「タオヤメ」


 出産を控えたメスグッピーの腹はかなり大きくなっていた。

 小さめの網を使って彼女をすくい取って、隔離ケースに移した。利陽土の経験では、もうそろそろ出産を警戒すべき状態なのだ。その後は、日課となっている水槽の点検をする。見た限り、特に異常もないようだ。

 次の行程は、各水槽に餌をやることだ。フレーク状の餌を、少しずつ水面にまいて行くと、何故だか、先に言われたキリコの言葉が脳裏によみがえった。


「あなた、メダカのように生きて、メダカのように死にたいと思ってるでしょ!」


 最初にそれを聞いた時は、どういう冗談なのかと思った。しかし、時間が経てば経つほど、その言葉が、心臓の奥深くまでギリギリと食い込んで来るような痛みを覚えた。

 確かにそうなのかもしれない。

 水槽の中をひたすらに、せわしなく泳いでいる小魚の群れを見ながら、利陽土は不本意ながらそんな思いに至った。

 こいつらには、何の芸も無い。感情も無い。生きる目的も無い。反面、悲しみも恐れも無い。ただひたすらに、泳ぎ、餌を食べ、子供を産むだけだ。それでいて、誰からも非難されない。

 何の取り得も無い、漢字一つ覚えられない、教師からペンペン草と罵倒される自分は、できることなら、そんな魚たちのように、誰からも一顧だにされずに、生き、死んでいきたい。そんな風に思っていたのかもしれない。

 しかし、流石の利陽土も、そんな考えが情けない物だと思うだけの羞恥心はあるのだ。だから、キリコの言葉を、始めは否定したかった。

 しかし、キリコは同時に、それは「凄い事だ」と言い放った。その意味が全く分からないから、また明日も、あんな変人たちの巣窟である「アグライア」に行って話を聞こうという気になっている。

 引き続き、水槽の様子を点検していると、昨日は無かった死体が水槽の隅に一匹沈んでいるのを見つけた。しかし、これもまたいつものことで、問題になるような物では無い。数日の内には、この死体は他の魚の血と肉になっていることだろう。

利陽土が、グッピーを飼うようになって以来、水槽で起こる出来事に全く変化はない。この、ガラスで仕切られた閉ざされた世界の中では、一切の異変は有り得ないのだ。

 しかし、同時に利陽土は、自分の心に、小さな、しかし急速な変化が表れているのを自覚している。何の展望も未来も無く、見渡す限り、あの灰色で埋め尽くされていたはずの世界の風景に、微かな彩度を持った光が差し込んでいるのだ。

 ここ数日の利陽土は、あの「言葉の意味」を知った日のヘレン・ケラーのように、次の日が来ることが待ち遠しくなっている。

 その理由は……

(痛っ……!)

 また、あの針で刺したような痛みが走った。

(そうだ……夏未ちゃんに会えるんだ……)

 指の腹で首筋をさすりながら、利陽土はそう思った。

 きっと、彼女の存在が、今の自分の生きている意味なのだ……

(いや……しかし……待てよ……?)

 同時に、何故か見落としていた重大な事実に、唐突に思い至った。

 考えてみれば、あの日公園で夏未と出会う前に、既に利陽土は彼女と出会っていたのだ。

 リバーシブル「AYA」に襲われた時、すなわち「生と死の狭間の世界」で。

 あの時は白昼夢の中での出来事だと思っていたが、間違いなくAYAに追われ、悲鳴を上げて逃げていた女子は、夏未だったのだ。

 となると、これまでにムラクモらから聞いた話を総合するに、夏未もまた「真霊」だということにはならないか。公園で会った時には、夏未は自分でも気が付かないうちに肉体に戻った後で、幽体離脱していた時の記憶を失っていたという事なのだろうか。

 ああいうことが、彼女に頻繁に起こり得るのだとすれば……

 夏未が危ない……

 そう考えたら、居ても立ってもいられなくなった。

 自分の身を守る為では無く、彼女を守る為に、「真霊戦士」にならなくてはいけないのではないか。

 そんな、余りにも山村利陽土らしからぬ、決意めいたものが彼の中に生まれつつあった。


☆                ☆    


 夕食を食べ終わり、自室に戻ると、榊雄志は机に向かった。スポーツバッグから数学の問題集を取り出すと、宿題になっているページを開いた。どうにも気の進まない作業だが、明日が期限の提出物なのだから、一応はこなさないといけない。

 榊は、カミ高の二年生だ。成績は、上の下といった所で、特別優等生でもないが、まずまず勉強で苦労したことは無い。学年でも有数の美男子であり、バスケ部のエース級の部員でもある。総合的には、学年でもかなり目立つ男子の一人だ。二か月前までは彼女がいたが、諸事情で今はフリーとなっている。しかし、自分は一生女性に苦労することは無いだろうという、漠然とした自負を持っている榊は、全く焦ってはいない。これまで通り平穏無事に高校生活を送っていれば、次の彼女の一人や二人はすぐにできるだろうと高をくくっている。

 榊は、開かれた数学の本の頁を見て、軽くため息をついた。まずまず順風満帆の人生を歩き続けている彼にとって、ささやかな障害らしきものがあるとすれば、この忌々しい無味乾燥な学問位のものだ。腹が立つことに、いきなり一問目から解き方が判らない。

 ここは、数学が得意な友人の中田に聞くのが手っ取り早いだろう。そう思って、榊はポケットからスマホを取り出した。

 しかし、画面を右手の人差し指で撫でようとした瞬間の事だった。

 頭蓋骨の中で、巨大な音が鳴り響いた。

 何かが破裂するような、あるいは破壊されるような轟音。

 グラグラと脳が廻っている。

 視界が揺らぐ。

 まるで思考が働かない……

 

 全身が麻痺したような状態のまま、途方も無く長い時間が経っていった。


 目覚ましがコチコチと時を刻む音だけが、耳から頭の中へと沁みこんで来る。

 しかし、時間が経つにつれて、かくはんした泥水が徐々に澄んで来るように、意識がクリアーになって来た。


 そして、


(自分は、何故こんなことをしてるんだろう……)


 最初に浮かび上がったのは、そんな思いだった。

 いや、何をしているのかは判っている。自分は榊雄志という名前の高校生で、自宅にいることも判っている。しかし、榊の中には、これまでの自分が、根本から「全てにおいて間違っている」のだという、不可思議な確信が満ちていた。


(このままではいけない……)


 何かに急き立てられるように、榊は立ち上がった。

 自室を出て、玄関に向かった。スニーカーに足をねじ込んで、ドアを開けた。

 エレベーターで一階まで降りると、マンションを出て、夜の街を速足で歩いて行く。

 榊の目に映るのは、それこそ毎日のように歩き、見慣れた風景ばかりだった。ところが、行きつけのコンビニも、本屋も、飲食店街も、町を行く人も、今の彼には、ほんの数時間前に見た時とは、まるで違ったものに感じられた。


(くだらない……)


 全ての物が、忌々しかった。憎たらしかった。

 知っている人も、知らない人も、町も、川も、山も、空も……

 世界の全ての物が、等しく気に入らなかった。

 出来る事なら、何もかもを燃やし尽くし、葬り去りたかった。

 しかし、今の非力な自分では、それは叶わない。

 その為にしなければならない事。それは明らかだ。だから、榊はこうして歩いている。

 やがて、辿り着いた場所は、上代町商店街の外れにある、うらぶれた一軒のバーだった。本来なら、高校生の榊が入るような場所では無い。しかし、彼は何の躊躇も無く、ドアの取っ手を握り、引いた。一歩、足を踏み入れると、薄暗い店内には5、6人の人物がカウンターに並んで座っているようだった。

「よお、待ってたぜ。そろそろ来ると思って、今日はみんなで待ってたんだよ」

 近眼気味の榊には、顔はよく見えなかったが、思ったよりも若い男の声だ。

「ああ、判ってるよ。だから、ここに来たんだよ」

 榊は、ほくそ笑みながら言った。

「じゃあ、明日から頼むわね。あなたは適任なのよ」

 店の奥に目を凝らした。声の主は、女性のようである。

「簡単な仕事よ。あいつ、女子と話をしたことも無いような奴なんだから。ちょろいもんね」

 なるほど、あるいは、カミ高の女子生徒にも仲間がいるのだろうか。そう思いながら、榊はその人物に答えた。

「でも、あいつを今のうちに潰しておかないと厄介なことになる……そういうことだろ?」

「正確には、厄介なのはあいつじゃないのさ。問題はマスラオなんだ……」

 今度は、別の若い男性が、そんな謎めいたことを言った。

 「マスラオ」というのは「目覚めた」ばかりの榊には初耳の言葉だった。そう言ったことを知るために、榊はここに来たのだ。


☆                  ☆  


「おい! 山村! お前知ってたか? 榊の事!」

 翌日、学校が終わって、利陽土が生物室に入るなり、赤松先輩は第一声でそんな事を聞いて来た。

「え? 何ですか部長。いきなり!」

「今日いきなりうちに入部したいって言い出したんだ! 俺に直接言ってきたんだから間違いないよ。何でだよ! お前何か知ってるか?」

 知ってるか? などと言われても、そもそも利陽土はサカキという生徒自体を知らないのだ。

「い、いえ……ていうか、それ誰ですか?」

「バスケ部の主力で、二年で一番女子に人気がある榊に決まってるだろ! 何だって、そんな奴が、うちみたいな学校で最底辺の地味クラブに入るんだよ。おかしいだろ!」

 赤松先輩は、酷く不機嫌そうな表情をしている。男性としてのジェラシーを丸出しにしているように見える。

「さっきも、部長と話したんだけど、夏未ちゃんが目当てだとしか思えないんだよ。どうせ、俺達や部活その物の内容なんて、どうでもいいんだろ」

 隣にいた早河も不満そうに吐き捨てた。

 その時、利陽土の背後で、理科室の出入り口が開かれる音がした。

「みんな、凄いよ! 生物部にまた部員が増えるのよ!」

 振り返ると、最初に入って来たのは夏未だった。その後ろからついて来たのは端正な顔立ちの男子生徒で、スラリとした長身とも相まって、絵になる容姿だ。利陽土にも見覚えがある顔だったが、なるほど、これが問題の榊なのだと納得がいった。

「部長さんから、話もう聞いてるよね。俺がサカキです。よろしく~」

 榊は、初対面にも関わらず、やけになれなれしい口調で、はっきりと利陽土に目を合わせて挨拶をしてきた。小心者の利陽土は、気圧されながらも一応の挨拶を返した。

「あ、ど、どうも……」

「俺、こう見えても小学生の頃はクワガタ飼ってたんだよ。オオクワガタね。あの頃から、いつかは、爬虫類飼いたいと思ってたんだよ。そうだ部長! カメレオンって飼えないんですか? 部費で!」

 赤松も、いきなり古株のような物言いをする榊に戸惑っているようだった。

「い……いや、あれは高いからな……」

「飼いましょうよ! カメレオン、カッケーじゃないですか!」

 榊の突然の提案に賛同したのは意外にも夏未だった。

「賛成! カメレオン飼いたい! もっと、部員が増えれば部費も増えるんじゃない? これから、きっと女子部員が増えるわよ! だって榊君、イケメンだから!」

 その夏未が言い放った「単語」に呼応して、利陽土の頭の中で、轟音が鳴り響いた。

 自分が美男子でも長身でも無く、男性としての魅力など欠片も無いという自覚は持っているつもりだった。しかし、夏未は、利陽土に対してはもちろん使った事の無い「イケメン」という四文字を、榊に対しては事もなげに使った。その現実は、言い知れぬ衝撃を利陽土に与えた。

 どこからか、あの無味乾燥なモノトーンの空気のもやが、洪水のように溢れかえり、利陽土の視界を埋め尽くして行った。


☆               ☆


「ねえねえ! どれが、次郎なの? どれもおんなじに見えるけど!」

 放課後、利陽土は日課となっている清原記念公園の「カメ池」視察に今日も訪れた。部活が終わった後、夏未もそのまま部室から一緒について来たのだ。

 利陽土の視界は、夏未が放った先ほどの「衝撃発言」以来、ずっとモノトーンに染まっている。そのせいで、ワサワサと水面の餌に群がる灰色の亀の群れの中に、薄いピンク色のもやをまとった一匹が直ぐに見つかった。

 今日も「次郎」が生きていることを確認し、利陽土は胸をなでおろした。

「そいつだよ。今手前に来た、少し小さい奴」

「へえ~そうなんだ~ 良く判るね~ やっぱり利陽土君、飼い主なんだね~」

 利陽土の複雑な心情など露知らず、夏未は邪気のない笑顔を見せる。

 結局、部活中殆どひっきりなしに夏未は榊と会話し続けていた。意外に榊も生物部が飼っている生き物たちに興味を示して、話題の種は尽きなかった。昨日までは利陽土が彼女との会話を独占し、他の三人の部員のジェラシーを一身に浴びていたのだが、完全にその立場を奪われた形だった。学校を出た後は、帰り道の方向の関係で夏未は榊と別れ、利陽土と会話を交わすことになったのだが、自分は榊の代理品なのか、という敗北感が消えることは無かった。

 以前の利陽土は、グッピーを生かすこと、次郎の生存を確認すること、きっとその二つだけが、生きている目的だったのだ。それが、夏未との出会いで、もう一つの、いや、単なる「目的」を超え、たった一つの「生き甲斐」を見つけ出した。そう思えた矢先、こんな挫折が待っていたのだ。

 ふと、利陽土は隣にいる夏未の姿をちらりと目に入れた。彼女がまとっている「色」を見ようと思ったのだ。利陽土がモノトーンの世界の中に見出す、「色彩のニュアンス」は、自分と対象との「関係性」の現れなのだと美里は言った。そもそも、世界の全てがモノトーンに覆われて見えるのは、利陽土にとって、この世界が無味乾燥で虚無に満ちている事を意味しているのだろう。その中にあって、夏未が本当にたった一つの希望であるとするのなら、彼女だけは何かしら美しく心地良い、別の色彩を僅かでも帯びていてもおかしくないのだ。いや、そうあってほしい……


 しかし、良く判らなかった……


 世界を覆っているグレーの中で、夏未の周りだけは、別の色が混じっているように、見えないでも無かった。しかし、それは自分の願望が見せる、錯覚に過ぎないのではないか、とも思える。

 こんな風に、また後ろ向きの思考に陥ってしまったのは、一にも二にも、あの榊のせいだろう。明らかに、利陽土の中には、彼への言い知れぬ敵意が芽生えつつあった。しかし、これを夏未に親しげに接近する、彼への単なる嫉妬だと片付けていいものだろうか。

 何かが釈然としない……

「ねえ、夏未ちゃん……」

「え? なあに?」

「あの榊って奴に、あんまり関わらない方がいいと思うんだ……」

 利陽土は、カメ池の水面を見つめたままで、独り言のようにつぶやいた。半ば無意識にそんな言葉が出たことに自分で驚いた。

「え? 何で?」

「い、いや。何でも……」

「突然、変なこと言うね? どうしたの?」

「どうもしてないけど、何だかそう思うんだよ……」

「あ、そうか! 利陽土君、シットしてるんじゃない? 今日、あたしが榊君と話ばっかりしてたから~?」

 いきなり、何のてらいも無く核心を貫かれ、利陽土は二の句が次げなかった。頭部に血が上り、顔面がグラグラと煮えたぎりそうだった。

 夏未の言葉は、自分の心情の少なくとも半分は言い当てていると認めざるを得なかった。


☆               ☆    


「こんちは……」

 「アグライア」の店の出入り口を開けると、昨日と同じようにチャイムの音が店内に響いた。

「あ、利陽土君、いらっしゃい。みんな待ってたのよ」

 昨日とは違う柄の民族衣装を着た美里が、ソファから立ち上がって笑顔で出迎えた。髪型も昨日とは違っているようだ。

「あ、ああ……今日はぶ、部活だから……」

 出会い頭、「利陽土君」と呼ばれ、声が上ずってしまった。昨日別れる時に、美里にそのように呼ぶと言われたのだが、心の準備はまるで出来ていなかった。

「やあ、アミーゴ。よく来たね! 早速こっちに来て欲しいんだ! 君に見せたいものが有るのさ!」

 相変わらず、オペラ歌手ばりの大げさなゼスチャーをしながら、ムラクモが店の奥から出て来た。

「地下室で、キリコさんが待ってるわ。こっちに来て」

 ムラクモと美里の手引きで、利陽土は店の奥にある、薄暗く狭い階段を降りて行った。先頭のムラクモが、階段を降り切った場所にある、やたらと堅牢そうな金属製のドアを開けて中に入って行った。

 それに続き、部屋に足を踏み入れた途端、背筋から四肢へ妙な寒気が伝播して、利陽土は身震いした。冷房が入っているわけでもなさそうなのに、初めて経験する感覚だった。

 そこは八畳ほどの広さの部屋で、内装は酷く殺風景だった。四方の壁には、段ボール箱や収納ボックスが積まれ、床の中央にはテーブルと事務的なパイプ椅子が幾つか置かれている。椅子の一つにキリコが座り、手に取った何かの物体を吟味しているようだった。

「やっと来たわね、山村利陽土。やっぱり、本人が来ないと話にならないのだわ」

「ええと、キリコ……さん。こ、これって……?」

 アンティークドール、古びた手鏡、壊れた懐中時計、掛軸、市松人形、その他もろもろ……

 テーブルの上には、互いに何の関連性も無い、様々な物が置かれていた。何故か、それらを一つ一つ目で確認していく度に、先ほど覚えた悪寒が増大していくのを感じた。

「あなたが使う武器を選んでるのだわ」

「え、ぶ、武器?」

 素っ気なく言ったキリコの言葉は、全く予想外の物だった。

「そうよ」

「だ、だって……これとか、子供向けの着せ替え人形じゃないですか! 武器って……」

「正確に言えば、武器にも使える『いわくつき』のアイテム。ぶっちゃけ『呪物』なのだわ」

「ジュブツ……」

 ムラクモは、テーブルから懐中時計を手に取ると、それを利陽土に向けて見せながら補足説明をした。

「アミーゴ、呪物ってのは、早い話、呪いのアイテムさ。これらは全て呪詛に使ったり、怨念がこもっていたりで、素人がうっかり触れると危険な代物なのさ!」

 利陽土は、思わず後ずさりした。防衛本能が、危険を察知したのだ。

「ちょ……! そんなものを僕に使えって言うんですか?」

「山村利陽土!」

「は、はい!」

 キリコの、射抜くような視線の直撃を受けて、利陽土は震えあがった。

「昨日、私は言ったでしょ! あなたは凄い素質があるって!」

「だ、だから意味判りませんよ! メダカのように死にたがってるから凄いとか!」

「呆れたわ! まだ、判ってなかったの? じゃあ、教えるわ! あなたやミリのような、若い生命エネルギーに溢れる少年少女は、真霊戦士として強力な『攻撃力』を持っているのだわ。でも、反面防御に回った時に、もろさも抱えているの。生命力の裏返しとして、死の恐怖や絶望に対して免疫が無いのだわ」

「は……はあ……」

「でも、あなたは違うの。負のエネルギーに対して耐性が強いのよ」

「負のエネルギー? 耐性? わ、判りませんよ。そんなはず無いと思いますけど……」

「だって、あなた死ぬことが怖くないでしょ?」

「え……?」

 利陽土は、思わぬことを言われ、即座に何かを言い返そうと思ったのだが、何故だか喉が詰まってしまった。キリコの主張をはっきりと否定する言葉が出てこなかったのだ。

「人生に絶望してるでしょ? これから先、自分にはろくにいいことが無いと諦めきってるでしょ?」

「それは……違います……よ」

「じゃあ、将来の夢って何? 何の為に生きている? 毎日生きていて、楽しい事ってある? 普通、あなたくらいの年頃の少年は、『将来ビッグになってやるぜ』とか『俺には凄い才能が隠されているんだ!』とか『あきらめなければ夢はきっと叶うんだ!』とか、前向きなエネルギーに満ち溢れている物なのよ! そういう物があるって断言できるの?」

「そ、それは……」

 キリコの言葉は、ズバズバと容赦なく利陽土の心臓に突き刺さった。一言も言い返せなかった。確かに、自分はそんな自己肯定感とは無縁の世界に生きているかもしれない。

「だからと言って、自殺願望があるわけでも無い。言ってみれば、その歳でまるで老い先短い老人のように世界を達観し、虚無の世界で生きているのよ。自分なんかいつ死んでもいいって思ってる。道端のペンペン草みたいにいつ枯れても、メダカの群れの中の一匹みたいに、いつ死んでもいいって思ってる。そういう人間は、敵からしたら恐ろしい存在なのよ!」

 利陽土の深層に、四日前、公園でベンチに座っていた時の記憶が蘇った。確かにあの時の自分には、生きていることが全て嫌になり、人生の希望や、この世界への未練を全て失った瞬間が訪れたのではなかったか。思い返せば、その自覚が確かにある。それによって、自分は初めて幽体離脱して、「生と死の狭間」の世界に行ってしまったのかもしれない。

「敵? 恐ろしい……?」

「そうよ。失う物を持たない人間っていうのは恐ろしいでしょ? 特に、死の恐怖に付け込んで来ることを最も得意とする『暴霊』達には」

「…………」

 利陽土は、横目で美里の姿をちらりと視界に入れた。美里は、無言のまま俯き加減でキリコらの言葉を聞いているようだった。彼女は、どんな表情で今の話を聞いているのだろう。それを知ることが恐ろしくて、利陽土は直ぐに視線を前方に戻してしまった。

 キリコは、テーブルの真ん中に置いてあった、銀色の剣を手に取った。

「あ、それって……?」

「見覚えがあるでしょ? そうよ。これ、ミリが普段使ってる武器なのだわ」

 やはり、そうだった。剣身から柄まで一体成型のようなシンプルな剣だったから覚えていたのだ。

「正確に言えば、使っているのはこれから抜き取った『剣の霊魂』なのだわ。ほら、こうしてミリの髪の毛が縛ってあるのよ。これで、この剣の霊魂とミリの霊魂は一体化されているのだわ」

 そう言いながら、キリコは剣を利陽土の目の前に差し出した。確かに、柄の根元の方に髪の毛が縛ってあった。

「私たちは、『血まみれプリンセス・メリー』という通り名をつけてるわ。これ、 オカルトマニアが本物の黒魔術で使ってた代物で、これまでに五人呪殺してるのだわ」

「呪殺……」

 利陽土は絶句した。何気なく美里が手にしていて、特に感慨も無く利陽土も見ていた剣だったが、そんな恐ろしい代物だとは思っていなかった。

「最初は、これをあなたに譲れないかと思ったんだけど……」

「ええ!」

 とんでもない提案をいきなりされて、利陽土の背筋が跳ね上がった。

「だ、駄目ですよ! そ、そんな恐ろしい物、手で触れるのも無理、無理、無理ですって! 第一、それじゃミリの武器が無くなっちゃうじゃないですか!」

「それは違うのだわ。ミリには別の『本命の武器』があるのだわ」

 キリコは、我が意を得たりと不敵な笑みを浮かべ、椅子から立ち上がると、部屋の突き当たりの壁に歩み寄った。そこには金属製のドアがあり、金庫のようなダイヤル式の鍵がついていた。

「あ、キリコさん……」

 美里が、小さく声を漏らした。

「いいのよ、店長の指示なのだわ。これは、山村利陽土に見せておくべきだということなのだわ」

 そう言いながら、ダイヤルを何回か回していくと、ドアがゴトリと重い音を立てて開いた。中には、大小さまざまな箱が幾つも積まれていた。キリコは一番上に乗っていた、長さ五十センチほどの長さの古びた木箱を手に取って、テーブルに持ってきた。

 利陽土は息を飲んだ。その木箱には上蓋にも側面にも、黄色く変色した護符らしきものが、何枚も貼ってあった。

「御覧なさい、山村利陽土。これが、ミリの切り札、『タオヤメ』よ」

 そう言いながら、キリコが両手でふたを開けると、中に入っていたのは、赤い敷布の上に乗った日本刀だった。

「刀……ですか?」

「ええ、これは贋作村正よ」

「ガンサク? ムラマサ?」

「アミーゴ、贋作っていうのは、ニセ物ってことなのさ! 『妖刀村正』って知ってるかい? 幕末の頃にもてはやされた、徳川幕府を滅ぼす魔力を秘めた刀の事さ。これはそれの贋作なのさ!」

「え、ムラクモさん……じゃあ、ニセ物だったら魔力なんて無いんじゃないんですか?」

「ノーノーノー! そうじゃないのさ、アミーゴ! 名刀の贋作というものは、無名の刀鍛冶が作った物なのに、オリジナルに勝るとも劣らない逸品があったりするものなのさ。これもその一つさ。魔刀として名高い村正を参考にして、人を斬る事では無く、むしろ呪詛をかけることを主眼として幕末に作られた、呪殺専門の兵器なのさ!」

「もう、この『タオヤメ』の茎(なかご)にもミリの髪の毛を巻いているのよ。だから、使おうと思えば、この前の戦いだって、これを使うことも出来たのだわ。でも、使った時の反動が大き過ぎて、それは危険でもあるのよ。こういった武器の力は、基本的に呪詛だから、使えば相応の『呪詛返し』を食らうのだわ」

 利陽土は、再び隣に立っている美里の姿を横目で見た。キリコの口ぶりから、その危険というのは、あるいは命を落とすほどの物だという事は容易に想像がついた。 しかし、美里の横顔は平穏その物で、動揺や怖れは微塵も感じられない。恐らく、今の話はとっくに周知の事であって、美里は全ての覚悟を飲み込んでいるのだろう。

「まあ、プリンセス・メリーはあなたとは相性が悪いようだから、また別のアイテムを探してこなくちゃいけないのだわ。今日、店長がいないのは、仲間のグループの所に行って、武器を調達する為なのだわ」

 美里が危ない……

 彼女が戦いで追い詰められれば、あるいは「タオヤメ」を使わざるを得なくなる局面に追いつめられるかもしれない。そうなれば……

「山村利陽土! あなた、この期に及んで、自分は戦いたくない、逃げたい、怖いのは嫌だ、自分には何もできない、とか思ってるでしょ!」

 キリコは、勢いよく、人差し指を利陽土の眼前まで突きつけた。

「それは違うのよ! あなたが飼ってるメダカだって、一時も休まず泳いでいるでしょ! 泳ぐことと食べる事しか能の無いメダカ達は、自分たちに出来る事を精一杯やってるのだわ!」

 利陽土の胸に、その言葉が苛烈なまでに突き刺さった。これまで、一日も欠かさず観察して来た、自分の部屋のグッピーたちの姿が、脳裏にひらひらとちらついた。もちろん、そんな観点で彼らを捉えたことは一度も無かった。

「あなたに、メダカよりも多少はましに出来る事があるのであれば、それを精一杯やりなさい! どうせ、いつ死んでもいい、いつ終わってもいい人生だと思っているのなら、生と死の狭間の世界で、戦い抜き、朽ち果てなさい! それがあなたの天命という物なのだわ!」

 美里が危ない……再度、そう思った。

 自分が、せめて自分の身を守れる位には戦えるようにならないと、美里の負担は減らないのだ。だから……

(痛っ……!)

 首筋の痛みがまた走った。

(そうだ……夏未ちゃんを守らなければ……)

 利陽土に突然そんな考えが浮かんだ。キリコの言葉が引き金になったにせよ、それが、昨日からずっと不完全燃焼のままくすぶっていた彼の迷いを払拭させた。

 もはや、利陽土の中には、自分が直面している危険から目を背けるという選択肢は無かった。

 すると、昨日出会って以来、キリコが初めて唇の端に微かな笑みを浮かべて見せた。

「よろしい、判るわ。山村利陽土……覚悟を決めたわね」

「え……?」

「いい目つきになってるのだわ」

「そう……なんですか? 良く判りませんけど……」

 利陽土の背後で、突然パチパチと派手に音が響いた。振り返ると、ムラクモが満面の笑みを浮かべて、大げさに拍手をしていた。

「ファンタスティコ! アミーゴ! だったら、話は早いのさ! 早速レッスン1だね! これから『真霊』になって、美里と町をお散歩でもしてみるのさ!」

「そうね、あなたたち若い二人で、霊魂の世界をデートしてくると良いのだわ」

「ちょっ……!」

「えっ!」

 利陽土と美里が、殆ど同時に、今日一番の大声を上げた。

「な、何言ってんですか! キリコさん! そんな! 突然変なこと言わないで下さいよ!」

 利陽土は、これでもかと両手をぶんぶん振り回し、取り乱した。「デート」などという、一生自分には関わり合いが無いと思っていた単語を突然使われて、動転してしまった。見ると、赤面症の気がある美里も、リンゴのように耳まで真っ赤になっている。

「あら、ウブなあなた達には、ちょっと刺激が強い言葉だったようだけど、その程度のショックじゃ幽体離脱しないようだわ」

「え?」

「真霊戦士になるためには、まず離脱を自由に出来ないといけないのだわ。もう二回もあなたはしてるから、ちょっとした精神的動揺で離脱するかと思ったんだけど……」

「そ、そういう物なんですか?」

「そういう物よ。最初の一回の離脱が出来るまでが一苦労なのだわ。山村利陽土! 今自分の意志で、幽体離脱できない? 前の時の感覚を思い出すのだわ!」

「む……無理ですよ……あの時は訳も分からず逃げようと思っただけで……」

 その言葉を聞いて、ムラクモが、指をパチンと鳴らした。

「なるほど判った! じゃあこれでどうかな? アミーゴ!」

 彼の言葉を合図にしたように、何処からともなく、くぐもった唸り声が聞こえて来た。耳を澄ますと、それは利陽土の向かいにある壁の中から聞こえてくるようでもあったが……

「え……これって……」

 聞き覚えのある声の質だ……利陽土の体内に潜んでいた記憶が呼び覚まされ、チリチリと悪寒が走った。

 突然、壁の中から、合掌した半透明の両手がぬっと浮かび上がった。

 それから続いて、スーツを着た中年サラリーマンの上半身も……

「ウアアアアア○△×☆○△×☆○△×☆○△!!!」

 特大の悲鳴を上げながら、利陽土は逃げ出そうとした。しかし、いかんせん狭い室内の事、振り向いた途端に壁にぶち当たってしまった。

「ウアアアアア○△×☆○△×☆○△×☆○△!!!」

「ハハハハ! すまなかったね、アミーゴ! もう怖がることは無いよ。彼にはもう引っ込んでもらったからね」

「え……」

 ムラクモの声で我に返り、利陽土は再び振り返った。確かに、あの男性は壁からいなくなっていた。

「今のは、『般若心経おじさん4』さ」

「4……?」

「そうさ、君が前に自室で出会った奴は多分『9』だね。霊というのは、コピーを作り増殖するものなのさ。今の『4』は随分前に僕が倒した後で『誘霊』として使っている「手駒」の一人なのさ。君に、前に幽体離脱した時の感覚を思い出してもらおうと思って登場してもらったってことさ。上手く行ったじゃないか! 今のその感覚を忘れちゃいけないのさ!」

「え……?」

 利陽土は、今一度冷静に周囲を見回した。殆どの点で、室内は先ほどまでの光景と全く同じだった。しかし、キリコとムラクモとミリは、「衣服だけ」になっている。肉体が殆ど透明になっていて、まるで幽霊のように、うっすらと見えているだけだ。そして、足元へ目を移すと、利陽土の学生服が床に横たわっていた。まるで、彼本人が着ているかのように膨らんだ状態で。

「あ……これって……」

「そうよ、山村利陽土! あなたは『真霊』化したのだわ。さっき驚いた拍子に」

 殆ど肉体が透明になったキリコだが、その声は不思議な事に明瞭に聞こえる。

 利陽土は、前にムラクモらから受けた説明を頭の中で復習した。それによれば、今自分は「生と死の狭間の世界」にいるのであって、目に見えている物は、テーブルも椅子も壁も、全てが物質に宿る「霊魂」なのだ。生きた人間の霊魂だけは、肉体に固く封印され、防御されているために、殆ど見えないし、触れることも出来ないということだ。今の利陽土の肉体は、まるで恐怖で失神したように床に倒れているのだろう。

「じゃあ、美里。山村利陽土にお手本を見せてあげなさい! それで、少し一緒に街を歩いてくるのよ。まずは、『真霊状態』に慣れる事から始めないといけないのよ。それが訓練の第一歩なのだわ」

「あ、はい」

 そう答えた直後、殆ど透明だった美里の肉体が、背後に向かって、セミが幼虫から脱皮するように、衣服だけを残して抜けて行った。そして、またたく間に不透明で正常に見える姿を取り戻した。

「あ……」

 利陽土は呆けたような表情でそれを見つめるしかなかった。まるで、映画の特撮映像を見ているようだった。目の前の美里は、髪型もストレートに変わり、着ている衣服はあのセーラー服になっていた。正しく、これまで二度出会った「スカーレット・エッジ」そのものの姿だ。そして、それまで着ていた仕事用の民族衣装は、彼女の隣で、完全な抜け殻となって立ち続けている。

 美里は、先ほどまでとは打って変わった、凛とした視線で利陽土の目を見据えて言った。

「じゃあ、少し外を歩きましょうか、利陽土君」


☆                 ☆


 利陽土と美里は「アグライア」を出ると、買い物客でにぎわう上代町商店街を歩いて行った。商店街の街並みそのものは、完全にいつもと変わらぬ風景に見える。ただし、歩いている人々は、一人残らず衣服だけが正常に見えていて、肉体は殆ど透明状態だ。そして、逆に通行人達からは、利陽土たちの姿は一切見えていないのだろう。何しろ、今の二人は「幽霊そのもの」なのだから。

「利陽土君、やっぱり人の身体が見える?」

「え? うん。うっすらとだけど」

「やっぱり、利陽土君も幽霊が見える人なのね。今の状態で、生きている人が半透明に見えるってことは、逆に肉体を持っている状態だと幽霊が半透明に見えるはずなのよ」

 美里の言葉を肯定するのは酷く抵抗があったものの、否定することも出来なかった。確かに、さきほどは肉体が金縛りなどの特殊な状態でも無かったのに、霊体である「般若心経おじさん4」を眼前ではっきりと見てしまったのだから。

 丁度その時、十メートルほど先で、こちらに向かって歩いて来る子供連れの主婦らしき女性と、利陽土の目が合った。女性は一瞬目を見開き、怯えたような表情を浮かべると、即座に目を背けてしまった。もちろん、驚いたのは利陽土も同じだった。

「あ……今、あの女の人、利陽土君のことが見えたみたいね」

「そうなんだ……ってことは、あのおばさん、霊感が強いってこと? 僕を幽霊だと思ったんだね」

「何言ってるの? 今の利陽土君は幽霊なのよ。フフ……まだ自覚が無いのね」

 美里はクスリと笑いながら言った。

「やっぱり、そういう人っているんだね~ ええと、だったら……ミリ……は、幽霊が普段から見えるの?」

「ええ、見えるわ。私の場合は、半透明じゃなくて、もっとはっきり見えるの。全く普通の人みたいにね。死んでるか生きてるかの区別は大抵つくんだけど」

「え? 完璧に……ってことは、今、周りで歩いてる通行人の霊体も……」

「そうよ。全く普通の人みたいに見えるわ」

「そういうことなんだ……昔からそうなの?」

 そう利陽土が何気なく尋ねると、美里は僅かに間を置いた後で、

「うん……」

 と、やけにそっけなく答えた。

 その声の隙間に、僅かな陰りを感じとり、利陽土はその話題を繋ぐことが出来なくなった。

 しばらく、無言で歩いているうちに、二人の間の空気は微妙に重くなってしまった。

 話題を変えるために、利陽土はずっと気になっていた些細な疑問について質問することにした。

「ところで……今、ミリの肉体の方は……『それ』ってどうなってるの?」

 美里のすぐ隣には、彼女が店内で来ていた民族衣装が宙に浮いており、店を出てからずっと二人に付き添って、上下しながら移動しているのだ。美里の物質としての肉体が服の中に入っているのだが、「真霊化」している今の自分には見えないということは理解できる。しかし、魂の抜け殻になった肉体が何故歩けるのだろうか。利陽土が、美里の衣装を指さして尋ねると、美里は涼しい口調で答えた。

「ええ、普通に道を歩いてるのよ。私が動かしてるの。生きている人の目から見れば、普通に意志を持って私が行動しているようにしか見えないし、会話することだって出来るのよ。慣れると簡単よ」

「つまり……霊体として行動するのと同時進行で肉体もラジコンみたいに動かせるってこと? 凄く器用だね」

 美里は、苦笑しながら。

「でも、さすがに霊体と肉体で同時に別々の事を会話するのは、まだ出来ないの。右手と左手で別々の文章を同時に書くようなものだから」

「なるほど……そりゃ難しいよ。で、僕の肉体の方は店で倒れたままなのか……ん……?」

 その時、これまで見落としていた、単純な疑問にようやく突き当たった。

「え、何か……?」

 利陽土は、自分が着ている学生服の表面を、両手でさすりながら尋ねた。

「じゃあ、僕が今着ている、この『服』って、どういうことなんだ? だって、『僕の学生服の霊体』は店の床に倒れた僕の肉体が今でも着てるんだから」

「今は、『裸』で無くちゃおかしいって思ったのね。そうじゃないの。今の利陽土君は霊魂としての姿なのよ。だから、その『服に見えるもの』は利陽土君の霊魂の一部なの。だって、利陽土君、服を脱いで裸になった『自覚』は無いでしょ? まだ、学生服を『着ているつもり』でいるから、服を着ている姿のままでいられるのよ」

「そういう物なのか……あ、じゃあ、ミリが今着てる制服は……」

「そうよ。今の私は、こういうデザインの制服を着て、こういう髪型なんだって、私がイメージしてるってこと。そうだ、利陽土君」

「え? 何?」

「ちょっと、ここで垂直跳びしてみて?」

 美里は、突然立ち止まると、意外な提案をしてきた。

「え? 垂直跳び?」

「そう。体力測定でやるようなやつね。思い切りやってみて欲しいの」

 利陽土も立ち止まり、一旦周囲を見回した。商店街の真ん中でいきなり意味も無くジャンプなどしたなら、普通なら奇異な目で見られてしまうだろう。しかし、今の霊体としての利陽土の姿は、ここを歩いている人達には見えていないのだから、そんな気遣いは無用なのだ。

「う、うん……」

 美里の真意が判らないまま、利陽土はそれでも少し恥ずかしそうにしゃがみこむと、思い切りジャンプした。悲しいほどに体力が貧弱な利陽土は、垂直跳びの記録も寂しい物だ。申し訳程度に跳び上がると、直ぐに着地をしてしまった。

「これで、いいの?」

「うん。じゃあ、私も跳んでみるから、見ててね」

 そう言ってから、今度は美里が小さく膝を曲げると、軽く地面を蹴った。美里の身体は、ヒラリと数mも舞い上がり、跳躍の頂点に達した後、スカートを抑えながらスタリと着地した。

「す……凄い……」

 その様子を見た利陽土は、文字通り口を開けたままになってしまった。

 思い出してみれば、この前の戦いで美里が見せたジャンプは、今の物より遥かに高かったのだ。もちろん、生きている人間では有り得ない能力だ。

「利陽土君は、これだけの高さのジャンプをした時の感覚って想像できる?」

「いやいや、無理だよ。そんなジャンプはできっこないから……」

「普通は無理よね。きっと人間って、肉体が記憶してきた感覚しか、再現できないのよ。自分には、こういう事しかできっこないって思い込んでる。でも、それを打ち破れば、今の『真霊』になってる私達には、どんなことだってできるし、何にだってなれるのよ。利陽土君がこれまで出会った幽霊達だってそう」

「え? リバーシブルAYAとか、阿修羅女とかも?」

「そうよ。当たり前だけど、生きている時は普通の人間だったの。自分が死んだっていう自覚も無く、長く幽霊をしている間に、自分自身に対する認識がどんどん変化して行って、あんな妖怪みたいな姿になったのよ」

「じゃあ、自分が『できる』とイメージ出来れば、それが可能になるってこと?」

「そうよ。私だって、少しずつイメージを鍛えて、自分が出来る事の範囲を広げていったの。だから利陽土君だって、凄い戦いが出来るというイメージを鍛えれば、どんな設定のどんな最強ヒーローにだってなれるのよ」

「む……無理無理無理、そんなの! 僕には出来ないよ!」 

「そうなの?」

「そうだよ。自分には何でもできるなんて想像は無理だよ。だって、僕は、勉強も運動も何もできないし……今だって……小学生の漢字だって覚えられないんだ」

 利陽土は、美里から少し身体を背け、俯いてしまった。彼女の声の中に、自分に対する憐憫の情が潜んでいるのを感じとり、顔を向けるのが辛かったのだ。

 美里の跳躍を一回見ただけで、利陽土の弱気が一気に吹き上がってしまった。長年にわたって積み上がって来た、無力感、コンプレックスはそうそう払拭できる物では無い。先ほどは、真霊戦士になると決意を固めたばかりなのに、あっという間にそれがくじけそうになっている。そんな自分を余りにも不甲斐なく感じて、目頭に自虐的な涙まで滲んで来た。

「ハハ……僕はやっぱり駄目だな……」

「ねえ、利陽土君……私ね、ある人に以前、こんなことを言われたの」

「え?」

 美里は、利陽土から視線をそらし、まるで自分に言い聞かせるような面持ちで、そんなことを口にした。普段の敷嶋美里とも、スカーレット・エッジのミリともまた違う、優しさに満ちた声色で。

「起こった『事実』は絶対に変えることが出来ない……でも……」

「……え?……ちょっと、ミリ……あれって……」

 美里の言葉の途中で、利陽土は、とある異変に気が付いた。はるか前方、商店街の入り口付近に、一つの異変を見つけたのだ。

 通行人の群れに混ざって、道の真ん中でただ一人、こちら側に正面を向けて、しゃがみ込んだ人物がいるようだ。服装からすると、女性のように見える。

「あの人……何やってんだろう……?」

 よく見ると、しゃがみ込んでいるというより、両手を地面につき、片脚を前方に、もう片方の足を後方に曲げている。要は、単距離走の「クラウチングスタート」のポーズだ。

 そう気が付いた直後。

 女性はツンと尻を高く上げて、今正にスタートを切ろうという姿勢になった。

 どこからともなく、スタートピストルが「パン!」と鳴る音が響いた。殆ど同時に、女性がこちらに向かって、猛ダッシュして来た。

 それ自体が異常な出来事だったが、利陽土は見逃してはいけない重要な事実にやっと気が付いた。

 女性は、エプロンをつけた家庭の主婦らしい女性だ。

 そして、その姿は周囲の通行人とは違い、「不透明」で明確な身体を持っている……いや、持っているように見える。

 今の「真霊状態」の利陽土の目でそのように見える、ということは、つまり……

 猛スピードで近づいて来るにつれて、女性の表情が、否が応でも目に入った。顔全体を醜く歪め、憤怒をむき出しにしている。そして、顔にも身体にも赤黒い、血しぶきのような汚れがこびりついている。

「う~ら~ぎ~り~も~のおおおおおお~っ!」

 いつの間にか、女性は右手に「フライパン」を、左手に特大の「文化包丁」を握っていた。それを頭上高く振り上げると、バンザイの姿勢を保ったまま、利陽土の目を見据えながら、全速力で突進して来る。

 利陽土は、「彼女」のターゲットが自分なのだと察した。

「ウアアアアア○△×☆○△×☆○△×☆○△!」

 悲鳴を上げながら、逃げようとしたが、身体がすくんで動けなかった。咄嗟の事態には、肉体を持っている時と違って、自由が効かないのだ。

「あれは『スプリンター・クッキングママ』よ! こんな所に!」

 ミリはそう叫ぶと、敵に向かってダッシュした。同時に、右腕を真横に向かって突き出すと、ヒュンと風を切るような音と共に、手に握られた「プリンセス・メリー」が出現した。

「ゆ~る~せ~な~いいいいいいいいいっ!」

 肉薄して来るミリにひるむことも無く、クッキングママは激走して来る。

 ミリは、真横一文字にプリンセス・メリーの斬撃を放ち、ママとすれ違った。

 いとも簡単に、ママの身体がウエストの位置で上下二つに分断された。

 所が、下半身は勢いを全く落とすことなく、様々な色の光の粒子を切断面から噴出しながら、尚も激走して来る。そして、上半身もまた、両腕でフライパンと包丁を振り上げた姿勢のまま、空中を飛んで利陽土に襲い掛かって来た。

「利陽土君!」

 ミリが後方を振り返って、声をかけた。しかし、利陽土の両足は硬直して一歩も逃げられない。

「う~ら~ぎ~り~も~のおおおおおお~っ!」

 ママの絶叫が鼓膜を破らんばかりに響き渡る。

 利陽土の脳裏に、フライパンと包丁で頭がかち割られ、切断され、憤死する自身の姿が浮かんだ。数日前の利陽土であったなら、意識の一切を、諦観の海に沈めてしまう瞬間が、あるいは訪れたのかもしれない。

 しかし、利陽土は目をそむけたまま、我知らず、ママに向かって右手の拳を突き出していた。

 もう少しだけ生きなければならない、今死ぬわけにはいかない……

 心の底に芽生え始めた、そんな頼りない意志が、彼の霊体を突き動かしていた。

 拳の先端に、固い物が突き当たる衝撃が起こる。

 同時に、バチンと何かがはじけ飛ぶ音が響いた。視界一杯に白い閃光と、鮮やかな黄色をした火花が散乱した。

 その後に訪れたのは、嘘のような静寂。

 恐る恐る利陽土が前方に向き直ると、クッキングママの姿は上半身も下半身も消えていた。辺りを見回すと、地面に細かな肉片と血痕らしきもの物が、無数に散らばっている。

 少し離れた場所で、ミリが呆気にとられた表情で、利陽土に向かい合っている。

「す、凄いわ、利陽土君!」

「え、ええと……」

 利陽土は、何が起こったのか、全く状況を理解できていなかった。

「判ってる? 今あなた、あいつを倒したのよ? 一発でバラバラにしたの。一体何をしたの?」

「て……いうか、今のあの人って何?……やっぱり『誘霊』?」

「ええ、敵が送り込んで来たのね。しぶといことで有名な奴よ。私も出会ったことは初めてだけど、あの一撃で倒しきれないとは思わなかった……」

「僕らが『真霊化』したことに気が付いて攻撃して来たってこと? どうして気が付いたんだ?」

「さっき、利陽土君と目が合った女の人がいたでしょ。多分、あいつが『暴霊』だったのね。利陽土君を見つけて、怯えたような表情をして見せたのは、きっとカモフラージュよ」

「ええっ? だって、あの人……普通に子供を連れて、普通にお母さんだったじゃないか!」

「そういう物なのよ。『暴霊』は、表面上はああやって、ごく普通の人間として生活している……でも、日夜『誘霊』を使ったり、自ら手を下して、人に危害を加えているのよ」

 改めて周りを見回すと、周囲の生きた人間達は、利陽土たち「霊」の戦いなど知る由も無く、何事も無く歩き続けている。そして、散乱していたママの残骸は、見る見るうちに細かな粒子となって消滅して行く。

「これ、僕が本当にやったのかな?……無我夢中で拳を突き出しただけなんだけど……」

 利陽土は、自分の右の甲をしげしげと眺めた。傷もついていないし、特別な変化は何も無さそうだった。

「そうだ。さっき、言いかけてたことがあったわよね。ある人に以前、こんな事を言われたって話……」

「あ、そう言えばそうだったね」

 ミリは、今度は利陽土の顔を正面から見据え、慈愛に満ちた笑顔を浮かべて語りかけた。

「起こった『事実』は絶対に変えることが出来ない……でも、『事実』に対する『解釈』は変えることが出来る。そして、『解釈』を変えれば、あなたの世界は変わる……」

「解釈を変える?」

「そう……初めて『アグライア』に来店した時、マリーベルさんにそう言われたの。それで私は、『スカーレット・エッジ』になったのよ」

「マリーベルさん……店長さんに?」

「だから、できるわ。利陽土君にも出来る事がきっとある。今出来る事を出来るだけする。それを続けて行けば、あなたの世界はきっと変わるわ」


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