「多摩城跡」


 母グッピーの腹は、風船のように膨らんでいて、見るからに苦しそうだ。日数を考えると、もう今すぐにでも出産していい頃なのだが……

 帰宅した後、日課になっている水槽の点検をしながら、利陽土は改めて自分がこれまで飼ってきた無数の魚たちについて考えた。

 キリコは言った。魚たちは、彼らに出来る事を精一杯していると。確かに、この小魚達は、泳ぐこと、食べること、仔を産むことをただひたすらに続けているのだ。公園で泳いでいる次郎ら、亀達だってそうだ。

 そして、美里はこうも言った。自分にも出来る事があると。

 確かに、先ほどはパンチのようなものを繰り出して、誘霊を倒すことが出来た。しかし、何故あんなことが自分に出来たのか、未だに判らないから、また次に敵に襲われても、同じように戦える自信は全く無いのだ。

 真霊になっている時は「それが出来るというイメージ」さえ鍛えれば、何でも出来るのだと美里は言う。だから、利陽土はあの時の感覚を何度となく思い出し、頭の中で再現しようとしているのだが……

(いや、待て……?)

 利陽土は、クッキングママを粉砕した時に見た、閃光と火花の「色」から、ふと、ある事に気が付いた。水槽の前から立ち上がると、向かいの壁にある押入れまで行き、戸を開けた。

 下の段に積んである収納ボックスを引き出し、薄いCDケースの束を取り出した。下手くそな文字でDVDに書かれたタイトルを確かめていくと、間もなく目的の物が見つかった。

「電甲騎士ブロスター1」

 幼少の頃、大好きだった特撮ヒーロー番組を焼いたDVD。来る日も来る日も、飽きもせずにこればかりを何百回も再生した、思い出のディスクだ。しかし、これを最後に観たのは一体何年前の事だっただろう。

 最近は、殆ど使っていなかったDVDプレイヤーにディスクを挿入すると、間もなく懐かしいオープニング曲が始まった。利陽土の胸に、熱く甘酸っぱい記憶が喚起する。早送りのボタンを押して、一話の終盤、ブロスターの戦闘シーンまで飛ばす。

(やっぱり……)

 最大の見せ場、初めての戦闘で、敵を必殺技で倒すシーンだ。画面に合成された、特殊効果の閃光と火花の形が、クッキングママを倒した時のそれとそっくりだった。

(これだったのか……)

 いつしか、利陽土は画面にくぎ付けになっていた。第二話も第三話も……「ブロスター」を見続けた。夕食で一旦視聴を中断したが、自室に戻ると、その後も観つづけた。もう寝なければいけないと思いながらも、リモコンの停止ボタンを押すことが出来なくなった。結局、夜が明けるまで、利陽土は全二十五話をぶっ通しで観終わってしまった。

 途中、何度となく利陽土は涙を流した。とりわけ、最終回が近づくにつれて、泣きっぱなしになってしまった。感動の涙、興奮の涙、憐憫の涙、そして、失ってしまった幼少時代への憧憬の涙を止められなかった。

 思い起こせば、あの頃はきっと、空想と現実の境目があいまいな世界に生きていたのだ。自分には何でもできると、ブロスターに変身だって出来ると思いこんでいた。というよりも、人間には出来る事と出来ない事の二つがある、という残酷な真理を自分は理解していなかったのだ。

 あの頃は、道を歩いていても、学校の授業中でも、食事をしている最中でも「敵」と戦っていた。一体、自分は、何もない空間に浮かび上がらせた想像上の怪人達を、「バーンスパイラルナックル」で、何百回何千回粉砕したのだろう。

 きっと、あの頃に体にしみこませたイメージによって、自分はクッキングママに勝てたのだ。

 だが、歳を取るにつれて、利陽土にとっての黄金の時代は無情にも終わりを告げ、出来ると思っていたことが一つ、また一つと消えて行った。

 いつしか、無数の「不可能」に利陽土の世界は埋め尽くされ、僅かばかりの「可能」をその中から見つけ出すことも出来なくなっていたのだ。

 しかし、美里は言ってくれた。

 自分に出来る事はあると。

 それを続ければ、自分の世界は変わると。

 右手で握りっぱなしになっていたリモコンをTVに向け、涙で滲んだ視界の中で、利陽土は電源をオフにした。


☆              ☆


「うわ! やべえ! ペンギンやべえ!」

「本当! かわいいいいっ!」

「ペンギン池」を前にして、榊と夏未の歓声が上がった。

 今日は、「生物部」の恒例行事となっている「研究会」の日だ。放課後、利陽土を含む生物部員総勢六名は、清原記念公園に付属している小さな動物園に来ていた。要は、「研究」とは名ばかりの娯楽イベントなのだ。

 またしても、榊は夏未の真横のポジションをがっちりとキープし、彼女との会話を独占していた。ただでさえ、押し出しの弱い利陽土だ。その上「ブロスター」を徹夜で視聴してしまい、極度の寝不足で朦朧としている状態だから、尚更二人の会話に割り込んで行くことは出来なかった。様々な動物たちを、談笑しながら見て回る榊と夏未の姿は、周りに他の部員達がいなければ、どこにでもいる恋人同士にしか見えない。二人の後ろから、金魚の糞のようについて行きながらその様子を見ていると、利陽土は次第に惨めな気持ちになって来た。

(それにしても……)

 寝不足で、霊感が鋭敏になっているのだろうか。例の「色」が、あらゆる物から、普段よりも頻繁に、強く感じられる。相変わらず、利陽土が見る世界は、物も人も、色味が殆ど無い、暗い灰色をまとっている。しかし、今日に限っては、人や物によって、微妙なニュアンスの違いがあることが感じ取れるのだ。これが、美里が前に言っていた、その者が持っている「心の有り方」そして利陽土にとっての「意味、関係性」ということなのだろうか。

 部長や他の部員たちがまとった光は、少し茶色がかっている。酷く固く、冷たさを感じる色味だ。

 それに対して、榊の光は、もう少し赤味が混ざっていた。ただし、同じ赤でも、美里のそれとは全く違って、酷く「毒」があるというか、生理的な不快感をもよおすような色合いなのだ。

(一体、これは何なのだろう……)

 榊が生物部に突然入部した時から、利陽土は彼の事が気に入らなかったのは確かだ。しかし、これは男性としての単純なジェラシーとは明らかに違う気がしてならない。

「ねえ部長! こういうイベントって楽しいっすね。もっと、色んな事やりましょうよ!」

 榊が振り返り、ヘラヘラと浮かれた口調で話しかけた。

「え? あ、ああそうだな……まあ、それは別にいいんだけど、金がかからないことじゃないとな」

 対して、部長の赤松は、あからさまに気乗りしない様子で答えた。

「金がかからない……ああ、それじゃ肝試しとかいいんじゃないすか? それなら完全に無料でしょ。夏も近いですし、景山墓地で肝試しやりましょうよ!」

「えっ?」

 意外な榊の提案に対し、小さく驚きの声を上げたのは利陽土だった。

「あ、それ楽しそうっ! あたしもやりたい!」

 ところが、夏未はその案に大いに乗り気のようだった。

 利陽土の内部で、ムクムクとどす黒い不安が広がって行った。そして、榊に対する疑念も……

 オカルト好きの有田から、景山墓地は、この辺りでは一番有名な「心霊スポット」なのだと散々聞かされていた。そんな場所には、恐らく性質の悪い霊の類がうようよしているのだろう。場合によっては、凶暴な「誘霊」も。

 何故、よりによってそんな所で……そもそも、肝試しなど生物部とは何の関係の無い、唐突な提案ではないか。

 美里の話によれば「暴霊化」した人間は、普段の生活を見ているだけでは、全く普通の人間と区別がつかないらしい。となれば、利陽土を襲った「暴霊」達は、自分の身近で、何食わぬ顔をして普通の生活をしている可能性もあるのだ。

 榊こそが「暴霊化」した人間なのではないか。

 利陽土は自分を襲った暴霊のリーダー、「B.M.」の姿を思い出した。

 奴は仮面をつけていたから顔は判らなかったが、髪型も、声の質も榊とは違っていたように感じる。しかし、幽体離脱している状態では、本人のイメージ次第でどのような姿にもなれるし、どのような能力でも身に着けられるのだ。となれば、榊が「B.M.」本人、あるいは奴の周囲にいた部下である可能性は否定できないのだ。

 彼からひっきりなしに感じる、謎の不快感の正体がそれではないのか。

「い、いや! それまずいですよ! 墓地なんて! 絶対止めましょう!」

 利陽土は、たまらず叫んでいた。理屈を超越した、生理的な危険を感じたのだ。

「ああん? 何だ山村、何でだよ? ……あ、そうかお前。怖いのかあ!」

 赤松部長が、途端に皮肉っぽい笑いをニヤニヤ浮かべて言った。

「い、いやいや、そうじゃなくって……そう言う場所って霊的に危険っていうか……祟りに有ったり、霊障とかって奴にあったりで……やばいっていうじゃないですか!」

「あ~やっぱり~! 利陽土君、怖いんじゃない~!」

 今度は、夏未までが無邪気に利陽土をからかって見せた。早河や津村も、ニタニタと馬鹿にしたように笑っている。

「よし! これは部長命令だ! 肝試しやるぞ! 山村、お前も絶対来いよ! きっと、一番ビビリのお前に幽霊が寄って来るからな! ハハハ!」

 利陽土は、墓穴を掘ってしまったと後悔した。自分が下手に反対したために、かえって赤松部長を乗り気にさせてしまったのだ。この様子では、肝試しを中止させることも、夏未に参加を思いとどまらせることも無理だろう。もし、そんな心霊スポットに真夜中に行って、この前のように、夏未が本人も気が付かないうちに「真霊化」してしまったら……自分は、夏未を守れるのだろうか……

 事態は一刻を争う。

 実は、利陽土は明日学校が終わった後、ムラクモの監督の元で、「戦士」としての訓練に出かける予定になっているのだ。場所はなんと、有名な心霊スポットらしく、怖がりの利陽土にとっては、聞いただけで悲鳴を上げたくなるようなプランだ。その話を持ち掛けられた時には、仮病を使ってでも何とか訓練をキャンセルしたいと思っていた。

 しかし、これで利陽土の決心はついた。

 一日でも、いや一時間でも早く、自分も「真霊戦士」として、少しでもまともに戦えるように訓練しなければいけない。怖がっている時間など、自分には無いのだと。


☆             ☆


 翌日の午後7時。

 上代町よりバスに乗ること約一時間、利陽土、美里、ムラクモの三人が到着したのは、「多摩城跡」という停留所だった。

 周りを見渡すと、民家は殆ど見当たらず、黒々とした山林が車道沿いに延々と連なっていた。夜の車道を、派手なエンジン音を立ててバスが走り去っていくと、まばらな外灯の明かりと、重苦しい静寂だけが三人の周囲に取り残された。

「さあ、行こうか、アミーゴ達♪」

 ムラクモは一言そう言うと、全く迷うことなくスタスタと大股で歩いて行った。美里と利陽土は彼の背中を追っていく形となった。

 しばらく歩道を歩いて行くと、「多摩城跡」と書かれた標識が立っていた。そこから矢印に従って、歩道とT字に繋がっている舗装もされていない小道に入り、一層濃い闇の奥へと三人は進んでいった。

「こ……こんな所なんだ……多摩城跡って……」

「そうさ! 怖いかい? アミーゴ!」

 ムラクモはいつの間にか、かなり距離を引き離して、行く手に広がる闇の中に半ば溶け込んでいた。それでも利陽土が漏らした声はしっかり届いたらしい。

「え、ええと……正直、ちょっと怖いです」

 本音を言えば、ちょっとどころか、余りの怖さで声帯が縮み上がっていたのだが、ムラクモに聞こえるように、少し大きめの声で利陽土は答えた。

「大丈夫よ。ここには危険な霊はいないから。時代が古すぎて、怨念も枯れ果てた残留思念みたいな霊ばっかりなのよ。だから、初心者が訓練するには格好の場所なの」

 利陽土と並んで歩いている美里が、子供をなだめるような口調で話しかけた。

「ちょ……『ばっかり』って……! じゃあ、やっぱり幽霊がいっぱいいるんだ!」

 霊に対する耐性が全くできていない利陽土にとっては、美里の言葉は全くフォローになっていなかった。標高が多少高いせいか、上代町にいた時よりも気温が少し低いようだ。しかし、素肌の前腕部に妙な悪寒を感じるのは、そればかりが原因とも思えなかった。確かに、ここは戦国時代に大規模な合戦があった、都内でも有数の心霊スポットなのだろう。

「すぐに慣れるから大丈夫よ。私も最初の頃は怖くて怖くて……無理やりここに連れてこられたことを恨んだりしたわ……」

 美里は、前方を行くムラクモに聞こえないようにするためか、声をひそめて言った。

「そうなんだ……やっぱり……」

 利陽土はそう言った後で、ふと考えた。自分は、夏未を守るという目的のために、こうして臆病な心に鞭を打って訓練を受けようと思っている。

 ならば、美里の場合は一体……

「ねえ、ミリは一体、何でそんな怖い思いしてまで、訓練を続けようと思ったの?」

 素朴な疑問を、何気なく利陽土は口にしたのだが、彼女の返事は返ってこなかった。

 美里の方へ目をやると、まるで、利陽土の声が聞こえていなかったように無表情だった。

(嫌がっている……?)

 流石に勘が鈍い利陽土でも、これはひょっとして、不味いことを聞いてしまったのではないかと思い至った。

「え、ええと……」

「あのね……」

 ともあれ、何でもいいからフォローしようと、遠慮がちに口を開いたら、タイミング悪く美里の声と重なってしまった。

「あ……ごめん」

 利陽土は、そう言って美里に発言を譲ったつもりだったが、その後の言葉はまたも返ってこなかった。

 周囲の重い空気とも相まって、一層気まずい沈黙を抱え込んだまま、利陽土は雑草の生い茂る夜道を尚も歩き続けた。

 しかし、しばらくすると美里の方から唐突に、

「あのね……私、お姉ちゃんがいたの……」

 と、切り出した。

 それは、先ほど遮られた言葉の続きだったのだろう。

「お姉ちゃん?」

 利陽土は「いた」という過去形の表現にひっかかりを覚えた。

「そう、いたの。でも、小学生の頃、交通事故で亡くなったの……」

「え……?」

「それがきっかけで、前からぎくしゃくしてた両親の仲が悪くなって……結局離婚することになって……一時期、私は不登校になっちゃって……それで相談に乗ってもらおうと思って、たまたま入ったのがアグライアだったの……」

「…………」

 利陽土は、美里の声の中に、深い憂愁を感じとった。きっと、それは彼女が固く秘めておきたかった過去なのだろう。

 利陽土は、うかつなことを聞いてしまった自分の軽率さを後悔した。

「私ね、いつか自分が知らなかった、お姉ちゃんの心と触れられるのかもしれないって思ってるの。『生と死の狭間の世界』のどこかに、それはまだあるんだって信じているから……真霊戦士になろうと思ったのは、最初はそれが目的なの……」

「そう……なんだ……」

「でもね、今は自分に出来る事をすることが、自分の役割なんだって思ってるの。一人でも多く、暴霊から人を守りたいの……きっと、お姉ちゃんも、暴霊の被害者だったと思うから」

「え?」

「そう……自殺の動機も無かったし、現場で見ていた人の話だと、いきなり誰かに手を引っ張られたみたいに、道路に飛び出したんだって」

「そう……なんだ……」

 またもや、利陽土は深い自己嫌悪に陥っていた。はたして、自分はこれまで、美里が言うような深い決意や目的意識を持って生きて来たのだろうか、と思ってしまったのだ。どう考えても、唯々諾々と周囲に流され、生活に追われて、無数のグッピーの群れの中の一匹のように、意味も無く機械的に生きてきただけだ。

 自分が生きている目的があるとすれば、せいぜい「太郎」の死に対する贖罪意識で、魚たちの世話をしていること位しか思いつかない。親族の死と向かい合って、命を削って戦ってきた美里に比べて、なんて矮小な人生なのだろうか。知性も感情も無い、ちっぽけなカメの死に未だにこだわっているなんてことは、とても恥ずかしくて口にできなかった。

「ごめん……変な事聞いちゃって……」

「ううん、そんなことない。ありがとう……いつか、利陽土君には知ってほしかったことだから」

「え……?」

 予想外の言葉をかけられて、利陽土は思わず美里の表情を伺った。彼女の口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。そこに、ほんのりと紅く、これまで見ることの出来なかった「心の色」が差しているような気がした。


(恥ずかしがっている……?)


 自分の質問に返答することを美里が躊躇していたのは、不快に思っていたからでは無かったのだと、利陽土は悟った。しかし、美里が言った「ありがとう」という言葉がどういう意味なのかは全く判らないから、利陽土はやはり申し訳なく思うばかりだった。

「アミーゴ、ついたよ! ここが多摩城跡の入り口なのさ! いよいよ、君が真霊戦士デビューする時が来たのさ!」

 相変わらず、浮かれた調子のムラクモの声が、前方から響いて来た。目を凝らすと、ムラクモが立っている場所の隣に、「史跡多摩城跡」という矢印のついた標識があるのが見えて来た。


       ☆                ☆


「アミーゴ! 見てごらん! これが君に最も適合する、最高の武器なのさ! 遂に店長が見つけてくれたのさ!」

 そう言って、ムラクモがごついスーツケースから得意げに取り出した物は、一本のふるぼけた「金づち」だった。

「ちょ……! 待ってくださいよ! 武器って……これトンカチじゃないですか!」

「そうさ! 驚いちゃいけないよ。これは、実際にわら人形に五寸釘を打ち付けるのに使われた、本物の呪いの金づちなのさ!」

「わわわ……わら人形!」

 これまで、ムラクモには破天荒な言動で驚かされっぱなしだったが、それが余りにも予想外のアイテムだったので、利陽土の声は裏返ってしまった。

「じゃあ、アミーゴ。君の髪の毛をちょっともらうのさ!」

「あ!……痛っ!」

 ムラクモは無駄にしなやかな仕草で、華麗に利陽土の髪の毛を一本つまむと、あっという間に引っこ抜いた。それを金づちの持ち手の部分に器用に結びつけると、得意げに利陽土に見せつけた。

「さあ、これで君は『これの霊魂』と一心同体になったのさ! 後は、真霊化した君が、これの事を思い浮かべるだけで、いつでも使えるようになるのさ! どうだい? 素晴らしいだろう!」

 いつもの強引なペースで、有無を言わさぬまま、勝手に利陽土は物騒なアイテムを押し付けられてしまった。それを使う事による危険性については、さっぱり実感が沸かないが、呪いの儀式に使ったものだと言われれば、心胆が寒くなるのを感じた。

「大丈夫よ。これの持つ力はそんなに大きくないから、『呪い返し』も大したこと無いの。利陽土君は呪詛に対する耐性が強いし、ここに現れる霊も弱い物ばっかりだから、使っても危険は無いと思うわ」

 そう言う問題じゃない……と利陽土は言いたくなった。単純に、幽霊の巣窟に足を踏み入れること自体が利陽土は怖いのだった。

「それから、この『鈴』を身に着けておくといいね。これを通して君の様子が僕には手に取るように判るのさ! 君に万一危険があったとしても僕やミリが駆けつけるから大丈夫さ!」

 そう言いながら、ムラクモが渡して来たのは、ちっぽけな守り鈴だった。神代稲荷神社と書かれてある、何のことは無い、学校の近所にある神社で売っているお守りだ。

「わ……判りましたよ。じゃあ、この城の……頂上まで行ってくればいいんですね……?」

 どことなく、イカサマにかけられている気がしてならないのだが、ここまで来たら後には引けない。利陽土はやけくそにになって、大股で多摩城跡の頂上に向かって歩き始めた。


☆             ☆ 


 一応、多摩城跡は一般の人が散策に訪れるための最低限の整備がされているようだった。足場はひどく悪いが、坂道に沿って丸木や石で作った階段が作ってあり、場所によっては落下を防ぐための鉄柵もあった。しかし、戦国時代に作られた、敵の侵入を防ぐための砦だから、本丸までの道はかなり険しく、昇って行くのはちょっとした苦行だった。途中、分かれ道が何か所かにあり、その度に立てられている案内図で道を確認しながら登って行った。どうやら、本丸に昇る為の地上からの入り口は数か所にあり、途中で合流しているようだった。

 停留所から降りてから始終感じていた悪寒は、ますます増幅してきた。全くありがたくない事に、ここ一連の経験のせいで、利陽土の霊感とやらは鋭敏になってしまったのだ。

 さて、問題はこれからだった。

 ムラクモが言うには、利陽土はこれから本丸についた後「真霊化」して、この辺りにうようよしている浮遊霊を片っ端から倒していかないといけないらしい。

 自分にそんなことが出来るという自信は全く無い。そもそも前回のように幽体離脱を再び自力で出来る保証すら無いのだ。既に三回の経験を経て、何となくそれが感覚的にどういう物かは判りかけている気もするのだが……

 そんな事を考えていた矢先の時だった。

 落雷のような衝撃が、尻から頭頂部にまで、脊髄を通じて走り抜けた。思わず、利陽土は身体をのけぞらせた。

 続いて、何度も味わったあの形容しがたい不快感。

 自分の霊体が肉体から抜け出る感触がヌルリと襲って来た。

 しかし、しばらくして目のくらみが収まった時には、利陽土は相変わらず同じ場所に立っていた。いや、立っているつもりだったが、同時に、既に自分が「真霊化している自覚」があった。目に映っている風景の「色合い」が微妙に違う。これは、見えている物の全てが、物質では無く「万物の霊魂」である証拠なのだ。

 何故いきなり……

 利陽土は、別に自分の意志で真霊化しようと思ったわけではないのだが……

 ふと前方を見ると、利陽土が着ていた学生服の抜け殻が、フラフラと前方を惰性で歩いていた。やはり、肉体から離脱したのだ。あれでは、魂の抜け殻になった身体の方はすぐにどこかにつまづいて転んでしまい、自分が元に戻った時には、またあちこちが痛むのだろう。「真霊化」する度にこんなことになるのでは、たまった物では無い。早く美里たちのように、離脱後も自分の肉体をラジコンのように自由に動かせるようになれば便利なのだが……

「キャアアアアアアアアアアアア!」

 突如、背後から夜気を斬り裂くような悲鳴が飛んで来た。慌てて振り返った利陽土だったが……

「ウギャアアアアアアアッ△×■△×○▽○□!!!!」

 二つの絶叫が、特大の不協和音を奏でた。

 何と、前方から坂を走って昇って来るのは、制服を着た夏未だった。

 そして、その背後から夏未を追ってくるのは、全身に血しぶきを浴び、甲冑をまとった戦国武士……のような「何か」だ。右手には、刃が折れた刀を持っており、殆ど切り落とされそうになっている頭部は、文字通り皮一枚で胴体と繋がっていて、首の切断面から逆さまにぶら下がっている。先ほどの悪寒は、これが接近してきたせいだったのだ。

「あ! り、利陽土君? え、えええ? 何でええええ?」

 「何で」というのは、こっちのセリフだと言いかけたが、夏未はあっという間に利陽土のいる位置まで到達すると、素早く背後に回り込み、

「ちょっと見て! あれ! あれええええええ!」

 と、不器用に足を引きずって、ヨタヨタと坂を昇って来る戦国武士を指さした。

「諸行無常オオオオオオオ!」

 落下しかかっている武士の頭部が、かすれた大声で叫んでいる。

 疑いようも無く、それはこの世の物では無く、何百年も昔に討ち死にした武士の亡霊なのだ。

 利陽土の身体は、その場から一目散に逃げ出す寸前だった。恐怖で頭がおかしくなりそうだった。

 しかし、もう自分は怖がってはいられない、逃げる訳には行かないのだという使命感の方が、ほんの僅かだけ彼の弱さを上回った。

「ウワオアアアアアアアアアア△×■△×○▽○□!!!!」

 頭上高く振り上げた右の拳を、肉薄して来る武士に向かって、力の限り振り下ろした。

 直後、スパンと風船が割れるような破裂音と共に、右腕に軽い衝撃が走った。戦国武士の身体がバラバラにちぎれたと思ったら、無数の青白い光の破片となって四方に飛散していった。

 気が付けば、前方には何事も無かったかのように、墨を流したような闇だけが残されていた。

「な……! 何今の! 利陽土君何したの? 凄い! 何なの? そのトンカチ!」

「え……何って……あ!」

 夏未に指摘されて、利陽土は目を見張った。右手で、いつの間にかあの呪いのトンカチ……正確には「トンカチの霊魂」を握っていたのだ。とにかくなんでもいいから、あの武士を倒せる武器が欲しいと無意識に願った結果だったのだろうか。それにしても、今の敵を粉砕した時の手ごたえは、商店街で「スプリンターママ」を素手で倒した時と比べて、ずっと軽かった。やはりこれは、ムラクモが言うような凄い武器なのだろうか。

「て……て、いうか! 何で夏未ちゃんがここに?」

「え? それはこっちのセリフよ! 利陽土君こそ、あんなに肝試しを怖がっていたのに、こんな所に! あたしは、生物部のみんなと一緒に肝試しの下見に来たんだけど……!」

「え? えええ? 下見って? だってサカキが肝試しを思いついたのって、昨日じゃないか!」

「そうよ! で、利陽土君を怖がらせる計画を立てようって、内緒で来ることにしたのよ……でも、みんなと一緒に歩いて行くうちに、突然周りの風景が別の場所になっちゃったの! みんなもいなくなっちゃったの! そしたら、あの化け物が!……」

 その言葉を聞いて、利陽土はハッと気が付いた。考えてみれば、今目の前にいる夏未は、「全身が普通に見えている」のだ。つまり、それは彼女もまた、自分と同じような霊魂の状態である事を意味する。自覚も無いまま肉体から離脱し、離れたこの場所にまで霊体が飛んできてしまったのだろうか。

「え……? キャアアアアアアアアアアッ!」

「アアアアギャアアアアアアアッ△×■△×○▽○□!!!!」

 再び、二人の悲鳴が辺りにこだました。坂の下の方から、先ほどの「皮一枚武士」をそっくりコピーしたように同じ物が、今度は何十人もの集団で昇って来るのだ。

「諸行無常オオオオオオオ!」

「諸行無常オオオオオオオ!」

「諸行無常オオオオオオオ!」

「諸行無常オオオオオオオ!」

「諸行無常オオオオオオオ!」

「諸行無常オオオオオオオ!」

 利陽土の頭の中から、理性が吹っ飛んでしまった。

 本能的に左手で夏未の手を取ると、坂道を一目散に駆け上がって行った。とてもではないが、相手はまともに戦える人数ではない。

 息を切らし、貧弱な肉体に鞭を打ち、頂上目指して駆けて行くうちに、次第に利陽土の思考は回転し始めた。あれらはきっと、さっきの霊が増殖した物なのだ。そして、連中は明らかに敵意を持ってこちらに向かってきている。

(誘霊……なのか!)

 あれは、ムラクモたちが言っていた、目的も無く浮遊している古い霊などではない。「暴霊」に操られた存在……「誘霊」なのではないか。

 間もなく、二人は「本丸跡」まで昇り詰めた。幸い、連中は大して速く走ってこないので、追いつかれることは無かった。

「ねえ! どうするの? あ、あいつら追って来るよオオ!」

 夏未は、もう涙目になっている。利陽土は、何とか冷静を取り戻そうとしながら、乏しい頭脳を振り絞って考える。

 奴らが暴霊だとすれば、明らかにこちらをターゲットとして追ってきているのだ。いつまでも逃げきれるものでは無い。となれば、ここで腹を決めて、奴らを倒すしかない。

 利陽土は、右手で握っていた呪いのトンカチを握りしめた。そして、左手で握っていた夏未の手を離した。

「諸行無常オオオオオオオ!」

「諸行無常オオオオオオオ!」

「諸行無常オオオオオオオ!」

「諸行無常オオオオオオオ!」

「諸行無常オオオオオオオ!」

「諸行無常オオオオオオオ!」

 「皮一枚武士」の先頭集団が、本丸跡まで昇って来ていた。

「ウアアアアアアアアアアアッ!」

 「勇気」などという、生まれてこの方一度も出したことも無い感情を振り絞り、恐怖を自らの絶叫でもみ消しながら、一番先頭に立って近づいて来る武士に向かって、利陽土は突進していった。

「ウアアアアアアアアアアアッ!」

 トンカチが最初の武士にぶち当たり、バラバラに粉砕した。

 その勢いで、二番目の武士にもトンカチを叩きつける。

 これも粉砕した。

「ウアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」

 砕いた!

 砕いた!

 砕いた!

 …………

 利陽土が思い描いていたのは、幼い日に空想の中で「ブロスター」になりきり、空間に思い浮かべた怪人たちを「バーンスパイラルナックル」で、片っ端から倒していく、あの感覚だった。

 現実の喧嘩など一つもしたことのない利陽土にとって、それは唯一経験した「戦い」であり「勝利」のイメージだったのだ。

 武士の一体が、利陽土の側面に回り込み、折れた刀を斬りつけて来た。しかし、その動きは酷く遅かった。なぎ払うように、迫って来る刀身にトンカチをぶち当てた。

 これも砕いた! そして、その勢いのまま武士の本体も砕いた!

「ウアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」

 さらに砕いた!

 砕いた!

 砕いた!

 砕いた!

 …………

 気が付けば、敵は最後尾の一体だけになっていた。

 それに対してトンカチを渾身の力で打ち付けると、ひときわ大きな衝撃が右腕に走った。

 バチンと鋭い音を立てて、武士の姿もろとも、トンカチが木っ端みじんにはじけ飛んだ。痺れたような感覚だけを残して、手の平の中は空になっていた。

 連続して酷使したため、呪詛返しのパワーに武器の方が耐えられなくなったのだ。しかし、これで何とか敵を一掃できた。ようやく本丸に静寂が戻り、利陽土の耳に聞こえるのは、ゼイゼイと自らの息を切らす音だけになった。


(夏未ちゃんは……)


 彼女は無事なのだろうか……

 辺りを見回した。

 彼女の姿は見当たらなかった……

 その代わり、一人の人物が、利陽土の背後に、いつの間にか立っていた。

 真っ黒い「紋付袴」を着ている。

 肩まで届く髪、そして、天狗の面……


(こ、こいつは……)


 忘れもしない、その姿は「B.M.」だった。


(何で……いつの間に……)


 いや、何故なのかは、既に利陽土は判っていた。あの武士たちは、やはり、こいつが操っていた「誘霊」だったに違いない。

 利陽土の全身はすくみ、石像のように固まってしまった。きっと、数多くの真霊戦士を葬って来たという「その者」の強さは、操られた浮遊霊ごときとは訳が違うのだ。

 しかし、たった今、無数の武士たちを全滅させた高揚感が、彼を縛る恐怖に抗い、辛うじて打ち破った。

 勝てるかどうかなどは、どうでもいい。こうなったら、素手でも戦うしかない。

「ウアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」

 闇雲に雄叫びを振り絞り、自らを縛る恐怖に抗った。


 首筋に、強い刺すようなあの痛みが走った。


(夏未ちゃんを守らなければ……!)


 ただ、その一心で、奴に向かって行った。

 利陽土の視界の中で、悠然と立ちはだかる仮面の男の姿が迫って来る。

 しかし、繰り出した拳が身体に到達する寸前、「B.M.」が右手で握った何かの物体を前に突き出すと、それを中心に空間が波紋のように揺らめいた。

 正面から津波のような衝撃が襲ってきて、身体の裏側まで突き抜けた。まるで、見えない石の壁に全身がぶち当たったようだった。

 脳が揺れた。視界が廻り、身体が崩れ落ちた。

 後頭部に地面が打ち付けられる衝撃を覚えた直後、利陽土の視界一杯に、星がきらめく夜空が広がった。


(ああ……そうか……僕は死ぬのか……)


 刹那、そんな思いがよぎった。

 そう言えば、前に奴と出会った時も、こんな感じだった……あの時も……

 しかし、妙に静かに、酷く穏やかに沈み込んでいく利陽土の意識は、最後の一欠けらがいつまでも消えなかった。


(何故だ……奴は止めを刺さないのか……?)


(僕は……まだ生きてる……? いつになったら死ぬんだろう……)


「アミーゴ! しっかりするのさ! 君は生きてるのさ! もう大丈夫さ!」


 その一言が、利陽土をふわりと覚醒させた。気が付けば、星空の真ん中に、利陽土を覗き込むムラクモの顔があった。

「ムラ……クモ……さん……?」

「大分、酷くやっつけられたね。しばらくは、身体がふらつくだろうけど、命に別条はないさ!」

「ええと……僕……助かったんですか……? あいつは……『B.M.』は……?」

「逃げ足の速い奴だね! 僕が近づいたら一目散に逃げて行ったよ!」

「そう……なんですか……」

「あいつは、それなりに強い奴だろうけど、絶対に危ない橋は渡らないのさ! 僕の強さに恐れをなして、いつも逃げてしまうのさ! 全く卑怯な奴だね!」

 最初にムラクモと出会った時のことを、利陽土は思い出した。そう言えばあの時も、ムラクモが現れる直前に、「B.M.」は姿を消してしまったのだ。ただの変人にも見えるが、この人は、やはり大した実力を持った真霊戦士なのだろう。

「こんなダメージを負ったまま肉体から離脱し続けていると危険なのだね。僕らは入り口で待ってるから、早く身体に戻って帰って来た方がいいのさ」

 そう言いながら、ムラクモは手のひらを利陽土の上にかざした。すると、立ちくらみのように平衡感覚が乱れてきて、視界が徐々に切り替わった。

 意識が正常に戻った時には、やはり利陽土は仰向けに倒れていた。

 しかし、目に映る夜空の色合いが僅かに変わっていた。間違いなく、これは「物質世界」の色だ。立ち込める草の匂いも生々しい。どうやら、自分は肉体に無事に戻り、地面に仰向けになっているようだ。

「でも、ほんとに暗いなここ……」

 突然、聞き慣れた風な人の声が聞こえてきた。それほど遠くからではないようだ。

「ああ、ガチで結構ヤバかったな」

「ただでさえ田舎だから、こんな所はマジで誰も来ないんだな」

 明らかに、早河と津村の声だ。

「これじゃ、どっかに隠れて驚かさなくても、山村だったらちびっちまうかもな、ハハハ!」

 こんどは、部長……

 声がする方に首を向けると、丁度四人の人物の後ろ姿が、少し離れた道を通り過ぎて行く所だった。一人は女子の制服だ。

「ここ、ほんとに心霊スポットなの? 幽霊ほんとに出るのかな~」

「あれ? 夏未ちゃん、ひょっとして期待してるの? 本物を?」

 そして、夏未とサカキの声……

 やはり、部のみんなでここに来たというのは、本当だったのだ。それにしても……

「やだアアア! そんなこと言わないでよお! 怖くなっちゃうじゃない! ほんとに出たらどうするのよ!」

 夏未の声には、普段通りに全く陰りが無い。さっきはあれほど恐ろしい目にあったはずなのに、それをまるで覚えていないように聞こえる。

 夏未が幽体離脱している間、抜け殻になっていた肉体は、何事も無くみなと一緒にあのように歩いていたのだろうか。そして、さっきの体験を一切記憶に残さずに、夏未の魂は再び肉体に戻った……

 他の部員の様子から察するに、そういうことだったとしか思えない。

「でも、もうそろそろ出口が近いみたいだぜ。今度はこっちの道から降りようか」

「なんだよ~結局何も起こらなかったな……」

 部長と早河の声はかなり遠くなっていた。どうやら、何とか夏未が無事のまま肝試しは終わってくれるようだ。

 しかし、夏未に危険な目にあった自覚が無いのは大問題だ。考えてみれば、このような場所に来なくても、何かの拍子に幽体離脱してしまう可能性は時と場所を問わず常にあるし、危険な霊は至るところにうようよしているのだ。夏未が危機に陥ったら、その瞬間に利陽土も真霊化して、彼女を守りに駆けつけられるようにしなければいけない。ムラクモや美里は、一般市民に加えて未熟な利陽土まで守ってくれているのだから、これ以上の負担をかける訳にはいかない。夏未を守る事については、利陽土自身がやるしかない使命なのだ。

 しかし、そんな威勢のいい事を頭では考えてはみたものの、利陽土の身体は全く動かなかった。全身から生気が抜けて、まるきり力が入らない。おまけに、身体のあちこち、特に頭の芯がジンジンと痛みで響いている。先ほど「B.M.」から受けた攻撃で相当のダメージを負ったのだ。

 しかし、痛みを感じるのは、ある意味生きている証拠なのだ。そんな安堵と共に、しばらくじっとしていると、遠くから人が駆けて来る別の足音がパタパタと聞こえて来た。

「ああっ! 利陽土君っ!」

 その声が美里の物であることを確認するより早く、彼女は利陽土の元に駆けより、地面に膝をついて座り込んだ。

「大丈夫? いつまでも帰ってこないから心配したのよ!」

 美里の言葉に応えて、精一杯、空元気の笑みを弱々しく浮かべながら、

「随分疲れたけど……まあ……大丈夫だよ……」

 と、利陽土は呟いた。

 すると、張りつめていた緊張の糸が切れたのか、美里の目に溢れていた涙がどっと零れ落ちた。

「よかった……もう……帰ってこない……かと…………」

 その後の美里の言葉は、慟哭に埋もれて続かなかった。

 いつまでも泣きじゃくる美里の姿を、利陽土はまるで、それがとても不思議な光景であるように、至って静かな目で見つめ続けた。

 何故に、何のために、美里はそんなにも涙を流すのだろうか……

 その理由がまるで分からず、そして、それに対して自分はどう反応するべきなのか、答が見つからないから、ただ美里の泣き顔を茫然と見続けるしか術が無かったのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る