「瑞倉夏未」

「こ~んな所で何やってんのっ?」

 利陽土を覚醒させたのは、やおらに耳の中を突いてきた、そんな言葉だった。

 目を開けると、視界のど真ん中に、大きな女子の顔があった。少し腰をかがめ、真正面から利陽土の顔を覗き込んでいる。

「え? え? え?」

 慌てて辺りを見回した。風景を見る限り、未だに公園のカメ池のベンチに座っているらしい。

 すると、さっきまでの出来事は?

「もう、日が暮れちゃったよ? 今日は結構風強いから、こんな所で居眠りしてると風邪ひいちゃうんじゃない? 一体何やってんの?」

 屈託のない笑顔を浮かべて、女子はそんなことを言った。右手で学生カバンを持ち、左手でタイ焼きのしっぽが覗いた紙袋を持っている。間違いなく「カミ高」の制服を着ているのだが、利陽土には見覚えのない顔だった。

「え? え? ええと……カメ! あの……カメを見てたんだよ!」

 酷くどもりながら、利陽土は闇雲に答えた。存在感の薄さでは右に出る者のいない利陽土が、見知らぬ女子からいきなり話しかけられるというのは、絶対に有り得無いはずの事態だ。

「ええ? カメ? カメが好きなの? アハハハハハ!」

 一体、何がそんなに楽しいのやら、太陽のような笑い声が弾けた。

「いや! 別にカメが特別好きってわけじゃなくて、動物は何でも好きだけど……」

「あ~そうなんだ~! あたしも好きよ! ニャンコでもワンコでもね。あ、そうだ! 池のあっちの方に鯉が沢山いるんだけど知ってる?」

「いや……知らないよ。この公園はこの場所しか寄らないから」

「じゃあ、見に行こうよ! 可愛いのよ!」

 いきなり少女が利陽土の手首を握ってぐいと引っ張った。柔らかい指の感触が手首に食い込み、心臓が飛び上がった。

「ちょ……ちょ……ちょっと待って!」

 少女は、半ばパニックになった利陽土を、グイグイとひきずるように歩いて行く。

「ほら! 凄くいっぱいいるでしょ?」

 池の西側にある飛び石の近くで、ようやく少女の牽引作業は止まった。丸々と太った巨大なコイ達がうねり合って泳いでいる。

「君、魚は好き?」

 池に見入っていた少女が、目を大きく見開き、急に利陽土の顔を覗き込んで尋ねた。

「え、え? あ~すす 好きだよ!」

 不意打ちを食らい、またも心臓が大きく波打った。一種の生命の危機すら覚えた。少女から目をそらし、動揺と戦いながらなんとか、

「いや、その……生物部でも飼ってるし、ええと……自分でも飼ってるし……」

と答えた。

「え~? 本当? すごーい! 生物部? カミ高にそんな部活があるの? 知らなかった~!」

「そ、そうか……無理もないよね。か、影の薄いクラブだし……」

 そう言いながら、利陽土は当たり前のように「カミ高」の名前を出した少女の言葉を意外に思った。やはり、カミ高の女子生徒だったのだ。利陽土は他のクラスの生徒との交友関係など無いに等しいので、見覚えが無いのも致し方ないのだが……


(いや……?)


 ふと、一つの引っ掛かりを覚え、利陽土は彼女の顔を真正面から見据えた。

(待てよ……この顔?)

 人懐こそうな奥二重の目。中学生にも見える幼さが残る、端正な顔立ち。

(それから、この髪型も……)

 艶やかな細い黒髪が、二本の太い三つ編みで肩の高さまで垂らされている。

 ひょっとして、先ほど「AYA」に驚いて、絶叫しながらトイレの中から飛び出して来た女子ではないか。あの時は一瞬だけ顔を見せて走り去ってしまったが……

「ん? 何々? あたしの顔がどうかした?」

 彼女の方は、全く視線をそらすことも動じることも無く、からりと答えた。

「ええと……さっき、学校の廊下で僕と会った?」

「え、何で? さっきって? あたし授業終わったらすぐ学校出て、ずっとこの公園散歩してたんだけど?」

「あ……そうか。そうなんだ! ご、ごめん! なんか勘違いしてたかも! ハハ……」

 馬鹿なことを言ってしまったと利陽土は後悔した。さっき、あんな恐ろしい目にあったのなら、何事も無かったように、今こうして笑顔でコイを見物していられる訳がないのだ。やはりあれは、ベンチで居眠りをしている間に見た、白昼夢のようなものだったのだろう。

「それじゃ自己紹介ね! あたし瑞倉夏未! ミズクラ ナツミっていうんだけど……」

「え? ナツミ……ちゃん?」

「これあげるから、君の名前教えてくれない?」

 と言って、女子は紙袋からタイ焼きを一つ取り出すと、残ったもう一つを紙袋ごと利陽土に差し出して来た。別にそんな物をくれなくても、自分の名前位幾らでも教えると思いつつも、利陽土は半ば無意識に受け取ったタイ焼きを頭から一口かじっていた。

「ええと、僕の名は……」

 山村利陽土……と答えようとしたが、何回か咀嚼したタイ焼きの味が脳天に突き上げてきて、口ごもってしまった。

 これまで食べたことも無いほど、美味いタイ焼きだった。

 何故だか熱い物が胸の奥からこみ上げて来て、利陽土の目頭から埒も無く涙が滲んできた。


☆            ☆


 円筒形のプラスチック容器をパラパラと振ると、フレーク状の魚の餌が、ご飯のふりかけのように水面に散らばった。何十匹ものグッピーが一斉に水面に集まってきて猛スピードで餌をついばんでいく。

 続いて「隔離ケース」にも餌を耳かき一杯ほど撒いた。「出産」間近で腹が膨れたメスが、不器用に泳ぎながら餌をあっという間に平らげた。

 利陽土の自室には三つの熱帯魚水槽がある。一つはメス用、二つ目はオス用、三つ目は繁殖と稚魚用だ。現在ここに住んでいる百匹近い「同居人」達は一匹残らず「グッピー」である。三つとも、砂も敷いておらず、水草も石もレイアウトしていない、徹底して殺風景な水槽だ。

 最初にグッピーを飼い始めたのは、利陽土が覚えていない程幼少の頃だった。そもそもなぜ飼い始めたのか、その動機も忘れてしまった。しかし、グッピーが卵では無く、稚魚をいきなり出産するという事実を、飼い始めた後で初めて知った事だけは鮮明に覚えている。

 そして、ちっぽけな稚魚たちは、親達と一緒の水槽で飼っていると、いつの間にか食べられてしまう事を知った時には、強烈なショックを受けた。利陽土は次の日には、なけなしの小遣いをはたいて、もう一つの水槽を、稚魚を育てるために買った。以来、利陽土は後から後から生まれて来る大量の稚魚たちを、一匹残らず隔離して育てて行った。そして、やがて成長した稚魚たちは子供を作り、一年ほどで天寿を全うすると、順番に死んでいくのだ。

 親水槽の底に、今日も寿命が尽きた一匹の魚が死骸となって沈んでいる。

 最初に買った親が死んだ時には、利陽土もそれなりに悲しんだ記憶がある。しかし、次々に世代交代が行われ、数えきれない程魚が死んでいくうちに、いつしか利陽土はそれらの「死」に一切の感情を覚えなくなった。

 若い成魚達が死骸をついばんでいる。いつも通り、この死骸は数日の内には骨だけとなり、他の魚の血や肉となってしまうのだろう。

 一体、自分は何のために、こうしてグッピーを飼っているのだろう。世話と言えば、毎日餌をやり、週に一度水替えをする程度の事なので、別段苦痛ではない。しかし、利陽土にとっては、これはもはや、毎日歯を磨いたり風呂に入ったりするのと同様のルーティンワークに過ぎない。明らかに、魚たちを殖やし、生かし、死を看取ること自体が「目的化」しているように思える。少なくとも、飼う事が好きであったり、趣味であったりするわけでは無いという自覚ははっきりある。むしろ、自分は「グッピーたちに飼われている」と表現した方がいいのかもしれない。夏未と名乗る少女には、「自分は動物が好きだ」と言ったものの、利陽土にとってその対象は、基本的には猫や犬と言った、ある程度知能が高い哺乳類なのだ。

 しかし……

 利陽土は、今日初めて、グッピーを飼っていて良かったと思えたのかもしれない。

「今日は楽しかったな! ねえ、今度君の部屋のお魚見せてくれない?」

先ほど聞いた夏未の声が、未だに耳の奥に焼き付き、熱を持って残留している。

 あの後、夏未は、結局利陽土の自宅前まで一緒について来て、別れ際にそんな事を言ったのだ。

 それ以外にも、道すがら夏未は様々な事を話した。

 学校生活の事。毎週見ているTVドラマの事。好きな食べ物について……夏未は随分とおしゃべりな子で、口下手な利陽土は殆ど聞き役に回ってしまった。グッピーが自分を……いや、自分が魚を飼っていることが、彼女との会話を繋げてくれた。そのように思えた。

 寝支度を済ませ、照明を落とすと、部屋の東側に設えたベッドの中にもぞもぞと潜り込んだ。

 目をつむると、いつに無く、目覚ましが時をコチコチ刻む音が耳についた。

 どうしたことか、利陽土の脳裏に、夏未の言葉の一つ一つが、いま彼女が目の前にいるかのように、次々に再生されていった。

 漢字の再テスト……

 奇怪な白昼夢……

 リバーシブルAYA……

 仮面の少女……

 そして、瑞倉夏未……

 今日起こった様々な出来事の余韻が体内に渦巻いて、なかなか寝付けそうになかった。

 利陽土は、布団の中で寝返りを一つうった。

(っつ……!)

 首筋に小さな痛みを覚え、背筋が跳ね上がった。右手の指で、痛みが走った辺りをさすった。左のやや背中側の首の付け根に、とげが刺さったような、かすかな異物感を見つけた。

 何なのだろう……

 利陽土は、その部分を枕に押し付けないような向きに身体を動かした。

 その痛みによって、一日の出来事が頭から消し飛んだお蔭なのかも知れない。間もなく利陽土の意識は、フラフラと浅い眠りの中に沈んでいった。


☆           ☆


「行ってきま~す!」

 利陽土より二つ下の弟、真井土まいとの朗らかな声が玄関から響いて来た。カミ高よりも遠くの私立中学に通っている真井土は、利陽土よりも少し早目に家を出るのだ。

 真井土は、利陽土とは正反対の超優等生で、学校の成績は常にトップクラスだ。そして、何事にも積極的で社交的な性格とも相まって、学校では常に中心人物なのだそうだ。

「行ってらっしゃ~い」

 母が、今朝も「その言葉」を言った。

 利陽土は、これを聞くのが好きではないのだ。

 真井土は母のお気に入りだ。いや、むしろ溺愛されているという表現の方が適切だろう。そのこと自体はあまり問題では無い。母は、利陽土に対しても、愛しているか否か、と「選択肢で二分するならば」愛していることではきっと同じなのだろう。

 しかし、その度合いを真井土に向けるそれと比べてしまえば……

 歴然とした温度差があることは否定しようがない。

 頭が良く、何事にも竹を割ったように積極的な母からすれば、うじうじと煮え切れないと映る利陽土は、はっきり言ってしまえば、身内でも無ければ好きでないタイプの人間なのだろう。もういつだったか思い出せない位昔に、利陽土は、母が自分と弟に対して口にする「行ってらっしゃい」という同じ言葉の機微の中に、それを決定的に見出してしまった。語調の問題だけでは無く、利陽土には、その言葉に重なって、微妙に異なる「色彩」が視覚的に見えたのだ。それは、幼い利陽土にとって、自己の存在理由を揺るがす、死刑宣告にも近い残酷な現実だった。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 身支度を済ませ、学生カバンを持って玄関から家を出ようとする利陽土の背中に、今日も母の声が投げかけられる。真井土にかけた声とは明らかに異なる、くすんだ「色」を帯びた声を。

 しかし、何故だか今日の利陽土は、その言葉に苦々しい胸の軋みを覚えなかった。

 普段通りの通学路を歩いているだけなのに、いつになく気持ちが晴れやかだった。鼻歌でも歌いたくなってくるほどに。

 ささやかだけれど、何かしら善きことが、今日という一日には起こるような気がしてならなかったのだ。

 こんな気分になったのは、一体いつ以来の事なのだろうか……


☆            ☆


 カミ高の西玄関に入ると、利陽土は、いつも通りにB組の下駄箱に直行した。一番右の列の下から二番目が利陽土の箱だ。

 上履きを出そうとして、ふたを開けると、とある小さな異変がそこにあった。

(ん……?)

 上履きの上に、二つ折りになったメモ用紙が置かれている。

 何やら不穏な予感を覚えたが、ともあれ、それを取って開いてみた。


「右を見て下さい。折り入って話があります」


 書いてあるのは、たったそれだけだった。

(何だ……?)

 ますます不審だ。しかし、そう書かれてあれば、根が素直な利陽土は、その通りに右を向いてしまった。

「ヒッ!」

 小さく悲鳴を上げたのは、黒縁眼鏡をかけ、右手で学生カバンを持った女子生徒だった。利陽土に真正面を向けて数m先に立っていた。

 状況が全く理解できない利陽土は、言葉に詰まってしまい、取りあえず、

「え……ええと……このメモ……?」

 と言うのが精いっぱいだった。

「そ、そうです……あ、あの、や、山村……り利陽土君ですか?」

 豆鉄砲を食らった鳩のような表情だ。

 まるで舌が回っておらず、これでもかとどもっている。それに釣られて、

「え? ははは、はい……」

 と、利陽土もどもってしまった。

「ええと、それ……そ、そのメモにも書いてあるんですけど~! 山倉君に折り入って、はは、話があ~!」

 その様子を見ているうちに、徐々に納得が行った。利陽土も見知らぬ人に話しかけるのが苦手だから、気持ちは判らないでもない。何とも変わった手段だが、あのメモを置き、そこで立って待っていたのだろう。

(ん……?)

 少しは冷静になった利陽土は、あらためてその女子の顔を正面からまじまじと見た。何かが引っかかって、そうせずにはいられなかった。

「ええと……君……?」

「あ! ええと! しし失礼しました! あたし! し、敷島……シキシマ ミリです!」

 眼鏡の奥の目が、大きく見開かれ、フラフラ泳いでいる。彼女の方は動揺に拍車がかかっているようだ。

(ん……? ミリ……? ミリ……?)

 利陽土の頭の中で、その「二文字」がグルグルとハエのように旋回し始めた。そして、

「あああっ!」

 意識の片隅に眠っていた記憶と、目の前の女子の容姿とが、ピタリと重なり合った。

「君って……あ、あの時の……? ええと……『スカーレット・エッジ』?」

「ヒャッ!」

 利陽土が口にした言葉が、何かのスイッチを入れてしまったのか、既に赤かった顔が、ゆでダコのようになってしまった。周りにいた登校中の生徒達が、何事かと利陽土と女子の方を振り返った。

「ち……違う! ああ、あれは違うのおおっ! ああ……違わないんだけど、違うのッ!」

 敷嶋と名乗った女子は、顔の前で左腕を目茶目茶に振り回しながら、じりじりと後ずさって行くと……

「ご、ごめんなさいっ! 変なこと言って! わ、忘れて下さいいっ!」

 その場から、脱兎のごとく駆け出してしまった。何が何だかわからず、呆然と立ち尽くす利陽土を残して。

(いや……しかし……)

 最初は、あか抜けない黒縁眼鏡と髪型のせいで気が付かなかった。しかし、優しげな眼元、形の良い細めの眉、……間違いなくその顔立ちは、昨日の「白昼夢」の中で一瞬だけ見た「仮面の女子」と同じに思える。

 そんなことは、有り得ないはずだ。しかし、どう見ても、さっきの彼女の反応は、昨日の夢の中での出来事を知っていたようでもあった。

 あるいは、あれはある種の「現実」で起こった出来事だった、とでも言うのだろうか。

(いやいや……しかし……)

 と、利陽土はさらに思い直す。それにしては、顔立ちを除けば、戦国武士のように颯爽として、舞踏家のように華麗な立ち振る舞いだった「スカーレット・エッジ」と、今の敷嶋と名乗る女子の小心者ぶりは、まるきり別人であるのも確かだ。

 そんな考えを巡らせつつ、校舎の東側の階段を昇って行った。

  三階に続く踊り場に差し掛かった時、ふと、重要な事を思い出した。そう言えば、昨日の白昼夢の中で、AYAが放った「手錠爆弾」が命中したのは、この辺りではなかったか。利陽土は、しばし階段の途中で立ち止まり、しげしげと辺りを見回した。

 壁には亀裂一本入っておらず、綺麗な物だ。何の異変も見つからない。

 当然のことだ。あれはあくまでも、夢の中の出来事だったのだから。

 そう思いながら、階段を昇りきると、三階の廊下をてくてくと歩いて行った。昨日、AYAが突然出現したあのトイレの横も通り過ぎ、2Bの教室に入ろうとした時の事だった。

 突然、背後から重たい轟音がガラガラと鳴り響いてきた。同時に、鋭い振動がビリビリと床から足に伝わって来た。それに続いて、大勢の生徒達の悲鳴や怒号。

利陽土は、何事かと振り返った。何人もの生徒が各教室から飛び出して、廊下を一斉に走っている。先ほどの階段の方向だ。利陽土もそれに釣られ、思わず走り出していた。

 しかし、階段の手前まで辿り着いた時、眼前の異様な光景に愕然として、足がピタリと止まってしまった。突き当りにある踊り場の壁に、数mはあろうという大穴が開いている。床には、おびただしい瓦礫が散乱し、辺りは粉塵が立ち込めている。

「ど、どうしたんだよ!」

「判らない、何だよこれ!」

「何もして無いのに、突然壁が崩れたんだよ!」

 周囲に集まった生徒達が口々に叫んでいる。ちょっとしたパニック状態だ。しかし、内心で最も動揺しているのは、無言でそれを見つめている利陽土だった。

(何で……?)

 今は朝だ。夕暮れだった「あの時」とは時間帯が違う。そして、壁の崩れ方も幾分違うように見える。しかし、同じ場所が壊れたという点では、あの白昼夢と同じ事が起こったのだ。

 敷島と名乗る女子の出現といい、この異変といい……明らかに自分の周囲に異常事態が進行している。

 利陽土とて、それを認めずにいられなかった。

 いつにもまして、授業に身が入らなかった利陽土は、英語の小テストで見事なまでの0点を取ってしまった。


☆             ☆


 放課後。数学でも赤点を取ったため、今日も補修を受けさせられた利陽土は、他の生徒よりも随分遅れて教室を出た。

 今日は木曜日なので、週に二回ある部活の日だ。

 二階へと降りると、西の端にある理科室に向かった。利陽土が所属する「生物部」はそこを活動の場としているのだ。廊下の突き当たりに見えている理科室の扉は半開きになっており、近づいていくと、室内の様子が徐々に見えてきた。

 水道やガス栓が備わった実験用の机が整然と並んでいる。部員の一人、早河が座っている姿も見える。早河に話しかけている、もう一人の部員の声は津村の物だろう。

 いつもと変わらぬ理科室の風景。

 しかし、教室内に足を踏み入れるや、予想だにしていなかった事態が利陽土に降りかかった。

「あ~っ! 利陽土君! 待ってたんだよ~!」

 どこかで聞き覚えのある、高めのトーンの声が耳に飛び込んできた。咄嗟に声の方向へ目をやると、はたして、熱帯魚水槽の傍に立った女子生徒が、満面の笑顔を浮かべ、腕をぶんぶんと振り回していた。

「今まで何やってたのよ~! やっぱり、赤点取って残されてたの~?」

(え……?)

 一瞬の意識の空白を挟んでから、津波のような驚愕が利陽土を襲った。

 紛れも無く、昨日公園で会った女子、「瑞倉夏未」だった。しかし、何故ここに……

 利陽土の処理能力の遅い脳回路は、パンク状態となってしまい、

「ななな……夏未ちゃん、何でここに!」

 思わず、そう叫んでしまった。

「何イイイイイイイイイイイ!」

 室内にいた、他の三人の男子部員の怒声が一斉に上がった。とりわけ、大きな声を上げたのは、三年生で部長の赤松先輩だった。利陽土にズカズカと歩み寄ると、いきなり胸倉を掴み、グイグイと教室の外へ引っ張っていった。先輩はドアを閉めると声を潜めて、しかし利陽土を噛み殺しそうな剣幕で詰問した。

「おいおい山村ア! お前、何で瑞倉さんと知り合いなんだよ! ええッ?」

「え?……知り合いって……? ええと……別に……そんなんじゃ……」

「とぼけんな! お前、さっき『夏未ちゃん』ってはっきり言ったろ!」

「あ! あああ……! それはああ!」

 致命的な失言をしてしまったことを、利陽土はようやく気が付いた。

「そうだ! 利陽土お! お前あの子とどういう関係なんだよ!」

「納得いかないな! 説明しろ!」

 見ると、ドアが再び開いていて、早河と津村まで室内から出てきていた。

「いや……説明って言ったって……僕の方こそ聞きたいです。一体何が起こったんですか?」

 これには赤松部長が、一層表情を険しくして答えた。

「説明って? 突然あの子が部室に入ってきて入部させてくれって言ったんだ! びっくりして理由を聞いたら、『お前が在籍しているからだ』って言うじゃないか!」

「え? 僕がいるから?」

「そうだ! はっきり言ってるんだよ! 納得いかねえ! 断じて納得いかねえ!  幾ら何でもお前は無いだろ! お前があの瑞倉さんとそう言う仲だってのは、断じて納得しねえぞ!」

 日頃から、利陽土に対する当たりが強い赤松先輩の口撃は一層厳しくなった。しかし、利陽土とて、そんな身に覚えのない不当な追及に対しては、弁明のチャンスを与えて欲しいと思った。

「だ、だって僕、あの子の事全然知らないんですよ! 有名なんですか?」

 今度は、早河が口を挟んだ。

「有名って? 知らない男子がいるわけないだろ! F組の瑞倉夏未って言ったら、学年でトップクラスに可愛い子だろ!」

「え……そ……そうなんだ……」

 そう言われてみて、ようやく利陽土は気が付いた。よくよく思い出してみれば、夏未は可愛い。いや、はっきり言ってしまえば「凄く」可愛い。利陽土のような、学年でも有数に影の薄い、いわゆる「学校カースト」の最下層に位置する劣等生と縁があるような女子とは思えない。

 利陽土とて、模糊とした恋愛に対する憧れは持っている。しかし、自分などは恋愛に一生縁が無い人生を送るのだという、乾ききった諦観に屈してしまっているためか、同級生の女子に対してとんと関心が行っていなかったのだ。

「とぼけんな! じゃあ何でさっき『夏未ちゃん』とか呼んだんだ!」

 部長の追及は再び、「その問題」に戻った。

「ああああ、だから、それはあああ……」

「あたしが、そう呼んでって頼んだのよ!」

「え?」

 振り返ると、入り口のドアが開いており、その手前に夏未が涼しげな表情で立っていた。

「利陽土君とは昨日初めて会ったの。だから、あたしのこと知らないのも本当よ!」

 窮地に追い込まれた利陽土に、いいタイミングで助け舟が出された。

「ねえねえ、利陽土君! あそこにいる『超かわいい子』何て名前なの? 凄く気に行っちゃった! 来て来て!」

 そう言いながら、夏未は利陽土の袖をつかんで理科室内に再び引っ張りこんだ。されるがまま、利陽土は引きずられるように歩いて行く。他の三人の男子部員は、キツネにつままれたような表情で立ち尽くしていた。

「ま……まあ、少なかったうちの部員が増えてよかったんじゃないですかね、部長?」

 比較的知性派の津村が、すっかり肩を落としている赤松をなだめるように言った。

 カミ高の生物部は、利陽土の入学時には八人ほどいた部員が、何だかんだと入れ替わり、じりじりと減り続け、今ではたった四人の極小部になっていたのだ。生物部とは名ばかりで、実態は「生き物飼育部」と化していた彼らは、あまたの生き物たちの世話をする人間が必要だという理由でのみ、部の存続を許されていたような状態だったのだ。夏未の入部は、生物部にとって、明るい出来事には違いない。

「キャアアア! 可愛い~! なにこの子~! 魚なの?」

 利陽土が予想した通り、夏未が見つけたのは「ウーパールーパー」の水槽だった。正面から見ると笑っているような愛嬌のある顔が、夏未のツボにはまったのだろう。

「ああ、これは両生類の一種なんだよ。でも、カエルと違って一生子供のままなんだよ。で、学名はアホロートルっていうんだ」

「えええええ? キャハハハ! アホロートルうう? なにそれええ! でも、利陽土君良く知ってるね~やっぱり、さすが生物部なんだね~!」

 食い入るように水槽に顔を近づけたまま、夏未は大はしゃぎしている。

 しかし、それを背後から見つめる他の男子部員三人は、ますます「男の嫉妬」を烈火のごとく燃やしているように見える。「人間として」「男性として」遥かに下に見ていた利陽土が、生物部員なら誰もが知っている基本知識ごときで、美少女にちやほやされているのは、アイデンティティの危機すら覚えさせる事態なのだろうか。

「そうだ! お魚だと、こっちの子達が一番綺麗だと思うんだけど!」

 今度は、夏未はやや小さめの水槽が三つ並んでいるエリアに近づいていった。

「ああ、それはグッピーの水槽だよ。こっちがオスで、これがメス、でこっちが子供だね」

「へえええ……これがグッピーなのね! 綺麗ね~! でも、ここって下に砂利が敷いてないけど、大丈夫なの?」

「ああ、この水槽は僕の方式で管理してるんだよ」

「そっか。じゃあ、利陽土君の部屋の水槽もこんな感じなの?」

「うん、全く同じだよ。泳いでる魚も僕の部屋の奴が増えたのを引っ越してきただけだし」

「ふ~ん、そうなんだ~それじゃ、随分増えるのね~」

 大きな尾びれを蝶のようにはためかせて泳ぐグッピー達に釘付けになっている夏未の様子を見ているうちに、利陽土は致命的なミスをしてしまったことに気がついた。

 「自分の部屋の水槽が、この水槽と全く同じ」ということになると「夏未が利陽土の部屋に水槽を見に来る必要性」が全く無くなってしまうではないか。

 何気ない発言のお蔭で、自分のダークグレーの人生に、突如訪れたかもしれない、ささやかだが一縷の希望を、木っ端微塵に壊してしまったのかもしれない。利陽土は、身体中の穴という穴から、生気がプシュウと音を立てて抜けて行ったような錯覚に襲われた。

「あ、そうだ部長……」

「ああ、なんだあ?」

「言い忘れてたんですけど……今日は用事があるんですよ。ここには、ちょっと顔を出しておこうと思って来ただけなんです」

「ええっ? そうなの?」

 既にハムスターの方へ関心が移っていた夏未が、驚いて振り返った。

「ああ、そうなのか。別に、今日はお前の仕事ないんだから問題ないぞ」

 部長は、冷ややかな声で言い放った。むしろ、不愉快な場面をこれ以上見ずに済むことを歓迎しているのかもしれない。

「じゃあ……失礼します」

 ぺこりと小さく頭を下げ、利陽土は一人で理科室から出て行った。もちろん、用事があるというのは嘘だ。男子部員からの攻撃的な視線を浴び続け、その場にいる気が失せてしまったのだ。

 人気のない校舎を歩き続け、中央階段を降りて行き、下駄箱に到達した。

 一番右の列の下から二番目にある、自分の下駄箱の蓋に指をかけて開けたが……

 利陽土は目を見開いた。またもや、靴の上に二つ折りにしたメモが置いてあったのだ。

「今朝はごめんなさい。今度こそ山村君に話があります」

 開いてみると、そのように書いてあった。

 ふと、視界の端っこに人の気配を感じ、利陽土は校庭側に顔を向けた。

 やはり、今朝会った黒縁眼鏡の少女「シキシマ ミリ」がカバンを持って数m先に立っていた。

「え……ええと……あああああの……」

 今度もフラフラと目が泳ぎ、酷くどもっている。しかし利陽土は、ミリの表情の中に、朝会った時とは違う、狼狽の色を感じ取った。

「ご、ごめんなさいい! な、何でもないんですううう!!」

 突然そう叫び、踵を返すと、彼女は一目散に走り去ってしまった。あの華麗な身のこなしだった「スカーレット・エッジ」とは似ても似つかない、バタバタと不器用なフォームで。

(何なんだろう……)

 訳も分からないまま置き去りにされた利陽土は、ただ茫然と小さくなっていくミリの背中を見つめるだけだったが……

(っ痛……!)

 突然首筋に小さな痛みが走った。すっかりこの事を忘れていたが、昨晩寝床で経験した、あの痛みだ。

(これは、一体何なのだろう……)

 指で軽く首をさすってみると、やはり小さな異物感がある。

「あれ~? 今の人どうしたの? 突然走り出したりして。知ってる人?」

 背後からの声に驚いて振り返ると、いつの間にか廊下に夏未が立っていた。そう言えば、先ほどのミリの視線は、自分を飛び越して背後に向かっていたような気がするが……

「あ……ああ、夏未ちゃんか! な、何でここに?」

「何でって、ついてきたに決まってるじゃない! 利陽土君、いきなり教室出て行っちゃうんだもん」

「あ……ごめん。でも、夏未ちゃんも帰るの?」

「当たり前じゃない! 利陽土君がいなくなったらつまんないでしょ!」

 少しすねたような笑顔を見せて、そう夏未は言い放った。利陽土の頭に熱湯のような血流が昇って行った。

 まるで彼女が自分に好意を持っているかのような言葉だ。いや、一般論で考えれば、そうとしか解釈できないではないか。

 しかし、何故……

「また、公園に行くんでしょ? カメを見に。あたしも一緒に行くね!」

 そんな利陽土の思惑をよそに、夏未はさっさと利陽土を通り越し、先導するように歩いて行ってしまった。異論をはさむ余地も与えられないまま、おたおたと利陽土も彼女について行った。

「そうだ! これ食べる? 帰り道で食べようと思って買っておいたの」

 夏未は、カバンを開けると、中から今日もタイ焼きを一つ取り出した。

「今日はカスタードにしたの。美味しいよ」

「あ……ありがとう」

 夏未から受け取ったタイ焼きを尻尾から一口かじった。買ってから時間が経っているせいか、前歯に少しふやけた生地の感触が伝わった。

 混乱の極みに達している利陽土の脳味噌に、カスタードクリームの芳醇な甘みがじわりと浸透して行った。


           ☆            ☆


 母親グッピーの腹は、昨日よりも僅かに膨らみが大きくなっていた。

 帰宅した利陽土は、自室に入ると、まずは水槽をチェックした。今は出産間近のメスがいるので、観察を怠ってはいけないのだ。ストレスがかかる狭い産仔ケースへの隔離は、できるだけ出産直前にしなければならない。カレンダーを確認すると、前回の出産からおよそ十八日が経っているから、そろそろ隔離する頃合だろう。その後は、他の水槽も確認する。病気になっている魚は見当たらないようだ。先月生まれた稚魚たちも順調に育っている。

 最後に各水槽に餌をあげると、一安心した利陽土は学生服から着替えることもせず、ベッドにゴロリと横たわった。

 特に激しい運動をしたわけでも無いのに、どういう訳か疲労感が全身に蔓延している。

 いや、その理由は判っているのだ。

 周囲で、不可解な出来事が立て続けに起こり、貧弱な対応力がオーバーヒートを起こしているのだ。特に、利陽土の脳内で、一人の人物の存在が制御不能なほど膨れ上がり、心身を疲弊させていた。言うまでも無くそれは……

(痛っ……)

 枕に当たった首筋に、またあの小さな痛みが走った。

 ……言うまでも無く……それは瑞倉夏未だ。

 夏未はどうやら、自分に好感を持ってくれているらしい。それが恋愛感情と言えるのかどうかは判らないが、少なくとも悪感情は持っていないように見える。同年代の女子と、まともに会話すること自体無かった利陽土の人生に、そんな女子が初めて出現したのだ。

 何故、自分のような何の取り得も無い「学園最下層」の男子に、あんな可愛く性格も明るい女の子が……その疑問は募るばかりだ。しかし、それよりも問題なのは、もちろん利陽土自身の感情だった。

 恐らくこれは恋愛感情というものなのだろう。気が付けば、一瞬の暇も無く、利陽土は夏未の事を考え続けているのだ。

 机の上の目覚ましを見ると、まだ五時だった。早めに帰宅したので、夕食までには大分時間があった。少し昼寝をしようと思い、目覚ましを手に取り、一時間後にアラームが鳴るようにセットしてから机に戻した。

 カチカチと時を刻む時計の音をぼんやりと耳に入れているうちに、利陽土の意識は急速に眠りの淵に沈み込んでいった。

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