騎士団長城の亡霊事件~サイドB~アルフレード編


 その日、5月15日金曜ー…

 ジャンカルロ=デッラ=レグルス探偵事務所前の古色蒼然たる石畳の道に、カルバンクラインの革靴が底を打つカツカツという音が響いた。僕…ボーダーコリー系犬人のアルフレード=コッレオーニは、事務所兼住居として間借りしているオンボロビルの二階の窓枠に両肘をつき、ぼんやり道を見下ろしていた。

 僕とおじさん…私立探偵ジャンカルロ=デッラ=レグルスが寝起きする部屋の壁には、僕がパパと昔住んでいた家から持ってきたディズニーの掛け時計がスペードの短針で午後1時を示している。

 はじめは左目の隅っこに、磨き上げられた水牛の皮がピカピカと照り返す太陽光線が差しただけだった。

 その音は、いつもこのぐらいに丘の上の農場に続く坂道をのぼってくる、卵や牛乳売りの帰りがけのトラックでも、キュコキュコとベビー靴を鳴かせている農場の小さなベロニカの駆け足でも、くたびれた履き古しのサンダルしか使わない近所の人達の足どりでもなく、いかにもキビキビした響きだった。僕はなんだか胸がドキッとして、思わず窓から身を乗り出してその足音の主を確認せずにはいられなかった。

 パレルモのごたごたした下町に似合わない人物が、陽炎に揺れる道の彼方で顔を上げた。

 まるでアメリカの映画に出てくるような、黒に銀の縞の流れる洒落たスーツの男の人だった。やや歩調を緩めて額に手をかざすその人と僕は、目が合っただけで互いに相手を待ち受けていたことを悟った。

 その人は少し短めでクシャクシャだけど逆にカッコいい髪を掻き上げ、遠目にこの事務所の看板を確かめて、ニッコリ笑った。雑種系の虎人で赤っぽい毛皮、右目が黒で左目は青。僕は興奮で尻尾がピンッと立つのを感じた。

 虎人の男の人は、広い道をこっちの建物側に寄って歩き始める。もう間違いない!

「ジャンおじさん!お客さんだよ!」

 僕は大きく叫んで、おじさんの巨大なベッドと僕のリンゴ箱みたいなベッド(というか、本当にリンゴ箱でおじさんが作ってくれたベッドなんだけど)の間を走り抜け、部屋を飛び出した。

 これが、僕がレグルス探偵事務所に来てから最初に体験した事件の幕開けだった。



「やあ、ずいぶん可愛い探偵さんだね。ここはレグルスさんの事務所で間違いはないかい?」

 近くで見るとすごく整った顔のその虎人は、高い背中を折るようにしてイタズラっぽく僕にウィンクした。

「はい、じゃなくていいえ、えーと、僕はアルフレード=コッレオーニといいます。助手です。おじさ…探偵のジャンカルロ=デッラ=レグルスの事務所は階上うえです」

 どうぞ階段を上がってください、と勧めながら、内心「うわぁ僕緊張してるぞぉ…」と呟いていた。

「ありがとう。アルフレード君だね。私はロレンソ=セルバンテス。ロレンソでいいよ。二階に行けばいいんだね?」

 僕の先に階段を上がるとき、ロレンソさんは少し足が突っかかっていた。どこかケガをしているんだろうか。

 助けてあげようかな。

「あの、僕、手を貸してあげるよ」

「ん、いや、大丈夫だよ。良い子だね…」

 背中をねじって僕を振り向いたロレンソさんの上着の中から、何か平たくて固いものが落ちてきて僕の額に命中した。僕は「あてっ」と声を出しちゃった。

「何か落ちたよ」

 目をしぱしぱさせてその『何か』を探す。一番下の段に、厚めのシステム手帳が開いたページを被せるようにして引っ掛かっている。

 ロレンソさんはハッと息を飲み、「すまない、自分で取るから」と駆け降りようとして急にやめた。左のくるぶしらへんが痛いらしく、手摺につかまって片足を先に踏み出した体勢のまま、身を低くして押さえている。

「あ、僕取るよ!」

 僕はサッと素早く降りて手帳を拾った。別に良い子アピールしようとかいうんじゃなくて、当たり前だから。

 裏返してみると、几帳面なペン運びで細かい文字や図のようなものが書かれている。記号とか単語つづりからしてフランス語かスペイン語だと分かったけど、他はさっぱりだ。

 一つだけ、両ページにまたがる図だけは印象に残った。

 ページの分け目を中心にして、左右の広がる大きな丸。下からは真四角の台が支えている。その中を縦横に走るのは、小学校で理科の時間に観察したモグラの巣にそっくりにウニョウニョした太い線。

 そんなに長い時間じゃなくて、せいぜい十秒ぐらいだったけど、しびれを切らしてロレンソさんが叫んだ。

「早く、返してくれ!」

 あ、またやっちゃった。本とか字が書いてある物があるとつい読んじゃうから、ジャンおじさんにも「人が読んでる記事とか手紙を横から見るな」って怒られるんだ。

「あ、ごめんなさい、何かすごい色々書いてあるけど」僕は階段を戻りかけて言葉に詰まった。「…何て…書いてあるの…」

 僕が思わず凍りつくぐらい真剣…というより怖い顔で、ロレンソさんが手を突き出している。

「それはとても大事なものなんだ」

 おじさんとか小学校の友達が怒る時の、毛皮を立てるような単純な反応じゃない。もっと重くて、きつい薬品みたいにヒリヒリして、煮えたぎった何かがロレンソさんの体の表面からと溢れていた。

 差し出すと、テストの答案を見られたみたいにパッと掴んで服にしまった。

 これは何なの?という質問はできなかった。やっぱり勝手に見たから怒ったんだよね。

 二階の踊り場のすぐのドアをノックする。返事は無い。代わりに僕が前に出る。

「ジャンおじさん!お客さんが来たよ!」

 と言いざまノブを引く。途端にもうもうたる紫煙の塊が、部屋の中から土石流のように溢れだした。

「お、おじ、ゴホ、おじさっ、エッホゲホゲホ、もう!」

 僕は気体だか物体だか区別できない煙のジャングルを掻き分けながら、なんとか窓に辿り着き、死に物狂いで鉄枠のガラス窓をバシン!と開放した。

 喉が痛む。涙が出る。咳が止まらない。

 地獄のような数秒間。海からの風がよどんだ空気をすすぎ清めてくれた。

 まだ薄暗く煙っている事務所の真ん中に、すっかり木目の傷んだ勾玉形のデスクが浮かび上がる。葉巻の燃えかすがくすぶる真鍮の灰皿が載っていたので、僕は慌ててひっつかみ、窓から灰を撒いた。

 徐々に蛍光灯が力を取り戻すと、新聞や雑誌が散乱した床、デスクに対面して置かれた薄汚れた客用の椅子、雑多な置物に枯れかけの観葉植物、それから最後にデスクの後ろでほぼずり落ちた格好で椅子にもたれ、足をだらしなく投げ出してイビキをかくシベリアンハスキー系犬人の大男が姿を表した。

 くすんだ叢雲みたいな灰色と濃紫の毛皮、麦の穂型の生い茂る眉。ぐうがあと大イビキの合間には牙を剥き出しにしていて、歯を磨いてない口臭が殺人的!

 僕は鼻を塞ぎ、咳こみながらトテトテと眠りこけているジャンおじさんの近くに行き、毛皮にブラシをかけていないバサバサ頭の横にとんがる耳の辺りで言った。

「おじさん、お客さんだよ。お仕事だよ」

「アゥっふにゃふにゃ…2-3番かぁ?よぉし今度こそ一等とってこいよ…俺ァ有り金全部だぁ…」

 多分、競馬の夢を見ているんだ。僕はロレンソさんを振り返って「ちょっと待っててくださいね」と断り、ポケットの中から電動式の蛇のオモチャを取り出した。

 スイッチを入れる。ジーコジーコとうねり始めたそれを、ぷちゅぷちゅ唇を鳴らして寝言を漏らす犬人のワイシャツの背中に投下した。

 おじさんのギョロ目がグワッと切り裂けんばかりに見開いた。

「うっ…どわぁお!!」

 ビリビリ空気が震動する。

「ななななな何じゃこりゃあ!!」

「おじさん、お客さんだよ」

「とっ、取れ、取ってくれ、くそぉ背中に手が回らん!」

 おじさん最近太ってきたんじゃないの?とズボンの方から手を突っ込んで僕の『ガラガラ蛇1号』を抜いてあげた。すぐに特大のグーパンチが「がすん!」と頭に降ってくる。

「痛ったぁ!」

「痛いじゃねぇ!普通に起こすってことができねぇのかてめぇは!」

「だってそう言っていつも起きないのは自分じゃん!それでまた『もっと強烈に目を覚まさせろ』って怒るじゃん!」

「だからってンなモンを俺様の服に入れるな!すげえ気色悪かったぞ!」

「あのー、ちょっとよろしいですか」

 くちにハンカチを当てたロレンソさんが、同じレベルで言い争う僕とジャンおじさん二人の間に控え目に割って入ってきた。

 あ、忘れてた。この人がいるんだった。

「なんだあんた、どこの集金だ?……確か酒屋は一昨日払ったな…家賃は丁度昨日だったし…あ、ステラの店か!あいつ、やけに男前なやつを雇ったなぁ」

 しわくちゃな財布を覗き込みながら「うーん厳しいなぁ」と頭を掻く犬人に、虎人は苦笑する。

「私はツケの取り立てではありませんよ」

「へ?じゃ一体全体どなた様?」

「だから、お客さんだってば!待ちに待ってた大事な大事なお客さん!」

「私はロレンソ=セルバンテス。今日は貴方に依頼があって参りました。これが名刺です」

「あー、こりゃどうも」

 体の大きさ(主に横幅)では勝っているけど、依頼と聞いてへりくだるおじさんの隣から、僕も伸び上がってロレンソさんの名刺を読んだ。

‘‘ボルヘス家専属家庭教師 ロレンソ=セルバンテス

                   考古学博士’’

「ジャンおじさん、これなんて読むの」

「こうこがくはかせだよ。昔の、んー、例えば古い遺跡やなんかを調べたり掘ったりする人の事だな。それから俺をおじさんて呼ぶな、お兄さんだ」

 後の半分はどうでも良かった。「じゃあピラミッドとかする人だ!」そうと分かるとロレンソさんの周りがイルミネーションをつけてるみたいに一層キラキラして見える。

「まぁそういうこともたまにはあるけど、今はボルヘス家に雇われて主にお嬢さんの家庭教師をしているんだ」

「そうか!だからさっき手帳を見たら怒ったんだ!そうでしょ?」

「まあ、そうだね。私の宝物みたいなものだからね」

 僕はバツが悪そうに苦笑するロレンソさんの周りを跳び跳ねる。だって学校の先生より偉い人が依頼人だなんて、すごいもん!

「手帳?なんだアルフレード、お前まさかこの人に迷惑かけたんじゃないだろうな」

「ううん?違うよね、ロレンソさん」

「ははは、うん、そうそう」

 本当か?怪しいなあ、と眉をひそめているおじさんに僕は知らんぷりした。まったくもう、僕がいつもイタズラすると疑うんだから、うるさいなあ。

「で、なんでまたウチなんかに来たんだ?大事にしてるペットでも逃げ出したのか?最近多いじゃないか、カミツキ亀だかなんだか迷惑な動物が」

 テレビから抜け出してきたようなロレンソさんと比較すると、おじさんは居酒屋バルを巻く町のゴロツキみたいだ。その剣呑な逆三角型の眼を向けられて、上品な『こうこがくはかせ』さんは激しくかぶりを振った。

「いえいえ、そのような用事ではありません。ただもう少しその、あなたのような方からすれば詰まらない、下らないお話になるかもしれないのですが、私共にとりましては重大な問題となっていましてですね」

「…ま、そこに掛けて。落ち着いて話せや、な?」

 なんでか仕事をもらう方が強く出て、ああハイありがとうございます、とロレンソさんの方は恐縮して椅子に座る。

 僕はジャンおじさんから言われる前にコーヒーの準備をしながら、あれじゃあ清潔な服でこすれて椅子の方の汚れが落ちるなあと考えていた。

「ご相談したいのは、実は城に出る亡霊のことなのです」

「…ほほーぅ」

 切り出された台詞に、おじさんは思いっきり鼻白んでいるようだった。

「事の起こりは一月前、ボルヘス家のお嬢様が怪しい気配がする、城の中を誰か徘徊していると旦那様におっしゃったのが始まりでした」

 ボルヘス家は、シチリアはパレルモでも有名なお金持ちで、工場やオリーブ・オレンジの農場を幾つも経営している。世界不況の影響とかで、かつてほどの隆盛は失ってしまったが、今でも指折りの有力者に変わりはなかった。

 そのお屋敷は森深い丘の中腹にある古城を何年か前に買い取ったもので、社長であるボルヘスさんと病弱で学校にも通えない娘のエウリディーチェが住んでいる。

 そのエウリディーチェが、父親に「城の中に騎士の亡霊がいる」と訴えたのだそうだ。

「そりゃあれだ、よくある統合失調症ってやつなんじゃねえか?あんまり人付き合いの無ぇ閉鎖ヘーサ的な環境で育ったんで、気が細いとかのさ」

「いえ、それは違います」ロレンソさんは思いのほか厳しく否定した。「お嬢様は歳の割に聡明です。あえて言うなら…お母上を亡くされてから、不安になられてはいるようですが」

「不安?なんで?」

 クリッと頭を突っ込む僕に、ロレンソさんは優しく答えてくれる。

「お嬢様はお母上に似ておられてね。自分も同じように体が弱く生まれついているから、長く生きられないのじゃないか…そういう考えに取りつかれておいでなんだよ。まだ10才だというのに…」

「ええっ!?僕と同い年なのに?」

「ちょっと黙ってろ、アルフ」

 おじさんは僕の頭を丸ごと鷲づかんで脇にやる。子供だからって馬鹿にして、僕は置物じゃないやい!

「それでつまり何だ、亡霊とやらの正体を暴いて欲しいのか?」

 ああ話が早くて助かります、とロレンソさんは胸を撫で下ろす。

「とはいえ、真実この世ならざるものが存在するとは旦那様も信じてはおられません。勿論、私も。ただ小さな胸を痛めてらっしゃるお嬢様を慰められたいとのことで、お母上のいらっしゃる黄泉の国へ思いを馳せる原因を、その不安の根を絶ちたいとの思いからなのです」

「ああ、分かったよ。気のせいだろうがなんだろうが、その証拠がいるんだろ?」

「はい。お願いしても……」

 おじさんは身内の僕から見ても最高にイヤラシイ笑いを浮かべた。

「まず前金をもらおうか。そうだな、手付金として300ユーロをキャッシュで払」

 ドサ。デスクに無造作に札束が投げ出された。

「あ、手元が滑って、すみません。とりあえず2000ユーロ預かってきたのですが、これで足りないとなりますと…」

 言い終わる前に、おじさんはワタワタとお金を引ったくり懐に突っ込んだ。

「イヤイヤイヤ、受けたよ受けた、この依頼確かに俺様が受けた!あんたは見る目があるなぁ!大船に乗ったつもりでこの名探偵ジャンカルロ=デッラ=レグルスにドーンと任せろや!」

 この調子はあれだな。僕が御飯時にいつも聞いてるやつだ。「へへーんだ、この肉は俺様が唾付けたんだから俺様のもーのー!お前にはやんなーい!」と、おんなじだ。

「意地汚いなぁもぅ…」

「ン、なんか言ったか?」

「ううん何にも。それでロレンソさん、いつから調査を始めますか?」

「そうだね、なるべく早く、今夜からでも来てもらいたいんだけど」

「だってさ、おじさん」

「でしゃばんじねぇよ。じゃあ今晩6時、お宅まで伺うよ。どうかな?」

「はい!詳しくはまたその時にお話致しますので、どうかよろしくお願いします。…あ、あともう一点なのですが、できましたらお着替えを…」

「ああ、何日か泊まりになるかもしれんからな」

「はぁ。それもありますが、お越し頂く際も、できればその…正装…とまでは申しませんが、今のお召し物よりも、……きれいな格好で………」

 おじさんは、あ゛?と自分の服を見下ろし、トマトやバジルやカレーのソースがそこここに染みたシャツ、煙草のヤニで黄ばんだジャケットに納得した。

「あー分かった分かった、さすがに島一番の名士に会うのにコレじゃまずいからな。どうにかしてくよ」

「そうですね、お手数ですがそうして頂けますか。そちらは手付金ということで、交通費などの準備費用を含んでおります。後金には同額と、内容を確認をして必要経費を支払うように致します。ではこちらの契約書と領収書にサインを…」

「へいへいっと」

 札束ですっかり気を好くした犬人は、膨らんだ懐をいとおしそうに撫でつつ、ロレンソさんの契約の大事な説明もフンフンと鼻の下を伸ばして聞き流している。

「依頼を快諾して下さって本当に助かります。あと最後に、この件は口外無用ということでお願いしますね」

「もっちろん!」

 探偵と、自称その助手は同時に答えた。僕は胸を張ってハキハキと、おじさんは親指を立ててニンマリと。



 ロレンソさんを送り出してからが忙しかった。おじさんと僕は気が済むまで「依頼だ!依頼だ!初仕事だよ!」「やった!やった!カネだ金ウヒウヒウヒ」と、ひとしきり踊り騒いだ。

 それから三軒隣のクリーニング屋さんに行って、おじさんが店主の小太りな兎人の制止を振り切り、手近にあった洗濯も糊付けも終わっているワイシャツ3・4枚と紺色の背広を「後で返すから!」と奪い取った。

 店主の「ろくでなし!泥棒!」という罵声を背中に口笛を吹きながら店を出て、後ろめたさなんか露ほども感じてないおじさんは、「うっし、まずは腹ごしらえだ」と戦利品をハンガーに吊るして僕を町中に連れていく。

 町の往来でもひときわ目を引くのが、アクリル製だけども水晶とみまごうくらいの出来映えの薔薇をかたどる看板を掲げたレストラントラットリア、『アマゾンの女王』だ。

 その看板が夜になると、丸い枠と塑像に埋め込まれた光ファイバーが虹色に輝くのを見るのが僕は大好きで、外で遊んでからの帰りについ寄り道しちゃうんだ。

 『アマゾンの女王』は小ぢんまりした伝統的な家庭料理を出すレストランで、おじさんが昔から知ってるステラ=オノラーテさんが仕切っている。僕は「ステラさん」って呼んでるけど、青みがかった銀の髪の綺麗な女の人。

 ちょっと変わってるところが、ここで働いているのは全員女の人だというとこ。中には「ついこないだまでは男だった」って人もいるらしいけど、それがどういう意味なのかはよく分からない。

 おじさんは基地でガソリンを補給する戦闘機みたいにガバガバ食べて、僕にはミルクを飲ませて自分はお酒をたくさん注文して(仕事前なのに)、ツケも返した。「ちょっくらションベン」て言ってしばらく席を離れている間に、僕はお姉さんたちのオモチャにされて大変だった。

 ご飯の後には事務所に戻って、おじさんが中古で買った日産を二人がかりで洗車して、ソファーに横になったら眠くなり僕は少し昼寝をした。

 40年くらい炭鉱で働いてきたおじいちゃんの空咳みたいなエンジン音で目が覚めた。

 一階ガレージに降りたら、間に合わせながらサイズの合った背広にパリッとしたワイシャツに青カビ色のスラックス、蝶ネクタイを締めた犬人は今まさに出発しようとしていた。

「おぅアルフ、やっと起きたか」

「うん、僕も用意するからちょっと待ってて」

「お前は留守番だ」

「………え?」

「だから、お前は連れていけないの!るーすーばーんー!分かったか?」

「な」僕はおじさんの横っ腹に飛び付いた。「なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで!」

 ジャンおじさんは、「あーもぅガキはこれだからな」と僕の衿を指でつまんで自分の顔の高さまで持ち上げる。

「いいか。俺様はこれから仕事に行くんだよ。タマキンに毛も生えてねぇようなガキが遊びに来るようなとこじゃねぇんだ。明日と明後日は土日で朝飯の用意もする必要ないから、適当なモン食って勉強でもして寝てろや。な」

「なんだよ。いつもは僕が宿題してると『クソの役にも立たない』って言うくせに!」

「口ごたえすんじゃねぇ。いいからここにいろ」

「…そう。それなら分かったよ」

 おじさんは、にぱ、とわざとらしい愛想笑いをする。

「よしよし良い子だ!大人しくしてりゃあ土産持ってきてやっからな」

「おじさんがいない間に、僕の友達呼んじゃうからね」

 か゜、と開いた口をそのままに、おじさんは固まった。

「学校と近所の子を皆呼んじゃうから。チョコレートパーティーやって家中ベッタベタにして、全部の壁に落書きして、陣地取り合戦やって、それからそれから…隠してるエッチな本のこととか町の皆に言いふらしちゃうから!」あ、もう一つ思い付いた。「ラウロも来させるよ、あのおねしょの治ってない『洪水ラウロ』だよ!おじさんのベッドが大変なことにぃ~…えへ、えへ、えへへへへ」

「てめっ…こっ……このや」

「でも、僕も一緒に行っていいんなら、静かに大人しくしてるよ?さぁどっち!」

「ぐっぐぬー!…ぐぐぐ…」

 おじさんの不吉なにび色の瞳が僕を睨んでいる。ボリンボリン歯軋りして、僕を地面に叩きつけた。

「…準備しろ」

「やったぁ!」

「だがなあ!もしお前が!俺の邪魔をしたり勝手に動いたりしたら!簀巻きにしてエトナ山の火口に叩っこんでやるから覚悟しとけよ!!」

「うん!」

 僕は元気一杯返事をし、急いでベッドの部屋に行き、必要な物を鞄に詰め込んだ。

「あ、これは絶対持ってかなきゃ」

 枕辺にあったパパの形見のメダルに紐を通してシャツの胸の中に忍ばせる。これは僕のお守り。

 ハンドルを苛々と指先で叩く犬人の横の助手席へ、当然のように飛び乗るまではほんの15秒。

「シートベルト着けとけよ」

 言われた通りにすると、中古の日産は道路に噛みつくみたいにタイヤをギャルルルッと唸らせて走り出す。

 目指すはボルヘス家のお屋敷、土埃と排気ガスの旧市街を抜けて緑の丘へ。

「いざ!騎士団長城カステッロ・コマンドーロへ!」

「おー!」

 両手をバンザイして叫ぶ。服の中でメダルがキィンと鳴った。



 オンボロ車を走らせてようよう30分。森に守られたように建っているボルヘスさんの屋敷は、バカみたいに大きなお城だった。

 円形の噴水がしつらえてある車寄せに降りて、僕は上を見切ろうと背すじをグーッと反らした。反らしすぎてコテンと後ろにこけた。

「どこまでが土台でどこからが屋根か分かんないね」と言ったら、おじさんは「そりゃお前がチビだからだ」って口髭を歪めた。

 僕はこれから大きくなるんだから!…そう反論して少しだけ不安になった。だって僕は、パパに似てるもの。パパのことは世界一尊敬してるけど、死んだときもそんなに背が高くなかったんだ。

 おじさんがブザーを鳴らして待つ間、僕は注意深く周りを観察する。今日は僕の初仕事だもん。

 屋敷…お城の前には噴水の他に小さな花壇やベンチがあって、なんだか公園みたいな感じ。今来た道がズーッと真っ直ぐに町の方へ続いていて、もじゃもじゃした木々のトンネルができている。夏至祭の時季だから陽が高いのもあるけれど、明るくて気持ち良くてのどかで、「お化けが出る」って言われてもピンと来ない。

 でもそれは普通の人の考え方。僕は探偵(助手)だから、鵜の目鷹の目、観察観察。

 辺りにはこれぐらい敷地の規模があれば植える筈のオレンジやオリーブの樹が一本も無いこと、花壇の隅がほじくり返されて球根が覗いてること、どこか近くで誰かが透き通った声で歌っていることが分かった。あと肉を焼いてる良い匂いが漂っていて、早速お腹が減ってくる。

 そんなこんなをおじさんにも教えてあげたら、目一杯僕に顔を近づけて「ハ!」だって。吹き飛ばされそうな勢いだった。

 僕を放っておいて、後で泣きを見ても知らないから!

 城全体を再度確認してみた。プディングを逆さにしたみたいな巨大な一棟と、長方形を地面に突き立てたような見張り塔がそれにくっついているだけ。

 すごいお堅い印象だけど、高いところには窓がたくさんある。中には色つきガラスを嵌めたステンドグラスも。あれは、もしかしたらチャペルかな。建物を幾つも付随させるのではなく、シェルターみたいにひとところにまとめてしまったのかも。

 アフガンハウンド系のメイドさんが玄関の大扉を開けてくれたので、すぐに中に入ることができた。

 案内されながらキョロキョロ見回している僕に、メイドのお姉さんが「ボク、あんまり面白がってつまづかないでね」とにこやかに注意してくる。

「ねぇ、このお城ってどれぐらい昔に建てられたの?百年ぐらい?」

 えーと…と言いよどむメイドさんの代わりにおじさんが面倒くさそうに答える。

「六百年だよバーカ。たかだか百年なわけないだろが」

「だってさだってさ、全然汚くないし壁はツルツルだし、なんか中身が普通でホテルみたいだよ?」

 入り組んだ廊下を進むうち、もう既に方向感覚は無くなっていた。それほどに広大ではあったけど、天井が高くてうなじがする以外は、城の中があまり平凡すぎて拍子抜けしてしまったのだ。

 こういう建物なら先祖の肖像画がたくさんかかってたり、狩りの獲物の剥製とかとか壺とかどっさり鎮座してると思ってたのに…

 どこもかしこも淡い黄色の漆喰でならされた壁に杉の腰板、赤い絨毯が敷き詰められたタイルの床、眩しすぎる照明。所々にはテーブルに花瓶、ヌイグルミや飾り皿…なんだかまるで…

「テーマパークにいるみたいだ、って言うんでしょう?」

 私も時々そう感じるから分かるわ、とメイドさんが振り返る。

「でもね、それは旦那様が買い取ってから内側を徹底的に改築したせいなのよ。石造りの外面だけはそのままで、中には電気と水道のケーブルも光ファイバーもばっちり通ってるんだそうよ。昔の写真を見たことがあるけど、中はボロボロだったみたいね」

 ずっとムッツリ考え込んでたジャンおじさんが、バハァ、とわざとらしい溜め息をいた。

「あんなぁ、それでもシチリア人シシリーかよ…お粗末だなぁ」

 って、ジャンおじさんは苦笑いをして自分の耳の後ろをボリボリ掻く。

「ここはなぁ、もとはスペイン統治時代よりもずうっと前に、東ローマ人が建てたイスラム勢力に対するキリスト教徒の防衛拠点だったんだ。んで、ロードス島やらマルタ島やらが地中海の覇権争いに巻き込まれてた時代の…確かマルタから敗走してきた聖ヨハネ騎士団のスペイン分団長が最後の主で、シチリアがイスラムに征服されてからはカラの城だった筈だぞ」

 かいなを組み、講義するみたいに得意気にくどくど説明を追加する大柄の犬人。お姉さんは大袈裟にはしゃいで両手を叩いた。

「へー、お詳しいんですねー!だから『騎士団長城カステッロ・コマンドーロ』っていう名前がつけられたんだー!」

「ぬぁっははは。高校じゃあ中世史が得意だったんだ。しかしあんた、この辺の出じゃないのか?この辺に住んでりゃそれこそ常識だろうに」

「それがあたし、そういうのが苦手で…高校もろくに出席してなかったんで。さっきボクに話したのも、セルバンテスさんに聞いた知識の又借りです。あの人ホラ、学があって歴史に詳しいでしょ」ペロッと舌を出す。なんか、可愛いっていうか、面白い感じの人だ。「ここには親戚のツテもあって、ひょんなことから潜り込んだの。叔母が厨房でシェフをしているんですよ」

 僕は今出た話にピンときた。

「じゃあ騎士の亡霊っていうのは、その戦いで死んだ人かな」

「そうかもねー、怖いわねー」

 おじさんは片眉を上げて、お姉さん…アガティーナさんっていうらしい…に幾つか質問(というか冗談)をする。ビーズを入れた袋を振ったみたいに陽気に笑うアガティーナさんを、仕事そっちのけでナンパするんじゃないかと僕は心配になった。



「この胡散臭い大男が、有能な探偵なのか」

 開口一番、肥った黒豹系の人…パルダッサーノ=ボルヘスさんはピシャリと言い放った。

 執務室の入り口で僕らは、鉛筆の芯より黒い毛皮に埋もれた疑り深そうな瞳で睨み付けられた。

「ふん。まるでヤクザだな。ロレンソ、貴様の推挙だが間違いなかろうな。信用できるんだろうな」

「はい、それはもう」

 ロレンソさんが平身低頭のていでハンカチを握り、こめかみをしきりにぬぐっている。

「こちら、ジャンカルロ=デッラ=レグルス氏は警察署に勤めてらっしゃいまして、敏腕かつ清廉な警察官と名高かったそうです。退職なされてからも市民の警備など安全に関わるお仕事をなさってまして、個人事務所ではありますが…その、守秘義務を徹底されている方です」

 うわー、なんて誤解………

 僕は胸の中でそっと一人ごちた。

 ロレンソさん。それは間違いにもほどがあります。

 おじさんは確かに昔パパと同僚の警察官でした。でも警察を辞めた理由は「めんどかったから」って、こないだの晩酔っぱらって言ってました。

 確かに警備みたいなこともしています。というか、アルバイトばっかりしてるんです。どうしてかっていうと、探偵の仕事があんまり無いんです。ハナクソをほじくっては窓の外に狙って弾くのが最近の暇潰しです。

 口は軽くはないけど、お酒が入ると保証できません。浮気調査をしてて、当の本人にご飯とお酒をおごられてペラペラしゃべっちゃって、水の泡になったことがあったそうです。これは、おじさんからじゃなく『アマゾンの女王』で夕ごはんを食べたとき、ステラさんから聞きました。(おじさんが「余計なこと言うな」って三時間ぐらい二人は喧嘩してました)。

「わっはっはぁ、いやぁまさしくその通り!自分、曲がったことが大嫌いでありまして、お嬢さんの懸念をば晴らしに参りました!言うなればまあ、正義に燃える十字軍の気持ちですな!」

「え゛」

 おじさんのどこが正義、と言いかけたら、肩の辺りをギュリッとつねられた。

「………!」

「そっちの少年ラガッツォは」

「これは私の友人の息子なんですがね、理由ワケありで私が預かってんですが…離れると寂しがって泣き喚くもんだから、不承不承連れてきたんで。なぁ、機嫌は直ったか?」

 スマイルマークのピンバッジみたく口角を上げたシベリアン系の表情の中、死んだ魚のように奥の無い目玉にはこんな字幕が明滅していた。

“分かってるなアルフレード。余計なことを言うなよ?儲け話をフイにしやがったらテメェ、ぶっ殺すぶっ殺すぶっ殺す!!”

 …子供を脅すんだから、やな大人だなぁ…

「ウン、一緒ニイラレタラ僕モウ平気ダヨ。優シイ・ジャンカルロオジサン・大好キ」

 切り張りのようなセリフを言いながら、僕は相手の背後に手を回してカギヅメを出す。お返しとばかり肉にえぐり込んだ。

「ッゥガッ!!」

「どうしたんだね」

「イ、イヤ、ちょっと、なんでもありやっせん」

 クライアントに対しての建前上、ニッコリと僕らは笑い会う。裏側では互いに激しく攻撃しながら。

 この「子供と仲の良い善人」アピールは功を奏したようで、ボルヘスさんの雰囲気が少しだけ和らいだ。

「まぁ、契約を交わした以上はレグルス、貴様に任せる。城の内外は自由に歩き回って構わんが、そこらには防犯システムがあるからな。ロレンソによく聞いて、引っ掛かるようなことがないように。それと、この執務室には勝手に入るんじゃないぞ」

「ロレンソさん、ボーハンって、どんなの?」

「電気網やシャッターとか、その他にも泥棒けの危ないものが結構あるんだ。けど安心してね!そういったものは私が教えてあげから」

 やった、なんだかだんだん仕事って感じになってきたぞ。

 その時だった。

「お父様…」

 僕のモノトーンの長毛が逆立つような涼やかな声だった。

 いつの間にか、僕達の後ろのドアが細目に開いていて、廊下から風が吹き込んでいる。その隙間から、雪より優しく軽い白い柔毛にこげがそよいでいた。

「私も、そちらに行っていい?」

「おお、エウリディーチェ、エウリディーチェ、お前はこんなところに来なくていいんだぞ。部屋でおとなしくしておいで」

 声のぬしは、不快の色を込めて言った。

「でも、もともと私が言い出したことだもの。探偵さんがいらっしゃったんなら、ちゃんと説明しないといけないわ」

「いや、お前は……」

 有無を言わさず、その子は入ってきた。僕は少しの間息が止まった。

 この世に生まれて10年、こんな美しさを持った猫人は見たことない。

 神話の雌牛のミルクの毛皮。ふわふわしていて、光の塊を戴いているような流れるハニーブロンド。やや突き出た、滑らかな額。繊細な眉と大きな瞳は少し丸い鼻とあいまって、僕からしても「将来美人になりそう」と思わせる。

 その女の子が僕を見て頬をほころばせた。なんでか急に部屋が暑くなって、額から汗が吹き出て、僕はぼうっとなった。

「あの…あなた達が探偵さんですか?」

 直立で凝固してしまう僕。隣でジャンおじさんが恭しく立て膝になるのを感じる。

「どうも、小さなレディ。俺はジャンカルロ=デッラ=レグルス、君の見たものの正体を調べに来た。こっちのチビは、まあ…オマケ、かな。おいこら、挨拶しないか」

 背中を強烈にはたかれた。

「あっえっ、うん……」

 女の子の海の色が映ったような瞳が、じっと僕を見てる!

「いっ、えーっとね」なんでなんだろう、心臓が暴れてる?「ぼ、ぼ、ぼ、ぼ」

「ボボボ…?さん?」

「あっ違うよ、ええとね」息を吸って、握りこぶしを作る。「アルフレード=コッレオーニ、僕は、君と年も同じだよ」

 うう、なんだか舌が回らないや。

 女の子は長ぁい睫毛を震わせて、驚いたような嬉しいような顔をした。

「あなた達…星の名前を……」

「え?何?」

「ううん、ちょっと気にかかっただけ…だけど」スカートの裾をつまんで膝を曲げ、ふぅわり、と貴婦人の礼をする。「初めまして、私はエウリディーチェ=デッラ=ボルヘスです。宜しく」

 首を左にかしげるように、また微笑む。

 ああ、なんだかこの子の周りだけ空気が違う。それにキラキラしてる…

 エフン!とおじさんの咳払いで僕は現実に引き戻された。

「ではまず、お嬢さんのお話を伺いましょう。こちらの部屋ではない方がよろしいですかな?」

「ああ、ではそうしてくれ。わしはまだ仕事が済んでおらんからな。おいロレンソ」

 ボルヘスさんの号令。阿吽の呼吸でロレンソさんは頷く。

「はい、では応接室に参りましょう」

 うちの探偵事務所とは段違いに広い、立派な家具がたくさんある応接室の窓からは、夕暮れになりかけの生い茂る丘の緑が眺められた。多分西向きなんだろう、溶け落ちる巨大なロウソクのような太陽が窓枠をこすっている。

 僕とおじさんはソファに、ロレンソさんは左手の一人用の椅子に、エウリディーチェは対する形で僕の真正面にいた。東洋の絹で包んだ花束を置かれたみたい…(後でおじさんに「デレーンとして、みっともなかったぞ」って言われた。自分じゃそんなにヘラヘラした覚えはないんだけど…)

「さて、嬢ちゃん、に見たものをそのまんま話してくれるかな?」

 厚かましいジャンおじさんの言葉に、エウリディーチェはこっくり頷いて語りだした。

「私は、お母さんを10ヶ月前に亡くしました」

 エウリディーチェの言葉がちょっと止まる。前髪が青い真珠のような瞳に影を落とす。あー、可愛いなぁ…

「続けてくれ」とハスキー系犬人に促され、また話を続ける。

「……それから、夜眠れなくなって、時々ベッドを抜け出て城の中を歩いては長い時間を過ごしていたんです」

 そうなんだ。僕が一緒にいたら、話し相手になってあげるのになあ。

「おい」

 あ、でも夜は女の子はちゃんと寝た方がいいんだよね。ステラさんが夜更かしは美容ビヨーに良くないってこぼしてたし。おじさんはよく徹夜でサッカー中継見てるけど、そもそもブサイクだし…

「おい、アルフ、うるせぇぞ」

 おじさんが僕の耳を引っ張った。

「え!え?」

「ぶつくさッてんじゃねえや。黙って聞いてろ」

 え、まさか僕、しゃべってた!?

 あわてふためく僕を、エウリディーチェは楽しそうに眺めていた。カーッと顎の先まで血が昇る。恥ずかしくて死んじゃいそうだよ…!

「悪いね嬢ちゃん、コイツあんたが可愛い娘カワイコちゃんなもんでな、舞い上がってんだよ。気にしないでくれや」

 ばしばしばし。強く襟足を叩かれる。いやなこと言わないでよ、デリカシーが無いな!

「んで、その亡霊ってのは、そうやって城の中を散歩してて見たのかい?」

「あの…最初にあったのは、声なんです」

「声?」

「…大体一月位前なんですが、夜中に鋭い悲鳴みたいなものを聞いたんです。私はびっくりして寝室に引き返して、ベッドに潜り込みました。次の晩は何も起こらず、きっと自分の聞き違いか気のせいなんだと思っていました。でもそのうち、ほかの音がするようになって」

「ふんふん、そりゃどんな感じだい」

「何ていうか…こう、カリカリというような音とか、固いものを叩いたりするような低い音がするんです。それもなんだか……」伏し目がちに壁の方を窺う。「あの…、城の壁の中からするみたいなんです」

「声とは全然違うんだね?」

 おじさんの問いかけに少女はコクンと頷く。ロレンソさんが、それに、とかぶらせる。

「お嬢様の他には、今のところ物音に気付いた者はおりません。私もですが…。セキュリティにも何も反応しておりませんので、この現象を見極めるために、お力添えを頂きたいのです」

 おじさんは懐に手を突っ込んでボリボリと胸板を掻く。

「それだけじゃないんです。私、壁に映った影もこの目で見たんです。つい一昨日です」

「でもお嬢様、ご覧になったとおっしゃる廊下の防犯カメラには、何も映ってはいなかったではありませんか」

 エウリディーチェの怯えに睫毛が揺らめき、口元を白い小鳥のような手が覆う。

「だから、亡霊なんです。騎士団の亡霊です。母国にも帰れず安息を得られない魂達が、機械の眼を欺いて、城の中をうろつき回っているのよ…」

 僕は思い切って尋ねた。

「それでいよいよ怖くなって、ボルヘスさん…お父さんに頼んだの?」

「うん……」

「その影って、どんな格好してた?どうして騎士だって分かったの?」

「まじまじ見たわけじゃないから…廊下の曲がり角に人影がさしてたの。低い声で何かスペイン語の呪いの言葉を囁いていて、まるで壁に吸い込まれたみたいにいきなり消えて…ドアも何も無い場所で、あり得ないことよ…私は足がすくんで、ただうずくまってたの」

「じゃあ、姿は違うかもしれないんだ…」

「どういうこと?」

「だってさ」僕は人差し指を立てる。「何も騎士じゃなくても、死んだら誰でも亡霊になるんじゃない?商人とか、農民とか、船乗り…はないかな、[[rb:陸>おか]]だし」

 ロレンソさんが、プッと横を向いて吹き出した。

「あれ、僕何かおかしいこと言った?」

「………いいからお前は…」

 はっ。こごった怒気を頭上に感じる。

「黙ってろ!!」

 どがすん!

 流れ星が1ダースぐらい、まぶたの裏にチカチカと閃いた。

「…で、そんだけかな?」

「え、ええ…あの…アルフレードは大丈夫?」

「あー平気平気。こんなの大したこたねえって。いつものことさ」

 嘘つき!充分大したことだよ!依頼人の前だからってカッコつけて…!と思っているけど痛すぎてセリフに出せない。

「嬢ちゃんの話はすごく参考になったよ。なぁに、2・3日中には解決してやっから、安心してろな」

 何かまだ言いたげなエウリディーチェだったけど、ロレンソさんが腕時計を見て「ちょうど夕食の時間になりました。お嬢様、食堂に参りましょう。レグルスさんとアルフ君には使用人の間で申し訳ないのですが、そちらにご用意をさせておりますので…」と促したので、僕とおじさんはアガティーナさんとその部屋へ、ロレンソさんとエウリディーチェは階上へと別れた。

 お城の台所と続きになってる漆喰壁の部屋には、アガティーナさんの叔母さんはじめ、ここで働いている人全員が揃っていた。で、ここでも僕は頭をしきりに撫でられたり(「あら、腫れてるわ。タンコブ?どうしたの痛いでしょう」「あ、それはジャンおじさんがね」「コイツが柱にぶつかっちまって、ぬぁははは」…てやりとりがあった)、ほっぺたを触られたり、しっぽの毛をブラシでとかされたり耳にリボンを結ばれたりで落ち着かなかった。

 おじさんは始終ご機嫌だった。そりゃ、大食らいの上に食いしん坊だから、雉だの兎だのゴチソウがテーブルに並べば嬉しいだろうけど、ロレンソさんやボルヘスさんのことばっかり聞いて、肝心の亡霊のことはあまり聞かないんだもん。僕は何とかしなきゃって思った。

 そう、僕だけでも。おじさんは頼りにならないしね。

 エウリディーチェのため、っていうのは全然……ううん、ちょっとだけ。ほんのちょっぴりは、あるけど。

 映画やテレビの探偵は、誰もがクールだもの。僕だってそうならなきゃ。



 それから僕は、おじさんに「宿題でもやってな」ってお客用の小部屋に押し込められた。そんなものとっくに終わらせてるよ。

「俺は見回りと調査で歩いてくる。先に寝てろよ」

「えー、何言ってるの?僕も手伝う!」

「お前みたいな◯◯は凸でも←→§∂⊇」

 あまりに口汚くて良い子には理解できない罵詈雑言。僕は乱暴にベッドに突き倒された。

「くれぐれも!ほっつきまわるよう真似はするなよ。いいな!」

 僕は、「ぶぶぶう」と唇を鳴らす。

「返事は!」

「分かったよ!」

 うるせえ!と大男はキレ気味に肩をいからせて出て行った。

 僕はしばらくふてくされて天井を眺めたけど、「よっし!」と気合いを込めて起き上がった。

 ベッドに寄り添うサイドテーブルに鞄の中身をドチャッとあけて、使いそうなものを選び出す。

 まずは、この事件用に持ってきた秘密ノートと筆箱。それから、ヨーヨー。大小のスーパーボール。着替えを少し。懐中電灯。オモチャのピストル、ちゃんと弾が飛ぶやつ。一生懸命集めたサッカー選手のトレーディングカード。小学校で流行はやってるアニメのニンジャの手裏剣。飛ばしたら、壁にかけてあった骨董品っぽい絵のカンバスに刺さってしまい、焦った。

「うわ、やばいやばいやばい」

 高価なものだったら弁償しなきゃいけないのかな…と考えたら、鬼の形相に変わったおじさんが頭に浮かんで、僕は予防注射を受ける前みたく血の気がひいた。

 フックから外して調べると、それはもう見事に、ど真ん中に穴が空いていた。

 もーダメだ。きっと、殺される…

 涙目になって、ため息とともに傷ついたカンバスを見下ろした。良いものかそうでもないのか不明なほど黄ばみ、くすみ、端の方は画材がカビを吹いている。

「…あれ?」

 画布の裂け目の下には、何か別のものがあるみたいだ。めくれ上がる所から全然別の材質の、たぶん羊皮紙の下地が見えている。そして何かアルファベットが書き付けてられている…。

 額縁を眼の高さに平行になるまで持ち上げて、空気の入ったカンバスが浮き上がる隙間に目を凝らすと、細かな文字が絵の裏に敷かれた羊皮紙にびっちり綴られていた。

 なにこれ。字ははっきりしてむしろ読みやすいんだけど、意味が全然分かんない。

 第一、なんでこんなとこに隠してあるんだろ。手紙かな?ひょっとしたらラブレターを人の目から遠ざけたとかかな?それとも秘密の暗号とか。

 …暗号!

 その単語は僕の頭のメインエンジンに点火した。

 だとすると、これ、すごいことなんじゃない!?

 僕はテレビの探偵ものやスパイものの映画を思い浮かべた。

 冷静に考えなきゃ。これは誰に見せればいいかな…もし、もしもただの絵だったりしたとしても、破っちゃったんだから謝らないと…

 ちょっと目を閉じて考える。さっき会ったばかりの猫人の女の子が、瞼のスクリーンに清涼飲料のCMのようにパッと映った。

 エウリディーチェか。そうだよね、この家の人ならあの子が一番いいよね。ジャンおじさんに言ったらボコボコにされてあの世いきだし、ボルヘスさんには怖くて聞けないし…

 あの子に特別会いたいからとか、そういうんじゃなくて、これはそう、専門用語で「尋問」っていうんだっけ。

 僕は眉間に力を入れ、「覚悟を決めるんだ、僕」とどこかで見た主人公の顔真似をして、ピストルとライトをベルトに差し、「そうだ、に備えるのだ」とチョコボールとガムもポケットに突っ込んだ。

 その他にもありとあらゆる秘密の道具で身を固め、絵を両腕に抱え込んで部屋を抜け出した。

 ここは2階で、家族やお客さんが使う用の大食堂用のあるのが3階。じゃあ、あの子の部屋はきっとそれより上の階にあるはず。

 誰にも見つかりたくなくて、ソロソロ忍び足で歩いていると、まるで自分が悪い人になったような気がした(まあ、絵を破っちゃったんだから、良いことをしたとは言えないよね)。

 お城の中は静かで、時折外を吹く風が窓を叩く音がやけに大きく感じられる。

 途中一回階段に気付かず通りすぎ、胃をなでなでするような漂う匂いに誘われて、ふよふよと調理場に行ってしまった。

 ドアの外までたどり着いたら、アガティーナさんの甲高い声とジャケネッタさんの塩辛声が聞こえてきた。何やら言い争っているみたいだ。

「ふっざけないでよ!お城の中の食べ物にまで手を出すほど落ちぶれちゃいないわ!」

「じゃあ他の誰がこんなことするって言うんだい!正直に白状おしよ!」

 やれジャガイモが何個無いだの、おばさんの数え間違いに決まってるだの、このはねっかえりのじゃじゃ馬娘だの、この疑り深いお局だの、飛び交う怒号はまるで言葉の殴り合いだ。

 女の人のケンカって苦手なんだよなあ。ゆで卵ぐらいならもらえるかなって思ったけど、諦めよ…

 お腹はぐーぐー暴れたけど、僕はさっさと引き返すことにした。

 迷いながら上階に上がる階段を発見し、誰にも見とがめられることもなく4階に着く。

 階の造りは2階や3階とおんなじだった。きっと最上階まで、十字通路を円の中に閉じこめた回廊が続くんだな。

 城の南北を上下にして、四ツ葉のクローバーでいうと左下のブロックに、個人用の部屋らしいドアが等間隔に並んでいる。そのうちの一つをためしにノックすると、ロレンソさんがひょいと人懐こい顔を出した。

「やあアルフ君。調査は進んでいるかい?」

「あ、あの、僕、エウリディーチェに、その」

 エウリディーチェはどこ、あの子に会いたい、と人に言うのはなんだか恥ずかしかった。スニーカーの爪先で床をこする。

「うん?どうかしたのかい、モジモジして…おや、その絵は?どこから持ってきたんだ」

「あ、あのね…これはなんでもないの。エウリディーチェの部屋はどこ?」

 慌てて小さなカンバスを後ろに隠す僕に、ロレンソさんは「西側のつき当たりに塔に入るドアがあるよ。そこがあの子の部屋だけど」と指で差して教えてくれた。

 僕は「ありがと!」と駆け出す。ロレンソさんが怪訝そうな顔つきでドアを閉めかけ、一旦止まって僕の後ろ姿を見ていたことなど知らなかった。

 ロレンソさんはまた、あの階段での冷たい無表情をしていたことも。




 登って来たときは見落としていたけど、4階の十字通路は、平面図から見たら左の端で塔に繋がっていた。

 ドアを開けると螺旋階段が上下に別れていたので少しだけ悩み、上がる方を選んだ。

 だってお姫さまって、いつでも塔の上にいるじゃない?

 予想はバッチリだった。一回半回ったら光が漏れている扉があった。

 オーク材の頑丈な扉を、ごんごん叩く。

「エウリディーチェ!エウリディーチェ、いる!?」

 間をあけて、小さな声で「……誰なの」と聞こえた。インドとか中国とか東洋の池のほとりで蓮の華が開くとき、きっとこんな綺麗な音をさせるんだろうな。

「エウリディーチェ、僕だよ。アルフレードだよ」

 すう、と扉が引っ込み、象牙の彫刻みたいな掌が僕を招き入れてくれる。

「えへへ、えー、コンバンワ。しに来ちゃった」

「え……?」

 エウリディーチェは肩に暖かそうな肩掛けをし、薄いネグリジェ姿だった。少し眉が曲がっているのは、驚かせたからだと思ったけど、あとから聞いたら僕のノックで亡霊が現れたのかと怯えていたんだって。

「いきなりごめんね。でもちょっとスッゴいものを発見しちゃってさ、エウリディーチェにも見てほしくって」

「一体何なの?」

「まあ見てみなって」

 昔に建てられた古い城の中だと思えないほど清潔な部屋だった。

 ロココ調の唐草紙で覆ってある真四角な壁には低い棚を取り付けてあり、手持ち黒板みたいな百科事典、洗剤の箱より重たそうな辞書、それからレコードやCDがぎっしり。その上には地球儀、天球儀、望遠鏡、メトロノーム、花瓶やたくさんのヌイグルミ達。

 僕は興奮で礼儀とか遠慮とかを完全に忘れて、窓辺に据えられた机まで行き、わざと大袈裟にゆっくり絵を下ろした。

「これ…客間に飾ってあった絵?」

「うん。あのね、ここ見て」

「…破れてる」

 あ、ごめん、僕が破っちゃった、と順序が逆になったけどとにかく謝った。

 エウリディーチェは「いいわよ、どうせ改修するときに出てきたゴミみたいなものだもの」と笑う。

「あら?下にも何か書いてあるみたいね」

「そう!そうなんだよ!これ、何だと思う?」

「うーん…多分…いいえ、これはラテン語よ。特徴があるから。でも古い言葉ね…」

「どれぐらい!?千年ぐらい!?」

 エウリディーチェはプッと吹き出した。

「ごめんなさい。でもあんまり可笑しいんだもの」

 僕は「うううん、全然平気。よく『お前はバカだな』っておじさんにも言われるんだ」と首を振った。

 なんでだろう、他の人に笑われるのは面白くないのに、こうして大きくなった親指姫(て言うのも変だね)みたいなエウリディーチェにクスクス笑われると嬉しいんだ。胸の中がホッコリして、くすぐったくなるっていうか…

「ねアルフレード、棚から辞書を取ってくれる?葉っぱ色の、大きいのを」

「あの隅のやつだね」

 僕がそれをフランス語とドイツ語の辞書の間から抜いてくると、エウリディーチェは引き出しからカッターを出して「んっ…えい、えい」と絵を剥がそうとしていた。

 カッターの持ち方が初めてらしくりきみすぎているのと、枠を押さえる指の方に向かって刃を進めようとしているので「あああ!ダメダメ!ストップ!!」と待ったをかける。

 「僕がやるよ。貸して」と断ってカッターをもらい、ずりーっ…と周りに切れ込みを入れた。爪を立てて切れ目をつまむ。「せーの!」

 ペロンと剥がれた絵をヒラヒラさせると、エウリディーチェは拍手してくれた。

「すごーい、上手!」

「え、いや…こんなの馴れてるからさ。おじさんの手伝いで」

 でも小遣いをもらって女の人の水着とかの写真を雑誌から切り抜いてるとは言えなかった。

 絵の下にもう一枚あったのは、複雑な署名のしてある文章だった。国語便覧に載ってたモーツァルトの書簡てがみに似てる。

「うん、これなら全部読めるわ…えーと、始めに宛名があるから手紙ね…スペイン語も混じってる…」

 ちょっとごめんなさい、とエウリディーチェは椅子を引いて座り、トランプをさばくマジシャンのような迷いの無い手付きでページを繰る。ぼくはピョイと机に飛び乗り、足をぶらぶらさせて、それを待つ。

 大体一行につき三回のペースで単語を調べていく。

 ペラペラ、シャッ、「ふんふん」ペラペラ、「あ、そうか、『無辜むこの民』ね…」ペラペラ、ペラ…

 頭が良いエウリディーチェの邪魔しちゃいけないなと思って、僕はエウリディーチェの横顔をじーっと、ただ眺めていた。

 なんて長い睫毛だろう。それに、なんて透き通った瞳だろう。潤みを帯びて濡れたアクアマリン…雪の高嶺のような鼻柱…上気して桃色に染まる雪花石膏アラバスターの頬…この苺のひとかけらみたいな唇に食べられるなら、パンも肉も本望だろうなあ…いやいや、もしかしたら木の実ぐらいしか食べないんじゃないかな。

「アルフレード、終わったわ。大体だけど訳してみるわね」

「へっ。あ、うん!」

 危うく吸い込まれそうになってた。目を逸らしてないと僕、ボヤーッとしちゃうみたい…

 エウリディーチェはウキウキして文字をなぞりだす。

「えーとね、まず最初のこの左上にはこう書いてあるわ。

『我が忠実なる支援者パトローネへ』

 で、文章の中から推量すると、どうもこの城の辺りに住んでいた農夫に宛てたものらしいの。かいつまむとこんな感じになるわ。


『イスラム教側の軍団の攻勢が一段と激しさを増し、いよいよこの城も明日をも知れぬ事態に追い込まれた。

 栄誉ある騎士団の長たる任を拝し、今日まで戦い抜いてきた日々に後悔は無い。戦友と城を枕に打ち果てようとも、我等の意志と信念を敵に示さんものである。

 私の唯一の憂慮は、これまで我等を支えてくれたあなた方、親愛なるシチリアの民の行く末にある。

 イスラムの征服者は秩序と公平を重んじ、非常に洗練された民族であること、敵ながら天晴あっぱれな騎士道的精神を持ち合わせた武芸者であることを私は戦場の経験から知った。ぬかづく信心の対象こそ違えども、尊敬に価すると言っても過言ではない。

 もし我等スペイン騎士団が最後の一人まで倒れたならば、どうか強硬な抵抗などせず、恭順して要求に従ってくれ。さすれば、無体な略奪や破壊、暴行などはまずもって避け得るだろう。いずれ時が来たりなば、栄光あるヨーロッパ各国の騎士団のいずれかが、必ずやキリスト教の失地を回復すると私は信じている。

 その日の為に、子牛は聖なる十字の根、大いなる井戸の底に眠らせる。あれはもともとあなた達のものだ。きキリスト教徒のあなたなら分かってくれるだろう。

 恐らく私は子牛の番をしながら神の御許へ旅立つことになる。

 あなたの子孫に永遠とこしえの繁栄のあらんことを。

        聖ヨハネ騎士団 スペイン分団長コマンドール フェルナンド=…』


 最後の署名だけ消えてる…あ、違う!あわてて書きなぐって、生乾きのまま肘か袖でこすったんだわ。私もよくやるの」

「君もそんなことあるの?僕も時間割の最後の授業のときに、鉛筆でガガッて書きなぐっちゃうこと、あるよ」

 小学校はほとんどの日が正午までの時間割だから、どうしても後の方の課目は上の空になる。

 その頃になると生徒は、みぃんな時計の秒針が文字盤をじりじり這うのを空腹を抱えてチラチラ見て、先生もそれが分かってるからわざと黒板に長い言葉を書いて、終業ベルを合図に一斉に押し合いへし合い家路につくんだ。

「それだけ急いでいたってことは…」

 エウリディーチェは口ごもる。僕にも何となく言いたいことは分かった。

 これを書いた人は、丁寧に文章を結ぶ余裕が無かったんだ。それはきっと戦闘せんとーが始まったからで…だから…

 無事に助かったとは、とても思えない…

 一人の人間が、戦って、死んだ。それはたとえ年月を経ていても薄まらない事実で、僕らはしばらく黙っていた。

「あとからカンバスに貼ってあった絵は、カモフラージュしようとしたんだね。その農夫の人がやったのかな」

 きっとね、とエウリディーチェは頷いた。

 おじさんは何て言ってたっけ。ここに騎士団がいたのは5百年前?

 それだけの長い時間、この手紙は誰の目にもとまらずに、絵の裏側に隠れてたんだ…

「この城の、最後の持ち主の手紙かあ」

 あ、でも今はエウリディーチェのお父さんのボルヘスさんの持ち物なんだっけ。

「ある意味では、遺言なのかもしれないわね…」

 でも、僕はキュン?と鼻を鳴らして首をひねった。

「変なことするよね。これ、わざわざ隠すほど重要なものじゃないと思うんだけど」

「私も…そう感じるわ」

 エウリディーチェも顎を傾ける。柔らかで綿めいたブロンドがサラリと滑った。

「あと『子牛』って、モーモー鳴く牛のことだよね?そんなの連れてたなんて騎士らしくないなあ。だってそうだと、亡霊も牛をひいてたりすることになるよねー…」

 僕は想像してみた。耳が痛いほど静まった真夜中、鋼の兜に鎖かたびら、胴当てで身を固めた厳めしい騎士が城内をさ迷う。唇の端からは自分の血を、斜めに腰に差した長剣からは敵の血を糸のように流している。

 そして騎士に手綱をとられて後に続く、牛。

 ヨダレをベロベロ垂らす牛の手綱を持って獲物を求めている……?そんな亡霊カッコ悪いよ!

 なんだかに落ちないな、と僕はきつく腕組みをして「うーん」と唸った。こうしていると何も考えが浮かばなくても、それなりに頭を働かせてるように見えるんだよね。

 きれいさっぱりなーんにもアイディアが浮かばないので、僕は「じゃあ!」と勢いをつけて言った。

「ね、エウリディーチェが見たり聞いたりした亡霊のこと、詳しく聞いていい?もしかしたらそれがヒントになって、この手紙のが解けるかもしれない」

 うん、我ながら思うけど、僕って優秀な探偵だよね!

「いいけど…私の話を信じてくれてるの?」

「もっちろん!」僕は自分の胸をポンと叩いた。「依頼人を信じるのが探偵の仕事だからね!」

 人魚が住む海色のエウリディーチェの目が大きく開き、そこに小さな僕が映っていた。見つめられて、僕は意味もなく笑っちゃう。

「ありがとうアルフレード。嬉しいわ」

 いや、そんなの当たり前だから、ゴニョゴニョ。

「僕はホラ、あれだよ、とにかく、君を怖がらせてる原因が、なくなればいいなーって、だからさ」

 早口になってガリガリと机に鉤爪の傷をつける僕の手の甲に、エウリディーチェの指先がふわりと触れた。

 僕はキャッと言いそうになった。だって、エウリディーチェがタッチしたとたん、心臓のドキドキする音で鼓膜が爆発しそうなくらいだし、お腹はしめつけられるし、体がなんか変になっちゃったんだもん!

 僕はトマトケチャップを頭からかぶったように赤くなり、シッポを扇風機より激しくブン回す。誰かが見たら完全におかしな子だよ。

「私の話を信じてくれてるのは、この城の中であなただけ。私の味方…ううん、もしかしたら…」

 払いのけたい衝動をなんとか抑えた。「なななななーに?」ううぅ、普通フツーのフリをするのが大変だ…

「あなたが来てくれたのは、もしかしたら、お母様が導いてくださった運命なのかもしれないわ。勇気の星の人だもの」

「ゆーきの、ほし?」あ、まずい。あと5秒で鼻血が出そう…!「どーいうことなの?」

 エウリディーチェは、岩塩の塊もとろけるくらい可愛い微笑みをした。それから空気の妖精のような物腰で、自分も僕みたいに机にじかに腰かける。手が離れて僕はホッとした。

「窓の外を見て」

 僕はそうした。黒曜石の上に銀の砂を撒いたような夜空。千切れ雲がかなり早いスピードでたなびいている。

 陽はとっぷり暮れていた。いつもなら寝てる時間だ。真夜中が近づくだけ反対に明るくなる星々は、ポロポロと落ちてくるんじゃないかと心配になるくらい輝いていた。

「あれ。あの青みがかった、強い光の星」

 夜空に向けたエウリディーチェの指先から透明な線を伸ばし、ガラスの向こう、遥か宇宙に狙いを定めて目をこらす。黄色っぽい星の一団に、存在感のある青白い星がまぶしく見えた。

「あの、ちょっと白いやつ?」

「そう。あれは黄道12星座の中で、たった一つの一等星よ。古代バビロニアではウル・グルラと呼ばれていたの。ギリシャではネメアの森に棲む誇り高き野獣の王に見立てられた。第5のきゅう、獅子座のα星でね、現代では正式な名前を」

 もったいつけたしぐさで僕に顔を向けた。

「コル・レオニスというの」

「コル・レオニスって、それじゃまるで僕の名前みたいだね」

「まるでじゃなくて、おんなじなの!あなたの名前も『コッレオーニ』、つまり『獅子の心臓ライオンハート』ということになるわ。それに、あの大きな男の人も」

「ジャンおじさんが?」

「そう。あの人の姓の『レグルス』はね、コル・レオニスの別名で、ラテン語で『小さな王』という意味なの。だからあなた達は二人ともが同じ星を名前に持っているのよ」

「ああ!だからあの時もそう言おうとしてたのかあ!」

「ええ、ずっと言いたかったんだけど伝えそびれて…」

 ああスッとした!と、エウリディーチェは両手を胸元にやる。

「でも、なんかなあ。ジャンおじさんと同じかあ。ちょっとフクザツな気分だよ」

「いやなの?」

「いやっていうか…」だって、ぐうたらで大食らいで人前でも平気でゲップを連発するんだもん。一緒にされてうれしくはないなあ。「うーん、なんか納得いかない」

「そうなの?私は最初あなた達を見たとき、親子かなって思ったんだけど。親戚でもないの?」

「ええええ?全ッ然違うよ!親戚なんかじゃないから!血のつながってない他人だから!」

「じゃあどうして一緒にいるの?」

「それは…」言っていいかな、と考えたけど、エウリディーチェにならいいよね。「僕のママもパパも死んじゃったからさ。おじさんはパパの親友だったらしくて、僕を引き取ってくれたんだ」

「…いい人なのね」

「ううん、全然だよ?むしろデタラメな大人さ!」

 それから僕は、おじさんとの暮らしについて、思いつく限りの武勇伝を混ぜて話した。

 近所のヤクザの人とポーカーやって、すってんてんになってパンツ一丁で帰ってきた朝や、食べ放題のブッフェレストランのチェーンが下町に開いた一号店に毎日通い詰めて食い潰したこと(全国展開のチェーンの社長も泣く泣く撤退した)。

 煙草屋のおばあちゃんが店先で飼うオウムが法衣にフンをした、と神父様が怒鳴りこんできた場に居合わせて、「てめえなんざ豚のでもいじくってな!」って堆肥運搬車に投げ捨てたりもした(それで僕まで1ヶ月は教会の半径50メートルに入れないトバッチリを受けた)。

 あとは、やたらめったら女の人に声をかけては失敗ばかりしてるエッチで情けないとことか。

 エウリディーチェは時々噴き出しては、日頃から溜まってる僕の不満を楽しそうに聞いていた。

 全部言い切って、ふうと肩で息をつくと、エウリディーチェが意外なことを呟いた。

「あなたたちが羨ましい。私も男の子に生まれていれば良かったな…」

「え、なんでぇ?」

「だってお父様は私を……嫌いなんだもの」

「そっ」僕はバンと足を机に叩きつけた。「そんなはずないよ!」

 さっきまで咲きこぼれていたエウリディーチェの笑顔が、乾いて枯れてしまっていた。

「いいえ、そうよ。だからこんな塔に押し込めているのよ。私がアルフレードみたいに元気な男の子だったら良かったのに。こんな役立たずで可愛くない娘なんか欲しくはなかったって…きっとそう思ってるのよ…」

「バカ!!」

 僕はエウリディーチェの肩をグッと掴み、羽のように軽い体を引き寄せた。

「そんなことあるもんか!君は可愛いくって頭がよくって優しくて、最高の女の子じゃないか!君のパパが嫌いになるわけないよ!どうしてそんなこと考えるんだよ!エウリディーチェの、エウリディーチェのバカバカバカ!!」

 目をぱちくりさせていたエウリディーチェが、やがて水晶のような涙をこぼした。

「あ…」そこで僕は自分が何をしているのか気付いて、パッと離れた。「ご、ごめん」

 猫人の女の子のまぶたから、透明なつぶがホロホロとネグリジェの膝に吸い込まれていく。

 うわ、うわ、どどどどうしよう…

 僕は学校の先生にふざけていて割ったトロフィーの説明をしろと求められたときより、いたたまれない気持ちだった。

「な、なんでエウリディーチェにこんなこと言ったんだろ…自分でも分かんない」正直に謝るしかなかった。膝の上で握る拳に汗がにじむ。「ほんとに…ゴメン。君は悪くないのに、バカだとか言って…」

 でも。それでも一つだけ譲れないものがある。

「ボルヘスさんはね、エウリディーチェのことを絶対大切に思ってるよ。保証ほしょーする!」

 多分、もうここに来たりしたりできないだろうな。これだけ泣かせたんだもの、当たり前だよね。友達になりたかったけど。その前に怒らせた。

 悪いことしたのは僕なんだから…絶交なんてしたくないけど…

「ごめんね、エウリディーチェ…」

 頭の中に、残機が0になったシューティングゲームのエンディング曲が流れる。現実にはコンティニューもリセットもないんだよね。僕は自分の舌を呪った。

「アルフレード」

 僕はがっくりしていたんだと、思う。イヤなことはすぐ忘れちゃうたちだから、このときの事は実はあんまりおぼえてないんだ。

「ありがとう、アルフレード」

 シッポまでヘタってる僕のおでこに額をコツンして、エウリディーチェの顔が真ん前にあった。シャンプーや香水とは違った、背中がくすぐったくなるような甘い香りがした。

「私、元気が出た。あなたのおかげよ。もし良ければ…だけど…」

「?」

「お願い。私の友達になって」

 パッパカパカ・パパパパー♪地獄に天国のラッパが鳴る。陽気な凱旋パレードが、僕の胸の中の目抜通りを大行進。

 色とりどりのテープ飾りのついたオープンカーの上で、チーム・アルフレードに逆転勝利をもたらした僕に、沿道を埋めるサポーター(みんな僕自身)から歓声や指笛がワーワーピュウピュウ惜しみなく浴びせられる。

 目を焼くフラッシュがバチバチ焚かれて戸惑う僕へ、レポーター(眼鏡をかけた僕自身)がマイクをかざす。

 アルフレードさん、御感想は?勝因はどこにあったと思いますか?…

「アルフレード?…アルフ?ねえ聞いてる?」

「え、あ、へ?」

「どうなの…?」

 いけない、すっかり意識が飛んでた。

 僕はオッホンと咳払い。「あー、うん、僕は、もちろん最初からそう思ってたんだよ」と真面目に言う。

 これは別に嘘じゃない。もっと言うなら、初めて見たときから特別な子だったんだけどね。でもそんなこと恥ずかしくて言葉にできないよ。ジャンおじさんじゃあるまいし、気軽にホイホイ「好きだ」なんて口にできるもんか。

「本当に?」

「僕、正直者。君の、友達」

 単語を区切って宇宙人の真似をした。僕はエヘヘと鼻を掻いて、エウリディーチェはウフフと目元をこすってしずくを払った。その一滴二滴が板に張られた手紙に染みる。

「あ、いけない」

「大丈夫だよ」僕は机から拾い上げた。ちょっと字が滲んでるけど大したことはないな。「あ、これ?『子牛』だっけ?ここだけ消えかけてるけど、読めるよね」

「あ、ほんとね。フフフ、字が歪んじゃって、なんだか分からなくなっちゃったわね」

 ………あれ?

 僕の頭にエウリディーチェの言葉が響いた。それは1つの仮定を結びつける大きなヒント。

「ねえ、これもしかして、ほかの意味があるんじゃない?」

 えっ、とエウリディーチェが顔を寄せてくる。

「あのさ、もしもなんだけど、牛とか生き物を地面の下に眠らせるって変じゃん?そんなことしたら息ができなくて死んじゃうよ。だから、本当は別の物を表してる…一種の暗号だとかさ。どう?」

 僕の手元を覗き込み、唇に人差し指の腹をあてて、ジッと考えていたエウリディーチェが、「…あ!」と頭を上げる。

「そうよ!子牛なのよ!モーセに罰せられたイスラエルの黄金の子牛!」

 え、え、え?何言ってるの?僕の両目が「?」になった。

「ほら、旧約聖書にあるじゃない。昔、シナイ山で十戒を授かったモーセが降りてきたときに祀られていた黄金の子牛の伝説!有名でしょ」

「え、そ、そう言われれば、そうかなあ」教会での日曜学校は、大抵ベンチで爆睡バクスイして終わるんだ。知ったかぶりしないと!「うんうん、超有名だよね、あれは!」

 エウリディーチェは、さらに推理を進めている。青い瞳の奥には、いっぱいの本からもらった知識がパズルみたいにカチャカチャ組み合わさっていくみたいだ。

「聖ヨハネ騎士団は中世の地中海でイスラム勢力と覇権を争った有名な騎士団よ。そして騎士団が駐留するところには地域から金品や様々なものが喜捨として集められるわ…それに敵から奪った戦利品も。……『もともとあなた方のもの』という言葉のニュアンスからも、そう予想して妥当だと思う。そういった価値あるものを、聖書からとって『子牛』の隠喩に託したのかしら。そして…死に際を悟った騎士が、『番をしながら主の身許へ』と言うからには、かなりのものに違いないわね!」

 すごい。何がなんだか分からないけど、エウリディーチェは賢い。それに謎を解こうと知恵を絞ってワクワクする時のこの子は、とってもキュートだ。

「ねアルフ、そうは思わない?」

「そうだね。絶対そうだよ!」亡霊とか悲鳴とか怪しげな出来事は、もうどうでもよくなっていた。「お宝かあ。すごいや、大発見だ!」

 うんうん、と二人で頷いて確認し合う。

「あとはこの場所さえ分かれば掘り出せるわよ」

「場所って、十字架の根っこでしょ?この城の中のチャペルにあるんじゃないかな」

「今あるチャペルはね、基礎まで改修工事して新しく作られたものなの。だからそこには無いと思う…」

「じゃあ井戸だ!手紙の中にあった、おっきい井戸だよ。あるでしょ?」

 エウリディーチェは「無いわ、井戸なんて」かぶりを振る。おっかしーなー、と僕はうなった。

「十字架…井戸…根本…」テストより一生懸命に脳を使って考える。「うーん難しい…」

「逆に古くからあった部分だと、外壁と通路ぐらいね。それだと中央で通路が十字架の形に交叉してるわよ」

「でも根っこじゃないじゃん」

「あ…ごめんなさい…」

 うつむくエウリディーチェ。僕は慌てて笑いかける。

「あ、ごめんね、僕、仲いい相手だとこうなんだ。一緒に考えよう。がんばろーよ!」とはいっても、けっこうキツいかな…「ダメだったらロレンソさんに相談すればいいんだし。あの人ならきっと」

「あの人は、イヤ」

 エウリディーチェは「ロレンソさん」の一言に、熱い石に触れたみたいにビクッとした。あんまりにもすぐツッコまれたから僕もキョトンとなる。

「どーして?」

「……それは…」

 宙に浮かせた踵をこすり合わせてためらうエウリディーチェ。斜め下へ動く視線に、言いたいけど口ごもっている気持ちが僕にはすぐ分かった。

 緊張が相手に気付かれないよう、力が余分に入らないよう願い、エウリディーチェの背中をポンッて叩いた。でも友達にするよりずっと弱かったけど(咳が出るくらい本気でブッ叩き合うのが、僕らの学校の流儀なんだ)。

「言っちゃいなよ。何がイヤなの?」

「あの人…セルバンテスさんって、私、怖いの…」

 エウリディーチェの睫毛の小羽が震えてる。

「エウリディーチェ…」

「アルフ、私、悪い子なのかしら。うちで働いてくれてる人達の中で、セルバンテスさんだけは好きにはなれないの。家庭教師をしてくれてるときも、食堂のテーブルについているときも、会話しているとなんだか心の中が冷たくなっていく気がするの……言葉や態度はもっともらしくて丁寧よ。だけどそれは、美しい鞘がナイフをくるんでるような、得体の知れない優しさに感じる。信じられないのよ」

 一瞬、昼間の階段での出来事が頭に浮かんだ。

 ロレンソさんが落とした手帳を持っていった僕を、あの人は青と黒の瞳で睨んでいた。

 大切にしてるものを勝手に覗かれてムッとしたとか、そういうレベルじゃなかった。逆立ちそうな毛皮を押さえつけ、笑おうとしているヒビ割れた仮面。

 あれを思い返してみると、エウリディーチェの言うことがもっともだと感じられた。

「ね、私達だけでがんばりましょう」

 で。この特別な響き!ほっぺたがカーッと熱くなる。

 ちょっと濡れて光る神秘的な瞳、請い願う乙女の祈りをたたえた表情。エウリディーチェみたいに素敵な女の子に手を握られ下から見上げられたら、どんなやつだって言うことを聞いちゃうよ。ましてや僕は、この子の守り人なんだから!誰に命令されてもいないけどね!

「うん、そうだね。そうしよう」僕の魂がエウリディーチェの希望を叶えろと、自分自身を衝き動かすんだ。「僕達だけでこの騎士団の宝を見つけよう」

 それから僕たちは、お城の図を紙に描くことにした。

 エウリディーチェが画用紙に大きなボールと、冠みたいに四角形に線を引く。さらにその円を二重にして、大きく十字路を描き込む。

「だいたいこんなものね。これが5階まであるってわけ」

「『聖なる十字架』ってのは、この通路かな。てゆーことは、あと『根本』はどこにあるかだね」

 お城が工事されてるってことは、僕達が目にしているのはほとんど新しい物ってことだから、あてにはならない。目につくようなヒントだったら工事で働く人だってきっと調べたはずだ。げんに、よくバイトしてるジャンおじさんは「道路工事ドカチンとかビルの解体はなあ、時々ヘソクリが出てくんだよ」ってゲラゲラ笑ってたし。

「んぬー、根本、井戸、どこにあるんだー」

「アルフ、顔が近いわ」

「あ」ふざけているわけじゃなく、僕の鼻は紙とくっつきそうになっていた。「おとと、ふー、あぶないあぶない」

 身を引いたとき空気が巻いて、紙がくるんと回った。

「あ、ちょっとずれたわ…」

 紙の向きを直そうとするエウリディーチェに「待って」と手で制した。

 今、図の上と下が入れ替わり、塔を示す四角がお城の円を支える格好になっている。

「どうしたのアルフ、急に」

「これさ」上ずりそうになるのをこらえて、かえって低い声になる。「塔が四角い土台で、お城が十字架に見える」

 あ、とエウリディーチェが隣で息を飲んだ。

 聖なる十字架の根、大いなる井戸の底ー…

「この塔さ、階段は螺旋だけど実際は上から下まで、ずどーんと真っ直ぐなんじゃない?」

「そう…そうよ」エウリディーチェの手が僕の肩にかかる。でも今は別の興奮がまさり、いっときその体温を忘れさせた。「階段は…階段も後からつけたの。見張り塔だった時代には梯子だけで登り降りしてたんだろうって…お父様が言ってらした。基部には値打ちの無いガラクタばかりだ、ネズミがいるかもしれないから私は近づかないようにって」

「ガラクタ?」

「客間にあったこの絵とかよ」

 一瞬のち、僕達は同時に叫んだ。

「そこだ!」

「ここなのね!」

 床に飛び降り、手を輪につないで跳ね回る。

「やったやった、見ーつけた!見ーつけた!騎士団のお宝見ーつけた!」

 やったあ!と僕はエウリディーチェに抱きついた。あれ、それともエウリディーチェの方からだったかな?まあどっちでもいいや。

 行こう!ええ!短いやり取りがあって、部屋を飛び出す。

 僕が先頭で明るい階段をタカタカ降りていく。その後から、トットットッと上品にエウリディーチェがついてくる。ネグリジェのひだをツイとつまんで。

 エウリディーチェは僕の視線に気付き、遅れないから心配しないで、と言う代わりに片目をつぶった。

 このとき、僕にはエウリディーチェの部屋のドアが勝手に開いてきしむ音や、その後から響いた独特な靴音が聞こえたはずだった。犬人の聴力を鈍らせるくらい、エウリディーチェの足運びはうっとりさせるものだったんだよ。

 絵本から抜け出たお姫様シンデレラそのもののエウリディーチェ。本当は手をとってあげるのがマナーなのかも、とか頭では分かっていたけど。どうしようか迷っているうちに下に着いちゃった。

 いかにも後付けだが文句あるかい、という重そうな鉄のドアが、一階からさらに数段下った所を塞いでいた。

 鍵はかかっていないけど死ぬほど固かった。僕は両手を添えて握り締め、脚を壁に突っ張りガンガン蹴りつける。もう重力とか無視して、ぼくの全身は完全に浮いている。

「こっ…こんのおぉ…!」

 ふんぎぎぎ、と歯を食いしばって鼻の穴を広げて、尻尾の先から耳までピンピンに力を込めた。そんな僕の耳に、踏んばりが伝染したみたいに両手を握っているエウリディーチェのさえずりが届く。

「…ガンバって…アルフ…!」

 元気1万倍、エネルギー1億倍!筋肉が雄叫びをあげた。

「ぬぐうぉりゃあ!!」

 バッキン!と錆び付いたドアが弾かれたように開いて、僕はしがみついた姿勢のまま横の壁に打ちつけられた。

 エウリディーチェが僕に駆け寄る。

「大変!アルフ!」

 助け起こそうとする華奢な女の子に僕は、大丈夫こんなのなんでもないよ、と痛みをこらえて立ち上がる。ちょっと痛すぎて口がへの字に曲がったけど、男の子だから涙は出さないんだ。

 階段の上に手裏剣とかスーパーボールがポロポロ落ちたけど、しまってる暇はない。

 赤錆が降ってくる入り口を潜る。そこは打ち捨てられたに等しい地下室だった。

 天井の近くにやたら空きっ歯な鉄格子の明かり取りがある他は、子供なら通れそうな通気孔がその反対側に開いていて、かすかに風が伝わり下りてくる。どうやら遠くでお城の内部に入っていっているようだ。

 入り口の壁を探っていたエウリディーチェが「電灯がつかないわ」と心細くつぶやく。

「僕ライト持ってる。それより、なんか変な臭いがしない?」

 何か掃除をサボった飼育小屋みたいな臭いが充満していた。犬人で嗅覚が敏感な僕は、うわー苦しい、と鼻をつまんだ。

 ちょっともたついてお尻のポケットからライトを出したその瞬間。

 ギキィヤァァァァ!

 ものすごい叫びが僕の耳を串刺しにした。エウリディーチェも悲鳴を上げて頭を押さえる。

「うわうわぁぁぁ!」

 僕も叫んで、とっさに握りしめたグリップのスイッチを入れた。

 パッと白い光が広がった。その輪を逃れるように飛びすさる、細長い影。

 もう一度、驚きから恐怖に移り変わる叫びを上げて、部屋の隅のほうにいる『それ』をライトで照らした。

 血走った、小さく丸い目玉。顔面はツルンとしていて、気持ちが悪くなるくらい鼻が低い。っていうか、どの系統の獣人でもない!?

 僕はほとんど無意識で後ろに庇っていたエウリディーチェの肩を軽く揺り動かした。

「エウリディーチェ、大丈夫だよ。目を開けてみて」

 お母様…と目を閉じて守護を祈っていた猫人の青い瞳がまばたき、やがてぼくのシャツに押し付けていた顔を恐々こわごわ前に出した。

 土と葉っぱに汚れた毛むくじゃらの猿が一匹、精一杯ハグキを剥いてこちらを威嚇していた。

「あれは…」

「ね、エウリディーチェの聞いた夜中の悲鳴って、こいつなんじゃないの?」

 エウリディーチェはこくんと頷き、まじまじと観察してる。「図鑑で見たことあるわ…確か中南米に生息する手長猿よ。確かジャングルジャンパーって種類だったと思う」潮がひいたように落ち着いてきた。

 そう言われてみれば、手足がやったら長い。そして胴体は細く平べったく、ちょっと蜘蛛っぽい。これなら自由自在に忍び込んだり隠れたりできるかも。

「エサあげたらなつくかなあ。チョコレートとか食べるかな?」

 僕はチョコボールの箱を出す。猿はクン、と鼻面をヒクつかせて甘い臭いを嗅ぎ付ける。

 幾つか手前の地面に放ってやると、用心深く顔を近づけ、掌にのせ、口にパクリと入れた。

 キキキーィ!と嬉しげに鳴く。もう、とげとげしい表情(っていってもよく分かんないけど)ではなくなっていた。

 ね、エウリディーチェもあげてみたら、と箱を渡した。エウリディーチェは期待で舌を出してる猿に「え、え、えい」と箱の中身を全部ぶちまけてしまった。

「あーあ、ぜーんぶやっちゃった。そんなにビビんなくてもいいのに」

「だっ、だって、いきなりこんなの、私初めてだもの」

「エウリディーチェの怖がり屋さーん」

 アルフのバカ!イジワル!とエウリディーチェがぼくの頭をポカポカ叩く真似をした。僕は笑い、猿は大喜びで床に散らばったチョコボールをあさっている。

「こいつ、なかなか可愛いよ。大人なのかな、子供なのかな」どうやらメスみたいだけど。「さっきアガティーナさん達がジャガイモとか無くなってるってケンカしてた。こいつが食べちゃったのかな」

「きっとそうよ。チョコレートだって、むしゃむしゃ食べてるわ」

 カチン、と何か金属質な音がした。猿は床の真ん中らへんにある窪みに転がり込んだ一粒を拾いたいらしく、その中に小さな手を突っ込んでいた。

「…アルフ!」

 エウリディーチェがハッとして僕を見る。それだけで相手が何が言いたいか理解できた。

「うん。ちょっとごめんね」

 猿は僕の言葉が分かるみたいで、おとなしくどいた。

 窪んだところは敷石が割れて、ちょうど子供の手が通るぐらいの穴ができていた。でも、よーく目を凝らしてみると、切れ口がスパッときれいでなんか不自然なんだ。

 案の定、突っ込んでみた指先に固い輪っかが掴める。

 僕は思いきり引っ張った。入り口のドアよりずっと簡単に、床の一部がゴクンと外れて鎖にぶら下がる。隠し通路を、薄くて頑丈な一枚の岩でおおっていたんだ。

 直径は大体僕の身長ぐらい…だから1メートル20センチはある。蓋の岩からチョコボールの最後の一個が中にこぼれた。猿は「キッ」と一声、そこへ飛び込む。

「僕達も行こう」

 ええ、とエウリディーチェは唇を引き絞って僕のズボンの端を掴んだ。

 穴は斜めに地下へ伸びていた。そして先へ行くほど広がり、ちょっとした宴会くらいなら開けそうな空洞に出た。

「うわー、広い」ひょわんひょわんと音が反響する。上にライトを当てると、暗闇の天井からニョロニョロした岩が垂れ下がっていた。「あ、あれ何て言うんだっけ…そうだ、鍾乳石だよね!」

「城の下にこんな空間があったなんて…」

 エウリディーチェは夢見るように言った。空気が冷たい。まさかクーラーをつけてるんじゃないよね。

 くちん、とエウリディーチェのくしゃみ。「寒かったらもっとくっつきなよ」って言ってから僕は後悔した。だってほんとに素直にしがみついてくるから、肌の温もりが背中にじかに伝わって、汗をかくぐらい暑くなったんだ。

 ドッドッドッとはやる鼓動から気をそらそうと僕はサーチライトのように水平に明かりを回してみる。と、今度は本物の人影が岩肌に浮かび上がって、「ひゃッ」と思わず身構えた。エウリディーチェも反応し、僕にしがみつく。

 その人は死んだように動かなかった…いや、死んでるみたい…ううん、本当に本物の死体だった。

 完全な体のまま凍りついてしまったような昔の騎士の死体が、岩肌に寄りかかった姿勢で佇んでいる。

 表面に石灰が膜を張った甲冑は、油を塗ったみたいにヌラヌラとライトに反射した。

 地面に突き刺した大剣には、銅板で補強した手袋を支えている。重ねた両手から、つららのように鍾乳石が下がる。それにそこだけでなく、眠ったような穏やかな顔の下にも冷たい石のヒゲが無数に作られていた。

 騎士の剣の前に黒ずんだ木の箱が置いてある。そこには金器銀器、宝石のちりばめられた首飾りやなんかが、こんもりと詰め込まれていた。漫画や映画で出てくるように典型的な宝箱。でもメッキや合金じゃない本物だ。本物だから、輝きは鈍く、少し変色してしまっている。

 騎士は虎人のようだった。やや首を前に倒し、口元はニコッと緩んでいる。右の肩口から折れた矢が何本か、前から背中へ痛々しく突き出ている。それでも苦しそうじゃなくて、隠れんぼしてたら見つかった、面白かったい?…ていうみたいに楽しげな表情だった。

 何百年も前からここに独りぼっちでいた、勇敢な騎士。時はひたすら公平に平等に、永久に立ち尽くす高貴な魂を持っていた男の人の全身に積もっている。

 僕とエウリディーチェは静かに十字を切った。お宝をゲットして騒いだり喜んだり、そういうことをするのがひどく場違いに感じられた。

 猿が僕達のそばに来て、一体どうしたんだと言うみたいに喉を鳴らす。エウリディーチェは「メーラ、おいで」と呼んで、足元にまとわりつく猿のうなじらへんを撫でる。

「メーラ?何それ」

「大犬座の犬の名前」

 エウリディーチェは本当に星が好きなんだなあ。いい名前をもらった猿は、主人になった女の子の裾にたわむれている。あげたチョコボールの数も可愛さも、僕なんかよりエウリディーチェの方がずっとあるもの。そりゃ動物だってこの子を好きになるさ。

 僕は勇気を出して、ほんの少しだけ近づいてみた。騎士は両側を棒に取り付けた松明に挟まれている。松明のカゴからは石炭か何かの匂いがプンとした。

「アルフ、この人…誰かに似てない?」

「え、誰に?」僕は腕だけ伸ばして騎士の顔を照らす。「あ、なんかちょっとカターニャ(サッカーチーム)のパッツォに似てるかも」

 ううんその人じゃなくて…と眉を寄せるエウリディーチェ。僕は、うー?ともっと近寄ってみた。すると、騎士の右側に何か文字が彫りつけてある。

「エウリディーチェ、まただよ。何か書いてあるんだけど、読める?」

 エウリディーチェはざっと目を走らせ、「大丈夫。さっきのより易しいわ、これはスペイン語だから」と僕にとってはむしろ難しい外国語をすらすら読み解く。

「…この洞穴どうけつに至り財宝を見いだせる騎士団の後継者よ。あるいはきキリストのしもべ、さにあらずとも、我が墓所をおとなう貴方に頼む。どうか私欲にそそのかされることなく、大いなる愛に従ってこの品々を用いて欲しい。

 我と我が身は偉大なる聖ヨハネ騎士団の一員として、シチリアのいしずえとならん。たまは天上に昇るとも、この財貨によりて地上の人々の幸福となるを願う。

 病める人、貧しき人、あるいは治水や灌漑など、万人にあまねく公共の資産として、私は希望を持ちこの財宝を地下深くに沈めしものなり。

 もしこの願いを聞き入るるならば幸いが、さもなくば恐ろしい罰が与えられるだろう。

                    騎士分団長フェルナンド=セ…」

 あっ、と猫人の女の子はよろめいた。僕はその手をつかんで支える。

「どうしたの?気持ち悪いの?」

「違う…違うわ」色を失くした様子で呆然としている。「なんてことなの…」

「え、なに?僕にもなんだか分かるように教えて」

 ぱちぱちぱち。ぱちぱちぱちぱちぱち。

 拍手がはっきりと聞こえた。反響で方向が定まらない。百人も千人も喝采しているようだ。しかもそこには、どこかしら人を小馬鹿にした含みがある。

 コツーン、コツーン。聞き覚えのある、有名なブランドの会社の革靴の音。その姿が地下室と洞窟をつないだ道から現れるまで、ひどく時間がかかったような気がした。

 僕とエウリディーチェはお互いに体を寄せてその相手を見つめた。

 ライトのビームに入ってきたのは、黒い地に銀の縞がはっきりと流れている細身のスーツ姿の虎人だった。

 クセがついてはねっ返るがままの小洒落た前髪、整った顔。女の人がキャーキャーわめきそうな、ハチミツのように甘くてミントより爽やかな笑顔。

 ライト無しでも全然困らないらしい猫科の瞳は、右は闇色、左は水色。

 ロレンソさん。夜中でも胸元にハンカチを挟むきっちりした着こなしで、毛皮には香水を馴染ませている。足元を派手に飾るカルバンクラインが、高級な大理石でなく武骨な石筍が鎌首をもたげたゴツゴツの岩の上を、まるで滑るように危なげなく渡ってくる。

 僕達の前に来ると、ロレンソさんは右腕を折って礼儀正しい古風な挨拶をした。

Buenas nochesGood eveningEs el excellentIt is exellentMuchas graciasThanks a lot、El muchacho y muchachaboy and girl(今晩は。見事な手際だよ。どうもありがとう、少年少女よ)」

 ロレンソさんは頭を上げる。エウリディーチェがこの男の人を嫌っていた理由を、僕もやっと納得できた。

 虎人の薄い唇が片方だけ、釣り針に引っかけられたみたいに吊り上がっている。そこに覗いた真っ白くきれいな牙は、まるで悪魔か吸血鬼のそれに見えた。

 色の異なる左右のまなこは、ちらちらと飢えた鮫さながらに澱んだ光を内包する。

 僕が俳優みたいだと感じた涼しい眉を歪ませ、あざけりと汚い喜びと残酷な興奮を沸き立たせている表情。

 怪物ガーゴイルー…それもとびきり邪悪なデーモンの手下が、そこにいた。

「やあアルフ君、お嬢様。君たちがこの遺産を発見してくれるとは予想だにしていなかったよ。素晴らしい成果だ」もう一度、深々と頭を下げる。「まさか隠し宝庫が城の基部にあるとはねえ。考えが及ばなかった。心底からの感謝を述べよう」

「ロレンソ、さん」かふ、と舌が乾いて喉かかすれた。「ロレンソさんは一体、何者なの」

「…ふっ。くくっ、くくくくく」

 額に小手をやり、大口を開けてゲラゲラと身体を反らせる。

「答えてよ!」

「ハハハハ…まあ落ち着いて話し合おうじゃないか」

 ロレンソさんがチャカ、と黒光りするものを懐から抜いた。

 ピストルだった。慣れた手つきで出した瞬間に撃鉄を上げている。テレビとかでやってる銃撃戦シーンが正しいなら、引き金を引かれたら僕の眉の間に親指より太い傷ができちゃうだろう。

「昼間はただの家庭教師の役、夜は城の壁に張り巡らされた隠し通路の探索。なかなか大変だったよ」

 僕は毛穴が縮こまり、心臓がこわばるのを感じた。「アルフ!」と僕にすがるエウリディーチェを後ろにやる。もし撃たれたら、とか考えるより先に、いまや豹変した虎人の前に清らかなこの子をさらしたくなかったんだ。

 お芝居臭く首を傾け、ロレンソさんは上着のポケットから小瓶を取り出し、下がれというしぐさをした。

 走って逃げられるかな。いや、抜け目なく銃口を向けている。まだダメだ…

 隙があったらエウリディーチェの手を引いてダッシュしようと企んでいたけれど、虎人はピストルを握りながら瓶の蓋を噛んでひねり、トロリとした液体を両方の松明の籠に降り注ぐ。そしてビンを投げ捨てライターで火を点けた。

 ぼむん、と火の粉を吹き上げて、6百年の冬眠から目覚めた松明が、闇に慣れた目には痛いほどの明るさで洞窟を照らす。あかあかと燃える燃料は洞窟を真昼のようにした。熱と巻き起こる煤煙で、僕とエウリディーチェは盛大にむせる。

「私はねアルフ君、ちゃんと学位を取った学者であるけれど、それだけじゃない。職業柄目にする文献や情報から、世界中の遺跡に眠る宝を探し出し、発掘し、利益を得ているのさ。トレジャーハンターというんだよ。覚えておきなさい」

「…ど、泥棒!泥棒でしょ!」

「泥棒だって?私が?」

 ゆるりとした動作で壁にあった文章を示す。炎を背にしている姿は、霊界の死者を騙して地獄への断崖絶壁に進ませる悪霊にも見えた。

「あれを読んだんだろう?まだ分かっていないのかい?」

 あれって、なんのこと、と訊ねようとする僕にエウリディーチェが耳打ちする。

「最後に彫ってあったのはね…あの騎士の名前はね…」唾を飲む。僕もその震えが伝染して、膝がカタカタしてきた。「……フェルナンド=セルバンテス………!」

 え、それってどういうこと?ロレンソさんのフルネームだって、確か…

「ようやく気が付いたかい」虎人は首を振る。「やれやれ、お嬢様と違って君は頭の回転が鈍い。馬鹿な生徒は嫌いだな、私は」

 それから、アッハハハハハ、とロレンソさんの哄笑が天井まで届いて、無数の毒蜂の羽音みたいに砕け散った。

「そう!私はロレンソ=セルバンテスだ。そしてここにおわすは我が先祖、偉大な聖ヨハネ騎士団に生涯を捧げたセルバンテス家の創始者さ!つまり」

 つまり私こそがこの遺産を受け継ぐべき者なのだ!

 胸を開き声高に虎人は宣言した。

「それにしても君達には恐れ入る。はじめは壁を掘り進めている音をお嬢様に聞き付けられて亡霊だなどと騒がれ、厄介なことにならないようわざと無能な探偵を雇えば、今度はくっついてきただけの事務所の子供が偶然に古文書の封印を解いたとはね。うん、まったく運命の女神の機織りは気まぐれだ」

 そしてまたくつくつと笑う。セットされていた髪がどんどん乱れて、崩れて、雰囲気が真面目だった家庭教師の外見が消えていく。

 そうだ。ロレンソさんが事務所の階段で落とした、あの手帳。あそこに書いてあった図も、お城の構造を表していたんだ…!

「私の家にはシチリアのどこかの遺跡に開祖が財宝とともに眠っているという言い伝えがあったんだ。この春頃、たまたま特徴が一致するこの城のことが観光案内のホームページに載っているのを知ってね。まさかと思ったが、そこが考古学者の困った性分というか、ついはるばる海を越えて来てしまったんだ」

 虎人はおどけて騎士の亡骸と肩を組んだ。かと思うと、こともあろうに騎士の顔にベッと唾を吐きかけた。

「まったくご立派なご先祖様だよ!愚かでお人よしの島の連中をだまくらかして掻き集めた富を故郷に持ち帰りもしないで、こんな穴蔵で最期を迎えるとはね。あなたのお陰でとんだ骨折りだ。死体が都合よく蝋化したことだけが救いだね。全てが済んだらスペインの我が家に飾ってやろう。愚かな盲信者の蝋人形、ここにございってね」

 背中に電気が走った。毛皮が一気にトゲみたいになって、僕の全身をくまなく覆う。

「…ひどいよ…!」

 うん?とこちらを向き直る虎人。対する僕の恐れはどっかに行っちゃった。

 お腹がムカついてどうしようもない。僕は、後先構わずロレンソさんに飛びかかる!

「ひどいひどいひどい!この人は、困ってる人のために命をかけて宝を守ったんだ!みんなのことを考えて、たった一人でこんな寂しいとこに残ったんだ!それなのに!」

「くっ、このガキ!」

「謝れよ!この人に、エウリディーチェに、シチリアのみんなに、手をついて謝れえ!!」

 僕はガブゥと二の腕に噛みついてやった。ロレンソさんはギャッと喚いて僕を振り落とす。そしてすぐさま僕の喉笛を掴んで、そのまま片手で持ち上げた。

 首根っこからぶら下げられた僕は、顔を蹴ってやろうと足でもがく。けれど届かない。細くて筋肉なんか全然見えない体なのに、なんて強い腕力なんだろう!

「宝探しはね、荒事も結構あるんだよ。岩盤をくりぬいたり固い土を掘る。それだけじゃなく、例えばゲリラや山賊と戦うこともある」

 頭が熱い。顎のところで血が止まる。こめかみがズキズキしてきた。息ができなくなる。

 エウリディーチェのひきつった顔が下に見えた。百階建てのビルの屋上から眺めるみたいに、遠い…

「エウリディーチェ、逃げて…」

「私の南米での別名を教えてあげようか?『アナコンダ』というんだ。人間を絞め殺す獰猛な大蛇さ」

 虎人はキュッと手首をひねる。僕は苦しくてベロを出す。目の前が暗くなっていく。もう、ダメ…かも…

 逃げて、と僕は喉から最後の空気を絞り出した。

 綺麗なエウリディーチェ。可愛いエウリディーチェ。君が殺されるなんてダメだ。だから逃げて。僕のことなんかどうでもいいから!

「良い子には夜更かしが過ぎたね。おやすみ、アルフ君」

 手足の力が抜けた瞬間、フッと重力が消えた。胸からパパのメダルが滑り出る。その反射が一瞬散った。

 あ、僕死んだんだな、と思った。

「おいアルフ!てめえこのバカ野郎が!」

 え…?天国にジャンおじさんの塩辛声が…?

 変な組み合わせだなあ。天国にはパパやママがいるはずなのに。お花畑とかあって天使がいてさ。

「アルフ、起きてアルフレード…目を開けてちょうだい…」

 あー、これだよこれ。エウリディーチェの声だ。僕の天使だ。あったまってホッとするなあ…

 まぶたに熱いものが滴ってきた。

「あれ…」

 ぼんやり曇った世界の真ん中に、金髪を振り乱した女の子がいて、その子の目から真っ直ぐに落ちてきた涙が僕の頬っぺたを打っていた。

「なんで泣いてるの、エウリディーチェ。僕またなんかしたっけ」

「………!」

 エウリディーチェはふるふる唇を震わせ、小さくバカとつぶやいた。

 頭がだんだんハッキリしてくる。僕が殺されかけたあの時、ジャンおじさんが灰青色の竜巻みたいに洞窟に走り込んできた。そしてロレンソさんの胴体に肩をブチ当て、数メートル吹っ飛ばしたんだ。

 で、僕はというと、エウリディーチェの膝枕でこうやって横になってるってわけで…

「うわあああ!」

 僕は跳ね起きて、海老みたいにお尻だけでビヨンビヨン後ずさった。

「アルフ、急に動いたら危ないわよ」

「何やってんだお前」

「えっ、その、だって!」

 人差し指同士をツンツンし口ごもる僕を眺めて、おじさんは「はっはーん?」と鼻の穴を広げた。

「あの、エウリディーチェ、ぼくはもう平気だから。気にしないで!アリガト!」

 目尻をにんまり下げて脇腹をこづいてくるいやらしいハスキー系の犬人は無視して、僕は赤くなりそうな顔を下げる。

 エウリディーチェは何を察したのか、ちょっと首をかしげてクスッとした。

「さ、あのキザ野郎を警察サツに突き出して、ボルヘスのデブ親父から金をしこたまふんだくるか」

「ちょっとおじさん!」

「ん、あ!嬢ちゃん……えーとな、今のは言葉のあやっつーか本音が出ちまったというか」

「いいんです」エウリディーチェは肩をすくめる。「どうせお金はたくさんあるんです。それに悪者を捕まえたんだもの、そんなの当たり前の報酬だわ。いいえ、足りないくらいよ」

「果たしてそうかな」

 パンと何かが弾けた音がした。ジャンおじさんが、「ぐおっ」と、いきなり膝をつく。背中の腰に近いところにやる手の指の間から血が染み出て、服に赤い楕円を作っている。

「おじさん!」

「畜生…俺様としたことが…シクッた…」

 虎人が、ロレンソさんが、黒い方の片目を押さえて立っていた。ふらふらしていてピストルの狙いが定まっていない。

「こんなところで諦めるわけにはいかないんだよ。この財宝のために陰気なオタク娘のご機嫌をとって、田舎者の成金ジジイにへつらって、しこしこ壁土を掘り回ったんだ」

 ジャンおじさんは「なんでもねぇ、かすっただけだ」と口の端で囁いた。やられたフリをして、逆襲しようとチャンスをうかがっているー…僕は犬人の三角形の眼が怒りにたぎっているのに強さを得て、何か使える武器はないかとズボンのポケットを引っ掻き回した。

 と、ちょうど良いものがベルトに挟んであった。プラスチックで軽くて掴みやすい。僕の、頼りになる武器。

 ロレンソさんはイライラと、今度はおじさんの頭を撃ち抜こうとしていた。

 思い出した。傷を負って片目の状態は照準が難しいんだと、刑事物のドラマを一緒に観たときおじさんが言ってた。「リアルじゃこうはいかねえ。両目じゃなきゃ危なくって撃てねえよ」って威張ってた。

 僕は腰から、今の今まであることを忘れていたピストルを抜いた。両手を伸ばし、足を開いて大地を踏みしめて、家庭教師の温和な仮面を脱ぎ捨てた凶悪な虎人の無事な方の目ー…水色の瞳に照準を合わせる。

「ふっ。そんなオモチャで私を倒すのかい」

 あのドラマの悪役は、今のロレンソさんよりもずっと弱そうだった。けど、負けるもんか!

「そうだよ。ロレンソさんはエウリディーチェを脅かした。ジャンおじさんを撃った。もうエウリディーチェの先生でも僕の友達でもないよ」

 ロレンソさんはククククと玉を転がすように喉を鳴らし、おじさんから僕へ銃口の先を移した。

シチリア人シシリーは身内を傷つけるやつは許さないんだよ。ロレンソさんは僕のジャンおじさんを撃ったから。家族を傷つけたから。だから、僕の、敵だ!」

 虎人の眉が寄り、照準の先を相手…僕に重ねようと目が細くなる。指に力が込められる。エウリディーチェが叫ぶ。ジャンおじさんは僕を庇おうと立ち上がる。

 地面にあった岩の一つの影に身をすくめていたメーラが、前触れもなくロレンソさんの肩に飛び乗った。えっ、と気を削がれた瞬間に僕はパキンと引き金を引く。

 まるで奇跡だった。薄緑のプラスチックの弾丸は空を切り、真っ直ぐロレンソさんの驚きに大きくなった左目に吸い込まれた。

「ぐあああああ!!」

 ロレンソさんは猿を自分の頭から叩き落とし、目をむしばむ苦痛に体をよじる。

 まるで奇妙な踊りをするようにこちらへ来る。おじさんは、「ずらかるぞ」と、僕とエウリディーチェをひょいと両脇に抱えた。

MierdaくそっMierdaくそっ…!」

 まだ未練がましく宝箱にとりつき、ロレンソさんは金銀の品々をわしづかむ。

「私の物だ…フフフ…何億ユーロか…いや何十億か…」

 両目をめしいた虎人の上で、騎士の亡骸が動いた。

 この後見たものを、僕の周りの誰も信じてはくれない。エウリディーチェを除いて。「光の加減でそう見えたんだ」って言われるけど、確かに僕は見たんだよ。

 さっきまで微笑んでいた騎士の顔が、恨みのこもった不気味な表情に様変わりしていた。糞便の山にたかる巨大なゴキブリのようにモゾモゾとお宝を撫でくる浅ましい男。こんな男が私の子孫だとは許し難いー…!そう言っているようだった。

「…へ、へへ…冷たい…ヒンヤリしている…いい感触だ。本物の貴石ジュエル。たしかな黄金オーロだ…」

 騎士フェルナンド=セルバンテスが、命を再び吹き込まれたロボット仕掛けのように前のめりに倒れた。ロレンソさんの手が剣に当たって支える力が外れたからだ、っていうのがジャンおじさんの説明だけど、僕には自然にそうなったんじゃないと思えるんだ。

 だって、偶然倒れた騎士の死体が松明の棒を二本とも巻き込んで、結果ゴウゴウと燃え盛る石炭がロレンソさんの上になだれ落ちたんだ。そんなの天罰じゃなけりゃ、普通起こらないよね。

 ロレンソさんが絞り上げたおぞましい絶叫を後に残して、おじさんは走り出した。振り返ると宝箱から真っ赤な炎の柱が上がっていた。



 隠し通路から出てきた僕らは、すぐにお城の使用人のアガティーナさん達に囲まれた。

 ジャケネッタさんが「あらいやだアンタ、怪我してるじゃないか」と嫌がるジャンおじさんのシャツを脱がせにかかる。

「エウリディーチェ!」

 ワイン樽に手足をつけたみたいな黒豹人のボルヘスさんが、おろおろとエウリディーチェに駆け寄った。

「おおお、エウリディーチェ!可哀想に…!どうしてお前がこんな恐ろしい目にあったのだ」親鳥が卵を包むようにエウリディーチェを抱き締める。「あんな男を家に入れた私の過ちだ。もう、誰もお前に近づけるものか」

 それから、すぐ隣にいた僕に、研いだ包丁より切れそうなにらみを向けた。

「貴様、この薄汚いドブネズミめ。ワシの娘をかどわかしたばかりか、危険に引き込みおって!この目の前から即刻失せるがいい!」

 え、僕そんなつもりじゃないです…と言い返せないぐらい、ボルヘスさんは怒り狂っている。

「お父様の馬鹿!」

 エウリディーチェの金切り声に、僕よりビクッとしたのはボルヘスさんだった。

「亡霊を見たって言ったのに、誰も私を信じてはくれなかった。お父様も、城の皆も!…でもアルフは始めから疑わなかった。私を、私の言うことを信じてくれた。だから私から頼んで宝探しをしたのよ。アルフレードは悪くない!それどころか、悪者から身を呈して守ってくれたわ!」

「エ、エウリディーチェ、私はお前のために」

「嘘ね」エウリディーチェの顔が悲しくかげる。「私が外に行くことも、友達を作ることも、走ることも禁じて。『お前のためだから』なんて欺瞞ぎまんもいいところよ」

「エ、エ、エ、エウリディーチェ…」

「お母様が亡くなってから私がどんなに寂しかったか分かる?お父様は仕事、仕事だったから、分からないわよね」

 親を亡くした寂しさ。それは僕も分かる。でもだからこそ、自分のパパに面と向かって悪口を、それも僕の好きな女の子が言っているのが辛かった。

「せっかくできた友達に、アルフにあんなひどいことを言うなんて…もう嫌い!お父様なんか死んじゃえばいい!」

 ヒュッと平手が飛んだ。

 エウリディーチェが頬をおさえる。僕は驚いて、女の子をひっぱたいたその人を見上げた。

 メイドさんの服を着たアフガンハウンド系犬人のお姉さんの豊かな胸が、平手打ちの反動でゆさゆさ上下していた。

「いい加減にしなさい。この甘ったれ娘!」

 ボルヘスさんもポカンと口を開けるばかり。で、僕も、離れて手当てを受けているジャンおじさん達以外のほかのみんなもあんぐりしてた。

「あなたのことをお父さんが死ぬほど心配していたのを、きちんと分かりなさい。男親は娘を殴れないから、本当なら叩いてしつけたいところも我慢しているのよ。そうでしょう、旦那様」今度はボルヘスさんに言う。腰に手を当てて迷いがない様子は女戦士そのもので、なんだかカッコよかった。「私は謝りませんから。これで正しいんだって思ってますので。お気に召さなければ、どうぞ今夜限りでクビにして下さって結構です」

「ぬ、ぬぬぬ」大事なエウリディーチェの柔らかいほっぺたをビンタされたので、ボルヘスさんのオデコにはさっきよりも激しく青筋が立っている。「いいだろう、望み通り解雇だ。荷物をまとめて出てい」

「待って、お父様」

 エウリディーチェが二人の間にしずしずと進み出た。

「お父様、私を心配して下さったの?」

「それは…」

「さっきアガティーナさんが言ったのは本当なのですか?」

 ボルヘスさんは、ふうと憤怒の面を緩める。

「…当たり前だろう。実の娘が心配でなければ、それは父親ではない」もう一度、固くきつくエウリディーチェを抱き締める。「私は妻を愛している。そしてエウリディーチェ、お前は私達二人の、何物にも代えがたい至高の宝なんだよ」

 エウリディーチェは泣き出した。ごめんなさい、ごめんなさいお父様…とボルヘスさんの首筋に何度もキスをする。ボルヘスさんは、いいんだ、苦しめて悪かった、とエウリディーチェの細い背中をさすった。

 なんだかいいなあ、と溜め息をついていると、「ちょっとアンタ!」というジャケネッタさんが叱る声がして、熱くてヤニ臭い風がフイゴみたいに頭のてっぺんに当たってきた。

 シベリアンハスキー系の犬人が、やけにゼーゼーと息を荒げて僕の背後をとっている。

「あ、ジャンおじさん?」

「おいアルフ…ちっと…ツラこっちに見せろ」

 うん、と何も考えないでそうしたら、横様にグーで殴られた。

 上顎でバキッとイヤな音がした。足までぐらついて、僕はへたへたと座り込んだ。

「勝手に動き回るなって、俺は言ったよな」

 うん、と僕は頷く。波打ち際にいるみたいに頭が揺れて、周りをヒヨコがピヨピヨ飛んでる。

「一人で突っ走って、挙げ句に殺されかけたんだぞ。分かってんのか、コラ」

「分はっ…へる、よ」

「いいか、二度とこんなマネはするなよ。もし破ったら、この俺様がぶっ殺すからな。本気だぞ」人差し指を僕にビシイと突きつける。「もうしないって誓え」

 パパと、ママに誓います。もう僕一人で危ないことは、しません。僕はちゃんと右手を挙げて宣誓した。

 打たれた側が、じわじわ痛くなってきた。唾に鉄の味がしてきた。

「よーし…それでいい…俺は…お前の心配なんざあなぁ……」

 ぐらっ、とおじさんの巨体がバランスを崩した。

「ジャンおじさん!」

 ドオと仰向けに引っくり返ったおじさんは、目を閉じて、「イグナシオ…」とパパの名前を口にした。それきり、しゃべらなくなる。

 僕は気絶したおじさんにとりすがり、分厚い胸板を必死に揺さぶった。

「おじさん!おじさん!死なないで!死んじゃいやだあ!!」

 アガティーナさんが素早く背中にできた傷を調べる。

「血が出すぎてる。おばさん!」

 ジャケネッタさんはしきりにエプロンをこすり合わせている。

「あたしゃちゃんと包帯を巻いたよ。動いたら駄目だよって止めようとしたけど、この人が…」

「救急車は?」

「電話で呼んだけどねえ」

 いつになるか…と言葉を濁す。

「いいわ。あたしが連れてく。アルフレード、車のキー借りるね」

 おじさんのベルトからサッとキーホルダーを取って、おじさんを静かに外へ、自分は車を回してくるからと言いつけて階段を駆け上る。

 おじさんを日産の後部座席に横にし、エンジンをかけるアガティーナさんの横の助手席に、僕も飛び乗った。

「アルフレード、君は残ってなさいよ」

 僕は黙って前を見つめた(口が痛くて話せないってのもあったけど)。テコでも動いてやるもんかと膝元にこぶしを握って。

「…そうね。なら、今からしばらくはしゃべらないでね。舌を噛むわよ!」

 アクセルを奥まで踏み込んで、船の操縦をする海賊みたいにハンドルの取り舵を切る。急加速で座席に背中が押し付けられた。スピードはぐんぐん上がり、森の景色は後ろに流れ去り、パレルモの街の灯がロケット花火みたいに近づく。

 僕は目尻をゴシゴシこすった。

 おじさんの言葉を思い出したんだ。

「いいかアルフレード。男ならどんなときでもメソメソしてちゃいけねえ。肝っ玉しっかり据えて、どんなに苦しかろうが耐えろ」

 あれは、パパが死んですぐだった。葬儀が済み、弔問の人達がいなくなったガランとした墓地。柩が運ばれる前からわんわん泣いていた僕に、静かに、でも厳しくおじさんは言ったんだ。

「お前が男らしくしてたら、天国のイグナシオもきっと喜ぶ。手を出せ」

「?」

 顔中を涙と鼻水で濡らした僕に、ジャンおじさんは一枚の金色のメダルを握らせた。

「あいつの形見だ。持ってろ」

「おじさん、誰?」

 シベリアンハスキー系の犬人は、口をひん曲げて牙を剥いた。無理矢理作ったその笑い(?)が怖くてまた泣きそうな僕を、ああもう泣くな!と怒鳴って、事務所に連れてってくれたんだ

 それからずっと僕の面倒を見てくれた。いつも文句ばかり言って、毎日喧嘩してたけど、それが僕たちにとっては当たり前だったから。

 口の奥が、鉄から塩の味になる。それでも僕は泣かなかった。病院に着いて、おじさんがストレッチャーに乗せられて集中治療室に運び込まれてからも。その前の長椅子に座って、一晩中じっとしている間も。

 なんでそうしたかって?誉めてもらいたいからに決まってるでしょ?

 誰にって、もちろんジャンおじさんにだよ。

 下品で意地汚くて、スケベで大人げなくっていい。元気になって、いつもみたいにぶっきらぼうに僕のおつむりをバンバンしながら、バカだ生意気だと言って欲しい。

 治療室の廊下の窓からも星空が見えた。エウリディーチェが教えてくれたジャンおじさんと僕の星は、すぐ見つけられた。

 頼もしいその星、獅子座の心臓に両手の指を組み、僕は祈った。

 おじさんが遠くに行きませんように、って。



 それからは、ちょっと大変だった。

 まずステラさんがお見舞いに来た。僕の肩に手をかけたり気休めを言ったりしないで、ひたすら無言で横にいてくれた。

 次の日の朝目を覚ましたら、なんでか僕はおじさんのベッドに寝かされていた。おじさんは死にかけたって信じられないくらいパカパカタバコをふかして、僕が寝坊助だってからかった。

 顔色のよくなったおじさんの、いつもと変わらない憎まれ口。それがどれくらい嬉しくて、僕がどんな風にその喜びを表したかは、今になってみると恥ずかしいからはしょるね。

 まあ、相手が男でも構わずキスできるってのは、子供のうちだからできることだって感じた。

 その翌日おじさんは退院した。「あんな消毒薬臭えとこじゃエロ本も読めねえや」ってしょーもないことをぼやいてた。

 ボルヘスさんからお礼状が、それからたくさんの後金がもらえたよ。警察署では表彰状もくれたんだ。でも僕達にとって一番嬉しかったのは、真ん中の方だった。だってジャンおじさん、借金すごいんだもん。

 おじさんは僕に自転車を買ってくれた。練習にも根気良く付き合ってくれた。

 なんでか知らないけどステラさんが時々うちに来るようになった。「ちょっとイイ感じなんじゃない?」と言っただけなのに、ジャンおじさんに叩かれそうになって30分ぐらい逃げ回った。

 って、まあ、ここまではあんまり大変なことじゃないよね。

 じゃあ何が起こったのか。

 月曜日の朝。小学校の教室のドアを力無く開けて、「おはよー…」と自分の机にホーム戦で負けたサッカー選手みたいにぐちゃりと腰を下ろす。

「なんだよ、どうしたんだよアルフレード。ゾンビみたいやん」

 途端にコアラ人のラウロが食いついてくる。僕の親友で気の良いやつだけど、ぐったりしてるとこにもってきてこのやかましさは、キツイ。

「うーん…色々あってねー」

 ぽてっとした丸顔のラウロは、「何か事件かっ!」と僕の襟を掴まんばかり。

 うんまあね、と答えると、スッゲー!話して話して!と騒ぎ立てるからクラスのみんなが寄ってくる。まずった。マジで疲れてるのに…

 ヤギ髭のフィリベルト先生が教室に入ってきて、蜘蛛の子を散らすようにワーッてガタガタ席につく。

「皆さん、授業を始める前に転校生を紹介しましょう。君、入ってきなさい」

 はい、と耳に懐かしい透き通った声。

 電池が入ったみたいに僕は跳ね起きる。

 教壇に上がる夜明けの紫色のワンピースの女の子。猫人の耳が、女神様もうらやみそうな金髪から出ている。ややこわばっている横顔は、緊張してるんだ。

「今日から皆さんと机を並べるエウリディーチェ=デッラ=ボルヘスさんだ」

 先生に促されて、ちょっぴりおどおどしながらエウリディーチェは名前を告げた。

 大変なことー…そう、これ以上に大変なことなんて多分無いよ。

 僕を見つけて、お日様みたいに微笑むエウリディーチェ。僕はもう、ダルさも疲れも無くなっちゃった。

 次の休み時間、クラスの誰もがエウリディーチェの机(僕の斜め後ろ!)に殺到した。

 でもエウリディーチェが初めに誰と口をきいたか、ウズウズしながら話しかけるタイミングで困ってた僕の背中をどんな風にこづいて振り向かせたか、それでまた大騒ぎになったんだけど、長くなるからまた今度にするね。

 ロレンソさんは洞窟の中でなんとか息をしてるのを逮捕された。外国で何人も人を殺していて、トレジャーハンター(調べたけど、まともな人の方がずっと多いんだよ)としては悪名の方が高かったらしい。

 あの騎士団の遺産はそっくり寄付されたんだって。ボルヘスさんの相も変わらぬムッツリ顔の写真が、新聞の一面にデカデカと載ってた。「勿体ねえなあ」ってジャンおじさんは言ってたけど、まんざらそう思ってもいなさそう。

 僕もそれで良いんだって感じる。あのお宝は、独りじめしちゃいけないんだ。みんなの物だからね。

 それから、僕が悪者をやっつけるのを手伝ってくれたあの猿…メーラには子供がいたってことが分かった。双子の、ほんとに掌に乗っちゃうぐらいのチビたち。双子だったから、オスに「アステリオン」、メスには「カーラ」って名前をエウリディーチェがあげた。母猿が大犬座だから、子猿は猟犬座なんだってさ。うーん、ぴったりな星座があったのも、なんか不思議だなあ。



エピローグ



 今回の事件で、僕は大人には二種類いることを知った。

 ロレンソさんみたいに、平気で悪い嘘をつく大人。優しい仮面を被っていて、その表面はメッキされてピカピカなんだ。

 だけどこういう人には、子供も、大人だって近づいちゃいけない。でないとズタズタに咬み殺されるちゃうからね。

 そしてもう一つ。恥ずかしがりやで、優しくて、強がって見せる嘘つきの大人。エウリディーチェのパパや町の人も、大人は大体がこのタイプだと思うんだ。

 なかでもうちのジャンおじさんはとびっきりだ。

 口から飛び出てくるのは先生に怒られそうな品の無い言葉ばっかりだし、態度だって横柄で、がめつくてワガママで僕より子供っぽいんだもん。

 だけど…

 だけどさ……

 どうせ嘘つきになるんなら、僕は優しくなりたいよ。

 今の僕の将来の夢はね、探偵になること。こないだ作文にも書いた。おじさんには隠してたけど、ばっちり見つかって、ばっちり笑われた。

「おま、おま、お前が探偵~?冗談よせよ」

 って、お腹を抱えて笑い転げるから、僕は「ジャンおじさんみたいになりたいの!」と手の届く大きなお尻をぶった。

 そしたら急に真面目になった。そんでもって「へっ、そうかい」って言ってどこかに電話をかけてた。

 そうしたら看板屋さんがやってきて、おじさんは何か注文をして、表に掲げていた看板が取り外されて運ばれていって、夕方にまた戻ってきた。

 僕は宿題をしながら今晩はステラさんが来てくれるのかな、それともレストランの方に行くのかなと食べ物のことばかり考えていた。

 そこへ窓の下から「おおーいアルフレード!ちょっとおりてこーい!」っておじさんががなった。

 パタパタ駆けていくと、夕闇に沈む道路の真ん中を占領するようにおじさんが腕組みで立っていた。

「看板を新調したぞ。見てみろ」

 見上げると、ビルの横には両面に名前を入れた箱がついている。

「前と同じじゃない?どこが違うの?」

「まあ見てろ」

 おじさんは腕時計を確認した。

「5…4…3…2…1」

 0、と顔を上げる。看板が輝いて、夕闇が打ち払われた。

「ネオンを入れたんだ!すご……」

 言いかけて僕は、デザインが大幅に変わっていることに気が付いた。

 一番上には、星を吐き出すライオンのシルエットが描かれている。

 そしてその下には、こう書いてあったんだ。

『ジャンカルロ=デッラ=レグルス探偵事務所

      助手見習い・アルフレード=コッレオーニ』

 バッとおじさんを見ると、照れくさそうにワシワシ顎を掻いていた。

「おじさん!」

 飛び付く僕を、「イテッ、おい、怪我してんだからよ」と離そうとする。

「あら仲が良いわね」

 落ち着いた低いソプラノ。ステラさんだ。ドレスでハイヒールだから、今夜はレストランだ!

「おうステラ。わざわざ歩いてくんなよ」

「この方が良いのよ…あれ?看板が新しくなってるじゃない」

 まあな、と僕をむしりとってガムを口に差す。

「前より探偵事務所らしくなったわ。シンボルマークも素敵ね」

 フン、とおじさんはポケットに突っ込んだ右手をこころもち曲げる。そこへステラさんがスルリと腕を巻き付ける。

 歩き出しながら、今晩のメニューを聞いてみた。エリンギと豚の岩塩包みのパイと聞いて、僕のお腹はギュウウと、どよめいた。

 もう待ちきれない、早く行こうよ!ったくるっせえな、そんならお前は先に行っとけ。あらダメよ一緒に行かなくちゃ…という会話が事務所の入ったオンボロビルの前から遠ざかり、だんだん小さくなる。

 群青の空は今夜も澄み渡る。僕達三人のひとかたまりの影が、辻を曲がって裏道から消えた時。

 獅子が躍動する看板の上を、斜めに流星が尾を引いていった。



おわり

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