ボスサイド・ストーリーズ Report:1 

鱗青

騎士団長城の亡霊事件・サイドA~アルフレード編

 その日、5月15日金曜ー…

 ジャンカルロ=デッラ=レグルス探偵事務所前の古色蒼然たる石畳の道に、カルバンクラインの革靴が底を打つカツカツという音が響いた。僕…ボーダーコリー系犬人のアルフレード=コッレオーニは、事務所兼住居として間借りしているオンボロビルの二階の窓枠に両肘をつき、ぼんやり道を見下ろしていた。

 僕とおじさん…私立探偵ジャンカルロ=デッラ=レグルスが寝起きする部屋の壁には、僕がパパと昔住んでいた家から持ってきたディズニーの掛け時計がスペードの短針で午後1時を示している。

 はじめは左目の隅っこに、磨き上げられた水牛の皮がピカピカと照り返す太陽光線が差しただけだった。

 その音は、いつもこのぐらいに丘の上の農場に続く坂道をのぼってくる、卵や牛乳売りの帰りがけのトラックでも、キュコキュコとベビー靴を鳴かせている農場の小さなベロニカの駆け足でも、くたびれた履き古しのサンダルしか使わない近所の人達の足どりでもなく、いかにもキビキビした響きだった。僕はなんだか胸がドキッとして、思わず窓から身を乗り出してその足音の主を確認せずにはいられなかった。

 パレルモのごたごたした下町に似合わない人物が、陽炎に揺れる道の彼方で顔を上げた。

 まるでアメリカの映画に出てくるような、黒に銀の縞の流れる洒落たスーツの男の人だった。やや歩調を緩めて額に手をかざすその人と僕は、目が合っただけで互いに相手を待ち受けていたことを悟った。

 その人は少し短めでクシャクシャだけど逆にカッコいい髪を掻き上げ、遠目にこの事務所の看板を確かめて、ニッコリ笑った。雑種系の虎人で赤っぽい毛皮、右目が黒で左目は青。僕は興奮で尻尾がピンッと立つのを感じた。

 虎人の男の人は、広い道をこっちの建物側に寄って歩き始める。もう間違いない!

「ジャンおじさん!お客さんだよ!」

 僕は大きく叫んで、おじさんの巨大なベッドと僕のリンゴ箱みたいなベッド(というか、本当にリンゴ箱でおじさんが作ってくれたベッドなんだけど)の間を走り抜け、部屋を飛び出した。

 これが、僕がレグルス探偵事務所に来てから最初に体験した事件の幕開けだった。



「やあ、ずいぶん可愛い探偵さんだね。ここはレグルスさんの事務所で間違いはないかい?」

 近くで見るとすごく整った顔のその虎人は、高い背中を折るようにしてイタズラっぽく僕にウィンクした。

「はい、じゃなくていいえ、えーと、僕はアルフレード=コッレオーニといいます。助手です。おじさ…探偵のジャンカルロ=デッラ=レグルスの事務所は階上うえです」

 どうぞ階段を上がってください、と勧めながら、内心「うわぁ僕緊張してるぞぉ…」と呟いていた。

「ありがとう。アルフレード君だね。私はロレンソ=セルバンテス。ロレンソでいいよ。二階に行けばいいんだね?」

 僕の先に階段を上がるとき、ロレンソさんは少し足が突っかかっていた。どこかケガをしているんだろうか。

 二階の踊り場のすぐのドアをノックする。返事は無い。代わりに僕が前に出る。

「ジャンおじさん!お客さんが来たよ!」

 と言いざまノブを引く。途端にもうもうたる紫煙の塊が、部屋の中から土石流のように溢れだした。

「お、おじ、ゴホ、おじさっ、エッホゲホゲホ、もう!」

 僕は気体だか物体だか区別できない煙のジャングルを掻き分けながら、なんとか窓に辿り着き、死に物狂いで鉄枠のガラス窓をバシン!と開放した。

 喉が痛む。涙が出る。咳が止まらない。

 地獄のような数秒間。海からの風がよどんだ空気をすすぎ清めてくれた。

 まだ薄暗く煙っている事務所の真ん中に、すっかり木目の傷んだ勾玉形のデスクが浮かび上がる。葉巻の燃えかすがくすぶる真鍮の灰皿が載っていたので、僕は慌ててひっつかみ、窓から灰を撒いた。

 徐々に蛍光灯が力を取り戻すと、新聞や雑誌が散乱した床、デスクに対面して置かれた薄汚れた客用の椅子、雑多な置物に枯れかけの観葉植物、それから最後にデスクの後ろでほぼずり落ちた格好で椅子にもたれ、足をだらしなく投げ出してイビキをかくシベリアンハスキー系犬人の大男が姿を表した。

 くすんだ叢雲みたいな灰色と濃紫の毛皮、麦の穂型の生い茂る眉。ぐうがあと大イビキの合間には牙を剥き出しにしていて、歯を磨いてない口臭が殺人的!

 僕は鼻を塞ぎ、咳こみながらトテトテと眠りこけているジャンおじさんの近くに行き、毛皮にブラシをかけていないバサバサ頭の横にとんがる耳の辺りで言った。

「おじさん、お客さんだよ。お仕事だよ」

「アゥっふにゃふにゃ…2-3番かぁ?よぉし今度こそ一等とってこいよ…俺ァ有り金全部だぁ…」

 多分、競馬の夢を見ているんだ。僕はロレンソさんを振り返って「ちょっと待っててくださいね」と断り、ポケットの中から電動式の蛇のオモチャを取り出した。

 スイッチを入れる。ジーコジーコとうねり始めたそれを、ぷちゅぷちゅ唇を鳴らして寝言を漏らす犬人のワイシャツの背中に投下した。

 おじさんのギョロ目がグワッと切り裂けんばかりに見開いた。

「うっ…どわぁお!!」

 ビリビリ空気が震動する。

「ななななな何じゃこりゃあ!!」

「おじさん、お客さんだよ」

「とっ、取れ、取ってくれ、くそぉ背中に手が回らん!」

 おじさん最近太ってきたんじゃないの?とズボンの方から手を突っ込んで僕の『ガラガラ蛇1号』を抜いてあげた。すぐに特大のグーパンチが「がすん!」と頭に降ってくる。

「痛ったぁ!」

「痛いじゃねぇ!普通に起こすってことができねぇのかてめぇは!」

「だってそう言っていつも起きないのは自分じゃん!それでまた『もっと強烈に目を覚まさせろ』って怒るじゃん!」

「だからってンなモンを俺様の服に入れるな!すげえ気色悪かったぞ!」

「あのー、ちょっとよろしいですか」

 くちにハンカチを当てたロレンソさんが、同じレベルで言い争う僕とジャンおじさん二人の間に控え目に割って入ってきた。

 あ、忘れてた。この人がいるんだった。

「なんだあんた、どこの集金だ?……確か酒屋は一昨日払ったな…家賃は丁度昨日だったし…あ、ステラの店か!あいつ、やけに男前なやつを雇ったなぁ」

 しわくちゃな財布を覗き込みながら「うーん厳しいなぁ」と頭を掻く犬人に、虎人は苦笑する。

「私はツケの取り立てではありませんよ」

「へ?じゃ一体全体どなた様?」

「だから、お客さんだってば!待ちに待ってた大事な大事なお客さん!」

「私はロレンソ=セルバンテス。今日は貴方に依頼があって参りました。これが名刺です」

「あー、こりゃどうも」

 体の大きさ(おもに横幅)では勝っているけど、依頼と聞いてへりくだるおじさんの隣から、僕も伸び上がってロレンソさんの名刺を読んだ。

‘‘ボルヘス家専属家庭教師 ロレンソ=セルバンテス

                   考古学博士’’

「ジャンおじさん、これなんて読むの」

「こうこがくはかせだよ。昔の、んー、例えば古い遺跡やなんかを調べたり掘ったりする人の事だな。それから俺をおじさんて呼ぶな、お兄さんだ」

 後の半分はどうでも良かった。「じゃあピラミッドとかする人だ!」そうと分かるとロレンソさんの周りがイルミネーションをつけてるみたいに一層キラキラして見える。

「まぁそういうこともたまにはあるけど、今はボルヘス家に雇われて主にお嬢さんの家庭教師をしているんだ」

「で、なんでまたウチなんかに来たんだ?大事にしてるペットでも逃げ出したのか?最近多いじゃないか、カミツキ亀だかなんだか迷惑な動物が」

 テレビから抜け出してきたようなロレンソさんと比較すると、おじさんは居酒屋バルを巻く町のゴロツキみたいだ。その剣呑な逆三角型の眼を向けられて、上品な『こうこがくはかせ』さんは激しくかぶりを振った。

「いえいえ、そのような用事ではありません。ただもう少しその、あなたのような方からすれば詰まらない、下らないお話になるかもしれないのですが、私共にとりましては重大な問題となっていましてですね」

「…ま、そこに掛けて。落ち着いて話せや、な?」

 なんでか仕事をもらう方が強く出て、ああハイありがとうございます、とロレンソさんの方は恐縮して椅子に座る。

 僕はジャンおじさんから言われる前にコーヒーの準備をしながら、あれじゃあ清潔な服でこすれて椅子の方の汚れが落ちるなあと考えていた。

「ご相談したいのは、実は城に出る亡霊のことなのです」

「…ほほーぅ」

 切り出された台詞に、おじさんは思いっきり鼻白んでいるようだった。

「事の起こりは一月前、ボルヘス家のお嬢様が怪しい気配がする、城の中を誰か徘徊していると旦那様におっしゃったのが始まりでした」

 ボルヘス家は、シチリアはパレルモでも有名なお金持ちで、工場やオリーブ・オレンジの農場を幾つも経営している。世界不況の影響とかで、かつてほどの隆盛は失ってしまったが、今でも指折りの有力者に変わりはなかった。

 そのお屋敷は森深い丘の中腹にある古城を何年か前に買い取ったもので、社長であるボルヘスさんと病弱で学校にも通えない娘のエウリディーチェが住んでいる。

 そのエウリディーチェが、父親に「城の中に騎士の亡霊がいる」と訴えたのだそうだ。

「そりゃあれだ、よくある統合失調症ってやつなんじゃねえか?あんまり人付き合いの無ぇ閉鎖ヘーサ的な環境で育ったんで、気が細いとかのさ」

「いえ、それは違います」ロレンソさんは思いのほか厳しく否定した。「お嬢様は歳の割に聡明です。あえて言うなら…お母上を亡くされてから、不安になられてはいるようですが」

「不安?なんで?」

 クリッと頭を突っ込む僕に、ロレンソさんは優しく答えてくれる。

「お嬢様はお母上に似ておられてね。自分も同じように体が弱く生まれついているから、長く生きられないのじゃないか…そういう考えに取りつかれておいでなんだよ。まだ10才だというのに…」

「ええっ!?僕と同い年なのに?」

「ちょっと黙ってろ、アルフ」

 おじさんは僕の頭を丸ごと鷲づかんで脇にやる。子供だからって馬鹿にして、僕は置物じゃないやい!

「それでつまり何だ、亡霊とやらの正体を暴いて欲しいのか?」

 ああ話が早くて助かります、とロレンソさんは胸を撫で下ろす。

「とはいえ、真実この世ならざるものが存在するとは旦那様も信じてはおられません。勿論、私も。ただ小さな胸を痛めてらっしゃるお嬢様を慰められたいとのことで、お母上のいらっしゃる黄泉の国へ思いを馳せる原因を、その不安の根を絶ちたいとの思いからなのです」

「ああ、分かったよ。気のせいだろうがなんだろうが、その証拠がいるんだろ?」

「はい。お願いしても……」

 おじさんは身内の僕から見ても最高にイヤラシイ笑いを浮かべた。

「まず前金をもらおうか。そうだな、手付金として300ユーロをキャッシュで払」

 ドサ。デスクに無造作に札束が投げ出された。

「あ、手元が滑って、すみません。とりあえず2000ユーロ預かってきたのですが、これで足りないとなりますと…」

 言い終わる前に、おじさんはワタワタとお金を引ったくり懐に突っ込んだ。

「イヤイヤイヤ、受けたよ受けた、この依頼確かに俺様が受けた!あんたは見る目があるなぁ!大船に乗ったつもりでこの名探偵ジャンカルロ=デッラ=レグルスにドーンと任せろや!」

 この調子はあれだな。僕が御飯時にいつも聞いてるやつだ。「へへーんだ、この肉は俺様が唾付けたんだから俺様のもーのー!お前にはやんなーい!」と、おんなじだ。

「意地汚いなぁもぅ…」

「ン、なんか言ったか?」

「ううん何にも。それでロレンソさん、いつから調査を始めますか?」

「そうだね、なるべく早く、今夜からでも来てもらいたいんだけど」

「だってさ、おじさん」

「でしゃばんじねぇよ。じゃあ今晩6時、お宅まで伺うよ。どうかな?」

「はい!詳しくはまたその時にお話致しますので、どうかよろしくお願いします。…あ、あともう一点なのですが、できましたらお着替えを…」

「ああ、何日か泊まりになるかもしれんからな」

「はぁ。それもありますが、お越し頂く際も、できればその…正装…とまでは申しませんが、今のお召し物よりも、……きれいな格好で………」

 おじさんは、あ゛?と自分の服を見下ろし、トマトやバジルやカレーのソースがそこここに染みたシャツ、煙草のヤニで黄ばんだジャケットに納得した。

「あー分かった分かった、さすがに島一番の名士に会うのにコレじゃまずいからな。どうにかしてくよ」

「そうですね、お手数ですがそうして頂けますか。そちらは手付金ということで、交通費などの準備費用を含んでおります。後金には同額と、内容を確認をして必要経費を支払うように致します。ではこちらの契約書と領収書にサインを…」

「へいへいっと」

 札束ですっかり気を好くした犬人は、膨らんだ懐をいとおしそうに撫でつつ、ロレンソさんの契約の大事な説明もフンフンと鼻の下を伸ばして聞き流している。

「依頼を快諾して下さって本当に助かります。あと最後に、この件は口外無用ということでお願いしますね」

「もっちろん!」

 探偵と、自称その助手は同時に答えた。僕は胸を張ってハキハキと、おじさんは親指を立ててニンマリと。



 ロレンソさんを送り出してからが忙しかった。おじさんと僕は気が済むまで「依頼だ!依頼だ!初仕事だよ!」「やった!やった!カネだ金ウヒウヒウヒ」と、ひとしきり踊り騒いだ。

 それから三軒隣のクリーニング屋さんに行って、おじさんが店主の小太りな兎人の制止を振り切り、手近にあった洗濯も糊付けも終わっているワイシャツ3・4枚と紺色の背広を「後で返すから!」と奪い取った。

 店主の「ろくでなし!泥棒!」という罵声を背中に口笛を吹きながら店を出て、後ろめたさなんか露ほども感じてないおじさんは、「うっし、まずは腹ごしらえだ」と戦利品をハンガーに吊るして僕を町中に連れていく。

 町の往来でもひときわ目を引くのが、アクリル製だけども水晶とみまごうくらいの出来映えの薔薇をかたどる看板を掲げたレストラントラットリア、『アマゾンの女王』だ。

 その看板が夜になると、丸い枠と塑像に埋め込まれた光ファイバーが虹色に輝くのを見るのが僕は大好きで、外で遊んでからの帰りについ寄り道しちゃうんだ。

 『アマゾンの女王』は小ぢんまりした伝統的な家庭料理を出すレストランで、おじさんが昔から知ってるステラ=オノラーテさんが仕切っている。僕は「ステラさん」って呼んでるけど、青みがかった銀の髪の綺麗な狐人の女の人。

 ちょっと変わってるところが、ここで働いているのは全員女の人だというとこ。中には「ついこないだまでは男だった」って人もいるらしいけど、それがどういう意味なのかはよく分からない。

 おじさんは基地でガソリンを補給する戦闘機みたいにガバガバ食べて、僕にはミルクを飲ませて自分はお酒をたくさん注文して(仕事前なのに)、ツケも返した。「ちょっくらションベン」て言ってしばらく席を離れている間に、僕はお姉さんたちのオモチャにされて大変だった。

 ご飯の後には事務所に戻って、おじさんが中古で買った日産を二人がかりで洗車して、ソファーに横になったら眠くなり僕は少し昼寝をした。

 40年くらい炭鉱で働いてきたおじいちゃんの空咳みたいなエンジン音で目が覚めた。

 一階ガレージに降りたら、間に合わせながらサイズの合った背広にパリッとしたワイシャツに青カビ色のスラックス、蝶ネクタイを締めた犬人は今まさに出発しようとしていた。

「おぅアルフ、やっと起きたか」

「うん、僕も用意するからちょっと待ってて」

「お前は留守番だ」

「………え?」

「だから、お前は連れていけないの!るーすーばーんー!分かったか?」

「な」僕はおじさんの横っ腹に飛び付いた。「なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで!」

 ジャンおじさんは、「あーもぅガキはこれだからな」と僕の衿を指でつまんで自分の顔の高さまで持ち上げる。

「いいか。俺様はこれから仕事に行くんだよ。タマキンに毛も生えてねぇようなガキが遊びに来るようなとこじゃねぇんだ。明日と明後日は土日で朝飯の用意もする必要ないから、適当なモン食って勉強でもして寝てろや。な」

「なんだよ。いつもは僕が宿題してると『クソの役にも立たない』って言うくせに!」

「口ごたえすんじゃねぇ。いいからここにいろ」

「…そう。それなら分かったよ」

 おじさんは、にぱ、とわざとらしい愛想笑いをする。

「よしよし良い子だ!大人しくしてりゃあ土産持ってきてやっからな」

「おじさんがいない間に、僕の友達呼んじゃうからね」

 か゜、と開いた口をそのままに、おじさんは固まった。

「学校と近所の子を皆呼んじゃうから。チョコレートパーティーやって家中ベッタベタにして、全部の壁に落書きして、陣地取り合戦やって、それからそれから…隠してるエッチな本のこととか町の皆に言いふらしちゃうから!」あ、もう一つ思い付いた。「ラウロも来させるよ、あのおねしょの治ってない『洪水ラウロ』だよ!おじさんのベッドが大変なことにぃ~…えへ、えへ、えへへへへ」

「てめっ…こっ……このや」

「でも、僕も一緒に行っていいんなら、静かに大人しくしてるよ?さぁどっち!」

「ぐっぐぬー!…ぐぐぐ…」

 おじさんの不吉なにび色の瞳が僕を睨んでいる。ボリンボリン歯軋りして、僕を地面に叩きつけた。

「…準備しろ」

「やったぁ!」

「だがなあ!もしお前が!俺の邪魔をしたり勝手に動いたりしたら!簀巻きにしてエトナ山の火口に叩っこんでやるから覚悟しとけよ!!」

「うん!」

 僕は元気一杯返事をし、急いでベッドの部屋に行き、必要な物を鞄に詰め込んだ。

「あ、これは絶対持ってかなきゃ」

 枕辺にあったパパの形見のメダルに紐を通してシャツの胸の中に忍ばせる。これは僕のお守り。

 ハンドルを苛々と指先で叩く犬人の横の助手席へ、当然のように飛び乗るまではほんの15秒。

「シートベルト着けとけよ」

 言われた通りにすると、中古の日産は道路に噛みつくみたいにタイヤをギャルルルッと唸らせて走り出す。

 目指すはボルヘス家のお屋敷、土埃と排気ガスの旧市街を抜けて緑の丘へ。

「いざ!騎士団長城カステッロ・コマンドーロへ!」

「おー!」

 両手をバンザイして叫ぶ。服の中でメダルがキィンと鳴った。



 オンボロ車を走らせてようよう30分。森に守られたように建っているボルヘスさんの屋敷は、バカみたいに大きなお城だった。

 円形の噴水がしつらえてある車寄せに降りて、僕は上を見切ろうと背すじをグーッと反らした。反らしすぎてコテンと後ろにこけた。

「どこまでが土台でどこからが屋根か分かんないね」と言ったら、おじさんは「そりゃお前がチビだからだ」って口髭を歪めた。

 僕はこれから大きくなるんだから!…そう反論して少しだけ不安になった。だって僕は、パパに似てるもの。パパのことは世界一尊敬してるけど、死んだときもそんなに背が高くなかったんだ。

 おじさんがブザーを鳴らして待つ間、僕は注意深く周りを観察する。今日は僕の初仕事だもん。

 屋敷…お城の前には噴水の他に小さな花壇やベンチがあって、なんだか公園みたいな感じ。今来た道がズーッと真っ直ぐに町の方へ続いていて、もじゃもじゃした木々のトンネルができている。夏至祭の時季だから陽が高いのもあるけれど、明るくて気持ち良くてのどかで、「お化けが出る」って言われてもピンと来ない。

 でもそれは普通の人の考え方。僕は探偵(助手)だから、鵜の目鷹の目、観察観察。

 辺りにはこれぐらい敷地の規模があれば植える筈のオレンジやオリーブの樹が一本も無いこと、花壇の隅がほじくり返されて球根が覗いてること、どこか近くで誰かが透き通った声で歌っていることが分かった。あと肉を焼いてる良い匂いが漂っていて、早速お腹が減ってくる。

 そんなこんなをおじさんにも教えてあげたら、目一杯僕に顔を近づけて「ハ!」だって。吹き飛ばされそうな勢いだった。

 僕を放っておいて、後で泣きを見ても知らないから!

 城全体を再度確認してみた。プディングを逆さにしたみたいな巨大な一棟と、長方形を地面に突き立てたような見張り塔がそれにくっついているだけ。

 すごいお堅い印象だけど、高いところには窓がたくさんある。中には色つきガラスを嵌めたステンドグラスも。あれは、もしかしたらチャペルかな。建物を幾つも付随させるのではなく、シェルターみたいにひとところにまとめてしまったのかも。

 アフガンハウンド系の犬人のメイドさんが玄関の大扉を開けてくれたので、すぐに中に入ることができた。

 案内されながらキョロキョロ見回している僕に、メイドのお姉さんが「ボク、あんまり面白がってつまづかないでね」とにこやかに注意してくる。

「ねぇ、このお城ってどれぐらい昔に建てられたの?百年ぐらい?」

 えーと…と言いよどむメイドさんの代わりにおじさんが面倒くさそうに答える。

「六百年だよバーカ。たかだか百年なわけないだろが」

「だってさだってさ、全然汚くないし壁はツルツルだし、なんか中身が普通でホテルみたいだよ?」

 入り組んだ廊下を進むうち、もう既に方向感覚は無くなっていた。それほどに広大ではあったけど、天井が高くてうなじがする以外は、城の中があまり平凡すぎて拍子抜けしてしまったのだ。

 こういう建物なら先祖の肖像画がたくさんかかってたり、狩りの獲物の剥製とかとか壺とかどっさり鎮座してると思ってたのに…

 どこもかしこも淡い黄色の漆喰でならされた壁に杉の腰板、赤い絨毯が敷き詰められたタイルの床、眩しすぎる照明。所々にはテーブルに花瓶、ヌイグルミや飾り皿…なんだかまるで…

「テーマパークにいるみたいだ、って言うんでしょう?」

 私も時々そう感じるから分かるわ、とメイドさんが振り返る。

「でもね、それは旦那様が買い取ってから内側を徹底的に改築したせいなのよ。石造りの外面だけはそのままで、中には電気と水道のケーブルも光ファイバーもばっちり通ってるんだそうよ。昔の写真を見たことがあるけど、中はボロボロだったみたいね」

 ずっとムッツリ考え込んでたジャンおじさんが、バハァ、とわざとらしい溜め息をいた。

「あんなぁ、それでもシチリア人シシリーかよ…お粗末だなぁ」

 って、ジャンおじさんは苦笑いをして自分の耳の後ろをボリボリ掻く。

「ここはなぁ、もとはスペイン統治時代よりもずうっと前に、東ローマ人が建てたイスラム勢力に対するキリスト教徒の防衛拠点だったんだ。んで、ロードス島やらマルタ島やらが地中海の覇権争いに巻き込まれてた時代の…確かマルタから敗走してきた聖ヨハネ騎士団のスペイン分団長が最後の主で、シチリアがイスラムに征服されてからはカラの城だった筈だぞ」

 かいなを組み、講義するみたいに得意気にくどくど説明を追加する大柄の犬人。お姉さんは大袈裟にはしゃいで両手を叩いた。

「へー、お詳しいんですねー!だから『騎士団長城カステッロ・コマンドーロ』っていう名前がつけられたんだー!」

「ぬぁっははは。高校じゃあ中世史が得意だったんだ。しかしあんた、この辺の出じゃないのか?この辺に住んでりゃそれこそ常識だろうに」

「それがあたし、そういうのが苦手で…高校もろくに出席してなかったんで。さっきボクに話したのも、セルバンテスさんに聞いた知識の又借りです。あの人ホラ、学があって歴史に詳しいでしょ」ペロッと舌を出す。なんか、可愛いっていうか、面白い感じの人だ。「ここには親戚のツテもあって、ひょんなことから潜り込んだの。叔母が厨房でシェフをしているんですよ」

 僕は今出た話にピンときた。

「じゃあ騎士の亡霊っていうのは、その戦いで死んだ人かな」

「そうかもねー、怖いわねー」

 おじさんは片眉を上げて、お姉さん…アガティーナさんっていうらしい…に幾つか質問(というか冗談)をする。ビーズを入れた袋を振ったみたいに陽気に笑うアガティーナさんを、仕事そっちのけでナンパするんじゃないかと僕は心配になった。



「この胡散臭い大男が、有能な探偵なのか」

 開口一番、肥った黒豹系の人…パルダッサーノ=デッラ=ボルヘスさんはピシャリと言い放った。

 執務室の入り口で僕らは、鉛筆の芯より黒い毛皮に埋もれた疑り深そうな瞳で睨み付けられた。

「ふん。まるでヤクザだな。ロレンソ、貴様の推挙だが間違いなかろうな。信用できるんだろうな」

「はい、それはもう」

 ロレンソさんが平身低頭のていでハンカチを握り、こめかみをしきりにぬぐっている。

「こちら、ジャンカルロ=デッラ=レグルス氏は警察署に勤めてらっしゃいまして、敏腕かつ清廉な警察官と名高かったそうです。退職なされてからも市民の警備など安全に関わるお仕事をなさってまして、個人事務所ではありますが…その、守秘義務を徹底されている方です」

 うわー、なんて誤解………

 僕は胸の中でそっと一人ごちた。

 ロレンソさん。それは間違いにもほどがあります。

 おじさんは確かに昔パパと同僚の警察官でした。でも警察を辞めた理由は「めんどかったから」って、こないだの晩酔っぱらって言ってました。

 確かに警備みたいなこともしています。というか、アルバイトばっかりしてるんです。どうしてかっていうと、探偵の仕事があんまり無いんです。ハナクソをほじくっては窓の外に狙って弾くのが最近の暇潰しです。

 口は軽くはないけど、お酒が入ると保証できません。浮気調査をしてて、当の本人にご飯とお酒をおごられてペラペラしゃべっちゃって、水の泡になったことがあったそうです。これは、おじさんからじゃなく『アマゾンの女王』で夕ごはんを食べたとき、ステラさんから聞きました。(おじさんが「余計なこと言うな」って三時間ぐらい二人は喧嘩してました)。

「わっはっはぁ、いやぁまさしくその通り!自分、曲がったことが大嫌いでありまして、お嬢さんの懸念をば晴らしに参りました!言うなればまあ、正義に燃える十字軍の気持ちですな!」

「え゛」

 おじさんのどこが正義、と言いかけたら、肩の辺りをギュリッとつねられた。

「………!」

「そっちの少年ラガッツォは」

「これは私の友人の息子なんですがね、理由ワケありで私が預かってんですが…離れると寂しがって泣き喚くもんだから、不承不承連れてきたんで。なぁ、機嫌は直ったか?」

 スマイルマークのピンバッジみたく口角を上げたシベリアン系の表情の中、死んだ魚のように奥の無い目玉にはこんな字幕が明滅していた。

“分かってるなアルフレード。余計なことを言うなよ?儲け話をフイにしやがったらテメェ、ぶっ殺すぶっ殺すぶっ殺す!!”

 …子供を脅すんだから、やな大人だなぁ…

「ウン、一緒ニイラレタラ僕モウ平気ダヨ。優シイ・ジャンカルロオジサン・大好キ」

 切り張りのようなセリフを言いながら、僕は相手の背後に手を回してカギヅメを出す。お返しとばかり肉にえぐり込んだ。

「ッゥガッ!!」

「どうしたんだね」

「イ、イヤ、ちょっと、なんでもありやっせん」

 クライアントに対しての建前上、ニッコリと僕らは笑い会う。裏側では互いに激しく攻撃しながら。

 この「子供と仲の良い善人」アピールは功を奏したようで、ボルヘスさんの雰囲気が少しだけ和らいだ。

「まぁ、契約を交わした以上はレグルス、貴様に任せる。城の内外は自由に歩き回って構わんが、そこらには防犯システムがあるからな。ロレンソによく聞いて、引っ掛かるようなことがないように。それと、この執務室には勝手に入るんじゃないぞ」

「ロレンソさん、ボーハンって、どんなの?」

「電気網やシャッターとか、その他にも泥棒けの危ないものが結構あるんだ。けど安心してね!そういったものは私が教えてあげから」

 やった、なんだかだんだん仕事って感じになってきたぞ。

 その時だった。

「お父様…」

 僕のモノトーンの長毛が逆立つような涼やかな声だった。

 いつの間にか、僕達の後ろのドアが細目に開いていて、廊下から風が吹き込んでいる。その隙間から、雪より優しく軽い白い柔毛にこげがそよいでいた。

「私も、そちらに行っていい?」

「おお、エウリディーチェ、エウリディーチェ、お前はこんなところに来なくていいんだぞ。部屋でおとなしくしておいで」

 声のぬしは、不快の色を込めて言った。

「でも、もともと私が言い出したことだもの。探偵さんがいらっしゃったんなら、ちゃんと説明しないといけないわ」

「いや、お前は……」

 有無を言わさず、その子は入ってきた。僕は少しの間息が止まった。

 この世に生まれて10年、こんな美しさを持った猫人は見たことない。

 神話の雌牛のミルクの毛皮。ふわふわしていて、光の塊を戴いているような流れるハニーブロンド。やや突き出た、滑らかな額。繊細な眉と大きな瞳は少し丸い鼻とあいまって、僕からしても「将来美人になりそう」と思わせる。

 その女の子が僕を見て頬をほころばせた。なんでか急に部屋が暑くなって、額から汗が吹き出て、僕はぼうっとなった。

「あの…あなた達が探偵さんですか?」

 直立で凝固してしまう僕。隣でジャンおじさんが恭しく立て膝になるのを感じる。

「どうも、小さなレディ。俺はジャンカルロ=デッラ=レグルス、君の見たものの正体を調べに来た。こっちのチビは、まあ…オマケ、かな。おいこら、挨拶しないか」

 背中を強烈にはたかれた。

「あっえっ、うん……」

 女の子の海の色が映ったような瞳が、じっと僕を見てる!

「いっ、えーっとね」なんでなんだろう、心臓が暴れてる?「ぼ、ぼ、ぼ、ぼ」

「ボボボ…?さん?」

「あっ違うよ、ええとね」息を吸って、握りこぶしを作る。「アルフレード=コッレオーニ、僕は、君と年も同じだよ」

 うう、なんだか舌が回らないや。

 女の子は長ぁい睫毛を震わせて、驚いたような嬉しいような顔をした。

「あなた達…星の名前を……」

「え?何?」

「ううん、ちょっと気にかかっただけ…だけど」スカートの裾をつまんで膝を曲げ、ふぅわり、と貴婦人の礼をする。「初めまして、私はエウリディーチェ=デッラ=ボルヘスです。宜しく」

 首を左にかしげるように、また微笑む。

 ああ、なんだかこの子の周りだけ空気が違う。それにキラキラしてる…

 エフン!とおじさんの咳払いで僕は現実に引き戻された。

「ではまず、お嬢さんのお話を伺いましょう。こちらの部屋ではない方がよろしいですかな?」

「ああ、ではそうしてくれ。わしはまだ仕事が済んでおらんからな。おいロレンソ」

 ボルヘスさんの号令。阿吽の呼吸でロレンソさんは頷く。

「はい、では応接室に参りましょう」

 うちの探偵事務所とは段違いに広い、立派な家具がたくさんある応接室の窓からは、夕暮れになりかけの生い茂る丘の緑が眺められた。多分西向きなんだろう、溶け落ちる巨大なロウソクのような太陽が窓枠をこすっている。

 僕とおじさんはソファに、ロレンソさんは左手の一人用の椅子に、エウリディーチェは対する形で僕の真正面にいた。東洋の絹で包んだ花束を置かれたみたい…(後でおじさんに「デレーンとして、みっともなかったぞ」って言われた。自分じゃそんなにヘラヘラした覚えはないんだけど…)

「さて、嬢ちゃん、に見たものをそのまんま話してくれるかな?」

 厚かましいジャンおじさんの言葉に、エウリディーチェはこっくり頷いて語りだした。

「私は、お母さんを10ヶ月前に亡くしました」

 エウリディーチェの言葉がちょっと止まる。前髪が青い真珠のような瞳に影を落とす。あー、可愛いなぁ…

「続けてくれ」とハスキー系犬人に促され、また話を続ける。

「……それから、夜眠れなくなって、時々ベッドを抜け出て城の中を歩いては長い時間を過ごしていたんです」

 そうなんだ。僕が一緒にいたら、話し相手になってあげるのになあ。

「おい」

 あ、でも夜は女の子はちゃんと寝た方がいいんだよね。ステラさんが夜更かしは美容ビヨーに良くないってこぼしてたし。おじさんはよく徹夜でサッカー中継見てるけど、そもそもブサイクだし…

「おい、アルフ、うるせぇぞ」

 おじさんが僕の耳を引っ張った。

「え!え?」

「ぶつくさッてんじゃねえや。黙って聞いてろ」

 え、まさか僕、しゃべってた!?

 あわてふためく僕を、エウリディーチェは楽しそうに眺めていた。カーッと顎の先まで血が昇る。恥ずかしくて死んじゃいそうだよ…!

「悪いね嬢ちゃん、コイツあんたが可愛い娘カワイコちゃんなもんでな、舞い上がってんだよ。気にしないでくれや」

 ばしばしばし。強く襟足を叩かれる。いやなこと言わないでよ、デリカシーが無いな!

「んで、その亡霊ってのは、そうやって城の中を散歩してて見たのかい?」

「あの…最初にあったのは、声なんです」

「声?」

「…大体一月位前なんですが、夜中に鋭い悲鳴みたいなものを聞いたんです。私はびっくりして寝室に引き返して、ベッドに潜り込みました。次の晩は何も起こらず、きっと自分の聞き違いか気のせいなんだと思っていました。でもそのうち、ほかの音がするようになって」

「ふんふん、そりゃどんな感じだい」

「何ていうか…こう、カリカリというような音とか、固いものを叩いたりするような低い音がするんです。それもなんだか……」伏し目がちに壁の方を窺う。「あの…、城の壁の中からするみたいなんです」

「声とは全然違うんだね?」

 おじさんの問いかけに少女はコクンと頷く。ロレンソさんが、それに、とかぶらせる。

「お嬢様の他には、今のところ物音に気付いた者はおりません。私もですが…。セキュリティにも何も反応しておりませんので、この現象を見極めるために、お力添えを頂きたいのです」

 おじさんは懐に手を突っ込んでボリボリと胸板を掻く。

「それだけじゃないんです。私、壁に映った影もこの目で見たんです。つい一昨日です」

「でもお嬢様、ご覧になったとおっしゃる廊下の防犯カメラには、何も映ってはいなかったではありませんか」

 エウリディーチェの怯えに睫毛が揺らめき、口元を白い小鳥のような手が覆う。

「だから、亡霊なんです。騎士団の亡霊です。母国にも帰れず安息を得られない魂達が、機械の眼を欺いて、城の中をうろつき回っているのよ…」

 僕は思い切って尋ねた。

「それでいよいよ怖くなって、ボルヘスさん…お父さんに頼んだの?」

「うん……」

「その影って、どんな格好してた?どうして騎士だって分かったの?」

「まじまじ見たわけじゃないから…廊下の曲がり角に人影がさしてたの。低い声で何かスペイン語の呪いの言葉を囁いていて、まるで壁に吸い込まれたみたいにいきなり消えて…ドアも何も無い場所で、あり得ないことよ…私は足がすくんで、ただうずくまってたの」

「じゃあ、姿は違うかもしれないんだ…」

「どういうこと?」

「だってさ」僕は人差し指を立てる。「何も騎士じゃなくても、死んだら誰でも亡霊になるんじゃない?商人とか、農民とか、船乗り…はないかな、おかだし」

 ロレンソさんが、プッと横を向いて吹き出した。

「あれ、僕何かおかしいこと言った?」

「………いいからお前は…」

 はっ。こごった怒気を頭上に感じる。

「黙ってろ!!」

 どがすん!

 流れ星が1ダースぐらい、まぶたの裏にチカチカと閃いた。

「…で、そんだけかな?」

「え、ええ…あの…アルフレードは大丈夫?」

「あー平気平気。こんなの大したこたねえって。いつものことさ」

 嘘つき!充分大したことだよ!依頼人の前だからってカッコつけて…!と思っているけど痛すぎてセリフに出せない。

「嬢ちゃんの話はすごく参考になったよ。なぁに、2・3日中には解決してやっから、安心してろな」

 何かまだ言いたげなエウリディーチェだったけど、ロレンソさんが腕時計を見て「ちょうど夕食の時間になりました。お嬢様、食堂に参りましょう。レグルスさんとアルフ君には使用人の間で申し訳ないのですが、そちらにご用意をさせておりますので…」と促したので、僕とおじさんはアガティーナさんとその部屋へ、ロレンソさんとエウリディーチェは階上へと別れた。

 お城の台所と続きになってる漆喰壁の部屋には、アガティーナさんの叔母さんはじめ、ここで働いている人全員が揃っていた。で、ここでも僕は頭をしきりに撫でられたり(「あら、腫れてるわ。タンコブ?どうしたの痛いでしょう」「あ、それはジャンおじさんがね」「コイツが柱にぶつかっちまって、ぬぁははは」…てやりとりがあった)、ほっぺたを触られたり、しっぽの毛をブラシでとかされたり耳にリボンを結ばれたりで落ち着かなかった。

 おじさんは始終ご機嫌だった。そりゃ、大食らいの上に食いしん坊だから、雉だの兎だのゴチソウがテーブルに並べば嬉しいだろうけど、ロレンソさんやボルヘスさんのことばっかり聞いて、肝心の亡霊のことはあまり聞かないんだもん。僕は何とかしなきゃって思った。

 そう、僕だけでも。おじさんは頼りにならないしね。

 エウリディーチェのため、っていうのは全然……ううん、ちょっとだけ。ほんのちょっぴりは、あるけど。

 映画やテレビの探偵は、誰もがクールだもの。僕だってそうならなきゃ。



 それから僕は、おじさんに「宿題でもやってな」ってお客用の小部屋に押し込められた。そんなものとっくに終わらせてるよ。

「俺は見回りと調査で歩いてくる。先に寝てろよ」

「えー、何言ってるの?僕も手伝う!」

「お前みたいな◯◯は凸でも←→§∂⊇」

 あまりに口汚くて良い子には理解できない罵詈雑言。僕は乱暴にベッドに突き倒された。

「くれぐれも!ほっつきまわるよう真似はするなよ。いいな!」

 僕は、「ぶぶぶう」と唇を鳴らす。

「返事は!」

「分かったよ!」

 うるせえ!と大男はキレ気味に肩をいからせて出て行った。

 僕はしばらくふてくされて天井を眺めたけど、「よっし!」と気合いを込めて起き上がった。

 ベッドに寄り添うサイドテーブルに鞄の中身をドチャッとあけて、使いそうなものを選び出す。

 まずは、この事件用に持ってきた秘密ノートと筆箱。それから、ヨーヨー。大小のスーパーボール。着替えを少し。懐中電灯。オモチャのピストル、ちゃんと弾が飛ぶやつ。一生懸命集めたサッカー選手のトレーディングカード。小学校で流行はやってるアニメのニンジャの手裏剣。飛ばしたら、壁にかけてあった骨董品っぽい絵のカンバスに刺さってしまい、焦った。画不の裂け目の下には、何か別のものがあるみたいだったけど、唾をつけて塞いだ。

 小一時間くらい悩んで、ピストルと懐中電灯をズボンのベルトに差す。ノートをシャツのおなかに入れ、鉛筆を耳に挟む。

 白熱灯が煌々と照らす絨毯敷きの廊下へと、ドアをすり抜ける。

 時計は持っていないけれど、まだ多分9時ぐらいだ。おじさんは当分戻ってこないだろう。自分の戻る部屋が分からなくならないように慎重に、頭に地図をインプットしながら歩みを進めていく。

 窓の外には闇が広がっている。のっぺりした濃密な暗黒に建物の内側からの照明が反射して、ただのガラスが半分鏡みたいになってる。窓の前を横切るたびに自分自身の横顔がクッキリ闇に浮かぶので、ちょっとだけ気味が悪い。

 城の造りは円状の回廊の中に十字の廊下、あとはちょこちょこと入り組んだ狭い通路になっていた。それが五階まで続いていて、上に行くほど天井が低く、またフロアの面積が小さくなっているようだ。来たときには分からなかったけど、上がすぼまる円柱形だと考えたらいいかもしれない。

 おじさんと遭遇したらすぐ隠れなきゃと思ってたけど、幸い一度もすれ違わなかった。

 僕はまず、いい匂いに誘われて台所に行ってみた。アガティーナさんが腕まくりをして巨大なスープ鍋にタワシをかけている。

「あらアルフレード、どうしたの?お腹減ったの?」

 洗い場には他に、むっつり顔のヨークシャー系のおばさんがいた。毛皮の色がおんなじだと思ったら、アガティーナさんの叔母さんのジャケネッタさんだった。

「さっき食べたばっかりだから、そんなことな…」

 ググウ、と正直すぎる僕の胃袋が反応する。

「キャハハッ、ちょっと待ってなさいな。これが終わったらお茶にするから、クッキーをあげるわ」

「ご、ごめんなさい」

「いいのよ。子供は食べるのが仕事なんだもの。男の子なら尚更よ」

 テーブルに煎れたてのエスプレッソ(大人の扱いに内心感動!)を、それからクルミとイチジクのまん丸くてビッグサイズのクッキー三枚と、オレンジリキュールの滲みたマドレーヌをくれた。

 ありがとう、とお菓子はポケットに押し込んで、椅子に座る二人の前でノートを取り出した。

「あのね、僕この事件を調べてるの。アガティーナさん、ジャケネッタさん、亡霊について何か知ってることはない?」

「え~と、そうねー…」

 アガティーナさんはエプロンでぐしぐし指をぬぐう。ジャケネッタさんは…笑顔なんだろうけど、逆におっかないぐらいに牙を見せて上体を落とし、僕の顔の高さに合わせてくれた。

「面白いじゃないか、あんた。あの探偵さんの真似っこだね」

「真似じゃないよ。僕は助手だもん、これは仕事!ね、アガティーナさん、何かなかった?あと、最近変わったこととかさ」

「変わったこと…ねー…」

「ジャケネッタさんは?」

「あたしら別段幽霊なんぞ見ちゃいないよ。そんなもんは気のせいさ。少なくとも、信仰をよくする真っ当なキリスト教徒なら関係ない話さね。それにこの城にいらっした分団長コマンドール様は、復讐や呪いの為に地上をさすらうようなお方じゃないんだ」

「最後のお城のあるじのこと?」

「そうさ」おばさんは信心深い人がする、いかにも重々しい首肯をした。「分団長様は立派なお人だったんだ。女子供を護りこそすれ、脅かしたりなんかするわけがないよ」

 僕はノートの一番新しいページに『騎士団長=亡霊?』と書き込んだ。

「その人って、どんな人?どうして死んだの?」

「役目の言葉で分かるだろうけど、スペインの出の騎士さ。お貴族様だったんだよ。マルタがイスラム教徒に征服されたときにシチリアまでキリスト教徒の避難民を保護しながらやってきたのさ。それからやっぱりシチリアも陥落したけど、ここで最後まで残って勇敢に戦ったんだ。一番偉かったのは、島民からも敵のイスラム教徒からも略奪を行わず、虐待もしなかったところだよ。清廉潔白そのままのお人だったのさ。だからこの城も残っているんだ。いわば尊敬の[[rb:証>あかし]]さね」

「ふーん。いい人だったんだ」

「そうだよ。だから同じスペインの統治が始まるときはみんな期待したんだ。ま、裏切られたけどね」

 それは授業でやったから僕も知ってる。スペインは徹底的にシチリアをんだって。

「ジャケネッタ叔母さんてば、意外に物知りね」

アガティーナティナ、あんたは学校に戻って勉強したがいいよ」

「おあいにく、卒業証書もらったから用済みよーだ」イー、と舌をピラピラ突き出す。「それにウチ今余裕無いし。妹や弟達が高校出るまでは、あたしがしっかり働かなきゃ」

「ま、それはいいけどさ。ほどほどにしときな」

「…え?なんのこと?」

「だから、あまり大っぴらにやるなってこと」

 ジャケネッタさんの落ち窪んだギョロ目が、何かを伝えるように食料倉庫の扉を向く。

 でもアガティーナさんは「?」と肩をすくめるだけだった。

「あんたも鈍い子だねぇ。あたしの言いたいのが分からないのかい」

「えー?あ、最近老眼になったとか?」

「違うよこのコンコンチキ!」

 ジャケネッタさんの平手がテーブルを叩く。

「こないだからちょくちょく食料が無くなってるの、ありゃあんたなんだろ。隠そうったって無駄なんだからね」

「あたし、そんなことしてない!」アガティーナさんは目を丸くした。「第一、ここ半月はお城の外に出てないのよ。持ち出しようがないじゃない」

「呆れたね、しらばっくれるときたもんだ」

「本当に本当!神様とお母ちゃんの名前にかけて、盗みだけはしないわ!」

 アガティーナさんはものすごい剣幕で髪を振り乱して怒った。ジャケネッタさんは、もぐもぐもぐ、と引き下がる。

「…でもねぇ、昨日はジャガイモが5~6、先一昨日にはオレンジとトウモロコシが無くなってるんだ。あたしはモウロクしちゃいないし、じゃあ、あれは何なんだろう」

「知らないわよ。それこそ亡霊なんじゃないの!?」

 アガティーナさんは濡れ衣を着せられてすっかりおかんむりだ。子供みたいな膨れっ面で、横を向いてしまっている。

 …空気が重いなぁ……

「あのさ、ジャケネッタさん、食べ物が無くなるようになったのっていつから?」

「あれは、セルバンテスさんが来た後だから、まぁ一月くらい前からだねぇ」

「ロレンソさんて、じゃあ先月からここにいるの?もっと前からいる人かと思ってた」

「旦那様が気に入られてね。学士さんで物腰が丁寧だから、そのうち執事にでもなるかもしれない」

「ふーん」僕はこれもメモした。「食べ物って、どんなのが狙われてるの」

「おや、興味があるようだね、小さな探偵さん」

「どんな小さなことでも、事件のヒントが隠されてるかもしれないからね」

「なぁるほど事件だね。大変だ、あんたに解決してもらわなくっちゃ」

 オッホホフ、と笑われた。ロレンソさんもそうだったけど、ちょっと失礼なんじゃない?

 ジャケネッタさんがしてくれた話によると、大体1日か2日おきに、ナマ物を中心に野菜や豆や米・小麦がなくなるらしい。はじめは目をつぶっていたけれど、最近になってその量が増えたのでアガティーナさんに忠告するつもりでいたんだって。

 僕が調理場を出るとき、ジャケネッタさんがなだめている声がずっとしていた。アガティーナさんはどうやら相当怒っているらしかった。



 廊下から廊下へ、十字の通路から側道へ。ぐるぐる回っているうちに、だんだん勝手が分かってきた。

 いきなりフッ、と明かりが暗くなる。何の仕掛けだろうかと少し泡を食ったけど、どうやら自動的に証明の電気が切れるらしい。

 その拍子に壁に額を打ったり絨毯にけっつまずいたりしたけど、これはビビったからじゃないよ。えーと、そうだ、眼が馴れなかったせいだよ。だって猫科系でもなければ闇には強くないでしょ?

 霞がかったようにけぶる常夜灯が壁の下の方について、腰板を照らしだす。そこだけホコリが輝きながら浮いていた。

 窓の外には星月夜の空があったけど、見渡す廊下の上半分はまるで底無し沼みたく真っ黒によどんで、ビデオゲームの地下迷宮ダンジョンみたい。

 な…なんか、今にもお化けが出そうな。廊下を曲がるときなんか、つい耳をすませて気配を確認してしまう。

 大丈夫だ。誰もいない。きっとみんな寝ちゃったか帰ったんだ。

 だだだだだだだ誰もいない!?

 歯がガチガチいう。膝小僧が踊りだす。

 な、何考えてんだ、そんなのあたりまえじゃないか。怖がってちゃ仕事にならないぞ、アルフレード!勇気を出せ!

「アルフレード」

 ぽ、と小さく冷たい手が背中に触れた。

「うっうわぁぁぉぉぉ!!」

 お城中に響くような叫びをあげてしまった。

「ぅうわうわうわうわマリア様聖ロザリア様お父さんお母さん僕をお守りくださいぃ~!」

 クスクスっと柔らかな笑いがした。

「アルフレード落ち着いて。私よ」

「え?」振り向くと確かにそこには薄いネグリジェに肩掛けを巻いた、エウリディーチェが佇んでいた。「え…あの…これは、驚いたんじゃないよ?ホントだよ?」

「そうなの?私には怖がって震えてるようにしか見えなかったけど」

「ちっ、違うもん!」

 僕はちからの限り否定した。

 エウリディーチェがしなやかな足使いで、全然音も無く寄ってきた。

 白い顔が、すいと近づく。甘い息が鼻先にかかる。

「エ、エウリディーチェ?」

「血が出てる。おでこのとこ」

 砂糖菓子みたいに白くてスベスベな指が、僕の顔に…

「だめっ」

 気が付いたら僕はエウリディーチェの手を払いのけていた。小さな体がよろめいて、壁にぶつかる。

「あ………」

「……ッ」

 ごめん、と謝ろうとしたけど、エウリディーチェは走り去った。僕が伸ばした腕にはエウリディーチェの肩掛けが脱け殻のように残った。

 すぐに僕は駆け出す。何であんなことをしたのか自分でもよく分からない。分からないけど、それは別にエウリディーチェが嫌いだからじゃない。

 だから言わなきゃ。ちゃんとごめんなさいしなきゃ。悪いことをしたら、きちんと反省して謝ること。小学校に上がるときにパパからきつく言われたことだ。

 僕は自慢の鼻で後を追った。匂いは階段を登り、屋上の鎧戸まで続いている。

 力一杯扉を押すと、長いこと眠っていた怪物が目覚める唸りのようにきしんだ音を立てた。

「エウリディーチェ…」

 バターをからめたような月が、ぱっくりとまん丸い光の穴を開けている。城の石材にも夜空から舞い降りた星の妖精が遊び、屋上の敷石はかすかな燐光を放っているようだ。

 衛星アンテナのボウルの形の影が屋上の端にあり、その手前に小さな後ろ姿がわだかまっていた。

「エウリディーチェ」

「こないで」

「ごめんね。僕おどろいたんだ。……ケガしてない?」

「いやよ。向こうに行ってよ。一人にして」

 言葉に混じる、ヒックと喉に詰まる涙声。僕は少し怯みそうになる気持ちを押さえつけ、足を進めた。

「エウリディーチェ、ごめんね。僕は…何て言えばいいかな…」

「私が嫌いなんでしょ。分かってる。みんなそうよ」

「へ?」

「ひ弱で、可愛くなくって。だから触られてイヤだったんでしょ」

「ちっちち違うよ!そんなんじゃないよ!」

 僕は両手をブンブン振り回した。

「エウリディーチェ、僕はただ君があんまりその、かっ、可愛いから、顔が近くなってそれで、それでそれでね」あー、何て言えば分かってくれるんだろう。頭をがむしゃらに引っ掻くところで、いい返事が見つからない。「君は、君は可愛いよ…僕が今まで見た女の子の中で一番に」

「…嘘でしょ」

「僕は…女の子は苦手なんだよ。君なんか可愛いから、特に苦手だよ」

「………」

「あ、でも嫌いってことじゃないよ?うー、もー、どう言うのコレ」

 エウリディーチェはまだ僕の方を向いてくれない。

 こういう時ってどうするんだっけ。天国のパパ、教えて…!

 掌の汗をズボンにこすり付けた。もらったお菓子でポケットがもっこりしてる。ハッと思い付いた。

 テコトコそばに行き、えいっとばかりに握った手を差し出す。

「ほら」

「…え?」

 エウリディーチェが振り向いたら、すぐに指を開く。掌に大ぶりのクッキーを載せておいたんだ。

「コレあげる。食べなよ」

「……」

「あ、ほかにもあるよ。えーと、ホラ!マドレーヌがあるし」

 女の子を泣かせるなんて、最低な奴だ。僕がそうなってしまったことのショックと、謝りたい気持ちで胸が一杯だった。けど、この瞬間の僕が思い付いたのはこれだけで… 

「…っ、ふふっ」

「ねえ、機嫌直してよ。じゃないと僕、困っちゃうよ」

 僕は途中から目を痛いくらいつむっていた。耳も尻尾も垂れていた。そうしたら、エウリディーチェがいつの間にかニコニコして僕の手を握っていたんだ。

「い……」

 毛皮という毛皮がブワッと逆立ち汗が噴く。瞬くうちに耳も指も赤くなっていく。

「ありがとう、アルフレード」

「へ、へ、へい」意味不明な返事をしてしまう。「いや、悪いのは僕なんだから、お礼なんてしないでよ」

「私、可愛いなんて言われたの…初めて」ふっくりした微笑み。「嬉しいの」

「あ、そ、そう?変だなー、おかしいよ。だってさ、僕はすごく

 やばい!

「す?なに?」

「えーとえーと」視点を斜め上下横に飛ばして言い訳を探す。そしてまたしても自分が持つクッキーに活路を見い出した。「ごくきっ腹なんだ。あと二枚クッキーがあるんだけど、一緒に食べない?」

 猫人の少女は素直に賛成し、僕らは隣同士になってアンテナを背に座り込んだ。持ってきた肩掛けで背中をくるんであげる。

「いただきまーす♪」

 エウリディーチェと仲直りできたのが嬉しくって、僕は元気一杯にお菓子にかぶりつく。

「アルフレードって、本当に美味しそうに食べるのね。見てると面白い」

「ほう?はっへほのフッヒー、ははひおひひいほ?」

 エウリディーチェの表情がほどけて、アハハハハ、と笑いが弾けた。僕もつられて大笑い。

「今夜は楽しいな。あーあ、ずっとアルフレードがここにいてくれたらいいのに」

 さくさく上品にクッキーをかじるエウリディーチェに、気になっていたことを聞いてみた。

「ね、君さ、身体のどこが悪いの。さっき走ってたし、今もけっこう健康ケンコーに見えるよ」

「喘息なの。3週間にいっぺんくらい発作があって…」

「…それだけ?」

 うん、と肯定するので声を大きくしてしまった。

「なんでぇ!?別に毎日なんじゃないなら、学校に行けばいいじゃん!」

「え…だって迷惑じゃない?」

「全然!誰がそんなこと言ったの!」

「去年までは私立に行ってたわ。お母様が亡くなってから、発作が頻繁になって、お父様も行かなくていいっておっしゃったの」

「でも来てもいいんでしょ?じゃあ、僕の学校に来なよ。アレルギーの子も喘息の子もいるよ。みんなそんなの気にしないって」

「そう…なの?」

「エウリディーチェなら大歓迎さ。僕の友達にも会わせたいな。ここからはちょっと遠いけど、車なら早いでしょ」

 それから僕は、ひとしきり通っている小学校の良いところを数え上げ、いつも遊ぶ友達や面白い先生達の話をした。エウリディーチェはキラキラした瞳で聞いていた。そして「じゃあ、お父様に頼んでみる」って意気込んで言った。

 興奮した後の、なんだか暖かい雰囲気の中、僕は「そうだ」と口を切る。…ていうか、白状すると忘れてた。「ちょっと教えてもらいたいんだけど、亡霊って今までに何回ぐらい出てきたの?」

 エウリディーチェの、楊枝の先で跡をつけたような繊細な眉が上がった。

「私の話を信じてくれるの」

「?だって見たんでしょ」

「そうだけど、お父様もセルバンテスさんも、誰もが『気のせいだ』って取り合ってくれなかったから」

「僕は信じてるよ。依頼人を信頼するのが探偵の信念さ」胸を張る。「さ、教えて」

 夜空を見上げて、少し考えをまとめてからエウリディーチェは話してくれた。

「壁の中の音を聞き始めたのは最近だけど、実は悲鳴みたいなのを聞いた頃から、お城のあちこちでおかしな気配がするようになったの。廊下の天井とか、鎧の後ろとか、そういうところから時々息づかいや視線を感じるの……。通りすぎた後に振り向くと、窓やドアが開いてたり、絨毯に何か引き摺ったみたいな泥汚れがついてたりするんだけど、明るくなってから行ってみるとそういう証拠は無くなってるのよ。

 朝になって皆が起きてきて相談しても、きっと夢だろう、きちんと夜に寝ないからそんなが見えるんだって言われたわ。

 でも二度、不思議な手形がはっきり残ってたことがあって…」

「手形?どこに?」

「四階の廊下のガラスの外側と、調理場のドアの下の方。大体このぐらいのものだった、かしら」

 エウリディーチェは両手の人差し指と親指で桃の形を作った。

「それは大人のひとに言わなかったの?」

「セルバンテスさんに言ったけど…窓は雨で、調理場の方のは人の服で、どっちもその夜のうちに消えちゃったの」

 メモはしなかったけど、なんだか脳天に釘の先だけ打ち込まれたみたいな引っ掛かりがあった。

 悲鳴のような声。壁の中の音。息づかいや動くもの、絨毯の汚れ。手の跡…

 全て…じゃない、肝心のスペイン語をしゃべる亡霊以外は、一月前から起こっている。

 なんだろう…いま一振りヒラメキの金槌が中途半端な思考の釘の頭を叩いたら、全部の情報がスコーンとまとまるような…

「あれ?」じーっと脳みそを回転させつつ眺めていた、エウリディーチェの美しい(キザだけどこの表現がいいと感じた)手の様子にふと思った。「それ、なんだか小さすぎない?」

「え?」

 僕はエウリディーチェの結んだ指の輪に自分の手を重ねてみた。

 やっぱりそうだ、勘違いじゃない。広げた僕の手よりもサイズが小さい。これだと男の…少なくとも大人の手ではないことになる(大人からジャンおじさんを連想したけど、おじさんは色々とワイドサイズで普通のひとの比較にならない)。

「そういえば、そうかも…そう!確かに小さかった!でも今までそんなこと考えもしなかったわ。アルフレードすごい!」

「えへへ、別にさ……って、ゴホン、そうなると、これは大きなポイントだよね」

「そうね。騎士といったら昔の軍人さんだもの、まさか小人さんでもあるまいし…」

「んー…そうなると、何か違うものとか」

「例えばどんなもの?」

「そこがねぇ…」

 僕も上を眺めて答えを探した。

「そうだ、ノートがあるんだ」

 シャツのお腹をめくり、メモとノートを取り出してみる。月明かりはまぶしいほどだったけど、鉛筆の文字は灰色のページに沈んでいた。

「あうぅ、ちょっと暗くて読めないや」

「私読める。貸して」横から言うエウリディーチェに渡す。そうか、猫人か猫科系なら明かりがなくても全然平気なんだ。「えーと、ジャガイモ…オレンジ…無くなった…騎、つち?あ、『騎士』って書いたのね」わざと軽蔑するように冷たく「アルフレード、字が汚ーい」と言う。

「関係ないじゃん。そう、さっき聞いたんだけど、食べ物が無くなってるみたいだね。そっちもこの1ヶ月くらいだから、エウリディーチェが声を聞いたのと重なるんだよね……。ね、悲鳴みたいって言ったけど、はどんな感じなの」

「キャーっていうか、ギャーっていうか、わりと高い声だった」エウリディーチェはノートをパタンと閉じる。「男の人らしくはなかったかな…」

「うーん、どんなんなんだろう。聞いてみないと分からないかぁ」

 その時「キキィーィィ」とエウリディーチェがその悲鳴を真似た。すぐ近くだったから僕はビクッとなった。

「うわ、びっくりしたぁ。なるほど、そんな感じでなんだね。それにしても不気味だね」

一拍置いて、絹の布地が僕にまとわりついてきた。

「え」エウリディーチェが、僕の脇の下から腕を回している。つまり、ひっしと抱きついてる!「えええええ?エウリディーチェ?」

 喉元に、エウリディーチェの柔らかな産毛を感じた。星と月に反射する金の髪が頬を撫でる。

「えっ、ちょっ、どどうしたの」

「いる!そこに!」

 ギギギギヤァーアア!!

 地獄で肉を引き裂かれる罪人みたいな叫喚が、穏やかな夜にこだました。

「あそこ…!」

 エウリディーチェの細い指が震えながらも示した先、屋上の縁石の上すれすれに真っ赤に燃える眼が二つ浮いていた。

「うっ、うわぁぁぁぁ!!」

 やけに長い腕で、ズルリと奇妙に小さな胴体が引き上げられた。

 人の形をねじ曲げたような変なバランス。何系の人種かも分からない潰れた耳に窪む鼻。二本足でなく、ヤモリみたいに地に這いつくばると、ものすごい勢いで蜘蛛のように一気に距離を詰めてきた!

「エウリディーチェ、僕の後ろに!」

 今度は守るためにエウリディーチェを引っ剥がし、背中に庇った。

 ギギェギェギェギェ!!

 『そいつ』は跳んだ。ひゅん、と尖るものが顔に当たり、下瞼のあたりが熱くなる。そこから血がボタボタ服の胸に降りかかる。

 僕は『そいつ』の攻撃に耐えた。かざしたノートは千切れ、服も破れた。掃除してないトイレより臭い『そいつ』と戦ったのは、ほんの1、2分だったけれど、僕は今日知り合った後ろにいる女の子を、怪物から守ろうと必死だったんだ。

「アルフ!嬢ちゃん!」

 「ギ」と相手の動きが止まり、次の瞬間テレポートしたみたいに屋上の角に吹っ飛んでいた。

 尻尾を膨らませたジャンおじさんが僕の前に立っていた。腰を落として空中に突き出した正拳は、『そいつ』を見事に撃退したのだ。

 ジャンおじさんの服を着ていても盛り上がりのある大きな背中がフーフー揺れている。嗅ぎ慣れた安物の煙草の匂いが、今だけはとびっきり良い匂いに感じた。

 やや遅れて、ロレンソさんが現れた。「大丈夫か、君達」とエウリディーチェを抱き起こし、僕にハンカチを差し出す。

「おい、まだ終わってねえ!」

 おじさんの言う通りだった。『そいつ』はハスキー系の巨人より倒しやすいと踏んでか、今度はロレンソさんに猛突進してきた。

「ロレンソさん、危な」

「mierda!」

 外国語だ?

 電光石火の神業だった。『そいつ』がまたしても虚空を飛んだ刹那、虎人の右手が懐からピストルを引き抜き、銃口を向けるや引き金が絞られる。

 ガウン!と耳を聾する銃声。これにはジャンおじさんも度肝を抜かれていた。

 『そいつ』は今度こそ、ゆっくりゆっくり溶けるみたいに地面に横たわった。

「ーーー…こいつが亡霊の正体だな」

 僕はハンカチで傷をおさえ、おっかなびっくり『そいつ』の近くに立つおじさんの隣に行く。片方の手でズボンをぎゅうと握ったら、珍しく頭を撫でて「よく嬢ちゃんを守ったな、アルフレード」と褒めてくれた。

 涙が溢れたらカッコ悪いと思い、頑張ってこらえた。でも、おじさんが優しく腰に抱き寄せるなんて余計なことをしてくれたおかげで、ドワッと泣き出してしまった。

「よしよし、泣け泣け。いつもだったら即ビンタだが、今だけは許してやるからな」

 おじさんのお腹に鼻水を付け、ヒグヒグしゃくりながら横目で見て、僕にも『そいつ』がなんだか分かった。

 そして、ばらばらだったパーツが1つに組み上がる。



 何も着ていない、脂染みた剛毛に覆われている裸の体。全身に対して不釣り合いに大きな足に、小さな手に黒ずんだ爪、そして鞭のような尻尾。

 耳は、あった。鯨型の平たい耳。そして何より異様なのが、毛皮に包まれない剥き出しな皮膚の顔面。

 猿だった。湾曲した凶暴な牙が、耳まで裂けた口からあらわになっている。

「こんなモンが、そこらに普通にいるわきゃねえ…外国から輸入されたんだろ。貯蔵庫の被害もこいつの仕業だろうな」

 そうでしょうね、とロレンソさんも追従した。

 名前も無い『そいつ』ー…大きな猿は、カッと瞼を開いて、生命いのちを断ち切られて夜空に昇っていく自分の魂をたぐりよせるように、しばらくもがきながら宙空を引っ掻いていた。



エピローグ


 今回の事件の張本人(?)の猿を仕留めた次の日、まだ他にも森に潜んだ仲間がいるのじゃないかと城中の人達が総出で山狩りをして、ある大樹の幹にできたウロにオス・メス双子の子猿を発見した。

 ボルヘスさんは「こんなことが再びあってはならん」と二匹を動物園に送ろうとしたけど、エウリディーチェが「私が飼いたい」と懇願したので、それぞれ『アステリオン』『カーラ』と名前をもらい、ピカピカの金の首輪をつけられた。

「この子たちのお母さんを殺してしまったんだもの」エウリディーチェは、クルクルあどけなくじゃれてくる子猿をあやしながら言った。「私が代わりに、お母さんになってあげたいの」

 その時、僕には彼女が聖母マリア様に見えた。

 車で帰る時、ジャンおじさんは思い出したように「お、そうだ」と呟き、いきなり僕の頭を殴った。

「何だよお!痛いなあ!」

「お前、もう金輪際一人で動くんじゃねぇぞ」

「えーだって~。僕が働いたから事件が解決したんでしょ?おじさんも『よくやった』って言ってたじゃん」

「そういうことを言ってるんじゃねぇ。勝手に一人になるな、俺の命令を聞けっつってんだ」

 ジャンおじさんは煙草を取り出してガリンと歯が鳴るくらい噛んだ。

「こういうことがあるとな、イグナシオと…てめぇの親父との約束に背くことになんだよ」

「僕の、パパ…?」

「おう」

「どんな約束したの?」

「そりゃあ」僕の鼻を中指でピシッとはじく。「ガキに教える義理はねえや」

いひゃいよ」

「傷は平気か」

 僕は左側の目の下に貼った絆創膏をなぜる。

「ん。おじさんの今の鼻ピンの方が痛い」

「………そうか」

 なんだかホッとしたような言い方だった。

 ホントに大人って分かんないなぁ…

 コツコツ、とサイドウィンドーにノックの音。振り向くと、車の外にピンクのワンピースのエウリディーチェが立っていた。僕はすぐにスイッチで窓を下げる。

「一旦お別れね、アルフレード」

「うん…残念だね…」

「あら、分かってないの?」

「え?」

 エウリディーチェは大きな瞳に蝶がとまったようなウィンクをする。

「あたし、来週からアルフレードの小学校に行くことになったから。よろしくね」

「あ………ああ!そうなんだ!」

 僕はエウリディーチェの両手を取った。二人してブランブランと喜びのダンス。

 と、僕らの繋いだ手を割って、石炭の塊みたいなボルヘスさんが立ちはだかった。

「エウリディーチェ、そこまでにしなさい」

 あれ、なんだか僕を睨んでるよーな…?なんでだろ?

「はぁーい」

 エウリディーチェはペロンと舌を出した。

 良かった、なんだかすごく元気になったみたい。

 そうだよ、エウリディーチェみたいな子が家の中に閉じ籠ってるなんておかしいもの。こうやって太陽の下にいると、もっときれいに見える。夜だってきれいだったけど、笑ってエクボがチョコンとへこむと可愛いらしさがさらに上がるんだ。

「ったく、すっかり色気づいちまったなぁ、おまえ」

「だ、誰が!」

 危ない危ない、ホントはボヤッとしてたんだ。

「アルフレード!」

「え?」

 窓からエウリディーチェの胸が乗り出してきた。サクランボみたいな唇が頬に触れるだけの、甘酸っぱいキス。

「月曜日に、学校で」

「はう、はう、えう」

 エウリディーチェは、ありがとう、小さな探偵さん。と僕の耳にささやいた。



 これが僕の最初の事件のあらましだよ。お城の名前から「騎士団城の亡霊事件」と題名したんだ。

 残った不思議もあるんだ。ロレンソさんのこと。銃を撃ったときに叫んだ言葉はスペイン語だったらしい(おじさんはロレンソさんの苗字からとっくに気付いてた)。事件の後エウリディーチェが小学校に通い始めてすぐに国に帰っちゃった。ボルヘスさんから会社で働かないかって誘われたけど「研究したいテーマができたから」って、固辞しちゃったんだって。学者さんらしいよね。

 エウリディーチェにしても、僕とジャンおじさんに言った「星の名前」の意味を「いつか教えてあげる」って秘密にしたまま。

 今回の報酬で、おじさんは20くらいあったありとあらゆるツケ(飲み屋さん、雑貨屋さん、肉屋さんにパン屋さん、僕の給食、トランプカード仲間、あと…とにかくたくさん)が帳消しになったってむせび泣いて大喜びしてた。余ったお金でパソコンを買って、なんか怪しいホームページとか僕に隠れて見るようになったのが、ちょっと困りものだよ。

 僕には新品の自転車を買ってくれた。まだ転ばないようにするのがせいぜいだけど、一生懸命練習してる。立ち漕ぎができるようになったら、エウリディーチェを後ろに乗せて遊びにいこうと思う。

 最後の最後。

 ビルの表の看板、『ジャンカルロ=デッラ=レグルス探偵事務所』の文字の下に目を凝らしてほしい。

 おじさんが看板を新しくしたんだよ。

 どう?しっかり書いてあるのが見える?



『ジャンカルロ=デッラ=レグルス探偵事務所

助手見習い・アルフレード=コッレオーニ』





おわり

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