああそうそう、貴女さえ良かったらここで働かない?」

 娘の頭を撫でながらのオフェリアの言葉に、我が聴覚器官のあらゆる部分を疑ってしまった。

「ジャケネッタに聞いたんだけど、今は特に仕事をしていないんでしょう?」アガティーナは悪びれもせずしたり顔をしている叔母にガンを飛ばす。これだから何でも筒抜けの一族主義は嫌いなのだ。「丁度昨日、メイドが1人お産で辞めてしまったばかりなの。貴女、若いし元気がありそうだし、頼みたいんだけど。もう決まりでいい?」

「はあ、いっすけど…」手を叩いて少女のように跳び跳ねるオフェリアに、狐につままれた気分で尋ねた。「でもなんで、見ず知らずのあたしに親切にしてくれるんっすか?」

「変かしら?」ぐっと顔を寄せてくる。妙にハイテンションだな、この人。「急すぎたかしら?」

「って、こんなに世話してくれるなんて…嘘みたいっすよ」

 オフェリアは携帯を取り出してストラップを振って見せた。シチリアの民族衣装を着たキティちゃん。自分も実は欲しかったのだけど、仲間の手前我慢しているうちに売り切れてしまった限定バージョンだ。

「私も日本のアニメが大好きなの。アニメ好きに悪人なし。これ、私の打ち立てた理論なのよ」

 解説はまた今度にするわ。とにかくお休みなさい。そう言い置くと、娘を間に手を繋ぎ、オフェリアとパルダッサーノのおしどり夫婦は出ていった。

 その姿を見て、しみじみと思った。これぞ完璧な親子、理想の家庭。今までもこれからも、自分が手にすることは叶わない未来だと。



「あたしだって馬鹿じゃないから、そりゃ怪しんだし叔母さんを質問攻めにもした。けど結局、最後には腹をくくって一丁やってみるか!って決断したわ」アガティーナはポケットから携帯を取り出し、デフォルメされた猫のストラップを愛おしげに撫ぜる。「躾に関しては厳しいなんてものじゃなかった。ちゃんとした角度でお辞儀ができるまで丸一日つきっきり…なんてこともザラでした。放り出したくなったこともある。でもね、奥様が心底からあたしのことを考えて、どこに行っても恥ずかしくないようにしてくれてるのが分かったから、何とか乗り越えて今のあたしになったの。あのまま暴走族を続けてたら、行く末は街角に立つ商売をしてたのかも」

「裏の無い善意、ってなぁタチが悪いよな。やられた方はなんも逆らえねえ」

 アガティーナは低く「そうなの」と首肯する。

「長く働いているうちにご家族についても分かってきたわ。奥様は植物学に深い造詣がおありになって、暇があると品種改良や新種研究と名目をつけて畑を見回ったり実験したり。かなりの出たがり症でべそで内に籠ることのお嫌いな性格。お嬢様は小さい内から利発で頭が良くて、だからああ見えても周りが困っちゃうくらい我が強いの。旦那様はまあ、無愛想なクソオヤジ、ぐらいにしか見てなかったんだけどね…」

 いよいよ本題か。お手柔らかに頼むぜ。

「あのねレグルスさん、旦那様が一度だけ奥様をお殴りになったことがあったんだって」

 物騒な内容とは裏腹に、アガティーナの表情は輝いている。「そりゃまた穏やかじゃねえな。浮気かなんかしへぽぉっ」まだ語尾が切れる前に冗談ではないビンタが飛んできた。

「違うわよ。妊娠を知らされたときに、お医者に母体が危険だって言われたの!高い確率で奥様の心臓は耐えられないって。奥様は『構いません』って答えたの。『どうせ長く生きられない身体なんだもの、パルダッサーノパルに子供を残した方がいいわ』って旦那様に言ったのよ。そこで」

 メイド娘は胸を揺らして両手を打ち合わせる。「パーーーン!平手を張られたわけ」俺も今やられたばっかりなんだが。「さて、旦那様はなんて言ったでしょうか?」やれやれ、このクイズも外したらバイオレンスの罰則がついてくるのか?

 あの親父のことなんか知ったことか。いやしかし、この場合正直になっても得することはないな。

 たれた側の頬をさすりつつ俺は慎重に、しかしあえて狙いのコースから外れてみる。

「お前の身体が大事だから餓鬼は堕胎おろせ、とかか?」

「ブーッ、大外れ!正解はね」

 その日その時、市内総合病院の産科診察室に音高く妻を張り飛ばした黒豹人は、ドアの前を通りがかった者が恐れをなすほどの大音声で、妻である猫人を罵倒した。

「貴様はそんな了見でワシの妻になったのか。愚か者!お前も子供もワシが愛する二つとて無い宝なのだぞ!その命を自ら粗末にする、これ以上の不貞があるか!神父の前で誓いあった永遠とわの不離が聞いて呆れるわ!ええい腹立たしい、そんなにこの世に飽いておるならば尼寺なりどこへなりとねぱよい!でなければその命をこのワシが断ってくれる!」

 アガティーナはボルヘスが…いやボルヘスを演じるが乗り移っているかのように部屋の片隅を指して仁王立ちになり、その情景を再現した。

 セキュリティルームがしんと静まった後、肩を落とすアガティーナに俺は「激しいな」と率直な感想を述べた。

 この仕事の裏をとるため『アマゾンの女王』でステラの話を聞いてから俺は、ぶっちゃけ正直有り体に言ってー…ボルヘスとオフェリアの不和を疑っていた。

 だってそうだろ?よわい50になんなんとする人生の坂道の半分を越えた成金親父に、心臓の弱い美貌の若妻、それに不審死と負債と保険金だぜ?これだけの要素があったら、民放の放送作家が世の女房達を喜ばせる昼ドラを両手の指の数以上にひねくり出せるだろうよ。

「でね、その後、奥様の頬の腫れが元に戻るまで旦那様は絶食したの。水も飲まないし唾は吐き出す。で、6日もしたらこうなっちゃった」スターの生写真をロッカールームで見せびらかす中学生のように携帯の画面をこちらにかざした。「奥様が撮った写メ、貰ったんです。あたしの宝物」

 口髭を蓄えた黒豹人の横顔。ギョッと目だけがカメラをとらえている。それは、苦みばしった悪役に挑戦する往年のボガートに似ていなくもなかった。

「なんだあの親父、脂肪の鎧をとったら案外見られるツラしてんじゃねえか」

「そうですか?あたしは痩せ細ってるこの頃よりも今の方が好きですけど」

「アバタもエクボ…って殴んなよ。で、そんなラブラブだったオフェリアの死亡疑惑ってな、なんなんだ」

 アガティーナは振り上げたかいなをパタンとエプロンに下ろす。

「奥様と旦那様は、お嬢様の教育方針でしばしば衝突してました。奥様の主張は、喘息があるうちは無理しないで近くの学校に通わせたらいい、それともいっそ家庭教師でもつけてのびのび育てたいと。旦那様は大反対なさって、社交性を身に付けさせるためにも高い水準の学校で厳しく集団生活を身に付けさせるべきだ…と」

 あれ、ちょっと待てよ、矛盾が生じてないか?じゃあなんで現在エウリディーチェは四六時中この城にいてセルバンテスから教えを受けているんだ?

 俺が疑問をぶつける前にアガティーナが回答した。

「奥様が亡くなったのは二人が最後に言い争った当夜のことなんです」

 曰く、オフェリアは普段は肌身の一部のごとく手元から離さない心臓の薬を夫婦の寝室に置いたまま、庭の花壇に突っ伏して息絶えていた。城の方角ーーー薬の瓶があり、サインを送れば助かったかも知れない、愛する連れ合いが灯火の下帳簿をつけていた城の方には背を向けて。

 もし100%の事故ならば、死ぬ間際の数十秒には城に這いずっていく筈ではないか?

 それを何度も保険会社の調査員に追及されたらしい。まあ、シチリアの警察がガキんちょに好きなだけ恵みをくれる底抜けのポップコーンマシーンだとすれば、保険会社の調査を請け負う連中はスーツを着た拝金主義のハゲ鷹みてえな連中だからな。さぞや慇懃に重箱の隅をつついたことだろう。

「…食堂でお前の叔母さんが言ってた疑いってのはつまり、自殺の可能性があるってわけだな」

 やはり、この城の連中もそうじゃないかと踏んでるってことか。俺はアガティーナの直視を避けて、モニターに目をやる。亡霊が出現する予定の廊下を映す四角い枠の中に、アガティーナ自身がさ迷い出でた。花瓶の見立てを整える横顔に浮かぶのは寂しげな表情。

「ついでにボルヘスの大将は女房への負い目が祟って、どんでん返しに娘に対して過保護になっちまった、と。そんなとこだろうな」

 今度はどうやら百点満点、花マルがもらえたらしい。採点者のアガティーナはちっとも浮かれた様子ではなく、うなだれるばかりだが。

「嬢ちゃん自身はどうなんだ。城ン中に押し込められてストレスが溜まってやしないのか?」

「勿論です。外で遊びたいお年頃ですもの。すっかりヘソを曲げてしまって、お二人きりの時は滅多に旦那様に話しかけないんです。旦那様も旦那様で、口下手な上に気遣い屋な方だから…もう目も当てられません」

 執務室のやりとりで二人の間に亀裂を感じたのは、そういうことか。

 人も羨む豪邸に住まい、幾人もの使用人にかしずかれ、美味いもんを食いドレスに着飾ってはいても、餓鬼は餓鬼だ。うちのアルフは一秒だってじっとしていらんねえが、俺だってそこは年齢相応の本分だと許している。…つもり、だ。

 重い扉が隔てた外の世界との距離だけ、父親と娘の心がすれ違っちまってるんだな。

「家庭教師なんか雇ったのも逆効果でした。結局、お二人だけの時間が少なくなるばかりなんですもん」

 モニターの中は依然変化無し。凝として身じろぎ一つもない薄暗がりに、仄かな照明に花瓶の百合リリスの乳白色が、灰を被ってしまったように濁っているばかりだ。

「俺が餓鬼ン頃は、親の言うことに逆らえばこっぴどくぶん殴られるのが普通だったがなあ」俺の場合、両親に叱られると、たとえどんなに相手の理屈が正しかろうが癇癪を強くして家出してしまうことがほとんどだったが。「なんつーかさ、もっと親子のスキンシップってもんがあっても良いんじゃねえか?ビシッと一発!これだろ」

「旦那様は古風な方です。男が躾に拳骨をふるえるのは、男の子にだけ。女性には我が子であっても決して手を上げたりしません」

 だから八方塞がりだと嘆いていたわけか。なら解決法は至って簡単。俺は椅子にそっくり返り、脚をコンソールに投げ出す。

「お前が仲立ちしてやりゃあいいんだよ」

 でもあたしは、と言いかけるアガティーナの口上を制止してやる。

「死んじまったやつにゃあスプーン1本動かせやしねえんだ。気兼ねするこたぁない。お前にしかその資格はないのさ」

「レグルスさん…」

「ジャンでいいって。いいかアガティーナ、お前が本当にこの城の家族を大事に思うんなら、愚にもつかねえ義理や自分の置かれた立場なんぞにウダウダ悩んでないで、気持ちに正直に行動しろ」

「レグルスさ…ジャンっ」

 アガティーナの科白が跳ねた。白いエプロンの胸が、俺の横顔に押し付けられる。

 斜め上から角度のついた抱擁。「あたし…あたし、頑張ってみます。そうですよね、奥様のご恩に報いるなら、そうしなきゃいけなかったのに。バカだ、あたし。自分の悩みにばかり囚われてそれを忘れてたなんて」ムニュニュニュと感極まった犬人の娘の若い乳房の感触。俺の股ぐらのライフルが練兵さながら「捧げぇ筒!」の状態にいきり立つ。

「おっ、おう、ああ、そうだな」クソッ、気取られたら官能的…いや感動的なシーンが台無しだぞ。俺は意識をアガティーナのダブル肉風船から逸らすために鋼鉄の集中力を発揮しなければならなかった。「さて、いつまでも錨を下ろしててもしょうがねぇし、そろそろ他の場所も回ってみっか」

 アガティーナが下瞼のあたりをこすりながら身を起こす。俺も股間の屹立を隠しながら腰を浮かそうとして…モニターに顔を向けたまま固まった。

 なんだ。今何か、画面に違和感があったぞ。

「ジャン?行かないの?」

 もうアガティーナはドアのところに行っている。「ちょっと待った」をかけ、急いで逆再生をかけた。

 画面は暗い。当然だ、タイマー表示は午前2時半。真夜中を過ぎて深夜になっている。

 時間がゆっくり巻き戻る。1分…2分…

 なんだ。俺の観察眼に引っ掛かったのはなんなんだ?納得がいかない、おかしい、そう感じさせるものが確かにあった。目を皿のようにして砂粒さえ見逃さぬよう気を張る。視神経がビリビリ緊張し、網膜が焼けついてくる。

「ジャン、一体どうし」

「シッ」

 ただならぬ気配を感じ、アガティーナがエプロンをたくしながら戻ってきた。俺達二人で12台のモニターのうちの一台に凝視の眼差しを投げた。

 4分…6分…

 石壁、絨毯、テーブル、花瓶と、何も変化は無い。7分経った、その刹那。

 花瓶の百合の花が一斉に首を振った。まるで『エクソシスト』で悪魔に憑かれた少女のように。

「何これ!」

 その叫びには超自然的なものに対する恐れが含まれていた。俺は通常再生のボタンを押す。

 通路に花弁が開くよう向きを揃えて生けてある百合。それが、ある瞬間タイミングを合わせてカメラ側を睨むのだ。

「なっ、これ、ここここれやっぱり、おっ、お化けぇっ!?」

 俺の上着の肘を取り、ガクガク揺する。勘弁してくれ、こいつに傷をつけたらクリーニング屋の親父が殺し屋に鞍替えしちまうって…ビリッとイヤな音がしたな、遅かったか。

亡霊ボーレイだのお化けだのヘチマなんざなあ、この世にいやしねえんだよ。トリックに決まってるだろ」

「でっでもタイマーも正常じゃないですか!」

「うっせえ!何かあんだよ、仕掛けがな」

 五回以上繰り返してみる。が、さっぱり分からない。業を煮やして席を立つ。

「その廊下に行くぞ、案内しろや」

 あっ、ハイ!と答えてから、「でもあたしホラー嫌い…」とアガティーナは情けなく眉を下げた。

 多少時間は早いものの、夜は夜だ。真に亡霊のなせるわざなら、怪異を今起こさずにいつ起こす?ええ?

 懐の内で呟きながら、アガティーナに連れてこさせた三階の廊下のポイントを、まずとっくりと見渡した。

 もういい加減うんざりするくらい眺めた、同じ作りの石壁。ここは城の内部を十字に仕切る通路と繋がっているので、平面で考えればTの形になっている。その交点の外壁にくっつけて小さなテーブルがあり、先程の録画で怪しい動きをした百合が強烈な甘い香りを放っていた。

 花瓶を取り上げる。生けてあるのは百合の大輪が三本。軽いな。水を相当吸って、まだ入れ替えてないのか。葉の艶もあるし茎もしっかりして、白磁のような花弁に光沢がある。新鮮さを保っているようだが、いくらイキが良いといってもエイリアンが寄生してでもいない限り植物は自動運動はするまい。

 水鳥に似たフォルムの青い磁器の胴は厚みがある。どこの窯かは分からないが、造りそのものは一般的で、ネジもバネもない。

 俺はアガティーナに断りを入れて、手近な窓から水を捨てた。器の中をもっとよく調べるためだ。内側から開くぶんには電磁ショックも反応しないとのこと。いやはやご立派なセキュリティシステムなこって…

 ところが花を抜いて口を逆さまにし、花瓶の中身をぶちまけた途端。

 ギャオオオ!

 大地を割ってほとばしった物凄い吠え声に、思わず花瓶を取り落としそうになる。「今の声は!?」と震え上がるアガティーナを制し、闇に瞳を凝らした。

 外壁の遥か下方、地面の上に黄色に不気味な炎をともした小さな玉が二つ並んでいた。その下に牛の臓物のように黒いあぎとがカーッと開いている。猫科の人間の視力ならもっとはっきり分かるんだろうが、恐らくあれは…

「…猿か…?」

 毛並みの無いヌルリとした容貌に白茶けた歯を剥いて、そいつはキーッと一声鳴くと、城の壁づたいに姿をくらました。

「猿ですか?なんでそんなものが、このあたりにいるんでしょう?」

「俺が知るか。そういやここに来たとき花壇が荒らされてたが、あれはあいつの仕業かもな」

「花壇が?」

 ああ、球根の植えてあるあたりが掘り返されていて…と説明する合間に「イヤだ!」とアガティーナは息を飲む。

「あそこは奥様が一番お気に入りにしていた場所なんです。その球根って、まさかこれくらいのもの?」人差し指と親指で小さなリングを作る。俺が認めると「奥様が特に手塩にかけてらしたチューリップだわ…」もう最悪、と額を抑えた。

「大方、輸入でペットにされてたのが逃げ出したかなんかだな。城を汚したのも大方はあれの仕業だろう」

 窓を閉じ、つらつら器を覗き見る。細工はどうやら見当たらない。

「…変哲は無しか」

 水を入れ換えたいと言うアガティーナに渡す。と、あれ、と鼻先から吸い寄せられるように両眼を近づけた。

「やだな、この花瓶ヒビが入ってる。誰か落っことしたのかしら」

「ちょっと貸してみろ」

 確かに蜘蛛の糸のようなフラクタルが口のあたりから広がっている。

 もしや…!

 俺は少しテーブルから離れ背伸びをする。なるべく視線の照射の角度が絨毯に対して鈍角になるよう目をすがめた。

 燭台風の白熱灯の弱い力で判別するのは骨が折れたが、テーブルのちょうど下あたりに褪色が起こっているのが分かる。

 間違いない、粗忽な誰かが敷物の上に花瓶を落っことしやがったんだ。眉間のシワが石になるくらい注視すれば…

 おいおい、絨毯の毛羽に矩形の凹みができてるじゃないか。こりゃあテーブルごとガッターン!とやったな、傷が残るほどの勢いで天板の角が噛みついたのだ。

 落ちた花瓶、こぼれた水の位置。壁にぴったりつけられたテーブルが、倒れたのであろう痕跡。

 そしてこの城。そうだ、この屋敷の性質を失念していた。プールに長く漬かっていると、始め冷たく感じていた水が温かくなったような気になってくる。あれと同じ理屈だ。環境への順化なれ

 ここは異教徒との攻防戦にさらされた城塞。となれば、1つの可能性が残されているじゃないか。もっと早くそこまで思い至らなかったのは、我ながら肉体の誘惑に勘が鈍っていたとしか言えないぜ。

「アガティーナ」しゃべりながらテーブルを壁の前からどかす。「お前、言ってたよな。オフェリアはいきなり現れることがある、って。叔母さんも気持ち悪がってたらしいよな」

「はい」

 奇術師が封印された大箱の中身を透かすように、堂々と自信を持って壁に向かい二枚の掌をぴったり密着させる。

 まるで壁の石組みと対話をするように目をつぶり、指の腹を這わせる。これを事情を知らない部外者が見たら、女にあぶれた野郎がしこたま酒をかっ食らい、冷たい岩の上に玉の肌を夢想したとでも思うことだろう。

 感覚を研ぎ澄まさせろ、ジャン。麻薬捜査の時のあの緊張感を思い出せ。少しの違和感も見落とすなー…

 指先の感触が変わった。石組みの中に一筋、縦に長い亀裂がある…いや、これは、溝だ。シルクの生地の厚さより薄い隙間が走っているぞ。

 それはちょうどテーブルの後ろにあたる壁全体に、半卵状の枠を作っていた。

「歴史が好きで良かったぜ。このあたりに残ってる騎士団を救ったマリア降臨伝説の、答えがこれだ!」

 俺は足を突っ張り、渾身の腕力を込めて壁を押した。カチッと中で何かの金具が外れた音がして、溝で区切られた枠全体がグルンと回転する。

 隠し扉を見破り前に倒れ込みながら「よっしゃ!」と叫んだ直後「あででででで!!」と悲鳴を上げるというしまりのつかない結果となってしまった。

 廊下の照明が差し込んだとはいえ、壁の中の空間は鼻先三寸から墨を流したような闇が垂れ込めている。すれ違う余地の全くない細長い通路が左右に延びており、若干傾斜がついているが下方は十中八九、丘陵地帯のどこかの窪地に出口を持っているんだろう。

 などと冷静に分析しつつも、俺は勢いよく裏返った扉と壁の間でトラバサミよろしくゴリゴリと足首を挟まれていた。抜こうにも倒れた姿勢が悪く、なかなか扉に逆らえない。

「うわっちちちちち!」

「ジャン、動かないで!」

 アガティーナがスカートをまくりあげて壁を激しく蹴りつけながら扉を引いた。おかげで挟まれた足がフッと軽くなり簡単に抜ける。

 俺はすかさずテーブルをストッパーにして元に戻ろうとする厄介な壁の仕掛けを固定した。どうやらこの回転扉、一人通り抜ける毎に自動的に閉まるようになっているらしい。

 踝をなぜながら、おお痛ぇこン畜生と、ありったけの罵倒を胸のうちで呟く。大の男が女の前でピーピー泣きわめくぐれえなら、大樽一杯の牛馬の小便を飲み干した方がまだましだ。そうだろ?

「これは…秘密の通路か何かなんですか?」アガティーナはひょこんと首だけ突っ込み、胡座をかいて足首をいたわる俺の上から左右を見渡す。「こんな物があっただなんて、どうりで奥様は色んな所に現れたり消えたりすることができたわけですね」

 俺は釣り針を踏みつけたようにジンジンと波状攻撃をしかける痛みに耐えて立ち上がり、ライターをすって力の乏しい炎をかざす。

 通路の中は上と左右は石が組んであるが、足元は土になっている。横も狭いが縦にも相当低い。カビに冒された土と埃の独特な臭いと、ひんやりした湿っぽい空気。閉所恐怖症の発作を起こしそうな雰囲気は遺骸収容遺跡カタコンベにそっくりだ。

 ライターの火先が捧げ持つ手の内でチリチリと前後に揺れる。勾配の上り方面から風が流れてきているな。

「こいつはイザという場合に備えて、ローマ人が建築した当初からあったもんだろうな。逃走用に造られたんなら恐らく罠は仕掛けてないはずだが、用心しとけ。壁とかむやみに触んなよ」

「そうですね…て、まさかジャン、入っていくつもりなんですか!」

「おいおい、入らないで中を調べろってなぁ無理な相談だぜ」呆れて俺は振り返る。「おっかねぇなら人を呼んできな。俺一人でも亡霊騒ぎを企んだやつを取っ捕まえてやっからよ」

 アガティーナの泳いでいた目線がしっかり定まった。「…いえ」エプロンの腰をグッと結わえ直し唇を引き結ぶ。

「あたしも行きます。この出来事を最後まで見極めなきゃ、奥様に顔向けできませんから」

 いいねえ。俺は女が大好きだが、わけても思いきりのいい度胸のある女ときたら最高だ。

 俺じゃない男に惚れてる、ってただし書きがつくことが残念だけどよ。

 ライターの炎を頼りに、亀のように首をすくめ身をかがめて歩く。加えて進行方向に対して身体を斜めにしないと俺の広い肩幅ではつっかえてしまう。窮屈なことこの上ないが、文句を言う間に舌ではなく頭を使うことにした。

 セキュリティルームで見た記録は誰かがいじくったものだ。この通路を使ってあそこに出たはいいものの、それがカメラに撮影されたことを知り、自分が映っている部分だけ編集カットして前後をつなぎ、尺だけ引き伸ばしてごまかしたんだな。

 だが倒したテーブルから何から位置を整えたその誰かさんは、花の生け方まで寸分違わず元に戻すことを失念して…あるいはそこまで微に入り細に入り調べられるなどとは予想だにしていなかったのだろう。映像に現れたあの不気味な百合の首振りの、原因はそれだ。

 フフン、さすがは俺様。犯人の野郎め、細工を施してもう安心と今頃は高枕で鼾をかいてやがるんだろうが、覚悟しとけよ。

 俺様の拳骨でボッコボコに叩きのめして縄を打ち、お白洲ならぬボルヘスの前に引き据えてやる。そうすりゃ報酬の後金もガッポリ、俺はニンマリ、ステラにツケを払って面子も保てるし、事務所の備品類もグレードアップして…そうだな、クーラーと新しい冷蔵庫も入れにゃあならんな。今のやつはビールが生ぬるくて氷も満足に作れねえし。

「ジャン、前に気をつけて」

 電話もファクス付きにしよう。船も欲しいな。運河に浮いてる浮浪民の住処になってるボートみたいなやつじゃなく、マリーナに並べてあるようなヨットがいい。ちょっとやそっとの嵐は屁でもない中大型船だ。

「ジャン、前ですよ」

 内装にも懲りたいところだ。バーカウンターは必須だな。ムードをつけるオーディオ、ふかふかの寝椅子。釣り道具の収納は2部屋に分けた前方だろう。俺はテレビはサッカーやボクシングや闘牛観戦に使うがアルフはアニメを見たがるから、ソニーの薄型ビジョンとDVDプレーヤーを…

 妄想がそこに達して俺は馬鹿野郎、と独りごちた。あんな餓鬼のことはほっとけ。俺が休息を得られ、女を口説けるような場所が欲しいんだろうが。ここんとこ雑念が増えてるぞ。

「ジャンってば、聞いてますか!?」

 聞いてるよ、そうがなるな!と首を捻った後頭部に、出っ張った石材がぶち当たった。

「ぬぐあっ、またかよ!」

「だから言ったのに。下とか横ばっかり見てるからですよ」プッと吹き出しながらアガティーナが追い付く。「かなり来たような気がしますね。もう上の階かな?」

 俺は歩幅コンパスからはじき出したおおよその距離と方角から、上階の南西あたりの区画の部屋のどこかだとあたりをつけて教えてやる。

「すっごーい!どうしてそんなに詳しく分かっちゃうんですか?」

「めぼしい被疑者ホシを夜中に尾行すりゃ、地図なんかが無ぇときは方角さえ覚えときゃ後から仲間を連れて辿り着ける。の面積から潜伏してる人数を逆算するために自分の歩幅をインチ単位で把握して、通行人を装い建前を回って計測したりするんだよ」

「はー、そんなことまでするんですね。ドバーンて乗り込んで即ブシュブシュ銃を撃って終わり、ってわけじゃないんだ」

「あんなぁ、警察も探偵も本来は地味ジミなもんなんだよ。ドンパチなんかそうザラにはありゃしねえって。第一、矢鱈に死人を増やしたところで誰も得しねぇだろ」

「まあ、そうなんでしょうね。あたしなんか警察から追っかけられる方だったからあんまり分かりません。抗争はいつでも作戦無しの力任せだったし」

 この娘、目鼻立ちは美人コンテストの上位枠に入るのは折り紙つきだが、あっけらかんとした会話におかしみがある。

 クソッタレ、やっぱりあのボルヘスの中年デブなんかにゃ勿体ないじゃないか。あと4~5年も経ったら自然としっとりした色気もついて、佳い女になることは折り紙つきだっつうのに。

 やれやれ、そういう女には生まれつきとんと縁がないんだよな俺は。ため息をつく脳裏にツ、と銀髪の後ろ姿がかすめる。かぶりを振ってその面影を払いのける。

 ま、しょうがない。アガティーナちゃんが指摘したように、とにかく前方注意を怠らずに行きますかね。

 短いカーブを曲がったところで、何か弱々しく光るものが空間に浮かんで…いや、壁に貼りつけてあった。

 ライターの火を近づける。細長い蛍光テープを組み合わせた×バッテン。オフェリアか、さもなければこの通路を利用している誰かがつけた簡単な目印バミリだ。案の定、壁を押すとなんなく開く。

 出た部屋は暗いことは暗いのだが、カーテンを透かした月明かりで大体の様子は分かる。俺とアルフに与えられた寝場所よりやや大きな、そして整頓の具合は若干乱れた感のある部屋だった。

 アガティーナが「今明かりを点けます」と先に動き、間もなく蛍光灯がしばたいた。暗闇に慣れた瞳には痛いほどの強烈な光の御利益で、物の配置や輪郭がかざした手の指の隙間に次第にはっきりしてくる。

 書架とファイルキャビネットが一方の壁全面を覆い尽くし、窓側には横に長いデスクと回転椅子。隠し扉があった方には様々な瓶詰め箱詰めの植物標本や、採集道具が並べられた棚が置いてある。おろ、デスクには型は古いがちゃんとしたコンピュータまで乗ってるじゃないか。

「ここは奥様の研究室だわ…懐かしい」感慨溢れた様子のアガティーナは、昔日の女主人が片付け忘れた床の上の紙片を拾い上げる。「旦那様の厳命で封印されていたから、入るのも久しぶり…」

 俺はデスクに近寄り、ルーズリーフやメモが撒かれた机上をざっと見渡す。その中で比較的読めそうな、プリンターで印刷したらしい一枚をつまみ上げた。

「うぇ、なんじゃこりゃラテン語かよ。んっと…ゼ…ツメツした…その……ん、はてな、こりゃなんて意味だったっけな…」

「読めませんか?」

「馬鹿にすんな。こんぐれぇ屁のカッパさ」

 もどかしくて苛ついてくる。こんなことになると予見できたら、ラテン語の授業をもっと真面目に受けてりゃよかった。題名すら読解できなきゃ面目丸潰れだぞ。

「原罪…じゃねえな、こいつは…」

 ラテン語講座のクストー先生…口臭が酷かったため、ついた渾名は「糞公」…不真面目な生徒だったことは悔い改めますから、チビッとだけ力を貸してくれ。貸せよこの野郎!

 ありがたみのない言葉で高校時代の恩師を拝み倒したその時、頭の中にパッと単語の訳が閃いた。

「…そうだ、リナシメント、『復活、再生』だな!」

 『失われた原種植物とその復活における過程について』ーーー題名はこれだ。どうやら研究書の断片で論文の体裁をとっているようだが、他のページが見当たらない。これは表紙らしいな。凝った麗しい書体で印刷された題の下には、何やら球体の写真がある。

 いや、よく目をこらすとただの無機質な物体ではない。下の方に根毛のチョビ髭を生やしている。どこかで見覚えがあるぞ。喉仏を掻き掻き頭の中のデータベースを検索していると、アガティーナが背伸びして写真を確認するや、あっさり言ってのけた。

「あらそれ、奥様の球根だわ」

 例のチューリップか、と問えば是と答える。

「そういえば奥様、亡くなる前に私に『失われた命を蘇らせる』とかおっしゃってました。重要な実験で、成果が出たら旦那様とお嬢様とで取材を受けることになるだろうって…大層喜んでらして…」

「泣くなよ、湿っぽくなる」

 泣いてませんもんね、とわざと憎たらしい顔をするアガティーナ。

「するってぇとこいつは稀少植物ってことになるわけだな。もっとそこらを探せば詳しく分かるだろう」

 俺は過去に一回だけ、ワシントン条約に関わるような密貿易を担当したことがある。趣味が悪いとしか言いようがないのだが、蜘蛛だの蜥蜴だの食虫植物といった奇っ怪な生き物でさえ、それが絶滅危惧種となると同じ重さのウラニウムより御大層な扱いになるのだ。

 あのとき現場で押収したのは、背中にイタリア半島そっくりの模様が浮き出たカリブ海のウミウシだった。驚くなかれ、価格は4万5千ユーロ。ベンツより高いってんだから恐れ入る。

「チューリップの原種ってのは幾らぐらいの値段がつくんだ?珍しいんだろうな?」

「えーと、確か奥様が一度こんなことを言ってました」アガティーナはこめかみに人差し指をねじこみ、脳髄の記憶野を刺激する。「えー…もとは現在のトルコからイスラエル付近に自生していた花で、トルコでは愛の象徴として大変親しまれたものです。花言葉の起源でもあり、メフメト2世の肖像画にも描かれています。ヨーロッパにある花弁の大きなものは改良種で、原種は存在しません、だとか」

 まるでコールセンターのクレーマー対策の自動応答装置だ。立て板に水で言い終えると「あ、知恵熱が」とよろめく。おどけているのは半分で、あとは本当に疲れたらしい。

 それが真実であれば、これはコレクターが涎を滝のように垂らして欲しがるものじゃないのか。壁の中の亡霊も、随分とまあ生々しい動機でさ迷っていることだ。

「理由はこれで分かりましたね。奥様の研究を盗もうとスパイが入り込んだんだわ!」

 取っ捕まえる気満々、腕をまくって意気込むアガティーナにうなずきながら、どこか釈然としない。

 それだけか?理由としては充分だが…それにアガティーナでさえ内容を知らない研究をどうやって嗅ぎ付けたのだろう?

 そもそもこの球根はどこからやってきたのだ?環境が整えば芽吹く性質を考えれば、土中に埋まっていたわけでもなかろうに…まさか、と部屋の中をもう一度ぐるりと見渡す。

 パソコン一台っきゃない貧相な環境でDNA抽出などできっこないな。

 もう身体の半分はドアから出ていきかけたアガティーナが手招きをしている。

「ジャン、このことを旦那様にお知らせしに行きましょうよ」

 おう、そうだな。とにかく一旦メドをつけよう。これだけでも充分な収穫だ。深追いするのは準備ができてからだ。

「お前はそうしろ。俺は、この先を調べる」

 くちの方が上部意識を先回りした。こういう場合、俺の野生動物かたなしの第六感が怪しい気配をビンビンにとらえ、かまびすしく警告しているのだ。

 そして飼い慣らされない本能こそ、持ち主の都合には頓着しない厄介者。賭け事も酒も捜査も、とことんまでやり込まなきゃ気がすまないこの性分で、数えきれないだけの痛い目を見て今に至るというのに。自然げんなり尻尾も下がるぜ。

「この先を?」

「ああ」ったくしょうがねえ。両耳の間をガシガシ掻いて唾を吐きたいのをこらえる。「この通路の終着点がまだ分かってないだろ。今夜のうちに、内部のすべてを踏破する。しちめんどくせえけどよ」

「あの、じゃああたしはできる限り人を集めます。警察も呼んだ方がいいかな…とにかくすぐ追い付きますからね!」

 んな気張らんでもいいだろ。適当にやれよ、と肩を小突いて送り出す。

 さて。これで身軽になれた。女と一緒にいる楽しさを別にして、チームワークってもんが俺はどうも苦手なんだよな。

 大体が誰かに背中を預けるほどヤワじゃねぇし、そいつの安全まで確保しなきゃならねえのは仕事に余計な手間を増やすだけだ。

 この俺様が気兼ねせずタッグを組めたのは後にも先にも一人だけ。背中の真白な毛並みをした無二の相棒。誇らしい生涯の朋友。

 イグナシオ=コッレオーニ。その容貌が甦る。

 ひとつだに影を落とさぬ太陽の欠片のような明朗な笑い。強い磁石が砂鉄を引き寄せるように、あいつの周りには自然と人の輪ができ、行くところにはいつだって調和ハルモニアが生まれる。

 警察官としての働きにも信頼が厚かった。敵味方の別なく、損得を勘定することなぞハナから切り捨て、ただ己の信念に従ってがむしゃらに突き進む絶対的な正義。ときに水牛革の肘掛け椅子でハバナの葉巻をふかす地元マフィアのドンにさえ尊敬・畏怖をこめて「イグナシオナチョの手を煩わせるなよ」と言わしめたほど。

 気っ風の良い、申し分のないシチリア男の見本だった。

 俺とは真逆な性質のイグナシオ。餓鬼の頃から俺の憧れであり、あらゆる条件を満たした紛れもないヒーロー。

 俺にとって、ただただ眩しい存在。嫉妬も羨望も思いもよらず、一緒にいるだけで満足だった。言葉にすれば気恥ずかしいがそれだけ特別な奴だったのだ。

 あいつが俺を置いてシチリアを出ると言ったとき、冷静でいるのは並大抵の努力ではなかった。世界が何もかも変わった気がした。それは四六時中口にしていた飴玉を取り上げられた赤子のようだったように思う。

 内蔵の半分をもぎ取られたようなストレスはあっという間に降り積もり、暴力のブレーキもタガが外れ、警察組織にもいられずフリーランスの探偵という泡沫あぶく稼業に身を落としたのだ…

「へっ。アガティーナのことを言えねえやな」

 己に対し悪態をつき、扉を開いて再び通路のヌルリと澱む闇に潜り込む。

 ライターを灯すのももどかしく、せせこましい壁の中を小走りに近い早さで進んでいく。そうでもしなければ背後から想い出が津波のように押し寄せ、足元を掬われそうな気がするからだ。

 過去に浸るな。しんどいだけだ。何をどうあがいたところで俺はそういう運命、神だかなんだか知らんがくそったれな野郎に孤独の人生を定められているんだ。

 だからみんな去っていってしまうのだろう。アガティーナもそうだ。俺が好きになる奴らは親友も女も、みんな俺から離れていく。

 俺の人生はまるでこの通路そのものだな。暖かく照らしてくれる灯が一つ一つ消えてゆき、あとは行き当たりばったりの無明の前途があるばかり。結局、俺は…

 ゴツッと、壁のとっかかりに肩が当たり我に返る。こりゃイカン。自分で胸を叩いてカツを入れ、下がり調子だった視線を上げる。

「おっと?」

 壁からかぼそい光の線が四角く漏れ、出入口を示す場所に行き当たった。暗所での行進で敏感になっている眼に、隠し扉の形がはっきり分かる。

 俺は通路の空間がこの先も続くかどうか目を凝らして確認した。狭い逃げ道、幾多の騎士が落城の折に駆け抜けたトンネルはまだまだ伸びており、ここでどん詰まりになっているというわけではないようだ。

 俺は隙間の上に耳を当てて、小さな音が集まるよう掌をかぶせてみた。こうなりゃ趣味がどうのとお上品なことを言ってもいられねえ。盗み聞きだろうがデバガメだろうがやってやらぁ。どうせ昔だって似たようなことが仕事だったんだ。

 石材の隙間から、部屋の主の細められた声…男の、それも若い…が聞こえてくる。響きに覚えはあるが、何しろくぐもって判然とはしない。がすぐに、内容がつかめないのはもう一つ理由があることに気が付いた。

 そっと押しただけで音もなく壁が動く。すんなり部屋の内側に忍び入ると、目に優しい白熱灯の室内照明に、床の中央に敷き詰められた海草のような深緑の絨毯が浮かび上がる。

「(だから、こちらの言い値で通さないでどうするんだ。…馬鹿、それじゃあ足元を見られるだろうが。お前は私の指示通りに動け。…ああ、こっちもいい案配だよ。そろそろ仕上げにかかる…)」

 外国語の会話…イタリア語と相似性はあるが意味がつかめない。

 俺は息を殺して、壊れ物を扱うように出入口を閉じた。やっと首を伸ばせたのでバキバキ回してやりたいところだが我慢、我慢。

 部屋の形は銀杏の葉と同じ末広がりか。扇形に直角に開いた壁と、その底辺の曲線が一風変わった構図を生み出している。

 城の内部構造から考えて、かなり大きな間取りになるはずだ。もしや円形の断面の中、四葉に区切られたエリアのまるごと一つに当たるのではないだろうか。

 部屋の内側から数多い窓を塞ぐほど様々なものが掛けられている。売上高とコストを上下に書き分けたホワイトボードが隅に佇み、オリーブ園のパノラマ写真や地図が貼ってある。やたらに大きなカレンダーには商取引や行政手続き、アポについての備考と果ては個人的なイベントまで事細かに記入されている。

 室内の曲線に沿い、クイーンサイズのベッド、長いサイドテーブル、本棚、年代物の箪笥、土偶や青銅器や矢尻や笛などがゴロゴロ載っかった飾り棚、低い冷蔵庫、等々。

 家具調度品は、どれもよく磨かれて曇りとてない。こりゃちょっとしたホテルのスイートだな。

 くだんの人物はいかつい俺様という闖入者が背後に立っているのをいまだ悟らず、パソコンモニターに向かって座り、先の少し丸みを帯びた耳にセットしたインカムに早口の科白をしゃべり続ける。

「(田舎の成金はチョロいぜ。学位を鼻先でちらつかせてやればヘイコラ言うこと聞くんだからな。ま、張り合いはないが割りのいいヤマだったな。ああ、はははっ、宝の方は見つかんなかったよ)」

 洒落た三つ揃いの背なを揺らし、上機嫌に笑いをこぼす虎人。使用人にしては破格の扱いをされている、ボルヘスがベタ惚れの秘書兼家庭教師、ロレンソ=セルバンテス。

「(あと少しの辛抱…)」

 デスクの端のカップを取ろうと上体をねじり、そこで俺に気付いて上げた情けない悲鳴は、後ろから爆竹を投げつけられた野良犬に似ていた。

 手元から薄黄色い液体をボタボタ垂らしながら、あわあわと意味の無い舞いを踊るセルバンテスの狼狽は一興の見応えがある。

「あっ、わっ、どどどどこから一体?レグルスさん?」

「ちょっとそこから、な」俺は軽く顎を後ろへ流し、内心のざわめきを抑えながら虎人の方へ近づいた。「ちと面白い発見があったぜ。隠し通路だ」

 キョトンと平らになった面相が、単語を理解して驚愕の皺を刻む。

「隠し通路ですか!?まさか!?」

「いや、マジだーーー…なんだそりゃバナナジュースか?甘ったるいもんってんだな」

 ああ、この感じ。賭場カジノのテーブル越しに、ハスラーや勝負相手の肩の高さの左右差、視線の揺れから手札の駆け引きをする、毛皮がチリチリ焦げつくようなスリル。

 布石は打った。あとは地雷を踏んでくれるかどうかだが…「お前さんは何やってんだい?それはテレビ電話なのか?」パソコンに屈みこもうとする。と、恥ずかしそうにマウスでウィンドウを閉じた。

「いえ、ネット通信の一種で、音声のやり取りをしていたんです」

 コレか、と小指を立ててやると、額を拭いながら「弟ですよ」と苦笑する。

「驚かせちまって済まないなあ。そういえば、アガティーナがさっきここに内線を入れてたんだが、外に出てたのか?」

「さっきですか?ああ、そうですね」青瓢箪という表現がぴったりはまるロレンソに、馴れ馴れしく肩に腕を回してもたれ掛かり、もう片方で素早くデスクの抽斗ひきだしの取っ手をつかむ。む、鍵つきか。「内線の調子が悪いので、もしかしたら鳴らなかったのかもしれません」

「またまた。故郷に残してきた女とアツーい会話でもして夢中になってたとかじゃねえのか?」

「そっ、そんなことは、ありませんから!」

 虎人はフレンドリーな俺の態度をいぶかしみながらも、赤面して逃げようとする。それをがっちりロックし、わざと息を嗅げる距離で話しかけた。

「いやいや、さっきのビビりようったらなかったぜ。なぁ吐いちまえよぉ、お相手はどんな娘なんだ?」

 セルバンテスは違いますってば、と腕を振りほどいて襟を直した。

「確かに度肝を抜かれましたが、それは貴方がいきなりあんな壁から出てきたからですよ。それより調査の方が大事でしょう?私は明日、朝一番に旦那様から書類を頂かなければならないのでどうせ徹夜になります。よろしければこのままお供いたしましょう」

「ほう、そうなのか」

 俺は相手の肩をわっしとつかまえ、椅子ごと引き倒した。

 ガッシャーン!

 破滅カタストロフィ。いや、破壊による浄化カタルシスっつったっけ。

 虎人は床に投げ出されて受け身もとれず、胸を打って咳き込んだ。

「おかしいなと思ったんだよな」

「レグルスさん、何をなさるんですかっ…ッホ、ゲホッ、無体にもほどがあります…」

「そんなんでとか考えたら大間違いだぞ」

 ぐらつきながら膝を支えてバランスを取り、立ち上がりかけるセルバンテス。俺はそれを道を塞ぐ壊れた看板よろしくぞんざいに蹴りつけた。

「うあっ」と一声、相手はたまらず飾り棚の方へ、嵐に翻弄される案山子のように吹っ飛ぶ。棚板に指をかけたがつかまりきれず、考古学的物品だか土産物だか俺には判別できないおびたただしい品々を雪崩落とす。そして壁際にへたりこんだ。「貴方はっ…、僕に何か…恨みでも…?」

「あるわきゃねぇだろがバカ野郎。仕事だ仕事。いちいち癪に障るからってこんな真似するかよ」

 分からない、こんな非道の行いをされる謂れはありません!泣きべそをかきながらズルズルと尻をひきずり逃げ腰になるセルバンテスに、ただ一言命じた。

「黙れ。逃げるな。騒げば手足の関節を砕く」

「ひっ…ひいっ…」

 パソコンのデスクトップからファイルを開く。ごく一般的なOSを入れてあるマシンだ。これなら俺だってファイル検索をかけるぐらいのことはできる。

「どうして…どうして僕がこんな目に…」

 ぐしぐしと涙ながらに訴える坊っちゃんヅラに吐き捨てた。

「この部屋の隠し通路の入り口だ」

「え?」

「オフェリアが死んでこのかた誰も使っていないなら、埃が溜まっていたはずだ。だのに、ここは部屋の明かりが外に漏れ出していた。だから怪しいと踏んだのさ」

「なっ…そんなこと偶然でしょう、ドアの隙間にはなまなかな期間では埃は積もりませんよ!」

「それだけじゃねぇ。お前、さっき言ったよな」糞、映像ファイルを片端から再生しているのにお目当てがヒットしねえ。「俺が前触れもなく出てきて驚いたって」

 セルバンテスは泣き顔を隠さず頷いた。なんだか俺が悪さをしていた十代の頃を思い出させやがる。虐げるのはお育ちのよろしい軟弱野郎じゃなく、スプーンの代わりにジャックナイフをくわえて生まれたような強面ばかりだったが。

「それこそ幽霊かと…壁の中から現れたのですし…」

「お前、俺が出てくるとこ見てなかっただろが」お!そうだ、あそこがあったじゃないか。押収した全猥褻DVDをハードディスクにぶち込んでた署内1のスケベ警官が…俺じゃないぞ…懲戒くらったときの隠し場所が。「なのに壁に出入口がるのを知ってた。この部屋なら、床でも可能性はあったのに、だ」

「たったそれだけの理由で?」

 尻を地べたについたセルバンテスは低く呻き、悔しげに手近に転がっていた横笛のようなものを握りしめた。身に覚えがないとなれば当然だろう。

 つい10秒前まではマントル層を突き破る溶岩噴火の勢いだった自信が冷めてくるのを感じ、俺はブルリと身震いした。大きな瞳を潤ませる、猟師に怯える小鹿のようなセルバンテスのせいで、どうしても自問せずにいられない。

 もしこのままひとっ欠片かけらも証拠が出なければ、どうなるって?

 答:今回の依頼は解約、この虎人の家庭教師に精神・肉体的苦痛を与えた責で賠償を請求され、あげくの果ては違約金を支払うよう迫られるだろう。

 そうとなれば、もう借金だらけでケツの毛すら残っていない俺に残されている選択肢は高飛びしかない。アイスランドかパナマかチベットか、聞いたこともない異国に逃げ込むのだ。

 しかし、そしたらアルフは…俺が命に代えても護ってやると親友に誓ったあの小僧は…

 救児院送り。意味するところは洟垂れの尻ばかりを追っかける変態院長や教務官の慰みもの。少しはまともな線で育ったとして、末はマフィアに入るのが関の山か。

 眉根をしごいて不吉な想像を締め出す。しかしなんだってこんな要らんファイルが多いんだ。百や二百じゃきかねえぞ。どれもこれもガラス工房で切られたばかりのトンボ玉ミルフィオリのごとく同じアイコンだ。

 『オリーブ:C4:04/24』…って農園の観察記録なんか知るか、糞!片端から調べ尽くすにゃ時間が足りねえし。

 そこでポンと額を打った。

 ファイルの名称順になっていた表示設定をチョイコラといじり、作成日時順にして再抽出。で、一番最近のアイコンをクリック。

「………出た!」

 俺はデバイスのウインドウを画面全体に延ばして映像を再生し、セルバンテスに見えるようモニタの位置をずらした。

「これがあってもまだシラを切れるか?」

 虎人は濡れた鼻面を上げる。ポカンと口を開けて、叱られた子供のようにいたいけに。

 モニターには、セキュリティルームのものと全く同じ、深夜の城内が映されていた。俺が怪しんだ画像、例の花瓶の現象の真実が。

「よく考えりゃ、もっと早く分かってた筈なんだよな。この城に監視カメラがつけられたのは最近。そうするようボルヘスに仕向けたのはお前。ここにいるジジババ連中の内で、いっぱしにパソコンをいじくれるのもお前。とくりゃ、犯人も他にいねえ」

 青の右目と黒の左目が焦点を合わせる。

「…これは…?」

 とぼけんじゃねえ!怒鳴り付けるとセルバンテスは液体窒素を浴びたようにガチリと凝固した。

「セキュリティ関連の機器は全部デジタル化されてた。だからお前がやったのは簡単な編集で済んだんだろ」俺は記念催事で行うテープカットの真似をした。胸の前で合わせた両の拳を、離す。そして戻す。「映像の都合が悪い部分だけブッタ切って繋ぐ。ただそれだけだ」

 薄暗いカメラの視野の中で壁がバクンと開き(無音だが雰囲気ではそんな感じだから文句言うな)、脚高のテーブルを突き倒した。花を生けられた器ももろともに落ちて、絨毯に水をはね散らす。

 ぽっかり口を開いた闇の奥から、黒っぽいスーツの袖が現れる。それから、と突き出して慎重に左右を見回す顔こそ、今ここで俺に詰問されている縞柄の顔。

 セルバンテスだった。廊下に出るとき俺と同じく片足を挟まれる滑稽なすったもんだをし、壁を元通りに閉じ、テーブルや花瓶をセッティングしてびっこを引き引き歩く。画面上方に背中が小さくなっていく。

「監視カメラのハードディスクの中身をわざわざ差し替えてまで、チマチマした細工をしたもんだぜ。PCの方はすっかり削除したつもりだったんだろうが、テンプファイルにゃこうして残ってたってわけだ」

 俺が漁っていたのは通常のファイルフォルダではなく、コンピュータが無精な役人よろしく一時記憶を突っ込んでおくフォルダだったのだ。

 自分のパソコンに犯罪の証拠を後生大事に保管しておくようなのはノータリンだ。並以上の知能がある奴は用がなくなれば削除する。だがコンピュータの厄介で且つ便利な点の一つには、一度打ち込まれた情報は手垢のように内部に留まる機能だ。

 溝浚どぶさらい。違法なアダルト動画をしこたま溜めた同僚のパソコンを突っつきながら、情報科の奴が苦笑していた。

消去デリートを押せばハードディスクの汚物も洗い流してくれたのは前時代でね、レグルスさん、人に見られたくなかったらもうそれ自体を壊すしかないってのが今のコンピュータなのさ」………いやはや、我ながらよく憶えていたもんだ。

 どうだ恐れ入ったか、むははははは!と、やりたいのを抑え、咳払い。

「で、まあ目的は愉快犯なんかじゃなく金だよな。さっき知ったばかりなんだが、この敷地にゃあ滅法珍しい植物の球根があるらしいじゃねえか」

 さっき施錠してあるのを確かめた抽出に指をかけ、手首を巻き込む。

 バキンと掛け金が割れ、手前に箱が滑り出した。掻き回し浚う面倒が省けたことに、几帳面なほど秩序だって論文のファイルが重なり、そして肝心の物体が三個転がっていた。

 ピンポン玉より1回り小さなそれをつまみ、電灯にかざした。

 オフェリアの部屋にあったものと同じ、彼女がどうにかしてたどり着いた研究の精華。かつて一度は失われた小さな生命。

 地球におけるチューリップという植物種の始祖、人間にたとえるならアダムかイブか…ともかく上手くすれば本場オランダの国庫を潤すほどの代物であるのは間違いない。

 ピンと指先で弾いてキャッチ。こんなもん、俺にとっちゃなんでもねぇ。だがそのために女子供を無用に怯えさせた点が気にくわない。早いとこ殴りつけた…いや、縛り上げたくて指を鳴らした。

「で、なんか言い訳があるか?無いな、ある筈無ぇやな。なら大人しく壁に手ぇついて股開けや」   

 字面だけなら怪しげな指示だが、別にこいつをつもりなんじゃない。身体検査の常道ってやつだよ、お前ら勘違いすんなよ!

 トリックとしてはチョロいが効果はあった。あんな一瞬のブレをめざとく発見し、こうしてたどり着かれるとは思わなかっただろう。

「オラさっさと動け!こちとら野郎のカラダを撫でくらなきゃなんねんでヘドが出そうなん」

 ボリボリ掻いた喉元に、ぷつん、と何かが当たってきた。

 おろ、と腕を上げようとした次の瞬間には右頬に冷たい石の床があり、世界が90度傾いていた。

 左の顎の下に何かが刺さっていて、そこから痺れが広がっている。俺は一瞬で行動の自由を奪われ、崩れ落ちたのだ。

「な…ん…だ……こ…れ…は……」

 舌も回らない。上着のポケットからはみ出た煙草の箱から、一本がコロコロ鼻先に転がってきた。もったいねぇ。掴もうとするが、肘から先に力が入らない。

 ぐすっ、ぐしゅ。涙と鼻水にまみれた顔をハンカチで覆い、セルバンテスが立ち上がる。

「動物由来の蛋白成分、そう、例えばヤドクガエルの神経毒ならアマゾンから運ぶ途中でとっくに細菌に分解されていたでしょうね」

 虎人の尻尾はもうビクついてはいない。悠々と手にした吹き矢…俺が笛と思った棒で器用にバトン回しをし、俺の脇を歩き、濡れたハンカチを片手に畳んで屑籠に落とす。

 壊れた抽出しから真新しいハンカチを一枚胸に差し、はめていた手袋で吹き筒をよくしごく。指紋が消えたのを確認すると机に置いて、キザなターンを決めた。

「植物由来の神経-筋伝達物質類似成分がレグルスさん、貴方の筋肉に作用を及ぼしているのです。クラーレに近しい…と言ってもご理解頂けないですよね。私が南米で手に入れた、割りと現地ではポピュラーな毒薬ですよ」

 まだへの字に曲がった眉のまま、虎人は鎖帷子を一枚脱いだように身軽な足取りで歩いてくる。

「貴方もあそこを通っていらしたのですか。ああ、それでは足首あたりを挟まれたのではありませんか?どういうわけかバネが利いているんですよね、あの扉だけは」

 俺の足元にしゃがみこむ。蹴りつけてやろうとした、が、爪先がわずかに床を引っ掻いくだけだった。

 セルバンテスはこちらのズボンの裾をまくって呟く。「くふふ、やっぱり」嬉しげな科白が粘ついて鼓膜に鳥肌が立ちそうだ。

「御気分はいかがですか?呼吸には多少の差し支えがあるようですね」

 あれ、城内は禁煙ですよ!と煙草をつまんで箱に戻す。やけにしみったれたツラのくせして、声色だけは威圧的だ。

「てッめ…え…何…のつもり…だ…っ」

 空気が鉛のように重く気道に詰まる。手足の感覚がぼやけてもどかしい。

「地べたに這いつくばってらっしゃると、まるで鈍重な亀そのものですよ」俺の上着の袖を取り、右腕を持ち上げてブラブラ振ってみる。そして独り言のように呟いた。「人間にもある程度はちゃんと効くのか…麻痺の持続時間は不明だが…」

「こンの…糞っ…れ」満足に毒づいてやることもできない。「びー…び…泣き…芝居…か…」

「あ、これはいけない」

 暫しお待ちを、と瞑目して顔を掌で隠す。おもむろに洗顔する仕種でゆっくり額から顎先へ撫で下ろした。

 もう一度こちらを見下ろした。別の仮面を貼りつけたごとくーーーーーあるいは着けていた他人の皮膚をペロンと剥いで素顔を曝すがごとく、セルバンテスはもう俺の知る気弱な男ではなくなっていた。

 優柔だが善良で、底意地の良く見えた笑みを浮かべていた唇の端は、怜悧れいりな悪党の嘲笑に。俺の啖呵にしょっちゅう困り、汗を流していた緩やかな眉のカーブは一筋の線に。そして無防備な邪心無き瞳は、鳥の巣を襲い産みたての卵を前に首をもたげてほくそえむ毒蛇に。

 セルバンテスの顔の個々のパーツがその形を変えることで学究にいそしむ若者の衣を脱ぎ捨て、邪な企みを懐に温める悪党の姿をあますところなく呈していた。

「仕事には集中するたちなので、なかなか演技が抜けないのですよ。ああ、ようやく楽になった」

 パタパタと羽ばたくようなふざけた動きをしながら、しかしある種の匂いを発散している。俺にも馴染みがある匂い。

 躊躇いなく人を殺せる性格がかもす腐敗臭だ。

「さてさて、これで分かったでしょうか?貴方は私の事を暴力で[[rb:威>おど]]しつけるのが容易い軟弱者と思われていたようですね。残念!あれは総て嘘ですよ。ただし、心のこもった、ね」

 俺の喉を射た毒矢を抜く。バラのトゲのような原始的な武器は、セルバンテスのカルバン・クラインで踏みつけられ乾いた音を立てて四散した。

「俺を…どうす…る…つもりだ…」

「そうですねえ…私は一人で計画を描き収拾をつけるやり方なんですよ。一匹狼がポリシーと申しましょうか」

 ブルガリの文字盤にすいと視線を滑らせる。何を思ったかいきなり俺の体に靴を乗せ、足に体重をかける。そしてグラグラと揺すりつつ尋ねた。

「敢えて伺いましょう。どうですレグルスさん、私と組みませんか?あんな端金はしたがねではなく、うなるほどの、いえうなることすらできないぐらいの大金が舞い込みますよ」

 怪しむ俺の雰囲気を読み取り、フッと口元を歪める。

「まさか、この球根だけでおしまいだとでも?」

 とんでもない!と虎人はぴしりと尻尾で俺を打つ。

「旦那様が今夜中に農園改造に関する書類を提出して下さいます。その中には機材借り入れに関するちょっとした契約書も入ってましてね。利益が出ようが出まいが旦那様は破産し、弁済はリース会社や債権者を通じて私に集約される予定なのですよ」

「じゃあ…てめぇ最初から………その…つもりだっ…」

「ええ勿論。でなきゃ誰がシチリアくんだりまで足を運び、こんな辺鄙な田舎の学識も無い愚鈍な素封家にわざわざ仕えるものですか。世の中お金が総てなんですよ?…きっかけは別にありましたがね。とはいえ、今回の収穫は城と農地、それに幻となっていた原種を合わせて約1億ユーロをくだりません。ひとまずはよしとしましょう」

 なんてこった。この依頼は目鼻からヨダレが出るようなうまい話だと思っていたが、まんまと釣り上げられたのは俺の方だったのかよ。

 始めっからセルバンテスの計画の内に組み込まれていたのだ。俺の役割はエウリディーチェに城内の安全を説く役。だが実は、その名目以上に大事なことがあったのだ。

 万が一、ボルヘスの親爺が城の内部を精査にかけたら、隠し通路もバレてしまう。それは悪事の露呈を意味する。それを未然に防ぎし目を逸らすために俺が必要だったというわけだ。

「俺…は…アドリブ…しちまった…ってこ…とか…」

 セルバンテスは小気味良い芝居口上を聞いたように表情をほころばせた。

「粋な言い方をなさいますね。この提案を呑んでくださるなら、決してレグルスさんにもご損にはなりません」

 今現在の困窮のイメージが脳裏に洪水のように流れ込んできた。

 排気ガスに黒ずんでしまった事務所ビルの界隈には、この先たとえ氷河期が訪れようとも市街地再開発計画は持ち上がらないだろう。親から受け継いだ唯一の財産、中古の日産は小汚ないガレージに居座り、錆びたシャーシから鉄粉を常に撒きながら走行距離の限界に挑みつつある。

 あと数年もすれば契約が切れるビルの居住スペースの、菌類のはびこる部屋。雨戸がよく閉まらない窓からは晴れていれば海風が、雨ならば坂の上の農場から堆肥の臭いが流れてくる。

 俺のベッド…万年床のスプリングの潰れたマットレス。乾燥機能のついてない洗濯機に放り込んだまま溢れ返る汗臭い衣類。切れたままの踊り場の電球。しかもこれが白熱灯という石器時代の遺物ときている。

 頭に浮かぶそれらのイメージはまぎれもない個人的な経済危機の証だった。

 そもそもが金策に尽きて受けた依頼だ。なら、この際とことんまで堕ちたっていいんじゃないか?人はパンのみにて生くるにあらず、だろ?

 俺にはどうしたって正義の味方なんか似合わねぇんだ。ならばいっそのこと、この虎人と組んで面白おかしく生きてみようか。洒落たインテリアに埋め尽くされたアパルトマンでの暮らしも悪くはないだろう。

「さ、お答えを。シニョール・ジャンカルロ=デッラ=レグルス」

 スペイン語でイエス、と発しようとしたときだった。ぐらつくどころかスキージャンプの選手よろしく前傾姿勢をとっていた俺の心を、力強い何かが抱き留める。

 眼前一杯に白と黄金色の毛皮をした犬人の面差しが広がる。他の誰でもない、イグナシオの顔。

 それはやがてアガティーナや、かつての気のいい同僚や近所の連中の様々な表情に変わっていく。そして最後には、糞生意気なチビ餓鬼の、鼻の穴までおっびろげた笑顔になった。

「…ろ」

「はい?よく聞こえませんが」

「…ってんだよ…」

 やれやれ効きすぎましたか、とグッと屈みこむセルバンテスの面に俺は歯の裏に溜めていた唾を吐きかけてやった。

「ざま…みろっ…てんだよ!…」

 けけけ、と嘲笑した腹の中央にカルバン・クラインの爪先がめり込んだ。胃液を戻しむせる俺を冷ややかに眺めながら、セルバンテスは手早く頬をティッシュでぬぐう。

「残念です。仲間になれたら頼もしい方でしたが、私のこれから為すことを邪魔されるなら通路の秘密ともども消えて頂かねばなりません。ああ、それと」さらに一発、先程よりふりかぶったキックを繰り出した。ボグ、と鈍く脇腹のあたりにヒットし、衝撃と苦痛に俺は息も途絶えんばかり。「これはさっきの分のお返しです」

 目の前が緩やかに暗くなる。ひょっとしたらアバラにヒビが走っているかな。だが自然と笑みが浮かぶ。

 これでいいんだよな、イグナシオ。一番初めに俺達が交わした約束だ。俺は絶対に守り抜いてみせる。

 互いを裏切らず、犯罪にはくみしないこと。生ぬるい潮風が吹きすさぶ丘の上で俺達はそう誓ったのだ。

 あれは男の、命を懸けた誓いだ。それを破るくらいなら死んだ方がマシだ。そして死んで尚誓いを守り抜く。約束ってのはーーーそういうもんだろ?

「何をニヤニヤなさっているのですか、気味の悪い」

 お前には…いや、誰にも分かってもらおうなんて思っちゃいねえさ。

 俺が生きている世界はあくまで狭い。そしてそれを支える何より強いものが親友との絆なのだ。

 それに俺の体にも服にもあの街の匂いが染み付いている。

 パレルモの下町、窓から通行人と交わされる怒鳴り声のような開けっ広げな会話。ジグザグに仕切られた街路、それと同じ形に切り取られた狭い空。しもたやと化している長屋の庇の間に張り渡された紐には、宙に浮かんだ干物のごとく無数のシャツやスカートがはためく。むせかえる魚油と排水と新鮮な野菜のフレーバーのミックス。

 光輝けるごった煮の街。労働者、無職者、流れ者にあぶれもの達の住み処。貧しかろうとも人生に飽くことのない連中の集う場所だ。

 あそこを出て遠くの街でエグゼクティブな生活を、ってか?冗談だろ?冗談だよな?

「まったく…どうせむくつけき大男ならば脳味噌も要らぬものを。あたら詮索する知恵なぞあるから面倒になる。こんなことなら元警官などではなく、いっそ街の破落戸ごろつきでも格好をそれなりに仕立てて雇えば良かったのか…失敗だな」

 スペイン語のぼやきは一部が定かではなかったが、大まかには理解できた。

 虎人はしばらく思案げに踵を打ち鳴らしている。と、そこへノックの音。

糞めミエルダ…」

 母語での罵倒が舌に馴染んでいる発音のなめらかさ。セルバンテスはイタリア語で「少々お待ちくださぁい!」と甘ったれた声を作り、机を引っ掻き回して見つけたガムテープを俺の口許にぐるぐるっと巻き付けた。

「もう少々、只今参りますから」横臥した俺の眼前で慌ただしくズボンが交差し、薄くドアを開ける気配がした。「おや、君は」

「今晩は、ロレンソさん!」

 それを聞くやいなや頭頂の毛も太り、肝っ玉が縮み上がる。

 この能天気な甲高い声は。そんな、まさか。

「やあやあ、どうしたんだい?」

 俺のシベリアンハスキー系の高い耳、その内部の中耳、さらに奥の鼓膜はひきつれを起こしそうなほど集中した。目も鼻も皮膚も尻尾も、いまやありとあらゆる器官が音声をあまさず拾うための機構と化す。

 頼む、神様でも悪魔でもいい。あいつが、みそっかすの小僧が、イグナシオの愛息が、アルフがこんなところにいるのじゃなかったら俺はこの先一生酒が飲めなくなってもいい。ええい、いっそ煙草もつけてやる!

「ちょっとね、エウリディーチェの部屋ってどこだか分かる?」

 エヘヘ、と喉の奥にくぐもるはにかみ笑い。小遣いをせびったり遠出をせがんだりする時の小僧の癖だった。

「勿論。でもアルフ君、もう夜中だよ?こんな時刻に女の子に会いに行くのかい」

 んーと、えっとー…というのは会話のクッションではない。小僧が何かしでかして言い淀んでいるに決まっている。

 西側のつき当たりに塔に入るドアがある。そこがあの子の部屋だ、と教えてやってからセルバンテスは大袈裟に言った。

「ああ、そうか!」朗らかな笑い声。虎人のこの豹変ぶりには感心するほかない。「その絵を破っちゃったんだね?どれ、私に見せてごらん」

 何やってンだ馬鹿野郎。逃げろ、走れ、こいつから離れろ!俺は心の中の声帯がちぎれるほど叫んだ。

 テープに塞がれた口は開かず、毒薬に冒された筋肉はピリピリと痺れ爪しか動かすことがかなわない。ただひたすらに背中や腹を汗が伝う。じりじりと胃を灼かれるような焦りと苛立ち。だがうめくことすらできない。

「んっとねー、いい!エウリディーチェに見せたいから!」

 でかした小僧!

 あっ、ちょっと…とセルバンテスが待ったをかけても脇目もふらずに駆けていくアルフ。背中越しだが軽く早い足音で分かるぞ。そうだ、そのまま行っちまえ。

 ドアがパタンと閉まり、ついでコツ、コツ…と気取った虎人が戻ってくる。

「アルフ君が面白いものを持っていましたよ。古い絵ですが、あれはもしかしたら…」

 自分で言いかけた科白に戸惑い、ハッと息を飲み込んだ。

「………そうか、もしかしたらあれが道を示すものなのか…?」

 なんだ?何を言ってるんだ?

 セルバンテスは無造作に俺を爪先で突っつき、かかっている麻痺の呪縛の具合を確認した。

「このままにしておくのは気が引けますが、今は時間が惜しいので」

 俺を始末するのが面倒という意味か。それならばまだ余裕がある。しかしその後の科白で体温が零下30℃にまで下がった。

「どうせこの城の連中は皆殺しですから、もうしばらくの余生をお楽しみください」

 顎を動かし、虎野郎のスーツの後ろ姿を睨み付ける。俺が出てきた方ではない壁の前に立ち何やらいじくっている…と、自動ドアのように入口が開いた。

「隠し通路は一本ではありません。私が発見しただけでも3つ、文献から見積もって5本はある筈です。私はこれからお嬢様のお部屋へ」

 最後にもう一度振り返り、セルバンテスは凄絶な一瞥をくれる。まるでSF映画の悪の超能力者のように、眼鏡の奥から陰気な光を放つ左右異色の瞳と、殺気に燃えている俺のブルーグレーの視線が反対の電荷を持つビームをぶつからせる。白熱する悪意と敵意。

 アルフレードに何かしてみやがれ。てめえの尾をチョン切って沖合いの鱶の餌にし、代わりにローマ広場のオベリスクをケツにぶっこんでキャンキャン吠えさせてやる!

「フ」セルバンテスは片頬に憐れみのような表情を浮かべた。「それではアディオス

 小さな地響き。扉が閉まる。

 畜生、畜生、畜生!全身に力を込める、いや、込めようとする。せめてもこのガムテープが外れさえすれば、大声で叫んで危急を告げてやれるってのに!!

 俺はなんであいつを連れてきたんだ。足手まといになるだけなのに、つべこべさえずろうが黙らせて有無を言わさず留守番をさせれば良かったのに、そうすればこんなことには!

 瞬間、手に生温かな血がベットリとつく感触が蘇った。裏路地で生涯の友を喪ったあの日の感覚だ。

 イグナシオだけじゃなく、アルフにまで同じ事を繰り返すつもりか?

 手の甲が跳ね上がる。脳の原始的な部位から溢れ出してくる怒りが毒薬の効果などねじふせ、身体の隅々まで広がってゆくのを感じる。

 そうはさせるか。あのいかれたスペイン人が何を目論もうが知ったこっちゃねぇ。ねぇけどな、あの餓鬼をいいのは俺だけなんだ!

 ビン!と尻尾がそそり立つ。

 しゃにむに動こうとしたのが功を奏したか、どうやら体幹に近い関節から筋力を取り戻してきているらしい。ガクガクと震えている肘と膝を使い、身体を床から離すことができた。こんなにマジになって四つん這いするのは初めてだぜ。立っちに夢中になる赤ん坊かよ?

 立ち上がろうとして無様に転がり顔面を打つ。再度チャレンジしてもうまくいかないので、そのままセルバンテスの消えた壁の方へ這いずっていった。

 壁に上体を押し付けて身を起こす。まだ脚が笑っていて気を抜けない。触っている感覚の無い指先で虚しく石をグリグリする。あの野郎がしていたように操作しようとするのだが、一体何をどうやっていたんだ?

 隠し扉は沈黙するばかりでピクリともしない。焦る、焦る、焦る…

 お待ちったら、せっかちな娘だね。ついて来ないでって言ったじゃない、叔母さんのお腹じゃつっかえるから。ふん、あんただってもう20年も歳をとればこうなるさね!

 かしましい女の声がしたと思ったら、俺と同じようにアガティーナが現れた。それからジャケネッタがその膨張した持て余し気味の尻を出口につっかえさせ、「ちょっとティナ、あんた何とかおしよ!」と叫ぶ。

「そっちは自分でやって。それどころじゃないんだから」冷たいとも言える調子で言い捨て「レグルスさん!?どうしちゃったんですか!?」と俺に駆け寄る。一瞬、掛け値なしにこの犬人の娘が救いの天使に見えた。

「スチュアードとメイド全員に招集をかけました」俺の顔の束縛もなんなく引きちぎる。やっと自由になれた口に空気がうまい。「旦那様にはスパイの件を今しがたお伝えしたところです。それで、レグルスさんはどうしてこんなことに?まさかセルバンテスにやられたんですか?」

「そのまさかさ…あいつ…セルバンテスの野郎が黒幕だ…」

「やっぱり!目的はなんなんですか!?」

「それは分からん…が、ただの球根泥棒じゃないことだけは確かだな…俺もお前も、城中の全員を殺る気だぜ…」気分は最悪だが、なんとかいけるかもしれない。少なくともアガティーナまでグルじゃないってことは助かる。本音をぶっちゃけちまえば、うっすら疑念があったんだ。「警察も呼んどけ。捕物になるぞ」

「いい加減なことをお言いでないよッ!」石壁から脱出したジャケネッタが肩をふうふうと荒く上下させながら、俺に矛先を向ける。「あたしゃあ始めッから怪しいと思ってたのさ。あんた、あの人に罪をおっかぶせるつもりなんだろう?おお嫌らしい!」

「違…う。セルバンテスは…あいつはとんでもないクズで…犯罪者だ」

「どこにそんな証左があるんだい!」でっぷりした腰に拳骨を当て、土人の巫女のように立っている。「セルバンテスさんみたいに上品な方を捕まえて、罪人つみびとだなんて盗人猛々しい。あんたがコソ泥に入って懲らしめられたに決まってる!」

「叔母さん…」

「ティナも!あんたもあんただよ。こんなどこの馬の骨とも知らない荒くれ者に引っかかってさあ、ろくでもないったらありゃしない!」ずいずい詰め寄るジャケネッタ。反論許すまじ、と姪の口答え遮る勢いでを畳み掛ける。「折角あたしが奉公の口を世話してやったっていうのに面子丸潰れじゃないか!」

 おいおいオバサン、話が違うぜ。この娘を純粋な好意から就職させたのぁオフェリアだろ?それにアルフや俺を篤くもてなしてくれたのはあんたじゃないか。掌返すにもほどってもんがあるぞ。

 一度鳴き始めたら絞め殺すまで騒ぎ散らす妄想狂の鶏。その手羽よろしく厚い唇をひらめかし、まだまだがなろうとする中年のメイドに年若いメイドが悲痛な叫びを上げた。

「あたしが好きなのは旦那様、パルダッサーノ様でこの人じゃないわよ!」

 まさしく意表を衝かれた毒気を抜かれた様相で、ジャケネッタは大きくたじろぐ。

「な…いきなりなんてことを言い出すんだい、この子は」

「現実を見てよ。レグルスさんがこんな目に遭わされてるのよ?善人がヤクを使う?あいつは悪人なの!学位がある風なのをいいことに、旦那様をまんまとだまくらかして高給をせしめて、隠し通路で良からぬことを企んでる。今あたし達がしっかりしなきゃ、お城の皆が危ないのよ!だから、お願いだから下らない勘繰りなんかはやめて動いてよ!」

「で…でも、一体あたしゃどうしたらいいんだか…」

 茶番。コメディ。道化役が麻痺に身悶えをしながら苦しんでいるすぐ傍で繰り広げられるTV笑劇シットコムだ。懐かしの『フレンズ』あたりならワハハハハハと音響効果が入る場面ではなかろうか。

 ここでちんたらして時間を浪費してたまるか。あいつを追わなければ、餓鬼どもがやばい。一刻を争う事態なんだぞ!

「…アガティーナ」

「はい!なんですか?」

「殴れ…思いっきり」

 そ、そんなことできませんよ、いくらなんでも…と早とちりする犬人の娘に「早まるな馬鹿野郎、そこのオバサンじゃねえ…俺をだ」とどやしつける。

「血の巡りを…良くするためだ…やれ」ピッチャーよろしく利き腕を引きかぶりながらも、繰り出さないアガティーナに業を煮やした。「やれ!」

 ん、と頷くと犬人の娘はフォームの良いストレートを放った。俺の上顎に火花のような衝撃感が弾け、壁に顔面の反対側から叩きつけられる。

 延髄の奥に大聖堂の鐘楼が引っ越してきたみたいな残響があった。だがその痛みが身体に充満していた靄を晴らし、いつでも戦闘体勢に入れる気合いが四肢の先端まで戻ってくる。

「おっしゃ、いくぞ」

 血の混じった唾をベッと吐き飛ばし、俺は脚を前後に開いて腰を落とした。肩から上腕、二の腕にかけての筋肉はミシミシと二倍に膨らみ、上着とシャツの袖はたちどころに張り裂けた。さらに下から、ミミズにのたうつ太い血管が浮き出る。

 唇をすぼめ丹田に息を納め、女二人が疑問を投げかけてくる前に正拳で壁を突いた。

穿セイ!」

 掛け声とともに俺の鉄拳は石組みを貫く。広がる亀裂がバシバシバシと、ローマ人の石工が精魂込めた頑強な接合を食い荒らし、壁に大きな穴を開けてガラガラと崩れた。ついでに俺の上着の前ボタンも吹っ飛んだのだが、もはや考えまい。見事なまでに裂けめを作ってしまった袖からして、この誰かさんの上っ張りは完全に再起不能だろう。

 俺は瓦礫に足をかけて振り向いた。

「アガティーナ!」

「はいっ!」

「セルバンテスは嬢ちゃんの塔に向かった。そこにアルフの小僧もいる。あのスカしたカマ野郎、ピストルチャカまで持ってやがった。俺は追っかけるから警察への説明を頼む。城の面子が集まったらできるだけ離れずに鍋でも麺棒でも何でもいいから武装しとけ。それからそのパソコンは証拠品だからな、安全な場所に移せよ」

 了解っ、とアガティーナは殊勝に頷く。

「それからオバサン!」卒業パーティーで無礼講の騒ぎの中に取り残された下級生みたいに手をこすり合わせているジャケネッタが、ひぇっ、と首を縮ませる。「アガティーナは誰の誘惑にも落ちねぇ身の固ぇ娘になったんだ。昔のことをとやかく蒸し返して苛めるのは勘弁してやれよ」

「あたしゃ、あたしゃ只さ…心配だっただけだよ」

 ヘイヘイ、そうでしょうとも。

 じゃあと飛び込んだ通路に、後ろから「アンタも気を付けな!悪かったね!」とジャケネッタの竈の煙に燻された声が追い越してきて、俺は鼻から苦笑を漏らす。

「おぉぉぉぉぉ!」

 知らず知らず吠えていた。怒りと焦りに我を忘れんばかりだというのに、細い通路を先刻とは比べようもなく速く進める。

 出っ張りがある。殴る。石塊がしわぶきのような音で砕け散る。

 俺はただ前だけを向く。鼻先から一筋の流れをはっきり感じていた。セルバンテスの野郎の香水。癇に障る匂いを残す空気の帯が、蛍の残像さながら暗闇に光って見えるようだ。

 通路はさらに細り、緩やかな登りの螺旋を描き出した。塔に入ったしるしだ。そこからさほど進んだ感じもなく突き当たりになる。

フンぬぉっ!」

 今度は壁に背をつけて蹴りを出す。螺旋の内側の方の石組をベニヤのようにブチ破ってやった。

 瓦礫を掻き分け侵入すれば、そこは深緑のカーペットと方形の低い書棚に飾られた子供部屋。見回すが子供達は影も姿もない。

 またもやギクリと固まった。敷物には俺より先に到達したセルバンテスの尖った泥の靴跡が点々と連なっている。

 俺は急いで窓際の勉強机、子供に買い与えるにしては豪奢な材質のそれに飛び付き、木肌をなぜてみた。机にはきっかり二人分の体温が残っている。それも間隔の開き具合からして仲良くケツを乗っけていたらしい。

 二人は捕まったのか、それとも出て行っているだけか?

 広い部屋には特に乱された様子もない。あるのは床にひらりと落ちている、画用紙にクレヨンで描きなぐられた下手くそな絵だけ。いや、どうやら図形のようだ。

 城と塔を表現したらしい。大きな円と接する四角。四角が塔だろう。そこに「お宝!」と金釘流で記してある。とめはねが勢いづいてかすれている、まごうかたないアルフの筆跡サイン

 セルバンテスと交わしていた会話から、ここを訪れたポカンとした面の犬人の小僧が、憧れのお姫さまの手を引いて意気揚々とスキップで探検に連れ出す光景がまざまざと浮かんでくる。

「あの馬鹿が何をしてやがんだっ」

 出口は隠し扉の他に一つだけ。真っ当にドアから駆け出して、危うく階段を踏み外しそうになった。

 あの馬鹿め、糞め、まだチビ餓鬼の癖に、金玉に毛も生えてねぇ癖に色気づきやがって、これで人質にでもなってやがったら火星の裏側までブッ飛ばしてやる!

 汗粒が毛穴から噴き出す。胸がヒリヒリ痛んできた。運動不足か喫煙過多か。恐らくその両方だろう。

 ゼヒゼヒと情けなく息が上がる。喉を鳴らして痰を吐き、それでも速度を緩めずにいた俺の足元を何かがすくい、すってーん!と転ばせる。

「んがわっ!?」

 尻尾を巻きこんでコケたので神経が集まっている敏感な骨の髄まで響いた。これがコミックなら見事な大文字で擬音がついただろう。渋みもへったくれもあったもんじゃない。

caccaくそっ!!」尻の下敷きにしてしまった尻尾を直しながら毒づいた。段差が付け根に当たり、あわやチョキンと断尾というところだ。「ンだってんだ畜生、ツルツルと…」

 ハッと言葉を飲んだ。階段の表面に小さなスーパーボールがバウンドしている。オモチャはそれ一つではなく絵柄入りのカードや玩具の手裏剣も、ごちゃっとばら撒かれている。不規則に散らばる痕跡はすべて、回遊魚のように力尽きるまで外を走り回らなくてはいられない年頃の子供の持ち物だ。

 あいつがここで拉致られたのか。その線の疑いが濃厚だ。しかしそれなら何処へ行った?

 階段を上ってきたなら俺とぶつかる。城の内部に繋がる通路に気配はなかった。

 パプリカ色のスーパーボールはテンテンと跳ねながら段を下っていく。

 頭を下げた視線の先には地下室と塔の螺旋階段を隔てる鋼鉄の扉があり、廃棄された古い軍艦の搭乗口のように開け放たれていた。

 すうう、と空気が渦を巻いて中へ吸い込まれていく。把手に浮いた錆が、ちょうど子供が握りしめたぐらいの四本の線で削れていた。軽くはない鉄扉を、踏ん張って引き開けたに違いない。ここでさらわれたのか…

(助けて、ジャンおじさん、僕を助けてよ!)

 俺の心には聞こえた。羽交い締めにされたか、あるいは後ろ手に縛られたか、今この先で危機に陥り助けを求めているだろう小僧の声が。

 部屋は完全な地下室ではなく、半分地上へせり出した形になっていて、壁の一方の上部に嵌められた鉄格子から雑草の繁る地面が見えている。電灯はつかないらしい。ここにも人の居る気配はない…

「キュキェッ」

 人外の鳴き声。咄嗟に防御に姿勢を固めた。

 うず高く積まれているジャガイモや穀類の袋、玉蜀黍などの木箱のピラミッドの頂上に、長い尾を垂らした猿がスフィンクスのように細い手足をついている。

 城の外壁にしがみついてアガティーナを驚かせたのはこの猿だ。

「なんだお前、さっきの奴か」

 その猿は問うわけでもなく自然に漏れた俺の科白に反応した。「キギッ」と笑ったように歯茎を剥く。

 そして猫よりしなやかな身のこなしでスルンと箱の山を滑り下り、帆船のマストのごとく尾を突っ立てた。少し進んでこちらを振り返り、を二度繰り返す。

 俺を待って…いや、導いているのか?

 この猿の面には畜生ながらも確かな知恵の静謐さがあった。俺は己の直感に従い、疑いを叫ぶ理性を封じ込め、ついていく。

 影と本体の見分けがつかないほど闇に同化した猿は、チラチラ揺れながら部屋の中央へ移動し、そこでフッツリと消えた。駆け寄って膝をつくと、黒々とした穴が床石に穿たれている。

 飛び込むのに理由は要らなかった。浅い縦穴の底に四股を踏み固めるようにダスンと着地し、周囲の岩肌の凸凹がぼんやり見えることに驚く。

 燐光を発しているのは壁にとりついた地衣類コケのようだが、このあたりにこんなものが自生しているなんて聞いたことがないぞ。まさかオフェリアが移植したのか?だとしたら相当の植物狂いマニアだな。

 坑道のように固い岩盤を人の手でくりぬかれ、ようやっと頭がつかえずに歩けるほどの上下幅。既に先導する猿はいないが微かな話し声が聞こえてくる。

「…君は知っているかい、アナコンダという蛇を…」

 ああ大当りビンゴだ。こんな蘊蓄を自慢たっぷりで[[rb:喋>べしゃ]]る奴はこの半径100キロ以内にはあの虎人しかいない。

 俺の鼻がプンと煤っ気を嗅ぎつけた。松脂、石炭、それと…灯油の匂いか?こんなところに暖炉でもなかろうし、何を火にくべている?

 トンネルの終わりが近づき、炎に明るく照らされた空間の広がりが見えてきた。そのままこそとも音を立てぬよう腰を落として進もうとする俺の耳に、少女の叫びが反響する。

「やめて!お願い!アルフを離してぇ!!」

 号令がかかった競馬のように膝が勝手に回転しだした。俺は「うぉっ」とのけぞる。俺の上半身を置き去りにしそうな勢いで腰から下が全く無意識のまま走り出していく。スタートの微妙な姿勢の全速力疾走。

 毛皮が切り裂く風の温度が変わった。ひらけた洞窟に出たのだ。気温が一段と低く、晩春の地上と比べたら北極のようだ。

 天井までの高さはゆうに8メートル以上はあろうか、よく育った氷柱のような鍾乳石が逆さに生えており、じめじめした土面からは不揃いなマトリョーシカのような石筍が屹立している。

 けして遮蔽物が少ないわけではないが、それでも強力な光源で陰影が見分けられる。ギラギラと辺りの濡れた石に照り映え、オレンジと黄色に揺れている松明の炎。さっきから匂っていたのはこれか。

 そして俺は探していた3人と邂逅を果たした。

 洞窟の端に立てられた一組の松明の処に、寝間着姿のエウリディーチェと、片腕を高く差し上げるセルバンテスと、その手の先に首を絞められているアルフを。

 麻薬をキメると視界がクリアになり、広角レンズを装着したように注視したものが千倍にも膨らんで見えることがある。過去に三度だけやったことのある経験が甦ってきたようだ。

 俺は自慢じゃないが、あわやの修羅場にはゲップが出るくらい居合わせてきた。

 木枠にトタンを被せただけのスラムの掘っ立て小屋に籠城を決め込んだ、薬かアルコールでいかれた犯罪者が、自分の恋人あるいは伴侶、もしくは血を分けた肉親を人質に仕立てて本気で首筋に白刃をつきつける-…そんなのは見飽きるほど見てきた俺だ。残酷なニュースに眉をしかめる一般人の感傷など甘っちょろいものだ、現実を何も分かっちゃいないと鼻で笑い、天狗になっていた。

 しかし。アルフの喉に細長い指を巻きつけ絞め殺そうとしているセルバンテスが瞳孔に大映しになって、俺はこれまで体験した血生臭さなどぬぐい去る恐怖をー…胃の腑の下から内蔵をねじ上げるような感覚を初めて覚えた。

「てぇめぇえぇぇぇ!」

 雄叫びを上げて体を低くし猛ダッシュ。そしてタックル。セルバンテスは素早く反応し、小僧を盾にしようとしたがそれでも遅かった。

 虎人は俺の右肩と頭突きを食らい、暴走車にはねられたように壁へ飛んでからバウンドして、石筍の破片を巻き散らしながら転がった。

「よくもやってくれたな!っザケやがって立てオラァ!!」

 アルフはセルバンテスを信じていた。尊敬していた。頭は賢く、他人に優しく、良い人間だと。

 ウィットに富んだ会話、親しげな態度、動物園の飼育員のような人懐こさに、人畜無害な臆病さとドジさ。その何もかもがアルフを惹き付けた。手なずけ、懐柔した。俺という飼い主を差し置いて尻尾ふりふりすり寄るアルフの頭を、まるで保護者のように撫でていたじゃねぇか。

 だのに裏切りやがって、よくも、よくも、よくも、よくも、よくも!

 俺にできないことを易々やってのけながら、テメェは!!

 俺は鬼瓦を張り付けたような形相で容赦なくセルバンテスの腹といわず背中といわず何度も蹴りあげる。その口からガボガボほとばしる胃液に血痰が混じるまで。殺したってかまうか!

 いくら痛めつけてやっても怒りは収まらないが「大変…アルフ、息してない!」というエウリディーチェの言葉に、だめ押しのキックを入れてきびすを返す。

「どうしよう、レグルスさん!アルフが…アルフが…」

 泣きかけの猫人の娘の横に膝をついて、仰向けにぐったりしている小僧の口元に耳を当てた。確かに肺からの呼気がそよとも感じられない。

 これは緊急に救命措置をとらねぇとマジでヤバイぞ。俺は警察の訓練で学んだことを頭の中で反芻した。喉に何も詰まっていないことを確認し、アルフの頭を後ろに反らして顎を上げさせ、気道を確保したら口を覆うように唇を合わせて…

「ダメぇっ!」

 不意にエウリディーチェが俺を両手で突いた。不安定な姿勢でいたのを子供とはいえ全力で押してきたので、さすがの俺も易々とよろめいてしまった。

「アルフに何をするのよ、へっ、変態!」

「違っ、馬鹿野郎!人工呼吸だよ!」

「だっダメダメダメ!アルフにそんなこと、しないでよ!」

「こんの糞馬鹿餓鬼!そこどきやがれ!コイツが死んじまうだろ!!」

「あたしがやる!」そこからのエウリディーチェの思いきりは見事だった。ぶっちゅう!と音を立てて口に吸い付くと、ぶふうぅ!と息を吹き込む。「あとどうすればいいの、レグルスさん!」

「お、おう、心臓マッサージ心マな、そっちは俺が」

 エウリディーチェの思わぬ迫力に、すっかり気圧された形で俺は小僧の胸骨を押し下げる役を受け持った。

「起きて、起きて、お願いよ、アルフ、起きて…!」

 アルフの顔色は悪くはなっていない。だが、自発的な呼吸がなかなか戻ってこない。息を吹き込み続けるエウリディーチェ自身が髪振り乱し、ゼイゼイいっている。俺も汗がダラダラ流れ落ち始めた。

「アルフ…アルフ…アルフ、起きて、もう!」

 次にエウリディーチェがとった行動は、さらに俺を仰天させた。

「起きなさいっ!」

 叫ぶが早いか、小僧に懇親のビンタを張った。

 それも一回では済まなかった。パンパンパンと立て続けのビンタ。やめさせようとすると、ふっと振り上げた手を止め、はらはらと涙をこぼした。

「お願い…アルフ、目を覚まして。戻ってきてぇ…ねぇ?……」

 涙の滴がしたたり、小僧の頬にピチャンと弾けた。

 そうすると。

 ふーーーっ…

 深い深い、ため息のような呼吸から、アルフは規則正しいリズムを取り戻した。

 お姫さまのキスで生き返る、なんてのは普通とは逆のパターンだ。たがまあ、これはこれでいいだろう。

 あれ、僕どうしたの?とトボけた呟きの小僧を娘はしっかと抱き締め、バカバカ、と何度もなじる。で、小僧は「わっ、なにゃわあぁぁぁ!!」と赤くなって身を離す。後ずさりすぎてずっこけるおまけ付き。

 あーあ、心配させやがって。っとに涙もチョチョ切れるぜ。俺もしゃがみこんで額をぬぐった。

「そんだけ元気なら問題はねぇな。んでよ、お前らなんだってまたこんな地の底まで来たんだよ。セルバンテスに連れてこられたのか?」

 ううん、アルフがね、アルフがね!興奮するエウリディーチェ。嬉しさと安堵におかしなテンションになっている…が、子供は元来そんなものだろう。理路整然とお利口に振る舞うことよりも、舌がロレッたり言い間違えることも気にしないことのほうが餓鬼のマナーってやつだ。

「城に隠されていた暗号を解いてね、わたっ、私と一緒にここに降りてきて宝物を見つけたの。あれです!」

 小さな指がビッと示した壁の前。松明に挟まれたスペースには、聖堂ドゥオーモの聖人像のように思慮深げに小首を傾げる中世風の甲冑をまとった亡骸なきがら。俺は条件反射的に死因と人相を確認した。

 ざっと見当をつけるなら享年34~5歳、乾いたチョコレートみたいな血糊が身体中にこびりついている。まごうかたなき失血死だ。まるでお笑いのコント役者の扮した仮装の騎士そのもので、兜は割れて地の毛皮がのぞき、おっと南無三!いかにもトルコ兵の攻撃らしい弩の矢が三本、背中と肩から登山旗のように高々と聳えている。

 痛々しい死に様なわりには騎士の面影に苦しんだ様子もなく、ダンクシュートを成功させた中学生のような満ち足りた表情を浮かべていた。で、その足元なのだが。

 金器銀器がこんもり、細かな宝飾品が山をなし、ダイヤやエメラルドが煌めくビールの泡のように崩れ落ちる宝箱があった。そしてその中にはあのチューリップの球根もあったのだが、そちらは全くといっていいほど俺の注視に引っ掛からない物である。

「うひゃっほほぉう!!」

 鼻血が出そうなお宝に踏み出した俺の脚に、犬人の小僧が両腕でもってかじりつく。

「ダメだよおじさん!これは、この騎士の人が後の時代の皆に残した遺産なんだから!」

「なんだお前、急に知恵がついたな、小難しい言葉使いやがって。あのなあ、俺だって今回は散々な目に遭わされたんだぞ。ちっとくらいガメたっていいだろが。こんだけあんだしよ。な、嬢ちゃん?」

「あたしは別に構いませんけど…」

「ほら、な?」

「な?じゃないよ!どうしてジャンおじさんはそういつもいつも、がめつくてずるくてケチンボで乱暴で、息と脇の下が臭いのさ!」

「大人の事情ってやつだ!餓鬼はすっこんでろ、あと最後のは余計だ!」

 おじさんのバカ!バカはてめぇだ!ガアガアぎゃいぎゃい、やがて手が出る足が出る。ヘッドロックでこめかみにウメボシをかましてやれば、相手はこちらの手首に牙を立てる。

 エウリディーチェはいかにも愉快そうに俺達、最高に仲の悪い大人と子供の一歩も譲らぬ争いを眺めていた。

「もう、いい加減に諦めてよ!」アルフの頭突きが人中に入り、俺はいい具合に歯がぐらついてむせ込んだ。「これは全部、警察に届けなきゃだよ!」

「そうはいかない」

 えっ、と俺達は振り向いた。すっかり存在を忘れていたスペインの虎人が、膝を生まれたてのキリンのようにガタガタさせながら立ち上がり、円筒に矩形の合わさったものを握りしめていた。

退がれ!」

 俺はとっさに小僧を背に回し、前方へと動いていた。オートマチックの銃把を握るセルバンテスが引き金を引き、円錘の弾丸がゆるゆると回転しながら飛んでくる。引き延ばされた時間の中のイリュージョン。

 集中が切れた。瞬きの間に銃撃が脇腹をえぐる。空気の槍でワイシャツもろとも背中まで貫かれたような、独特の感覚だった。

 やっぱり、勘がなまったな。俺は前面へ倒れながらぼやく。現役だったら、犯人に手錠をかけるまで気を抜いたりなんかしなかったのによ。糞。

「…おじさん!」

 小僧が腹を抱える俺の顔を覗き込んでくる。オメェのせいだぞアルフ!と言いたかったが、内臓まで千切るような素敵な痛みに唸るばかりだ。

 不意を衝かれるのは本日二度め。あまり間が抜けていないとは言えない体たらくだ。

「この金品はレグルスさん、貴方のように粗暴な筋肉馬鹿には勿体ない。無論、ボルヘスにくれてやるなどナンセンスの極み。アルフとお嬢様には、せっかく発見した宝を掴みかけて残念だろうが、我が祖国にはこんな諺があってね」

 おごった鷲は崖に当たり、虚飾の孔雀は小池に溺れ、欲かきツグミはパイに焼かれる。

「この世は分相応という仕組みが支配している。度を越した欲望は身を滅ぼすのさ。己の限界を見誤って絶壁に衝突したり、華美に装う尾羽に引かれて溺れたりするように、ね」

 すっかり本性を顕した虎人は、しゃっくりと間違えそうな余裕のない笑いをきしきしと上げた。

「お前達はここで殺す。ここは幸いにも抜け道になっているようだし、行方不明のお嬢様を城の馬鹿どもが探している間に、宝を引きずっていくぐらいの時間は稼げるだろう」

「ロレンソさん」蒼ざめた小僧が肩を震わせながら虎人を睨む。「どうしてこんなこと、するの」

「金が欲しいからさ」

「それだけ?そのためだけに嘘をついたり、ジャンおじさんを撃ったりしたの?」

 虎人は苛々と尻尾の鞭でところ構わず地面を叩きながら、今度は俺のドタマに照準を合わせる。ちょっと待てよ、頭蓋骨の中に新風を吹き込まれるのはぞっとしないぞ。

「他に何があるっていうんだ?社会に出ることがあれば分かっただろうが、豪華な衣服や広大な土地を所有し、一流の料理人が膳を出す上等の食事を毎日舌に載せ、ファーストクラスに厭きるほど搭乗して遊び暮らすことこそ誰もが望む理想の人生なんだよ。ハリウッドスターのような、いやそれ以上の生活こそ、綺麗事などではなくリアルな夢というものなのさ。それには金が要るんだよ。莫大な、莫大な資産がね」

 うん、そいつぁ理想だよな。このスペイン虎、犯罪と姑息さを抜きにすれば俺と気が合いそうだ。

「そんなの違う!間違ってる!」

 まだ俺の代弁をしようとしていたセルバンテスは、小僧が上げた絶叫に白け、銃口をそちらにずらした。

「うるさくしないでくれないか。ずっと我慢してきたんだが、もう限界なんだ。子供というのは本当に聞き分けがなくて不潔で愚かで、昔から大嫌いなんだよ」

 それに対してアルフは「おじさんを…家族を…」とぶつぶつ呟きながら尻から玩具のピストルを引き抜いて構える。

 馬鹿野郎!これはお前がよく見てるお子様向けの冒険アニメなんかじゃねぇんだぞ!プラスチックでできたパチンコでビーズの一つや二つ打ち出したところで、野良猫だって脅せやしねぇんだ!!

 俺は銃創がもたらす堪えがたいに逆らい立ち上がろうとした。だがうまくいかない。熱い血潮が腹と背から流れ出し、徐々に筋骨の力を奪っていく。

おやすみBuenas noches、アルフ」

 もう完全に回復しているセルバンテスの目測が小さな犬人の額をとらえていた。その銃口から伸びた弾道予測が見える。

 俺は石筍に寄り掛かり最後の力を振り絞ってようやく、腰を浮かすことができた。

 頼む、イグナシオ。お前の息子のために、どうか力を貸してくれ…!

 向かい合う鋼鉄とプラスチックの二つの銃。そのうち鋼鉄の銃を構える方が、相手の胸元に視線を下げて変な顔をする。

「…?そのメダルは……そんな馬鹿な……?」

 チャンスだ。アルフを庇うために動き出す俺より先に、小さな動物の影がセルバンテスに飛びかかった。

 ギケキャキャキャ!

 あの猿だ。予想外な展開に慌てるセルバンテスの胸元に足場をとり、細長い腕を自在に踊らせ、目鼻立ちの整った優男ヅラを縦横無尽にかきむしる。

 ああ、うわあ、と虎人は後ろへ後ろへと押されていく。何かが乗り移ったかのごとく怒り狂っている猿は、セルバンテスに叩かれようがいっかな攻撃をやめようとはしない。

 俺はこの機を逃さずアルフを右脇に抱え上げた。左は戸惑うエウリディーチェの為だ。この嬢ちゃん、感心なことに察して暴れもしなかい。

「ジャンおじさん!ケガは大丈夫なの?んじゃないの!?」

「腹にチクッときたがな、こんぐれぇへっちゃらだぜ」うおお、痩せ我慢が崩れる三秒前。「余計な心配すんな。行くぞ!」

 なんとかニッと口の端を上げることができた。それだけでも上出来!

 ずらかる寸前、この世のものとも思えぬ人間の悲鳴が響き渡った。

 猿によって壁際へ追い詰められたセルバンテスが宝箱にけつまづき、腕を振り回した拍子に松明を倒したのだ。それはそのまま赤々と燃える炎のあられとなって奴の体へ滑り落ちた。

「ひああ!ぃぎぃあああ!」

 スーツを侵食する炎を払おうとじたばたしたのは失敗だと、奴が気付いたのは数秒遅かった。潔く全部脱いでしまえば助かっただろうに、そのわずかの間に、宝箱の上にいたロレンソへ向かって騎士の遺骸が重なるように倒れた。それがまた丁度良く燃料を継ぎ足した状態になって、いよいよ激しく火炎の牢獄は燃え上がる。

「……!……………!」

 火にまかれ皮膚を焼き焦がされる虎人。そういえば『欲張りツグミはパイに焼かれる』、あの意味は、オープンのパイをつまもうとした食いしん坊な小鳥が一緒に調理されてしまうというものだ。

 まさに今のセルバンテスのことだな。掛け値無しの本物の悪党が、鉄格子つきの車で分厚いコンクリートで囲まれた陽の差さない監獄に送られる前に、自らの欲望で身を滅ぼしたってわけだ。

 ゲホッ、コホンとむせる小僧とエウリディーチェを小脇に抱え、俺はその場からトンズラをかます。背後で「た…す………け…………」という声が小さくなる。生憎だが俺は聖人君子じゃない。ストーブにくべられたミノムシさながら、服と皮膚の区別がつかないほどこんがり焼き上がったセルバンテスまで助ける義理も余裕も無かった。



 穴蔵から食料庫へ這い出る俺を、アガティーナやジャケネッタはじめ城の面々が迎えてくれた。

 幾本もの腕…太いもの、細いもの、シミの浮いた、あるいは皮膚のたるんだもの…が差し伸べられ、アルフとエウリディーチェを預かった。勿論ボルヘスの親父もいたのだろう。だが俺はというと餓鬼二人を放した途端気が遠のいて、我を取り戻した時にはライ麦の麻袋に寝かされ下手くそな包帯を土手っ腹に巻かれてあった。

 第一に頭に浮かんだのは小僧のことだった。アルフは。あいつは無事なんだよな。俺は幻覚を見ていたわけじゃないよな、あの穴蔵からちゃんと連れ帰ってこれたんだよな?

 傷の炎症と失血のせいか、皮膚の上をピッタリと真空の膜に包まれたように奇妙に現実感が湧かず、俺は焦りに衝き動かされて人の林をかきわける。誰かが「動いちゃいかんよアンタ」と言って袖を引こうとするのも振り払う。

 俺はあいつの無事をこの目で確認しないとならねえんだ。まかりまちがって何かあったら、イグナシオに会わせる顔がねえ。

 いた。犬人の尻尾に小さな半ズボンのケツがこっちに向いていた。狭い肩にはあの猿が乗っかっている。

「おい…」良かった、腹の奥からそう思って目頭が熱くなった。糞!女々しいぞ!だが、マジで心底から…嬉しい。「…こっち………向け…」息が苦しい。自分の体重が五倍にも感じられる。

 ここはひとつ、頭を撫でてやるか。いつもはチョップやグーでガツンのところだが、柔らかく脆い子供の骨を壊さぬよう、できるだけ慎重に。今度ばかりは。

 よくまあエウリディーチェを守り、セルバンテスに立ち向かったな。さすがイグナシオの息子だ。俺も男らしさのなんたるかを指導した甲斐があるというもんだ。

 お前みたいにしょうがねぇハナタレに目をかけてやるなんて、滅多に無いことなんだからな。特別だぞ。

 そうねぎらって、なんでも欲しいものを買ってやると約束しようと思っていた。

「あっ、ジャンおじさん。一件落着だねっ」

 満面の笑顔で振り向いたアルフは左の眼球が丸々全部ピンク色に充血していた。セルバンテスに首を締められて毛細血管が破れたのだ。

 勝手に、無意識に右腕がうねった。開いた拳がそのまま強烈な掌打と化してバシン!とアルフを殴りつける。

 小僧が左頬を打たれ、ポーン、と空中に舞い上がった。

 あれ?

「寝言はそれだけか」

 おい、俺は今何をした?………今、何をしている?

 まるで幽体になってしまったように、俺は半歩後ろから激昂するもう一人の自分をーーー…制御不能のシベリアンハスキー系の大男を見ていた。

「俺はお前に部屋に残っているように言ったよな、あ?」

 あ…う…ん、と頬を抑えて頷いているアルフ。閉じられない顎の間から糸のように細い血が垂れている。こりゃ絶対歯が折れているな。せめてそれが乳歯であることを祈ろう。

「大人をナメてんじゃねえぞ!なぁにが『一件落着いっちぇんちゃくちゃくダヨネ』だぁ!?一歩間違ってたら鶏みてぇにくびり殺されて一巻の終わりになるとこだったんだぞ!」

「ご、ご、ごめんなさい…」

 ベソをかく切れ切れの語尾に、更にムカつき胸ぐらを掴んでアルフの身体を持ち上げる。

「謝って済んだら拳骨はいらねぇ」苦しがって歪む顔。ん、これはどっかで見たような…「金輪際、俺に無断で単独行動するな。命令じゃないぞ、この場で誓え!---逆らったらケツに唐辛子ハバネロぶちこんで核弾頭のてっぺんにくくりつけてやるからな!」

「で…でも僕、おじさんに褒めてもらいた」

「言い訳なんざ要らねえ!返事は!!」

 小僧はハイ、とも、うぇ、ともつかない科白を吐いた。

 眉をしかめたその泣きっ面が次第にぼやけていく。

 そして俺は悟った。どうしてこんなに腹が立つのか。思惑とは裏腹に、一番大事な場面で感情に流され暴力を行使してしまったわけを。

“すまない、ジャンカルロ”

 今のアルフの顔は、あいつの…イグナシオの最期の表情そのままじゃないか。暗殺者の凶弾に落命する時に、この小僧のことを俺に託した、あのときの。

“アルフレードの将来を託せるのはお前だけだ。頼んだぜ、親友”

 恐怖にあてられたように震えが走る。全身がスーパーマーケットの冷凍食品みたいに冷たい。

「いいかアルフレード…俺はお前のことなんかどうだっていいんだからな…心配なんかこれっぽっちもしてねえぞ…」

 本当は違うんだ。こんなこと思っちゃいない。裏腹なことばかり言ってしまう。訂正しなければ………

 だけど眠い。ダルい。今日はよく働いたからだな。探偵としてまともに仕事をしたのは、実を言うと初めてだ。意外だろ?だよな?

「…ただ…男の約束は絶対だ…だから俺はお前を守る……これからもずっと………」

 休みたい。帰ったらブランデーをしこたまかっ食らって明後日まで寝てやる。

 その前に、少しでいい、休息をとりたい。この冷たい土の上で構わない。大地は生命の揺りかごだろ。

 真っ暗だ。何もかも。俺の手足はどこだ。ここは光も無く、穏やかで寒いぞ。「おじさん!ジャンおじさ……」か細いがよく沁みる声が、近くでする。俺は瞼を片方だけ上げる。

 そこに、斜めに傾くコリー系の犬人の顔があった。紛れもなく、俺が生涯離れないと誓い合った友の顔。

 やっと帰ってきてくれたのか。イグナシオ。俺の相棒。

 俺、お前との約束を果たしたよ。でもごめんな、ごめん、今日は本気でお前の息子を殴っちまったよ。本当に、すまない。許してくれ。

 死ぬことなんか怖くない。それより自分がしでかしたことに胸が潰れる。

 だってムカついていたんだ。ちっともお前に似てない性格のあいつが。どう扱えばいいのか分からなかった。なまじっか幼い頃に生き写しなぶんだけ、常にお前のイミテーションをアルフレードに求めていたんだ。

 しかし、安心した。もう平気だ。お前がこうして帰ってきてくれたから。それだけで満足だ。俺は待ちくたびれてたんだぜ。独りぼっちにしやがって、ようやく一緒にいけるな……

 急速に意識が濃霧に包まれ、探偵稼業が赤字経営の苦しみも、女にモテない悲しみも、親友に置き去りにされた淋しさも無い平安な世界へと俺は旅立って行った。




 首の下がゴロゴロする。これは一体なんなんだ。白熱灯に特有の白とも黄ともつかない光が、眩しいほどに天井から照射されていて、俺の顔の毛皮を焼かんばかり。

 身体の下にあるのは…板か。ニスをたっぷり染み込ませた目の細かい板張りの床だ…。それが青空に接した地平線へどこまでも伸びていく。だが、何かおかしいぞ。

 そうだ。あれが本物の消失点だとしたら、地球の丸みを帯びてゆるやかな弧を描いているはずなのに。切り裂いたような直線に遮られた木目のすぐ上から、地球のどの地域なのか判然としない単調なパステルブルーの空が立ち上がっている。

 視覚のトリックに騙された。これは、舞台だ。そして、今見ているのは書割の背景、しかも明暗の抑揚の一切ない稚拙な舞台美術じゃないか。

 俺は立ち上がった。さっきまでの倦怠感が嘘のように手足が軽い。

 待てよ、「さっき」とはいつのことだ?一体どうして俺はこんなところにいるのだろう?誰が運んできやがったんだ?

 ポーン、とベルの音が響いた。ちょうど舞台の中央線が通る背景の壁に、高みが霞んで見えないキャットウォークから下がってくるエレベーターが一機、唐突に据えられている。これがまたえらく古風な代物で、階数表示が左右に振れる真鍮の矢印、扉は半開放式の鉄柵、ボタンは一つだけといった具合だ。

 音はそちらからしたと思う。ボタンが光るようLEDがついているわけでなし、もしかしたら他の装置が作動したとしても不思議でない。どうも耳がキーンとして、いつもみたいに正確に音が拾えなくなっている。

 俺は自分の身体を見下ろした。あれだけ出血したというのに衣服に血糊はついておらず、手足も軽い。これは所謂あれか、つまり、俺は…

「お前は死んだんだよ、ジャンカルロ」

 壁から見下ろしているスピーカーから、風船がしぼんで空気が漏れたような低い声がした。

 俺は振り返った。舞台の真ん中の床が四角い形に沈んでいく。ヴーン…という機械音が一旦フェードアウトし、また強くなったと思うと、何かを乗せて奈落からジリジリせり上がってきた。

「お前は撃たれて命を落とした。ここは生死の世界の境目さかいめ、忘却の河のほとりさ」

 鼻にツンとくる甘い匂い。吸いこんだ息に混じったそれが喉の粘膜に刺激を与え、痰が詰まる。これは腐敗臭だ。

 少し奈落へ足を踏み出せば、早くその正体が分かる筈。なのだが、俺は動けなかった。そしてまず血が毛皮の上に固まった犬人の頭部が、肩を落とした背中に銃痕の切り抜きのあるジャケットが、最後に均整のとれた脚に穿くリーバイスのプレミアジーンズが見えた。

 がいた。俺が見取って最期を迎えたときの格好のままだ。

「遅かったじゃないか、ジャンカルロ。なあ…」

 力の無い、しかし懐かしい声。やっぱり、そうか。迎えにくるならお前しかいないと思っていた。

 そいつがこちらを向く瞬間、俺は目を閉じざるを得なかった。

「土の下はジメジメして冷えきってる。それに静かなんだよ」恨みのこもる陰鬱と共に語尾がすぼんでいく。「お前が来てくれれば退屈がまぎれる。ずっと待っていたんだぞ」

 済まなかった、イグナシオ。

 ずる、ずる、ぺちゃ、ぺちゃ。湿った足音が近づいてくる。まともに目を開いたら、毛皮といわず骨肉といわず地虫長虫が食い荒らし、穴という穴から這い出してくる忌まわしい姿を認めるのだろう。しかし…その姿を、変わりはてた親友を前に臆することなく対峙するのが男としてあるべき態度だ。

 だが。

 俺にはそんな勇気はない。腐敗し崩壊し変わり果てた友の顔は、アイスピックで心臓を刺し貫かれるより辛い。

「さあ、一緒に彼岸あちらへ行こう。まだ熱いお前の身体で俺を温めてくれよ。心配するな、お前だってすぐ馴れるさ」

 腐臭が一段と強まった。べとべとした塊が俺の肩にまとわりつき、息が苦しくなっていく。でも、かまわない。それでいいんだ。

 俺を連れていけ。イグナシオ。お前といられるのなら、もう何もいらない。

 カシャン、と乾いた金属音がして、木の床を蹴るように走る音が大きくなり、出し抜けに俺はつむじにきつい張り手を食らった。

「しっかりしろジャン!」

 その声に驚いて瞼を開いた。俺は巨大な黒いアメーバじみた物体に胸から腰まで埋まり、今まさに、そいつに取り込まれかけているところ。

「なっなななんじゃこりゃあ!」

 思わず喉を衝く叫びに、つかまれ!としなやかな口調で檄が飛ぶ。命令を与えられた三等兵よろしく、俺は背後に手を突き出した。

 力強く熱い親指。この掌と結び合う感覚は身体の芯から確かな活力を呼び覚ます。

 相手は重い俺を引っ張り、ぬるぬる蠢く気持ちの悪い怪物から引っこ抜く。

「あれは黄泉に迷う死者の妄執、その化身だ。生への未練が断ち切れずに、生きてる人間なら誰彼かまわず奈落に誘い込もうとしているのさ」

「お、おま、お前、お前は」

 かぶりを振り仰ぐついでに、そいつはたてがみになるほど伸びた己が余り毛に手櫛を入れる。照明の下に鮮かに翻った純白の毛並み。犬人のあぎと、口許にはハイネケンの泡のような景気のいい笑顔が満ちている。

「あんなのにつけ入られるなんて気が弱くなってる証拠だぞ。どうしたってんだよ?」

 小馬鹿にしたような喋り方。しかしその裏には、思いやりと親しみが溶け合い生まれるプラスの磁力。人をひきつける音程だ。何もかも全く変わっていない。

 そいつは戸惑う俺に代わり、まだうねっている粘土状の塊をサッカーボールよろしく蹴り上げた。塊は放物線の軌道に乗り、そのまま奈落へ落ちていく。

「おお、こりゃ底までいったかな」腰に拳をあてがい、しばらく穴を覗いていたが、もう何も出てこないと見てとるや「さて、理由を聞かせてもらおうか。なんだってこの俺をあんなげちょげちょの物体と間違えやが」

 その科白が、俺の渾身の抱擁で途切れる。さっきのはとんだ勘違いだった。この匂い、こっちが本物だ。俺達は何度も互いの首に腕を掛けた。この肩を忘れるなんてな!

「あだだだ、相変わらず力だけは熊みたいにあるんだからなあ」

イグナシオナチョ、今度こそお前だな、本物のお前なんだな」

「違うっつったらどうするつもりなんだよ。さあいい加減に離しな。でないとぶん殴るぜ」

 すがりつく俺を軽口であしらう。俺は泣き笑いになりながら、エレベーターの方へ行くイグナシオの背中について歩く。

「ジャン、お前はまだまだてんで臆病の慌てん坊なんだな。俺はそっちには助けに行けないんだぜ?あんまりヒヤヒヤさせんなよ」

「済まねえ。だってよ、あんまり嬉しくってよ…」

 イグナシオが苦笑とともに肩をすくめる。俺がズバビと洟をすすり上げると胸を小突かれた。

 そして互いの尻尾が触れあう距離で、二人してエレベーターの前に立つ。

「…こんな俺でも天国に行けるんだな」

 ハア!?何ほざいてんだよ!!呆れて叫ぶ親友。こちらの横っ面を弾くような勢いに、俺は少なからず動揺してたじろぐ。

「いいかジャン、まだ分かってないようだから言っておく。お前とはここで永久にお別れだ」

 これは効いた。俺は腰の砕けそうなのをこらえるのに必死の努力を用いなければならない。

「俺が…キライになった?足手まといだから?だからまた、捨ててくの?」

 いつの間にか自分の姿が変化していた。半ズボンにランニング、膝小僧と鼻がしらに絆創膏を当てたガキの頃に戻っている。俺はそれには気を払わなかった。眼前のイグナシオにしてからが、華奢な手足の、しかし眼光はキラキラした少年になっていたから。

 すっかり背丈の低い過去の自分達に遡り、俺とイグナシオは見つめ合う。

「お前にそんな誤解をさせたのは僕の間違いだった。あの時に…俺が本土に渡った時、お前が納得できるよう説明するべきだったんだよな」

「じゃあ、今度は、今度こそ俺を」

 だーから、連れてけないんだって!とやわいチョップを額にうちこまれた。

「お前が黄泉のあやかしに捕まってるのが分かったから、の方に無理言って特別に降ろしてもらったのさ。それにほら、これどうしたって一人しか乗れないようになってんだよ」

 そんなこと知らないよ!ナチョの嘘つき!ずっと一緒にいるって言ってたのに!

 …となじってやるつもりが、口から出たのは「はにゃがべぶちゅわもぎのぎ」と、涙やその他の色んなものが混じる呟きに終わってしまった。

 身も心もガキになった俺に、同じように縮んでいるイグナシオが両肩をつかみ言い聞かせる。

「ジャン、僕はお前の心に根ざした孤独を取り除くことはできない。それに、お前の側に寄り添うべきは俺じゃない。ステラだ。あいつを信じてやってくれ」

「ステ、ステラ?あいつはナチョが好きなんだ、よ?」

「はぁー」イグナシオはがっくり首を倒して、俺と額をくっつけた。「それは俺の二つめの間違いだ。あの日、ちょっときっかけが悪かったばっかりに…とにかく」

 ほら目を開けてシャンとしろ!その言葉に従順に、幾度も瞼をこすり、恐る恐る正面からイグナシオと向き合った。

 空色の瞳だ。毛皮の輪郭は照明からの光に縁取られている。

 天使がいたらこいつみたいなはずだ。きっと。やっかみでも自己卑下でもない。憧れより強く、尊敬より深く、俺はナチョと共にいたいと望んでいる。俺はお前が理想なんだから。置いていかれたら、今度こそおかしくなってしまうよ…

「お前さ、俺と約束してくれたよな?アルフレードのことを頼んだじゃないか」

「アルフレード…?誰だっけそれ…?」

「僕の息子だよ、さあ、思い出して帰るんだ。あっちで泣きながら待ってる奴が二人いる。お前がいないとダメな奴らがさ」

「ナチョ、おま」

 ドンと押されて、俺は後ろへたたらを踏む。

 勢いは止まらず、俺は舞台のツラ、客席へよろけていく。

 ヂャラヂャラヂャラ!

 エレベーターの箱の蛇腹に折り畳まれていた鉄格子が閉まった。その向こうにイグナシオの笑顔が引っ込む。

「ま、待って、俺、まだ喋りたいことがたくさん」

 足下から板目の反応が消えた。暗闇に沈む客席側へともんどりを打つ。下は果てしない、が、その彼方に銀河のように小さな白い点が何億も瞬いている。

「ジャンー!アルフのことと俺の事件!よろしくなー!!」

 俺の耳にイグナシオの、本当に最後の科白が届いた。

 聞き覚えがある呼び名。短く呼びやすくした通り名。

 アルフ?アルフだって?それはあいつのことだ、菓子を食い散らかして、お子ちゃま番組に目がない生意気ざかりのクソ坊主。あいつは一体どこだ?

 瞬間、光が溢れた。



 卵の黄身のような太陽。真綿を重ねたようなはぐれ雲。ちょんちょんと曲線二本の、だが鳥…、しかもカモメと分かる空の影。子供だましにもほどがある嘘くさい、壁紙に印刷された風景だ。

 なんともはやチープ極まる偽物…いや、これは本物だ。矛盾した言い方だが。これは絵、人の手で壁や天井に描かれたアニメチックな風景画。さっきまで似たような場所にいたような気がするのだが、それがどこだか忘れてしまった。ウォルト=ディズニーの爺さまが腐りかけのまま墓から怒鳴り込んできそうなパクり疑惑満載の画風と、そこここに見え隠れするキャラクター。

 いかにも餓鬼が喜びそうな趣向だが、これは一体…

「なんだ、ここは」

「なんだじゃないわよ」

 声のした方を向く。どうやらベッドに寝ていることは理解した。枕もマットレスも毛布も我が家より上等だ。

 窓辺をバックに豊かなプラチナブロンドののままのカールを指で弄ぶ美しい女がいた。

 誰だったか。俺はとうの昔からこいつを知っている。鋭いというより底知れぬ眼差し、下品なアメリカ映画の女優が整形したところで追い付かないだろうという、鼻筋の流麗な盛り上がりと完璧な顎のカーブ。

 シワという概念から超越したしなやかな首、それから形の整ったバスト。その谷間につつしみを保ちつつも、俺達男のため前をさりげなく開いて強調するミッドナイトブルーのドレス。ミルクホワイトのエナメルに黒のスエードをあしらったヒール。

「自分が誰で、何処に住んで何をしているのか言えるのかしらね、この身体だけは立派なタフガイさんは?」潤みを含んだ唇が発する、よく響くアルト。俺の背中をくすぐるようだ。「さあ言ってみて。脳に障害があるって疑いはないけど、念のためよ。ま、普段からそう御大層な使い方をしてるとは思えないけどね」

 ステラ。どうしてここに?というか、ここはどこだ?

「パレルモ中央総合病院よ。ボルヘス物産の倒産を救い幻の球根に日の目を当てたあんたは、今や地元のちょっとしたヒーローで、外にはプレス記者も取材に来てる。だけどそれも病院にとってみれば他の患者の安静の妨害に他ならないから、子供用の病室に隔離されてるというわけ。…弾道が背骨を逸れていったのは奇跡だったのよ。あと1ミリでも内側に寄っていたら半身付随だったんだから」

 お分かりかしら?ステラは優雅に窓枠にもたれた。

「俺は…どうしたんだ?」

「………」はぁ、と斜め下にため息を落とす。「アルフを身をもって庇って、セルバンテスとかいう詐欺師に撃たれたのよ」

 アルフ?ああアルフレードのことか。糞、頭が重いな。アルフか。アルフの…アルフ…

「アルフはどうしたっ!!」

 毛布も撥ね飛ばして起き上がる。脇腹がズクンと痛み、「うぉフっ」と俺は口をすぼめて身体を丸めた。

 左腕にまとわりつく点滴のチューブが引っ張られて、抗生物質とブドウ糖のパックを下げたキャリーがベッドにぶつかった。

「傷口が開くじゃない、おとなしくしてなさいよ。なんたって銃弾が貫通してるんだからね」

「それより!ッ……アルフは、アルフレードは、無事、なのか?」

 カツカツと歩いてきたステラが立ち止まる。唇が一回、空気を漏らすためだけに開かれ、二回目は徐々に開いてすぐ閉じた。

 無言の態度のまま肘で差す。その先、俺の隣に、柔らかな枕がもうひとつ用意され、そこに埋もれた小僧の横顔があった。

 思わず肩に手をやる。身体は暖かく、寝息に合わせてゆるやかに上下している。

「生きてるぞ…息してるもんな。なあステラ、こいつホントになんともないんだよな?」

「…あんたに殴られた痕のほうが首を締められた傷より酷いそうよ。ま、とはいえ無傷に近いわ」

「そうか、うん、そうなんだな。いや…俺はどうなったっていいんだ、だがこいつだけは無事に生かしておかないと駄目なんだよ」

 なんたってあいつの一粒種なんだ。生意気で馬鹿で考えなしだとしても。

 俺は穴があくほどアルフの顔を、その生命の兆候を観察した。そんな俺の様子にステラは「………ジャンカルロ。あんたって…」と、何か言いかけたものを飲み込んだ。

「るにゃ…?」

 俺がすぐそばで息を吹きかけ続けたので、犬人のチビが寝返りをうち瞼をクシクシこする。

「ヤバい起きる!ステラおい、煙草ヤニ貸せヤニ!」

「は?ここは病院なのよ?全室禁煙に決まってるでしょう?」

「知るか、つべこべ言ってないで貸せよ!」

 渋るステラから自分の煙草を引ったくり、「火!」とジェスチャーで急かす。狐人は不機嫌さに眉を吊り上げながらも手早くマッチをすった。

 おぐ。い。吐き気がする。肺がニコチンを拒否するので、とにかく煙を口に含んで威勢よくふかしてやる。

 アルフがむにゃむにゅ、と目をショボつかせて起きる。

「あれ…オハヨ、ジャンおじさん……て、あれ?」

「おう」俺は腕組み脚組みでベッドにそっくり返り、くわえ煙草の灰を病室のカップに落とす。どこから見たってピンピンしてる感じだろ?「てめえ人の隣でグースカ寝てんじゃねぇよ。こっちゃおちおち眠っていられねえだろが」

「おじさん…生きてるよね?幽霊じゃないよね?」

「へっ、何ボケかましてんだか。この通り元気満々だっつの」

 両腕を曲げて作った力瘤ちからこぶ。その間、俺の胸板へ小僧は歓声を上げながらダイブしてきた。

「わぁい!ジャンおじさんの復活だぁ!!」

 そして俺の首っ玉を掴んで唇を押し付ける。ヌベチャ、と涙(九割がたは多分鼻水だ)が湿った音をたてた。

「っと痛ェ、じゃねぇ、汚ったね!じゃれつくんじゃねえよ、ヤニ吸ってんのに危ねえだろ!」

「僕、だって、僕……おじさんが死んじゃうんじゃないかって思ってたんだよ。ヒドいよ怒るなんて!」

「縁起でもねぇこと言うな。俺は地球が滅亡したって生き残ってみせらぁ」

「…ホントに?」

 アルフは急にしおらしくなった。両耳をへたらせクスンと鼻を鳴らし、俺の両肩にぶら下がって離れない。

「パパみたいに僕を残して死んじゃったりしない?」

「なんだお前、そんなこと考えてたのか」

「だって想像しちゃうもん。凄い血だったんだよ。それなのに僕とエウリディーチェを抱えて走ったでしょ。憶えてない?」

「さあて、んなこともあったかも知らんな」俺はポリポリとモミアゲを掻いてしらばっくれる。「ま、あの嬢ちゃんは金蔓カネヅルだし、お前は下働きだからな。どっちも助けなきゃ、あとあと面倒だろうが」

「そんなのどうでもいいの!」

 そしてアルフは再び、今度は俺の顔の反対側の毛皮にキスをした。

「パパ、ママ、聖ロザリア様、マリア様。ジャンおじさんを助けてくれてありがとうございます」

 身体がカッと熱くなり、俺は乱暴にアルフをひっぺがす。

「ジャンおじさん、どうしたの?」

「どうしたのよジャン」

「いや、なんでもないっ」思いきり首をねじって表情を隠す。「そうだ、お前はちょっとひとっ走りして中の売店でサンドイッチでも買ってこい。な!腹ペコだろ!」

 えっと財布財布…が、無い。いや、ステラが如才なく俺の薄い牛革のやつを投げてよこしてくれた。

 なけなしの札を抜いて渡す。小僧は額面を確かめてニヤリとした。

「…お釣りが出るよ。ねえ、アイス買ってきてもいい?」

「へっ、ちゃっかりしやがって」ま、餓鬼ならこんなもんか。「ああいいぜ。俺にもなんか買ってこい」

「エッチな本とか、ヤダからね」

「そんなんじゃねえ」

 血が足りなくて勃起アサダチもしやしねえよ。

「じゃあ何がいいの?やっぱりアイス?」

「そりゃおめぇが食いてえんだろうが。そんなもんよか…」我関せずと窓の方にいるステラの後姿が見えた。俺と親友とパレルモで共に育ち、二人が恋し、そして破れた美しい女。「久しぶりにセブンアップが飲みてえ気分だな」

「ふーん?お酒じゃないんだ、珍しい」

「まあな」あいつと、イグナシオと遊ぶときはいつも雑貨屋に買いに行っていたものだ。もういつから味わっていないんだろう。「さ、行ってきな。寄り道すんじゃねえぞ」

 うん!と札を握りしめ、アルフがベッドから飛び降りた。素足にスニーカーを履いてドアに走って行く。

 ノブを回して「あっそうだ!」と叫び、甲高く靴のゴム底を床にこすって振り返る。

「ねぇねぇジャンおじさん、知ってた?おじさんの『レグルス』も、僕の『コッレオーニ』も、おんなじ星座の星の名前なんだよ!」

 その瞬間、俺は刻を飛び越えた。

“ーーー…なあなあ、ジャン、知ってるか?お前と俺、苗字が一緒の星を示してるんだぜ。俺達、星の兄弟ってわけだな。

 どーだ?すっげぇ偶然だと思わないか?”

 遠い記憶だった。なのにこんなに鮮明に、あの日のイグナシオの笑顔と、そっくりなアルフのニヘラ顔がダブる。

「知らなかったな」俺はまだ火口の長い吸いさしを、カップに強くねじ消した。鼻がしらが酸っぱくなる。「いつからそんな物知りになった?」

 エヘヘヘ、と誉めたわけでもないのにアルフは鼻の下を引っ掻く。小学校を抜け出しては遊んでいた20年前の、あの岬の突端でイグナシオがそれと全く同じ仕種をやっていたものだ。

 俺は目を細めてまなじりにこみあげる厄介なものを封印した。

 ああ、イグナシオ。こいつはまさしくおめぇのガキだったぜ。憎ったらしいぐらい似てやがらあ。

「おじさん何しかめっ面してんの?僕と同じ意味の名前だといやなの?」

「うっせえな。傷がな、痛むんだよ」

 オラ行った行った!シッシと追いやる。アルフは素っ気なくあしらわれてもめげることなく「ステラさん、おじさんを見張っててね!」と言い置きパタパタと駆けていった。



 吐き気はもうおさまっている。俺は煙草をもう一本出した。火を点し、唇には持っていかず、カップに入れてヘリにそっと立て掛ける。

 煙は窓から空へと高く高く伸びていく。白い筋が薄まり消えていく雲の彼方で、俺の親友がうまそうにそれを吸って笑っているような気がした。

「それで?気は済んだのかしら?」スツールに腰を下ろしたステラが俺の腕に手を置く。「赤くなったり泣いたり怒鳴ったり忙しいわね。元気みたいで良かったけど」

 おう、すっかり忘れてたぜ。「うっせえな、誰が泣くかよ。それはともかくステラ、お前が色々やってくれたんだな。手間かけさせて悪かった」一応だが軽く謝る。

「適合する血液型とか、持病がないかとかをお医者様に説明して、入院手続きに保険の関係、それからアルフの世話などなど、ね。誰かさんと違って寝てる暇もなかったわよ」どこかしら気分を害したような冷たい眼差しが気になるんだが…「ボルヘスの城からついてきた、なんだかよく分からないメイドの娘もいたし」

「アガティーナか。あいつはどうした?」

「ボルヘス家に連絡を入れに行ってるわ。自分には責任があるからとかなんとか、まあやかましくてね」

 あんたをこの病院まで車で運んだのもあの娘よ。そう告げる銀と黒の入り混じる瞳。その中心に、不穏に輝く何かがある。

「…おい、なんか怒ってないか、お前」

「別に」

「なんだよ言えよ。気になんだろが」

 あぁあ、もう…とステラは俺の腕毛をつまみ、むしった。

「がっ!!何すんだ!」

 ステラは毛の塊を床に散らし「ジャンカルロ、あんたは大人になれない小さな巨人。ちっとも成長してやしない。アルフの方がずっとしっかりしてる」と睨んできた。

「あぁん?」

「そんなんじゃ一生あたしへの借金は返せないんじゃないかしら」

 ああ、そのことかよ。「飯代のツケか!それはもう少し待ってくれ、きっと、いや必ず払うからよ」…と、おいおいおい、なんだよ、なんだってまた目が三角になるんだよ!?

「あんたってイヤになるくらい鈍感よね。そういうところは昔から大嫌いだったわ」

「お前のそういうわけの分からないとこは、俺ぁ昔から大嫌でぇきれぇだ」

 フン!と互いにそっぽを向いた。

「いいわよ、ツケはいつまでだって待ってあげる。その代わり利子をドンドンつけてあげちゃうから。破産してみたらいいのよ一度くらい」

「ひでぇ女…」

「なんとでもお言いなさい」

 静かだ。窓から吹きこんでくるそよ風に、甘い蘭の香りが溶けている。

 いや、これはステラだ。なびく豊かな銀髪から花粉のようにかぐわしくたゆたう。

「あのよ」

「何よ」

 参ったな、そうカリカリすんなっての。「アルフのよりも俺の飯代のが高いんだよな」大事なことを伝えようとしてるのに。くじけちまいそうだぜ。

「だったらさ、全部チャラにしてくんねえかな。この先のぶんも合わせてよ」

「馬鹿なこと言っちゃって。いい?何度も繰り返してるけど、あたしは旦那になる男以外にはタダは認めないの」

「知ってる」

 長い沈黙。

 さあああ、と梢を揺らす風の音。トテロロロ…と市営バスのエンジン。癇癪をおこした幼児の金切り声に、宥める親の囁き。

 そうした、あまりにも日常的なBGMにかぶさるのは、バクンバクンとを胃を押し下げている俺の心拍。

 黄昏と昼間に挟まれた陽の明るい空は何も語らず、ベッドに横たわる俺と背を向けているステラとを隔てる無言という壁を見下ろしている。

 あれ、もしかして意味が通じなかったのか。それともちゃんと分かった上でシカトされてるのか?後者は可能性が高い。こういったことにかけちゃ不得手なんだよなあ俺は。

「お…おい、あのな。俺はその、つまり、お前と」

「こんなに点数をつけがたいプロポーズは初めてよ」

 ふふふ。と微笑むステラがこちらを向く。逆光でまぶしい。俺は目を細める。こいつは次の行動が読めない。笑いながら激怒するし恐ろしい位の無反応で上機嫌だったりするからな。

「んで、よ。俺の気持ちは、まあなんだ、とどのつまりだな、あー、そういう感じなんだが…今回は色々なことがあってな、考えさせられたっつうか、もとから思っちゃいたんだが、俺はお前となら一緒になれんじゃねえかと」

「黙って。これ以上ロマンチックじゃない科白は聞きたくないの」

 狐人はベッドへ乗り移り、俺の額に掌をあてがう。

 ヤバい。汗が止まんねえ!

「でも、あんたに昼メロみたいな甘い愛の告白を期待するのは贅沢なのかな。撃たれて死ななかったってだけでも上出来なんだし」

 ぎしりとスプリングがきしむ。俺はのしかかってくるステラの誇らしげな胸から目が離せない。

 毛布に盛り上がる俺の脚の山が2つ。で、その谷間からおやおや、ぐんぐんと3つめの山を作る勢いで隆起ができていく。

「あたしがパリに行った理由、教えてあげようかしら?」

 うは、顔にステラの髪がかかる。がっつくんじゃない、耐えろ、こらえろ我慢しろ!ここが最大の山場、ワーテルローの戦場だぞ!

「一発ハメた後じゃ駄目か?」

 蟻の築いた堤防のごとく積み上げた雰囲気が壊れる。俺の希望が終わった。ステラの表情から熱が失われ、白けた敗残感だけが…

「あんたって本当に憎らしい男」ひいぃ、やめてくれ。言われなくても自己嫌悪で瞬殺されそうだっつのに!「どうしてくれようかしら。いっそあたしが殺してあげようか?」

 薄めた目の視界にステラの苦笑が広がる。唇に、乾いたルージュの味がした。

「………女は順序を守りたがる生き物なの。最低限のマナーぐらい学んでよね」

 じゃあ、あたしはちょっと店に電話してくるわ。そう言うステラの肘を捕まえる。ステラはやや身構えるが抵抗は弱い。これは、イケる!

 次の瞬間ドアが開いた。これ以後の約2分半、施錠を怠ることが人生の重大な局面においていかに致命的なミスとなるのか、よく覚えておくといい。

「レッグルッスさーん!気が付いたんですかー!?」

 土中に埋まっていた大戦前の爆弾のようにアガティーナが登場した。ハッと身を引いているステラを押しのけて、俺の脚の上に横座りする。で、彼氏に甘えるティーンエージャーそのままに脇の下に腕を差し込んでしなだれかかった。

「な、な、な、おいアガティーナなんのマネだ」

「エヘヘエヘヘ、聞いてくださいよお~。旦那様があたしのことを凄く誉めて下さいましてぇ」

 ビッと眉を張り声を太く作る。「〝アガティーナ、今回のお前の働きには感心させられたぞ。ワシや娘だけでなく皆の為になる素晴らしい勇気ある行動だったな〟とかとかおっしゃってもうやだぁ!」と俺の肩をドンドン叩く。

「ああ、それは良かったな。あのところでよ、まず俺のベッドから降りてくんねえかな」

「それであたしの手をこうギュッ…と握ってぇ」こちらの科白が聞こえてない。またボルヘスの再現か。「〝お前は頼りになるな。今ワシに必要なのは信用のおける人間だ。どうだ、ワシの秘書をやってみないか〟………キャー!!」

 うおっ、ステラが手を握って爪をチリチリ言わせてる。こっちだってキャー!!だぜ。

「えーとだな、お嬢さん、俺は怪我人でここは病院なんだ。そこんとこわきまえてもらえねえかな?」

「あっ、ごめんなさい。つい」

 つい?とステラは眉間に谷を作り鼻白んで復唱した。普通なら聞こえやしないだろう呟き。だが俺のシベリアンハスキー系の耳はNASAの対宇宙防衛戦線のシンボルであるパラボナアンテナに匹敵する集音能力。で、それを聞き逃さなかったわけだ。

 狐人の女は気持ちを態度で示している。、と繰り返して。今、もしこいつが厨房でスープを煮込んでいる時に負けず劣らず胸中穏やかだったなら、今後一切自分のカンに対する信用貸しを停止することにしようか。

「ハハハハハ、ラッキーだったなあ、その調子でギャラの方もよろしく頼んだぜ。俺達の関係はあくまで仕事、ビ・ジ・ネ・ス!なんだからな」

 参ったな、聞こえよがしな自分の声が裏返る。

「でもそれだけでもなかったでしょ?」

 アフガンハウンド系の犬人は俺が断る隙を与えず、ステラの感触を打ち消すほどの激しいキスをした。俺の尻尾がボフッと膨らんだ。

「せめてものお礼です。これからはお友達でお願いしますね。応援してくれたこと、一生感謝します」

 じゃっ、お城に戻りますので!メイドから秘書に昇格した歓喜に今にもブレイクダンスを踊りだすんじゃないかというハイテンションで、アガティーナの姿が消える。

 俺がゼンマイ仕掛けの人形みたいにぎこちなく振り返ると、前髪の陰翳で表情の隠れたステラが澄んだ声で囁くように言った。

「あんたの言ってた割りのいい仕事って結局、女の子にコナかけて回ることだったのね」

 違う違う違う!否定する俺のトサカの上へと、贅肉以外で作られたステラの右足の影が重なる。

「あたしを馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ」

「たまたまだ、たまたま!だって俺が本当に好きなのはステラ、餓鬼の頃からずっとお前だけ、だから冷静に」

 高くから降り下ろされるヒールの一撃を食らった。意識がクラッシュし、記憶も弾け飛ぶ。



 派手にタンコブを作った俺がアルフに揺すられて次に目を開いたとき、病室に怒りでわななく狐人はいなかった。

 セブンアップの甘ったるくない炭酸は昔と変わっていなかった。それはこの飲物に限ったことじゃねえな、と俺は痛感しながら小僧と並んでペットボトルからすすった。






エピローグ


「ジャンおじさん、僕がいいよって言ってから手を離してね、途中で騙して離しちゃうとかやめてよね、冗談にならないから!」

 白く輝く新品の自転車にまたがり、念には念を押して俺に釘を刺す犬人の小僧。いっかな漕ぎ出そうとしない背中を俺は「しつけえんだよ!男なら度胸を見せろ!」とどやしつける。

「いや、ジャンおじさんならやりかねない」どこだかのチャンネルの俳優の真似か「僕は総てお見通しなのだよお」と片眉だけ上げて見せる。

 緑に染まった太陽の光を受けて、俺とアルフは海に面した草っ原にいた。

 事務所からほんの数分の海岸通り。幹線道路と並走していた歩道は、ここからは岬へ続く一本道へと分かれる。

 向かう先は緩やかな上り勾配。アザミやクローバーやすみれがちらほら咲く野原だ。いくら道を外れても草むらに突っ込むぐらいが関の山、チャリの練習にはもってこい。

「能書きはいいから始めんぞ」

「では、アルフレード=コッレオーニ、初乗りに挑戦しまーっす!」

 勇ましく敬礼をして腰を浮かし、アルフはペダルに体重を乗せた。俺は後部をがっちり持って押してやる。前後輪が交互にリズムよく回り始める。

 俺は駆け足になった。肺も心臓も軽い。なぜなら禁煙しているからだ。どうしてかって?そりゃまあ、年がら年中ヤニを唇に挟んでりゃあ歯が黄ばむだろ。したら可愛い女の子にせまっても、色好い返事をもらえるチャンスが減っちまうじゃないか。

 それに身体を鍛え直しているからな、これを機にすっぱりやめることにしたのさ。なんつっても体力がものをいう職業なもんでな。まかりまちがってもアルフの救出に時間がかかったからとかが理由と思うなよ!

「おおおー、速いすごい、ちょっと怖くなってきた」

「前だけ見てろ!ハンドルは脇軽くしめて肩の力を抜いてキープだ!」

「了解!」

 補助輪なんて幼稚園じゃないんだから意気地無しみたいでダサいよと俺に言った手前、アルフは慎重にペースを保っている。スピードはまだまだキツくない。俺は警官時代の脚力を取り戻しつつある。うん、息も上がらずちゃんと走れているぞ。

「どうだアルフ、いけそうか!」

「もう少し!もう少し持ってて!」

 ステラの誤解を払拭することはできなかったが、それでもまあなんとか財産償却・破産申請の二段落ちには至らずにすんでいる。

 気紛れな狐人のことだから理由は定かでないが、退院してからこっち、店が暇なときには俺とアルフの飯を作ってくれているのだ。

 もっとも建前は「独り暮らしじゃないんだから、一緒にいるアルフの栄養管理ができるようにあたしがしごいてあげる」というわけだが、芋の皮剥きに四苦八苦の俺と、それを尻目にポトフだのクスクスだのまで手を広げているアルフという図に内心は呆れているらしい。

 俺としちゃ、ステラから嫌われていないだけでもひと安心だ。溜めまくっていたツケの懸案も、ボルヘス家の事件がわりと大きく取り上げられたお陰で解消された。大口とまではいわないまでもポツポツと依頼が舞い込むようになり、ファックスを取り付けパソコンを入れた事務所は相変わらず乱雑だが、閑古鳥が敬遠する状態が続いている。おお神よ、願わくばあの呪われた鳥が末永く寄り付きませんように!!

「よし、おじさん離していいよ!」

 うっしゃ、と手先の連結を解く。アルフの漕ぐ自転車はするするとリズムに乗って進んでいった。「イェーイ!気持ちいい!」犬人の耳がまっすぐ立ち、足りない安定感を尻尾で補う。

「できた!僕乗れたよ、ジャンおじさん!」

「馬鹿野郎、集中して前だけ向いて…」

 岬へと続いている風景の色彩がセピアに変わった。

 半ズボンにダボシャツ、日除けを後ろに回した野球帽の子供が乗ったおんぼろ自転車が二台、この同じ道を前後して疾走している。

 後ろにいるのは俺。生まれて初めて乗る自転車のバンドルをぎこちなく操る。

 前にいるのは…イグナシオ=コッレオーニ。平行棒を渡るときのように腕を水平に伸ばしてバランスをとりながらの手放し運転で、口笛を吹いている。

「そらそらどうした?まだおっかないのか?」

 イグナシオは後ろを振り返っても危なげなくコントロールし、もっとスピード出せよ、と顎をしゃくる。

 こっ、怖ええよナチョ、と弱音を吐いてしまう俺に「大丈夫だ。お前もやれるって!」と頷いてくれた。

 ハッとした。世界に色が戻る。ロケーションは全く同じ、ただ細かいポイントが異なっているだけ。俺の心を引き戻したのはアルフの「うわっ、わっ!」という叫びだった。

 調子に乗っていた小僧は大きなカーブを曲がれず突っ切ってしまい、鋪装の無い地面に乗り上げてしまっていた。そしてその先は、断崖の、海。

 急ブレーキをかけた小僧の自転車がかしぐ。さらに小さな岩に引っかかり、車体だけ残して軽い小僧の身体が飛んだ。

 きゃああああ!

 アルフの顔が全部口になる。肩の向こうに真珠色の波が寄せる海面がある。

 自分でも信じられない速さで俺は追いついていた。アルフのシャツを強く鉤爪で貫き、うっちゃりをかますようにして陸の方へ投げ、自分も転がり草を手がかりに慣性の斥力の勢いを殺す。

 カラカラカラと車輪が回っていた。俺はそれを横目に、酸素を精一杯肺へと送り込みながら大の字に手足を伸ばす。

 これはあの夢の続きだろうか。俺は空に手をかざした。指の間からぶつぶつ沸かされたオリーブ油のように厳しい太陽が漏れてくる。破壊するだけじゃない、掌を広げたら守ることもできるじゃないか。

 たとえ一つだけでも構わない。たった一人のためでもいい。大切なものを、俺はもう、離さない。

 本当だ。ナチョ。お前が言った通り、俺にもまだやれることがあるんだな。

 しゃくしゃく下生えを踏んで小僧が来た。

「おじさん、自転車、曲がっちゃった…」

 びくびくしながら上目遣いで指差す。

「ああん?」むっくり肘を立てれば、哀れ自転車はホイールを支える棒が何本かひしゃげてしまっていた。「ちっとたわんだぐらいじゃねぇか、あれならすぐ直せるぜ。しょげるなよ」

 俺は立ち上がって小僧の頭をワシワシ握った。あややわやや、相手は目玉をぐらぐらさせる。

「再挑戦だな。とにかく乗れたんだ、次はもっと上手くいくぞ。一人で走れるようになるまで血ヘド吐いても特訓してやるからな」

「…なんかジャンおじさん変」

「変?どこがだよコラ」

「気持ち悪い」

 はああ!?とキレかける。狂暴な性根に発した電気信号が神経を流れ、筋肉に反応し、パンチの準備が整う前に屈託なく小僧が言った。

「パパみたいだよっ」

 ぎく、しゃくっ。関節が中途半端な位置で止まった。中華拳法のような珍妙なポーズ。

「あはははは!おじさん変なカッコぉ!」

 アチョー、ホァー!奇声を上げるアルフ。踊り跳ねるごとく手足をくねらせ、野原を駆け回る。

「この野郎、けったいな科白言いやがって!」

 待て!待たないよーん!俺の腕をピョイピョイかわしつつ、にしししし、と小さな犬人は嘲弄してくる。

 ああ、この感じ。懐かしくくすぐったい気持ちになってしまう。

「あら、またアルフを苛めてるの?」

 壮絶な追いかけっこの末に小僧のベルトを吊り上げ、こま抜いた腕に挟んだ頭を拳でグリグリしているところに背後から声をかけられた。

「なんだステラ、店を空けてていいのか?ランチの時間帯だろ」

 だから呼びに来てあげたんじゃないの、と海風に誘われてしまいそうなツバ広の帽子を押さえながら狐人は唇を突き出した。

「ジャンおじさん、今日は半ドンだから僕まだおお昼食べてないんだけど」

 俺はペシッと額をはたく。「忘れてた!そうか、今日は弁当持っていかなかったもんな、お前」つい練習に熱中してしまっていた。腕時計はもう一時を過ぎている。

「そうだよお。僕、もう結構お腹ペコペコなんだからね」

「ジャン、あんたこの子の後見人だって自覚がまったくもって欠けてるわよ。子供の手伝いじゃないんだから、常に配慮してひもじい思いをさせないでちょうだい。分かった?」

 分かった?アルフも偉そうなステラの態度をコピーする。

「っせえな、大体お前だって腹が減ったならそう言やいいじゃねえか」

「この子は言ったけど聞いてなかった…とか、そんなところなんじゃないの?」

 そうそう、そうなんだよ!と俺の腕の中から脱出し、アルフはステラの後ろに隠れる。顔だけニュッとのぞかせ、さえずることにゃ…

「おじさん僕がご飯にしようってしたのに『自転車買ってやったのは俺なんだ、文句ぬかすな逆らうな』の一点張りなんだもん。いつもそう!僕のことを全然ぜーんぜん認めてないんだよ。ステラさんからも言ってあげてよ、僕はもうなんでもできるんだからさ!」

 ほほう、生意気なことをぬかすじゃないか。だったらこちらにもそれなりの対応の仕方ってもんがあらあな。

 俺はおもむろに尻のポケットから小さく畳んだ紙を取り出した。どうせ『アマゾンの女王』に持っていくつもりだったのだ、今朗読したところで構うまい。

「え、おじさん、それ…」

 アルフの動揺が顔色に現れる。俺はにんまり唇をなめて切り出した。

「『ふたりのおとうさん アルフレード=コッレオーニ』僕には二人のおとうさんがいます。一人はパパ・イグナシオです。もう一人はジャンおじさんです。二人はとっても仲良しで」

「やめてぇぇぇ!」

「ステラ、つかまえとけ!」

 咄嗟の判断だが、狐人は子供の嘆願よりも大人の悪ふざけの方を選んだ。

 オー、ノー!ギャー!と、マジックショーで胴体を斬られて見せるアシスタントのように大袈裟にわめくアルフ。その前で、俺はレポート用紙に認められた作文を余すところなく心(悪戯に躍る)をこめて読んでやった。

 終わりの数行間近、ついにアルフはステラの細腕を振り切り、俺の臍のあたりに殴りかかった。

「バカバカ、無神経!もぉっ、ジャンおじさんなんか大嫌いだ!」

「おっ痛、そこぁ縫ったとこだろが!てめえいい度胸だオラかかってこいや!」

「二人ともやめなさい!折角いい感じの話なのに!」

 やっかましい、女が口を出すんじゃねえ!なんですってぇ!?

 …とまあ、グダグダな感じではあったが、最終的に俺がとっちめられる形で落ち着いた。どうせ悪役なんだ、ステラに引っ掛かれようがアルフの怒りを買おうが知ったことか。

 イグナシオと開くはずだった探偵事務所。今はあいつの代わりに、その息子がいる。いや。居てくれるー…

 俺はこの頃こう思うようになったんだ。俺達大人の成熟した易しい世界と子供の誤魔化しが効かない世界は違う。あいつらは純で、ギラギラした毎日を迎えにひた走る。だから共にいることで俺達はんじゃないか…過去の傷を癒せはしなくとも、うまく折り合いをつけられるんじゃないか………なんてな。

 柄にもねぇか。忘れてくれよ。忘れろ!

 話が脱線しちまった…お、そうだった。これだけは憶えていてくれ。

 ここまで読んでくれた奴ならばこそ、頼まれて欲しいんだ。

 俺の相棒、アルフの父親は1年前に誰かに射殺された。その犯人の足取りを探す手がかりがまだまだ足りなくて難儀しているんだ。

 あのな、だからって俺が無能だとか考えるなよ。こちとら名の知れた探偵になっちまったお陰で、客が床にぬかづいて依頼に来るようになっちまったんだ。ゆくゆくはイグナシオの事件の捜査に繋がっていく可能性がある手前、無下に断るわけにもいかねぇだろ。

 それに過去に遡って証拠や証言を集めるのは、小説や映画と違って必ずしもかけただけの時間に見合う成果があるとは限らない。また反対に、ひょんなことからあれよという間に真実に辿り着けることもある。

 だから、な?ここひとつ俺の話を聞いてくれたよしみに、気にかかってることでもなんでもいい、そっちの考えを聞かせてくれ。

 そんじゃあな!

 あ?アルフが読まれるのを嫌がったもんが、何だったのか、だって?

 おいおい、あんなもんが気になるのかよ。やめとけって、糞つまんねぇぞ。

 え、ならなんで額に入れて壁にかけてるかって…目敏めざてぇやつだな!分かったよ、勝手にしろ。でもアルフには教えるなよ、俺がわざわわざ飾り道具まで買いそろえたとか、あいつにしゃべりやがったらぶん殴るからな。

 はあ?だぁから俺が紅かろうが蒼かろうが、それは関係ねぇだろ!?大の男の面をジロジロ眺めんじゃねぇや。

 もう行くからな!さっきの要件、ヨロシク頼んだぜ!





レポート用紙。右上に担任教師のチェック(赤文字)が入っている。講評には「とても素敵なご家族ですね。アルフレード君が大好きに思う気持ちがよく伝わりましたよ」とある。


『二人のお父さん』アルフレード=コッレオーニ


“家族のことを書こうとしたとき、僕は「大変なこと」に気がつきました。

 僕には二人のおとうさんがいます。一人はパパ・イグナシオです。もう一人はジャンおじさんです。二人はとっても仲良しで、親友です。

 本当のお父さんのパパ・イグナシオは、天国に行ってしまいました。今はいません。バイクを乗り回してすごくカッコいい刑事さんでした。たくさんたくさん手がらをたてて、悪い人をつかまえていました。

 悲しくてさびしかった僕は、たくさん泣きました。そうしたら、ジャンおじさんが僕を育ててやると言ってくれました。

 だから、ジャンおじさんと僕は今いっしょに暮らしています。ジャンおじさんは、すごく大きいのですが、乱ぼうです。だけどやさしいです。だけどそう言ったら怒ると思います。

 ジャンおじさんは自分にできることは僕に教えてくれるし、僕が本当にピンチになったとき、迷わずかけつけてくれるのです。この間、そういう人を『育ての親』と言うのだと国語でやりました。だからもう一人の僕のお父さんは、ジャンおじさんなのです。

 パパ・イグナシオもジャンおじさんも、僕には大切なお父さんたちです。二人のいいところを合わせたら最強です。だから僕は、将来は警察官の探偵になりたいです。悪い人を調べて、どっさりつかまえるのです。

 僕は早く大人になりたいのですが、ジャンおじさんは「高校を出るまではがきのうちなんだよ」と笑いました。あと三回卒業式をする計算なので僕は尻尾を長くしてがまんしようと思います。

 このお父さんとくらすのは、とてもとても「大変なこと」なのです。



おわり

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