エピローグ「世界の彩」

「おい、山村あ! 今度という今度は合格しろ! これで追試四回目なんだからな!」


 ツガケンの怒声が、がらんとした教室にギンギンと響き渡った。

 翌日の放課後、利陽土はまたも一人居残りをさせられていた。机の上には漢字の小テストの用紙が置かれている。

 相も変わらない、何事も無い、学校での日常がそこにあった。

 利陽土以外の生物部四人全員が、同じ時間に昏倒して病院に運ばれて行った事は、オカルトめいた怪奇事件として、確かに学園内を震撼させた。

 しかし、それだけのことだった。全ての生徒は、昨晩起こった公園での利陽土達の激闘のことを決して知ることは無いのだ。

 突如として学校から消えてしまった生徒達のことなど、誰もが忘れてしまい、やがては都市伝説の類にでも変容してしまうのだろう。

 利陽土の身体には昨晩の戦いのダメージが深く刻まれていた。「ニセ物の贋作マスラオ」を使った時のダメージで右手のしびれが取れず、漢字を書くのは大変な苦痛だった。

「よし、書けたか! じゃあ、採点するぞ」

 追試のことは覚えていたものの、昨日の一件で、やろうと思っていた漢字練習は殆どできないまま今日という日を迎えてしまった。自信はまるでなかったが、蓄積した勉強量がこれまでで最も多かったこともまた確かだった。

 利陽土は、固唾を飲んで採点が終わるのを待っていたのだが……

「おい! どういうことだ! 五回目も不合格だと? これ、見てみろ!」

 ツガケンが突き出して来た答案には「七十五点」と書かれてあった。

 合格点は八十点という規定だから、正解が一問足りなかったのだ。

「お前、頭の構造どうなってんだ! 三歩歩けば忘れるニワトリか? いや、二歩で忘れるヒヨコ……いや、ミジンコ並みだ! 針の頭ほどしか脳味噌入ってないんだろ!」

 毎回言われてることの繰り返しだが、つくづく酷い物言いだ。

 美里の協力も得て、これまでで最も勉強して臨んだ漢字テストは、結局は不合格に終わった。

 利陽土の目に映る世界が、にわかに色彩を失い、モノトーンに染まって行った。

 ここしばらく起こっていなかった、あの現象だ。

 今までの最高点を出したことで、それなりの達成感はあったものの、利陽土の心にはやはり失望が残った。それで、またこんな風に世界が見えているのだ。

 しかし、何気なくツガケンの姿をふり仰いだ時、利陽土は声を上げそうになった。

 全てがモノトーンの世界の中で、彼の姿だけが、微かな色彩を帯びている。

 それは、深く力があり、また春の暖かさを感じさせる緑色だった。

「てめえみたいな生徒は、史上最低だ! 道端に生えるペンペン草だ! 来週また追試するから、今度こそ合格しろよ!」

 ツガケンは、喜んでいた。

 それも、何もそこまでというほど、有頂天になっていた。

 そして、口ではそんな風にののしっておきながら、内心では利陽土の事を褒めたたえていた。


 この人は、こんなにも優しい色をまとっていたのか……


 それを垣間見て、思わず笑みがこぼれそうになった。

 しかし、頑なに自分の本音を見せまいとするツガケンに敬意を表して、利陽土もまた、悔しそうな顔を必死に保つことにした。


☆            ☆


 来週までの課題を受けとり、利陽土はようやく補習から解放された。

 誰もいない校舎の廊下を一人歩き、階段を一階分降りると、いつものように、さらに廊下を西側へ進んでいった。

 生物部の前で立ち止まると、利陽土は我にも無く深呼吸を一つした。

 昨日までであれば、既に他の部員達が集まっている時間帯だ。

 しかし、扉をガラリとスライドさせると、その向こうに開けたのは、誰一人いない教室の風景だった。

 水槽のフィルターがカラカラと奏でる音ばかりが、僅かに室内に響いている。

 赤松部長を始めとする部員たちは全て病院で意識不明の状態だから、ここにいないのは当たり前なのだ。

 そして、「瑞倉夏未」もまた、ここにはいない。

 利陽土は、この室内で行ってきた一年半の部活を、特に楽しいものと感じたことは無いつもりだった。他の部員にとって、常に自分は「友人」というよりは、使い勝手のいいパシリのような存在だったのだ。そして今にして思えば、そのような人間関係ですら「彼ら」にとっては、利陽土を陥れるための長期的策謀であり偽りだった。

 しかし、それでも尚、利陽土にとってこの部屋は、学校内で唯一の「居場所」だったのかもしれない。森閑とした室内にこうして向き合うと、心にそんな冷たい隙間風が吹くのを自覚してしまう。

 室内を横断し、熱帯魚水槽を覗き込み、いつも通り魚達の点検をしようとした。

「ブルーグラス」という品種のグッピーの尾ひれが、グレーに見える。

 一匹だけでは無い。

  「アメリカンレッドテール」も、「レッドモザイク」も……全てのグッピーが無彩色になっている。

 それでようやく気が付いた。どういう訳か、まだ世界の色彩が抜けて見えているらしい。こんなに長く続くのは、ちょっと記憶にない。


「追試……どうだった? 」


 背後から突然話しかけられ、利陽土は振り返った。


(夏未……ちゃん……?)


 刹那、何故だかそう感じた。

 しかし、目の前にいたのは、たおやかな微笑みを浮かべた美里だった。二人の見た目と声は同じだから、有り得ない事ではないのだが……

「昨日、あんなことがあったから勉強できなかったんじゃないかって心配だったんだけど……」

 全てがモノトーンで塗りつぶされた世界の中で、美里の姿だけは、優しく鮮やかな緋色を帯びていた。

 あの日、スカーレット・エッジと出会った時以来、利陽土が恋い焦がれて止まなかった、あの色だ。

「え、ええと……今までで、一番点が良かったよ。先生も喜んでくれた。不合格だったけどね……」

「そうだったんだ。良かったね」

「ありがとう……美里のおかげだよ」

「利陽土君が頑張ったからだよ……」

 そう言って、美里がはにかんで見せると、彼女がまとう紅いベールが一層強い光を放った。

「お魚の世話してたのね」

 美里は、水槽に歩み寄って利陽土の横に並ぶと、目を細めて魚達を覗き込んだ。

「うん、これからは一人でメンテしなくちゃいけないから大変だよ」

「ううん、違うわ。今日からは二人よ」

「え?」

「さっき、入部の申請してきたの。私、もう生物部だから、よろしくね」

 思いもかけぬ事態の進展。

「そう……なんだ……」

 一時的に思考が停止してしまい、利陽土はそれしか返す言葉を見つけられなかった。

「あ、そうだ。忘れてた……」

 美里は、そう言って、バッグのファスナーを開けると、中から紙袋を取り出した。

「一つ食べる? 昨日お母さんが買って来たのを持ってきたの」

「あ……うん、ありがとう」

 美里が渡してきたのは、上代町商店街の人気店で売っている、あの今川焼きだった。

 それを受け取ると、黙ってひとかじりした。

 咀嚼するごとに、こしあんの甘みが、口の中にじんわりと広がる。

 美味かった。涙が滲んで来るほど美味かった。

 あの日、夏未に渡されて食べた、たい焼きの味に似ている気がした。

 こういうことも、幸福と呼ぶのだろうか、などと埒も無く考えた。

 何故だか急に照れ臭くなり、美里から顔を逸らすと、水槽の中の魚達に異変が起きていることに気が付いた。

 ブルーグラスも、アメリカンレッドテールも……グッピーたちの尾ひれが、徐々に鮮やかな色彩を帯び始めている。

 利陽土は目を見張った。

 水槽の中だけでは無かった。

 利陽土の周囲に、様々な色をした小さな光球がぽつぽつと出現し、それぞれに空中をヒラヒラと泳ぎ始めた。光の中にいるのは、どれも昨晩現れた、利陽土の小さな「守護霊」達だ。魚達の中に混じって、太郎の姿も見つかった。

 幽体離脱をしているわけでも無いのに、今の利陽土の目には、無数の極彩色のグッピーの霊魂が、生物室を乱舞する様がはっきりと見えている。

 そしてまた、彼らと共にある、世界の全ての物体が、徐々に色彩を帯び始めていた。

 視覚が正常に戻ったわけでは無い。

 世界の本当の色彩が、利陽土にとっての「意味」が見え始めているのだ。

「うわあ! 何で急に? この子たち、何か喜んでるみたい!」

 当然だが、美里の心にも彼らが映って見えているのだろう。


(そうか……それでさっき……)


 そしてまた、利陽土は感じ取った。

 目を輝かせて「彼ら」を見守る美里と重なり合って、夏未が存在していることを。

 姿は見えない。当然声も聞こえない。

 しかし、きっと昨日の「あの時」以来、夏未は美里の「守護霊」となっていたのだ。

「私が、入部した事を歓迎してくれてるのかな……」

 無数の魚達の乱舞に包まれて、美里が、ほのかに頬をゆるませる。

 彼らは、利陽土と美里を祝福していた。きっと、それで、姿を現したのだ。


 悲しみも喜びも持たず、生の意味を何一つ知らない小さな守護霊達は、それでも利陽土が進む道を鮮やかに彩り、祝福していた。


 かつて、山村利陽土は、この世界の希望と絶望の狭間に産み落とされた。

 そして、今日という日まで、生と死の間に横たわる薄氷を軋ませながら、よろよろと歩んで来た。

 きっと、この長い道程は、これからもずっと続いて行くのだろう。


 だけれども、今日一日を生きる理由なんて、簡単に見つかるのだ。

 たかだが、漢字テストの点がいいだけで、いい大人が幸福になることだってある。

 今川焼きが美味い。

 ただそれだけのことだって、今日一日を生きられる理由になるだろう。

 だったら、明日も明後日も、し明後日も、それから先いつまでも生きていける理由だって、もっと簡単に見つかるのだ。


 夏未と共に、美里を守っていく。


 その為に、一人前の「真霊戦士」になるために努力する。

 明日も明後日も、し明後日も。

 ずっとずっと頑張って行く。


 それが、今の自分がするべきことなのだ。


 その想いと共に、利陽土は、また一口今川焼きをかじった。

 やはり、美味かった。

 美里の姿が涙で霞んで見えなくなるほどに、


 どうしようもなく美味かった。


                                完

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絶命剣士  SEEMA @fw190v18

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