「死の中の希望」

「丁度良かった……実は昨日部屋の片づけしたばっかりだから、一応きれいになってるの。遠慮なく入って」

 美里の家は、清原公園から徒歩十分ほどの場所にあるマンションの五階にあった。

 女子の部屋に通されるという、自分の人生には絶対に訪れないと信じていた非常事態に思いもかけず直面して、利陽土の頭は真っ白になってしまった。美里の自室の中をしげしげ観察する余裕などとても無く、用意してくれた座布団の上に、背を丸めて座るのが精いっぱいだった。

「これなの……ちょっと恥ずかしいんだけど……」

 美里が引き出しの奥から取り出して、利陽土の前におずおずと置いたのは、古ぼけた数冊のノートだった。花の写真が表紙に印刷してある、小学生用の学習ノートだ。言葉は足りなかったが、「見せたかった物」というのは、これの事なのだろう。

 利陽土は右手の指で表紙をつまみ、一枚めくってみた。マンガ風のイラストが、稚拙だが丁寧な筆致で描いてあった。二枚目、三枚目とめくったが、どのページにもイラストが描かれていた。フキダシと台詞が描いてあって、ストーリー仕立てになっている部分もあった。

「恥ずかしいんだけど……」

 見ると、美里は顔を紅潮させ、利陽土から顔を逸らしていた。

「小学生の頃に描きためたノート……一応、オリジナルのストーリーとかあるの。キャラもオリジナルで……」

 さらに、ページをめくっていくと、セーラー服を着て日本刀を持った少女のキャラクターが登場した。そのページ以降、恐らくは同じキャラが何度となく登場しているようだった。

「これ、スカーレット・エッジだね」

「うん……」

「この頃から、セーラー服なんだね」

「そうなの。後になって武器もコスチュームもバリエーションが増えて来たんだけど、基本はセーラー服と日本刀なの」

「でも、仮面はつけてないんだ」

「あ……あれはね……」

 急に美里は恥ずかしそうに口ごもった。

「あれは、自分の顔を見せるのが恥ずかしいから……後で付け足したの……」

「あ、そういうことだったんだ……」

「そうなの……まさか、自分がこのキャラになるとは思ってなかったし」

 一冊目のノートを最後まで見終わったので、二冊目を開いて行った。ウエディングドレスや民族衣装など、まるで着せ替え人形のように様々な衣装を着せられたスカーレット・エッジが描かれていて、その全てに「別バージョン名」が付けられていた。稚拙ながらも、だんだん絵が上手くなっているのが面白かった。また、「コア・スプリッター」など、色々な得意技の説明なども書き込んであった。「スカーレット・エッジ」の「設定」が完成したのはこの頃のことだったことが伺えた。

「それ、一番沢山描いたのが小5の夏頃かな。何か月か不登校になっちゃって、家でそんな物ばっかり描いてたの……」

「え……?」

 思わず、美里の方を見やった。

 遠くを見つめるような目をして、そんな重い事実を吐露した美里の表情に、意外にも陰は差していなかった。

「その頃、急に霊感が強くなっちゃって……友達に降りかかる悪い事ばっかり予知できるようになって……私はそれを教えて、みんなを助けようと思ったんだけど……気持ち悪がられちゃって……」

「…………」

「しばらくしたら、その予知は全部当たったから、もっとみんなから怖がられて……人間不信みたいになって……」

「そう……だったんだ……」

「きっと、子供の頃にあこがれた魔法少女みたいになれるかもなんて、思い上がった罰が当たったのね」

「その頃に、アグライアに初めて行ったの?」

「うん。そういうこと。お金も無いのに、お店に入って相談してもらったの」

「それで、店長の『あの言葉』をきっかけに立ち直ったんだね」

「うん……今でも私、その頃の後遺症で、同世代の人って少し苦手なの。特に男子が……だから、年上の人ばっかりいるあのお店にいると落ち着くんだ」

「そうか……」

 美里の言葉はやけに淡々としていて、それがかえって、利陽土の奥深くに、鈍いうずきを覚えさせた。これまでの彼女の言動や表情に潜んでいた、いくつもの「謎かけ」の答が、ほんの少しだけ見えて来た気がした。

「あ、でも利陽土君は違うよ。何だか、一緒にいても安心できるっていうか……初めて会った時からそんな感じがしてた」

「初めて会った時って? 学校の玄関で……?」

「あ、そうじゃなくて……その前に、校舎の中で会ったでしょ?」

「校舎……? あ、スカーレット・エッジと会った時の事? そう言えば……言ってたね、僕がいい匂いがするとか」

「え、匂い? そんなこと言ったっけ?」

「うん、不思議な言葉だったから覚えてるよ。『死の中の希望』とか何とか……」

「え? あ、やだやだやだ! そ、それ忘れて! 恥ずかしいから~!」

 美里は首を左右に振りながら、急に大声を張り上げた。顔がますます紅潮して、トマトのようになってしまった。

「え……な、なんで?」

「真霊化してる時って、細かい事は覚えて無いの。自分で言ってることも、良く判ってないし……だから、これからも、変な事時々言うかもしれないけど、意味は深く考えないでね。どうせ、それらしいこと適当に言ってるだけなんだから」

「う、うん。そう言うなら僕もすぐ忘れるよ。離脱中の事は、どうせ怖い事ばかりだし」

「ありがとう……」

 利陽土は、口ではそうは言ったが、内心では、美里が口にする言葉はどんな時の物であっても、全て心に刻んでおきたいと改めて思った。むしろ、スカーレット・エッジとなった時の言葉にこそ、彼女の本当の想いが秘められているのかもしれないのだ。

「あ、そうだ。もう一つ、利陽土君に見せたいものがあったんだ」

 美里は、照れ隠しのように、少し大きな声でそう言いながら、デスクの上に置いてあるCDラックに手を伸ばし、一つのDVDボックスを取り出した。

「これ、知ってる? 私の宝物なの」

 それは、利陽土の学年が小学生の頃に放送していた、「怪都戦線」というアニメ作品で、利陽土もタイトルだけは覚えていた。

「大好きだったから、去年お小遣いはたいて買ったんだけど……こんなの、ちょっと、オタクっぽいよね……」

「そ、そんなことないよ! 僕だって昔の特撮番組が今でも好きで、この前も全話ぶっ通しで見たんだ!」

「あ、利陽土君もそうなんだ。私、幾つになっても、好きな物は好きでいようと思ってるの」

 そう言いながら、美里が取り出して並べた各巻のジャケットには、日本刀を持ち、ブレザーの制服を着た女子高生のイラストが描かれていた

「これが元ネタ……ていうか、殆どそのまんまなの。私はセーラー服が好きだから、そこだけ変えただけで……」

「これ、少し見てみたいな。1話だけでいいから」

「え、ほんと? うれしい! できれば、利陽土君にも観て欲しかったんだ」

 美里がパソコンにDVDを入れると、間もなく自動再生が始まった。

 「怪都戦線」は、予想していたよりもずっと面白い作品で、結局、利陽土自身の希望で二話目も続けて見ることになった。気が付けば、三話目も終わり、四話目のオープニングが始まってしまった。

 美里と肩を並べて、いつまでもアニメを見ている内に、利陽土は奇妙な感覚に囚われていた。

 一体、自分は今何をしているのだろうかと。

 何故、こんな場所でこんなことをする羽目になったのだろう。その前に、自分は別の「何か」を必死にやろうとしていたはずなのだ。

 何故か、それが何なのか全く思い出せない。思い出さなくてはいけないような気もする。

 しかし、その場所で、そうやって座り続けていることが、無性に心地よかった。

 泣き出したくなるほどに。

 かつて、美里が夢中になり、今でも愛し続けている物語を共に見ていることが嬉しかった。そのアニメを通じて、悩みや苦しみを乗り越えた末に、憧れていた戦士になれた時の美里の喜びに触れられたのが嬉しかった。

 そして、かつて、「ブロスター」に変身できると本気で信じていた幼少の頃の自分と、美里は似ていたのかもしれないと思えることが嬉しかった。

 そして、ふと思った。

 こういうことが、ひょっとしたら「幸福」という物なのかもしれないと。


 その時までは、そう思っていた……


「あの、利陽土君……」

 しかし、DVD一巻目の最後の次回予告が終わろうとしていた時、美里の声が突然右耳に飛び込んで来た。

 顔を向けると、美里は神妙な表情で、利陽土の目を正面から見つめていた。

「あの……お願いだから、私の事信じて欲しいの……」

「え? 何? 突然どうしたの?」

「私、利陽土君の事助けたい……だから、当分戦ったりしないで欲しいの。いざという時には、私が替わりに戦うから任せて欲しいの」

「え? ミリ……何言ってんだよ? 僕は、もともと戦いたくなんて無いし……」

 利陽土は、戸惑いを糊塗するように苦笑いを浮かべて見せた。美里が言い出したことは、唐突かつ脈絡が無い内容で、その意図が全く判らなかった。しかし、その次に美里が言った言葉こそ、正しく想定外の物だった。

「ううん、そうじゃない。利陽土君戦おうとしてる。マスラオで……でも、きっと、利陽土君騙されてる……」

「騙されて……?」

「そう。お願いだから、どんなに身近な人の、どんなに優しい言葉にも気を許さないで欲しいの」

「何……何言ってんだよ。美里が何言ってんのか、全然わかんないよ!」

 利陽土は、珍しく声を荒立てた。

 とにかく、美里が言っていることを否定したい、彼女が何かの冗談を言っているのだと信じたいという強烈な願望が、利陽土の中にあった。しかし、冗談どころか、目の前の彼女の表情からは、むしろ悲痛さが滲んでいた。

「でも、私だけは信じて欲しい……私、きっとこういう時のために真霊戦士になったんだって、本気で思えるの。だから、瑞倉夏未さんには近づかないで、お願いだから……」

「え……?」

 完全な不意打ちを食らい、利陽土は絶句するしかなかった。まさか「その名前」が美里の口から出るとは思っていなかった。

「夏未……ちゃん……に……?」

「そう……」

「何で……?」

「ええと……それは……」

 美里は、重大な決意を秘めた目で、何かを言いかけた。

 しかし、利陽土はその発言を意図的に遮るように、さらに声を荒立てた。

「騙してるって……ひょっとして、夏未ちゃんが僕を騙してるとか……敵だとか……そういうことなのか? な、何でそんなこと言うんだよ!」

 利陽土の頭に、高潮のように血が逆流し、思考が麻痺してしまった。何を言えばいいのか、何を考えればいいのか、全く判らない。

 よりによって美里の口から、そんな言葉を、自分の全てを否定されるような言葉を聞きたくなかった。

「利陽土君、ちょっと……」

「な、夏未ちゃんは、今の僕の全てなんだ! あの子を守ることが、僕が戦う理由の全てなんだ! マスラオの持ち主になろうと思ったのも、夏未ちゃんの為なんだ! それなのに……ひょっとして、初めからそんなことを言うために、僕をここに呼んだのか? 幾らミリでも、そんな事だけは言って欲しくない! 言っちゃ駄目なんだああ!」

 ようやく、思い出した。自分が一体何をしようとしていたのか。

 夏未を探し出そうとして、町中を駆け回っていたのだ。きっと、彼女には何か重大な危険が迫っているのだ。

 こんな所で、アニメを見ている場合ではない。

 事態は一刻を争うのだ。


 …………


 …………


  …………



☆               ☆


 気が付けば、利陽土は町の中を駆けずり回っていた。

 陽が落ちて、すっかり暗くなった路地を縫って、また歩道を往く多くの通行人を避けながら、行く当ても無く町を走り抜けて行った。爆発しそうな心臓の鼓動をものともせず、走り続けた。

 やがて、利陽土の目には、周囲の景色も入らなくなっていた。しかし、強迫観念にも似た使命感が、貧弱な利陽土の身体を突き動かしていた。

 夏未を見つけなければならない。そして、助けなければならない。

 ふと気が付けば、一層濃い、墨を流したような闇に周囲が包まれていた。ようやく、利陽土は足を止めると、ゼイゼイと息を切らせながら、辺りを見回した。

 どうやら、再び清原記念公園に辿り着いているようだった。暗いのも道理だ。

「利陽土君!」

 やおらに自分の名を大声で呼ばれて、驚きつつ後ろを振り向くと、

「こんな時間に何してるの?」

「あ……」

 目の前に、カミ高の制服を着た夏未が、ヒマワリのような笑顔を浮かべて立っていた。

「ずっとここで待ってたんだよ。どこに行ってたの?」

「待ってた……?」

「そうだよ。だって、あたし今日は次郎の様子、見に行ってないもん」

「次郎……? そのために僕を?」

 その言葉が終わらぬうちに、夏未はスタスタと歩き出し、利陽土の横をすり抜けていった。あわてて利陽土はそれを追いかけ、彼女の横に並んだ。

「一緒に見に行こ」

「う……うん……」

 夏未が、ふいに利陽土の右手の甲を握ってきた。一つ、心臓が特大の鼓動を打った。

「ねえ、利陽土君?」

「え……?」

「約束してくれるかな?」

「な、何を?」

「あたしたち、ずっと一緒だよね?」

「う、うん……!」

「利陽土君、いつまでも、一緒にいてくれるよね?」

「も、もちろんだよ!」

「よかった! じゃあ、どんな時でもあたしを守ってくれる?」

「当り前だよ!」

「嬉しい! やっぱり、あたし利陽土君、大好き!」

「好き……? ほ、本当に……?」

「ほんとだよ!」

 これは、本当に現実なのだろうかという疑念が、利陽土の頭をかすめた。自分が求めて止まなかった夏未が、自分を待っていて、こうして自分の手を握ってくれている。真夜中の公園を、まるでデートをする恋人のように、自分の真横に並んで歩いている。

 こんな出来事は、絶対に自分に訪れるはずは無い。そう信じて疑っていなかった。しかし、自分の右手を包み込む体温は、生々しいほどリアルで、幻覚の類では断じてなかった。

 出来ることなら、カメ池までの道程を、永遠に歩き続けて行きたかった。

 ふと、前方の暗闇に目を凝らすと、曲がりくねった道沿いに植えてある樹木の向こう側に、カメ池が覗いている。勝手知ったる公園の風景だ。そのはずだった。

 しかし、その中にあって、普段とは全く異なる奇怪な物体が存在していた。

 輪郭がぼやけた、黒っぽい球体が遠方にある。まるで、けむり玉のようにモヤモヤとうごめいている。そんなものが、みるみる大きくなっていく……そう見えた。

 しかし、間もなくして、「その認識」が全く間違っていることを利陽土は知った。

「キャアアアアアアアアアアッ!!」

 同時に、隣を歩いていた夏未の金切り声も弾ける。

 それは、接近しているのだ。しかも徐々に膨張しながら。

 球体の表面から、黒っぽい無数の腕や足がイソギンチャクの触手のように生えている。それらが、一斉にワサワサとうごめいて、自らを転がして移動して来るのだ。

「ギャアアアアアアアッ△×■△×○▽○□!!!!」

 理性が働くよりも早く、絶叫しながら利陽土はUターンし、夏未の手を引いて逃げ出していた。さっき、「絶対に君を守る」と言ったばかりだったが、状況次第では、逃げることもまた「守る事」の中に含まれているはずだ。

 しかし、あの奇怪な物体は一体……そもそも、これは現実なのだろうか。

 そう思った矢先、公園の道の奥から、こちらに向かって歩いて来る人物の姿が目に入った。二人で並んで歩いている男女のカップルのようだ。しかし、近づいてみれば、見えているのは二人とも衣服だけで、身体は殆ど透明だった。


(………………!)


 ここに至って、利陽土は重大な事実にようやく気が付いた。

(ひょっとして……「離脱」してる……のか?)

 思い返してみれば、利陽土にはさっきまでいた美里の家から、玄関を通って外に出た記憶が無い。気が付いた時には、いきなり屋外で走っていて、今になって思えば、これまで目に入っていた人間達は、全員の身体が透明だったのだ。

 つまり、さっきからずっと、利陽土は肉体を美里の部屋に置き去りにしたまま、幽体離脱しているのだ。となれば、身体が普通に見えている夏未もまた幽体の状態だし、あの奇怪な物体も幽霊……いわば「幽霊まんじゅう」ということなのだ。

「グモモモモモ~ッ!」

 獣の咆哮とも、地鳴りともつかない叫び声が背後に迫ってきた。

 突然、右腕が後方へ引っ張られ、利陽土の身体は後ろにのけ反った。右手の甲を握っていた夏未の手の感触が、スポンと消え去った。

「キャアアアアアッ!」

「夏未ちゃん?」

 大きくバランスを崩し、転倒しそうになりながらも後を振り返ると、

「助けてええええ!」

 地面に腹ばいに倒れ込んだ夏未の身体が、凄い勢いで、地面を引きずられて「幽霊まんじゅう」に向かってたぐり寄せられて行く。

 「幽霊まんじゅう」から二本の腕がひときわ長く、ニョロニョロと蛇のように伸びて、夏未の両足首に掴みかかっているのだ。

「夏未ちゃああああん!」

 「幽霊まんじゅう」は、今度は凄い勢いで遠ざかりながら、同時に夏未を引き寄せていた。利陽土も必死に追いかけるが、夏未はあっという間に「幽霊まんじゅう」の中にズブズブと下半身から引きずり込まれて行ってしまう。

「この野郎おおお! 夏未ちゃんを放せええええ!」

 見る見るうちに、「幽霊まんじゅう」は遠ざかってしまう。

 夏未が死んでしまう……

 ようやく出会えた、たった一つの人生の希望が消えてしまう……

 そう思った時、利陽土の心に、とある激情が喚起した。

 これまでの利陽土が抱えていた「虚無」とは対極にある、それは「絶望」だった。

 恐らくは生れて初めて、利陽土は自分の無力さに心の底から「絶望」した。

 力が欲しい。

 多くは望まない。せめて、この瞬間だけでいいのだ。その為には、自分の命などどうなってもいいと……

 すると、次の瞬間、視界の風景がガラリと切り替わっていた。

 遥か眼下に、公園の風景が広がっている。

 無意識のうちに、利陽土は両足で地面を蹴り、ミサイルのように宙高く跳躍していたのだ。

 斜めに落下するにつれ、視界の中で、見る見るうちに「幽霊まんじゅう」の姿が大きくなって行く。

 利陽土は気がついた。きっとこの能力は、新装備でジャンプ力を強化した「フライ・ハイ・ブロスター」なのだと。幼き日の自分が、来る日も来る日も脳内に巡らせていたイメージが、こんな極限状態だから具現化したのだ。

 利陽土は両腕を頭上に大きく振りかぶった。両手で握っているのは、一振りの、禍々しくもまばゆい光を放つ日本刀。

 マスラオだった。

 正確に言えば、「マスラオの霊体」だ。初めての体験だったが、利陽土が強く願えば、いつでも「彼」を呼び寄せることが出来るのだ。

 夏未の姿は、完全に「幽霊まんじゅう」の中に飲み込まれてしまった。

 両手が握るマスラオの柄が、火傷しそうに熱を帯びていた。刀身も燃えるように赤熱している。

「夏未ちゃんを返せええええええええ!」

 渾身の力を込め、落下する自らの体重と共に、利陽土はマスラオを真っ直ぐに敵に向かって突き立てて行った。

「駄目えええっ! 利陽土君! やめてええええ!」

 マスラオの切っ先が、「幽霊まんじゅう」の表面に到達する直前、利陽土は美里の絶叫を耳にした。

 しかし次の瞬間、落雷が直撃したような轟音が周囲を揺るがせた。

 続いて、ガラスが割れるような、あるいは金属が砕けるような鋭角的な音が鼓膜をつんざいた。

 マスラオが粉塵のような銀色の光を放って、木っ端みじんに砕け散る。

 同時に利陽土は、敵が獣じみた奇声を発しながら、無数の腕や足を散り散りに宙にまきちらして消滅する様子も見た。

 猛烈な衝撃が不快感と共に骨の髄を駆け巡った。全身の血液が逆流しているようだった。マスラオを使ったことによる「呪詛返し」が襲って来たのだ。利陽土は地面に叩きつけられると、尚も体をよじらせてのたうち回った。悲鳴を上げることすら叶わなかった。

 視界が廻る。意識が遠のく。

 五感の全てが麻痺していく中で、今度こそ自分は死ぬのだという、静かな観念だけが、鮮明に浮かび上がった。

 ところが、それに反して、利陽土の時間感覚はいつまで経っても断絶しなかった。

 潮が引くように苦痛が治まって行くにつれて、固い地面が右頬に押し付けられていることを知覚した。鼻腔に土の匂いが入り込んで来る。どうやら、自分は腹ばいに倒れているらしい。

 しばらくして、徐々に身体に力も入るようになった。もぞもぞと四肢を動かし、頭の中で暴風雨のように渦巻いている頭痛と戦いつつ、起き上がろうとした。

「……ひと君!…………利陽土君!…………利陽土君!…………」

 聴覚が復活するにつれて、聞き覚えのある声が、徐々に大きく頭の中に入り込んで来た。

 この声は……

「ええと……美里?」

「利陽土君! 大丈夫? 私が判るの? 目は見える?」

「あ……ああ~……な……何とか……」

 地面に座り込んだまま、半身を起き上がらせると、未だぐらぐらと揺らめく視界の中心に、立膝をついてしゃがみ込んだ美里がいた。身体がまともに見えている……ということは、彼女も幽体の状態なのだろう。スカーレット・エッジでは無く、さっきまでと同じカミ高のブレザーを着た敷嶋美里の姿をしている。

「何とか、無事みたい……だ……ゴホゴホゴホッ!」

「馬鹿馬鹿馬鹿っ! 何で、マスラオを使ったのよ! だから、あんなに言ったのにい!」

 嗚咽を飲み込みながら、美里が叫んだ。真っ赤にはらした両目から、涙がとめども無くこぼれ落ちている。

「ええと……いや……待て……? そんなことより……」

 ようやく気持ちが落ち着いてきた利陽土は、一番重要な事に気が付き、周囲をぐるりと見回した。

 夏未は……一体……?

「あ……」

 はたして、二人から少し離れた場所に、夏未が悄然と立ち尽くしていた。

 全身に、泥とも血ともつかない赤茶色の汚れがこびりついている。

 普段は快活な彼女が、これまで見せたことも無い胡乱な表情の奥に、微かな哀しみの色が潜んでいた。

「夏未……ちゃん……?」

 その言葉に応えることもせず、夏未は背中を向けると、無言のまま歩き始めた。

「な、夏未ちゃん? ど、どこ行くんだよ!」

「利陽土君……ついて来て」

 夏未は、振り返ることもなく、暗い道の奥へ遠ざかってしまう。慌てて利陽土は地面に手をついて立ち上がると、ふらつきながらも早足で夏未を追いかけた。

「ええと……夏未ちゃん。だ、大丈夫だったの?」

 ようやく、夏未の真横に追いついた利陽土は、その横顔から表情を読み取ろうとした。しかし、彼女は前方を胡乱に見据えたままで、利陽土への返答も無かった。

 二人は公園の出口から外に出ると、公園の敷地を囲む大通りの歩道を尚も歩き続けた。

 幾つかの外灯の明かりの下を通過した後、一つの横断歩道の正面に辿りつくと、夏未は突然立ち止まった。

 信号は赤だった。

 他にも何名かの信号待ちの通行人が周囲に立っている。もちろん、身体が殆ど透明にしか見えない、生きた人間達だ。始め利陽土は、彼女が向かい側の歩道へ渡ろうとしているのだと思った。

 しかし、夏未は、立ち止まったまま向きを変えると、何かを逡巡しているような表情で、正面から利陽土と向かい合った。

 やがて、信号が青に変わり、通行人達が横断歩道を渡り始めても、二人は向かい合ったままだった。夏未の意図が全く理解できない利陽土は、射すくめられたように、その場で立ち尽くすしかなかった。

 しかし、やがて夏未は、

「利陽土君、それ見える?」

と、謎めいた言葉を投げかけた。

「え……? 『それ』って……?」

「見えない?」

 利陽土は周囲を見回したが、特に変わった物は見当たらない。

「夏未ちゃん……な、何言ってんだよ。それって何のこと……?」

「まだ、気がついて無いの?」

「気がつく……?」

「あたし、判ったよ。さっきのショックで、何もかも判っちゃたんだ……」

 夏未の両目が、涙で潤んでいる。

 しかし、利陽土にはそれが意味する所が分からなかった。夏未の言葉の全てが理解不能だった。

「痛っ!」

 突然、首筋の後方に、あの刺すような痛みが走った。たびたび経験してきたものだが、これまででも、最も強い痛みだった。

「それだよ……まだ、利陽土君は、呪いが全部解けてないんだね」

 無意識に右手で首筋をさすると、皮膚から突き出ている小さな「トゲ」のようなものが指先に触った。同時に、再度鋭い痛みが走る。その「トゲ」こそが、再三にわたる痛みの根源のようだった。

「呪い……? って、何の事……?」

 夏未は、眉を微かにひそめて、利陽土の足元から一メートルほど離れた地面を見つめていた。利陽土は、彼女の視線に誘導されて、顔をゆっくりとそちらへ向けていった。

 横断歩道の端にガードレールの末端の柱が立っている。その付け根に、沢山の物体が置いてある様子が、殆ど透明ではあったが、うっすらと認められた。

 利陽土は本能的に理解できた。それは、今現在そこに存在している物では無く、かつてそこに置いてあった「物体の霊魂」が「残留して」見えているものだと。

 置かれていたのは、無数の花束だった。

 そして、その中心には写真が入った銀色のフォトフレームが立ててあった。

 そこに写っている一人の少女の姿を確認した瞬間……

 思いもかけない衝撃が利陽土を襲った。

 顔を上げ、呆けた表情で、利陽土は夏未の顔を確認した。

「利陽土君にも、それ見えてる? 人の感情がこもってるから、まだ消えて無いのね」

 背後から、突然美里の声が投げかけられた。振り返ると、沈痛な面持ちの美里が立っていた。

 再度、利陽土はフォトフレームの中の少女と夏未の顔を確認した。そしてまた、夏未と美里の顔も見比べると、

「何故……?」

 生気が抜けきった声で、ようやくそう呟いた。

 二つの事実が、利陽土の世界の秩序を土台から揺り動かしていた。

 第一に、写真に写っている少女は、まごうことなく夏未と同じ顔をしていた。

 そしてもう一つ。

 敷嶋美里と瑞倉夏未の二人もまた「同じ顔」をしていた。

 黒縁眼鏡の有無と、髪型の違いを除けば、背丈も体型も、美里と夏未は寸分たがわず同じ外見をしていた。

 そして、今にして思えば、二人は話し方のリズムやイントネーションこそ違えど、声の質自体は、全く同じだったのだ。

 しかし、最大の謎は、そんな簡単な事に、何故今の今まで気づけなかったのかだが、

「何故……?」

 と、利陽土はかすれた声で、その言葉を繰り返すことしかできなかった。

 眩暈がする。

 両足が地面を踏んでいる感触まで薄らいでいく。

 美里が、まるで自身に言い聞かせるように、その疑問に対する決定的な解答を呟いた。

「『瑞倉』は、お母さんが離婚する前の私の苗字……瑞倉夏未は、この場所で交通事故に会って亡くなった、私の双子のお姉ちゃんよ……」

「双子……? 亡くなった……?」

 その利陽土の言葉に、夏未は虚ろな声色で応えた。

「そうだよ。あたし死んじゃってるんだ。きっとそうなんだ……その事に気が付かないまま、何かに操られてたんだよ……」

「て……ことは……?」

「そういうことだよ……」

「これまで見て来た夏未ちゃんは、幽霊だった……? 『幽体離脱した幽体』では無く、『正真正銘の幽霊』だった……?」

「うん、そうだよ……」

 こともなげに、自嘲気味な微笑みさえ浮かべて、夏未は答えた。利陽土は、それまで保ってきた自分の固定観念が、音を立てて崩壊していくのを感じた。

 いや、しかし……

 そんなはずは無い……

 利陽土は、記憶をさかのぼり、その解答を否定しようと試みた。そんな馬鹿げた「真相」を認める訳に行かないのだ。

「いや……そんなはずは無い! だって、夏未ちゃんは、確かにいて……僕と会話して……一緒に歩いて……たい焼きを並んで食べて……それから……それから……そうだ! 生物部のみんなだって、夏未ちゃんと普通に会話をしてたんだ。幽霊なわけ無いじゃないか!」

「ねえ、利陽土君」

「え? 何だよ、美里」

 美里が、利陽土の肩にそっと手を添えた。彼女の方へ向き直ると、美里は、利陽土の目を正面から見据え、僅かに声を震わせて言った。

「それじゃあ、生物部の部員以外の人が『お姉ちゃん』と会話した所、見たことある?」

「え……?」

 利陽土の口は、ぽかんと開いたまま固まってしまった。美里の言葉が何を意味しているのか、にわかには理解できなかったのだが、

「あ……!」

 しばらくして、とある信じがたい「解答」に行きついて、大きく目を見開いた。

「ま、まさか……?」

「そうよ。利陽土君以外の、生物部員全員が『暴霊』だったの。だから、みんな『幽霊が見える人』だった……サカキ君だけじゃないの」

「そんな……馬鹿な……い、いつから?」

「ずっと前から……私は、利陽土君の事を観察していたから、前から知ってた」

「ほ、本当に……?」

「うん、利陽土君が、『向こうの世界』に引き込まれてることも判って怖かった……ごめんね……いつ、どういう風に教えればいいのか判らなくて……さっき、私の部屋で言おうとしたのは、この事だったの……」

「じゃあ……それじゃあ……僕と夏未ちゃんが会話している時って……傍から見ていたら、僕が誰もいない場所に向かって独りで話しかけてる……そういう風に見えていたってこと? 僕が食べたと思ってたタイ焼きも、空気だったとか……そ、そんな馬鹿な?」


(君、幽霊は見たことある?)


 確か、「アグライア」でそう質問された時、利陽土は確信を持って「いいえ」と答えたのだ。

 しかし、それは誤りだった。

 とっくの昔に、利陽土は夏未という幽霊を見ていたのだ。

 いや、あるいは……それよりずっと前から、本人が気づいていないだけで、利陽土の目には幽霊が生きた人間であるかのように、日常的に見えていたのかもしれない……

「それじゃ、あたし……そろそろ行くね?」

 ぽつりとそう口にすると、美里は、横断歩道をフラフラと渡り始めた。

「あ! 夏未ちゃん!」

 利陽土は反射的に身を乗り出し、彼女を追って車道に踏み出していた。

 踏み出したつもりだった。

 しかし、いつの間にか、車道だったはずの場所が真っ黒い水が流れる川になっていた。

 利陽土の膝から下が、氷のように冷たい濁流に浸かっている。夏未もまた、下半身まで水に沈んでいる。

「利陽土君、あたしと一緒に行く?」

「え……?」

 利陽土に背中を向けたまま、夏未が消え入りそうな声で語りかけた。

「あたしは止めないよ」

「夏未ちゃん……」

「利陽土君がこれから生きていこうが、ここで死のうが……それは、利陽土君の気持ち次第だよ……」

 夏未の姿は、細かい光の粒子を放ちながら、次第に透明になっていく。

「な……夏未ちゃん! 僕も行くよ! 僕も一緒に連れて行ってくれよお!」

 利陽土は、消えゆく夏未の姿を求めて、前進していった。

 背後から、自分の名を必死に呼ぶ美里の声が、意識の隙間に入り込んで来る。

 しかし、利陽土は止まらなかった。両足で必死に濁流を蹴り上げ、水しぶきを上げながら、もたもたと前進していった。

 夏未の身体は、ついに一欠けらの光のもやとなって、風にかき消えてしまった。

 その残滓に利陽土の手が届こうとした時、水面の下で、いくつもの「手」が両脚に掴みかかってきた。

(……!)

 声を上げる暇も無く、利陽土の身体は水中に引きずりこまれた。利陽土に掴みかかっているのは、大小さまざまの、胴体からちぎり取ったような腕だった。そんなものがどんどん水中に出現してきては、利陽土の身体中に掴みかかってくる。これはきっと、さっき倒したはずの「幽霊まんじゅう」の残骸なのだ。

 膝の深さしか無かったはずの川が、いつの間にか底なしに深い沼のようになっていた。無数の手に引き込まれ、利陽土の身体は冷たい水の底に沈んでいった。

 真上を見上げると、黒い水面にチラチラと光が力なく揺らめいていた。それすらも次第に消え入るに従って、周囲が墨のような闇に包まれて行った。

 利陽土は、静かに目をつぶった。不思議と、心はひどく平静だった。

 死ぬときは、案外こんなものなのだろうという、穏やかな諦念が胸の内を満たしていく。

 どうせ、自分は道端に生えたペンペン草なのだ。

 元々、何の意味も無い、いつ終わってもいい人生だったのだ。

 ようやく、たった一つの、この世界で生きていたい理由を見つけたと思ったのに……


 それも結局幻だった……


 夏未は、所詮はこの世に存在しない者だったのだから……


 だから、自分も行くのだ。


 夏未のいる場所に……


(それ、本当のことなのかな?)


(え……? 何……? この声……夏未ちゃん……?)


(そうだよ……)


(まだ、何処かにいるの……?)


(うん……)


(な、何の事? 「本当のこと」って……?)


(死んでもいいっていうのは、本当に利陽土君の気持ちなのかなってこと……)


(も……! もちろんさ! 僕も君の所に行くんだ! いつまでも君の所にいるんだ!)


(そうなの……? じゃあ、君のこと本気でちょっと気に入ってたから、最後に教えてあげるね……)


(え……?)


(あたしからすれば、随分失礼な話だけどさ……利陽土君の心の中にずっといたのは、あたしなんかじゃ無いんじゃない?)


(何……何……?)


(トゲを引き抜けば判るよ。利陽土君本人じゃないと抜けないトゲだよ……)


(トゲ……?)


(その人は、すぐ目の前にいるよ……その目を開いてごらん……)


(夏未ちゃん……)


(あたしに言えるのはここまで……さよなら、利陽土君……)


(な……! 夏未ちゃん! 行かないでくれ! 消えないでくれ! 僕を置いて行かないでくれよお!)


(ありがとう……優しくしてくれて……)


 利陽土は消えゆく夏未の存在を求めて、うっすらと両目を開いた。

 しかし、視界の中心にあったのは、必死の形相で自分の名を呼びかけている美里の姿だった。


「利陽土君! 利陽土君! 利陽土君! 聞こえる? 聞こえたら返事して!」


「ミ……! ミリ!」

 美里は利陽土に絡みついている亡霊の腕を掴んで、引きはがそうとしていた。しかし、美里自身にも無数の腕が掴みかかり、利陽土と共に昏い水の底に沈めようとしている。

 行き着く先は、光も音も一切届かない、完全なる「死の世界」なのだ。

「駄目よ! あっちの世界に行っちゃ! しっかりしてえ!」

「な、何やってんだよ、ミリ! な、何でついてきたんだよ!」

「利陽土君こそ、しっかりして! 戻ってきて! このままじゃ利陽土君死んじゃうよお!」

「ぼ、僕の事なんか、もうどうでもいいんだ! いつ死んでもいいんだから、放っておいてくれよ! でも、ミリは来ちゃ駄目だ! 死んじゃ駄目なんだあああ!」

「何言ってんのよ! 利陽土君が死んでもいいはずないよ! 魚達の命をずっと守ってあげて……太郎君の事をずっと忘れないでいる……あなたみたいな優しい人が、死んでもいい理由なんて……有るはずないよお!」

「ミ……ミリ……」

「だから……利陽土君がいくら自分は死んでもいいなんて思っていたって……!……私は死んで欲しくないの!」

 利陽土の首筋に、再度激烈な痛みが走った。

 今度は、一瞬で終わることなく、それは耐え難いほどに増幅して行った。


(トゲって……これの……事……?)


 利陽土は知らず、首筋に右手をやり、指先で小さな「トゲ」をつまんでいた。

 そこを中心に、神経をずたずたに斬り裂くような激痛が、全身を突き抜ける。

 しかし、それにひるむわけには行かない。

 このままでは、美里が死んでしまう……彼女を助けるためには、これを抜くしかない……良く判らないが、きっとそうに違いないのだ。

 その一心で、指先に渾身の力を込め、棘を一気に引き抜いた。

 直後、頭の中に立ち込めていた朝もやが太陽にかき消されるように、利陽土が認識する世界の風景が一新した。


(そ!……そうだったんだ!)


 それは、あまりに単純明快な解答。

 自分を最も欺いていたのは、他でも無い自分自身だったのだ。

 本当は、あの日「スカーレット・エッジ」を初めて見た時から、利陽土の心の中にあったのは、美里の存在だけだった。

 マスラオの持ち主になったのも、美里を守ろうとする一心からだった。

 その想いを、容姿が同じ夏未に対する物であるかのように、利陽土は「敵」によって錯覚させられていた。指先が引き抜いた、光る小さなトゲは、すぐにハラハラと崩壊して消えてしまった。きっと、それは「リバーシブルAYA」に襲われた時に打ち込まれた呪いのトゲなのだ。


(そう……だったんだ……ミリ……)


(僕が、明日もまた生きていたいと思った理由は、君だった……)


(例え、今日も空っぽのまま一日が終わっても、夜が明ければ、また朝が来ることを教えてくれたのは君だ……)


(こんな僕のために、涙を流してくれた君だ……)


(こんな僕のために、自分の身を投げ出してくれる君だ……)


(やっぱり……ペンペン草のような僕なんて、死んだって構わない人間なんだ……それは悲しいけれど、確かな事なんだ……)


(でも……少なくとも……)


(僕が、死ぬのは今じゃない……断じて今じゃないんだ!)


 その時、美里の肩越し、漆黒の水の奥に、ぽつりと小さな光点が出現した。

 それは、見る見るうちに利陽土達に向かって接近し、大きくなって来た。


(あれ……は……?)


 目を凝らして見てみると、実際には、それは単独の発光体では無かった。

 様々な色の光を放つ無数の小さな玉が、群れをなし、帯状になって、グルグルと渦を巻きながら接近しているのだ。

 渦の先頭で、リーダーのように光の群れを率いているのは、テニスボールほどの、一際大きい白い光球だった。

 その光の中心には、手足を不器用にばたつかせて、利陽土達に向かって懸命に泳いで来る、一匹の小さなカメの姿があった。

 そして、その後に続く、無数の小さな光球の中にいるのは、全て小魚だった。

 尾ひれが大きい極彩色のオスも、地味なメスも、米粒のように小さい稚魚たちまでいる。

 大小様々な、おびただしい数の魚達の群れは、やがて利陽土と美里を包み込み、渦を巻いて尚も泳ぎ続けた。

 突然、エレベーターが急上昇するような加速を全身が覚え、頭がぐらついた。美里もろとも、利陽土の身体は水面に向かって上昇しているようだった。

 カメと魚の群れは、つむじ風のように周りを泳ぎながら、尚も二人を引き揚げていった。

 水面が近づくにつれて、利陽土と美里に掴みかかっている死霊の腕たちは、泥人形のように崩れ、ことごとく暗い水に溶解して行った。「死の世界」から、「死と生の狭間の世界」へと二人は近づいているのだ。

 やがて、水面に揺らめく光が眼前まで近づいた時、突然、利陽土の両脚が、ずしりと体重の負荷を感じた。一瞬、立ちくらみを起こし、前のめりに倒れそうになったが、両脚を踏ん張り、それを危うくこらえた。周囲を見渡すと、いつの間にか、利陽土と美里は公園のカメ池に並んで立っていて、膝から下が水に浸かっていた。

 ひょっとすると、カメ池にはあの世へと通じる門があったのかもしれない。

 美里の華奢な両手が、利陽土の右手を包み込んでいた。利陽土が美里の表情を伺うと、同時に美里も利陽土の顔を見上げ、二人は至近距離で顔を見合わせた。

  慌てて利陽土は顔を背け、動揺を糊塗するように、

「か……帰ってこれたのかな? 僕たち……」

 と言った。

 美里は嗚咽を飲み込みながら、消え入りそうな声で答えた。

「そうよ……利陽土君……助かったのよ。良かった……ほ、本当に……」

 ともあれ、美里は何とか無事だったようだ。

「助けてくれて本当にありがとう、美里……それからごめん……君まで危険に巻き込んじゃって……」

 利陽土は胸をほっと撫で下ろしたが、気が付けば、全身に倦怠感が蔓延している。足元がガクガクとふらつく。生命力が相当に消耗しているようだった。美里もきっと同じなのだろう。

 突然、利陽土の全身が名状しがたい「敵意」を覚えた。

 同時に美里が利陽土の右手を放し、後方を振り返る。


「それはどうかな。お前たちが死ぬのが少し遅くなっただけのことだ」


 真っ黒な紋付き袴に身を包み、キツネの面で顔を隠した男性の姿が二人の真正面に立っていた。

 忘れもしない。それは、間違いなく「B.M.」の声だった。

 同じような出で立ちの四人の手下たちが、それを守るように手前に立っている。

「その少年のお蔭で、あの厄介なマスラオが消滅してくれたからな。今日こそお前に消えてもらう日だ」

「え……?」

 利陽土は、敵が美里に放ったその言葉で、自分が策略にはまり、途方も無く大きなミスを犯してしまったことをようやく悟った。未熟な自分が夏未を守ろうとしてマスラオを使ったために、貴重な切り札を失ってしまったのだ。

 五人の敵の姿が、にわかにまばゆい光を放ち始めた。

 光球は直ぐに一つの大きな固まりに繋がり、その中で、五人のシルエットが、長細い大蛇のような姿に変形して行った。さらに、そのシルエットが一つに融合していくにつれ、鈍い光を放つ一匹の奇怪な獣の姿が浮かび上がった。

「あれは……?」

 顕現したのは、一本の太い胴体から五本の長い首が分かれて生えた、全長数十メートルはあろうかという巨大な蛇だった。それぞれの首の先には、白い毛で覆われた巨大なキツネの頭部が付いている。

 利陽土は、身体が恐怖でわなないているのを自覚した。

 それは、かつては持って無かった、生きることへの執着の証でもあった。

「五岐大狐(イツマタのオオコ)……前に、一度見たことがある……あれは、勝負をかける時の奴の姿よ」

 美里の口調の変化に気が付き、隣に目を向けると、彼女の姿は既に、仮面をかぶり、セーラー服に身を包んだ「スカーレット・エッジ」になっていた。

 「オオコ」の首の一つがカッと目を見開き、猛スピードで二人に突進して来た。

 大きく口を開いたキツネの頭部が、カメ池の水面に突っ込み、大量の水しぶきが吹き上がる。

 しかしその寸前、ミリは利陽土の手首をつかみ、利陽土もろとも宙に舞い上がっていた。オオコの長い首は即座に移動の向きを変え、垂直に上昇して二人を追尾する。

 ミリの右手が白く輝き、「血まみれプリンセス・メリー」が出現した。

 猛獣のような咆哮を上げながら、オオコの牙が真下から二人に迫る。ミリは、敵の口腔めがけて、プリンセス・メリーを真正面から突き降ろした。

 オオコの頭部に、細く輝く亀裂が一直線に走る。

 直後、血液のような赤い粒子を大量に噴出し、オオコの首が左右真っ二つに、首の根元まで分断された。ミリの得意技、「コア・スプリッター」だ。

 ミリは利陽土と同時に再びカメ池に着水した。オオコの悲鳴のような雄叫びが周囲に響き渡る。

 しかし、敵に致命傷を与えたと思って見上げると、信じられない光景がそこにあった。二つに分断された首は、見る見るうちにそれぞれ修復し、攻撃前と全く同じ二本の首になっていた。

「効かない? 何て奴だ!」

「まずい……今の私たちの体力では……」

 仮面の下で、ミリの表情が曇っていることを利陽土は感じ取った。明らかに、今の状況は自分達に分が悪いのだ。

 「五岐大狐」の首は合計「六本」になってしまった。そのうちの一本が、再び大きな弧を描いて左側面から二人に襲い掛かった。

 何を思ったか、ミリはプリンセス・メリーを大きく振りかぶると、足元の水面に叩きつけた。その場所を中心に、轟音と共に凄まじい水しぶきが再度上がる。

  同時に、ミリに手首を握られた利陽土の右腕が突然上方に引っ張られ、すっぽ抜けそうな衝撃を受けた。

 強烈な加速で頭がぐらつく。

 噴水……テニスコート……日本庭園……

 気が付けば、公園の全景が眼下に広がっていた。

 利陽土は、美里に手を引かれて、斜め後方、高度何十メートルもの大跳躍を再度行っていた。

 握られた手首を通じて、ミリの意図が利陽土にも伝わってくる。大量の水しぶきが作る霧に紛れて、二人は敵から逃走したのだ。

 跳躍の頂点を通過すると、斜め下に向かって二人は降下していった。生い茂る雑木林の葉の中を猛スピードで突っ切り、派手に土を巻き上げて公園の通路に着地した。

 その勢いのまま、二人はさらに全力で走り続ける。

「ミ……ミリ! どこに逃げるんだよ!」

「私の家に帰りましょう! 肉体に戻るの!」

 至極明快な答だった。離脱した幽体である二人にとって、最も安全な防御策は、最強の「鎧」である「肉体」の中に逃げ込むことなのだ。もちろん、それではこちら側も敵に手出しが出来なくなるのだが、勝ち目が薄い今の状況では、逃げるのが最善の策なのは明らかだ。

 突然、後方から、強烈なプレッシャーを感じ取った。

 振り向くと、オオコの首の一つが高速で伸びてきて、利陽土達を猛追していた。

「危ない!」

 ミリが、利陽土を押しのけてオオコに向かって行った。利陽土はバランスを崩し、地面に手をついて倒れた。

「ミ、ミリッ!」

 オオコの巨大な鎌首が、正にミリの頭部に噛みつこうとした瞬間、ミリは軽く跳躍すると、空中で振り向きざま、バックハンドブローのように、右腕をオオコの口の中心に突き出した。

 ミリの拳を中心に、閃光と爆音が弾ける。

 直後、大量の肉片と骨片が周囲に散乱した。

 閃光が止んでみると、オオコの頭部は、木っ端みじんに粉砕されていた。

 少し遅れて、力を失ったオオコの長い首が、ボロボロと崩壊して、地面に残骸を落としていった。

「ミリ……今のは……一体?」

「利陽土君立って! 走るわよ!」

 利陽土は、よろめきながら立ち上がると、再びミリと共に走り始めた。

 足がもたつき、心臓が爆発しそうだった。やはり、未熟な利陽土は、幽体になっても体力が貧弱な自分のイメージに支配されているのだ。

 ふと横を向くと、ミリはプリンセス・メリーに変わって、右手で一本の短刀を握っていた。

 利陽土は、一目見ただけで、すぐにその正体を看破した。

 紅く光るもやを禍々しく漂わせるひと振りの日本刀……それはまごうことなく、ミリの切り札「タオヤメ」だった。

「ミ、ミリ! まさか、さっきはそれを使ったのか!」

「そうよ!」

「だ、駄目だよ! 今の状態でそれを使ったら!」

 マスラオを使った時に、「呪詛返し」の恐ろしさを直に体験した利陽土は、タオヤメの危険性を良く判っていた。まして、今のミリの体力では……

「こんな形で初めて使うとは思わなかったけど……今は仕方ないわ!」

 ようやく、前方に公園の入り口が見えて来た。そこを出ても、二人の肉体が存在するミリのマンションまではかなりの距離がある。

「そうか……こんな時に、僕が肉体の方も同時に動かせる技を習得していれば……」

「そうね。もっと早く戻れるけど……ああっ!」

 入り口を通過しようとした瞬間、ガツンと何かに激突したような衝撃が正面から襲って来た。もんどりうって、利陽土とミリは地面に転倒した。

「痛……な、何だ、今の……」

 ミリが立ちあがって前方に手を伸ばし、パントマイムのように見えない壁に沿って手の平を滑らせた。

「壁がある……」

「ええっ?」

「やられた……結界を張られたんだわ……」

 利陽土も立ち上がって、「結界」の境界面を触ってみた。目には見えないが、グニャっとした弾力のある、壁のようなものがあった。敵は、周到に公園内に利陽土達を閉じ込めていたのだ。

「これ、破れないのかな?」

「その暇は有りそうにないわ!」

 そう叫びながら、ミリが後方を振り返った。オオコの首が同時に二本、左右から猛スピードで接近してきていた。

 ミリはタオヤメを両手持ちで構えたまま、一方の首に向かって、右側へダッシュした。

「ミリ! 駄目だ! それを使っちゃ!」

 利陽土は絶叫したが、それにも構わず、ミリは大きくタオヤメを振りかぶると、肉薄して来るオオコの頭部めがけて、斬撃を打ち下ろした。

 真っ赤な閃光と共に、巨大な狐の頭部は、肉片をまきちらし、一撃で粉砕された。

 しかし、攻撃したミリの身体も大きくぐらついた。そっくり同じ威力の呪詛返しをもろに受けたのだ。

 休む間も与えず、もう一つの頭部が、ミリの背後から迫る。

 振り向きざま、更なる一撃を加えようとしたが、呪詛返しのダメージで、ミリの動きが一瞬遅れた。

「ミリイイッ!」」

 鋭い牙がずらりと並ぶ口が、ミリの胴体に深々と噛みついた。そのままミリは、宙高く持ち上げられると、上下左右に振り回された。

 何本もの鋭い牙が、ミリの身体に深く食い込んでくる。

 仮面の下の表情が苦悶に歪んでいる。


 利陽土の頭の中は真っ白になった。


(ミリが危ない……)


 どんな方法でもいい……美里を助けなければいけない。

 その一心で、力を欲した。せめて一分間……いや、一秒間だけ発揮できる力でもいいのだ。

 すると、いつの間にか、利陽土の右手の中に、またしてもマスラオが収まっていた。刀身は根元の方で折れているが、柄はまだ残っている。

 利陽土は目を見張った。こんな物でも武器として使えるのだろうか。しかし、どのみち、今はこれを使う以外に戦う手段は無いのだ。

 迷うより先に、ミリを咥えたままのオオコの首めがけ、利陽土は跳躍していた。

 動き回る敵の頭部めがけて、利陽土の身体は空中で正確に誘導されて行った。

 夏未を助けた時に生まれた、「強い自分」のイメージが再び喚起されたのだ。

「ああっ! 利陽土君! 駄目よ、それを使っちゃ!」

 ミリが絶叫するのにも構わず、オオコの後頭部めがけ、利陽土はおおきく振りかぶったマスラオを、渾身の力を込めて叩きつけた。

 折れた短い刀身が突き立てられた場所から閃光がほとばしり、今度こそマスラオは全てが粉みじんに破砕してしまった。再度、利陽土を猛烈な呪詛返しの衝撃が襲う。

 前後不覚に陥り、利陽土の身体は木の葉のように落下し、地面に叩きつけられた。

「利陽土君―っ!」

 敵の苦悶に喘ぐ咆哮とミリの叫び声が、二重奏となって轟いた。

 オオコの首は、後頭部の傷口を中心に、ボロボロと崩壊していった。

 解放されたミリは、よろめきながらも地面に着地した。

 これで、残る敵の首は三本。

 しかし、地面で苦痛にのたうち回っている利陽土に、戦う力は残っていない。そして、ミリの消耗も激しい。

 それに追い打ちをかけるように、四つ目の首が正面から突撃して来た。

 ミリは右腕一本でタオヤメを振りかぶった。もはや左腕が効かないらしい。

 しかし、ミリはそれでもよろめきながら、全身を使い、倒れ込むように、刀身を振り下ろしていった。

 正面からタオヤメの直撃を食らったオオコの頭部は、またしても血肉をまき散らして粉砕した。

 しかし同時に、立て続けに使用されたタオヤメは、耳をつんざくような鋭角的な音と共に、ついに根元から刀身が折れてしまった。

 呪詛返しを再度受けたミリの顔が苦悶に歪む。

 休む間も与えず、背後から、五つ目の首が肉薄して来た。

 ミリの身体は成す術も無く、鋭い牙に捉えられてしまう。

「ミリイイイッ!」

 利陽土は絶叫するが、もはや立ち上がることも叶わなかった。

 タオヤメの刀身は既に折れている。もはや、ミリに戦う手段は残っていない。

 強靭なオオコの顎が、ミリの骨を砕く音が聞こえて来るようだった。

 しかし、ミリの右手は、尚も刀身が折れたタオヤメを握ったまま放していなかった。

 何を思ったか、ミリはタオヤメの柄をクルリと「逆手」に持ち替えてから、大きく振り上げた。

 すると、柄の尾部から、十センチ程の短い刀身が、カシャンと金属音を立てて、勢いよく飛び出した。

 タオヤメは、長短二本の刀身を持った、「仕込み刀」だったのだ。

 余力を振り絞り、ミリはタオヤメをオオコの右目に叩きこむ。

 激痛にたまらず、オオコはミリの身体を解放した。眼球にタオヤメが突き刺さったまま、オオコの首はのたうち回り、やがて残骸をまき散らしながら崩壊していった。

 しかし、余力を使い果たしたミリの身体もまた、ボロ雑巾のように地面に落下してしまった。

「ミ……ミリ……」

 利陽土の声にミリは答えなかった。両手を地面につき、立ち上がろうとするも、敵の攻撃と呪詛返しのダメージで、もはやこれ以上は戦える状態で無いのは明らかだった。

 公園に覆いかぶさる闇の奥から、キツネの面をつけた「B.M.」の姿が現れた。最後に一本残った首こそが、オオコの本体であり、奴そのものだったのだろう。部下たちを非情にも捨て石にすることで、利陽土とミリを消耗させたのだ。

 仮面の下の表情は見えないが、その悠然たる歩調は、二人の姿をあざ笑っているようだった。

 「B.M.」は地面にひれ伏しているミリの直前で立ち止まると、おもむろに、右手で持ったある「物体」をミリに向かって突き出した。

 それは、一体の「日本人形」だった。

 多摩城跡で利陽土を攻撃した時に使用した「呪物」だ。利陽土は、それが生み出す凄まじい威力を生々しく記憶していた。

 あれが使われれば、今のミリではひとたまりも無い……

 弱々しく、ミリは振り向き、利陽土と視線を合わせた。

「ミリ……」

「利陽土君……ごめん……ね……」

「ミリイイイイイ!」

 利陽土は、余力を振り絞って手足を動かし、ミリの場所へ這って行こうとした。

 しかし、今の利陽土の状態では、ろくに前進することもできない。

 敵が眼前に立ちはだかり、止めを刺そうとしているのに、ミリは利陽土から目を離さなかった。

 死を覚悟したような静かな視線が、利陽土の胸を締め付ける。


 折角、自分が自分がとして生きていく意義を見つけ出せたと思った矢先……


 こんな形で全てを失い、全てを終えてしまうことになるとは……


 余りに無常過ぎる……


 利陽土の目に、人生最後かもしれない、無念の涙が滲んできた。

 ところが、奇妙な事に、敵は美里に一向に止めを刺しに行こうとしなかった。

 不審に思い、利陽土は顔を上げて、「B.M.」の姿を見た。

 敵の視線は、足元のミリでは無く、何故か真正面へと向かっている。

 まるで恐怖におののいているように、全身がワナワナと震えていた。

 目には見えないものの、全身から発する「気」から、仮面の下の表情が蒼白になっていることを利陽土は感じ取った。

(一体……)

 利陽土は、その視線の先にある物を確認しようとしたが、

「何故だああ!」

 一言そう叫ぶと、「B.M.」は踵を返し、全力で逃走して行った。

 しかし、公園の出口に差し掛かった時、身体が見えない壁につき当たり、小さくめり込んだ直後に大きく弾き返されてしまった。


「ハハハハハ! 『策士策に溺れる』とは、正にこの事なのさ! 自分で作った結界で退路を断たれてしまうとはね!」


 思いもかけぬ場面で、突然、懐かしさすら覚える「あの声」が聞こえて来た。

 声の方向に顔を向けると、暗闇の奥から、ショッキングピンクのタキシードに身を包んだ「彼」が、軽やかにステップを踏むような足取りで近づいて来た。

「ム……! ムラクモさん!」

 利陽土は目を疑った。どうして結界の中に入って来られたのだろうか。

 しかし、何度見ても、間違いなくその人物は、あの稀代の変人、ムラクモ恭介だった。

 右手で、鞘に納まったままの一本の日本刀を握り、敵に向けて前方に突き出している。

 退路を阻まれた「B.M.」は、慌てふためき、今度は結界の壁に沿って全速で逃走を始めた。

 その様子から見るに、ムラクモと戦うという選択肢は一切無いようだった。

 そして、実に呆気なく、戦いの結末は訪れた。

 ムラクモが伸ばした右手から、やおらに日本刀が弾かれるように放たれると、ドリルのように回転しながら飛んで行った。

 走り去ろうとする「B.M.」の背中に、鈍い音を立てて、刀身が深々と突き刺さる。

 同時に、鼓膜をつんざく轟音と共に、純白の閃光が視界を覆い尽くした。

 地面を通し、鋭い振動が身体の芯までビリビリと響いて来た。

 タオヤメの攻撃すらしのぐ、凄まじい威力だ。

 間もなくして爆発が収まり、利陽土が怖々と目を開くと、何事も無かったかのように、公園の入り口広場の上に日本刀が転がり、その傍らには「B.M.」の胸部より上の身体が無造作に横たわっていた。それより下の部分は、あの爆発で完全に粉砕されてしまったに違いない。

 一方、敵を倒した側のムラクモも、苦しそうに地面に片膝をついていた。あれだけの威力の攻撃だから、呪詛返しもまた激烈だったのだろう。

「や、やあ……アミーゴ……それからミリも……大分やられたみたいだけど、何とか無事そうだね。自分で立てるかい?」

 ようやくムラクモは顔を上げたが、その表情には、流石にいつもの軽妙さが見えなかった。

 何とか自力で上半身を起こしながら、ミリが苦しそうに口を開いた。

「ムラクモ……さんこそ……だ……大丈夫なんですか?」

 フラフラと二人に近づいて来るムラクモの足取りはおぼつかなかった。口元からは小さく血を吐いている。

「まあ、何とか……ね。軽く使っただけなのに、これだけの呪詛返しとは、流石に強烈だね……どうだい、立てるかい?」

 利陽土はムラクモに手を引かれて、やっとのことで立ち上がったが、ピリピリと全身にしびれが残っているようだった。

「ええと……それにしても、あの凄い武器はなんだったんですか?」

「ああ、あれが『本物の』マスラオさ」

「え……? 本物の……? え? え?」

 ムラクモは、余りにも衝撃的な単語を、事もなげに言い放った。

「そうさ、君が使って壊してしまったのは、マスラオの偽物……つまり『贋作村正の贋作』だったのさ……」

「ええっ! ……ええと……つまり……い、いつから偽物だったんですか?」

「ずっと前からさ。本物の方は別の場所に厳重に保管されていたのさ」

 利陽土の頭の中は、再び真っ白になってしまった。乏しい思考力を何とか回転させようとしたが、さっぱり事態が把握できない。

「ハハハ、納得行ってないみたいだね、アミーゴ。全ては、マスラオの威力を恐れてまともに戦おうとしない敵を捉えるための罠だったのさ」

「はあ……」

「マスラオが失われたように見せかければ、敵は一気に勝負をかけて来るだろうと狙ったのさ。君に授けた偽物の方も、それなりの威力はあるんだけどね。過度の呪詛返しを受けると、ブレーカーが落ちるように壊れてしまう『パチ物』なのさ。だから、アミーゴが使っても命に別条はないことは判っていたのさ」

「ひ……酷いや……だから『ためらい無く使え』なんて言ったんですね……」

 ミリも、何とか自力で立ち上がっていた。

「そうですよ……もう少し早く援軍に来てくれれば良かったのに……」

「ハハ……悪かったけど『敵を欺くには味方から』ということさ。それにしても、君らの戦いはずっと見ていたけど、見事だったね。二人が頑張ってあそこまで敵を追い込んだから、僕だって最後の止めを刺せたのさ。本物のマスラオを使うのは僕だって相当の覚悟が必要だったさ」

 地面に残された「B.M.」の上半身は、徐々に半透明になっているようだった。しばらくすれば消滅してしまうのだろう。

 知らず、利陽土の足はフラフラとそちらに向かっていた。消滅してしまう前に、キツネの面が外れた「B.M.」の素顔を確認したいと思ったのだ。

 しかし、一歩一歩、霊体の残骸に近づくにつれ、ある「違和感」がムクムクと浮き彫りになっていった。

(……え……?)

 そして、その疑惑は、彼の顔立ちをはっきり確認できる距離にまで近づいた時、ついに確信へと変わった。

 信じがたい事実に射抜かれて、利陽土は、はたとそこで立ち止まってしまった。

「え……? ああっ! て、店長! マリーベル店長! なんで、マリーベル店長が!」

 自分が見ている物が、全く理解できなかった。いや、受け入れたくなかった。

 しかし、凝視すればするほど、その顔は、利陽土が信頼を寄せていたマリーベル店長そのものだった。

 茫然と立ち尽くす利陽土の背後から近づきながら、ムラクモが神妙な口調で語りかけた。

「そうさ……薄々わかっていたけど、やっぱり『B.M.』の正体は、マリーベル寺崎……『彼』だったのさ」

「え……? 『彼』……?」

 ムラクモは、傍に転がっていたマスラオを拾い上げながら言った。

「そうさ……いくら現実では女性のように着飾ってみても、霊体の状態では、自分が男性であるという解釈から逃れられないみたいだね」

「店長が『暴霊』だった……? いつから……?」

 これにはミリが、苦渋に満ちた声で答えた。

「多分、ずっと前からなんだと思う……それから、先代の店長だったマグリット寺崎さんを殺したのも、きっと『実の弟』のマリーベルさんだったのよ……信じたくなかったけど……」

「だ……だって、だって……」

 二人はそう言ったが、尚も利陽土は目の前の現実に抵抗しようとした。あれだけ優しい言葉をかけてくれた店長が、暴霊だったとは認めたくない現実だ。

「そ、そうだ! マリーベルさんは、『マスラオを絶対に使うな』と僕に警告してたんだ。マスラオや僕を消し去りたいと思っていたなら……逆に、僕にマスラオを使わせようとするはずだ! あんなことは言うはずが無いよ!」

「いや……違うのさ。大事な人を守る為であれば、迷いなくマスラオを使う……アミーゴはそういう少年だと彼は見抜いていたのさ。だから、逆に安心してああいうことを言えたのさ。そして、事実アミーゴはあれを使ったろ? 夏未嬢を守るために」

「そ……そんな……」

「ほら……こうやって手をかざして意識を集中させてご覧。君なら見えるはずなのさ」

 そう言って、ムラクモは利陽土の手を取って、マリーベルの霊体の上に持って行った。

 すると、一つの風景が頭の中に流入し、あたかも目の前に存在するように「見えて」来た。それは、今離れた場所で起こっている、現実の事象なのだろう。

 アグライアの店内を、天井付近から俯瞰している光景だった。丸テーブルに向かったチェアの一つに、両腕をだらりと下げたマリーベルが、背をもたれて座っている。顔面を真上に向け、口をだらしなく開き、白目をむいている。

 完全に失神しているらしい。傍らには、苦虫を潰したような表情をしたキリコが立っており、そんなマリーベルの様子を見下ろしている。

 突然、利陽土の「存在」に気が付いたのか、キリコは上を向き、はっきりと視線を合わせて話しかけて来た。

「山村利陽土! 判ったでしょ? 見ての通りよ! はなはだ気が進まないけど、どうやら明日からアグライアの店長は、あたしがやることになりそうだわ!」

「あ、キリコさん……よ、よろしくお願いします」

 思わず、利陽土は返答してしまった。恐らく、その声はキリコに届いたのだろう。

「いい! 明日から、あたしのことはキリコ店長と呼びなさい! 絶対にキリコお姉さまとかキリコ女王様とか女帝様とか呼んでは駄目なのだわ!」

 そのやりとりを聞いていたムラクモが利陽土に耳打ちをした。

「キリコ君とは掛けをしたんだよ。僕の読み通り、『B.M.』の正体が店長だったら、彼女に和牛ステーキをおごってもらうことになっているのさ。それで彼女はご機嫌ななめなのさ」

「そうだったんですか……ハハ」

 やがて、頭の中に入って来る光景は、次々に今回倒した他の「暴霊」達の現在の様子へと変化して行った。

 赤松部長は自室の床に仰向けになって倒れ、全身が痙攣していた。

 榊も津村も早河も……みなが失神状態だった。「B.M.」の部下たちは、全員が生物部の部員だったのだ。

「ムラクモさん。店長や部長たちは……この後どうなってしまうんですか?」

「良くて、記憶喪失か廃人状態……あるいは植物人間だろうね。いずれにしても、暴霊としては、もう再起不能さ」

「そ、そんな……! どうにかして助けられなかったんですか?」

 これには、いつの間にか普段の姿に戻っていた敷嶋美里が、痛切な面持ちで答えた。

「そう言う事じゃないのよ、利陽土君……ずっと前に、暴霊になった時点で、あの人たちの魂は死んでいた……『すでに助けられなかった』人たちなのよ」

 利陽土とて、理屈では美里が言うことを理解できない訳では無かった。確かに、新たな犠牲者が出ることを防ぐためには、彼らを野放しにしておく訳にはいかないのだろう。

 しかし、例え彼らが「友人」と呼べる存在だったかどうかは微妙だとしても、少なくとも身近に接して来た者達の、このような悲惨な末路を見るのは、心優しい利陽土にとっては辛すぎる試練だった。

「それよりも、見てご覧、アミーゴ! 今回君たちの命を救った最大の功労者たちさ! 彼らの頑張りを褒めてあげないとね!」

「え……?」

 その声が合図になったように、利陽土の胸の前に、テニスボール大の光球がふわりと出現した。

 その中心には、あの一匹の小さなカメがいた。利陽土達を死の世界から引き揚げた後、何処かに消えてしまったようだったが、利陽土の傍に、それはずっといたのだ。

「それが、太郎君ね……利陽土君の守護霊だったのよ」

 美里は、バタバタと不器用に手足を動かして、利陽土の周囲を泳ぐ太郎を、目を細めて見つめていた。

「アミーゴ、そんなに沢山の守護霊に守られてきた人を、僕は他に知らないよ。それが、君の強さの秘密なんだよ」

「多くの……? 守護霊?」

 太郎に続いて、小さな光球が次々に浮かび上がると、ひらひらと胡蝶のように乱舞を始めた。それぞれの光の中で泳いでいるのは、その全てが、利陽土の手によって守られ、育てられ、看取られて行った小さな「命」達なのだ。

「利陽土君の心が、この子たちの命に意味を与え、あなたとの絆を作ったのよ。例え、何の感情も意思も無く、ただ本能に従って、食べて、泳いで、仔を増やすだけの存在だったとしても……それでもこの子たちは、利陽土君を救ったのね……」

 無数のグッピーたちの霊魂を見つめる美里の目には涙が滲んでいた。

 やがて、魚達の数は数百匹にも達し、利陽土の目に映る風景を極彩色に染め上げていった。

 最後に出現したのは、数十匹の、元気に泳ぎ回る小さな稚魚たちの集団だった。

 それらが放つ一層強い輝きに、美里と利陽土は目を見張った。

「え……この子たち……何で……?」

「ん、どうかしたの、美里?」

「どうして? この生命力……まさか、この子たちって……生きてる?」

「生きてる?……って?」

「そうよ……この子たち、死んだ魚の霊魂じゃなくて、生きた魚から幽体離脱してる!」

「え? 魚が幽体離脱?」

「そう……この子たち、小さいけど凄い生命力を持ってる……」

 利陽土が、稚魚の集団にふと手をかざすと、チリチリと火傷しそうなほどの熱を帯びていた。それと同時に、利陽土の部屋の熱帯魚水槽の様子が、間近に存在するかのように、頭の中に入り込んで来た。

(お前たち……)

 出産用の水槽に設置された出産箱の底には、生まれたばかりの、まだ泳ぐ力も持っていない数十匹の稚魚が沈んだままじっとしていた。

 そして、隔離版の上には、最後の力を振り絞って子を産んだ母親グッピーの亡骸が横たわっていた。

(……そうだったのか……僕らを助けるために……)

 気が付けば、利陽土の両目から、大粒の涙がとめどなく溢れていた。

 悲しくて、

 自分が情けなくて、

 そして嬉しくて、

 何が何だか判らなくて、

 涙を流すことしかできなかった。


 ずっと以前、何一つ恐れを知らなかった幼年期が終わることから、無力感に打ちのめされ続けてきた。

 それが、当たり前になっていた。


 そして、いつしか、自分などいつ死んでも構わないのだと、心の何処かでいつも思っていた。

 生と死の狭間で、もがくこともせずに、ただ呼吸をして、時を無為に費やしていく日々……

 しかし、そんな利陽土にも、彼らは「生きろ」と言ったのだ。

 人生の意味など何も知らない、悲しみも喜びも知らない無い彼らが「生きろ」と言ったのだ。

 それが、悲しくて、

 自分が情けなくて、

 そして嬉しくて、

 何が何だか判らなくて、

 利陽土は、涙を流すことしかできなかった。


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