騎士団長城の亡霊事件~サイドA~ジャンカルロ編

 地中海を渡る風が鼻をツンと通り抜けて火照った頭を冷やしてくれる。潮騒が、近い。

 磯の匂いがする海岸線をくねる道路。俺はブレーキもチェーンもガタガタな親父の自転車にまたがって風を真正面に受け、大好きだった親友と、岬の突端へ延々続く道路で車輪を飛ばしている。

 ああそうだ、分かっているさ。これは夢だ。いつもの、浅くおぼろで切ない夢。

 時計の針が巻き戻り、およそ二十年の歳月をさかのぼる。俺も親友も小学生。半ズボンにブカブカの開襟シャツ(恐らく父親のもの)をひっかぶり、カーブにさしかかると海から吹きつける風の圧力に負けぬよう身体ごと自転車を傾けて、懸命にペダルを漕いでいた。

 そして親友は鳥打ち帽を目深に被る。振り返る顔は笑っているようだが、輪郭は背景の青空に溶けてしまっていた。

「早く来いよ、ジャン!」

 コリー系犬人のそいつは、象牙色の背中の毛をなびかせて、立ち漕ぎで加速をつける。俺はどうしても追い付けない。

 やがて道路は上り坂となり、天空に突き出すような岬にさしかかる。だがその突端がなぜか海へ向かって落ち込んでいて、現実世界ではぐるっと岬を回って下るはずの行く先には、俺の脳が映し出す闇があるばかり。

 俺は親友を止めようと半身だけ前に出た。相手のシャツの端を掴むために手を伸ばす。左右上下に翻った布きれは、必死になる俺の事をからかっているように指先から逃げる。

 駄目だイグナシオ。へは行くな。お前にはまだ早すぎるじゃないか…!

 と、そこで夢は途切れた。



 俺は背中を複数の寄生虫が這いずっているような強烈な感触に肘掛椅子から飛び起きる。

「うっひゃあああおえわぁお!」

 俺様がいくら30代の男に相応しい貫禄があったとしても、背中の毛皮に何かが潜り込んでのたくるようなおぞましい感触には叫びを上げずにいられなかった。

「でっ、どっ、ななな何ッじゃこりゃああ!!」

 わたわた背中をまさぐるが肝心のポイントまで手が回らず、虚しくワイシャツを引っ掻くだけ。そのそばに立ち、俺を平然と見上げるボーダーコリー系の小僧が、甲高いボーイソプラノで言う。

「おはよ、ジャンおじさん」

 小僧の毛皮は白と黒に分かたれたモノトーン。瞳はオリーブの葉と同じ濃い緑。小さい半ズボンの尻から出した尻尾はふさふさとして、背の後ろに組んだ両手の上でピョコピョコ踊っている。

 わけあって俺が預かっている親友の忘れ形見、アルフレード=コッレオーニ。10歳の小生意気な糞餓鬼だ。

 そしてここは、俺が事務所兼住居として一棟を丸ごと借り上げているオンボロビルの応接室。何の…って、分からないか?

 この俺様、筋骨隆々たる肉体を誇り、押し出しの強さが我ながら男らしいと思っているシベリアンハスキー系犬人の探偵、ジャンカルロ=デッラ=レグルスの探偵事務所だ。表に看板もかかってるだろう?いいかげん砂埃と錆のせいで多少読みづらくはなっているが。

 今日は5月15日、気持ち良い快晴の金曜日。俺は前日にカタをつけたマフィアからの依頼…「息子の恋人がしっかりした身許かどうか調べて欲しい」という呆れたものだった…で、一週間ろくに眠っていなかった。だから朝飯の後にシガレットなどをたしなみ、知的な孤独に浸るうち眠気に誘われ、椅子に疲れた背を預けひとしきり優雅なまどろみを楽しんでいたのだ。

 大人だけに、それも孤高の精神を持つ者だけに許される時間。そんな気分はいきなり台無しにされたわけだ。

 って、こういう説明を滔々とうとうとしている状況じゃない。背中!俺の背中が何か得体のしれない物に侵食されている!

「お客様だってば」俺に悪戯を仕掛けた餓鬼が、しれっとして続ける。「何度も声かけてるのに、なんで起きないかな」

「アルフ、てめ服に何入れっ…ッ…ッ!うひゃおおお!」

 背中と服の間でウニョウニョ蠢く物体に、情けないことだが悲鳴を上げてしまう。

「とととッ、取れ、取りやがれこの野郎!」

 はいはい、とアルフレードは余裕しゃくしゃくに俺の背中から不快感の正体を引き抜く。なんだか安っぽい蛇のガラクタだった。電動を内蔵しているらしく、ジイジイ鳴きながら身をくねっている。

「ジャンおじさん、びっくりしすぎ」

 無邪気に笑う小僧の脳天をベシャンとはたいてやる。

 痛いなあ何するの、と口答えするところにもう一発仕置きをしてやろうとするが、狭い事務所の中をチョコマカ逃げる。

「ちょ、畜生待てこの!」

「なんで怒るの!僕悪いことしてないでしょ!」

「あのー、ちょっと、よろしいでしょうか…?」

 おずおずと奥ゆかしい調子の声など、俺様の鼓膜には響かない。

 走り回る小さな襟足を捕まえ、ぐいと持ち上げる。生意気なことにアルフレードは抵抗を諦めず、俺の口に両指をかけて「くらえ」と左右へ引き伸ばす。俺も勿論やり返す。

大人おほなをナメやがっへぇ~!わえお陰おはへめひを食えへるほ思っへんは~!」

ははひへよ~!」

 互いに顔の皮膚をギリギリ引っ張り合うところへ再びすがるように「あの、すいませんが」と紳士的な声がかかる。俺は「何だらんひゃ!?」と振り向いた。

 紫煙にくすんだオフィス用品といくらかの置物、床はゴミもしくはゴミになりかけの物体だらけー…そんな生活臭あふれる我が根城。異彩を放つ虎人の優男が、口許をハンカチで抑えて身をすくませている。

 恐らく20代前半、少なくとも25歳を過ぎてはいまい。正錦の黒地に銀の縞模様を流した洒落た上下揃いのスーツ。糊のきいた染み一つのない白いワイシャツ、光に千鳥格子が浮かび上がる朱のネクタイ、タイピンは24金だろう。それからギラギラしたブランドものの水牛の黒靴。手首にちらりと見えた腕時計は本物のブルガリか?

 赤茶けた毛皮に三日月を引き延ばしたように玲利な眉。右が黒く左は青い印象的な瞳に、女のように長い睫毛、彫りの深い頬。やや鋭い顎のライン。芸術家がモデルにしたがりそうな、ややもすると中性的ななまめかしさを漂わせる顔立ちだ。

 遊び方を心得た金持ちのボンボンか、ナポリあたりのファッション雑誌編集部から撮影に出張ってきたような野郎だ。俺の事務所に全くそぐわないぞ。

 ならばと俺は瞬時にツケをためている町の店や公共料金の種類、数十に及ぶ借金先を脳内データベースに照合する。

 そして「あ」と思い付いた。

「ああ、ステラの店からまわされて来たんだな?」

 ステラ。俺がほぼ毎晩飯を食う、町のレストラントラットリア『アマゾンの女王』のオーナー。こっちもまあ縁があり、お互いに餓鬼のうちからの付き合いだ。経営も大層順調だそうだが、男は面倒になりやすいから店に使わないというちょっと変わった信条を貫いている。だが、それもそろそろ大台に登ろうかというツケの取立てともなれば話は別なのだろう。渉外役に雇ったというならこの見た目からして軟弱な野郎にも納得がいく。

「ここんとこツケがかさんでたからな…」財布を覗き込むとゼロの少ないユーロが何枚か、肩身が狭いですゥ、と言うように弱々しく収まっていた。「う、ちっと厳しいな」

「私はツケの取り立てではありません」恐縮しながら手を振って否定する。伸ばした袖口からは、コロンでなく香水がたちのぼる。洒落っ気もここまでくると薄気味悪い。「私はですね…」

 アルフレードが唇をとんがらして虎人の先を取る。

「だから、この人はお客さんだってば。何回言わせるの?」

 その小憎らしい言い種に拳骨を振り上げる動作を見せてやる。小さな犬人は尻尾を丸めてピュウとシンクに避難した。

「私はロレンソ=セルバンテスと申します。本日は貴方に依頼があって参りました。これが名刺です」

「セルバンテス?ってこたぁ、あんた…」

「あ、はい、お察しの通りスペイン出身イスパーニャです。考古学者でして、学術調査のかたわら、副職に家庭教師などをさせて頂いています」

「へえ、あんたみたいなのが俺に依頼たあ珍しいな」俺は早速腰かけながら名刺を電灯に透かす。怪しげな暗号やら血の染みは無いな。「どこの紹介だ?ああそれから先に断っておくがな、敵討ちとヤクがらみは御免だぜ」

 セルバンテスは来客用の椅子に尻を落ち着かせ、いえいえとんでもない、何をおっしゃいます、と盛んに両手をワイパーのように動かす。華美な装いはどうやら伊達で、中身は青瓢箪の若造らしい。

 名刺は上等な厚紙で、四辺に細かいエンボス加工で縁取りがしてあった。


“ボルヘス家専属家庭教師 ロレンソ=セルバンテス

             考古学博士”


 俺はつい、これは何の冗談だ…と洩らしそうになる。

 ボルヘスといえばシチリアでも五本の指に入る資産家だ。ほんの何年か前までは、随一の、という修飾語がついていたくらいの左団扇の金満ぶりだったのだ。

 ここ最近は世界不況の余波を避けきれず、家業でもあるオリーブやオレンジの畑、それらの加工工場を守るために市内の不動産を手放す羽目になったのが、くちさがないパレルモっ子の下町暮らしに聞こえている。

 住まう世界が違う人間から、どちらかというと探偵よりも便利屋として名高い俺の事務所に話が来るというのがそもそも怪しい。だからまあ、眉唾と言って悪ければ、何か相応の裏があるとしか思えない。

 アルフレードはコーヒーを客人に勧めたまでは神妙な顔でいたが、すぐにはんけが解けて「それなあに?何て書いてあるの?」と野花にたかる虻のように俺の周囲を飛び回る。遠ざけるとかえってやかましくなるので、生返事をして放っておいた。

「突然お邪魔したことをお詫び申し上げます。なにせ探偵の方にお仕事をして頂くのが、その、初めてでして、どのように筋を通せばよいのか分からず…」

「何を誤解してるか知らねえけどな、こちとらヤクザじゃねえんだ。普通に電話してきてくれりゃ二つ返事で出向いてくぜ」

 はあ、そういうものですか、と大袈裟に感心している。念のためここを選んだ理由を確かめると、まず市内の局番で探偵業の一番前にあったからだとかしこまる。

「それだけでなく、こちらは元警察官の方が運営されているとも伺いましたので。依頼の内容につきましても大手の事務所よりこうしたささやか…いえ、単独でお仕事をなさっている方のほうが、どちらかといえばお向きかと存じましたから」

 濁した言葉を俺は聞き逃さなかった。馬鹿にされるのは嫌いだが、婉曲的にカバーされるのはもっと嫌いだ。

「んじゃ早速聞かしてくれや。天下の、とまでいかなくても、お大尽のボルヘス様がこの俺に何の相談だい」

 虎人セルバンテスは一息間を置き「亡霊退治です」と告白した。

 俺はつい、ふが、と豚っぽく鼻を鳴らしてしまった。

「ああ、誤解をなさらないで頂きたいのですが、オカルトの類いの話ではないのですよ」胸元に差し込んでいた純白のハンカチで額をぬぐう。「私の主人の、ボルヘス家当主のお嬢様が、この一月あまり屋敷内に不審な物音がする、亡霊に違いない…と、こうおっしゃいまして」

「ほーお」いい大人が箱入り娘の与太話につきあって、わざわざこんな下町くんだりまでお出ましかい。「気のせいだろ。でなきゃあれだ、最近は分裂症でなくて統合失調症っていうんだっけか?それじゃねえのか」

「お嬢様に精神面での疾患はありません」キッと眉を切り、思いのほか強く反論してくる。「ただその…お母上を亡くされていまして…その影響はあるのでしょうが」

「ああ…まあようするに、そんだけ線の細い嬢ちゃんってこったな」

 セルバンテスは、はあ、と肩を落として上目使いになる。甘えるようなその素振りには、もし俺にそっちのがあったなら大喜びで飛び付くような含羞があったが、あいにく俺は生焼けのピッツァとナヨナヨした野郎がこれまた大嫌いなのだ。

「お引き受け…頂けないでしょうか…?」

「ねえねえロレンソさん、お化けってどんなの?怖いの?」

 俺が少し躊躇している隙に、アルフレードが尻尾をパタパタさせてしゃしゃり出てくる。

「私は見ていないし、幽霊や亡霊を信じるほど非科学的なことはないと思っているんだ。学者の端くれでもあるしね」

「信じてないのに、じゃあ何で仕事を頼むの?」

「私やお父上が言い聞かせるより、プロフェッショナルの[[rb:方>かた]]が一つの形にしてしまったほうが安心できると思っているからだよ」

 なるほど、物の怪のたぐいなど存在しないという部外者からの証左があれば、その娘の心の不安を完全に払拭できるだろう。

 そんならまあ確かに大きなところじゃ引き受けてくれない、と考えるだろうな。実際は今はどこだって仕事が欲しいご時世だし、アホ臭い依頼内容でも断りはしないだろうが。

「要はボーレイとやらの存在を逆証明すりゃいいんだな」何はともあれ、せっかく向こうから迷い込んできた旨そうなカモだ。みすみす見送る手はないな。「いいぜ。受けてやるよ」

「そうですか!ああ、何とお礼を述べればいいか…!」

 セルバンテスは俺の手を双手に挟んで取りすがり、額を擦り付けんばかりに叩頭した。なんて腰の低い野郎かと思い、自然に腹からハハハとあからさまな空笑いが湧いてくる。

「んじゃ、肝心の料金の話をしようか」さ、ここからが腕の見せ処って訳だ…「まずは前金、キャッシュで300ユーロだ。ビタ一文まからねえぞ。そっから経費は別にもらおうか。後金は」

 幾らイロをつけるかめまぐるしく計算している俺の眼前、ヒビ割れが目立つデスクの天板に札束がボトリとこぼれ落ちてきた。

 1、10、100…いや千か?親指の第一関節の厚みを軽く超えそうな折り紙つきの札束に、思考回路がポンと弾け飛ぶ。虎人は大金をスーツの内ポケットから落としてしまった不用心よりも礼儀を欠いたことに汗を吹き出した。

「あああ、失礼しました!これは前金なのですが、足りないとなりますと、いかほど」

 相手がきちんと手渡すために拾い上げようとする前に、俺は本能的にサックリ掴んで懐に放り込んだ。

「ん、まあいいだろう。あんたの熱意にほだされちまったよ」嬉しいやら呆れるやらで、唇がヒクヒクとひきつりそうだ。「この仕事ヤマ確かに引き受けた」

 なんておいしい話だ!鴨が葱、じゃない、スペイン虎が札束背負ってやってきやがった!

 胸をのけぞらしホォウと嘆息する虎人。いちいちオーバーアクションなのが気に障るが、まあ外国人だし、派手な身なりもこの大袈裟で気弱な性格のせいだと済ましていいのかもしれない。俺に依頼をしたあたりにはちょっと納得のいかない部分もあったが、今までの説明で十分だろう。

 何より、この金だ。束になった紙の金は俺にとって百万の言葉より明快な威力があった。

「よし、さっそく今日の夕方から始めるぜ。準備をして6時ぐらいにはあんたんとこの屋敷に行こう。っても確か、街ん中からは離れてたよな?」

「はい、旦那様は郊外にある古城を改装して住居すまいとされています。別名があって有名だそうですが、えー…なんと申しましたか…」

騎士団長城カステッロ・コマンドーロか」

 ああ、それですと首肯する。そういえば、俺達の口馴れたシチリア訛りのイタリア語にも馴染んでいる様子から意識していなかったが、こういう地場的な常識を知らないとこが外国人だな。

「あの、それでですね、非常に申し上げにくいのですが、一つだけお願いしてもよろしいでしょうか」

「おう、言ってみろ」

「あの…その、ボルヘス家はパレルモでも名の通った名士の家だそうで、旦那様もやはり仕来しきたりや礼儀にはひとかたならぬ関心をお持ちです」

「まあそうだろうな」

「ことに私どものような使用人の雇用の折りには、必ず身分や言葉遣い、身だしなみなどを厳しく詮議されます。メイドとスチュワードには制服も支給されております」

「へえ、徹底してるって訳だ」

 それだけじゃない。制服を仕立ててやるほど潤沢な資金が回ってるってこったな。

「ですから…そのう……あの………」

 俺は鍛え上げた雄牛のような胸の前に、ガッチリこま抜いた腕(並みの野郎の太もも位はある)を揺すり始めた。セルバンテスの奥歯に物が挟まった口ぶりは、どうやら癖らしい。

「なんだ、男ならはっきり言えよ、金玉タマキンついてンのかテメエまだるっこしい!」

 イライラから怒りへ移行しそうな俺の科白に、セルバンテスはビクッと感電したようにおののいた。

 それでもまだ「し、失礼になるかと…」と語尾を弱めるので、アヘン!と咳をついてやると、ようやく「お召し物は、きちんとしたものでお願いしたいのです」と白状した。

「服のことか?」

「はい」

「そりゃそうだよジャンおじさん」アルフレードがヒョロッこい首を俺と虎人の間にねじ込んできた。「おじさんの服、食べ物のカスとか染みが一杯でチョーぅ不潔だもん。ね、ロレンソさん!」

「えーと、そ、そういうようなわけ…かな…」

 デスクに飛び込んだ格好で平泳ぎをしながら「おっじさっんきったなーい♪ブーブブー!」と歌うその頭を、トマトのように鷲掴んで持ち上げる。すると「何するのさ、うにゃにゃにゃにゃ」と手足をバタつかせて反抗する。まったく可愛くない餓鬼だ。

 そのままヒョイと投げ捨てる。回転着地してオリンピックの体操選手の真似で得意気にポーズをつけているアルフレードを無視し、俺は必ず上等の服装よそおいで参上するとセルバンテスに約束した。

「それはもう教皇様も厳かに“アーメン”ってな格好でな」

 わずか数ミリずれたら不信仰の部類に入る表現に、セルバンテスは笑いと不安とが入り混じる渋面になる。

「それでは何卒宜しくお願い致します」

 スマートな身体を折る虎人に、応よ、と答えて手を振って送り出した。

 鼻唄をひねりながら、ほくほく顔で札びらを数えていると、トトトと傍に寄ってきたアルフレードがにんまりと言う。

「ねねジャンおじさん、それだけあればさー、僕にも何か買ってくれるんでしょ。ね!」

「馬鹿言ってんじゃねえよ。こいつは俺に来た仕事、お前はただの居候。溜め込んでるツケ払って、残りは俺様が丸々頂くぜ」

「えー、ずるい!おじさんのドケチ!ゲームか漫画ぐらい買ってくれてもいいじゃん!」

「るっせえな…小遣いはやってるだろ」

「あんなんじゃ足りないもん!パパから預かったお金だってあるんでしょ!どうして僕の好きな物を買ってくれないの!」

 歯をひん剥く、いっちょまえな威嚇。なんて小面憎い表情をしやがるんだ。姿形は在りし日の友の面影そのままだのに、中身ときたらまるで違う。甘ったれで我儘で…イグナシオとちっとも似ていないじゃないか。

 イグナシオ=コッレオーニ…俺の親友だった男。約一年前にパレルモの倉庫街で凶弾に倒れた刑事。

 イグナシオは子供の内からいい奴だった。度胸があって理性的。義務教育を終える頃には男振りが良く気さくな好青年ってやつの見本になり、街の誰からも好かれていた。

 パレルモを離れてイタリア中央警察に属する刑事の一人になってから、あちらで結婚し、このアルフレードを作り、また捜査のためにシチリアに帰ってきた。その時には女房と死に別れていた。

 俺はといえばの取れた頃からの街のお荷物、果てはマフィアかならず者かというほど性格が荒かった。

 自動車整備で細々と暮らしていた物静かな両親のどちらにも似ず、反抗的で我儘。欲しいものには大騒ぎし、自分の気に入らない奴は容赦なくパンチで黙らせてきた。

 そんな俺はなぜだか出会ってすぐのイグナシオと馬が合い、一枚のカードの裏表のように常に一緒に行動していた。 それに同じく近所に住んでいた娘もつるんで、幼馴染み三人で長い少年時代を過ごした。

 人を殴る才能があった俺は街の空手道場にイグナシオに誘われて通い始め、そこで才能を開花させる。ただし素行と品性が良くない、というもっともな理由で国の代表選手の選定からは漏れてしまった。

 高卒で路頭に迷いかけた俺を拾ってくれたのは、イグナシオが渡りをつけてくれた地元の警察だった。そこに潜り込んでやっぱりチンピラと殴り合いの日々を数年送ったが、副署長の鼻面を瓦割りにしてやったせいであっさり退職。

 そんな俺がアルフレードを預かっているのは、今は亡きイグナシオと交わした最後の約束を果たすためだ。だからこの先こいつが成人するまで面倒を見るつもりでいる。どんなにこいつがでも、だ。

 イグナシオの遺産はアルフレードの名義で定期預金に入れてある。単純に考えればいくらか当座に残し、そこから生活・進学の費用を出す方がラクだ。だが俺は、親友の金に触れたくはなかった。

「…我儘わがままはよせよ」小僧のつむじに手を載せかけてやめる。俺のガラじゃねぇや。「今回の依頼でも借金が綺麗になるか微妙なんだ。それからお前の親父の金は、大きくなるまでとっておかなくちゃいかんだろ」

「ジャンおじさん…」

「分かるよな。な?」

 うん、と素直に牙を引っ込める。こういうところは従順だが、そうなると俺の腹に巣食う天の邪鬼の虫が騒ぎ出す。

「ま、ぶっちゃけお前に金をやりたくないだけなんだよな。そんぐれえなら競馬かポーカーに使」

 おじさん!と今度は本気で怒りだしたアルフレードは、俺の右腕に強烈に噛みついた。



 飯の後には面倒くさくなって忘れそうなので、先に服を調達することにした。

 坂道を少し下るクリーニング店に「おっす親爺オヤジお疲れ服を借りんぜ!」と殴り込み、吊るし棒に整理されたクリーニング済みのハンガーの海から3Xスリーエックスのサイズの上下とワイシャツ、おまけに手頃なネクタイをかっさらう。

 邪魔したぜ、と去ろうとするが。店主の右手がサッと滑りハンガーの柄でベルト通しを釣られた。

「おいおいジャンカルロよう、まっさかロハで持ってくってんじゃねえだろうなあ?」

 店主の兎人は割れた顎を突き出した。

「いいじゃねえか、どうせ一枚や二枚仕上がりが遅れたって大して損はねえだろ。事故ってことにしとけ」

 いーやまかりならん、拝借するなら金寄越せ!店主の語気が強くなる。パレルモっ子の義理人情も薄められたもんだな。

 そこで俺はボソッと耳打ちした。

「海岸通り三丁目」

「はあ?」

「の、映画館の二階」

 親爺の顔色がリトマス試験紙のように赤から青紫へサッと変わる。

「名前はマーガレット、年の頃は30後半、肥り気味でちっと化粧が厚めだな。でもああいうのが好みなんだもんなあ?」

「な、な、な、お前、どうして」

「さてどうしよう。おかみさんに親爺の浮気を伝えるのは大変心苦しい。しかし隠しおおせば、正直であれ偽るなかれと、これ道徳にもとる。いかんともしがたいことだ」

 もっともらしくしかめっ面を作る俺、あたふたと手足を躍らせる店主。

「女房には言うな!今度こそ殺される!」

「ならギブアンドテイクでいこうや。こいつを借りる代わりに、あんたの秘密は守ってやる。トクしたな、たった数着で命拾いできたぞ」

 タカり屋!泥棒!ろくでなし!という賞賛を浴びながら通りへ出る。これで適当な衣服は調達できた。

 さあ、何はともあれ腹ごしらえと、まだむくれているアルフレードを連れて事務所のある裏道からパレルモの街中へ歩く。昼下がりだからちょうど一杯引っ掛けた連中や、大企業のサラリーマンとおぼしき生真面目なおも付きのスーツの男達で大通りは混雑している。

 車が激しく行き交う通りを信号無視で渡り、肩で人波をざくざく割っていく俺の後ろでアルフレードは「おじさんがさ、もう少しお小遣いアップしてくれたらさ…僕欲しいトレーディングカードとかあるのにぃ」とぐちゃぐちゃ文句をしゃぶっている。

「餓鬼のうちから大金持つとロクなことねえぞ」

「何なの、『ロクなこと』って」

「カツアゲされたり、たかられたりするってこった。おめえなんか弱ええからな」

 そんなことするのジャンおじさんぐらいだよ、という返事に言葉が詰まった。なにせ、その二つは俺が小学生の時に覚えたアルバイトだったからだ。相手は大概不良中学生だったが。

「ま、その分今日は好きなもんをたらふく食わせてやるよ」

 日当たりの良い中央通りに面した雑踏の只中にありながら、メレンゲ色の煉瓦壁に葡萄の蔓を絡めさせた外観が、どこか雛びた田舎屋のように優しげな雰囲気を漂わせたレストラン。

 パレルモにある小粋な飯屋といえばここー…『アマゾンの女王』に尽きる。どのガイドブックにも載っていないが、どこよりも美味い料理を出す特別な店だ。

 何より、ここが俺にとって特別なのには理由がある。

 店の前ではウエイトレスが二人掃き掃除をしており、その間に挟まれたように緋色のドレスを纏う狐人の女が品書きのメニューの黒板を書き直していた。

 血のしたたりそうな、それでいて気高い強さを秘めた上物のサテンのドレス。碧い宝石の載った、やはり真紅のハイヒール。靴は女の装飾品だが、この女の場合はそれとは反対に自身が靴をより華やかに見せている。要するに、たとえ素っ裸で突っ立っていたとしても、十二分に美しい女王のような女なのだ---…これが特別でないなら何をもってそう言う?

 こちらに背を向けているから、ドレスのスリットの切れ目に覗く長い足も、その上の尻の盛り上がりも、ばっくり開いた背中の一筆で描いたような背骨のラインもじっくり堪能できる。

 青みがかる長い銀髪を掻き上げながら、その女は何が気に入らないのかチョークを書き付けては消してを繰り返していた。

 ステラ=オノラーテ。俺とイグナシオと餓鬼の頃にはお転婆に走り回っていた幼馴染み。現在いまの通称は『銀の髪のステラ』。

 三十路を越したというのに薄薔薇色の横顔には皺一つ無く、身体は引き締まっている。文明が生まれる以前の原始の夜のように黒い大きな瞳は切れ長の目元に収まり、乙女のたおやかさと女の匂いを同時に醸し出していた。

「ステラさん、こんにちはあ!」

 ぱっと両手を挙げ、アルフレードが駆け寄っていく。まだ少しそそられる後ろ姿を見ていたかった俺は舌打ちを一つ。

 ドレスの膝下から抱きつくアルフレードを、ステラはいやな顔どころか輝く笑顔になって両のかいなに迎えてやる。

「あらぁアルフ、今日は早いじゃない?嬉しいわ、こんな昼間からあんたの顔が見られて」

「エヘへ、ステラさん聞いて聞いて!なんとね、僕達の事務所にさっきね」

「何が『僕達の事務所』だよ、俺の、だろうが」俺は小僧の首根っこを捕らえて、ステラの下腹部から引き剥がす。「ガキ臭いぞ、ベタベタすんな」

 狐人の女は「ちょっとジャン、止めなさいよ。あんたは大人げないわよ」と眉を美しくしかめた。俺は、へっ、と肩をすくめる。

「へいへい、俺が悪うゴザイマスね。どうせ町の嫌われモンだもんな」

「ジャンおじさんてば、僕にヤキモチやいてんの?」

 小僧の何気無い一言に、かっと頭に血が昇る。「テメェ!」と背中の後ろまで右腕を引いて突き出した。

 しまった、と一瞬思ったが遅すぎた。凶器に等しい俺の正拳は、直撃で瓦を粉微塵に砕く威力がある。

 やべえけろアルフ、と意識の内で叫んだ。それに応えるかのように視界に赤い布地がよぎり、鋭い上段蹴りの一閃がパンチの軌道を逸らす。

 俺の握った拳がアルフレードの頭の横の壁に突き刺さる。そのままレンガをアーモンドクッキーのように砕いて深くめり込んだ。

「………馬鹿!」

 ステラだった。左足で絶妙にバランスを保ち、右のハイヒールを中空に据えた臨戦態勢で俺を睨んでいる。

 危なかった。肘先を弾かれるのがあとコンマ0,1秒遅ければ、確実にアルフレードの頭は潰れた卵のように脳味噌までぶちまけてしまっていただろう。

「しくった」言葉少なに謝り拳を引き抜く。バラバラカランと破片が穴からこぼれ落ちた。「ステラ、恩に着るぜ」

 あーびっくりしたあ、と暢気のんきに構えている小僧。俺は掌を握ったままジャケットのポケットにしまう。

「もう、いつまで経ったらその癖を直すのよ、『核弾頭小僧ヌクラガッツォ』!」

「お前こそ相変わらずの足グセの悪さじゃねえか、『槍脚の女王レイナデラピエルナ・デランチャ』」

 この二つの物騒なやつが、俺様とステラ、互いのかつての通り名だ。これにイグナシオの『怒りの天使アンジェロデラッラッビーア』を合わせて三人で、中学から高校にかけパレルモの小悪党ダニを狩りまくったのだ。

「そのアダ名で呼ばないでよ。未だに知ってる人がいるんだから」

「パリから帰ってこっち、猫かぶりが上手くなったな」

 狐人は珊瑚の箸のような指先で髪をすき降ろし、フンと鼻を鳴らす。

「洗練されたと言ってちょうだいよ。手の早さが変わらないのはあんただけ。ちょっとは進歩しなさい」

 俺は口の端で笑った。俺の性分は一生直らねえかも知れねえな。

「ごめんねジャンおじさん、僕冗談のつもりだったんだ」

 アルフレードは自分を殺しかけた相手に謝る。暴力のなんたるかを知らないからこその無邪気さだ。

 ったく、餓鬼に気を使われてちゃザマぁねぇ。

「阿呆、ちいっと狙いがずれただけだ。ナマ言うんじゃねえや」

「うん。ごめんなさい」

 ステラは店先で箒を抱えたまま、まだおろおろしていたウェイトレス達に「大丈夫だから気にしないで」と手を振り、俺の腰を軽くはたく。

「さ、レストランに来たら用事は一つでしょ。そのツンケンした機嫌のトゲをあたしの自慢の料理レシピで引っ込めてあげるわ」

 丁度ディナー用にメニューを切り替えたとこだから少しばかりボリュームの重くなる肉料理もできるわよ、とテーブルを進めるが、俺はシカトして壁際のバーカウンターについた。

 ここからは頭をチョイと巡らすだけで店の中がぐるりと見渡せる。もっとも犬人の中でも聴力を誇る立ち耳・大耳のハスキー系の俺は、後ろを向かずとも背後で起こる出来事を音で察するくらいはお茶の子さいさいだ。

 アルフレードが「うんしょ、こらしょ」と高い椅子によじ登ろうとして失敗している。腕を掴んで引き上げるとニヘラと笑い、尻尾で空気をあおいではメニューに記された料理の名前を食い入るように読む。いつものことだ。

「こんな端っこに座って、物好きなんだから…あんたには狭いでしょう」

 アルフレードにジュースを注いでやってから、ステラはおもむろにワインの口を切る。

 瓶から細いリボンのように垂れる液体をグラスに受け、香りを確かめて一息に飲み干した。「ん」と空になったのを差し出すと狐人は「おかわり、ぐらい言いなさいよ」とたしなめながらも満たしてくれる。

 店は賑わっていた。奥に陣取った観光客らしい野郎の一団の他は、年寄りかおしゃべり好きなオバハンが固まっている。かといって下品とかこきたない連中とかじゃない。そりゃ中にはすりきれた作業服姿のあまりみっとも良くないジジイもいるが、その横には宝石を編んだネックレスを垂れた乳房と同じ角度にぶら下げた金持ちのババアがいて、相手に楽しそうに話しかけていたりする。

 ここに屯する奴らは、町中の気取ったカフェよりも、ただこの店が好きなだけで集まった連中なのだ。貴賤の分け隔てなく包み込んでくれる女王の城。老いしも若きも、貧しかろうと富めようと、たとえ注文がエスプレッソ一杯だけだとしても。

 俺は子牛のレバーの煮込みにニョッキのモノトーンソースがけ、山鳥の胸腺と山羊チーズをぎっしり詰めた揚げパンとホウレン草のパスタを注文した。アルフレードは悩んだ末に「僕、リゾットがいい!デザートはクリームリコッタね!」とお気に入りに決める。初めて連れてきた日から千年一日、ほぼ毎回同じものを頼んでいる。

「またそれかよ?たまにゃあ別のモンにしろっての。ほらコレなんかどうだ、茄子のベッカフィーコ。美味そうじゃないか」

「やだ。僕これが好きなんだもん、いいじゃん別に」

「それにリゾットの中身は日替わりよ。今日はあたしの新作、名付けて『サラゴサの漁師の夕暮れ風』」

「なんだそりゃ」

 イベリコ豚に海老を合わせたトマトクリームのリゾットだ、とのステラの説明に「どこをどうしたらそんな名前になるんだ。第一お前、あそこにゃ海どころか水溜まりだってねぇじゃねえか」と首を傾げると、「イメージよイメージ、詩情ってもんがあるでしょうが。つまんない男ね」とツンとそっぽを向く。

 ああそれでか、店先であれやこれやと題目タイトルに悩んでいたわけだ。

「僕は好きだな。だって名前ってさ、凝ってる方がカッコいいじゃない」

「ほおーら、この王子さまはちゃんと分かってくれてるわよ?うんもぅ、アルフってば可愛いんだから」

 ステラに良い子良い子と滑らかな指先で頭を撫でくられ、アルフレードは「やめてよ、もー」と赤くなった。

「ケッ、どーせ俺は可愛くねえよ」

「何をくさしてるのよ。あんたにはあんたの良いところがあるでしょ」

 そりゃなんだと水を向けると「いっぱい食べるとこ」とよく分からない答えが返ってきた。

 濃密な湯気を噴き上げる皿が続々と運ばれてくる。ウエイトレスはこぞってアルフレードに触りたがり、困り顔の小僧の頬肉を「やーんタプタプー!」とつまんだり、豊かなバストに頭を挟もうとする。

 羨ましい…もとい妬ましくて腹が立つ…いやいや、食事の邪魔になってしょうがない。「助けてジャンおじさん」と訴えるので「君達、俺とも仲良くしてくれよ」と娘達の尻や胸元に手を伸ばすと、「やだもうレグルスさんてばエッチなんだからあ」などとかわされてしまう。

 悔しくはない…ないんだが………

 なんで洟垂れの餓鬼ばかりがこんなにモテるんだ?ズボンを穿いた生き物でも、股ぐらの道具は俺のサラミに較べりゃ無いも同然なんだぜ?

「あーくそ、面白くもねぇ」

 ワインの残りをラッパで飲む。アルフレードがジャンおじさんそんなに飲んでいいの?と心配そうに見上げてくるが、こんなものは飲んだうちには入らない。せいぜいが嘗めた程度のもんだ。身体は温まりもしない。

「もう一つ面白くないものあげようか。はい、請求書。半年越えは勘弁してもらいたいからね」

 消費税分は出血大サービスよ、と微笑む狐人から枚数は一枚だが後ろに控えたメニューはマタイ福音書第五章の内容ほどもあろうかという請求書を受け取る。

 金額の0を数えて血の気が引いた。

 おかしい。おかしいぞ。いくら二人だからといって、たった数カ月ばかしでユーロの三桁を抜くのか?

「アルフを預かってからこっち、二日と空けずに来るじゃない。それは嬉しいんだけど…原因はこの子よりあんただからね。バカスカ飲み食いするんだもの」

「じゃあ来んなってのかよ」

 そんなこと言ってない、と強くかぶりを振る。

「正直助かってるわ。あんたが柄の悪い輩を来る端から追い払ってくれるから、女だけの店でも何事もなくやっていけるんだし。あたしだけの力じゃ無理だもんね。従業員の皆も有難いと思ってるのよ」

「いっそタダにしてくれりゃいいじゃねえか」

「それはダメ。あたしはね、旦那になる男にしかタダは認めないの」

 ステラはふざけてしまうことができず、つい頑なな表情になる。ったく佳い女だ。しかめっ面をしていてもふるいつきたくなるぐらいなんだからな。

「馬鹿、本気になんなよ」先程から俺の神経は、店の奥、八人掛けのテーブルに向いていた。「自業自得だしな。割りのいい仕事で返せるアテも掴んだし、なんとかなるだろ」

 少し離れたテーブル席でガチャンと食器が鳴り、床にフォークやナイフがばら蒔かれた。英語の大声にウエイトレスの悲鳴に近い口調が聞こえる。どうやら一緒に酒を飲んで楽しまないか、と強硬に持ちかけられているようだ。

 スマートじゃねえなぁ。鼻を鳴らし、俺は酒瓶を下ろしてぶらりと席を立つ。

「こういう場面にゃ俺の腕力も役に立ちまくりだかんな」

 あまり物を壊さないでね、とのステラの忠告を背に、ゆうゆうとその集団に近付く。その内の一人はウエイトレスの娘の一人を後ろから捕まえているが、アルコールが脳まで回ったと見えて、壊れたプレーヤーのように「Let's fuck」を繰り返している。

 まなじりに涙を浮かべた娘の腰を離さない男は、血走った眼を俺に向けた。

 腕も脚も丸太のように太い。上背があってバスケットボールの選手並みにいいガタイをしている。が。

「お兄さん達、ちょーっと羽目を外しすぎたなあ。俺が裏口までご案内してやろう。VIP待遇っつうやつだ」

 極めて愛想良く話しかけたつもりだが、八人とも瞬時に喧嘩腰で喚き出した。どうしてだか俺の笑顔は脅しか挑発に見えてしまうらしい。

「Shut your fuck'in face,motherfuckerー!」

 ウエイトレスを離した男が振りかぶる。だが俺の方が早い。ツッと背後へ回り込み首筋に手刀を叩き入れる。手加減したつもりだがドウと倒れて白い泡を吹く。

「なんだ、見かけ倒しだな。やたら鍛えたように見せかけちゃいるが、大方プロテインかなんかで作っただけの見せ筋肉キンなんだろ」

 唖然としている残り七人の男達を素早くはたき、潰し、引っこ抜いて床でやわこくなるまでスタンピングし、ヘロヘロになったらそこで裏口からまとめてポイとゴミの集積所に捨ててやる。おまけに冷水をポリバケツ(生ゴミ用)一杯ざんぶとかけてやったらば、不良外人一味のタタキ・レグルスの気まぐれ風の出来上がりだ。

 店内に戻る。目ざといパレルモっ子は騒ぎがあると見るやいなや一斉に席を立ったようだ。胃袋の次に喋りで脳を満たそうとしていた連中ばかりだったから、逃したところでさほど収支のダメージは無いだろう。それでも残っている豪胆な面々は、カップやグラスを持ち上げよくやったブラーヴォ!」と声をかけてくれる。

 バイオレンス活劇のせいで客波が引いたのと、注文のラッシュが過ぎて暇になったようで、ウエイトレスの大群がカウンターに群がっていた。餌食にされているのはアルフレードだ。

「あっ、やっ、やめてえ!くすぐったいし!もう、ジャンおじさあん!」

 コリー人は揉みくちゃにされて悲鳴をあげているが、俺の視点ではそれは女という果肉のたわわな林によるハーレムそのものでしかない。

「アホくさ、しばらくそうしてろ」

「えっ嘘、助けてくれないの?見捨てるの?」

 ちょっくらションベン、と姦しい人だかりから離れた。アルフレードは「裏切者ぉ」と半ベソでなじるが完全無視を決め込む。

「おい」

 ステラに目配せをし、顎をしゃくる。狐人は無言で頷き、俺の後からトイレに近い衝立の陰についてくる。

 ジャケットから煙草を一本出してくわえ、マッチをする。一呼吸置いてから紫煙を天井に吐き出すと、ステラが「何を訊きたいのかしら?」と低声こごえで問うてきた。

「ボルヘス家についての情報が欲しい。まず主人の人となり、女房とその死因、あと知ってることがあればなんでもだ」

「あら、ボルヘス家の調査を依頼されたの?」

「そうじゃない。依頼内容は別件なんだが…ただな、なんかにおうような気がするんだ。根拠はねえんだが」

 元刑事の勘なのねと聞かれて、そうだと頭を掻いた。

「あの家の奥さん、よくここに来てたわよ」

 思いがけない答が返ってきた。

「どんな人かって、そうねえ」ううん…と白蛇のように妖艶な腕を組み、ぽつりと言う。「滅茶苦茶に天然なひとだったわよ」

「はあ?なんじゃそら」

「だってそうとしか言いようがないんだもの。一度だかこんなことがあったわ」

 去年の夏の終わりの夜、まだ早い時刻にボルヘス家当主パルダッサーノと奥方のオフェリアは『アマゾンの女王』を予約していた。

 もっとも先に常連になったのはオフェリアの方。一昨年の開店当初、昼間のランチにふらっと訪れ、以来この店を気に入り通い続けた。

 彼女は純白の毛並みの、どこか少女のような雰囲気をした貴婦人で、自分には気難しいが優しい夫と、頭が良く目に入れても痛くないほど可愛い娘がいるのだとステラにも従業員にも話していたそうだ。

 その夜は初めて夫を連れてきたので、サービスにと取っておきのコケモモの古酒を出した。夫妻が気分上々で乾杯しているところへステラがさりげなく赴き「いかがですかしら、そのコケモモのお酒は」と問いかけると。

 幸福そのものといった微笑みで金髪の猫人は聞き返した。

「ポケモンのお酒って、どういう意味ですの?」

 この一連のやり取りを聞いて、俺の頭上にも?がでっかく浮かんだ。

「なんだそれ、聞き間違えたってことか」

「それだけじゃなくてね、言うことなすこと全部そんな調子なのよ。鼻がしらに絆創膏を貼ってきて『自動ドアかと思って回転扉に逆方向で突っ込んだ』とか、『マニュアル車を買ったけど何処にもマニュアル本がないのよ』って怒っていたり、右はパンプスで左にヒールを履いてきたりなんかしょっちゅうだったし」

「ボケボケじゃねえか。頭ん中のネジが緩んでたんだな」

 そういう言い方しないでよ品がない、とステラは俺の二の腕をピシャリと打つ。

「天真爛漫な方だったのよ。お客さんに分け隔てをする訳じゃないけど、笑うととってもキュートな方だったから従業員の皆からも人気があったわ。市内にお教室を持ってて、刺繍とかフラワーアレンジメントなんかを教えてたみたいでね」

「へえ。んじゃあお前も習ってたクチか」

「あたしは着るのが専門」

 そういやコイツ、フランスでモデル業をやっていたんだよな。

「その女房が一種の変わり者ってのは分かった。旦那の方はどんなやつだ?女房は何が元で死んだんだ?」

「あたしが見たまんまでいいなら、ご主人…ボルヘスさんはかなり恰幅の良い黒豹人で、背はあたしと同じぐらい。ただ人相がねえ、どっちかっていうと良くはなかったかな」

 奥様の死因は心臓の持病だった筈だけど…と語尾を濁すのでつっついてやると、これはあくまで噂だから額面通りにとらないで、と前置きをした。

「ボルヘス家の会社が一時期立ちゆかなくなったのは知ってるわよね」

「おう。不況と為替の影響だろ」

「それにオリーブの加工工場から食中毒菌が出たの。当然負債は膨らんで、市内にある不動産はほとんどを売り払っていたわ。奥さんが亡くなったのはその只中なのよ」

「……まさか」

「そう」厳しい目付きでさらに声のトーンを落とした。「保険金は2百万ユーロ以上。だから噂ではあるけれど、保険会社の調査員が何人もお屋敷に行ったんだって」

 今は事業が本来の軌道に乗って順風みたいね、あたしが知ってるのはそこまでよ…と店内を見やるステラの肩の峰を「どうもなグラッツ」と撫で、カウンターに戻る。

 アルフレードはまだウェイトレスらに囲まれていた。さらにあろうことか20代の娘…それもさっき絡まれていた子だ…のフカフカの胸を枕に船を漕いでいる。

「オラ、帰るぞ小僧」と気持ち良さげに眠りこけるアルフレードの頬を張ると、女達が「レグルスさん酷ーいー!」とこぞって囃す。

 コリー人の襟足を鉤爪にかけ、引きずるように非難の嵐から逃げ、いや、店を出た。



 それから事務所のガレージで親父から受け継いだ日産車のメンテをこなし、午後の五時には鏡の前で紺色の背広に着替えていた。

 アルフレードは俺がツナギで車をいじる間そばにいて工具を取らせたりしていたのだが、腹がくちくなったせいかすぐまた居眠りを始めたので、そっと応接室に運んでソファーに横にした。覗いてみるとまだ鼻提灯を膨らましている。

 俺はしゃがみ込んで寝顔を眺めた。暢気で平和そのものの餓鬼の鼻面をちょっとつまんでみる。「むか…うくん」と眉根を寄せるが起きない。思わず「ふ」と笑いが込み上げてくる。

 こいつは連れて行かない方がいいだろう。大人の汚い面をわざわざ見せることはない。

 イグナシオのいまわのきわに約束したのだ。胸を撃ち抜かれ己の傷から流れた血の海に浸っていたあいつ。抱え上げた俺の腕の中で、最期の力を振り絞り「僕の息子を、…アルフレードを頼む」と言い残し息絶えた。

 今でもあの、冷たくなっていく友の感触を思い出す。そして肝心なときに力になれなかったことを悔やまなかった日は1日たりとも無い。

 イグナシオは誰かに殺された。それも卑怯なやり方で。その相手を探し出し、俺のこの手で喉首へし折ってやる。

 それまではその息子を、アルフレードを、何にも代えて守る。清廉潔白な警官の鑑だったイグナシオのように育ててやるのだ。危険になど近づけるものか。

「行ってくるぞ、アルフ」

 額にキス、なんてのは柄じゃねえ。人差し指でデコピンぐらいがちょうどいい。

 …と、いうここまでの流れは十分も経たずにあっさり崩された。

 メモを残して車に乗り込んだ瞬間に小僧がガレージに駆け込んできて「置いてけぼりなんてヤだヤだヤだぁ!」と、それはもう泣くわ喚くわ地団駄踏むわ、挙げ句の果てには近所の餓鬼を集めて騒ぐぞなどとしゃらくさい恫喝までしてきた。

 それで結局、連れていくことになる。これだから餓鬼は嫌いだってんだ!




「ほわぁー、おっきいお城だねえ」

 コリー人は城を見上げて開口一番、至極ありきたりな表現をした。俺は「この城がデカいんじゃねぇ。お前がチビなだけだ」と返す。

 僕はこれからおっきくなるんだもん!毎日牛乳飲んでるんだから!と小僧は唾を飛ばして恣意的な論拠に基づいた力説をする。

「はいはいソウデスカヨカッタネー」

 俺はスルーし腕時計を確かめた。午後5時50分か。遅刻しないで来られたのは鼻先に吊られた現金の魅力としか言いようがないな。警官時代はタイムカードより総務の勤務管理係と仲を良くして怠慢減俸を回避していたものだ。

 市内からポンコツ車で約30分。丘陵地帯の森を大部分占める広大なボルヘス家の所有地。その奥の開けた場所に騎士団長城カステッロ・コマンドーロはバケツを引っくり返したようなドタマの潰れた円錐形の巨体を誇っていた。

 十年ほど前まではこの城は森も含めて市の管理下にあった。しかし市が財政難に困り果てたところに当時は大変に景気が良かったボルヘス家が身請けを申し出て、建前上民間企業に下げ渡す形で私有物になったのだ。

 俺が子供の頃には社会科見学に来たこともある。外見はその時分と変わらず保たれているようだ。目につくのは窓が増えてちゃんと硝子が嵌まっているのと、空き地だった周辺にぐるりと花壇が増設されているぐらいか。

 駐車場なんてものは無い。そもそも雨の少ないシチリアでは青空駐車でこと足りてしまう。日本だか韓国だか、アジアの国ではアパートを借りるぐらいの金を駐車場代につかうというが、それは屋根つきどころか戦闘機の格納庫並みに贅沢な設備を取り付けているのだろう、きっと。車を我が子のように愛する国民性なのに違いない。

 俺の日産は城の(道が開いている方を正面として)裏手に停めてある。ボルヘス家の自家用車はさすがにガレージに入っているが、これまた鉄筋コンクリートなどではなく木製のこぢんまりとした小屋だ。スレートの瓦で葺いてあって、納屋のような造りは暖かみがある。

「ねえねえジャンおじさん、ちょっと来て」

「んだよアルフ、そう引っ張るな、このスーツは全部借り物なんだからな」

「こっちこっち。この花壇の、ここんところ見て」

 小僧は遠慮無くグイグイ力任せに袖を引く。俺は仕方なしに示された花壇脇にしゃがみ込む。

「あのチューリップの植えてあるとこ、掘り返されてるんだよ」小さな指で花の赤と葉の緑の間に開いた土の部分を差している。「変だよねー」

「……で?」

「だから、何かおっかしーなーって思ったの」

「そんだけか?」

 うん!と言うところへ、ハ!と鼻で笑ってやった。

「探偵ドラマ気取りか何かしらねえけどな、面白くねえんだよ。いいから大人しくしてろ」

「何だよ、おじさんを手伝ってあげようと思ったのに。もう知らない!」

 プイとこちらに尻を向け、城の玄関の門扉へ歩いていく。

「待てコラ、一人で行くな」

 立ち上がりかけ、俺は削り取られた土の断面に目を止めた。

 チューリップの球根が数株、捨てられたままになっている。それはいい。だがポテンとした紡錘状の表面がえぐれて筋ができている。

 拾い上げ、たなごころに転がして土を落とす。やはり自然に[[rb:毀>こぼ]]たれた傷じゃない。固い何かで削いだ跡のようだ。土を掘り返した際に傷つけたというより、前歯を立てて噛んだらこうなりそうな具合にも見える。

 ネズミやモグラだろうか。球根を穴に戻して改めて見渡せば、花壇にはとりどりのハーブもあれば、芥子やセンブリなどの観賞のほかに薬効が期待できる植物も風に揺らいでいる。

 なんなんだ一体、まるで薬草園か魔女の庭だぜ…

 ゴンガン!鉛と真鍮がぶつかる金属音に飛び上がる。アルフレードのやつがドアノッカーで台金をブッ叩いたのだ。

 あんにゃろう、口で言っても聞きゃしねえ。そうして扉の前に着くまでには、球根のことなどすっかり忘れてしまっていた。

「おいアルフ、勝手なことすんなって何回言わせりゃ気が済む」

「はい、どちら様ですか?」

 女の声がした瞬間、ハンマーで殴られたような衝撃を眉の上に受けた。「うぐぉっ」と一声、俺はのけぞり激痛によろめく。

 間の悪いことにアルフレードに向かって頭を下げたタイミングでドアの片側が開き、真っ正面から樫の重厚な木材で額を打ち据えられたというわけだ。

「ごめんなさい!大丈夫ですか!」

 アルフレードは顔を隠して震えている。「プ・ク・クク」と喉を鳴らした忍び笑い。どついてやりたいが、尋常でない痛みに手足が鈍る。

「これが平気そうに見えるんだったらテメエの脳味噌は腐った豆腐だな!あー糞痛ぇこの畜生の○れ〓〓〓のド@▽▽女郎が、そのΩに→してやろうか!!」

「す、すみません、このドア重くって立て付けも悪くって、だからいつもつい強く押してしまって。額、打ったんですか?見せてください」

「………」

「あの、手をどけて傷を見せてもらえませんか?手当てしないと」

「………」

「あの?」

 俺を見上げているのはアフガンハウンド系の娘だった。はち切れんばかりにメリハリのついた健康美溢れる肉体が、メイドの制服に無理矢理押し込められている。

 おおぶりでしかも申し分ない半球をなす乳房はエプロンの胸にバインバインに突っ張り、スカートからすこんと伸びた脚は細すぎず太すぎずムッチリして艶光り。

「もう、聞こえないんですか?」さっさと俺の腕を除けて額を観察する。「あ、打撲傷うちみになっちゃってますね。でも血は……アラ、鼻血?」

 俺の顎の先、下方15㎝で巨乳がゆさゆさ擦れあっているのだ。そりゃ頭に血が昇るし、ポケットに突っ込んだ右手で股間のテントの支柱を抑えようというもの。左手はさっと鼻柱をつねって止血する。

「気にしないでくれ、大した怪我じゃねえ。俺はレグルスっつってな、ボルヘスさんから以来を受けてきた探偵だ」

「ああ、探偵のレグルスさん!承知しております。どうぞこちらへ、旦那様の執務室に御案内します」

 大地の色の精気溢れる毛皮、秀でた額、ツンと上向きの鼻筋、くるくるよく動く大きな褐色の瞳に、あっけらかんとした笑みの絶えない口元。時折輝く八重歯がチャーミングだ。

 魂が内側からはぜてパチパチ火花を飛ばしているような、どことなくチアガールと話しているような気分にさせられる。

 そしてメイド嬢は俺の横にいるコリー人の小僧にも愛想良く笑いかけた。

「こっちのボクは、息子さん?」

 俺とアルフレードは互いに視線を合わせる。そして完璧なユニゾンで「違う!!」とメイド娘に叫んだ。



 俺達を城の中へ通してくれたそのメイドは、アガティーナ=バッジォと名乗った。歳は19で高校を出たばかりだというが、それにしては言葉遣いがしっかりしている。俺の指摘にも「私、ここに来てギャル語を直されたんですよ。それまでは普通の女の子より若干だったんですけど、奥様が熱心に作法を教えて下さって…」とはにかんで見せた。

 城の内部はすっかり様変わりしていた。俺が子供の頃に見学で来たときには、石組みがそのままのところどころうねっている床に壁、怪獣の骨の如く武張った梁という内観だった。それが今や淡いベージュに調えられた漆喰壁に、均されたタイルの床には絨毯敷き。窓という窓には頑丈な厚い強化ガラス、回廊には等間隔でテーブルが据え置かれ、それぞれ色も形も異なる花が生けられている。

 古城の侘び寂びは払拭されてしまっているようだ。むしろ遊園地にあるような、本物に近づけようとする姿勢がよりイミテーション感を強めたアトラクションの趣じゃないか。

 天井の高さと空気に混じる遺跡特有の塵埃じんあいかおりが微かに歴史の余韻を醸してはいるが、出がらしの紅茶のようにかえって余計な陰鬱さを付加するだけ。俺は金持ちのエゴイズムにいいようにされる遺跡に憐れみを催した。

 それにしても…

「えっ、あたしのポケットのコレ?キティのストラップよ。あ、ボクも日本のアニメ好きなの。あたしはねー、『北斗の拳』とか『NARUTO』とか『セーラームーン』がお気に入りなの。カッコいいわよねー、ズビシー!ブシャー!アチョー!ドッカーン!」

 俺はメイドとは慎ましやかに淑やかに会話をするものだと思っていた。イメージ的に…というか、そうあって欲しいとの期待の意味が大きかったのだといえる。

 が、アガティーナは他のメイドやスチュワードに通りすがりざま「お疲れ様です!」と挨拶をするときは頭をビュンと風切り音がするぐらい振るし「執務室は、そこの階段を上がった右、くいっと曲がってこんな感じにあります」と肘先で何かをはたき落とすような勢いで手を閃かせる。所作に気取ったところは微塵も感じさせない。

 屈託のない性格、それに内側から風が吹いているような清涼感のある若さ、それに何といってもエロい体つき。三十路男の助平心が疼き、たちまち頭の中に四十八手の裏表が浮かんでくる。

 ようするにこの娘、俺のタイプなのだ。

 先程からアルフレードはさかんに城についてばかり質問する。「お姉さん可愛いね」「彼氏いるの」「ジャンカルロなんて、どう?」とか気の利いたことは聞けないのかコイツは。

 対してアガティーナは「うーん、あたしは歴史にはあんまり詳しくないのよね」と困りながらも「確かお城ができたのは中世あたりで…ってくらいかな、それ以上は分からないな」と答える表情に淀みはない。かなりの子供好きなのだろう。

 俺は、゛あー…と助け船を差し挟む。

「この城の建設は西暦千百年~千二百年、西ローマ帝国滅亡前後だ。台頭してきたイスラム勢力に対して地中海を守備するための拠点だったんだ。最後の城主は聖ヨハネ騎士団のスペイン分団長で、そのため『騎士分団長城』ってつけられたらしいな」

 キャー、レグルスさん凄い!博学でいらっしゃるんですね!と心からの拍手で感動するアガティーナ。我知らず鼻がぴすぴす膨らんでしまう。

「なあにこれくらい、自慢にゃならんさ。しかし君、このあたりの出身じゃないのかい?」

「それはそうなんですけど、あたし古いものにはあんまり興味がなくって。あと勉強も得意じゃないから歴史に弱いんですよ。こんな由緒ある建物の中で働いているのに、お恥ずかしい限りです」

 城は開放していないが行政府が観光スポットに登録しているため、せめて外観だけでも見ておきたいと近くまで来る観光客もいるようだ。

「もしそんなときに全然説明できなかったら、シチリア人としてカッコがつかないですもんね」

「そんなことないさ。そうだ、良ければ俺が教えてやろうか」

 ニッと口角を上げて誘いをかける。好みの女がいれば躊躇わない。率直に適時にストレートにをナンパのモットーにしているのだ。 まあここで「本当ですか!レグルスさんになら教わってみたいなあ」と、きたなら嬉しいんだがなあ。ハハハ、そいつは無理ってもんか…

「じゃあ携帯のアドレス下さいます?」

「お゛あ!?」

 目が口から、いや、心臓が眼窩から、違う、とにかく色んなものが飛び出た。

「だから、今度お茶でもしながらお話をー…ダメなんですか?」

 俺はてっきり性欲が理性を駆逐し、妄想を現実に受肉させたか、あるいは幻聴と幻視を同時に引き起こしたかと危惧する。

「えっ、いや、おう、そりゃもう」

「やったあ!もう超楽しみ!ー…じゃなくて、とっても嬉しい!せっかくなんでレグルスさんの事務所にもお邪魔してみたいんですが、いいでしょうか?」

「ああ、ウチは汚いが来てみたいってんなら」

「是非お願いします!もう絶対、約束ですからね?」

 アガティーナはフフフンフン♪と鼻歌を奏でながら脇を閉めたり開いたり、スキップするように廊下を進む。

 瓢箪から駒、棚からぼた餅、千里の道も一歩から?いや、それは違うか。

 とにもかくにも、こんなことは今までの経験上有り得ない展開だ。

 普段なら数限りなくアタックを繰り返してようやくベッドインに漕ぎ着けるという泥仕合。それでも身体を許してくれればまだいい方で、大概始めに「あ、結構です」とボレーで返されて終わるのだ。

 …だというのに!嘘だろう!?いや嘘では困るんだが、なんなんだこの都合の良い展開は!!

「あーあ、いーのかなー~」

 目尻を下げてデロンと舌を出していた俺に、アルフレードが斜め下から妙に冷めた目線を送ってきた。俺はハッと顎のヨダレをぬぐい、面構えを改める。

「…何だ?」

仕事先こんなとこでナンパなんかしてえ。ステラさんに言い付けちゃおっかな~」

「あいつは関係無えだろ。それにナンパっておめえ意味分かってんのかよ」

「んーと、遊んだりエッチなことするために女の子を誘うこと」

 外していないところが小憎らしい。それもクリーンヒットぐらいは飛ばしている。

「餓鬼は余計なこと考えんな。お勉強だよ、オ・ベ・ン・キョ!聞いてただろ、アガティーナは俺に歴史を教わりたいんだとよ」

「そうなの?」キョトンとするコリーの小僧に「決まってんだろバーカ」と吐き捨てる。が、勿論のこと二人してする勉強とは所謂いわゆる男と女の性の神秘についてであり、その目的は主が与えそなわした互いの肉体を貪ること、これに尽きる。

 煙に巻かれた小僧は「なんだ、僕てっきりジャンおじさんがアガティーナさんに浮気するのかと思ったの」と笑って言った。

 ったくこいつは、いちいち人の臓腑をえぐるような科白を言いやがって…

 俺にはかつて唯一人、惚れに惚れても己の感情をおくびにも出せない女がいた。それが誰かって?こんなとこじゃ言えねえなあ。

 理由を敢えて喩えるなら「古典的悲劇の極み」なのだ、とだけ言っておこう。そして悲劇は喜劇と裏表。当時は苦しくてたまらなかったのだが、今は自分も青かったよな…と若気の至りとして振り返ることもできる。

 しかし胸の痛みは癒えない。恐らく永久に。人生とはそうしたものだからな。

 記憶の淵をさ迷っているうちに執務室の前にいた。アガティーナが黒檀のドアを二度ノックする。

「おー、僕なんだかドキドキしてきちゃったあ」

 アルフレードは大袈裟に深呼吸をする。いや、これから仕事をするのはお前じゃなくて俺だ。

「入れ」

 深い重低音バスが響いた。アガティーナが先に入ってドアを押さえ、礼式に則って中へと招じ入れられる。

 そこは俺の応接室とはまるで違っていた。

 広さはある。だが大統領が公務をこなしている部屋ほどではない…とはいえ大統領宮に行ったことはないので、まあ具体的に測るほど広くはなく狭くもないというわけだ。

 何が違うか。しがない町探偵の事務所と金満家の執務室は、装飾の多寡が明快な差となって現れていたのだ。

 部屋の四隅に立てられたエンタシス様式の柱や、陶器やブロンズの像が並ぶ飾り棚など、至るところに高級な黒檀や紫檀が使われている。壁紙ひとつとっても、金箔と銀箔で透かし模様にされたエトルリアの壺風の蛇が幾万と綾を結んでいた。視点を寄せると立体的に浮かび上がってくる効果は企図したものではないかもしれない。

 その他に、オークションに出せばそれ自体がひと財産になるチッペンデールのデスクに椅子(以前まだ警察にいた頃、押収した盗品に似たようなのがあった)、アールヌーボーを代表するガレのランプ、蘭の鉢植え(白い花弁にピンクのほとばしる大輪の花)、なぜか片隅に日本の甲冑サムライメイル、カーテンはエジプト綿でアメジスト色に染めてある。

 俺はなるたけ焦点は正面からずらさずに、視界の周辺に散らばる豪勢なしつらえの数々を確認した。そうしなければ隣に棒立ちのボーダーコリーの小僧のように、「おおぉ」とおのぼりさんよろしくキョロキョロしてしまう羽目になっただろう。

 デスクの向こう、天空に燃え盛る神の火さながらの夕陽をバックに背負い、ダルマのような影が腕を後ろに組んで仁王立ちになっている。

 パルダッサーノ=デッラ=ボルヘスは悪魔の腹の中のように黒い毛皮の豹人だった。体型はというと、がっしりした大男を万力で縦方向に縮めたらこんな感じだろうという短躯。胸から腹回りにかけてが土管より太い。灰渋の上下揃いに金ボタンが光り、絹の白シャツに深緑の蝶ネクタイ。堅気の格好ではある。

 しかし。

 はてな、俺が受けたのは実業家の依頼の筈だが、間違えてマフィアの事務所に来てしまったかな?

 そんな呟きをしたくなるくらい、ボルヘスは最凶に人相が悪かった。

 疑り深いを通り越し、疑うことしか知らぬのではないかと思わせる山なりの眉の下の底光りのする目。デデンと鎮座するトリュフ鼻、ヤマアラシがくっついたような口髭、油断したら喉笛を食い破られそうな二重顎。

 相手をあからさまに品定めする下ろしかけの半まぶた。俺のことを内心で辛辣に評価しているのが手にとるように分かる。

 いやあ、こりゃあ難物だぞ…と面の皮の一枚後ろで俺はうんざりした。

 それでもこの親爺が現在の雇い主なのだ。そう考えれば渋面を搭載した戦車のような相手も、札束の山に見えてこないこともない。

 せいぜいにこやかに、握手ぐらいはしないとな。

「どうも。私はジャンカルロ=デッラ=レグルスです。宜しく」

 俺は右手を握手の形に差し出して前に進んだ。とりあえずそれが礼儀だろうと思ったのだ。

「フン」

 フン?

 片手を差し出す代わりに顔をしかめ、ボルヘスは傲然と家庭教師を呼ばわった。

「おいロレンソ」と、どこからともなく虎人が現れる。全く気配を感じなかったのだが、まるでニンジャかスパイみたいな野郎だ。「この胡散臭い、一見してヤクザの片棒担ぎのような男が信頼できる探偵なのか」

「はい。こちらのレグルス氏は警察署に勤めてらっしゃいまして、敏腕な警察官と名高かったそうです。現在は退職なされてパレルモ市内で事務所をお持ちですが、市民の警備など安全に関わるお仕事をなさってまして、守秘義務を徹底されている方です。そのお仕事ぶりも清廉潔白かつ勇敢で篤実と評判です」

 セルバンテスは胸からハンカチを抜いて顎と首の境目に当てた。科白のセンテンス一つ一つに動揺が隠されている。まったく肝っ玉が小さいことだ。

「貴様の推挙ならばこそ我が家に立ち入ることを許したのだからな」

「どうぞご安心を。きっと御期待に添う結果を出してくださるでしょう。レグルス氏は口も固く、調査においては有能でいらっしゃる方ですので」

「申し分ないというわけか。まあ、真面目な警官であったと言うなら使ってみてもいいだろう」

 褒めちぎる虎人に、黒豹の調子も幾分和らいでくる。

 積み重なるツケ、減る一方の探偵稼業への依頼。増えていく日雇いの仕事アルバイトに、ヤクザからしつっこく来るスカウトのモーション。そんな出口の見えない日々に降って湧いた金蔓にそっぽを向かれるわけにはいかない。

 ここはロレンソに調子を合わせとこう。おべっか使いは苦手だが、好き嫌いができる経済状態じゃない。まさに背に腹は代えられぬってやつだ。

「いやあ、実はお話を伺いまして、なんでもお嬢さんが大変困っていらっしゃるそうで、それならここは男ジャンカルロ=デッラ=レグルス、微力ながらその不安や恐れを取り除いて差し上げたい!と、こう考えた次第でして」

 普段は受けないような仕事内容だが、情にほだされて特別にー…と言外に匂わせてやる。

「ま、なんと言いますかね。有り余る正義感ってもんがこうズクンズクンと疼くんですよねえ。この城に立て籠り戦った十字軍の兵士達のように、いたいけな子供の為に役に立ちたいんですよ」

「う゛えっ」アルフレードは喉の奥でヤギが絞め殺されたようなくぐもった奇声を発する。「おじさんどうしちゃったの?何が正義」

 俺はサッと左手を伸ばし、ギュリっ、と相手の肩肉に鉤爪をねじ込む。「はんく゜ゃょみ!」と小僧は毛を逆立てる。

 ボルヘスは「お前の隣にいるその、落ち着きの無い[[rb:少年>ラガッツォ]]は何だ」と汚いものを認めたようにコリーの小僧の方に太い人差し指を突く。

「ははは、いやあコイツは私の友人の愛息なんですがね、[[rb:理由>ワケ]]ありで私が預かってんですが…一人でいるのが寂しいと泣き喚くもんだから、不承不承連れてきたんで。すんませんねぇ、猫っ可愛がりに甘やかしてまして」

 アルフレードは怒りと憎悪でプルプル耳を震わせている。

「どうしたぁアルフレード、まだベソかいてんのかあ?あん?俺はお前の望み通りつれてきてやったろう?機嫌を直せよ相ぼぐふぉっ!」

 尻に万年筆を刺されたような激痛が炸裂した。ボルヘスとセルバンテスから見えないよう腕を回し、アルフレードが俺の尻たぶに爪を立てている。

「お前達やかましいぞ。さっきから怪しからん声ばかり上げおって」

 不審そうに顔を歪めるボルヘス。雷鳴の冠を被り嵐を呼ぶ深山の魔王の如くだ。

「イ、イヤ、ちょっと、なんでもありやっせんよカハハハ」

 こん糞餓鬼!儲け話をパアにするつもりか!

「…テ・メ・エ!何してやがる…!」

 アルフレードは普段からは想像できないブリッ子っぷりでピコンと小首をかしげた。頬には笑窪まで凹ませている。

「うん、一緒にいられて僕とっても嬉しいよ。だって…」ギュリリリ、と俺様の尻の皮膚を破らんばかりにつねりながら、ネスカフェのパッケージみたいな無邪気そのものの笑顔を作った。が、瞳はくらい復讐の悦びに燃えている。「僕、優しいジャンおじさんのこと、大ぁぃ好きだもん」

 はっはっは、えへへへ、と虚ろな仲の良さを演じながらも、互いに攻撃の手を緩めない。

「フン。能天気な者達だな」

 口ではそう言ったものの、若干和んだ様子の黒豹人。骨肉相食(は)む猛獣さながらの争いを隠しおおせるための小芝居が意外に功を奏したらしい。

「まぁ良いわ。契約を交わした以上はお前に任せる。城の内外は自由に歩き回って構わんが、そこらには防犯システムがあるからな。ロレンソによく聞いて、引っ掛かるようなことがないように。それと、この執務室には勝手に入るんじゃないぞ」

「合点…じゃねぇ、かしこまりましてございますよ」

 へらっと頭を下げたとき、「あの、お父様…」と、消え入るような声がした。

 振り返れば、粉砂糖から生まれたような猫人の美少女…こういう言い方は別にロリコンのケがあるわけじゃない…が、ドアから入ってきていた。

「おおエウリディーチェ、お前は部屋にいなさい。いいね?」

 破顔というには遠く及ばないものの、凶相のボルヘスの目尻に皺が刻まれる。相好を崩しているようだ。スマイルマークを構成する表情筋が欠如した男の微笑みは、どこかしらくしゃみを堪えている殺し屋を思わせる。

 救済を旨とするカソリック団体などのトップに就任していたら、十中八九破滅させたに違いない現実的な経済感覚と凶悪な容貌を備えたボルヘス。そいつが垣間見せる優しさの片鱗。どうやら大事の娘とはこの少女のことだな。

 しかし似ていない父娘おやこだ。毛皮の色もくろしろ、質も剛と柔、面立ちは妖精と怪物。母親の遺伝子が勝っていたのは実に幸運と言うしかない。将来は可憐な姫君になりそうだ。

「もともと私が言い出したことだもの。探偵さんがいらっしゃったんなら、ちゃんと説明しないといけないでしょう?」

「いや、ここにはホラ、汚ならしい連中も来ている事だしな、お前は……」

 汚らしいという言葉はこの際、ちょっとしたジョークと思って聞き流してやろう。…ここが依頼主の居城の中でなきゃ、頭蓋骨がその寸胴ずんどうに陥没するまで殴ってやるところだ。

「そんなことありません」少女はストストこちらに歩いてきて、如才なくスカートの襞をつまんで膝を落とす。「私がお呼び立てした者です。ご足労感謝致します。あの…探偵さん、でいらっしゃいますよね」

「そうだよ、お嬢さん。君の相談を預かりに来たんだ」

「あたし、探偵さんってトレンチコートにソフト帽かパイプを持ってるものと…」

 そんなのお話の中だけだよ、と返す。エウリディーチェという名前のお姫様は、その通りですねと口に手を当てて笑った。いや本当に、この娘こそ深窓の令嬢と呼ぶにふさわしい。

「どうも小さなレディ、俺はジャンカルロ=デッラ=レグルス。市の方に事務所を持ってる。そんでこっちのチビは、まあ助手みたいなもんだな。おいこら、挨拶しないか」

 アルフレードは直立不動で白目を剥いていた。いや、それぐらい瞳孔が狭まっていのだ。

「おい」

「あ、あう、あー…」コリーの白黒の毛皮が倍に膨らみ、尻尾は反り返った羽団扇、呼吸はチアノーゼを起こしたようにぎこちない。「ぼぼぼ僕は、ぼぼ、僕はね」

「ボボボ…?さん?」

「何言ってんだお前。オツムが筋痙攣でも起こしんぎゃっ」

 妙にしゃっちょこばった小僧は、俺の爪先を割らんばかりの勢いで踏みつけた。

「僕はアルフレード=コッレオーニ。君と同い年だよ。よろしくね」

 テメエ何しやがる、いい加減しつこいぞ!と怒鳴りかけ、やめる。

 アルフレードの目の形がどんどん丸くなり、上は桃の尻のように分裂、下は細くなっていった。

 ♡になった人間の両眼を見たのは初めてだ。はたから見ていて恥ずかしくなるぐらいハッキリと、小僧は一目惚れのめくるめく甘い陶酔に飲み込まれている。

 エウリディーチェはちゃんと小僧にも俺にしたのと同様の、自然に身についたらしい気品豊かな挨拶をした。

 子供同士だというのに、この少女の方がずっと大人びている。シチリア訛りの微塵もないアクセントも物腰も、このままローマの社交界に出してもおかしくない程の非の打ち所の無さだ。

 しかしなんだろう、やけに元気が無いというか、透き通った声にもまばゆいサファイアの原石のような眼差しにも翳りがある。

 俺の勘がピーンと立った。こりゃ、幽霊や化け物だけの問題じゃない。その裏側に抱え込んだ別件がある。それも相当厄介な。

 ぽややんとした腑抜け面でいるアルフレードは放っておいて、俺は詳しい話を聞かせてもらいたい旨をボルヘスに請うた。

「ならば客間を使うといい。ロレンソ、こいつらを案内してやれ。ワシはまだ仕事があるからな。いいか、くれぐれもエウリディーチェを頼んだぞ。それと晩餐ばんさんには遅れるなよ」

 でっぷりした身体を本革張りの椅子に沈め、王錫おうしゃくのように万年筆を振りかざす黒豹。その仰せのままに、なよやかな虎人は一礼する。エウリディーチェはフワリと背を向け先頭に立つ。

「それではレグルスさん、アルフレード君も、参りましょうか」



 廊下に出て最初にしたのはネクタイを緩めることだった。

 ったく息苦しいぜ。実の父娘でデスマス調の会話だわ、セルバンテスに至ってはまるで王族の御家来衆みてぇな慇懃さだわ…

 この家の中じゃあスプーンの上げ下ろしさえままならなくなりそうだ。俺だったらとても仕えられないタイプの主人に尽くしているのだから、セルバンテスも大したものだ。いやもしかして、嫌味で尊大な主人との関係性に執着を覚えるような、何か特殊な趣味嗜好があるのか?

「どうかしましたか?」

 セルバンテスに続き俺と並んで歩いていたアガティーナが精一杯声をひそめて訊いてきた。

「ん、ああいや」アフガンハウンド系のメイドはトーンを押さえた俺の言葉を聞き取ろうとすり寄ってくる。その胸がせめて普通のサイズなら何事もないのだが…うおお、肘にフカフカした生暖かい乳房の感触が!「君はいつから、どうしてここで働いてるんだい」

 冷静を装いながらも当たらず障らずな質問を鎮静剤がわりに、アガティーナのバストを今すぐ揉みしだいてしまいたい本能から心を逸らす。

「あたしの場合きっかけがあったんですよ。高一の頃、パレルモまで走りに行ったとき、発作で倒れた奥様を介抱したのが縁でアルバイトに入りましたので…拾われた、って言った方が近いかな」

「ここいらからパレルモまで?えらく健脚だなあ」

「あ、いえ、こっちです」両腕を突き出しグリップを握る姿勢をとる。「バイクで暴走はしったんです。これでも暴走族ぞくだったんですよ、あたし」

 ああ、やんちゃとはこれのことか。

「…びっくりしちゃいましたか?」

 俺は首を振る。「なあに、俺だって昔は荒れてたもんだ。それに女は威勢がいい方が良い」大人しいのは、まあそれはそれでいいんだけどな。

「やった!あたし実はですね…」ぐっと声音を下げるので、今度は俺が耳を寄せる番になる。「レグルスさんみたいな渋めの男の方がタイプなんです」

 おいおいおいおいおいちょっと待て、海に張り出す絶壁から遥かなる波間にザマアミロと叫ぶ前に現状を推し測れ、安請け合いするな、俺!

 俺は頬っぺたをつねる代わりに首を回して肩までほぐした。分かっている。告白されて毛は逆立ち、尻尾は力強くはためき、目尻はアーチに垂れ下がるのが止められない。グフ、グフフフとやにさがる口中などは、聖人ノアが方舟を放棄するぐらいの涎の洪水だ。

「随分ストレートだなあ。気に入ったぜ。しかしあれだな、そこにも相当な男前がいるが、あっちには関心ないのかい?」

 セルバンテスさんのこと?と目線で尋ねてくる。そうだと首肯するとゲーとベロを出した。

「あの人オカマくさくって…ていうかナルシストな線の細い男って嫌いなんです。それよりも胸板があって、二の腕が太い方がいいですよ」

「あー、あいつ何か女っぽいもんな。まさか所謂『広場の向こう側』の人種なのか」

 遠回しに『同性愛者ゲイ』を意味する表現だったのだが、アガティーナはあっさり否定した。

「だってあたし誘われたことありますもん。バラの花束で」キザも極まればお笑い沙汰だな。「あの人がお屋敷に来たのは意外と最近ですよ。一月前ですから」

「手はまあまあ早いってとこか」

 かなり自負心をくすぐられ、なおかつ据え膳の予感で臍下三寸が…じゃない、胸が膨らむ。

 仕事運におまけして女運まで向いてきやがった。日頃の善行がついに報われるときが来たのだ。

 俺はアガティーナと十年来の知己のように親しく会話を楽しんだ。応接室に着くなり虎人が「ここはもういいから、食堂の準備を」と言いつけて退室させるそのピンと伸びた背中を、いつまでも未練がましく見送ってしまう。

 おっしゃ、てきぱき仕事をこなして一刻もはやくあの娘と二人きりになろう。これはもう一種の義務だ。移り気で地に足つかぬキューピッドが取り持つ男女の縁(えにし)、フイにしたら罪になる。

「さて、嬢ちゃん」一ミリの狂いもなく互いに正対するソファーに人形のように腰掛けるエウリディーチェ。俺はつとめて優しく質問を投げてやった。「に見たものをそのまんま話してくれるかな?」

「私は、母を10ヶ月前に亡くしました」エウリディーチェは科白をぽつぽつ途切れさせながら打ち明けた。しかし表情は決然とし、この年頃ならばそうなって当然の、悲劇に浸る感傷をいささかも匂わせない。「それから、夜眠れなくなって、時々ベッドを抜け出て城の中を歩いては長い時間を過ごしていたんです」

「その亡霊ってのは、そうやって城の中を散歩してて見たのかい?」

「いいえ、最初にあったのは声なんです」

「声?」

 少女はこくりと頷き目を伏せる。その様子から、超常現象に対する疑いを完全に捨ててはいない、成熟に向かう知性の片鱗がほの見える。

 賢さといい態度といい、こりゃあウチで飼ってる小僧とは出来が違うな…と横目を隣のアルフレードに流す。

 コリー人は上の空でモゾモゾぶつぶつやっていた。そして少女をボンヤリ眺める上気した顔は、発情期の動物さながら。

 俺は思わずため息をつく。幸いエウリディーチェはそんなアルフレードには関心を払わず、ひたむきに証言を続ける。

「大体一月位前なんですが、散策していた夜中に鋭い悲鳴みたいなものを聞きました。私はびっくりして寝室に引き返して、ベッドに潜り込んで…。次の晩は何も起こらず、きっと自分の聞き違いか気のせいなんだと思っていました。でもそのうち、ほかの音がするようになったんです」

「そりゃどんな感じだい」

 壁の中で、何かが爪でカリカリこすっているような、そんな音だと猫人の少女は答える。

 想像すると不気味だ。壁の内側から響く物音か…

 そういや俺もガキの頃、ホラー映画を見たあとにはクローゼットの開きかけの隙間や一人でシャワーを浴びる浴室の水音の合間の静寂、窓の外に移るポプラの樹影にさえガタガタ震えて毛布をひっ被っていたっけな。

 それを引き取る形でセルバンテスが「お嬢様の他には、今のところ物音に気付いた者はおりません。私も含めてです。セキュリティにも一切反応しておりませんので、この現象を見極めるためにレグルスさんの力添えを頂きたいのです」と身を乗り出し、エウリディーチェにも目付きで同意を求める。

 俺にはその刹那、少女が冷水を浴びたように身をこわばらせたのを感じた。だが、すぐにかぶりを振る。

「それだけじゃないんです。姿も見たんです。つい一昨日に」

「でもお嬢様、ご覧になったとおっしゃる廊下の防犯カメラには、何も映っていなかったではありませんか」

「だから亡霊なんです。騎士団の亡霊が…機械の眼を欺いて、城の中をうろつき回っているのよ…」

 この城を含めた一帯がかつて戦場になったのは確かな史実だ。オスマン=トルコ帝国軍一万四千に対し、城が擁した聖ヨハネ騎士団に由来するスペイン分団はわずか八百。彼等はそれでも半月持ちこたえた。これは未だに英雄譚として語り継がれている。

 だがまあ、今そんなことを伝えて一層怖がらせてもしょうがない。

「セルバンテス、この城の警備はどうなってるんだ?」

「はい、廊下と城の出入り口には監視カメラが設置されております。あとは、外壁側の窓枠には対人センサーが付属しておりまして、もし不心得者が侵入を試みた場合には電気が流れる仕組みになっております」

「警備室とか警備員は」

「セキュリティ・ルームがこの階にありますが、特に常駐する者はおりません。時間を定めて使用人がチェックはしておりますが…それと旦那様とお嬢様のための避難場所パニックルームが四階にございます」

 オイオイ、随分とお粗末な備えじゃねえか。武器を携帯した強盗に襲われたらひとたまりもないぞ。

「んじゃあそのセキュリティの方を案内してもらおう。嬢ちゃんが亡霊を見た通路のビデオも確認する。それから、くまなく城の中の探索だ。先にマスターキーを貸しな」

「ですからビデオ等は私も確認しておりますので、お手を煩わせる必要は」

「うるせえ」俺はセルバンテスの口上をバッサリ切り捨て、咽喉からグルルと唸りを出す。「いいか、俺の依頼人はその嬢ちゃんで、お前はただの使い走りの家庭教師だ。俺は俺のやり方で徹底的にやる。邪魔しやがったらただじゃおかねぇ。分かったか?」

 左右非対称なセルバンテスの瞳のうち、暗黒の右の眼球に明らかな憤怒が燃え立った。暫くの沈黙のうち、ようよう「………そうでしたね。おっしゃることは尤もです」と唇から押し出すように降参の意を示す。

 表情には出さないよう腹立ちをこらえているようだが、それでも幾枚ものカーテンの向こうで燃え盛る暖炉の炎の如く、憤りが身体から透けて見え、全身の毛穴から透明な蒸気となって立ち昇っていた。

「レグルスさん、ありがとうございます」エウリディーチェが上ずった声で胸に両手を重ねる。「総て貴方に一任します。やっぱり思った通りの人だったわ…!」

 やっぱり?

 俺の疑問には答えずに、猫人はクスリと微笑んだ。

「ちょうど御夕食の時間になりました。お嬢様、食堂に参りましょう。レグルスさんとアルフレード君には使用人の間で申し訳ないのですが、そちらにご用意をさせておりますので」せかせかとエウリディーチェを促しながら虎人は席を立った。アガティーナが戻ってきており、戸口のところで俺に…俺達にひらひら手を振って待っている。「マスターキーまではお貸しできませんが、無くとも調査には支障はないと存じます。個人の居室までお調べになりたいのなら別ですが」

 場合によっちゃあそれもありうる。だが俺の推測では既にこの問題の根っこは2つまで絞られていた。さほど考えるまでもなく片付きそうだ。

「肩が凝ったでしょう?アルフレードはお腹減ったんじゃない?」

 小僧はアガティーナに答えもせずに、セルバンテスを従えて退室する少女にみとれている。俺にポカリと叩かれてはじめて我に返る始末。

ったいってばもう、さっきからひどいよ!」

「るっせぇな、早く来い。飯だとさ」

「ご飯!?夕ご飯まで出るの!!」

 アルフレードの眼がキラキラしてくる。アガティーナが「あたしの叔母さんが腕によりをかけてるわよ。久しぶりのお客様だから奮発する!ってね」と言うので舌なめずりしながら「ね、僕お腹ペコペコだよ。早くご馳走食べに行こ!」と俺の手を引っ張る。

 餓鬼はお気楽なこったなあ…と気が抜ける俺に、アガティーナがポンと背中を押してきた。

 そして陽が沈む。のどかであった丘陵に森閑と薄闇がかかる。光の半日が終わりを告げ、月と星が支配する夜が迫ってこようとしていた。



 いい加減飽きがきそうなだだっ広さの城の、これまた大がかりな台所は、そのまま使用人達の食堂に続いていた。

 多少かまどの煙に煤けているが、それがかえって漆喰壁に家庭的な味を与えている。二列に置かれた厚板テーブルの四辺はどこもお仕着せ姿の使用人達で埋まっている。俺とアルフレードが古めかしいアーチをそのまま残した入り口からヒョイと頭を突っ込めば、彼らはワタワタと立ち上がり「あっちを詰めろ、こっちに寄せろ」の大騒ぎだ。

 なんとか三人分の空きを確保して、俺を挟む形でアガティーナとアルフレードが席につく。

「テーブルが高いんじゃないか」アルフレードは顔だけテーブルの上に見えているので、まるで生首人形だ。「俺の膝に乗せてやるぞ」

「ううんいい、ジャンおじさんいっつも食べこぼすんだもん。頭の毛皮がパン屑だらけになっちゃう」

「なっ、んなことねえぞ!」

「じゃああたしの方に来る?」とアガティーナ。アルフレードは「子供じゃないんだから、これで平気だよぅ」とフォーク・ナイフを握って臨戦態勢をとる。

「やっぱり子供がいるのは良いねえ、賑やかになるよ」「坊や、お歳は幾つだい?お名前は?」「利口そうな顔だねえ」「ワシの孫と同じくらいかのう」「あんたの孫は大学生じゃないか。あたしの孫と似てるよ」「でもなかなか会いに来ないんでしょう?お嫁さんと折り合いが悪いと何の得もないわよ」

 アヒルの巣をつついたように、まあピイピイガアガアよくしゃべる連中だ。ふと見渡すと若いのは余りいない。よくても40代後半ぐらいのがほんの数人だ。

 でっぷり肥え太った頑丈そうな犬人の中年メイドが、まだ泡を立てている熱々のスープで満たされた寸胴の大鍋を「ほっ、ほっ、ほっ」と景気よく運んできた。

「さあさあさあアンタ達無駄口叩いてないで皿を回しな!あたしの特製の合挽き肉団子のクリーム煮だよ!」

 わっ、とテーブルに拍手が起こる。スプーンがコココンコンとビートを刻む。中年メイドの注いだスープ、皮は岩のように固く中は真綿のような丸パン、自家製のオリーブオイルを使った新鮮な野菜のソテーカポナータをたっぷり添えたシチリア風ロールキャベツ、ジャムやバターの壺等がテーブルに行き渡ると、どっしりしたメイドは食前の祈りの音頭をとる。

「本日の糧を我らに与えし天なる父と御子、そして聖ロザリア様に感謝を。アーメン」

 アーメン!

 コロシアムの観衆のごとき無数の手が動く。さっきより1万倍も激しい物音と会話が広い部屋に飛び交った。

 俺は滋味豊かなスープを一息にすすり、丸パンをヒョイと吸い込む。ロールキャベツは二口で胃袋へ。

「アンタが噂の探偵かい」

 いつの間にか太っちょメイドが真ん前の席についていた。形が崩れたのかもとからなのか、これまたバストの盛り上がりが搾乳前の雌牛のようだ。

「俺はジャンカルロ=デッラ=レグルス。仰るように探偵だ。こっちの小僧は俺の餓鬼じゃないが、ちと込み入った理由で一緒に暮らしてる」

「おやそうかい。アタシはジャケネッタでいいよ」にんまりと意味ありげな目付きで、俺のハスキー系の鋭角な耳から鍛え上げられた上半身を審査しアガティーナに言う。「いかにもアンタ好みの、ちょいと渋い男っぷりだねえ?」

「そう。狙ってるからちょっかい出さないでね叔母さん」

「あっはっは、こりゃ大事おおごとだ。お転婆アガティーナティナに婿が来る」割れた銅鑼のような笑い声を上げる。「心配しなさんな。亭主が泣いちまうからアタシは遠慮するさ」

 しゃべくりながらも、おかわりに通りがかった同僚のスチュワードに俺の分も頼んでくれる。

「坊や、顎にスープが垂れてるよ」

 皿に頭から突っ込む勢いで一心不乱にかっこんでいた小僧が「へく?」と顔を上げた。

「お嬢様と仲良くしてやっておくれよねえ」ごしごしナプキンで口の周りを拭かれながら、アルフレードは頷く。「ここのところほとんどお部屋にこもりっきりで塞ぎの虫でらっしゃるから、アタシゃ気が重いんだ。元気づけてやってくれるかい?」小僧はまたしてもコクンと承諾する。

 そう、良い子だと頭を撫でられ、アルフレードは素直に嬉しがった。

「ジャケネッタさんよ、あんたは嬢ちゃんが見たことについてどう思う?」

「アタシはここで一番の古株だけど、そのアタシがこれまで亡霊を見たことがないんだ。この中にいる皆もそうだし、あり得ないね」

「なるほど。それ以外で最近目についたこととか変わったことはねえか?」ジャケネッタは肩をすくめる。ここでなみなみ注がれたおかわりのスープがきた。「そうか。ところで俺の知り合いがやってる店にここの奥さんがよく来てたらしいんだが」

「オフェリア様が!」

「ああ。亡くなって残念がってた」

「レグルスさん、私は聞いてないです」アガティーナが脇を小突いてくる。「奥様に会われたことがあるんですか?」

「俺じゃなく馴染みの店のオーナーがな」

 なんだそうなんですか、と少しがっかりした様子のアガティーナに、ボルヘス夫人について質問してみた。

「心根の綺麗な優しい方でした。グレてた私にメイドの仕事を下さって、礼儀作法から何から色々なことを教えて頂きました…」スカートの膝の間に重ねた手がきつく握り合わされる。「あんな良い人が召されるなんて、神様は残酷です。その為に旦那様もお嬢様も苦しんでらっしゃるんだし…」

「お止めティナ、神様の悪口を言うもんじゃない」ジャケネッタは、ず、とスープをすすって十字を切る。「思し召しあらばこそ天の門は開かれるのさ。アンタもいつまでもクヨクヨしてんじゃないよ。それにあの方の最期には重大な疑いが…」

 ジャケネッタが言いかけた科白に場の空気が凍りついた。それはほんの瞬きの間に過ぎなかったが、ただならぬ濃い陰をまとう、毛皮が粟立つような静寂。

「疑い?何かおかしなことでもあるのか?」

「あ……あの、それは」

「ティナ!」

 ジャケネッタはゆっくり首を振りナプキンを使う。この話はこれまでだ、と雰囲気に教えられた。

「ま、いいや。ところであのセルバンテスってスカした野郎は考古学者だそうだが、なんだってまた家庭教師なんかやってるんだ?」俺も調子が出てきて、どんどん口の利きようがざっくばらんになってくる。「調査してるとかぬかしてたんだが、どんなもんか知ってるかい?」

 ああ、あの方ねえ、とジャケネッタはクジラの腹を連想させる巨大な胸を激しく波打たせながら身を乗り出してくる。

「いやーまあ凄い方だよ。朝は早くから起き出して、お嬢様の授業とは別に夜も遅くまで研究さ。いつでもニコニコしてて気さくで人当たりも良いしねえ。研究の内容?なんだったかな…あ、そうそう、この城の歴史が興味深いとか言っていたような気がするよ。うん、そうだそうだ。アタシもだけど、ここで働くモンは地元の人間だからって古い言い伝えや昔話も聞いて回っていたよお。最後の城主が自分と同じスペイン人だったってのもあるんだろうねえ。なんでも落城の際に騎士団のほぼ全員が聖母の導きで命を救われたって伝説とか、進駐してきたトルコ軍の総長が村娘に求婚した伝説とか、そういった他所よそにない話が面白いんだとさ。働き始めてからはひと月ぐらいしか経ってないが、頑固な旦那様をかきくどいてセキュリティとかでコンピューターを入れさせたり、経理やなんかをやらせてもテキパキこなすらしいよお。オツムも良いし、ここいらじゃちょっとお目にかかれないハンサムだしね、始めはこの娘が色気づいちまうんじゃないかって思ったんだけど」

 ほとんど間をおかず滝のようにまくし立て、四角い顔をややむくれ気味な姪に向ける。余程先程のボルヘス夫人オフェリアの話題から逃げたいのだろう。

「私はあの人タイプじゃないもの。朝っぱらから廊下の窓に雑巾がけしたり絨毯に掃除機かけたりしてるような男なんて、珍しいを通り越して変よ」アガティーナはフンと空気を嗅ぐように鼻をかざす。「上品ぶってるのも癪に障るわ」

「いやいや、アンタは男ってモンが分かってないね。家でグウタラして煙草ふかして自分が平らげたぶんの皿の一つも洗ってくれないよりか、ちっとばかし神経質でも構わないから細やかで気の利く方が良いに決まってるさね。掃除だって、あたしたちを手伝ってくれてるもんと思えばいいじゃないか」

 なんだか聞けば聞くほど俺とは正反対のタイプだな。

 俺は食事の後の食器の片付けは(メニューは缶詰開けてトーストを焼くか、シリアルにミルクを足すのが関の山だが)アルフレードにやらせているし、掃除なんか「埃が降り積もるのは地球の重力による自然現象だ」と割り切っている。男だから家事をしないとか、ナヨっちいからしてるとかの論点じゃなく、その方面の作業全般が基本的に不得意だし、さりとて能力的不備を直す気もその必要もないからそうなっているだけだが。

「廊下にも花がたくさん生けてあるが、あれもやっこさんの趣味なのか」

「あれは奥様が始めたんです。今は私が引き継がせて頂いてますけど。なんかですね、『ここにはこの花を飾って!』って指定がありまして、言い付けを守らないと凄く不機嫌になられてました」

 そうか、フラワーアレンジメントの講師だったんだもんな。

「種類を指定したのは何か意味が?」と尋ねるとアガティーナは「知りませんけど?」と小首を傾げる。

 俺は食後にコーヒーをもらい、アルフレードが振る舞われたお子様用のジュースを飲み終えたのをしおに、一旦あてがわれた客用の寝室に行ってみることにした。使用人達は、もう少しあと少しと引き延ばして小僧を構いたがったが「夜9時までには寝させる習慣なんでね」と、かわす。いくら平均年齢の高い大人ばかりの職場環境とはいえ、中高年のはしゃぎっぷりにはなぜだか少しく虚ろな印象を受けた。

 子供ならエウリディーチェもいるというのに、この城には子供らしい子供が場に与える活力エネルギーというか、明るさが欠けている。中高年どもはそれを感じているのだろう。

 台所から出るときアガティーナがそっとそばに来て「私、まだしばらくは連続で泊まり勤務なんで、さっきの話は二人きりになれたときにお話しします」とウインクしてきた。

 意味深な言い回しだが内容はボルヘス一家の内情についてだろう。それはそれとして、この誘いは魅力的だ。非常に。うん。

 浴室が付いた客間は多少湿気がこもっていた。長らく使われず急ごしらえで整えられたらしいベッドが2つ。それに挟まれた格好でサイドテーブルが置かれ、壁には一枚の油絵だけという先程の執務室に較べれば簡素極まるレイアウト。まあ泊めてもらえるのだから文句は無い。

 アルフレードには有無を言わせず「寝ろ!」と命令し、俺は本題の城の調査を開始した。



 廊下に出たが立ち働く使用人の姿がない。窓から覗けば水槽に墨を垂らすような薄暮の景色に包まれて、何人かが自転車で連れ立って帰って行くのが転がる豆粒さながらに見えた。

 絨毯は俺の足音を吸い込み、天井に反響するのは銅の皿のついた燭台風電球のはぜるジジジという唸りだけ。

 あの賑やかな食卓の後では余計に静寂が耳にこたえる。なんとなく鼻唄なんぞうなりつつ、ゆっくり歩き始めた。

 しんみりとした明かりに照らされた廊下は、幽霊の囁きや不気味な物音を聞くにはうってつけかもしれない。特に深夜にはー…

 時間の流れが凍りついた石壁の表面をなぜる。このあたりの土中深くから掘って運んできたとおぼしき頑丈な岩石が組まれた壁。ときに石同士の隙間が開きすぎてセメントでごまかしてあるのがシチリア人の愛嬌といえる。

 今回の依頼について、2択にしぼっていた予想。俺にしてみれば、これは単に人為か無為か、すなわち人の手や意志が介在したか否かの問題だった。

 エウリディーチェは確かに何者か、はたまた何物かを感じたようだ。あの娘が嘘をついているとは思えない。とするならそれは何か。どんな現象がそのように感じさせたのか。事務所で話を聞いたとき、俺の頭に真っ先に浮かんだのは寒暖の差によって建材が引き起こす家鳴りの類いだったが、応接室では切り出さないでおいた。

 建材のコネクション部分は昼夜の気温の変化に反応して膨張・萎縮する。そのためにコツコツカリカリ音を立てるのだと頭から決めつけてかかるのはプロの仕事じゃない。

 家の中の誰かがやっているという線は当面消えた。使用人、そして勿論ボルヘスにはそんな気配が全く無い。あるいはそのつもりがなくともそう聞こえている理由かがあるのかもしれない。それでもないなら自然現象、まさに幽霊の正体見たり枯れ尾花、ということになるだろう。

 侵入者の可能性も予想はしている。だからまず部屋という部屋をくまなく踏破し、家具の隙間や調度の陰や階段下の暗がりをしらみ潰しにしなければならない。マスターキーをゲットできなかったのは痛いが、仕方ない。できるところまでやってみるだけだ。もと警察官の血が騒ぐぜ!

 腕時計を確認した。8時半を回っている。ぐずっていた小僧もどうせすぐ寝付くだろう。

 今いるのは2階。まず城の内側のチェックをするか。それが済んだら外の警備状態を確認して原因の目星をつけたら報告、そして依頼は解決。残った時間はアガティーナと…ウヒヒ。

 ひょっとしたら数日かかるかもしれないが、思いがけないオプションがついている。俺の股間とモチベーションはまさしくウナギ昇りだ(このくらいは下品の内には入らないよな?)。十代の食べ頃の肉体に思いを馳せて独りニヤつく。

 英国的アンティーク風の柱時計の前に差し掛かったときだった。いきなり背筋をぞわりと逆撫でされたような感覚がし、俺は反射的に身を翻した。警官時代に染み付いた危険を察知する勘。パトロール中に頭のいかれた野郎に背後から襲われるなんてのは、パレルモではマクドナルドのコーラに蝿が浮いているくらいありふれた日常の1コマだったのだ。

「うわっ!」

「セルバンテス?」

 情けない表情で怯えをあらわにした虎人の優男が、俺の勢いに突き飛ばされて「ととと、わ、たっ」とたたらを踏み、こらえられずに絨毯にひっくり返った。

「…何してんだオメエ…」

 タハハと尻餅をついた恥ずかしさをごまかしつつ、セルバンテスは驚かせるつもりはなかったのだと言い訳をする。

「先程失礼な態度をとりましたことをお詫び申し上げたくて、お探ししておりました。また何せ広い城中のことですから、レグルスさんには案内も必要かと、痛ッ」

 折り目が牛乳パックの角のようにきちんとしたズボンの裾から、ガーゼを当てた細い足首がのぞく。もとから傷めていたらしいが、それにしても…

「猫科だからって気配を消して背後に立つなよ。野郎にされるとケツを狙われたみてえで気色悪りぃぞ」

 申し訳ありません、としょげ返る。黙って見下げていても仕方ないので手を貸して立たせた。スーツ越しに掴んだセルバンテスの腕は俺が思わず「おっ?」と漏らしてしまうぐらい固く引き締まり、鍛えられた筋肉特有の重さと手応えがあった。

「ありがとうございますレグルスさん、本当に…ご親切に…」

「トロいやつだな。その足の怪我も大方どっかでコケてこさえたんだろう」

「ああ、これですか。ドアに挟んだんでしまいました。傷は酷くはないんですが痛みがなかなか引かなくて」

 セルバンテスはともをするつもりか俺についてきた。意識してよく観察するとほんの少しだけびっこを引くようにしている。真面目なだけが取りえの気弱な男なら、特に邪魔にもなるまい。セキュリティの解説ぐらいはさせてやろう。

 城内を歩きながら道筋から大体の平面図を思い描く。

 まずコンパスで大きな円を作り、少しだけ幅を縮めて同心円を内側に引く。これが今歩いている回廊だ。ちょうど東西南北に四角いオベリスクめいた柱が張り出して天井を支え、その前に三本脚をスックと伸ばした陶製のテーブルがあり、四方ごとで異なる花が芳香をくゆらせている。

 そして四本の柱を縦横に繋ぐように直線の廊下が延びて、城の中央で交わる十字路を作っていた。

「この城の改築工事はいつ頃かご存知ですか?」黙っているのが気詰まりだったのだろう、頼みもしないのに勝手にガイドをかってでる。「今を去ること11年前、お嬢様が生誕された際に旦那様が荒れ果てた建物の中を現代的な快適さを備えた住み心地よい屋敷にされたそうです」

「俺が餓鬼の頃に来た時とは大分変わったぜ。電気までちゃんと引かれてるし、相当金がかかっただろうな」

「その頃はまだアメリカンバブルの真っ只中でしたから、当家の資産は天井知らずだったのです」

「へえ…」

 関心を寄せるでもなく漏らした俺の返事に、セルバンテスは傾聴しているのだと張り切り(それとも学者が大学なんかで講義するノリだろうか)抑揚をふんだんにつけ、滑らかに舌を踊らせる。

「分厚い外壁の、内装さえ整えれば今のように暮らせるぐらい質実剛健な建築様式は、古く東西ローマ時代まで遡ります。恐らく東ローマ帝国執政官の持ち物だったのでしょう。それから聖ヨハネ騎士団が城塞として用い、オスマン=トルコ帝国に敗北を喫してからは地方史の表舞台から完全に忘れ去られます。第一次大戦の始めにも多少は使われた形跡がありますが、軍事拠点としてではありません。ここらの人が食料や家畜や家財を避難させただけなのですね。歴史的な観点から見て最後の城主に当たる人物は、ある一つの伝説を残しました」

 んなこと知ってるっつうの。

「マリア様が降臨した、ってやつかい」

 おやご存知で!ロレンソの活き活きした食いつきように、ついつられてしまったことを悔いたが手遅れだった。

 田舎のジジババ相手で腐していたのか、俺という話し相手ができたのをこれ幸いとばかり、若い学者先生の弁はタガが外れて暴走を始める。

「トルコ軍が猛攻したのは深夜でした。キリスト教を奉じるスペイン出身の騎士達は警戒を怠っておらず、当然のことながらすぐに反撃に転じます。しかし多勢に無勢、勇敢な彼らは城門に下ろした閂一本だけで血に飢えた敵軍から遮られている状態。まさに刀折れ矢尽きたその時!」

 ここで虎人は女のように爪にヤスリをかけた人差し指を差し上げた。元老院で発言するカエサルを思わせる仕種。

「騎士団の前に光輝く聖母が現れてピンチを救ってくれたそうですよ」

 子供のように顔の毛並みをつやつやさせる得意満面なセルバンテスに、ささやかながら皮肉なしの拍手を送った。

「いやはや長広舌お疲れさん。さすが歴史家だな」

ありがとうございますグラシャス。ただ訂正させて頂ければ、私は考古学者ですよ」

「どっちでも構わねえよ。それにしたってンなもん、ただの言い伝えだろうが。ヨタだよヨタ。ま、もしこの世に神様がいるんなら相当な怠けモンに決まってるな」

こちらの方シシリーは皆さん敬虔なクリスチャンでいらっしゃるものと思っておりましたが…」

 俺はだんまりで首を振る。もし神なんてもんが見そなわしていたのなら、俺の親友が殺されるはずがない。あいつは俺の知ってる誰よりも、世の中に必要とされていたのに…

「成程。御苦労なさったんですね?」

 その口調がカチンときて、「てめぇみてぇなボンボンにゃ関係ねぇんだよ」と吐き捨てた。

「私は御曹司などではありませんよ」

「嘘こけ。どっかの百貨店からそっくり誂えてきたみてぇなその身形みなりで言っても説得力無ぇぞ」

 あぁこれのことですか、とセルバンテスはスーツの襟をつまむ。

「こんなものはポーズですよ。本当の私は貧乏人なんです。清貧は歴史を愛する者の宿命ですから」

 ただしボルヘス家に雇ってもらうためには、ヨレヨレの開襟シャツにエジプトのミイラや古文書のカビの臭いをさせて、機械油やラバやラクダの分泌液の汚れをつけたサファリファッションのズボン、すりきれた厚底靴に1週間風呂を浴びない格好ではいられない。そこでこれも投資と割り切り、今の格好で通しているのだと苦笑する。

「なんだ、結局俺の同類の貧乏人ってわけか?」

「貴方と同列になるのはおこがましいかもしれませんが…まあ実際は貧窮していますね。お給料が良いので、モトは充分とれそうですが」

 おかしなもんだ。やっぱり人間見かけにゃよらないもんだな。

「同じという意味では私の研究とレグルスさんのお仕事に言えるんじゃないでしょうかね。伝説や事件に秘められた謎を解き明かす、という共通点がありますから」

 セルバンテスは歌うように節をつけ、「魔術師も聖人も、マントを脱ぐまで分からない」とラテン語の諺(だろう。俺は知らんが)を言った。俺が中学の頃さんざんさぼった古文の担任、定年間際の老教師を思い出させる、正確この上ない発音で。

「さて探偵さん、これからどこを御案内致しましょう。屋上から地下まで、じっくりとことんやりますか!」

「いや、お前には手間はかけねえよ」セルバンテスの後ろ、カーブを描く回廊の彼方に現れた人影が目に飛び込み、俺は再びアドレナリンが噴出して全身の血管を駆け巡った。「続きは俺の女神に任せるさ」

 やって来るのはアフガンハウンド系犬人のメイド。彼女が俺の女神様。

 スプリンターのように手を握らず指を伸ばしたまま駆ける姿は、お仕着せをまとった狩猟の守護神アルテミスさながらだ。

「ティナ、ボルヘス家にお仕えする者がそう慌ただしく行動するのは好ましくないよ」

 愁眉を開く虎人に向かい「うっさいわね。旦那様がアンタをお呼びなの。農園の整備計画のことだそうよ」と短く叩きつけるような科白で切り返し、アガティーナはスピードを落とさず俺の袖を取る。「あと愛称で呼ばないで。身内でも彼氏でもないくせに」

 傷ついた様子で目線を寄越すセルバンテスに、俺は肩をすくめる。モテねえ男は辛ぇやな。

「行きましょうレグルスさん」南ヨーロッパ人らしい弓形の眉が反り、精気に溢れる頬には怒りの血色が浮かんでいる。振り返りもせず「ああそうそう、カプチーノも持ってってよ!」と叫ぶ。



 まったくもう、まったくもう!アガティーナは終始悪態をつきながら城の外までズンズン俺を連れて行った。

 森の方から吹く風は、湿った土に根を下ろした苔の匂いを運んでいる。気の早いコオロギが何匹か、夏の宵のセレナーデのために喉ならしをしている。

 夜空には金盆のような月がかかり、幾千の星々を家来と従える。城の窓からこちら側へ、外部の闇へ滲む人工の光より、こうした自然が照射する細い銀の糸のようなかそけき輝きが、前を見据えた犬人の娘のビロードのごとく細やかな肌目の上にとどまり、横顔を水面に揺れる写し身のように見せていた。

「どうしたってんだベイビーベベ。誰かと喧嘩でもしたのか?」

 庭をほとんど突っ切った木立の前でアガティーナは止まり、キツい表情で利き手を突き出した。

「煙草!持ってるんでしょう、ちょうだい!」

 安物だが気に入りの細巻きを出せば箱ごとひったくり、エプロンに突っ込んでいたらしい台所用のマッチを擦る。ひとみしてゲホッとむせた。

「…で?」俺も返ってきた箱から一本つまんでライターの火にかざす。城の中でずっと我慢していたぶんだけ、肺に吸い込んだ濃密な紫煙はヴェネト産の美酒のように臓腑の隅々までを多幸感で満たしてくれた。「おかんむりな雀ちゃん、何をそんなにカッカしてるんだ?」

 プッと小さく吹き出して、アガティーナはようやく吸い方を落ち着ける。

「…ジャケネッタ叔母さんが、食料庫から食べ物がくなってるのを私のせいにするんです」苛立たしく吸い口を噛む。「また昔の暴走族仲間とつるんで、もしかして城の中にまで引き入れてるんじゃないかとまで疑るもんだから、ついムカッときて…」

 殴ったのか、と聞けば「いくらあたしでもそこまでは」と否定する。

「なんか、最近城内のあちこちの廊下に泥が落ちていたり、鎧や調度品に汚れた手で触ったような跡があったり、あと…お小水みたいな変な臭いがカーテンについてたりしたみたいなんです。そういうのをセルバンテスがこっそり綺麗にしてたんですって。あたしは全然気が付かなくて、あいつの悪口ばっかり言ってて…」

 煙草の火先から吸い込むだけでは暖まらないのだろう、肩をブルッと震え上がらせるので俺の上着をかけてやる。「いいです」とのけようとするのを無理に背負わせた。

 俺達は二匹の蛍のように煙草をつまんでいた。己が片方の肘を抱くようにして牧歌的な森の遠くを眺めやるアガティーナの瞳は、蓮っ葉な娘の胡乱うろんなものではなく、どこか傷ついた優しい海の生き物を思わせた。

「ほんとに…奥様が亡くなってからうまくいかないことだらけです。旦那様はあんな外国人にばかり目をかけるし、お嬢様は沈みがちだし、みんな元気をなくしてるし、叔母さんはカリカリしてるし」自嘲する調子で俺を見上げた。愛らしい瞳が潤んでいる。「あたしは地が出ちゃうし」

 危うく口説きそうになるのをすんでのところでこらえる。まだだ。まだ早い。

「…すばり聞きたいんだが、夫人はどんな死に方をしたんだ」

 アガティーナの瑪瑙のような爪の先から、煙草の灰がぱさりと落ちた。

「保険金の話を聞かれたんですね」

 まあな、と答えたとき、城中の廊下の窓についていた明かりが巨大な波飛沫にさらわれたように一斉にかき消された。灯火の無い状態で離れてみると、騎士団長城は濃密な影として夜空の下に聳え、要塞としての性格がよく現れている。

 何者も拒む鉄壁の城。ずんぐりした骨太の形はどことなく城主パルダッサーノを彷彿とさせた。

「ああして皆が帰った後には消灯するんです。夜中は泊まり組のあたし、おばさん、セルバンテスだけになるの。同時にセキュリティのレベルが上がるから」前掛けをたくしあげ、スカートからカードキーを取り出した。「再入場には半券が必要です…ってわけね」

 腕時計を覗き込んでみると10時に近かった。

 アガティーナは煙草を土にこすって火を消し、吸殻は木の葉をちぎってくるむ。ポイ捨てするつもりだった俺もそれに倣った。

 犬人の娘は「そうですね…」と言うべきことに道筋を見い出そうとするように、半歩ずつゆっくり踏みしめながら話し始める。

「ことの始めから話しますと、奥様…オフェリア様は旦那様が切に願われてお嫁入りされた小作人の子でした。というか、半ば有無を言わさずの結婚だったらしいです。なんせ当時まだ大学の一回生で旦那様とは年齢としの差が20も開いていて、今のあたしの方に近いぐらいの若さだったんですよ」

 アガティーナは庭といえないこともない城の前の空き地を花壇に向かって歩き始めた。さやかな月光のたゆたう靄の中、俺達の大小の影が地面を這う。

「品種改良をテーマにした論文を書くためにボルヘス家のオリーブ農園にいらしたとき、旦那様に見初められたオフェリア様は、大学を中退されて式を挙げた翌年にエウリディーチェ様を産み落とされました」

 ときにオフェリア20才、ボルヘス40才。あの親爺も頑張ったもんだ。婚姻前にはどんな風に二十歳前の娘に告白したのか、はたまたのっけから親の雇用を楯にして迫ったのか、さぞや見ものだっただろう。

「結婚したのが早すぎだな。ティーンエイジャーなら遊びたい盛りだろうに。大学に未練は無かったのか?」

「私には『やる気があればどこでだって勉強できる』とよくおっしゃってました。実際、お嫁に来てからは旦那様に設備を整えてもらって、ボルヘス家の農園の利益になるような植物の研究を始めたそうですよ。もっとも亡くなる前には違うこともなさっていたみたいなんですけど」

「ほう、浮気でもしたか」

 噛みつくような勢いで「違うわよ!」と怒鳴り、ビンタをしかけたのだろう、俺の顎の上まで手をかざす。

「…オフェリア様に限ってそんなこと、絶対にあり得ません!」

「おう、つまらねえこと聞いちまったな、悪い悪い」

 鼻息荒いアガティーナが角を引っ込めるよう宥めた。

「…植物の実験中に何か良い発見があったらしいんですよ…」



 ---ティナ、ねえティナったら、聞いてちょうだいな、あたしもう身体も魂も花火になってスパークしてる気分なの!

 ---どうなさったんですか奥様、そんなに興奮なされて…

 ---あのね、とても刺激的で貴重な発見をしてしまったのよ。これが成功したらきっと『ネイチャー』に載るわ。そうなったら、ああ、何て素敵なのかしら!パルダッサーノパルにもエウリディーチェチュチュにもお手製の晴れ着を着せてあげたいわ。そして三人並んで記事にする写真を撮ってもらうのよ。うふふ、あの人ったらきっと緊張して一層顔をしかめるでしょうね。そうしたらあたしは記者さんに言うの、「主人は笑いたくて仕方がないんですの。それを堪えるためにああしてデニーロの真似でいるつもりなのよ」って!

 ---奥様、オフェリア様、目が回っちゃいます、止まってくださ…

 ---あらまたやっちゃった。ついね。うふ、まるで子供みたいね。

 ---旦那様にはもう?

 ---いいえ、あの人にはまだ秘密にしているわ。伝えるのは結果が出てからにしたいの。

 ---…なるべくお早く。ひところ心労が積み重なっておいでですから…

 ---勿論よ。パルに喜んでもらうのが一番待ち遠しいのはあたしなんだもの。

 ---私も楽しみにしておりますよ、オフェリア様。ところで一体何を発見されたのですか?

 ---………そうねえ、ティナにだけはヒントをあげる。この実験は植物だけじゃなくて歴史的にも意味があるものよ。幾星霜のときの果てから、失われた命を甦らせるの。私が小さな方舟に隠した東の実り。やがて自ずと現れるわ…



 そんなやりとりがあったことを、アガティーナはこの庭で手を取り合っていた女主人の面影を追うように、きゅっと両手を握り重ねて語った。

 女ってものは針小棒大にとかく感動しがちな生き物だ。しかし何だか面白そうな話でもある。ボルヘス夫人に年端もいかぬ少女のごとき浮かれようをもたらしたのは何だろう?

 本人が死んでしまった今となってはその秘密も墓場に永遠に眠るしかない。

「オフェリア様は花壇のちょうどこの辺りに倒れておいででした。心臓発作が起きてしまったんです。去年、一番最初のチューリップが咲いた日に…」

 アガティーナの指先が一隅を示す。ちょうど月にかかっていた蝙蝠の皮膜のような薄雲が引かれ、暗さにすっかり馴れた目には眩しいほどの月光の中、俺が見たときよりももっと酷く掘り荒らされた花壇の惨状が現れた。

「な、なんなのよこれ!」言うが早いか犬人の娘は跪く。「畜生!誰がこんなことしやがった!」

 昼間はあまり気を払わなかったが、そのあたりには全部同じ種類の球根が植えられていた。無事だった何株かは健気に芽吹き、ターバンを巻き上げたシーク教徒を思わせるいたいけな蕾をつけている。

「奥様の、オフェリア様のチューリップなのに。ああ、半分も残っちゃいない。やくざな野鼠ども、こんどうろちょろしていたら芝刈機にでも放り込んでやる!」

 すっかり山だしというか暴走族丸出しのアガティーナだったが、自分のエプロンを広げて籠がわりにし、無事な球根の救出にかかった。俺も手伝って、まだ埋まったまま茎ばかり伸びたものもざくざく掘り出してたっぷりした簡易的な布袋に入れていく。

 アガティーナがもうあらかた大丈夫と言う頃には、俺達は二人とも畑仕事を終えたばかりの芋掘り農夫とその妹という有り様になっていた。

「取り乱してごめんなさい。それに手伝ってくださって、なんてお礼を言えばいいか…」

「礼なんてよせやい、お安い御用…」俺は顔をぬぐって舌打ち一つ。「しまった、気をつけてたつもりだったんだがな」

 腐葉土と肥料がダマになってこびりついた服の袖を使ったものだから(こりゃクリーニング屋の親爺のやつが、人を殺せるほどでかくて重いアイロンを振りかざして襲ってくるだろうな)、額も顎も下手くそな墨ペイントのフーリガンじみた縞模様になってしまった。

 なんですかそれ、酷い顔!アガティーナは笑い、背筋をのけぞらす。

「笑うんじゃねぇよ」

「あはは、ごめんなさい、綺麗にしてあげたいですけど手が塞がってるから」

「人の親切を仇にしやがった罰をくれてやるぜ」

「え?」

 込み上げる笑いで身体をくの字に折り、ヒクヒクしている娘の腰に腕を絡めて引き寄せる。オトガイをチョイと持ち上げてやれば、自然と目を細めた。

 心地よい温もりが唇に広がる。鼻腔をくすぐるまだ熟しきらない女のフェロモン。かなり強引な接吻だったが、アガティーナは抵抗しなかった。

 俺の背後の窓に人影を認めるまでは。

「ダメ!離れて!」

「何だよ急によそよそしいな。ママの小言に怯える歳じゃあるまいし」

 こちらの胸に腕を突っ張ったアガティーナになおも食い下がり、腰の稜線から乳房たわわな鎖骨の方へ指先をにじる。と、向こう脛から脳天に衝撃が突き抜けた。アガティーナが塞がった両手の代わりに使ったキックの爪先が、うまく(悪く?)弁慶の泣き所に当たったのだ。

「うンぐぉぉ!」

 俺は堪らず抱擁を解き、骨まで達しそうな痛みに膝を抱える。

「あ、あの、旦那様が…窓にいらしたんです。だから、ごめんなさい!」

「うぐぐ、いやまあ、俺も気がはやったからな」

 頭をねじって城を見上げると、三階あたりの大きな窓辺に釣鐘型のボルヘスの姿があった。部屋に煌々と灯された白熱電球のおかげで、こちらの方をジッと睨んでいるのが分かる。

男寡おとこやもめのあの親爺に見せつけてやるのも可哀想ってなもんか」

 一瞬アガティーナに複雑な表情が浮かんだ。なんともいえないイヤな予感が俺の胸を去来する。

「いえ、私達じゃなくて…この花壇をご覧になってたんです。やっぱり旦那様も気にかかってらっしゃるんだわ。オフェリア様が亡くなったのは心臓発作なんですけど、このお庭で見つけられたとき持病の心臓の薬をお持ちでなかったし、直前にエウリディーチェ様の教育方針について激しく言い争いをなさったので」

「じゃあ疑惑っていうのは…」

のではないかと…」

 アガティーナはさも嫌々ながらに自殺の可能性についてほのめかす。その単語を舌に乗せる際、苦いものを反芻するように顔をしかめて。

 そりゃそうだろう。自死はクリスチャンには許されない罪、神から授かった命への冒瀆だ。食堂でジャケネッタが口を滑らしかけたのはこのことか…

「奥様が亡くなられて莫大な保険金が下りたことも、それでボルヘス家の窮状が救われたのも確かなことです。家計が苦しくなっても旦那様は従業員の首切りをしたりしませんでしたから」

 あの前代未聞の世界的不景気。事業に失敗していない者にも債権の火の粉が降りかかった災難の渦中にあって、アガティーナの言うように首切りリストラを敢行しなかったのなら、あの脂肪の山のボルヘスも芯には相当な侠気があるということだ。

 そして妻は夫や娘を守るために我が身を犠牲に?大時代じゃあるまいし、そんな浪花節めいた成り行きがあるか?

「夫人は頭をどっちに向けてたんだ?体勢は仰向けだったか?」

「城に足を向けて、だから、こんな風に頭を花壇に突っ込むようにしてました。胸を押さえて、うつぶせに」

 心臓発作は狭心症にしろ心筋梗塞にしろ死ぬ方がましだと思うくらい痛いものだという。俺の父親が一度やらかして、「冗談じゃなく心臓にくさびを打たれたようだった」とこぼしていた。

 そもそも保険金のために自殺を計画するなら、激痛を伴う発作を待つようなまどろっこしいことはすまい。おかしいのは、助かろうとして誰かを呼んだり薬を求めて建物に近づくのではなく、わざわざ反対方向に進んでいることだ。

「レグルスさん…昼間はああ言いましたけど、私なんだか変な感じがするんです」

「変な感じ?」

 アガティーナは、紺青を煮詰めたような深い空へふっと鼻先を上げた。

「奥様の霊魂はあの雲の上で安らいでいるんでしょうか。もしそうでないとしたら…」

 自然死でなく自ら命を絶った霊は、天国どころか地獄にも迎え入れられることなく現世をさ迷うとされる。……オフェリアがどっちかは知らねえが。

「お前はどうなんだ?どっちを信じてる?」

「私もだんだん分からなくなってきちゃって………あの奥様が旦那様とお嬢様を置いていく筈がないと思うんですけど」

「ならそうなんだろうよ。自分の直感を信じるんだな」

「レグルスさん…」

「ジャンて呼べよ」俺は改めてそのすべすべした肩を抱く。アガティーナがまたチラリと執務室の窓の方に視線を投げたのが気になり、「お前もしかして」と発しかけ、もう一つ何かが心に引っ掛かった。

「なんですレグルスさ…ジャン?」

 今、一瞬花壇の向こう側にいた何かと目が合ったような気がしたのだ。

 だが単なる気のせいだろう。何もいないじゃないか。俺としたことが暗い話が続いたせいだろうか、それとも世界の流れから取り残されたようなロケーションに聳える古城の雰囲気に酔ったのか。どっちにしろ、らしくねえや。

 何でもないと笑い飛ばそうとしたところで、横っ面を真夏の公衆便所の小便器でぶん殴られるような異臭に不意を突かれた。たまらず娘の肩を離して鼻の穴を塞ぐ。

「うっ、イヤだこれ、何の匂い?」

 同じく犬人のアガティーナは、球根を抱えていて鼻をつまめないので、かわりに服の肩口で顔の下半分を押さえる。

 無宿者の衣服から剥ぎ取ったような…いや、そんな生易しいもんじゃない。こんな濃密な臭気を発する人間がいたら、自分で嗅神経に中毒を起こしてしまうに違いない。

 クキィキィキィキィ…と聞き慣れない夜鳥の鳴き声がした。花壇の角っこ、西洋オトギリソウの茂みすれすれに赤い飴玉のような鬼火が二つ、揺れながら浮いている。匂いはそちらから発散されていた。

「…マジかよ」

 毛穴がギュウと引き締まるのを感じる。あれは、あの不気味な輝点は怪異の火ではなく、俺達を見据える2個の目玉だ。

 やがて、ゆっくりゆっくり『そいつ』は花壇の厚く積まれたレンガの陰から現れた。俺は一瞬、餓鬼の頃になけなしの小遣いをはたいて映画館に観に行った『グレムリン』を思い出した。

 あれに出てくる怪物のように、尖る二等辺三角の長い耳こそ無いが、全体の印象は非常に似通っている。

 脂にテカるそいつの顔面は柔らかな毛並みのひと房すら生やさず、鼻があるはずの中央部分には無様な凹みがあるだけ。

 耳まで裂けた口は凶悪というより醜悪、夜の只中でなおも黒々と沈む咽喉の奥から爬虫類とも哺乳類ともつかない唸りを漏らし、奇妙に細長い手足を大地につっばっている。ヌタヌタとした動きは奇妙な昆虫のよう。

 アガティーナは気丈にも騒ぎ立てず一歩後ろに退く…と思ったが、完全に硬直していた。

 俺は摺り足でその前に移動し、無意識に半身で空手の構えをとる。そうすることで意識はクールダウンし、身体中の筋肉が強靭なジャックナイフと化した。

 睨み合いは永遠にも感じられた。先に痺れを切らした方が不利だと俺も相手も本能で承知していたのだ。

 緊張の糸が極限まで引き延ばされたとき、アガティーナのエプロンから一番小振りな球根が落ちた。ストンという軽い音が大太鼓ティンパニの1打の如く空気を震わす。

 シャッ、と『そいつ』が後ろ足で高く飛んだ。弓なりに張った狭い背から馬丁の鞭のようにしなる手の先の鈎爪までが、月の円の中に「Λ」の字となって浮かび上がる。

 こういうとき俺は何も叫ばない。集中しきった力を軽く解放するだけだ。

 上体を斜め下へ捻りながら倒し、右足を一ミリも無駄の無い動きで天に突き上げる。180°以上に開いた股関節で空を切る必殺の蹴りの刃は、鈍い音を立てて『そいつ』の脇腹を撃ち抜いた。---それはつまり、手応えがあまりに軽いということ。

 ギャンッ!

 くぐもった鳴き声を残し、軽く10メートル以上吹っ飛ばされ城の外壁に叩きつけられたにも関わらず『そいつ』は倒れない。どころか外壁の出っ張りにへばりつき、すぐさま足場をとって器用によじ登っていく。

「あ、あれ、あれあれあれは、なんっ、何ですか」

ほうけるなっ」

 震えるアガティーナの腕を取り、城の大扉へ。見上げれば、この短時間で俺の獲物はもう屋上近くの高みにある窓の縁に到達していた。あの動きからして正体は知れた。

 我に返ったアガティーナがテンキー付の電子錠にすがり付く。

「あ、ええと、暗証番号は…」

 焦るあまり何度も押し間違えてはスリットにカードキーを通す。今現在篭の役を果たしているスカートを引っ張って支えてやりながら、俺は疑問符を噛み締めた。

 なんだってあんな生き物がこんなとこにいやがるんだ!?

「もう、このポンコツ!」何度目かの打ち込みにも応じない液晶画面にアガティーナは激しい舌打ちをした。「調子が悪いみたい。中から開けてもらうしかないわね」

「携帯はあるのか?」お、あいつめ、屋上に逃げ切りやがったな。「焦らなくていい、もう正体は分かったからな。あいつは…」

 横笛ピッコロのような少女の悲鳴が聞こえた。それからまだ甲高い「うわわわわぉ」という男の餓鬼の声が。耳を疑うより先に頭の中が真っ白になった。

 ………なんてこった!!

「え、ジャン、何をするつもりなの?」

 さあ、どうするんだろう、俺は?

 頑強な一枚板のばかでかい扉の前に立ち、息を吐いて背後を向ける。脚を開き、右に踏み出し力を溜め、左脚の踵を軸に体幹をしなやかに廻す。

 俺の回し蹴りは攻城杭と化して入口をぶち破った。木片を撒き散らしながら、「糞が、こりゃ弁償の問題でややこしくなるぞ」という考えが頭をもたげる。が、焦りの方が勢いづいて無理矢理余計な計算をねじ伏せた。

 城の静寂を台無しにするけたたましい非常ベルが響き渡る。そして石材の壁にところ構わず反響し始めた。俺は唖然と凝固しているアガティーナを放ったままで一目散に駆け出す!

 廊下を、十字路の交差を、階段を飛ぶようにやり過ごす。手足も心臓も肺もフル稼動し、汗が流れ吐く息はハーレーのマフラーさながらだのに、それらが己のものだという実感がない。俺は悪夢を見たときによくある、自分の走りがもどかしい感覚に顔を歪めていた。

 一瞬前の恐怖と驚愕の声が耳について離れない。あれはうちの、いや俺の、…ダチから預けられた厄介なお荷物小僧、アルフレードの悲鳴だった!

 途中虎人の家庭教師セルバンテスが「何事です!」と踊り場に現れたが、邪魔だとばかりに腕の一閃で薙ぎ払う。

 ガツガツガツと階段を上り、段が終わった先を通せんぼする金属のドアに体当たりをして屋上に出た。

 円形の屋上の、アンテナ近くの縁に追い詰められたボーダーコリーの小僧と、その背に守られた猫人の少女。そして俊敏にジャンプを繰り返して二人に襲いかかる『そいつ』の姿。

 アルフレードは駆けつけた俺という味方に気付かない。エウリディーチェを庇うのに必死なのだ。

「ぁぁぁぁアルフレードォォ!!」

 俺のギアが二段階抜きでMAXに入る。一歩で腋を締め、二歩で拳を握り、三歩目で腰を入れ、四歩に至り腕を引き五歩目。

 怯みながらも自分の身体を盾にして少女を庇い、ビリビリのノートを振り回している小僧の前に躍り出る。

!!」

 我知らず腰の据わった気合いを発し、俺は右の正拳突きを真正面から『そいつ』に食らわせることに成功した。

 今度こそまともな手応えが拳骨に返る。相手は遠近連続写真のように真っ直ぐ屋上の向こうの縁へ、ビュンとかっ飛んでいった。

 小僧は膝頭をブルブルカタカタいわせているものの、何とかかんとか立ち続けている。そして今回の形式上の依頼人である少女はそんな小僧の後ろに蹲っていた。

 アルフもう大丈夫だぞ、と言いかけ、ボーダーコリー人の白い頬毛をべっとりと濡らす血に気付く。

「おっま、お前、怪我してやがんのか!」シャツもズボンもポケットをひっくり返すがティッシュ一枚出てきやしない。あのクリーニング屋の糞親爺、気が利かねえ!「待ってろ、こうなりゃ俺のシャツで」

「君達どうした!」

 スマートな虎人のシルエットが走ってくる。セルバンテスだ。事の次第を素早く飲み込んで、折り畳まれたハンカチを胸から抜き、跪いてアルフの左の目の下の傷に細心の注意を払ってあてがう。

「アルフ君、お嬢様を守ってくれたんだね。ありがとう」

 恐怖で焦点のずれていたアルフレードの瞳に力がこもり、ビクリと身体を震わせる。それから、はあっと深い呼吸をした。

 よしよし、よくやったね、とセルバンテスからごく自然に頭を撫でられ、アルフレードは何度も頷いている。

 俺はそれを眺めつつ捲り上げたシャツをズボンに戻した。首筋にかいた汗が夜風に冷たい。

 見せつけられているのはキャストのぴったりはまった光景ワンシーンだった。ピンチに駆け付け、傷付いた子供を宥めて手当てする如才ない大人。女友達を怪物から身をもって庇った健気な子供。完璧だ……。

 俺は自分の握り拳に目を落とす。あれは、この手には似合わない動作。打ち、破り、殴り、叩く。そうやって砥ぎ上げた男の武器。俺の、人生の証。

 セルバンテスの手のように、論文を書き連ねたり身づくろいのためにブラシを使ったり掃除なんかをするための細やかさなど微塵も感じさせない。うねり固まった大樹の根か、ひび割れた雄牛の蹄の方がよほど近い。子供を撫でようものならどこかに不具合を生じさせてしまうだろう。

 身体中が急速に冷やされ、ブシッとくしゃみが出た。勇んでデベソまでモロ出しにした間抜けな自分の姿が何だか面白くなく、顔をそらした俺は、倒した筈の『そいつ』がなおもうごめいているのを目に留めた。

「おいお前ら!まだ終わってねえ-----」

 俺の喚起を合図にしたのか、またもや『そいつ』が跳ねた。が、アルフレードとエウリディーチェに片膝ついていたセルバンテスが流れる動作で上着の前みごろに右手を差し込み、再び出した手の先を一切の無駄を省いた楕円軌道で『そいつ』に向ける。

 鈍色に磨き上げられた32ミリオートマチック。撃鉄の引き起こしは、抜いて構えるまでのモーションで既になされていた。

糞がミエルダ!」

 セルバンテスの科白と、銃口が火を噴いたのは同時だった。

 拳銃の鉛玉は俺の拳ほどの力はなかったが、相手の勢いを殺すのには十分で、胴体の中心辺りに生命を砕く一発を受けた『そいつ』はベシャリと地に墮とされる。硝煙のからい匂い、それからまごうかたなき血腋の発する鉄の匂いが大気に充満する。

 やった。今度こそ。横たわる影の下にできた血だまりが、石積みの表面にみるみる大きくなっていく。そこに月光が反射して、ねじくれた手足の輪郭がよりはっきりと切り抜かれる。

 球体で、上にいくほどすぼんでいる頭。気持ち悪いほどつるんとした無毛の顔面。苦悶の横皺が刻まれつつある額、削ぎ落とされたような格好の鼻。クレーターとなって窪む両眼には妖火と見まごうた眼球の輝きも消え失せ、早くも灰色のカスミがかかり始めている。大きく裂けた口の端から一筋の血が流れ出した。

 猿。人外のけだもの。何処から、どんな奴に連れてこられたのかも分からないそいつは、星を採ろうとした伝説の人物のように高く高く右腕を天に伸ばす。そして。

 執念も尽き果て、息絶えた。



 まだツラに血色の戻らない様子のアルフレードがぎこちない足取りでやって来て、俺のズボンのベルトを握る。

「ジャンおじさん…」

「よく見とけアルフ、これが亡霊の正体だ」

「ジャンおじさん…」

「それにしてもお前なあ、なんだってまたこんなとこにいるんだよ。部屋でおとなしく寝てろって俺様が言い付けをし」

「ジャンおじさん!」

 アルフレードの小さな身体が土手っ腹に飛び込んできた。俺がたじろぐ内に顔をくしゃくしゃにして泣き出す。

「ジッ…ん、ぼ、僕怖かっ……が…て、それで……って」

 ビー玉のような涙の粒をボロボロ転がして、鼻水にぬるぬるした顔をこすりつけて、おまけに、おまけにこのガキ、半ズボンの前が濡れてやがる!

「うぉっきったね!寄るな触るな汚すなこの野郎!」

「レグルスさん」

 セルバンテスが苦笑し、かぶりを振る。

 優しい言葉をかけておあげなさい、叱る前に……と唇を動かして伝えてきた。

 いや、メソメソ泣くぐれえなら始めから来なきゃ良かったんだ、だのにコイツ俺の注意にも従わねえし、自業自得だろう!

 は・や・く・な・ぐ・さ・め・な・さ・い!!

 端正な顔立ちを歪め、無音で叱咤する虎人に、さしもの俺も怯んでしまう。

 …畜生、何で俺が…

 俺にしがみつき激しくしゃくり上げるコリー人の頭が、咳き込んで揺れている。盛大にチビった臭いが鼻をつく。

 唾をゴクリと飲み込む。誰に何と言われようが、俺は生まれてこのかた餓鬼の頭を撫でるなんて女々しいことをしたことが無いのだ。だってよ、男の餓鬼ってなあヨチヨチ甘やかして育てるもんじゃねえだろう?第一………恥ずかしいじゃねぇか……………!!

 俺は爆弾に触れる解体班のように、張りつめた両の指の関節をギギグギとこじり開ける。セルバンテスがじっとこちらを窺っているので、見んじゃねえよと顎をしゃくる。

 さて。できるだろうか、俺に、こんな人情じみた真似ごとが…

 出し抜けにアルフレードが顔を上げる。真っ直ぐに胸の奥まで届いてくる視線は、しとど溢れた安堵の涙でキラキラしていた。

「ジャンおじさん、ごめんなさいぃ」

 頬に痛々しく刻まれた爪による一条の傷。男の勲章といえば聞こえはいいが、庭で遭遇した時に俺があの猿を一撃で仕留めていたら、せめてもっと早く駆けつけていたら、じゅうぶん免れ得た筈のものだ。

 気が付いたら俺は自分の腰までもないその背中に手を回し、ひしと抱き締めていた。「いいんだ」勝手に口が動く。魔法にかけられたように。「あの娘を守ったんだろ?頑張ったじゃねえか、上等上等。俺が認めてやる、お前は立派にやった。今だけは泣いてもいい」

 癖のある頭の毛並みをぐしぐしと力強く揉んでやる。

「よくやった。さすがイグナシオの息子だな」

 その言葉が涙の貯水池を開放するキーワードだったようで、アルフレードはワナワナと全身を揺らし、一層激しく泣き出した。抱きつかれたフトモモから腰にかけてが熱い。体温と涙と…あまり考えたくないが小便なんだろうな。

 ほら貴方にもできたじゃないですか。と言わんばかりのセルバンテスのしたり顔も気にならなかった。

 全館に鳴り響いていた非常ベルに泡を食ったボルヘスがアガティーナに連れられて来る。そして屋上の血生臭い猿の屍骸と愛娘の無事な姿を見るや、こちらは大人の方が狼狽して泣き出す。途切れて聞こえるのは、どうやら詫びの文句のようだった。曰く、ワシが間違っていた、許してくれー…ま、妥当だろうな。

 夜空を見上げながら、俺は初めての満ち足りた思いを味わった。それはとても奇妙なものだった。

 自分がひどくちっぽけな殻に押し込められたようでもあり、逆に魂が皮膚を突き破りどこまでも世界が広がっていくようでもある。ただ分かったのは、まあ悪くはない気分だということだ。

 アルフレードのぬくもり。俺は頼られる存在で、こいつは俺が保護したい相手だ。慈しむとか愛おしむとかそんな大層なもんじゃない。だがこれは、俺には大きな一歩。

 イグナシオ。この空の上から、ちゃんと見えているか?

 俺にもできたぜ、親友。



 翌日午前いっぱいかかった大々的な山狩りで、丘の森の中に二匹の小猿が見つかった。花壇を荒らし、城の中を汚したり食料を漁っていたのは、飢えた子猿達に乳を与えようとした母猿に本能がさせた仕業だったのだ。子ザルはどうやら動物園に行く代わりにボルヘス家のペットにおさまったらしい。

 俺はそんな経過を、月曜の昼時、事務所にかかってきた電話で説明された。

 事件から既に三日を過ぎている。部屋の中は相変わらず男一人に餓鬼一匹の生活臭に溢れ、紳士の雑誌『プレイボーイ』が大量虐殺された哀れな鳩さながらバサバサと落ちた床には、更に片付けという躾をされていない餓鬼が食い散らかした赤・緑・紫のチョコバーの包み紙が降り積もる。ソファーの間のテーブルはFAXや新聞が崩れんばかり。

 依頼を受けた金曜の午後からあまり変わったところはない。一点だけ違っているといえば、受話器を首に挟んだ俺がいつもの煙草ヤニがわりにガムを噛みながら鼻をほじっていることだ。

「私達を襲ったのはただの猿ではありませんよ。homod△▽□◇…」と、なんだか長ったらしい学名を電話口で告げようとするセルバンテスを、俺は「それよりギャラの方はどうなってるんだ」と遮った。

「こっちぁ小僧が怪我までしてんだからな、ちっとばかりのイロつけるくれぇじゃオイ、納得しねえぜ」

 別にアルフレードのすぐ消える頬傷をネタにたかるつもりはない。こうして高圧的な態度に出ておれば、俺が粉砕した玄関扉の修理代がどさくさに安くなりはすまいかと、俺なりに考えての強請なのだ。

「御安心下さい。旦那様がアルフの騎士道的行為にいたく感銘されましたので、ほっぺたの怪我の治療代はもたせて頂きますよ。それに感謝の気持ちを併せまして、報酬はー…」

 よっしゃ!弁償については言わない!この会話の後には一切聞かない受け付けないで通してやる。読み返した契約書には弁済免責事項に器物破損は入っていなかった。なんせ前払いの残額は借り物の服のクリーニングと修繕代ですっ飛んだのだ。せめて3000…いや当初の契約通り半金でこないだの手付金と同額の2000と、アルフレードの治療費にいくらかあれば…

「レグルスさん?聞いてます?」

「え?ああ、ああ聞いてるぜ。ちょっと考え事をな」

「ではそういうことで。後程私の後任に新しく雇った秘書がお持ち致しますから、宜しくお願いしますね。短い間でしたがお世話になりました」

「なんだお前、ボルヘスの仕事辞めちまうのか?勿体ねぇ!」

「秘書じみたこともしておりましたが、それに加えて家庭教師の役、さらに学究の徒という三重生活を破綻をきたさず送るには、どうやら時間も能力も不足しているようでして。当初の目的でした考古学上の研究の方もメドが立ちましたし、やり残したこともなくなりました。それに何より、地球上の未だ発見されていない遺跡が私を呼んでいるのです」

 お元気でアディオス。最後に短い母語で挨拶したきり、通話は切れた。

 ケッ、最後までキザな野郎だったなあ。

 ……それにしても……

 俺の事務所の窓からは、坂道を挟んで反対側の建物の向こうに、黄味がかった海岸道路が眺められる。それは静かな湾をぐるりと巡り、賑やかなパレルモの街の中心へとピックアップトラックやカーコンテナを運んでいる。

 眩しく照り映えた防波堤の割れ目からコーラルピンクの芥子がヒョロリと頭をもたげては眠たそうに揺れ、遠い海鳥の影が雹のように時折視界をかすめていく。

 水色に近い潮騒の青と、家々のカスタード色と、道路や塀の乳白色。その三つの色を基調にした一幅の水彩画のように穏やかな風景。

 俺は受話器を戻し、えいこらしょとデスクにどっかり足を預けながら、数日前の騒動の有り様をまぶたの裏に描く。そのうち意識は蜘蛛が己のつむいだ糸を伝うがごとく、自然と一つの場面に行き当たった。

 ロレンソ=セルバンテス。あの秘書兼家庭教師兼考古学者の見事な射撃に。だが驚くべきは正確無比なその腕前だけではない。

 ここはシチリア、マフィアの故郷ふるさと。銃ならそこらのチンピラでも携帯電話感覚で持っているような案配の環境だ。種類もごくありふれたオートマチック。中間層より富裕な家の子供の護身用にとクリスマスプレゼントに包まれてもさして驚かれないだろう。

 俺が目を見張ったのは、その装備だ。

 引金を引くまでの一連のモーションの中でちらっと見えたのだが、セルバンテスが銃を納めていたのは上着の内ポケットでもベルトの隙間でもなく、ビアンキ社製の肩提げホルスターだった。あんなもの、堅気の素人が持ち歩く代物じゃない。

 生っ白い学者風情がボディーガードを気取るにしてはあまりに周到過ぎやしないだろうか?あれじゃあ単なる銃器マニアの域を越えて、まるで諜報機関員か本職の殺し屋ー…

 スタンタンタンタン、とドアがリズムを刻んで俺は弾かれたように背を起こした。

 椅子に尻を据えたまま用心深く「開いてるぜ」と声をかける。

「ああ良かったいらっしゃってぁあらららららぁ!?」

 けたたましくまろび込んできた犬人の女が、まずアルカイダのように入口に伏していた雑誌にパンプスを滑らせてバランスを崩し、次になぜか置きっぱなしにしてあった小僧のレゴカーに片足を突っ込み、第三段階でそのまま束の間のスケーターと変じてこちらに突進してきた。

「と、止まらな-----」

「ってオイ、何やってんだ!」

 背筋を凛と伸ばし、片手片足は高々とアラベスクをキープしたスーツ姿。そして突き出す手には紙袋。小豆色の服の上下はすこぶる地味だ。洗い立てのシャツにこれまた控え目な渋皮色の綿のネクタイ。だがその胸は……

「受け止めてぇレグルスさん!」

 アフガンハウンド系犬人のカラメルのような毛並みの顔が大きくなったと思うと、俺は勢い余ってデスクを飛び越えてきた彼女に押し潰されていた。やや誇張気味に表現すれば、豊満な双頭の巨大マシュマロに窒息させられたのだ。

「むぎゅぐぐ」

 頸椎を最大限に動かしてやっと顔が空気に触れて酸素を補給できた。

 はあっ、危なかった!と髪をかきあげ、バストと同じくはじける笑顔の娘にさすがの俺も舌を巻いて呆れるしかない。

「いやいやいや、そこは過去完了形にするべきじゃねぇだろ、ティナ?」

 犬人の娘はニッと笑み、俺の膝に跨ったまま姿勢を正した。不真面目な部下をビシビシ叱りつけるキャリアウーマンといった趣向。おお、セクシー!

「どうです、私の今日のファッション?急ごしらえなんですけど悪くないでしょ?」

 大きく頷く。「最高だ」むっちりしたモモに手を添えて…と。

「で、なんでまたそんな格好なんだ。こうやって俺の膝の上に乗るために着てきたとか言うのか?」

「あっそうそう、忘れてました」

 掌を打ち鳴らし、分厚い封筒を胸の谷間、じゃない上着の内側から苦労して取り出す。床に降りてから重々しく叩頭した。

「この度は当ボルヘス家の為に御尽力頂き、誠に有難うございます。寸志にしかぬ額ですが、あるじの感謝の意としてお受け取りください」

 ヘェ?と感嘆とも唖然ともつかないリアクションをしてしまった。するってぇと、セルバンテスが言ってた新しい秘書ってぇのは…

「あれ~、要らないんですか~、あたしが着服しちゃいますよ~?」

 頭を下げたまま、おどけた調子で封筒をぴらぴらさせるアガティーナ。

 俺は「おぅ」とつまんで、ずっしりした重みに顎が落ちる。もしうちに血圧計があったら3桁を余裕で振り切っていただろう。

 いい香りの糊で閉じ合わされた口を開くと、封筒には空気が入る隙間がないくらいギッチリとユーロ札が詰めてあったのだ。

 おいおいおいおい。これは全部夢か。それとも今朝平らげた缶詰が古くなりすぎていて、脳が細菌に乗っ取られたのか。あるいは今噛んでて、アガティーナの膝ダイブの拍子に飲み込んでしまったガムに農薬かなんかが混じっていて、幻覚トリップをー…

「全部で1万ユーロあります」

 領収書にサインするものの、まだ俺の意識は地球の重力圏外へブッ飛んだまま、月面探査機と一緒に月の衛星軌道を周回している。

「あの…あたし個人からもお礼を言わせてください」

「ん?」

「レグルスさんのお陰で騒ぎもおさまりましたし、総てが良い方向に回り始めましたんです」

 パンパンに膨らんでいた頭蓋のガスが抜け、やっと地に足がつき、こちらに屈み込む娘の声が耳に入る。

「アルフレード君と仲良くなって、お嬢様は見違えるほど元気になられました。旦那様にお願いをして今日からは学校にも通われてるんですよ。城のみんなは若返ったみたい溌剌はつらつだし、ジャケネッタ叔母さんなんか張り切ってお土産を持たせてくれました」

 渡された紙袋には、クランベリーを練りこんだイギリス風スコーン、卵黄をたっぷり使ったふわふわな蒸しパン、それにほかほかのオレンジケーキやクッキーが半透明の蝋紙で小分けにされていた。

「気イ遣わせちまったな、こりゃあ小僧が喜ぶぜ」

「レグルスさんはどんなのが好きか分からなかったんで心配だったんですけど」

「好みの種類ばっかだよ(ここはサラッとフカシで流そう。本当は、俺は甘いものは大嫌いだ)。それにどれもこれも旨そうだ。やっぱ気が合うな、俺達」

「そうみたいですね。それなら、まあ、良かったです、ええ」

 会話に混じった不純物のようなぎこちなさ。自分達の距離がなぜか遠く感じる。俺は気付きたくなかったのに、勘が的中していたことを悟った。

「ボルヘスの親爺は?」

「え?」

「一応娘と仲直りしたんだろ?」

「あ、はい!もうとっても良い感じなんですよ、もとの穏やかさというか、人間的な丸みが戻ったって言ったらいいのか、今朝なんか機嫌良く冗談までおっしゃって」

「なるほど。そんでお前は秘書にもなれたし、良いことずくめってわけだな」

「はい!」

「頑張ってモノにしろよな」

 アガティーナは思いもよらないところからボレーシュートでゴールを奪われたキーパーのように驚愕そのものの表情でたじろいだ。

 俺はアガティーナの心の裡を透視したことにささやかな満足感と巨大な失望感を覚えつつ、何でも知ってるんだぞという余裕の笑いを作るー…上手く出来ているか自信はないが。

「…やっぱり分かってらしたんですか…」

 庭でキスを拒んだのは、そういう理由からか。あの時からおかしいと思ってたんだ。

「まあな。探偵家業なんかやってれば、人間観察は骨の髄まで染みついちまってる。ある意味職業病だな」

 袖にされた経験なら豊富だからな、などとは言えたもんじゃない。

 アガティーナは、バレちゃったか、と肩を落とす。

「勘違いしてるのかなって、はじめはそう思ってたんです。あたし、歳上の渋いひとがタイプだし、自分がオフェリア様のファンだから理想の夫として旦那様に憧れてるのかなーなんて…でもある時フッと、あぁあたしこの人の側に居たいだけだ、正直言って好きなんだ、ギュッてしてもらいたいんだって分かっちゃったんです。オフェリア様が亡くなった後からそういう想いが募ってきて、どうにも抑えられないようになってきて…レグルスさんもタイプが近そうに感じたから、乗り換えたらこの気持が消滅するかもって企んだんでしたけど………やっぱりダメでした」

 いかにも興味があるように、ふんふんと耳を傾けながら、匕首あいくちで内臓をかき回されるような苦しみに「やめてくれ」と何度も叫びかけた。

「旦那様は、パルダッサーノ様はとても不器用な人なんです。家族にも周囲の人間にもひとかたならない愛情を抱いてるのに無理して、痩せ我慢して、結局一人で傷付くぐらい…支えてあげたいって願っていました。それで今回、丁度セルバンテスが帰国するのにあたったんで、思い切って秘書をやらせて欲しいって言ったの。そしたらすんなり了承されたんです!」

 頬を染めて両手を揉みしだくアガティーナ。その姿は純情な乙女そのもの。ぐおお、そんな嬉しそうな顔をしないでくれ。病人の前に降り立つ死神だって正面切って男をフる娘ほどには残酷じゃないぞ。

「だから、ごめんなさい!あたし、やっぱり旦那様が好きなんです!レグルスさんとは付き合えません!」

 何扁でも言うが気にしないでくれ、それよりできたらあの(下膨れ固肥りめ!)親爺に俺の事を売り込んでくれよな、などと玄関まで送りながら体裁を繕った。ぶっちゃけ足元は数万年のあいだ風雪に曝されどおした欠陥構造の鉄筋コンクリートのように崩壊寸前で、顎から上にかけては落胆のあまりズッキーニみたいに蒼ざめているのだが。

 今日はこれからどうするんだと問うと「エウリディーチェ様を迎えに小学校まで行きます」と答える。その柑橘類を連想させるとびっきりの笑みに、こちらはひくつく口の端を何とか持ち上げて……

 ハイさようなら。

 ドアがバタンと閉まる。俺は遠足で車に酔った子供のように、アフガンハウンド系犬人の娘の姿がなくなるやいなやそのまま床にズルズル座り込んだ。

 こんなのってないぜ、畜生。

 向こうからやって来た恋の渡し船。いぶかしんで乗ってみたのもつかの間、甘い誘惑に鼻の下を伸ばし、盛り上がってきたところで怒濤逆巻く魔の海峡のただ中に放り捨てられた。…そんなところか。

 やっぱり俺は女運に恵まれてねえんだなあ。とほほ。



 繊細な神経が傷つけられて起こった甚だしい貧血がやっとおさまると、俺の足は勝手にふらふらと外に歩き出していた。

 ジャケットのポケットに袖まで突っ込み肩を揺らして街をゆく。そんな相好よろしくない大柄なハスキー人を、善男善女どもがそそくさと避けていく。時折くたばりかけの雑貨屋兼煙草屋の婆さん、たたむまで秒読みのカフェの爺さんなんかがが「ジャンカルロや、寄っていかないのかい」「アルフにコーヒーゼリーでもどうだい」と歯抜けたかけ声を寄越す。

 パレルモの中心へ足の向くまま気の向くまま。左右に大量のガムとコーヒーゼリーのビニールをぶら下げ(仕方ないだろう、あいつら素通りするとこれ見よがしに老いぼれの十八番おはこ「おお主よ、我等に死の喜びを」をやりやがるんだから)、さてこの大金をどうしたら有意義な投資に活用できるかと考えた。

「そこでお悩みの貴方!迷い事なら即解決!」

 メインストリートの電器店の店頭から流れてくる不特定多数を対象にした威勢のいい宣伝文句が、妙に俺を惹き付けた。

 ショーウィンドーにディスプレイされていたのは最新型の液晶テレビ…と思いきや、電波受信装置を備えたパソコンだという。

 ははぁ技術の発展ってやつは日進月歩だなと思いながら、はたと我に返ったのはひと月ぶんの売上ノルマ達成にテンションが上がってこちらの気前良さをまくしたてる係員とカウンターで額を突き合わせて、くだんのパソコンを自宅配送の手続書類に住所と電話番号を書き込んだ後だった。報酬が瞬く間に4分の3に目減りした。

 何も考えずに散財している訳じゃない、調査の役に立つと思えばこそだ。そう呟きながら帰り道へと引き返す途中、さらにサイクルショップでこれまた新品マッサラの子供用自転車を買い込んでしまった。

 ああ、俺は何をやっているんだろう。女にフラれたのが自分で思う以上にショックだったんだろうか。

 子供時代の俺だって咽喉から手が出るほど欲しがっただろう洒落たフレームのハンドルを押しながら事務所に続く坂道の入り口に来ると、いつもはこんな寂れた路地裏には停車しない花屋の移動販売がワゴンの荷台を一杯に解放してバケツに水を張り、商売っ気の薄そうな若僧がショートピースを喫んでいる場面に出くわした。

 ゆうらりとサトウキビの茎みたいに伸びていく白煙。ニコチンが切れて間がない身体に凄まじい反復作用が沸き起こり、俺は優しさを装って職質をかけるみたいに側に寄っていった。

「いらしゃいませ、何に致します」お、意外や尻上がりの愛想のいいアクセントだ。あまりこの辺じゃ見掛けないクーガー人で、ヒョロヒョロの体躯に丸縁眼鏡。「贈答用に致しますか、それとも御自宅用に?」

「う、あー、いや…」今つまんでいる吸いさしでいいから、ほんのひと嗅ぎさせてくれないか。なんて言ったら引かれるだろうな。「どんなのがあるかな」

 俺の事を植物の生殖器に興味の無い人種と看破した眼鏡君、「お遣いものでしたら新しく市場に出た日本の八重咲きの菊やサンダーソニア、御自宅用でしたらこちらのマーガレットやラベンダー、特別な方でしたらセオリー通りにバロネス・ロスチャイルドやクィーンエリザベス等の花束がお奨めですね」と立て板に水で攻勢をかける。

 ああいいねぇと中身の無い相槌を打ちながら、俺は一番素朴な姿で最近印象に残っている花を指した。

 真っ赤な杯を差し向ける、咲き誇るチューリップ。

「そいつをくんねえかな」

 こいつを選んだのはアガティーナに対する未練じゃねえぞ。記念っつーか、しばらくは恋の余韻を楽しみたいんだ。

 クーガー兄ちゃんが◇の形に顎を開き、おお、そうですか!と意味不明なことを言う。

 そして12、3本を早業で束にして薄紙と色紙とでくるみ、リボンまで飾ってくれた。

 陽気がよろしいせいで頭の中にまで種が芽吹いてしまったのか、気味が悪いほどのニコニコ顔で見送られる。なんだってんだ、今日はおかしなことばかりありやがるな。

 事務所一階のガレージに自転車を置き、肩をボキボキと回しながら階段を上った。小僧の甲高い笑いが半開きのドアから漏れている。あいつ、この俺様に断りもなく近所のダチでも連れ込んでるのか。

 人が褒美をやろうとするとこれだ。眉の上に青筋が浮いてくるのを意識しながらドアを蹴り開けた。

「オラオラ餓鬼ども!とっとと散りやがれぃ!」

 パァン!一瞬、衝撃とともに目の前にビッグバンが炸裂した。眼球から放出した火花がおさまると、俺の頬肉に激しくタッチしたばかりの平手を振って冷ましている狐人の女がいた。

「普段からそんな風に子供達をあしらうの?」

 時間を止めた噴水のような白銀の髪が背中になびく。夢をほどく夜明けの薄桃色をした毛並み。謎をこめた弾丸のような黒貴石ジェットの瞳。形のいい眉と鼻梁。口許だけで作る微笑は凄艶で、古代中国の皇帝すら足下そっかにひれ伏させるだろう。

「乱暴ね。下品ね。最低ね。恥ずかしくはない?ジャンカルロ=デッラ=レグルス?」

 先祖に由緒ある人物を輩出したことを示す『デル』の称号をつけて呼ぶのは、俺がそれを呼ばれるのをあまり好まないことをよーく知っているからで、だからつまり、この女の内面に怒りの津波が押し寄せてきている予兆を示している。

 そう、この女ー…ステラ=オノラーテは、昔からもったいぶった性格だった。どこにいても女王然としている狐人は腰に手をやり、さっぱりと片づけられた部屋の中で俺を睨んでいる。

「ジャンおじさんだ!お帰りなさい!」

 ワンテンポ遅く小僧が尻尾を立ててぴゅんと台所から飛んできた。俺の脇腹にしがみつく。「おわっ、ちょ、鬱陶しい!」エヘヘと絆創膏を張った方の目の下を掻こうとするので手首を押さえつける。「掻くなっつてんだろうが、阿呆が」

 アルフレードは何が嬉しいのか、後ろ手で尻尾を振っている。

「てかよステラ、お前こんなとこで何してんだ?」

「ステラさんはお料理しにきたの!」ステラに投げた質問に小僧が答える。「僕も作ったんだよ。ねえ食べてみてよ!食べてったら!」

 よく観察してみれば、プラチナブロンドの狐人の女はえらくまた…素っ気ないと言うか、庶民的というか、ようするに普段そこらにいる下町マダムのように単調なシャツとパンツ姿をしていた。しかし、肢体のラインはモデル時代のままいっかな崩れない。これには毎日ジムに通う高級住宅地の奥様連も恐れをなすだろう。

 しかもあろうことかエプロンまでつけている。『アマゾンの女王』の厨房に立ち新たな美味を創作するこいつの姿は見たことがないが、着用するのはこんなプーさんが蜂蜜をがぶ飲みしているような柄物じゃあないだろうな。

「意外と似合うな」

 ポロリと漏らした率直な感想に、さらに驚いたことにポッと赤面した。からかいのニュアンスでなかっただけに余計気恥ずかしいのか、早口になってまくし立てる。

「これはね、そこの向かいで買ったんだけど、これしかなかったから仕方なく着けてるのよ。勝手に入ったのは謝るわ。でもね、戸棚には豆かポーク缶、冷蔵庫にはビールしか無いってどういうことなのよ?人間っていうのはね、いい、炭水化物とタンパク質だけで生きてるんじゃないの。ビタミンやミネラルを豊富に摂らないと。とくに」小僧を抱き寄せた。こっちはこっちで、リオだかリロとかスティックとかいうディズニーキャラクターのエプロンだ。「アルフみたいな子供の内にはね」

「で?」

「あんたのことだから、お金をもらってもどうせまた食費がかさんでカラッケツになっちゃうでしょ?そうならないためにもあたしが直々に料理を教えに来てあげたんじゃない。感謝しなさいよね」

「千里眼か。よく報酬が入ったのが分かったな」

「無駄遣いしたんじゃないでしょうね」

「このゼリーとかガムとか」ビニール袋を持ち上げて見せる。これはすぐ食うからデスクに待機だ。「…パソコンとかな」

 はあ?とステラの顔つきが険しくなる。こりゃまずい。

「アルフ、ちょーっとガレージに行ってろ。いいもんがあるから。な?」

「僕、野菜のスープ作ってるの。火加減見てなきゃ」

「それは俺達に任せてさ」

 小僧が?マークを幾つも浮かべ、後ろを振り返りながら出ていったのを確認する。えーと、なんだっけな。

「いいかステラ、俺はこれから本格的にイグナシオの件について調査を始めるつもりなんだ。それにはコンピューターの一台ぐらいなきゃあ、きょうびまともな情報収集もできんだろ」

 ステラは渋いまなじりを下げ、まあそういう理由なら…と腕をこまねく。

「それにしたってガムやゼリーなんか大量に買ってどうするの。アルフが虫歯になっちゃうわ」

 ゼリーは砂糖抜き、ガムは俺用だ。ナゼにと追求されればしょうがない、「禁煙してんだよ」と正直に打ち明けた。

「あんたが!あたしが何べん叱言こごとを言っても馬の耳に念仏だったのに、どうして?」

 仕方がないので、今回の事件のあらましを報告する。色っぽいところは端折はしょって、に決まってるだろ?

「とどのつまり、健康志向というよりもアルフのためってわけね」

「違う!どこをどう聞いたらそんなあさってな解釈になるんだ。俺はだな、探偵調査には基本的に体力が必要だと判断したから、そんためにだな」

 はいはい分かってます、そういうところは全然進歩しないんだから…と腹立たしいため息をつき、尻の上で結んだエプロンの紐を締め直す。

「じゃあジャン、あんたにはサラダでも切ってもらおうかしら。家庭科で習ってるみたいでアルフはそつがないけど、あんたは難物よね…あら」

 俺が右手に握ったままの花束に、黒い視線がじっと注がれている。俺はほんの冗談のつもりでそれをステラに突き出した。

「え…あたしに?やだちょっとやめてよ、ふざけてるのね?」

「いいや、俺の気持ちだ。受け取ってくれよ」

 ヒュッとほっそりした喉が鳴った。あれよという間に目が潤んで大きな雫が伝い落ちる。

「………やっとなの?……」

 予想だにしなかった事態に俺の心臓はバクバク汗はダラダラ。場をやりすごせる言い訳を探して脳をフル回転させていると、チューリップのかぐわしさにも負けず劣らずのステラの身体がぴったりと寄り添ってくる。

 な、な、な、なんじゃこりゃあ!?ステラ、お前何トチ狂ってんだよ!!

 それを口にしないで良かったと、続く相手の科白を聞いて心底思った。

「愛の告白を花言葉で、だなんて洒落たこともできたのね。それに免じてこんなに私を待たせたことを許してあげる」

 もう分かっちゃいるだろうが、そう、この女こそ俺の初恋のー…ケチのつき始めになった運命の女ファム・ファタールだ。なんで初めのときに付き合えなかったのかって、その仔細については訊くんじゃねえ。まだその時じゃねぇからな。

「ステラ…」

「黙って。こういうときは黙るものよ」

 まるで映画のラストを飾る恋人達のカットだな。抱擁する二人。女のヒールの爪先が立ち、男の顎が女の整った顔へ下りていく。

 呼吸の義務を忘れた長いキス。十数年来の溝もわだかまりも、はるか氷河期の彼方へ。これは歴史的な雪解け、俺の人生における東西融和ペレストロイカだ。…ちいっと遅すぎた気もするが。

「じゃああれだな、これでやっと俺はお前にロハで飯を喰わせてもらえる身分になったわけだ」

「調子に乗らないでよ。材料にかかった分は請求するからね」

 言葉とは裏腹に口調は柔らかい。その笑顔を、今は俺のものになった輝きを愛でようと再び唇を近づける。と。

 バァン!ドアを割らんばかりの勢いで小僧が戻ってきた。その拍子に俺達はパッと離れる。わざとらしく咳をしたりする俺、「あ、スープに火が入りすぎたかしら」と鍋の様子に気もそぞろな風に装うステラ。まるで80年代コメディの高校生カップルみたいだ。

「おじさ-----おじさん、自転車が、自転車があるよ、ピッカピカの新しいのが、新しいのがガレージの自転車にあるスゴいカッコいいの銀色なの!」

 落ち着いて話せよ、と言う俺にコリー人は、もしかして僕の!?と絶叫する。

「この家ん中で、あの小っちぇえサドルにケツを乗せられる奴が他にいるのか?」

 ぷるぷるぷる。コリー人の口がわなないている。全身の筋肉に力をためて、トンと地を蹴った。

「ジャンおじさん、大好き!」

 黒白のはっきりしたアルフレードの破顔がスローモーションで拡大する。その笑顔にそっくりなコリー人の少年の面影が、スライドを重ねたように一ミリのブレもなく蘇った。

 白昼夢。周囲は事務所ではなく、一面に緑の葉を芽吹く岬。カモメが空に弧を描き、穏やかな風が草を波立たせている。

 俺は飛び付いてきた親友を受け止め、一緒になって地面に転がる。腹の中に笑いが膨らみ、二人して仰向けの大の字でゲラゲラと草っ原に降り注ぐ太陽を浴びる。岬を降りてくる少女のスカートのはためきだけが小さく見える。アザミを摘んできたその少女、幼いステラが懸命に風に暴れるスカートを抑え、声を張り上げー…

「危ない!」

 かつての少女、大人になった狐人が俺を現実に引き戻した。部屋の壁の角度が一斉にかしぐ。いや、倒れてるのは俺なのかと納得する。しがみついているイグナシオ、いやアルフレードがヤバいと表情をこわばらせる。咄嗟に俺は上半身を丸めた。この小憎たらしい餓鬼を激突から守るために。

 そして、暗転。




エピローグ


 でまあ、俺がこうしてドタマの後ろにアイスノンを巻いているのはアルフの二段飛びつき(あのチビ、一度のジャンプでは飽きたらず俺の膝に足をかけて肩より高く首っ玉に抱きついてきたんだぜ)でリノリウムの床面に背中から激突したせいなわけだが、数分の脳震盪による記憶の分断はあれど今のところ物忘れが酷くなったり逆に計算が得意になったり念じただけで物が動かせるようになったりといった不吉な兆候は出ていない。アルフレードは俺とのタンコブをこさえてさっき登校した。どうしてかって、そりゃ知る必要はないだろ?最近は俺も手加減ができるようになってきてるんだ。

 えーと…ブログ、っていうのか?このパソコンをネットに繋ぎ、電気屋からただでさえ痛む頭をハリセンでぶっ叩くようなIT世界の言語で説明を受けつつ、なんとかまあ立ち上げて(「立ち上げろ」っつーからロボットみてぇに脚を生やすのかと思ったぜ。アルフに付き合って観た『トランスフォーマー』の影響だな)諸々の設定までこなした。最後の仕上げにこうして日記をつけてるわけだ。

 あ、先に書いておいたように、事件に出てくる人名なんかは必ずしもこのまんまってわけじゃねぇからな。あれだ、プライバシーってやつだな。だけど実際に起こったありのままを綴ってるんだぞ。

 こうして事件…というにはたわいないが、とにかく一つの仕事をこなしたわけだ(偶然の作用が大きいとかぬかす奴、ちょっと出てこい。殴るから)。

 俺がこんなことをしているのは自分の偉業を誇示するためでもなけりゃ毎日面白おかしく暮らしてるのを自慢したいからでもない。

 俺が望みを賭けているのは、親友を殺した奴の情報についてなんだ。

 俺の親友、コリー系犬人の刑事、イグナシオ=コッレオーニ。イタリア共和国公安警察の特殊捜査官。昨年パレルモ市内で射殺された。享年30歳。

 昔の職場だったよしみで警察の方は何回もせっついたが、市民の要請には腰の重い連中のこと、捜査はいっかな進展していない。

 それでまあ、こうして誰か有力な情報をくれないかと一縷いちるの希望にすがっているわけだ。もっとも俺だってさぼっちゃいねえ。自分の足と目と耳を使ってるんだぜ。

 騎士団長城の事件からこっち、ちょぼちょぼと依頼も増えてきた。それを頼りに人脈も広く構築していくのが今後の方針だ。もう既にいくつかの手がかりを掴んでもいる。だがコネと酒場の女は多いほど良いって言うだろ?言うよな?

 まあそういうわけだ。俺はこれからも事件を次々報告してくつもりだからな。

 っとと、そうだ、もう分かってるかもしれないが書いとこう。

 ボルヘスの妻、オフェリアの死因は間違いないアクシデントだったんだ。薬の瓶を自室に置き忘れたのは誰の意図もないミスに過ぎなかった。ただ彼女は恐ろしい心臓発作に見舞われながらの死に際に、助からないことは覚悟の上で夫と娘に宛てたささやかな言葉を遺したのさ。時間にしたらほんの2~3分のことだったろう。

 その方法をステラも知っていた。だから俺にとっては幸せな勘違いが起きたわけだ。

 ネットってのは馬鹿にできねえな、調べたらすぐ出てきたぜ。

 あの花壇のチューリップの花言葉はな。

 『あなたを愛しています』

 ……まあ、どんなことでも知っておくと損はねえ。おめえらも憶えておきな。

 さてと。今回はここまでだ。さっきからドアを叩く音がしてる。せっかちに俺を呼ぶ声には聞き覚えがない。どうやら新しい事件みてぇだな。どれと、ひとつ聞いてみるとすっか。

 あ、あんたも遠慮なんかすんじゃねえぞ。困ったことがあったらこの俺様、ジャンカルロ様にお任せあれ、だ!

 んじゃあな!Chaoあばよ!!






終わり


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