「マスラオ」

「あ! あの子じゃない? 次郎君! 判るようになったよ!」

「え……うん、そうだよ。良く判ったね」

「やっぱり! みんな同じように見えるけど、ほんの少しずつ形とか大きさが違うもん! 毎日のように見に来てると判るようになるね!」

 一夜明けて、利陽土はダメージが抜けきらない身体に鞭を打ち、ふらつきながらも何とかカミ高に登校した。普段にも増して身に入らない授業を何とか消化し、学校を出た後は、夏未と共に日課になっているカメ池への視察に訪れたのだ。

「あのさ……夏未ちゃん?」

「ん? 何?」

 夏未が今日初めて顔を見せた時から、彼女の表情からは、一貫して昨日起こった出来事の影を見つけられなかった。それが、利陽土にはどうにも納得がいかなかった。

「ええと……ひょっとして、昨日何か怖い目に会ったりしてない?」

「は……? 怖い事? 何で? 何で、そんな変な事突然聞くの~?」

「い……い、い、いや、何でも無い。なんかそう言う気がしただけで……き、気にしないでいいよ……」

 利陽土は、つい口を滑らせてから、失敗だったと思った。流石に話題の切り出しかたが不自然過ぎた。

「何よお! 気になる! 何も理由もなしに、そんな事聞くわけ無いでしょ! 教えてよ、なんでそんな事聞くの?」

「い、いや……動物園に行ったときに肝試しに行こうなんて計画してたけど、実際に行ったんじゃないかなって、何となく思ったんだ……え、えーと、実は僕、勘が効くっていうか、霊感が結構強いとこあってさ……ハハハ……」

「ええ~? びっくり~! ビンゴだよお! 昨日生物部のみんなと『何とか城跡』に行ったんだよ。でも、別に怖い事なんて無かったよ。凄く暗かったけど」

 あまりにあっさりと、夏未が多摩城跡行きを白状したので、利陽土は拍子抜けした。やはり、昨日あの場所にみんなが行ったのは事実だったのだ。

 伏せていた視線を少し上げて、利陽土は夏未の顔を再度伺った。先ほどの口調にも表情にも、何ら隠し事をしているような気配は見受けられない。

「そ……そうなんだ。だったらいいよ。変な祟りとかにあったりしたら怖いなって思っただけだからさ……」

 言葉とは裏腹に、利陽土はますます夏未の事が心配になった。どうやら、彼女は正真正銘、「誘霊」達に襲われた時の事を覚えていないらしい。となると、再び霊的に危険な場所に行っては、あのような目に会う可能性が高いのだ。

 とりわけ、あのサカキと共に行くのはまずい……

 利陽土は昨日の出来事によって、サカキこそが「B.M.」の正体に違いない、という確信を持っていた。肝試しを提案したのが彼自身だという事に加え、夏未が襲われた時に、サカキは至近距離にいたのだ。そして、何よりも、あの忌まわしいオーラ。

 夏未を真霊化させたのも、その後で「誘霊」達を使って彼女を襲わせたのも奴の仕業に違いないのだ。

 自分が抱いているサカキに対する疑惑について、よほど夏未に話そうかと思ったが、結局それは踏みとどまった。昨日の記憶を失っている夏未がそれを信じるとは思えなかったし、それがサカキの耳に入ったら、自分が警戒心を抱いていることを奴に知られてしまう事になるのだ。

「もう、帰ろ。今日もタイ焼きあるよ。一つ食べる?」

 そう言いながら、相変わらず屈託のない笑顔で、夏未は少しふやけたタイ焼きを利陽土に手渡した。


☆             ☆


「ムラクモから話は聞いたわ。昨日は大変だったわね」

「ええ……」

「でも、何とか大事に至らなくて幸いだったわ。下手したら命も危なかったのよ」

 夏未と下校途中で別れた後、利陽土は「アグライア」に向かった。何やら、重要な話があるということで、マリーベル店長からメールで呼び出しを受けていたのだ。

 利陽土とマリーベルは丸テーブルを挟んで座っていた。そこは、カーテンで仕切られた、店内に幾つかある「鑑定スペース」のうち、一番奥の場所だった。利陽土の背後のカーテンを通して、客を鑑定している美里の声が小さく聞こえて来る。

「すみません……折角用意してくれたトンカチを壊してしまって」

 昨日の戦いで、あの呪いのトンカチの霊体は、何の力も持たない単純な存在に戻ってしまったのだ。

「でも、収穫はあったわ。昨日の戦いは素晴らしかったわ。私が睨んだ通り、あなたのポテンシャルには凄い物があるのよ。あの武器が壊れてしまったのは、使うあなたの力が強すぎて、呪詛返しに耐えられなかったからなのよ」

「う~ん……そうなんでしょうか……」

「実は、今日重大な話があるというのはその事なのよ。新しい武器をあなたに授けられないかと思ったの」

「新しい……武器?」

「そう。この前あなたに、贋作村正『タオヤメ』を見せたでしょ? 美里の持ち物になっている奴ね。実は、あれは『夫婦で一対』になっている刀なのよ」

「え、夫婦……って? 刀に性別があるんですか?」

「そうよ。普通、単なる物質に宿る霊魂は中性なんだけど、強力な呪物に成長した霊魂には『性』が生まれるのよ。『タオヤメ』は女性で、もう一本『夫の刀』があるのね」

 そこで、マリーベルは一拍の間を置くと、利陽土の目をしっかと見据えながら言葉を続けた。

「名前は『マスラオ』……私たちのチームが持っている最強の切り札よ」

「ええっ! さ、最強? ってことは、呪詛返しの力も……」

「そうよ。『タオヤメ』よりも更に強い……いや比べ物にならないわね」

「あれだって、凄い危険な物なんですよね……あれ以上って……」

「未だに『マスラオ』を全力で使用出来た人間はいないのよ。生きている人ではね」

「生きている人では……?」

「過去に持ち主になろうとして、まともに使用した人は全て命を落としているってことよ」

 マリーベルは途方も無く恐ろしい事を、眉ひとつ動かさずに言ってのけた。その表情を見れば、それを伊達や酔狂で言っているのでは無いと理解できた。

「そそ、そんな危ない物、使えませんよ! ぼ、僕に死ねってことですか?」

 利陽土は、心底から震えあがった。実は、昨日の戦いで最後にトンカチを使った時の呪詛返しのダメージで、未だに右腕がジンジンとうずくのだ。きっと、命を落とすほどの呪詛返しとなると、想像を絶する苦痛が待っているに違いないのだ。

「まさか! そうじゃないわよ。さっき、言ったでしょ。あなたに、それを『授ける』って。『使う』訳じゃないわ。まだ、今のあなたが使ってはいけないけど、将来的に使えるようになるために、訓練をしておく必要があるのよ。そして、『マスラオ』は、持っているだけで、あなたの身を守る抑止力になるのよ。「B.M.」達に目をつけられていることがはっきりした、今のあなたには必要な物だわ」

「え、えーと、ヨクシリョクって……?」

 利陽土の語彙の乏しさに対して、思わずマリーベルは苦笑いを返した。

「ええと……そうね。核兵器みたいに、持ってるだけで敵に対する威嚇になるってこと。確実に自分が滅ぼされてしまうような武器を持っている相手と、戦おうとする馬鹿はいないでしょ? 実際にあなたが今使えるかどうかは問題じゃないのよ。もちろん、それとは別に、今のあなたでも使える、力の弱い武器も早急に用意しなくちゃいけないけど」

「でも……やっぱり僕なんかじゃ、そんな恐ろしい武器を使える時は永久に来ない気がしますよ……」

「まだ、そんなことを言っているの? あなた、あいつに立ち向かって行ったじゃない。それは凄い事なのよ」

「だって、一発でやられちゃったんだから、そんなの意味ないですよ」

「そういう事じゃないのよ。だって、あなた、奴が怖くなかったの?」

「え? ま、まあ……怖かったですけど……」

「そうでしょ? 全ての生物にとって、『恐怖』って一体何だと思う? それは自分の生命を守るための防衛本能なのよ。で、あなたは自分を怖がりだと思っているみたいだけど、そうじゃないの。心の奥底では、自分なんかいつ死んでもいいと思ってる。だから、いざという場面では、どれほどの恐怖であっても、それを簡単に乗り越えてしまうのよ」

 利陽土は、以前も言われたその言葉を、胸に深く浸透させてみた。そして「そんなはずは無い」と言い切れない自分を発見し、絶句するしかなかった。

「そして、そんな自分の命に頓着しない人間が、命をかけてでも守りたい対象を見つけたなら、最も恐ろしい存在になるのよ。間違いなく、『B.M.』は恐れてる。だから、あなたを執拗に狙うのよ」

「守りたいもの……ですか?」

「そうよ。心当たりあるんじゃない?」

 またもや、首筋がチクリチクリと痛んだ。

 夏未の笑顔が、利陽土の脳裏に蜃気楼のように揺らめいていた。

「これまでのあなたの世界には、『過去』と『今』しかなかったのよ。せいぜい、幼い頃に死なせてしまった、一匹のカメへの贖罪意識が、これまで生きてきた理由だったのでしょ?」

 マリーベルから、不意打ちのようにその事を指摘され、利陽土は息を飲んだ。「太郎」のことは誰にも明かしたことが無いのに、占い師のマリーベルにはお見通しだったのだ。

「でもね、例えあなたが、自分の存在に意味なんか無いと思っていても、例え空っぽのままの『今日』が終わったとしても、夜が明ければ『明日』は来るのよ。そんな当たり前の事を、あなたは初めて学びつつあるの」

「夜が明ければ……明日が来る……」

「あなたを見てると、ここに初めて来た頃のミリを思い出すわ……どこか似てるのよ……いえ、今でもあなた達はどこか似てるわね……」

「ミリですか? 僕と?……まさか!」

「それが、そうじゃないのよ。あの子も、ここに来て変わったのよ。だから、あなたも変わりなさい。事実その物は変えられないけれど、事実に対する『解釈』は変えられる。そして、『解釈』を変えれば、あなたの世界も変わるのよ」

 その言葉は利陽土の胸にズシリと響いた。確か、美里が初めてアグライアに来た時に、やはりマリーベルは同じ事を彼女に言ったのだ。前に聞かされた時には、霞のようにつかみどころが無かったその言葉は、いつしか、自身の体内で、実体を持った血肉へと結実していたのだと利陽土は気が付いた。


☆             ☆


「店長と随分話し込んでたみたいだけど、どんなことだったの?」

「え……? た、他愛も無い事だよ。昔の事とか……」

 美里のバイトが終わった後、利陽土は彼女と共にアグライアを辞し、黄昏色に染まり始めた上代町商店街を歩いていた。

「ふーん、そうなんだ」

 マリーベルとの話し合いの結果、マスラオを持ち物にするかどうかについては、今日の所は保留することになったのだが、その件については余りに気の重い話だったので、利陽土は思わず言葉を濁してしまった。きっと勘のするどい美里のことだから、何かを隠していることに気が付いただろうが。

「あと、ミリのことも話してくれたよ。初めてアグライアに来た時の事とか」

「私の事?」

「うん……なんか、僕とミリが似てるって言ってた……そんなはずないって思ったんだけど」

「へえ~ 私と利陽土君が?」

「うん、そうなんだ。そうだ……あと、僕も同じことを言われたよ。『解釈を変えれば世界は変わる』って……」

「あ、そうなんだ」

 朗らかな声色でそう返事をすると、美里は花のような笑顔をふわりと見せた。

 瞬間、彼女と視線が交差し、利陽土は何故かいたたまれずに顔を背けてしまった。

「きっと、私と利陽土君が似てるって思ったから、同じアドバイスをくれたのね」

「う……ううん……そ、そうかもね……」

 にわかに動悸が激しくなり、胸の奥に物が詰まったような、息苦しさも覚えた。

 利陽土は考えた。これは、一体何なのだろうと。

 いや……よくよく思い返せば、今日はアグライアにいる時から、カーテンを通じて美里の声が聞こえて来るたびに、こんな胸騒ぎがずっと起こっていたのだ。

 さらに思い返せば、そもそもの根源は昨日での一件からだったのかもしれない。

 草むらに倒れた自分を見つけた時に、美里が見せた涙……

 あれの意味する所が全く分からないから、利陽土の中では、ずっとこんな風にモヤモヤが渦巻いているのだ。

「で、でも良く判らないんだ。美里もこの前言ってくれたけど、僕に出来る事をすればいいって言われても……何をすればいいのかって……」

「そうなの……じゃあ、今日は家に帰って何するの?」

「ええと……う~ん……何も考えてないけど」

「とりあえず、今日しなくちゃいけない事を今日はしたら? 学校の宿題をするとか」

「え……?」

 利陽土はドングリのように目を丸くした。それは、まるで想定していない言葉だったからだ。「自分に出来る事」というのは、アニメに出て来る異世界の勇者のように、魔の洞窟の奥で秘密の特訓をするとか、滝に打たれて精神修養をするとか、日常から飛躍した特別な行為を勝手にイメージしていたのだ。

「あ、ああ……そうだね。そう言えば、来週漢字テストの追試が有るんだ。本当は勉強しなくちゃいけないのに、いつもさぼってるんだよ」

「そうなんだ……」

「以前は、もう少しは勉強してたんだ。でも、毎回不合格になるから、いつの間にか諦めちゃったのかも……」

 美里は、しばらく悩ましい表情をしたまま黙っていた。利陽土は、自分のふがいなさを正直に話してしまったことを後悔した。学校の成績の事は、美里には知られたくなかったのだ。

 二人はいつの間にか、商店街の終点に近づいていた。いつもならこの辺りで二人の家路は別れ別れになるのだ。出来るものなら、その場所には到達したくないという思いが、利陽土の中にあった。

「あ、そうだ。利陽土君、晩御飯って何時から?」

 唐突に、美里は脈絡のない質問を切り出した。

「え? えーと、うちは両親の帰りが遅いから、いつも夕食は九時過ぎだけど……何で?」

「ねえ、だったら、その時間まで利陽土君の家で一緒に勉強しない? うちも晩御飯遅いから」

「え?え?え?」

「私、前に塾の先生から、漢字を覚えるのにいい方法教えてもらったの。利陽土君にも教えてあげる。きっと役に立つと思うわ」

「あ……ああああ~……」

 利陽土はいきなり窮地に立たされた。

 自分の家に「女子」が訪れる……

 そんな事は、未だかつて、一切想定したことが無い非常にして異常な事態だ。

 ところが、「用事がある」とか「夕食が早い」とか「宿題をしなければいけない」とか「来週の漢字テストの勉強をしなければいけない」といった、彼女が家に来ることを断る言い訳が、ここまでの会話によって、ことごとく封じられてしまったのだ。

 そして、最も深刻な問題は、「利陽土自身がその提案を嫌だと思っていない事」だった。

 明らかにこれは、チェックメイトだった……

「あと、利陽土君が飼ってるメダカも見せて欲しいな」

 利陽土は、真っ白になった頭の中で、何とかしてそれを断る文言を考え付こうとしているつもりだったが……

「あ~……ええ~と……うん、いいよ。少し散らかってるけど……」

 口が勝手にすべり、思ってもいなかった返答をしてしまった。

 利陽土は自分自身で愕然とし、半分は後悔した。女子を自室に上げたことを親に見つかったら、一体どういう顔をすればいいのか、何と説明すればいいのか、さっぱり名案が浮かばなかった。

 しかしその一方で、利陽土の心の残り半分は、「そんな事はどうだっていい」「どうとでもなれ」という気持ちになっていたのも事実だった。



☆           ☆


「うわああ~~! きれい~!」

 利陽土の自室に入ると、中を見回した美里は、早速グッピーが乱舞する水槽を見つけた。

 歓声を上げながら、水槽の前まで駆け寄ると、美里は膝をついて座り、ガラス面に顔をくっつけんばかりに、魚達の様子を覗き込んだ。

「色んな色の子がいるのね~ あ、この水色の子が好きだな~」

 利陽土の自室に、家族以外の人間が足を踏み入れることなど、今まで一度も無かった。だから、当然ながら、水槽を外部の人間に見せることも初めての経験だったのだが、美里の反応は、利陽土にちょっとしたカルチャーショックを食らわしていた。

「ねえ、利陽土君はどの子が好きなの?」

「え……好きって……」

「あ! この子どうしたの? 病気なの?」

「ああ、いや違うんだ。これはメスで妊娠してるんだよ。そろそろ子供が産まれるんだ」

「へえ~すごーい! 何で、こんなケースに入ってるの?」

「産まれた子供が下に落ちるから、母親に食べられずに済む仕掛けなんだよ」

「お腹が凄く膨らんでるのは卵抱えてるから?」

「うん、そうだよ。そろそろ産まれないとやばいんだけど……」

「やばいって?」

「お腹の中の子供と一緒に、母親が死ぬこともあるんだ」

「え~可哀想! そうなんだ~ 心配だね~……無事赤ちゃんが産まれるといいね~」

「う、うん……そうだね……」

「やっぱり赤ちゃんは可愛いの?」

「いや……別に可愛いとかはないけど……」

「え? そうなの?」

 利陽土は、口を滑らせた直後に、それが「失言」だったのかもしれないと気が付いた。それを言うのは、例え利陽土の本音であっても、多分得策では無かったのだ。

「い……いや、こいつら何も考えてないし……別に飼い主になつくわけでも無いし……」

「ふ~ん……」

「あ……!」

「え、どうしたの?」

 利陽土は慌ててメス用水槽に近づくと、用具箱に入っていた魚取り網を手に取った。

「こっちで産まれてる! 時々前触れが無いのに、何匹か産まれることもあるんだ。ほら、そこに子供が泳いでるよ」

「え? 赤ちゃん? どこどこ? ああ~っ! 可愛い~!」

「直ぐにすくって、そっちの稚魚用の水槽に移さないとまずいんだ!」

 水槽の端から端へ、あちこちに逃げ回る稚魚たちと必死に格闘することかれこれ十分ほど。突発的に生まれた稚魚たちの隔離は無事に終了した。

「はあ~一安心だ。多分、親に食われた奴はいないと思うんだけど……」

 その一部始終を見ていた美里は、安堵した利陽土の言葉に呼応するように、穏やかな声でぽつりと呟いた。

「やっぱり、利陽土君は優しいんだね……」

「え…………? 何で…………?」

「だって、必死に赤ちゃん捕まえてたでしょ。大切にしてるんだね……」

 そう言って微笑みかけた美里の表情が、瞬間、昨日の彼女の涙と重なり合い、衝撃を利陽土に与えた。

 昨日からモヤモヤと抱えていた疑問が一瞬にして氷解した。

 利陽土は、美里が言ったように、グッピーたちを可愛いだとか、綺麗だなどと、まるで考えたことが無かった。いや、ひょっとしたら遠い昔に飼い始めた時にはそう思っていたのかもしれないが、そんな頃のことは全く忘れてしまった。

 だから、利陽土からすれば、何の知性も無い、飼い主になつくことも無く、悲しみも苦しみも無い彼らは、生かしておく意味なんて無い存在のはずなのだ。理屈の上では、今すぐに彼ら全てをトイレに流してしまっても、全く構わないはずだ。

 にも関わらず、利陽土は彼らを生かしてきた。一匹たりとも死なすことなく、寿命を全うできるように全力を注いできた。ということは、自覚こそ無いものの、利陽土は彼らの命に何らかの意味を見出し、美里が言うように、大切にしてきたということになるのだ。

 そして、美里が昨日見せた涙も、ある意味では同じことなのだ。

 道端のペンペン草と同じだとなじられる自分などは、生きている意味なんて全く無いのだと、利陽土は自分では思っている。きっと、アグライアの人たちが言うように、いつ死んでも構わないと思っている。他人にとっても、きっと自分はその程度の存在なのだと、根拠も無く信じこんでいた。

 しかし、美里にとっては、違ったのだ。

 いや、実際の所、彼女が自分の事をどう思っているのかは判らないのだが、少なくとも美里は自分のために泣いた。死んで欲しくないと思った。だからこそ、あの時彼女は涙を流したのだ。

 そんな、当たり前の解答に、ようやく利陽土は思い至った。

 臓腑の奥から、熱く煮えたぎった感情がこみ上げてきて、全身に沁み渡って行った。

 目頭がしびれ、視界がにじんできた。

 何故だか判らないが、どうしようもなく涙が溢れてきた。

「ほんとにちっちゃいのね~可愛い~」

 美里は稚魚用水槽を食い入るように見続けている。利陽土は慌てて彼女に背を向けた。歯を食いしばって、嗚咽をこらえた。気を緩ませると、今にも大声で泣き出してしまいそうだった。

 誰かが、自分のために涙を流してくれることだってある。

 それは、普通ならば誰もが理解している「常識」だった。しかし、利陽土がそんな概念を忘れてしまってから、気が遠くなるほどの時間が経っていたのだ。

 利陽土は机に向かって、勉強道具を揃え始めた。別に勉強をしたいと思った訳では無いが、ともかく、泣き顔を見られないように、美里に背を向け続ける理由が欲しかったのだ。

「ええと……美里……そろそろ……べ、勉強しなくちゃね……ええと……漢字練習帳は……」

「あ、そうね。いつまでもこの子たち見てちゃだめよね。つい、見入っちゃった」

二人はようやく、本来の目的だった行動に移った。

 利陽土は机に向かって、ひたすらに漢字の練習を始めた。美里は美里で、利陽土に勉強の仕方をアドバイスしながら、平行して自分の勉強をしていった。

 これまでに経験したことが無いほど、利陽土は、必死に、一心不乱に漢字を書き続けた。美里が教えてくれた漢字の練習方法は、確かに非常に効果がありそうな物だったが、実際に覚えられるかどうかなどは関係なかった。ともかく、何かの使命感に突き動かされるように漢字を書き続けた。そうしなければ、美里に申し訳ないと思ったのかもしれないし、あるいは、精神を勉強に集中させないと、また気が緩んで、今にも号泣してしまいそうで怖かったのかもしれない。

 ともかく、手が疲れ果てて、これ以上書き続けることは出来ないと思えるまで利陽土は漢字を書き続けた。

 そして、気がつけば午後八時半。すっかり外は暗くなっていた。

 利陽土の両親が帰ってくる時間よりも前に、美里は帰ることになった。女子を部屋に招き入れたことを親に知られるのを嫌がっている利陽土に気を使ってくれたのだろう。 

 利陽土はサンダルをつっかけ、玄関の外まで美里を送っていった。

「漢字テスト合格するといいね」

「う……うん……そうだね」

「急にお邪魔しちゃってごめんね」

「い、いやそんな事ないよ……た、楽しかったよ」

「次来る時は、ご両親にご挨拶しなくちゃいけないわね」

「え……! そ……それは……!」

 あからさまに、利陽土は慌てた表情を見せてしまった。やっぱり、まだその心の準備は出来ていないのだ。それを見て取ったのか、美里はすかさず別のプランを提示した。

「あ、だったら、今度はうちに来る?」

「ええ? え~~と……それはそれで……でも、まあ……そうだね……それならまだ……」

「じゃ、また明日ね。バイバイ」

 美里は透き通った声でそういうと、背を向けて歩き出そうとしたが、

「あ……ちょっと待って!」

 突然、利陽土に声をかけられて足を止めると、怪訝な表情で振り返った。

「え、何?」

「え……え~と……」

 利陽土の頭の中は、全く真空状態になってしまった。それは、勉強をしている間中、ずっと考えていたことだったのに、いざその時になると、只でさえひ弱な精神が、すっかりしぼんでしまった。

「利陽土君……?」

 しかし、ここまで来たら、覚悟を決めるしかない。こうして美里を呼び止めたのは、自分の退路を断つためでもあったのだ。

「じ、じ、実は今日、マリーベルさんに言われたんだ! マスラオの持ち主にならないかって……」

「え……!」

 美里は、小さく息を飲んだ。黒縁眼鏡の奥で見開いた瞳に、怖れの色が浮かんでいた。

「それで、決めたんだ。僕はマスラオを持つよ。そうしなくちゃいけないんだ。今日、君と一緒に勉強をしながら、そう思ったんだ!」


☆             ☆


「さあ、アミーゴ! 見てごらん! この中に入ってるのさ!」

 そう言いながら、ムラクモがいかにも楽しそうに両手で運んできたのは、黒光りする、1mほどの長さの箱だった。

 翌日午後六時、アグライアの地下室には、利陽土を含むメンバー全員が集まっていた。

 ゴトリと重々しい音を立てて、その箱は皆が立ったまま取り囲むテーブルの上に置かれた。

 間近で見ると、それは金庫をそのまま細長くしたような形状をしており、利陽土から見える面に、鍵穴が合計5つもつけてある。こんな奇妙な道具が市販されているとは思えないから、きっとオーダーメイドなのだろう。

「みんな、これは持ってきたわね。出して」

 マリーベルは、いつに無く緊張気味に、他のメンバーの顔を見まわしながら言った。顔の高さに掲げた右手には、複雑な凸凹が刻まれた四センチほどの「鍵」らしき物が握られていた。

 美里、キリコ、ムラクモの三人は無言のまま、鍵穴がある面の正面に移動して来た。

「利陽土君、この箱は私たち全員の意思が一致しないと開けられない仕組みになってるのよ」

 マリーベルは中央の鍵穴にキーを差し込んで見せた。美里、ムラクモ、キリコも三つの鍵穴にそれぞれキーを差し込んだ。

「じゃあ、開けるわよ。みんな鍵を捻って」

 その言葉を合図にして、四人が一斉に指を捻ると、ガシャリと複数の金属音が箱から鳴った。全員が鍵から手を離すと、ムラクモが箱のふたの両端に両手をかけた。

「アミーゴ、五つ目のまだ使ってない鍵穴は君が使うことになるのさ」

 おもむろにふたを開けて行くと、赤い布に包まれた長細い物体が入っているのが見えた。三つのお札が紐で括り付けられている。ムラクモは、意外と無造作に右手でそれを持ち上げると、左手で布とお札を取り払った。

 中から出て来たのは、前に利陽土が見た「タオヤメ」とそっくりだが、やや長めの日本刀だった。

「ムラクモ君は、簡単にこれを取り扱ってるように見えるけど、彼じゃないと触れるのも危険なのよ」

「え? ムラクモさんじゃないと……って?」

「ああ、聞いてなかったのかい? アミーゴ。今の所、僕はこのマスラオの仮の持ち主になってるのさ」

 そう言いながら、ムラクモは手慣れた手つきで金属製の道具を使い、刀の「柄」の部分から釘のようなものを抜くと、柄を取り去った。中から現れたのは、刀の金属製の根元、「なかご」と呼ばれる部分だった。

「持ち主? ムラクモさんが? 『仮の』って……?」

「そうさ、見てご覧。僕の『写真』が貼ってあるのさ」

 そう言いながら、無造作にムラクモが見せつけた「なかご」には、バラの花に囲まれてピースサインを作り、ニッコリと笑っている彼の「プリクラ」が貼ってあった。

「これは、『人型』ではあるけど、僕の肉体そのものではないからね。こんな方法じゃ、マスラオを全力で使うことは出来ないのさ」

 利陽土は唖然とした、彼らしいと言えばそれまでだが、最強の呪いのアイテムを使うために、プリクラを貼るとは、人を食っているにも程がある。

 利陽土の表情を見て取ったキリコが、ここで口を挟んだ。

「山村利陽土! あなたも覚えがあると思うけど、それでも敵からすればムラクモは恐ろしい存在なのだわ。奴らが彼から逃げ回ってるのは、マスラオの力が恐ろしいからなのだわ」

 利陽土は、これまでの出来事を思い出して納得がいった。確かに、ムラクモが姿を現す前に、敵たちはいつも逃げて行ってしまうのだ。

「でも、アミーゴ。君の場合は、こんな方法じゃなくて、この前やったみたいに……」

「あ……」

 そう言いながら、ムラクモは例の無駄に華麗な仕草で利陽土の髪の毛を素早くつまむと、プツリと一本引っこ抜いた。そして、なかごに貼ったプリクラを指先で剥がすと、替わりに、利陽土の髪の毛を結びつけようとした。

「正式に君の魂は、これの霊魂と一体化するのさ。これで、唯一この刀を使えるのは、君だってことに……」

 しかし、ムラクモが髪の毛を結び終わる直前で、マリーベルが再び口を挟んだ。

「ムラクモ君、ちょっと待って。その前に、念のため利陽土君に確認したいの。君、本当に覚悟出来てる?」

 利陽土を見据えた店長の表情は、幾分挑戦的で、彼を試しているようでもあった。

「は、はい……昨日そう決めたんです」

 利陽土はマリーベルの眼力に気圧されたが、精一杯虚勢を張って言い切った。

「それの持ち主になる覚悟も必要だし、同時にそれを使わない覚悟も必要なのよ?」

「使わない覚悟?」

「マスラオを使えば、間違いなく、いかなる強大な敵も倒せるわ。でも、今の未熟なあなたでは、強力な呪詛返しに耐えられないでしょうね。そして、あなたと一体化したマスラオもまた破壊されてしまう……私達は最も強力な駒を失うことになるのよ。これの持ち主になるってことは、そんな事態にはさせない責任も背負うってことなのよ」

 マリーベルの言葉には、利陽土の命よりも、むしろマスラオの方が重要だという冷徹なメッセージが潜んでいた。

「だから、約束して。あなたが成長して、これを使えるようになったと私が認めるまでは決してこれを使わないと……」

 利陽土は、美里の顔を横目で見やった。今日の彼女は、始終無表情で、利陽土の視線に気が付いていないはずは無いのに、どこか遠方を見据え続けているようだった。


☆              ☆


 今日も「次郎」は、不器用に手足をばたつかせて泳いでいる。

 大分薄暗くなっていたため、いつになく見つけるのに時間がかかってしまったが、利陽土はほっと胸を撫で下ろした。今日は、数学の補習で学校を出るのが遅くなってしまったので、清原記念公園に向うのは、アグライアでの用事が済んだ後になったのだ。

 公園の北口から出て交差点を渡ると、向かいにあるコンビニに入った。いつものように紙パックのコーヒー牛乳を買ってから店を出た。

 そば屋の手前で左折して、やや細い路地に入ると、人通りが急に少なくなり、進むほどに街の喧騒が遠のいていく。

 家路を急ぐ利陽土の足取りは重かった。ストローで吸い上げるコーヒー牛乳が、心なしかいつもより苦く感じられる。

 結局、今日は美里とは殆ど口を利かなかった。一緒にアグライアを出た後も、全く会話は無く、上代町商店街の出口で、別れの挨拶を交わしただけだった。

 幾ら鈍い利陽土とて、それが意味する所は判っていた。美里は、自分がマスラオの持ち主になった事を良く思っていないのだ。

 その事実はまた、利陽土の心に思いもかけない痛みをもたらした。きっと、美里には自分の勇気を認めて欲しかったのだ。例え、その無言が、彼女が自分の身を心配してくれていることを意味しているのだとしても。

 やがて、ほの暗い道の奥から利陽土の家が近づいてきた。

 玄関の前に人影が立っているようだった。利陽土はストローを咥えながら目を凝らし、それを確かめようとした。かなりの長身で、ステッキをもっているようだ。独特のシルエットを描くその立ち姿には既視感があった。

「やあ、アミーゴ! また会ったね! 君を待っていたのさ!」

「な……っ!」

 ちょうど飲み込みかけていたコーヒー牛乳を噴き出しそうになった。

「なな……何で、ムラクモさんがここにいるんですか!」

「君に話したいことがあるからに決まってるじゃないかあ!」

 と、ミュージカル歌手のように、両腕を鶴の翼のように広げてムラクモは叫んだ。

 あらゆる意味で奇抜な人だと思ってはいたが、流石にこれには驚いた。さっきまでアグライア店内で一緒にいたムラクモが、こんな所で再び現れるとは予想不可能だ。

「ここで、ですか? い、一体どんなことですか」

「マスラオのことさ!」

「え……」

「店長は、アミーゴの力が未熟だから、あれを使うのは危険だと言ったよね。でも、それは彼女が君の秘めたる力を知っていないからなのさ。あの場所では言えなかったけど、僕は知っているのさ。アミーゴは十分にマスラオを使いこなせるだけのポテンシャルを秘めているってね! それを伝えるために、ここで待っていたのさ!」

「ええ? ま、まさか!」

「まさかじゃないよ。君の力を一番知らないのは、君自身なのさ! あの時の戦いぶりを思い出してみるといいのさ!」

 あの時とは、多摩城跡で、「首の皮一枚武者」の軍団と戦った時の事だろう。利陽土自身は、無我夢中で良く覚えていないが、敵を数えきれない程倒したのは確かな事だ。

「で……でも、どのみち、マスラオを使う機会なんて、きっと無いですよ。店長が言うように、僕があれを持っているだけで、敵は戦いを仕掛けてこないだろうし……」

「まあ、そうだね。滅多な事じゃ使うような事態にはならないさ。だけど、物事には『いざ』って時もあるのさ。だって、君には、何が何でも守らなくちゃいけない物があるんじゃないかい? その為に戦わなくちゃいけない時もあるのさ!」

「守りたい物?………………っつ!」

 利陽土の首筋に一際鋭く深い痛みが走った。

 脳裏に、瑞倉夏未の笑顔が浮かび上がった。


(そうだ……確かに、そうだ……僕は夏未ちゃんを守らないと……)


「僕は、前にも言ったのさ。僕もアミーゴも、愛と希望の戦士だって! 君は、愛する者のために戦うのさ! 愛こそが、マスラオすら使いこなすだけの力を、君から引き出すのさ!」

 普段はおちゃらけているムラクモの眼差しには、これまでに無く真摯な光が宿っていた。自分の決意を美里に認めてもらえなかったことで、意気消沈していた利陽土だったが、身体の内部から気力が湧き出てくるのを感じた。

「あ、有難うございます。ムラクモさんのお蔭で……少し勇気というか、自信が湧いて来たような気がします」

「その言葉を聞きたかったのさ! 僕がわざわざここに来た甲斐があるってものだね! その気持ちを忘れちゃいけないのさ!」

「ええと……ムラクモさんっていい人なんですね。こういったら何ですけど……ちょっと変な人だと思ってたけど……」

「当り前さ! 僕は愛と正義の戦士なのさ! それじゃあ、アディオス、アミーゴ!」

 片手を高く上げたままくるりと半回転すると、颯爽とムラクモは歩き去って行った。

「あ、ムラクモさん……さようなら」

 ムラクモは背を向けたまま、手を軽くヒラヒラさせて答えた。

 その姿を見送っているうちに、かつてないほどに強固な、そして焦燥めいた意思が利陽土の中で立ち起こった。

 事態は風雲急を告げている。あの多摩城跡の事件で、夏未に危機が迫っていることは明らかなのだ。

 利陽土は決意した。明日、学校で夏未に会ったら、サカキに対する疑惑について、そして彼女に降りかかっている危機について、打ち明けようと。そして、ムラクモが言う所の「真霊戦士」として、自分は命を懸けて彼女を守ると、断固として宣言するのだ。

 それで、夏未からどう思われようと、構うものかと利陽土は思った。


☆                ☆


「おい、山村! お前、中学校の方程式も解けないのか! 有り得ないだろ!」

 あくる日の放課後、またも利陽土は補習でたっぷりと絞られていた。今回の教科は数学だ。昨晩、ムラクモと会って以来、頭の中に勉強とは関係の無い考えばかりが渦巻いて、いつにも増して頭が働かなかった。数学担当の平田の怒りも無理からぬことだった。

「お前の脳みそはゾウリムシ並みか! これが来週までの課題だ! やってこなかったら、次は、二倍にするからな!」

 気が済むまでそんな罵詈雑言を浴びせると、平田は憤まんやるかたない足取りで教室の前のドアから廊下へ出て行った。一応それを見届けると、利陽土は全速で勉強道具をバッグに詰め込み、椅子から立ち上がると、速足で廊下を歩いて行った。階段を降り二階につくと、今度は廊下を西に向かって歩いて行った。

 目指すはもちろん、理科室。生物部の活動場所だ。

 そこに近づくにつれて、利陽土の歩みは次第に速くなっていった。昨日から抱いていた焦燥感は、極限まで膨れ上がっていた。

 夏未に危機を知らせる以前の問題として、そもそも彼女は、今無事でいるのだろうか。それ自体が心配になった利陽土は、昼休みに彼女が所属するF組の前まで行き、教室の中を何気ない素振りで覗いてみた。

 その時には、夏未は見つからなかった。

 たまたま教室の外に行っていただけなのかも知れないが、それ以来、利陽土の胸騒ぎは激しくなる一方だった。とにかく、彼女の無事な姿を確認しないと、居ても立っても居られない。気が付けば、利陽土の歩みは小走りに変わっていた。

 軽く息を切らしつつ、理科室の扉の前に到達すると、勢いよく引き戸を開いた。

 室内を見回すと、中にいたのは四人の男子部員だけだった。

 最初に利陽土の方へ顔を向けたのは、タブレットを操作していた赤松部長だった。談話をしていたらしい早河と津村もそれに続いてこちらを向いた。スマホをいじくっているサカキは背中を向けたままだった。

「おお、遅かったな。お前、ほっんとうに補習好きだな。勉強熱心で感心だよなあ、ヘヘヘ」

 相変わらずの赤松の軽薄な皮肉には構わず、利陽土はいきなり要件を切り出した。

「ええと……瑞倉さんは?」

「ああ? いないよ。見てわかんないのかよ」

 自分の言葉をスルーされた部長は、露骨に不機嫌な顔になった。

「どうしたんですか? 学校も休んだとか?」

「知らねえよ。ここにいないんだから来てないってことだ。そんだけのことだろ!」

「だったら、サカキ君……君、何か知らない?」

 背中にその言葉が投げかけられてから、榊が振り向くまでには、微妙なタイムラグがあった。

「え? 夏未ちゃんの事? 知らないな。病気なんじゃない?」

 そう言っただけで、榊は再びスマホの操作に戻ってしまった。

「そうなの? 君、何か知ってるんじゃない?」

 利陽土にしては珍しく、その言葉には強い芯が通っていた。

「え? 何だか変なこと言うね、何でそう思うの?」

 再び、榊は向き直って利陽土と目を合わせた。

 一見すれば、さり気無い表情の榊だったが、その二つの目が、不敵に笑っていることを利陽土は見逃さなかった。それは、明らかに挑発なのだ。

 しかし、利陽土はその視線から、一切目を逸らさなかった。すると逆に、榊の顔に委縮の色が一瞬差した。

 自分には、いざとなったらマスラオがある、どんな強力な敵と戦うことになっても、少なくとも刺し違えることは出来るという確信が、恐らくは産まれて初めて、他人に対して利陽土を強気にさせているのだった。

「お、おい山村……何言ってんだよ。何で榊に食って掛かるんだよ」

 部長が、二人のやりとりの中に不穏を感じとったのか、会話に割って入った。

「な、何でもありません。じゃあ、今日は失礼します」

 つっけんどんにそう言うと、利陽土は踵を返した。勢いよくドアを開け、呆気にとられた様子の部員達を尻目に、部室を出て行った。

 とりあえず、榊のことなどはどうでもいい。今、問題なのは夏未なのだ。


 彼女はどこにいる……?


 榊の表情を見て確信した。どうやら、彼女は学校にいないらしい。だからと言って病欠でも無い。きっと、何かがあったのだ。

 利陽土は、廊下を駆け抜けると、一階まで階段をつまずきそうになりながら、駆け下りた。

 学校の玄関を飛び出すと、校庭を横切って、裏門から学校の外に出た。

 利陽土は町を走った。ひたすらに走り続けた。

 貧弱な心肺機能がまたたく間に悲鳴を上げたが、それでも足を止めようとはしなかった。

 全身汗まみれになり、破裂しそうな心臓を叱咤しているうちに、利陽土はようやく、当然の疑問に思い至った。

 一体、自分は何処に向かって走っているのだろうかと……

 何の当ても無く、こうして闇雲に走っていても、夏未が見つかる公算などあるはずが無い。ならば、どこに行けばいいのか。

 考えてみれば、自分は夏未の事について、ほとんど何も知らないのだ。どこに住んでいるのか、どんな家族構成なのか、どこの中学を卒業したのか、趣味は何なのか……

 その事に、今更ながら気が付いて、愕然とした。

 いつしか、利陽土は、清原記念公園のカメ池の前に辿り着いていた。

 あるいは、ここに来れば夏未がいるかもしれないという、淡い期待があったのは確かだ。しかし、もとより、利陽土と夏未の繋がりはこの場所から始まり、今でもこの場所にしか無いのだ。

 公園内の人気はまばらだった。そして、夏未の姿も見つからない。

 池の水面を見ると、相変わらず、亀達の群れは、それぞれに波紋を起こしながら、音も無く泳いでいる。その中には、もちろん次郎の姿もあった。

 それを、しばし無心に見つめていると、

「利陽土君? こんな所で何してるの!」

「え?」

 突然名前を呼ばれ、反射的に振り向いた。

「夏未ちゃん……?」

「え……?」

「……じゃなくて……」

「私よ。どうしたの?」

 そこに立っていたのは、制服を着た美里だった。

 軽く顔面に汗をかき、息を切らせているようだった。走ってここまで来たのだろうか。

「い……いや、それは僕の台詞だよ。ミリこそこんな所でどうしたんだよ」

「何だか、胸騒ぎがしたのよ。利陽土君に何かが起こったんじゃないかって……それで、何だかここにいるような気がして、走って来たのよ」

「そう……なんだ……」

 あらためて、美里の能力に利陽土は感服した。彼女の「勘」は見事に正しかったのだ。

「ここで何見てたの……? あ、可愛い! カメさんね!」

「あ……ああ、そうなんだよ……」

「へえ~いっぱいいるのね~……ペットだったカメがここに放されて大きくなったのかな」

「う、うん……きっとそうだよ……」

 しばらく美里は、目を細めてカメ池を眺めていたが、

「あれ?……もしかしたら、利陽土君、あの子を見てたの?」

 次郎を指さして、唐突にそう呟いた。

「え?……え~と……う、うん……そうだよ」

 不意を突かれた利陽土は、とぼけることが出来ずに正直に答えてしまった。

「あの子が一番好きなの?」

「いや、好きっていうか……僕が昔飼ってた亀で……次郎っていうんだ」

「ええ? そうなの? そっか~ へえ~そうなんだ~」

「もう一匹、太郎っていうのもいたんだけど、飼い方を知らなくて死なせちゃったんだ。だから、次郎はここに放したんだ。ここなら生きて行けるだろうと思って」

「そうだったんだ……」

 ふと、横目で見た美里の口元は、柔らかにほころんでいた。

「あ、そうだ、ミリ。もう一つ見てもらいたいものがあるんだよ」

 利陽土は通路を挟んだカメ池の隣にある、くぬぎ林に向かって歩いて行った。

「え? 何?」

 美里も後をついて歩いて行ったが、自然と彼女の視線は、利陽土の行く手にある「ある物」へと吸い寄せられていった。

 それは、一際太いクヌギの根元に置かれた、丸みを帯びた二十センチほどの石だった。その真正面で利陽土は立ち止まった。

「これ、お墓ね……」

「やっぱりミリには判るのか……太郎の墓をここに作ったんだ。近くに仲間が大勢いるこの場所なら、寂しくないだろうと思って」

「うん、私もここで良かったと思う。きっと太郎君も喜んでくれたと思うわ」

「でも、良かったよ。これまで誰にも教えたことは無いんだけど、ミリにはここを見て欲しかったんだ……」

「そうなんだ。じゃあ、私もここに来れてよかった……」

 これまでは、幼い頃に飼っていた、たかが一匹の亀の死にいつまでもこだわっている事を、美里には知られたくないと思っていた。今でも、そう思っているつもりだった。

 しかし、亀達の姿を見ているうちに、ごく素直な気持ちで、こんな会話を出来たことが、利陽土は自分でも意外だった。

 そしてまた、先ほどまでの、絶望にも似た焦燥感が嘘のように安らいでいることに、利陽土は気が付いていた。一体、自分が何の目的で、あれほど息を切らして町を駆け回っていたのか、それ自体が判らなくなっていた。

「そうだ、利陽土君?」

「え?」

「そう言えば、私にもあるのよ。利陽土君に見てもらいたい物が」

「え……? 見てもらいたい物?」

「そうなの……だから、前にも言ったと思うけど、良かったら、これからうちに来ない? 別に勉強する訳じゃないけど……」

 夕刻の色が、薄紅くにじんだ風景の中心で、はにかみを含ませて美里は微笑みかけた。

 それと正面から向かい合って、利陽土は、彼女の言葉に抗う一切の術を失ってしまった。


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