「アグライア」

「その時、かなしばりになって、まぶたも動かせなかったA君は、天井を凝視せざるを得なかった。すると、いきなり天井板から、合掌をした両手が浮かび上がって来た! 同時に、低い男性の声で、般若心経も聞こえて来たあああ!」

「うあああああ! 無理無理無理! もう止めてくれえええ!」

「ヒャヒャヒャヒャ! 判ったよ、そこまで言うなら、この後はもう話さないよ。でも、利陽土~この続きは、また次の追試の前に話してやるから期待しろよ~!」

「もう勘弁してくれよ! せっかく覚えた漢字忘れちゃうよ!」

 利陽土は猛烈な勢いで、ノートに「霊魂」「霊魂」「霊魂」「霊魂」……と延々と書き続けていた。

 山村利陽土の「数少ない悪友の一人」有田賢人は、今日もまた、これ以上楽しいことは無いとばかりに、体をよじらせて喜んだ。

 二人とも、飽きもせずに、一昨日と全く同じようなやり取りを繰り返しているのだ。

 ただし、今回有田が披露した怪談は、よりによってカミ高七不思議の一つ「般若心境おじさん」の話だった。昨日、正に「本物」と自室で遭遇した利陽土の脳裏に、あの時の恐怖が生々しく蘇った。

 この日の漢字テストの追試は、前回よりも更に点が低かった。結局、昨晩は勉強が全くできなかったのだから、当然の結果ではある。

「や~ま~む~らあああ~! 同じ問題なのに一昨日よりも点が低いってどういうことだあ! 舐めてんのか! お前は、俺の教師生活史上、最低最悪の生徒だ! 生きてる価値も無い虫けらだ! メダカだ! 道端のペンペン草だ!」

 ツガケンの罵倒も、過去最大級の激しさだった。幾ら何でも、こんな人格否定発言は教師としてどうかと思ったが、利陽土としては全く反論の余地の無い点数だったから、それを甘んじて受けるしかなかった。

 結局、追加の漢字の書き取りを一時間もやらされたお蔭で、教室を出る時間は大幅に遅くなってしまった。

 利陽土は、体に染みついた習慣に従い、人気の無い廊下を無心で歩いて行った。しかし、立ち入り禁止のロープのすぐ目の前まで達した時、ようやく西階段が使用禁止になっていたことを思い出した。

 突き当たりの壁に一メートル以上もある大穴が開いていて、踊り場には瓦礫が未だに散乱している。あの場所は、リバーシブルAYAの投げた手錠が、激突した場所だったのだ。あの時に破壊した物は、あそこの「壁の霊魂」だったのだろうか。それによって、半日のタイムラグの後、「物質としての壁の崩壊」も起こった……そう考えればつじつまが合う。

 まさか、昨晩ムラクモやミリからされた馬鹿げた説明は、すべて真実だったとでもいうのだろうか。

 利陽土は、中央階段を降りながら、制服のポケットから四つ折りにされたメモ用紙を取り出し、広げて見た。今朝、下駄箱の中に入っていた物で「占いの館 アグライア」に来て欲しいという、美里が書いたメモだった。


          ☆            ☆


「利陽土君! 遅かったね!」

 利陽土が、下駄箱から取り出した靴に両足をねじ込んでいると、横から弾けるような女子の声が飛んできた。声の方向へ顔を上げると、満面の笑みを浮かべた制服姿の夏未が立っていた。

「夏未ちゃん……ひょっとして待ってたの?」

「そうよ! 今日も、公園に行って次郎を見るんでしょ? 一緒にいこ!」

「あ……いや……」

 利陽土は、言葉に詰まった。正直、今日は部活も無く、夏未に会えるとは思っていなかったから、これは嬉しすぎる誤算だ。できることなら、家に帰るまでずっと彼女と一緒にいたい。心の底からそう思うのだが……

 しかし、同時に今日は何としてもその気持ちを抑えて「アグライア」に行かねばならない。そんな使命感も利陽土の中には同時にあった。どういう訳か、夏未の顔を見た途端、その気持ちはむしろ大きくなっているようだった。

「ああ……ええと……ご、ごめん夏未ちゃん。今日は予定が……」

「えええええ? 何でよお! せっかく待ってたのにい!」

「ご……ごめん! 本当にごめん! 明日は一緒に行くから!」

「全くう……じゃあ、途中まで一緒に帰ろ? それならいいでしょ?」

「う……うん、そうだね……」

 校舎から出て、裏門に向かう途中、夏未は今日もたい焼きを一つカバンから取り出すと、利陽土に渡してきた。それを尻尾の方からほんの少しかじると、名残惜しむように、舌の隅々までを使って、粒あんの甘みを味わった。

 商店街を二人で歩いている最中、夏未はひっきりなしに、一方的に利陽土に世間話を続けた。

 少しずつ、いつまでもたい焼きを食べながら、それを耳に入れながら歩き続ける。ただそれだけの行為に過ぎないのだが……

 しかし利陽土は、いっその事、このたい焼きを永遠に食べ続けることが出来れば良いものをと、埒も無く思ってしまった。


☆             ☆


 「占いの館アグライア」は「上代商店街」の中央付近から枝分かれした、狭い路地の途中にあった。地元の商店街にある店なのに、利陽土は存在すら知らなかった。

 店の看板には、いかにも女性受けしそうな、パステルカラーのデザインで「Aglaia」と英字で書かれてある。店の外観は、それほど怪しくも無いが、それでも「占い」と大きく書かれた店に一人で入って行くのは、根性無しの利陽土にとっては、一大決心を要する行為だった。

 ドアには「本日の営業は五時までとさせていただきます」という張り紙が目の高さに貼ってある。早めに営業を終えるのは、利陽土の来訪に備えてのことだろう。ここまでセッティングされているとなると、もはや後戻りすることは許されていないのだ。

 取っ手を握ると、意を決しドアを引いた。同時に、来客を報じるチャイムが室内に鳴る。

「お邪魔します……」

 遠慮がちにそう言いながら、店内に足を踏み入れた。そこは待合室になっており、すぐ右手には受付のカウンターとキャッシャー、左手の奥には予約客のためのソファーが置いてあった。

「あ、利陽土君! 良かった! もう来てくれないのかと思った」

 小走りで店の奥から現れた人物の声は、間違いなく美里の物だった。しかし、利陽土には、その女子が敷嶋美里であると、にわかには認識できなかった。

「え……? あ、これ? ごめんなさい! この服……さっきまでお仕事してたから……」

 利陽土が呆気にとられた表情で、自分の姿を隅々まで見回していることに気が付くと、美里は途端に頬を紅潮させ、肩をすぼめてしまった。

 美里は、あの黒縁眼鏡をかけておらず、髪にもエキゾチックな銀の飾りをつけていた。また、衣装には精緻な刺繍が全体に施されており、アジアか何処かの民族衣装という物なのだろうが、そういう物を生まれて初めて見た利陽土にとっては、インパクトが強すぎた。しかし、その過剰なまでに恐縮し恥じらう仕草は、正しく昨日学校で会った「敷嶋美里」そのものだった。

「あ……いや……ごめん……勉強で残されて遅れちゃって……」

 本心を言えば、利陽土は「謝ることは無いよ」とか「いや、似合っているよ」などということを言いたかったのだが、彼にとってそれはハードルが高過ぎる試練だった。

「おお! アミーゴ! 来たんだね! 僕らアグライアは君を歓迎するよ!」

 今度は、美里の背後から、張りのある大声と共に、ムラクモと見知らぬ二人の人物が現れた。

 利陽土はさらなる驚愕で、窒息しそうになった。その三人は三人ともが、とんでもない出で立ちをしていたのだ。まるで自分が、コスプレが売りの「何とか喫茶」の類に紛れ込んでしまったのでは無いかと錯覚してしまった。

 ムラクモは昨日と同じようなタキシードを着ていたが、今日の物は目に突き刺さる程鮮烈な紫色だった。また、残り二人の内、ショートカットの若い女性の方は、きつい顔つきながら大変な美人で、これまたインド風の民族衣装を着ていた。胸元と腹部の肌が大きく露出していて、高校生の利陽土には、正視できないほど刺激が強かった。

「いらっしゃい。君が、噂のメダカ少年ね」

 若い女性が、前に進み出てきて、高圧的な口調で利陽土に話しかけた。

「メ……?」

「そうよ、メダカ君。ミリから話は聞いてるわ。あなたメダカ飼いの名人なんだって? 随分奇特な特技を持っている物ね」

「え……ええと……」

 体格は小柄なものの、女性の眼光と声の力は圧倒的で、利陽土はのっけからたじろいでしまった。様子を見かねた美里が、すかさず助け舟を出した。

「あの……キリコさん。山村利陽土君……です……」

「やまむらりひとお?」

 利陽土のフルネームを聞いた途端、キリコは眉をひそめた。

「え? そうですけど……何か……」

「やまむらりひと……やまむらりひと……! なんて絵に描いたように恥ずかしい名前なの! あなた、それだけでも生きているのが辛い人生なんじゃなくって?」

「は……はあ……」

 利陽土はとぼけてみせたが、実際にはその言葉は、痛烈なまでに胸に突き刺さっていた。下の名前の「利陽土」は、漢字といい読み方といい「キラキラネーム」の部類なのに、上の方は「山村」という、てんで冴えない苗字だから、フルネームはアンバランスな事この上ない。その女性は明らかにそういうことを言っているのだ。本音を言えば、この名前は数ある利陽土が抱いている密かな、そして根深いコンプレックスの一つだったのだから、それをいきなり突いて来る彼女は只者では無いのだ。

「まあ、いいわ! 山村利陽土! 早速そこに座るのだわ!」

「え……はい……」

「グズグズしない! さっさと座るの!」

「あ……は、は、はいっ!」

 利陽土は、凍えたハムスターのように背を丸めてソファーに座り込んだ。キリコという名前らしいインド風衣装の女性は、悠然と利陽土と直角に位置するソファーに座ると、片手に持っていたカードの束をローテーブルの上に広げ始めた。

「私の名は、キリコ・ヘプバーン。以後、『キリコさん』とお呼びなさい。いいわね、山村利陽土。最初にこれだけは言っておくけれど、決して『キリコ様』とか『お姉さま』とか『女王様』とか『女帝』とか呼んでは駄目なのだわ!」

「あ! はは……はい! 決してそんな風には呼びません! キリコ……さん!」

 ムラクモら、残り三人の店員達も、キリコの隣に順次座った。利陽土は思わずつばきを飲み込み、居住まいを正した。これではまるで、私立高校の面接試験のようだ。

「改めて自己紹介するよ。この僕、ムラクモ恭介は、裏の顔は愉快で明るい『真霊戦士』だけど、表向きは、このアグライア専属の超人気占い師でもあるのさ! そして……」

 そう言ってから、ムラクモは三人目の店員の方へ目をやった。

 その人物は、さきほどからずっと無言だったのに、キリコ以上に異様なオーラをムンムンと放っており、利陽土はずっと気になって仕方が無かったのだ。

(何て…………でかいオッパイ……)

 まずはそこだ。

 中東風デザインのドレスは胸元が大きく開いていて、風船のように大きな真っ白い胸のふくらみがこれみよがしに露出している。

 利陽土とて男子高校生だから、どうしたってそこに目が行ってしまう。そこから目を逸らしても、今度は、かなり短いスカートから伸びた赤い網タイツに包まれた二本の太ももが、嫌でも視界の端にちらついてしまう。

 真っ赤なルージュ。紫がかったアイシャドー。エキゾチックなアクセサリーが全身を飾っている。年齢は結構行っているようだけど、なんてケバい女性なのだ……というのが利陽土の第一印象だった。

「そして、こちらの人が僕らのボスで、店長でもあるマリーベル寺崎さ!」

ムラクモは、TVの司会者のような無駄に華麗なゼスチャーで、隣に座っている「アグライア」のボスを、大物女優のように紹介した。

「マリーベルよ。よろしくね、リヒト君」

 泰然とした態度を少しも緩めること無く、マリーベルは利陽土に微笑みかけた。よくよく見ると、この人もかなりの美人だ。そして、キリコとはまた違う、重い威圧感を身にまとっている。

「リヒト君、まず聞きたいんだけど、君は前から幽霊が見える人だったのかしら?」

「え? ゆ、幽霊?」

 マリーベルが、いきなりとんでもない質問をしたので、利陽土は、素っ頓狂な声を上げてしまった。

「そうよ。霊感があるとか、ときどき幽霊を見るとか、心霊的に悪い物を感知するとか……今回の事件以前に、そういう経験はあるかしら」

「い、いやそんなことは一度も無いですよ。だから僕も、びっくりしてるんです」

「なるほど……じゃあ君は、今回初めて『目覚めた』人なのかもしれないわね」

「目覚めた……? ていうか、あれは本当に幽霊なんですか?未だに信じられないんですけど」

「アミーゴ~ 君は、そもそも何で東京が『東京府』になったか知らないようだよね。そこから知らないといけないのさ」

 ムラクモが、人差し指を「チッチッチ」と振りながら口を挟んだ。

「東京が『府』になった理由……?」

 歴史の授業がろくに頭に入っていない利陽土でも、戦争が終わった後で、東京が「都」から「府」に変わったことは知っていた。しかし、言われてみれば、教師からその理由を明確に教わった記憶が無かった。

「東京は明治以降に急速に町を変化させてしまったために、『風水』を破壊してしまったのさ。それで、震災と空襲という二度の災厄を呼び込んでしまったんだね。そこで、政府は神道界や仏教界と連携して、東京を『霊的に』立て直すために、根本から都市計画を練り直したのさ。そこで、手始めに「都」を京都に移し、東京を「府」にしたんだよ。この前、江戸城の天守閣の再建を開始したけど、それも東京の『風水再生計画』の一環なのさ」

「は、はあ……」

 耳ではムラクモの話を聞きながら、利陽土はぼんやりとキリコの様子を目に入れていた。彼女は、十本の指を使って、グルグルと円を描くように、テーブルの上でタロットカードをかき回している。何の目的かは判らないが、占いの類をしているのだろう。

「でも、そんな努力の甲斐も無く、この東京は、未だにとんでもなく霊的に乱れた状態なのさ! どこもかしこも性質の悪い幽霊だらけ。しかも、今東京にいる幽霊は三種類あるのさ!」

「え? 三種類?」

「そうさ。一つは『普通の幽霊』。何の目的も無く漂ってるだけの、大抵は無害な存在さ。二つ目は『人間に操られた幽霊』。三つめは『幽霊化した人間』だね」

 ムラクモが説明している間、マリーベルは、テーブルに置いてあったメモ用紙に、さらさらとボールペンで文字を書くと、それを利陽土に見えるように反対側に向けた。

 そこには、「幽霊」「誘霊」「暴霊」「真霊」と書いてあった。

 利陽土がそのメモに目を移したのを確認すると、マリーベルはムラクモの言葉を補足した。

「ムラクモ君の言う通りよ。もっとも、普通の幽霊は、今の東京には殆どいないのよ。大半が人間に操られた幽霊……私たちは『誘霊』と呼んでるけど、そういう存在なの。君が出会ったリバーシブルAYAや阿修羅女も『誘霊』なのよ」

「誘導されている幽霊ってこと……ですか? ていうか、人間が幽霊を操るなんて出来るんですか?」

「幽霊だって、元々は独自の意志を持った人間だったのよ。彼らを完全に支配出来る訳では無いの。行動をおおまかに『誘導』しているに過ぎないわ。それも、この東京の状態だから出来る芸当ね」

「ええと……じゃあ、三つ目の『幽霊化した人間』っていうのは? ひょっとして、天狗の面をつけた奴は……」

「いい勘しているわね。あいつの通り名は『バイブラント・マンデー』通称『B.M.』……この近辺で暴れている厄介な敵のリーダー格よ。あいつの四人の手下達も同類ね。あいつらは、肉体を持った人間が、一時的に『幽体離脱』して、人としての意思を持った上で行動している幽霊なのよ。アシュラ女もAYAといった『誘霊』は、あいつらに操られて、人間を手当たり次第に殺しているのよ」

「ええっ? こ、殺すって何の目的で? 手当たり次第って!」

「目的は判らないのよ。ひょっとしたら目的なんて無いのかもしれない。とにかく、連中は『誘霊』を操ったり、あるいは自ら手を下して、人を殺しているの。最近は、君の高校の生徒がターゲットになっているようね」

「殺すって具体的にはどうやって……?」

「それは、君が実際に体験したでしょ? 霊体を肉体から引きずり出したり、肉体による防御を破ったり、憑依して肉体を操って自殺させたりと、色々な手段があるのよ」

 マリーベルは淡々と恐ろしい事実を次々に暴露した。

 利陽土の身体の内部で不快な悪寒が広がって行った。

「そして、『B.M.』はアグライアのリーダーだった、私の姉の仇でもあるのよ」

「か、仇……?」

「言葉通りの意味よ。二年前、姉は奴との戦いで命を落としたのよ。姉の意志を継いで、私はこのチームのリーダーになったの」

「本当に? 人を殺す……?」

 信じがたい話だが、それは確かに、カミ高の生徒にやたらと重傷者や死人が出ている現状と合致するのだ。

「アミーゴが納得できないのも無理はないさ。店長は『幽霊化した人間』と言ったけれど、それは正確な表現じゃないんだ。むしろ『悪霊化した人間』と言った方がいいのさ。ごく当たり前の暮らしをしていた善良な人間が、ある日突然、人間としての肉体を持ったまま『魂が悪霊化』してしまうんだね。外部からは、全く気が付かれることは無いけれど、その者はある意味では既に死亡している……少なくとも、本来持っていた人間性は失っているんだ。そして、そのような人間は、必要に応じて幽体離脱して、自らの意思を持った悪霊として、『生と死の狭間の世界』で行動できるんだよ」

 マリーベルは、先ほどのメモ用紙の文字を指さしながら説明した。

「私たちは、いわゆる『亡霊』になぞらえて、こういう字を書く『暴霊』と呼んでいるのよ。霊的に乱れた東京に現れた、ガン細胞のような存在よ。それで、君はその『暴霊』に目をつけられたのね。はっきり言えば殺されかけたのよ」

「そんな……じゃあ、その『暴霊』が、何でよりによって僕なんかを……それも偶然ですか?」

「いやいやいや! 山村利陽土! それは偶然じゃないのだわ!」

 突然、真横からキリコの声が乱暴に割り込んで来た。

 驚いて横を見ると、彼女の鷹のような視線が利陽土を真っ直ぐに射抜いていた。

「山村利陽土! やっぱりあなた凄いわ! 奴らがあなたに目を付けたのは、優秀な『真霊』になる素質があるからなのだわ!」

「え、え~と……ムラクモさんも言ってたけど、その『真霊』って何なんですか?」

「ああ、言ってなかっけアミーゴ。『真霊』っていうのは、君や僕のように、幽体離脱し、自力で幽霊として行動できる人間のことさ! しかも、ある意味では生きながら死亡している『暴霊』たちとは違って、人間らしい本来の人格を保ったまま、自発的に行動できる、愛と正義の戦士なのさ! そして、これは君だから明かす秘密だ! 僕らは、同時に政府から極秘に補助金を貰って動いている、影の公務員のような存在でもあるのさ!」

「はあっ? こ、公務員?」

 余りにぶっ飛んだ話にまで発展し、利陽土の「納得力」では、とてもついていけなくなった。その様子を見て、マリーベルは、なにやら、難しげな文章が書かれた書類をファイルから取り出し、テーブルの上に出して見せると、ムラクモの言葉を補足した。

「利陽土君、信じられないことかもしれないけれど、それは本当の事なのよ。私たちのようなチームは、東京に数多く存在しているのよ。それぞれが、表向きはごく普通の生活を営んでいるのだけれど。私たちも、この店で占い店を経営しながら、新たな真霊戦士を発掘しているのよ」

 利陽土は、ふと重要な事に気が付き、ここまで、一切無言だった美里に目を移した。彼女は、視線を落として、神妙な表情をしている。

「ええと……それじゃ、敷嶋……さんも?」

「ノーノーノー! 駄目だよアミーゴ! そんなよそよそしい呼び方をしたら! もうミリは君のアミーゴなのさ! 親しみと愛情をこめて、ミリと呼ばなきゃダメなのさっ!」

「え……! でも……」

 利陽土は、自分でも頭に血が上り、顔面が急激に紅潮しているのが判った。

「ほら、もう一度言い直すのさ! 『ミリも』って!」

「ミ……ミリも…………ですか……?」

 美里から目をそらしたまま、利陽土は蚊の鳴くような声を何とか絞り出した。

「そうさ! 今や、ミリはうちのチームの戦いにおけるエースにまで成長したのさ!」

「そ……そうなんだ……凄い……」

「何、他人事みたいに言ってるのよ! 山村利陽土! あなたもよ! あなたも、心霊戦士になるのだわ! 自分の身を守る為にも、そうするしかないのだわ!」

 キリコは、利陽土の眉間にまっすぐに人差し指を突き出して、力説した。

「え……ええと……さっきもそんなこと言われましたけど、僕なんかに戦士の素質なんてあるはずないですよ……」

「だ~か~ら~! そうじゃないのよ! 山村利陽土! あなた、メダカのように生きて、メダカのように死にたいと思ってるでしょ! そんな高校生がどこにいるの! 凄い素質なのだわ!」

「は……はああああ?」

 利陽土の混乱は、極限に達していた。キリコが言っている事は、意味も脈絡もさっぱり判らない。利陽土は、顎が外れんばかりに口を開けたまま、それを閉じられなくなってしまった。

「メダカのように死にたいって? ぼ、僕が? なな……何で?」

「じゃあ、違うっていうの? 私はこのカードから、そう読み取ったのだわ! 間違いないのだわ!」

「カードで……?」

 キリコはずっとタロットカードで何かを占っていたのだが、まさかそれがそんな訳の判らない事だったとは、利陽土は夢にも思わなかった。

「そうよ! 山村利陽土! あなた自分の胸に手を当ててみると良いのだわ! あなたは自分が飼っているメダカ達に、一種のあこがれを持っているのだわ! 心当たりない?」

 根が素直な利陽土は、そう言われて、思わず言葉通りに胸に手を当ててしまった。そして、当ても無く視線を泳がせているうちに、美里と一瞬だけ視線が交差した。

 彼女の瞳に潜む、かすかな憐憫の色を、利陽土は見い出してしまった。

 手の平を当てた胸の奥深くで、何かがギシリと軋む音が聞こえてきた。

「それでも判らないなら、今日はあなたに何を言っても無駄ね。もう今日はお帰りなさい。それで、自分の部屋で飼っているメダカ達と対面して、私の言葉の意味を考えてごらんなさい! 話はそれからなのだわ!」


☆                 ☆        


 夕暮れの上代町商店街は、「ラッシュアワー」がピークを過ぎ、うら寂しさが忍び寄っていた。アグライアを辞して、買い物客の間を縫うように歩いている間に、利陽土の視界は、またしても徐々に色あせていった。世界がモノトーンに埋め尽くされる現象は、こんな風に、忘れていた頃に訪れるのだ。

(何で、僕は今こんな所をこんな風に歩いているんだろう……)

 この通りを、こんな時間に歩くのは初めての経験だった。そして、利陽土の真横には美里が歩いている。これが、とりわけ奇妙な事だった。

 テストの赤点に苦しみつつも、平穏な毎日を惰性で生きていただけの自分が、いつの間にか、途方も無く異常な、そして危険な事態に巻き込まれている。アグライアで懇切丁寧に、あれだけ事情を説明されても、利陽土にはその現実を殆ど消化できていないのだった。

(何で……僕は今、この子とこんな風に歩いているんだろう……)

 利陽土は、隣にいる美里を、すっかりモノトーンに染まった視界の隅に入れながら、再びそんな事を思った。

「山村君……?」

「え……! は、はい!」

 美里から、不意打ちに声をかけられて、利陽土の背筋は飛び上がった。

「あ……ごご、ごめんなさい! え……えーと……」

 美里も、釣られてしどろもどろになってしまった。気の小さな彼女を驚かせてしまってまずかったと後悔した。

「あの……ごめんなさい……お店の外では、『敷嶋』でいいです……ムラクモさんはあんなこと言ったけど……」

「あ、ああ! そんなことか……い、いや、そんな風に、謝る事ないよ……」

 それきり、利陽土は後に続く言葉を見つけられず、口ごもってしまった。二人の間に、気詰まりな沈黙が横たわる。

 尚も商店街を歩いていると、ふと香ばしい小麦の匂いが、鼻をかすめた。見ると、今川焼き屋ののぼりが前方に立っており、何人かの客が並んでいるようだった。

「あ、あそこ美味しいんです。一つ食べませんか?」

「う、うん。いいよ」

 ちょうど腹が空いていた利陽土は、特に考えも無く、本能に従って美里の提案に同意した。数分後、二人は今川焼きを一つずつ買うと、それを手に持ったまま再び商店街を歩き始めた。

「山村君も、粒あんが好きなの?」

「え? ああ、そうだね。どっちかって言うと」

 そう言えば、相談した訳でも無いのに、二人ともが、粒あんを注文していた。利陽土は、そんな些細な事に嬉しさを感じている自分を発見した。普段そう食べるわけでも無い今川焼きが、やけに美味く感じた。

「キリコさんも言っていたけど、わたし、山村君はやっぱり凄い力を持ってると思うの」

 やや唐突に、美里はそんなことを口にした。

「え?」

「さっきは、自分には霊感が無いって言ってたけど、そんな事ないよ。山村君は、人の心が『色』になって見えているのね」

 利陽土は絶句し、飲み込みかけていた今川焼きを喉に詰まらせそうになった。まさか、美里にそのことを言われるとは思わなかった。

 「色」と言っても、むしろ世界がモノトーンに見える時に限るのだが、人や物がまとっている灰色の微妙なニュアンスの違いが、はっきりと判る瞬間があるのは事実なのだ。

「判るんだ……」

「あ、ごめんなさい……変なこと言っちゃって」

「いや、教えて欲しいんだ。そうなんだけど……そうなの? 人の心? 色で見える? それが何なのかは、自分でも良く判らないんだよ」

「うん……多分。というか……上手く言えないんだけど……人の『心の有り方』も含めて、山村君にとって、その人や物事が、どういう『意味』を持っているかが色で見えてるんだと思う……私も同じような事があるから……」

「え? 君も?」

「私の場合は、匂いで判る時があるの。『真霊』になった時は特に……」

「そう……なんだ……」

 「生と死の狭間の世界」で、初めて美里と出会った時の事を思い出した。確か、彼女にそんなことを言われたのだ。「いい匂いがする」と……

 利陽土は、自分の右側を歩いている美里の方へ、ふと視線を流した。何故だか、彼女を正視することが居たたまれず、すぐに左側の商店街の方へ顔を背けてしまった。

 美里の全身をまとう灰色は、やけに寡黙で、利陽土はそこから何の感情も掬い取れなかった。

 彼女だけでは無い。利陽土を包む世界は、どこもかしこも、見渡す限り、冷たい灰色が充満しているのだ。こんなにも、乾いた世界で自分は生きていたのだと今更ながらに思い知らされて、利陽土はひどく胸苦しくなった。

 やがて、二人は大通りとTの字に突き当たる、上代町商店街の入り口に差し掛かった。ここから先は、二人の家路は別れ別れになるのだ。

「それじゃ、山村君。さよなら。また明日ね」

 美里が見せた慎ましい笑顔に対して、利陽土はひどく切羽詰まった表情で応えた。

「あ、あの……! いいかな!」

「え?」

「ええと……ムラクモさんに、ああ言われたし、使い分けるのも難しいから、君の事、いつも『ミリ』って呼んでいいかな?」

 利陽土は、そう言った直後、自分自身の耳を疑った。そんなことを言うつもりは無かったのだ。ムクムクと、巨大な後悔の念が湧き起こった。

 しかし美里は、一瞬、瞳を大きく見開くと、人懐こい笑顔をこぼれさせ、思いもかけなかった言葉を利陽土に投げ返した。

「うん。判った。じゃあ、私も利陽土君って呼ぶわ。ムラクモさんが言うように、私たちはアミーゴだものね」


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