「敷嶋美里」



 プルッ……プルッ……プルッ……プルッ……


 アラームの始まりの音が、利陽土をふと覚醒させた。さっきセットした時刻が訪れたのだろう。


 プルプルッ……プルプルッ……プルプルッ……プルプルッ……


 音はすぐに第二段階になった。このアラームは徐々にけたたましく変化するタイプなのだ。

 いつものように、音が最大のボリュームに達する前に、目覚ましのてっぺんにある大きなボタンを押して止めなければならない。

 利陽土は、朦朧たる意識の中でそう思った。しかし……

(ん……?)

 腕を伸ばそうとしたが、全く動かない。いや、腕だけでは無い。指先からつま先に至るまで、全身のあらゆる箇所が、ピクリとも動かせない。鉄のシャッターのように閉じた瞼を、無理やりにジリジリ開くにつれて、視野全体に天井が広がっていった。つまり、ベッドの上で仰向けに寝ているということなのだ。

 しかし、身体の他の部分は、一切動かせない。

 まるで金縛り……いや、これはまごうことなく、俗にいう「金縛り」そのものではないのか。

 どうすればいい……

 利陽土が尚も体を動かそうとして、必死に力を込めていると、信じがたい光景が展開された。

 真正面に見える天井から、男性の物らしい、合掌をした両手がニョキリと生えて来た。

 同時に、

「まかはんにゃはらみたしんぎょう……」

 口ごもった、低音の声まで響いて来た。

 心臓が飛び跳ねて、口から飛び出そうになった。全身の表皮に、津波のような鳥肌が走る。しかし、逃げようと思っても、やはり利陽土の肉体は固まったままだ。

(な……! 何だあ? って……これってお経? はんにゃしんきょうとかって奴? 一体、何これ!)

 頭の中で、思考がミキサーのように撹拌されている間にも、合掌した両手は、利陽土に向かってズルズルと落ちて来た。

 グレーのスーツを着た男性の両腕全体が、天井から突き出て、露わになった。

 それに続いて、胴体の正面、中年男性の顔面……

 そんな「まるで人のような物」が、天井板から浮かび上がってきた。

 両目が利陽土を凝視している。

 取り立てて特徴のない顔立ちだが、目に全く表情や生気が無い。それにも関わらず、口元はひっきりなしに動き、般若心経を唱えている。

「しょうけんごうんかいくう どいっさいくやく……」

 体内でパンパンに膨張し切った恐怖が、遂に破裂した。それが金縛りを解く引き金になったのか、利陽土の全身が突然跳ね起きた。

「ウアアアアア○△×☆○△×☆○△×☆○△!!!」

 言葉にも悲鳴にもならない奇声を発しながら、ベッドから降りるとその場から逃げ出した。ドアを開け、廊下を抜け、靴も履かずに玄関から飛び出した。

「ウアアアアア○△×☆○△×☆○△×☆○△!!!」

 尚も、利陽土は行き先も考えずに全速で駆け続けた。ともかく、あの得体の知れない何者かから逃げたいというその一心だった。

 しかし、学年最弱クラスの貧相な肉体は、数百メートルも進んだ所で、あっさりとオーバーヒートしてしまう。

(ゼイ……ゼイ……ゼイ……)

 立ち止まり、肩で息をしているうちに、徐々に周囲を冷静に見る余裕が戻って来た。

 幾分陽は傾いているようだが、まだ景色は明るい。

 毎日、通学時に歩いている見慣れた街並みだ。

 しかし……

(なッ……!)

 利陽土は、特大の悲鳴を寸での所で飲み込んだ。前方に異様な物体が宙に浮かんでいたのだ。

 女物のブラウスとスカート、そしてストッキングと靴……

 それらが、まるで人間が身に着けているかのような形状で、軽く上下しながら、歩道の向こう側から利陽土に向かって近づいて来た。まるで「透明人間」だ。

(いや……だけど……)

 利陽土はさらに目を凝らした。よく見ると、衣服の中に、うっすらと半透明の人間の姿が見える。まるで、幽霊のようだ。しかし、衣服だけはあくまでも不透明で、リアルな質感を持っているのだ。

 しかし、やがてそれは、事もなげに利陽土のすぐ横を通り過ぎてしまった。

 周囲をよく見まわせば、そんなものが幾つも見つかった。

 上下のスーツ、親子連れの衣服、カミ高の学生服……そんな衣服を着た「半透明人間」達が何人も歩道を移動していた。

 続いて、車道の向こう側から、一台の乗用車がエンジン音を奏でながら近づいてきた。何の変哲もないセダンタイプの車だ。しかし、運転席を注意して見ると、シートに座っているのは、やはりグレーのスーツを着た半透明人間だった。

(どういう……ことだ……?)

 利陽土の目に映っている物は、殆ど全ての点で、普段通りの街並みなのだ。只一点、住人たちの肉体のみが、ほぼ透明になっている点を除けば。

(何が……どう……なってる……? どうなってる……?)

 答が皆目判らない問いを、いつまでもリフレインしながら、利陽土は尚も周囲を見回したが……

「あッ!」

 真向かいの歩道沿いに建っている、五階建てマンションの屋上の一角に、利陽土の目は釘づけになった。

 たった一人「普通に見える人」がそこにいたのだ。

 きちんと見える肉体を持ち、普通に衣服を着た、若い女性。

 ただし、屋上のフェンスの外側に……

 髪の毛とスカートが軽く風にあおられており、今にも落下しそうに身体がフラフラと揺れている。見つけた瞬間、高所恐怖症気味の利陽土は、尻のあたりがムズムズし、思わず目をそむけたくなった。

 矢も楯もたまらず、利陽土は駆けだした。ガードレールを超え、車道を渡り、マンションの玄関に飛び込んだ。爆発しそうな心臓を酷使して、階段を駆け上った。

(止めなきゃ……!)

(あれは、きっと自殺しようとしているのに違いない。今すぐに彼女を止めないと、とんでもないことになる!)

 階段を昇りきると、勢いよく金属製のドアを開けて、外に出た。何も無い殺風景な屋上だ。見回すと、地上から見た時と同じ場所に、背中を向けた女性がフェンスの外側に立っていた。

(良かった! まだ落ちていない!)

 全速力で利陽土は女性に駆け寄った。ともかく、彼女の身体が落下しないように、身体を抑えようと思った。

 しかし、至近距離まで近づいた時、背を向けたままの女性の両腕が、背中側へ折れ曲がるように利陽土の方へ伸びてきて、利陽土の両肩に掴みかかった。

 氷のように冷たく、不快な指の感触が身体に食い込んできた。

「うあっ!」

 何が起こったのか、思考が追い付かないうちに、「頭部」と「胴体」にも、まったく同じ感触が起こった。

「な……! え……? ええええええええええええっ?」

 利陽土には、自分に起こっている事態が、まるで理解できなかった。

 いつの間にか、背中を向けた女性の両肩から、それぞれ三本ずつ、合計六本もの腕が「生えて」いて、利陽土の身体のあちこちを強烈な握力で掴んでいる。それこそ全く身動きが取れないように。

(な……何これ! 腕が六本って……!)

 女の身体は、前方へ傾いて行った。それに従って、利陽土の身体はずるずると、上半身からフェンスの外側に引っ張られていく。頭部、両肩、胴体を同時に掴んだ六本の腕の力は凄まじく、抗う手立ては無かった。

(阿修羅……? まるで阿修羅像じゃないか……! あ……! これって、ひょっとして『アシュラ女』? ま、まさか!)

 「カミ高七大都市伝説」の一つ、「アシュラ女」の存在に思い至った直後、利陽土の視界はグルリと回転していた。

 かつて、遊園地で一度だけ体験した「自由落下」の感覚が臓腑をすり抜ける。

 直後、ゴスンという重低音と共に、利陽土の身体は歩道に落下した。

 骨を砕かんばかりの衝撃が全身を襲った。脳がグラングランと揺れる。

 少し遅れて、雷鳴のような激痛が襲って来た。特に、腰を痛打したらしく、にわかには立ち上がれそうにない。利陽土はバナナの皮のように歩道に這いつくばり、眼前には頬に押し付けられた、固く冷たいアスファルトが広がっていた。

(ウウウウ~……い、痛い~…………ん? 『痛い』……? 『痛い』って……?)

 利陽土は、更なる不可解な事実にようやく気がついた。

 自分はあの「アシュラ女」に引っ張られて落下したはずだ。すなわち、五階建てマンションの屋上から……

 『痛い』程度で済むはずが無い。本来なら全身打撲で即死する高さだろう。

 一体、何が起こっている……?

「ガンジョウナ……ヤツ……メ……」

 くぐもった、ちぐはぐなイントネーションの声が耳に障ってきた。

 戦慄を覚えつつ、反射的に顔面を上げた。前方に、六本の腕と両足を地面につき、クモのように「八つんばい」になった「アシュラ女」が、憤怒の形相で睨んでいた。奴も、利陽土と同時に歩道に落下していたのだ。

 突如、女は八本の手足を、シャカシャカせわしなく動かして、前方へダッシュしてきた。逃げたいと思っても、全身の痛みで身動きが取れなかった。

 利陽土は成す術も無く、六本の腕で身体中を掴まれ、腹を地面に向けた姿勢のまま、アシュラの頭上に高々と持ち上げられてしまった。

 続いて、物凄い勢いで、町の風景が前方へ流れ始めた。何のつもりかは判らないが、アシュラ女は歩道を疾走している。信じがたい事だが、スポーツカー並みのスピードだ。

「リヒト君!」

 両耳をすり抜ける風切り音に混じって、今度は、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 顔をそちらに向けると、利陽土達の背後から、一人の人物が疾走してくる。

 暗いえんじのスカーフ。光沢のある極彩色の仮面。長いストレートの黒髪。

 そして、鮮やかな紅い「もや」が全身を包んでいる。

(あれは……ミリ……?)

「すぐ行くわ! 下手に動かないでね! 狙いがずれるから!」

 間違いなく、昨日「白昼夢」の中で出会った「ミリ」だった。いや、それと同時に、その声の質は今日学校で出会った「敷島美里」と全く同じでもあった。

 ようやく、状況が見えてきた。アシュラ女は、彼女の接近を察知して、逃げているのだ。

 突然、利陽土の身体が下方へ沈み込んだかと思うと、見えていた風景がフッと消失してしまった。気がつけば、一面の町並みが、遥か地平線の彼方まで広がっていた。

 マッチ箱のような建物。玩具のような車の群れ。

 数え切れないほどの半透明人間達が歩道を歩いている。

 アシュラ女が、宙高くへジャンプしたのだ。

 急激な加速で頭が眩む。

 再び、自由落下する感覚、そして急激な着地の衝撃が襲ってきた。どこかのビルの屋上を走っているらしい。

 ようやく、利陽土は至極当然の疑問に思い至った。

(一体……こいつは何者?……一体何が起こってる?……また、僕は夢でも見ている……?)

 しかし、利陽土の全身に駆け巡る物理的感覚は、余りにも生々しい。何もかもが、全くリアルな現実としか思えない。

 アシュラ女が屋上の床を蹴り、再度の大跳躍をした。

 今度は屋上から跳んだため、遥かに高い。

 視界一杯に、町の大パノラマが広がる。

 その一角に、猛スピードで細い路地を走る、小さな赤い光点を利陽土は認めた。

 それが、突然、弾丸のように空中に弾け飛んだ。

 赤い光の中心にあるのはミリだ。

 空中を上昇している利陽土たちを目がけ、それを遥かにしのぐ速度で、まっしぐらに肉薄してくる。

 利陽土達に到達する寸前、剣を持ったミリの姿が、ヒラリと「バク宙」をした。

 回転の勢いをそのまま利用して、剣の一撃が、下からすくい上げるように、アシュラに放たれた。

 ガラスが割れたような鋭利な音が鼓膜をつんざいた。様々な色の光を放つ、無数の半透明の破片らしき物が、周囲に飛び散った。

 利陽土の視界を上から下へ、地上と空が順番に回転している。

 どうやら、身体が自由になったらしい。空中を回転しながら、落下しているのだ。

 見ると、股から頭頂部に向かって、左右真っ二つに分断されたアシュラの身体が、木の葉のように舞っていた。切断面からは、尚も微細な破片を大量に撒き散らしている。

「リヒト君! 捕まって!」

 ミリの声のする方向へ、咄嗟に右手を差し出したつもりだった。しかし、手首を掴んできたのは、またしても、あの氷のように冷たいアシュラの手の感触。

「うあっ!」

 気がつくと、真っ二つになったアシュラの身体の片方が、利陽土の手首と足首とズボンの裾の三箇所を、三本の腕で掴んでいた。右半分だけになった顔面が、利陽土の方を見てほくそ笑んでいる。全身に怖気が走った。

 一瞬、視界の片隅で、ミリもまた、「もう片方のアシュラの半身」につかまれて、もみ合いながら落下している様子が見えた。

「リヒト君!」

 その声を遠くに聞きながら、利陽土は高速で上へ流れていくビルの壁面を垣間見た。

(この高さから落下したら、今度こそ死ぬんだろう……)

 そんな、やけに冷静な、そして穏やかな諦観が脳裏をよぎった。

 直後、先ほどの物を遥かに上回る落下の衝撃に見舞われた。

 ハンマーで殴られたように脳が激震し、前後不覚に陥った。

 しかし、やがてそこから徐々に醒めてくると、どうやら自分は、身体を引きずられて地面を猛スピードで移動しているらしいと判った。

 それが、数十秒ほど続いた後だろうか。目に映る風景が突如停止した。

 身体中が焼けるように熱い、もはや、激痛なんて物では無かった。

 しかし、何故か自分は死んでいないらしい。それだけは判った。

 それにしても……ここは何処だ……?


「ごくろうだったな……もう、消えていいぞ」


 その言葉を受けて、シャカシャカと、あの耳障りなアシュラ女の足音が遠くに去って行った。やはり、あの化け物にここまで引きずられてきたのだろう。

 アスファルトの上で大の字になったまま、利陽土はその声の方向へ顔を向けた。

 そこは、雑居ビルに左右を挟まれた薄暗い路地だった。

 真っ黒い和服……「紋付袴」という奴だろうか……を着た人物が立っていた。奇妙なことに、天狗の面を顔につけている。男性の体つきだが、髪の毛が肩まで届くほど長い。

「それにしても頑丈なやつだ。早いうちにここに連れて来るのが正解だったな」

 良く通る、低い男性の声だ。声の質は若い。

 また、その男の背後には、別の形の面をつけた人物四人が立っていた。四人が来ている紋付袴は形こそ同じだが、それぞれの生地は、目の醒める様な黄、青、赤、白色一色に染められている。これら五人は、半透明では無く、全員が普通の人間のように、しっかりと肉体が見えている。

「私が、止めを刺しましょう。今のうちに禍根を絶っておかねば……」

 そのうち、真っ青な服を着た人物が、前へ歩み出てきた。先ほどのリーダーらしき人物よりも、少し若い印象の男性の声だ。

 右手には、所々赤さびが浮いた肉切り包丁を持っている。

 おもむろに、男は包丁を両手で握ると、大きく頭上に振りかぶった。

(ああ、そうか……)

 自分に向けて、真っ直ぐに向けられた刃を目にしながら、利陽土は酷く冷静だった。

(僕は殺されるのか……その包丁で……)

 まるで、他人事のように、氷のように静かな心で、そんな理解に至った。

 青い紋付を着た男は、全身の体重を浴びせながら、包丁を振り降ろす。

 利陽土の目に、包丁の切っ先が自分の胸めがけて落ちてくる様子が、スローモーションのように映った。

 しかし、心臓が串刺しにされる寸前、紅く輝く一筋の光刃が視界を鋭く横切った。男の右の拳にそれが突き当たり、握っていた包丁が弾け飛んだ。

 ミリが持っていた剣だった。

 その刀身が、深々と男の手の甲を貫いていた。

 次の瞬間、剣を起点にして、手から肩口まで、まるで割り箸を割ったように腕が二つに裂けた。

 切り口から粉塵のような青い光が噴出する。

 男は激痛に悶え、絶叫しながら、地面をのたうち回った。

「奴だ! もう来たのか!」

 男たちは、瞬時に踵を返し、リーダーらしき天狗の面の男を先頭に、路地の奥へと一目散に走り去って行った。腕を破壊された男も、うめき声を上げながら、脚をもたつかせながら立ち上がると、それに追随した。

「利陽土君!」

 それと入れ替わりに、ずっと遠くからミリの声が届いてきた。

 軽やかな足音が次第に近づいてきて、仰向けになったままの利陽土の頭の傍で止まった。

 向かい合ったビルの谷間に覗く、褪せた空の色に、あの柔らかい緋色の「もや」がかぶさった。

 例の仮面は既に消えており、利陽土を見下ろすミリの眼差しは、あくまでも怜悧で、同時に優しかった。

「大丈夫? 酷い傷だけど……」

 そして、下から見上げると、短めのスカートの奥に隠れていた白い太ももが、かなり奥まで覗いていた。

「ヤアヤア! フロイライン! そのアミーゴは全くノープロブレムさ! 君のスカートの中をガン見する余裕だってあるのさ!」

「え……? スカート……キャアッ!」

 ミリは、スカートを抑え、慌てて後ずさった。常に颯爽としていた彼女が見せた、初めての普通の女子のような一面だった。

「あ、ムラクモさん」

 そう呟いたミリの視線を追って利陽土が首を向けると、彼女の更に後方から、飄々と歩いて来る別の人物の姿が認められた。

 利陽土は目を大きく見開かずにいられなかった。それは、一体、何の冗談かと思うような珍妙な外見の青年だった。

 ショッキングピンク一色のタキシード。被っているシルクハットも、エナメルの靴 もピンク色。右手には、これまたピンク色のステッキを持っている。鼻筋の通ったかなりの美男子だ。銀色に染めた髪は肩にかかるほど長い。

「そうさ! 僕さ。フロイライン(お嬢さん)ミリ、君の戦いは今回もトレビアンだったけれど、敵を斬った直後に少し油断したみたいだね~」

「そうなの。利陽土君ごめんなさい。あのアシュラ女の半分は完全に消滅させたわ。もう半分には逃げられちゃったけど」

「立ち上がれるかい? 手を貸すよ、アミーゴ!」

 そう言いながら、ムラクモという名らしい青年が、地面に大の字になった利陽土に右手を差し出した。大きな右手に引っ張られて、立ちくらみを起こしながら利陽土は立ち上がった。

「あ~……有難うございます……ええと、でも『アミーゴ』って?」

「『友達』の事さ! たった今から僕やミリは君の友達さ! そして、力強い味方なのさ!」

「味方……? じゃあ、さっきの奴等は……敵?」

「そうさ! そして、僕の名はムラクモ恭介! 愉快で明るい真霊戦士さ!」

「シンレイ?……戦士?」

 両手をひらひらさせ、全身で奇妙なボディーランゲージをたっぷりと交えて、ムラクモは自己紹介した。

 とっくに丸くなっていた利陽土の目が、ますます丸くなった。

 この人物は「愉快」と言うより「変」と言った方がふさわしいのでは……と密かに思ってしまった。

「ム……ムラクモさん。利陽土君はまだ、何も知らないのよ。まず、初めから説明しないと……」

「オーライ、フロイライン! では、アミーゴ! 僕らと共に街を歩いて君の家に帰宅してみよう。それで、やっと理解できるはずさ!」

 利陽土はムラクモ、ミリと共に夕刻の色に染まった町を歩いて帰った。途中、何度となく様々な衣服を着た「半透明人間」達とすれ違った。それが、余りに当たり前のようにいたので、利陽土はいちいち驚くことも無くなっていった。

 そして、かれこれ30分後、利陽土は自宅にようやく戻って来た。

「僕の部屋まで行けばいいんですか?」

「そうだよ! じゃあ、僕らもお邪魔するよ」

 そう言いながら、ムラクモはさっさと靴を脱ぎ、玄関に上がってしまった。利陽土とミリもそれに続いた。

 利陽土は、二人を伴って廊下を抜け、自室のドアを開けた。そして、一歩中に足を踏み入れたのだが……

「なっ……!」

 世にも奇怪な光景が目の前にあった。

 ベッドの上に、まるで人が着ているように膨らんだ「学生服のみ」が横たわっている。それを着ているはずの肉体は、半透明ですらなく、完全に透明で見えなかった。しかし、その下にある布団は、人間の体重を受け止めているかのように、しっかりとへこんでいる。利陽土は、自分が来ている学生服を見まわした。どう見ても、それは、ベッドの上にある物と同じだった。

「これは……? 一体?」

 利陽土はミリの顔を不安げなまなざしで見た。

「利陽土君、これはね……」

 ミリが言い淀んでいると、ムラクモが横から口を挟んだ。

「アミーゴ、まだ、判らないのかい? さっきから君が自分の目で見ていると思っている物は、その全てが『霊魂』なのさ!」

「は、はあっ? レイコン?」

「そうさ! 霊魂さ! 神道でいう所のヤオヨロズの神って奴だね!」

「ヤオヨロズ……?」

 利陽土が目を白黒させているのを見かねて、ミリが助け舟を出した。

「この世界の全ての物には霊魂が宿っているってことよ。人間や動物だけでは無く、植物や石や土にも。あなたが、さっきから見ていた物も、今この部屋で見えている物も、その全てが霊魂なのよ」

「え……町の風景も? 今いるこの部屋も?」

 利陽土は、キョロキョロと辺りを見回した。

「そうよ。『物質』そのものは、全く見えていないの。あくまでもその『物質』に宿っている霊魂、ベッドの霊魂、ビルの霊魂、アスファルトの霊魂、街路樹の霊魂、人が着ている衣服の霊魂……『万物に宿っている霊魂』が見えているってこと」

「え? それじゃあ……?」

 利陽土は、ミリとムラクモの姿を見回し、さらにこれまで見た街の風景を思い浮かべ首を傾げた。

「どういうことになるんだ……? あの『半透明人間』達は……」

「おおお!素晴らしい! やっぱり君は衣服を着ている人の姿が見えていたんだね!」

「あ……はい。うっすらと、ですけど……」

「良いね、良いね! では、答えよう! 君が町で見てきた人たちは、全員が肉体を持って普通に生きている人間達……いや、正確にはそれらの霊魂だったのさ! 生きている人間の霊魂は、肉体という『シェルター』の中に固く防護されているから、恐ろしく『守りが固い』んだ。だから今の僕らでは、うっすらと見ることが精一杯で、ちょっとやそっとのことじゃ、触れたり攻撃することは出来ないのさ」

「え? え? ……じゃあ……? じゃあ?……」

「言いたいことは判るさ、アミーゴ! ならば、こうして普通に姿が見えている僕やミリや、今のアミーゴはどういう存在かって? 決まっているじゃないか! 肉体という『シェルター』から抜け出した、いわゆる『幽体離脱』した、幽霊なのさ! だから、見ての通り、ベッドの上の君の制服は、セミの抜け殻のように空っぽじゃないか! その服の中には、魂の抜け殻になった君の肉体は入っているのだけれど、それは幽霊である今の僕らには見えないってことさ」

「えええええっ?」

「そうよ。今あなたは、幽霊となって、幽霊としての視点で、『霊魂の世界』を見ているの。逆に、普通の人間達である半透明人間達の目には、私達の姿やさっきの戦いの様子は、まるっきり見えていなかったのよ」

「今の僕が……幽霊?」

「そうよ。じゃあ、そろそろ元の肉体に戻ってみる?」

 そう言いながら、ミリは、右手で利陽土の手首を握った。不意を突かれた利陽土の心臓が一つ大きく飛び跳ねた。華奢で柔らかな手に導かれ、利陽土の手がベッドの上の学生服に触れた。

 その次の瞬間、立ちくらみのような感覚と共に、視界がフワリと揺らぎ、気が付いたら目の前に自室の天井があった。

 やがて、意識がクリアになり、自分は仰向けにベッドに寝ているのだと気が付いた。そう言えば、元々は天井から出現した「般若心経おじさん」から逃げようとして、金縛りを解き、ここから駆け出したはずだった。いや、「そのつもり」だったのだ。しかし実際には、利陽土の肉体はずっとこの場所に横たわっていて、霊魂だけが抜け出ていたという事なのだろうか。

 上半身を起こして、部屋の中を見回した。ミリとムラクモの姿は何処にも見当たらない。

 すぐ隣に立っていたはずだったのに、自分共々消えてしまった。それこそ幽霊が消えてしまったように。

 背後から、カーテンを通して、ガラスがコンコンと叩かれる音がした。

驚きつつ、反射的にカーテンを引くと、はたして、窓ガラスの向こうに、ニヤニヤと得意げな笑みを浮かべたムラクモと、神妙な顔をしたミリ……というより「敷嶋美里」がいた。二人はブロック塀と山村家の邸宅の間にある、ごく狭い土地に並んで立っていたのだ。

 利陽土の頭脳で、にわかに状況を理解するのは一苦労だった。

つまり、さっきまで部屋の中で見ていた物は、二人の霊魂であって、肉体はもともとその場所に立っていたのだ。利陽土と同時に、二人の霊魂も肉体に戻ったのだろう。

 美里は、あのあか抜けない黒縁眼鏡をかけ、セーラー服ではなくカミ高のブレザーを着ていた。一方で、ムラクモはさっきと全く同じ、ピンクのタキシードを着ている。

「開けてくれよ。君に渡したいものがあるんだ」

 利陽土が、その言葉に従ってアルミサッシを開けると、ムラクモは無駄に華麗な仕草で、胸のポケットから名刺入れを出すと、一枚の名刺を二本の指で挟んで差し出した。

 それには、「占いの館 アグライア」と、印刷されていた。

「まだまだ疑問は山積みだろうけど、今日はもう遅いし、疲れただろうから説明はここまでさ。君には、明日そのお店に来て欲しいんだ。その時こそ、君は自分の運命について知るのさ! それじゃ、僕はこれで失礼するさ! アディオス、アミーゴ!」

 ムラクモは、軽妙な口調で恐ろしげな事を言い放つと、手をひらひらさせながら、軽やかな足取りで、さっさと遠ざかって行った。

 後には、美里が一人取り残された。何かを言いよどんでいるような表情だ。

「ええと、敷嶋さん……だっけ?」

「え……! は……はい!」

 恐る恐る利陽土が声をかけると、美里はまたもや、豆鉄砲を食らった鳩のような顔になった。その表情と、今朝学校で始めて彼女と出会った時の記憶が重なった。

「あの……今日は随分何度も会うね……」

「あ……ご、ごめんなさい! あの時は変なこと言っちゃって! それから、さっきは私がミスしたから、あんな高い所から落っこっちゃって……痛かったでしょ……」

 ようやく、利陽土にも事態が少しずつ飲み込めて来た。さっきは二度も高い場所から落下したが、運が悪ければあのまま魂が死んでしまい、二度とこの肉体に魂が戻ることは無かったのだろう。

「いや、そんな事ないよ。助けてくれてありがとう」

「あ……」

 美里は、顔面を耳たぶまで真っ赤にして俯いてしまった。

「それじゃ……おやすみなさい……」

 口元に、ほのかに恥じらいを滲ませながらそう言うと、まるで逃げ出すように、美里はそこから小走りで去って行った。

 利陽土は、窓から少し身を乗り出して、彼女の背中を目で追いかけた。そして、それが視界から消えてしまった後も、一人呆然と窓際に立ち尽くしていた。

 生暖かい感情がうねるように血管を駆け巡り、身体を火照らせているようだった。信じがたい事象を立て続けに浴びせられて、混乱の最中にある利陽土には、その実相が全く見えなかった。

 空っぽの頭に、始めに舞い降りたのは、やはり美里の姿だった。先ほどの話によれば幽体離脱した霊魂であるスカーレット・エッジとしてのミリ……そして、生身の肉体を持った、女子高校生としての敷嶋美里……

 これまでに見た彼女の姿、聞いた言葉、握られた手首の感触……全てを思い出し、反芻した。彼女が一体、自分にとって、どのような意味を持つ存在なのかを問うてみた。

(痛っ……!)

 また、あの刺すような痛覚が首筋に走った。

(そうか……明日も夏未ちゃんと会えるのか……)

 痛みのポイントを指の腹でさすりながら、利陽土はそんなことを考える。

(また、あのたい焼きが食べられるんだろうか……夏未ちゃんのたい焼きが……)

 昨日から、時折やってくるこの痛みの事を、いつの間にか利陽土は疑問に感じなくなっていた。

(夏未ちゃんと会いたい……)

(夏未ちゃんと会いたい……)

(夏未ちゃんと会いたい……)

 何故だか、利陽土の頭の中は、瑞倉夏未のことで、充満していた。

 夕食の支度が出来たと告げる、母の甲高い声も耳に入らない程に。

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