絶命剣士 

SEEMA

「生の中の絶望」

「A君が用を足し終わって、ズボンのチャックを上げたのと、ほぼ同時の事だった。背後からドアが開く音が小さく聞こえて来たんだ。キイイイ……ってね。小便器に向かい合っているA君の後ろにあるのは、当然トイレの個室のドアだ。不吉な気配を覚えながら、おもむろに後ろへ振り返った。やはり、トイレのドアが開いている。そして、個室内に制服を着た女子が悄然と立っていた……顔が見えない……長い黒髪で顔面がすっぽり隠されている……奇怪な事に、だらりと下げた右手は、鈍く銀色に光る手錠を持っていたあああ!」

「うあああああ! 無理無理無理! もう止めてくれえええ!」

「ヒャヒャヒャヒャ! 判ったよ、そこまで言うなら、この後はもう話さないよ。でも、リヒト~どっち道、お前、この後の話がどうなるか知ってるよな~!」

  山村利陽土の「数少ない悪友の一人」有田賢人は、これ以上楽しいことは無いとばかりに、体をよじらせて喜んだ。

「知ってる知ってる知ってるって! だから、その話は止めてくれ! 思い出しちゃうじゃないか! て言うか、せっかく覚えた漢字忘れちゃうよ!」

  利陽土は猛烈な勢いで、ノートに「観察」「観察」「観察」「観察」……と延々と書き続けていた。それによって、今しがた有田から聞かされた「怪談」の内容を頭から打ち消そうと必死だった。

「東京府立神代高校」通称「カミ高」の放課後。二年B組の教室内に残っているのは、利陽土と有田の二人だけだ。

 今日もまた、漢字の書き取りテストに不合格になった利陽土は、十分後に追試を控えている。この後、利陽土が一人で教室に取り残されてしまうことを知っている有田は、筋金入りのビビリである利陽土にわざと怪談を聞かせたのだ。

「じゃな! 健闘を祈るぜ!『リバーシブルAYA』に会えたら報告してくれよ!」

へらへらと嫌味な笑顔をこぼれさせて、無情にも有田は教室から出て行ってしまった。

「や、止めろおおお! その名前は出さないでくれええ!」

  そう叫びながら、他には誰もいない教室で、利陽土は漢字を書き続けた。

「恐怖」「恐怖」「恐怖」「恐怖」……

  その時書いていたのは、よりによってそんな漢字だった。お陰で体内に生じた「恐怖」が一層膨張してしまった。

 リバーシブルAYA……

 小学生時代、利陽土を恐怖のどん底に叩き落した「都市伝説」の主人公の名前だ。トイレの中で自殺した亡霊とされる彼女の話を聞き、彼女が発する「ある言葉」を知ってしまったなら、それから三日以内に彼女と出会ってしまう、というオチが、とりわけ幼い利陽土には恐ろしかった。以来、学校のトイレに入る度に、その事を思い出しては震えあがる日々が高校二年生になった今に至るまで続いているのだ。

「墓地」「墓地」「墓地」「墓地」「墓地」……

 今度はまた、よりによってそんな漢字だった。何でまた、こんな時にこんな熟語ばかり……

「よおおおし! 山村! 追試始めるぞ!」 

  突然かすれ気味の大声が前方から飛んできて、利陽土の心臓を縮み上がらせた。顔を上げると、国語担当の津川先生、通称ツガケンが教室に入って来る所だった。

「今日という今日は四級を合格しろよ! いい加減、俺もお前の物覚えの悪さに付き合うのはうんざりしてるんだからな!」

 ズケズケと本当のことを愚痴るツガケンの存在が、今の利陽土には有り難かった。こんな全生徒から嫌われている嫌味教師でも、一人で教室に取り残されるよりはましだと思ったのだ。


☆               ☆


「何だあこりゃ! 五十点だあ? 幾らなんでもひどいだろ! お前の脳みそは一体どうなってんだ!」

 その場で採点されて、ツガケンの手から返された漢字テストの結果は散々たる物だった。有田から聞かされた怪談のせいで漢字がまるで頭に入らなかったから、この点数も無理からぬことだが。

「これ小学生レベルの漢字だぞ!また明後日追試するからしっかり練習しておけよ!」

 いつにもまして辛辣な言葉を頂くには十分すぎる結果だった。背中から露骨に苛立ちを滲み出させて、大股でスガスガと教室を去って行くツガケンの後姿を、利陽土は目をそばめて見とどけた。

(またか……)

 利陽土の目にはツガケンの姿が、一切の色彩を失って見えていた。彼だけでは無い。視界に存在する、ありとあらゆる物体が、完全なモノトーンをまとっていた。これは、利陽土が物心ついた時分から、何かの拍子に度々現れる謎の現象で、色覚に異常など無いはずなのに、世界が何故だかこんな風に見えるようになるのだ。

 原因は判らないが、それは恐らく利陽土の心が痛んだ時、あまり楽しくない事態が訪れた時に限って現れる物だから、きっと、良い意味合いを持っていないのだろう。そう言えば、さっき有田が教室から立ち去っていく時にも、一瞬だけ、このように世界が色彩を失った気がする。最近は、余りにも頻繁に起こるようになったため、利陽土はこれについて殆ど気にも留めなくなっているのだ。

 力無くため息をつきながら、利陽土は椅子から立ち上がった。カバンを手にして教室を出ると、校舎の一番東側にある階段に向かって進んでいった。終業時刻はとっくに過ぎており、前方にまっすぐ伸びる廊下には、突き当りの壁に至るまで一切人影が見えない。一歩一歩進むたびに、上履きの靴底がキュルキュルと床をきしらせ、無人の校内に反響する。

 途中、トイレの前を通り過ぎる際、利陽土の歩幅は自然と大きくなった。有田から聞かされた「AYA」の話が一瞬脳裏をかすめた。

 有田が話したように「AYA」の顔が髪の毛に隠れているように見えるのは、本当は頭部が「真後ろにねじれている」からであって、「リバーシブル」という異名はその設定から来ている。そして、彼女はおもむろに背中を見せ、同時にそのおぞましい顔面を露わにすると、一言、

「あたしにも見えるわ~!」

 としゃべるのだ。実際には、その怪談を聞かされてから、期限とされる三日を過ぎても利陽土が「AYA」と遭遇することは無かったのだが、未だに彼の中で小学生の時に聞いた「その台詞」の恐怖は消え去っていないのだ。

 そして、利陽土が先ほどのトイレに関して恐怖を覚えるのには、もう一つ大きな理由があった。それは、怪談めいた伝説では無く、現実の事故についてである。一か月前、神代高校では、別のクラスの男子生徒が校舎から落下して死亡するという大事件が起こっているのだ。遺書も無く、自殺する動機も無かったため、彼の死は大きな謎と影を学園内に落としたのだが、その生徒が飛び降りた場所こそが、先ほど通り過ぎたトイレの窓だったのだ。


(そうか……そう言えば……)


 トイレを通り過ぎてからしばらくして、利陽土はふと思い出した。

 さらに、一ヶ月ほど前には一年生の男子生徒が、登校途中で交通事故に会って死亡していることを。


(いや、待て……待てよ……)


 さらにさらに思い返せば、そのまた一か月前には体育の授業で、三年生の女子が頭部を痛打して、救急車で運ばれていったのだ。彼女は未だに意識不明の重体が続いているのではなかったか。

 この学校の生徒達に、重大事件が幾ら何でも続き過ぎてはいないだろうか。その事実を自分が意識していなかったことが、また不思議だった。

 中央階段に辿り着いた利陽土は、何気なく後ろを振り返る。

 目を糸のように細めて、自分が歩いて来た廊下の奥を見通した。

 視界に移っているのは、未だにモノトーンに埋め尽くされた世界だ。いつもよりもやけに持続時間が長い。

 そして、あくまでも無彩色ではあるが、色合いが微妙に重く感じられる。

 背筋に、湿った怖気がザワザワと這いまわり、我にもなく空いていた左の拳を握りしめた。

 これはきっと、幼少の頃から、ありとあらゆる生き物や物体に重なって、何の感慨も無く、見えていた色なのだ……

 その中から、利陽土は、初めて何かしらメッセージめいた物を受け取ったように思えた。

 あるいは「死」の匂いを醸し出す、忌まわしい何かを。


☆            ☆


 山村利陽土は「どこにでもいる平凡以下の能無し少年」である。以前に、他でも無いツガケンから言われた言葉だ。

「いいか? お前の成績は最底辺だ! 特に物覚えの悪さでは紛れも無く最低だ! しかも、それ以外に何にも取り得が無いと来てるから、本当に救いが無い!『人間だれしも一つは特技がある』なんて知ったようなことを言う奴がいるが、お前の場合は、! それは間違いない! だが、そういう奴はどの学校にも数%はいる! 全世界に範囲を広げれば、本当に腐る程、どこにだっている! だから、お前はだ!」

 小テストの赤点が続いて、スガケンが遂にキレた時の言葉だが、これは流石にズシンと堪えた。これまで生きてきた中で、一番利陽土の身に沁みたといってもよい。

 利陽土は、売店で買った「鯉の餌」を袋から一つまみ取り出すと、池の水面にばらまいた。数十匹はいようかという大きなミドリガメの集団が、我先にそれらをついばみに寄って来た。

 「清原記念公園」は広大な敷地にテニスコートや野球場なども備えた、住人の憩いの場だ。利陽土は、帰宅途中でここの園内にある通称「カメ池」に寄って行くのが日課になっているのだ。

 池際のベンチに座り、ぼんやりと亀達に餌を上げているうちに、どういうわけか、スガケンのその言葉が頭に蘇ったのだ。

 確かに、利陽土には取り柄が無い。数学も物理も英語も……学校の全ての成績は最底辺を彷徨ってきた。記憶の持続が悪いため、特に暗記科目はさっぱりだ。かと言って、勉学以外に何か人並み以上にできる事があるかと言えば、自信を持って「それも無い」と断言できる。運動や芸術はもちろん、かくし芸や宴会芸の類も無いのだ。

 しかし、特技が無いとしても、自分がもしも眉目秀麗な絶世の美少年だったとしたら……利陽土とて、そのような恥ずかしい妄想を抱くこともある。もしもそうだったら、女の子から好かれるきっと今よりは随分と楽しい人生が待っていただろう。しかし、絶望的な事に、悲しい位貧相な風貌で背も低い利陽土には、それもかなわぬ夢なのだ。

(いや、しかしそれでも……)

 利陽土は思い直した。

(それでも……何の取り得も無い自分でも、毎日を楽しく生きて行ければいいじゃないか……)

 と、そこまで考えたのだが、全くありがたくない、重大な事実にも気が付いてしまった。今朝起きてから今までで、先ほどの有田とスガケンとのやりとりが、利陽土が今日行った他人とのコミュニケーションの殆ど全てだったことを。

 利陽土は、友人が少ない。せいぜい、上から目線で彼を馬鹿にする対象としている「数少ない悪友」しかいないと言ってよい。明確ないじめを受けているわけでも無いのが救いかもしれないが、少なくとも親友などと言える存在は誰一人いないのではないか。

 改めて意識しようとは思わなかった事だが、よくよく考えたらそうなのだ……

(いやいやいや……それでもそれでもそれでも……)

 半ばやけくそに、袋に残った鯉の餌を全て池に放り込んだ。水面に広がった餌を一心についばむ亀達の群れの中に、何の変哲も無いけれど、一際目を引く一匹がいた。

 利陽土の視界は、学校を出た後もずっと無彩色のままだった。池の水面は正しく濃いグレー一色に塗りつぶされている。その中にあって、どういう訳か、その亀だけは、淡いピンク色を帯びている。

 その特別な亀の動きだけを、利陽土は克明に目で追っていた。

(次郎は今日も元気か……)

 利陽土はほっと胸をなでおろした。「次郎」は、利陽土が小学一年生の時、縁日で買ってきた二匹のミドリガメの内の一匹だ。何の知識も無く飼い始めたためだったのだろうが、二匹のうちの一匹、「太郎」は間もなく死んでしまった。利陽土が今まで生きてきて、あれほど激しく泣き、悲しんだことは他に無かった。何としても、残る次郎だけは生き続けていて欲しい。幼い頭脳で必死に考えた末に思い付いたのが、このカメ池に次郎を放すことだった。同じように飼い主たちが買いきれなくなって放流された仲間たちが多数生きているここの環境ならば、子亀の次郎だって元気にやって行けるだろう。

 実際それは正しかった。次郎はあのピンク色のもやを常にまとっていて、他のカメとは明確に区別できたので、利陽土は殆ど毎日のように公園に立ち寄っては「彼」を観察してきた。今では、買った当時の数倍にも成長して、次郎はこうして元気に泳いでいるのだ。

 やがて餌を食べ尽すと、亀達はてんでバラバラの方向へ泳いで散ってしまった。次郎もピンクのもやとともに、不器用にヒョコヒョコと泳いで遠ざかって行ってしまう。

 利陽土は、一旦は

(いやいやいや! それでも次郎だけは僕の友達なんだ!)

 と思ってみたものの、やむなくそれも撤回することにした。

 犬や猫のような哺乳類ならまだしも、次郎は亀だ。殆ど知能も感情も存在しない下等な爬虫類に過ぎない。自分がこうして毎日彼を見守って来たとしても、彼の側からは友情を感じることはおろか、元飼い主である自分を識別することすらしていないのだ。

 あんな亀に何かを期待する方がおかしい……元よりそれは判っているつもりだった……

 ふと、利陽土は空を見上げた。

 丁度、クワクワと間の抜けた声で鳴きながら、数匹のカラスの編隊が公園の奥にある小山に向かって飛んで行く所だった。

 地面に目をやると、力無い日差しを受けて、自分の長く伸び切った影が石畳に色濃く落ちている。そろそろ日没の時間が近づいているのだろう。

 餌を全て撒いてしまったので手持無沙汰になってしまったが、さりとて家に帰っても特にする用事は無い。

 暇つぶしに、スマホでゲームを遊ぼうと思い、先週ダウンロードしたパズルゲームを立ち上げた。スタートボタンを押すと、画面の上からバラバラと果物のグラフィックが降って来た。指先ですばやくスマホの画面を撫でて、それを無心に消去して行く。

 ただひたすらに、ゲームを続けて行った。数えきれない果物の絵を延々と消していった。

 すると、いつしか腹の奥から、どうしようもなく熱く苦い、感情の塊のようなものがこみ上げて来た。

(あれ……?)

 目頭がしびれ、涙があふれ、視界がにじんで来た。スマホを持つ左手の指の上にパラパラと涙がこぼれた。

(何故だろう……)

 利陽土は、悲しいと感じている自覚は全く無かった。なのに、この涙は一体何なのだろう……どうやら自分は泣いているらしいが……

 そんな自問に、漠然と向かい合っていると、今度は意識がユラユラと混濁して来た。

 スマホの画面も、公園の風景も、遠くから聞こえてくる遊びまわる子供たちの声も……利陽土が知覚していた全ての物が、墨のような闇の中に溶けて消えてしまった。


☆            ☆


 利陽土は、一人廊下を歩いていた。

 間違いなく神代高校の廊下だった。

(あれ……?)

 丁度、さっき漢字の追試を終えて、教室から出た直後に見た風景とそっくりだ。人影が一切見えないところも全く同じ。しかし、時間帯だけは違う。陽が落ちた直後のようで、随分と薄暗い。

(何で、こんな所にいるんだろう……確か僕は公園のカメ池に……)

 そう思った時、丁度廊下の左側、東階段の隣にあるトイレのドアの前に差し掛かった。

「キャアアアアアッ!」

 突然、女子トイレのドアが勢いよく開いた。

「助けてえええええっ!」

 甲高い叫び声を上げながら、トイレの中からロケットのように「カミ高」の制服を着た女子生徒が飛び出して来た。自分の視界を横切る、その一瞬だけ横顔が見えた。しかし、彼女の方は、利陽土の存在には目もくれず、猛スピードで背中を向けて遠ざかって行く。

(な……なんだあ……? 「助けて」って……?)

 茫然と少女の背中を見守っていると……


「あなたにも見える~?」


 全く別の声が真横から左耳に飛び込んできて、利陽土の身体に電撃を食らわせた。反射的に、声のする方向へ顔を向けた。

 トイレのドアは開いたままになっている。

 その奥にある、個室のドアの真横に、もう一人の「カミ高」の制服を着た女子生徒らしき姿があった。両足を肩の広さに広げ、こちらに身体の正面を向けて仁王立ちしている。両腕をだらりと下げ、奇妙な事に、右の手首には何本もの手錠の輪が嵌り、ぶら下がっている。軽くウェーブのかかった長い髪が顔面をだらりと覆い隠し、表情が全く見えない……利陽土はそう思った。

 しかし、その認識は根本的に間違っていた。

 その者は、ゆっくりと、身体ごと後を振り返って行く。それに伴い、胴体は徐々に真横を向け、さらには背中側を見せてくるが、頭部だけは、逆に顔面が少しずつ真正面を向いて来る。

 つまり、その者の頭部は、身体とは「裏表」が逆の向きで接続しているのだ。

 遂に、その者は百八十度回転を完了し、胴体は背中を向け、顔面は利陽土と向かい合わせとなった。

 顔つきはごく普通の女子生徒に見える。特に可愛くも醜くも無く……

 しかし、その者は、利陽土と目が合うや、

「ほらあああ~! あたしにも見えるわ~!」

 と、満面の笑みを浮かべながら叫ぶと、利陽土に向かって急に駈け出して来た。

 いや、胴体の方向からすれば「後ろ向きに走っている」と言うべきだが、ともかくそれは利陽土に接近しているのだ。

 頭の中から、あらゆる思考と理性が吹っ飛び、真空状態となった。

「ウギャアアアアアアアッ△×■△×○▽○□!!!!」

 言葉だか、悲鳴だか判らない絶叫を喉からひりだし、利陽土は廊下を脱兎のごとく駆け出した。

(AYAだ! あれはリバーシブルAYAだ! 間違いない! 裏を向いても表を向いても「正面」の「リバーシブル幽霊」AYAだ!)

「あたしにも見えるわああああ~!」

 背後から、身の毛もよだつようなAYAの叫び声が追いかけて来る。直後、右耳の傍を、フイと風切り音がかすめた。利陽土を猛スピードで追い越して行ったのは、グルグルと回転しながら飛行していく手錠だった。それは、真っ直ぐに廊下の突き当たりにある西階段の壁にぶち当たると、轟音を立てて爆発した。破砕されたコンクリートの猛煙の向こう側に壁に開いた大穴が見える。

(な……なんだあ?)

 信じられない光景の連続に驚く暇も無く、全速力で走りながら振っている右腕に衝撃が走った。

 視界がグラリと廻る。

 猛烈な力で、何者かが手首をつかみ、真横に引っ張っているようだった。引きずられるように、利陽土の身体は、右にある廊下の窓に向かっていく。

 いつの間にか、右手首に手錠の輪の一方が嵌っていた。もう一方の輪は、強力な磁力に引っ張られているように、真っ直ぐに宙に浮いている。

 それが向かう先は、開け放たれた窓の外。

 手錠と共に、右腕全体が、窓の外に引っ張られていく。それに連れて、上半身が窓の枠から大きく外に乗り出した。手錠が意志を持った生き物のように、利陽土を屋外に引きずり出そうとしている。

「うわあッ!」

 空いている左腕で咄嗟に壁を抑え、脚を踏ん張り、外に出ないように堪えた。

 右の手首をねじ切るほどの凄まじい力で、手錠が利陽土を引っ張り続ける。徐々に利陽土の身体が屋外に乗り出し、もはや腰から下までしか校内には残っていなかった。その先に待っている事態は当然……

(落下する……? 地面に? この三階から?)

 利陽土の脳裏に、先月トイレの窓から生徒が落下して死亡した事件がよぎった。

(あの生徒は、こうして落ちた……? 僕も死ぬ……? これから死ぬ……?)

 刹那、利陽土の中から、一切の感情が消滅した。それまで生きてきた時間の中で、見て、聞いて、受け取り、感じた、全ての事象と共に。

 しかし、一筋の真紅の閃光が、瞳孔から飛び込んで来た。それが、利陽土の意識を覚醒させ、強引に元の世界へと引き戻した。

 右手を引っ張っていた手錠が火花を上げて砕け散った。鋭利な金属音が耳をつんざく。

 同時に、腕を引っ張っていた力も消滅し、反動で身体が後方にのけ反った。ろくな受け身も取れず、利陽土はバタバタと無様な姿勢で廊下の床に転がった。痛打した身体のあちこちに激痛が走る。

 何とか、生命の危機から逃れたと思ったものの……

「あたしにも見えるわ~!」

 再び、あの声が聞こえて来て、利陽土の全身を総毛立たせた。

 痛みに耐えながら顔を上げると、はたして「AYA」は廊下の数メートル先で、利陽土に「身体の正面」を向けて仁王立ちしていた。

 当然「顔面」は真後ろを向いていて、利陽土からは見えない。AYAは、利陽土の存在など全く無視して、その視線を、薄暗い廊下の奥にある「何か」に向けているようだった。

 近眼気味の利陽土は目を細め、それを見極めようとした。

 廊下の奥から、もう一つの人影が、音も無く近づいて来る。おぞましいAYAの姿と正対しているにも関わらず、その足取りには何一つ怖れが感じられない。

(あの制服は……?)

 セーラー服に身を包んだ一人の女子だった。襟とスカーフは、暗いえんじ色、スカートも上着も、全体が暗いトーンのセーラー服だ。カミ高の制服は男女ともにブレザーだから、校内にセーラー服の女子などいるはずはないのだが……

(あれは……ええと……仮面……?)

  肩よりも長いストレートヘアが、窓から吹き込んで来る風に僅かになびいている。しかし、顔面全体が楕円形の仮面に覆われていて、その奥の表情は見えない。仮面は陶器のような乳白色の地に、華やかな花柄の意匠が浮き彫りになっており、目の部分に穴らしきものは無いようだ。そして、右手には、一筋の紅い光を放つ鋭利な短剣が握られている。

「あたしにも見えたああああ!」

 そう叫ぶと、突然AYAは身体の背中側へ、つまり顔面の方向へ不器用に走り始めた。右手が大きく振られ、嵌っていた手錠の一つが勢いよく仮面の女子に向けて放たれた。

 それを避けようともせず、制服の剣士は逆に前方へダッシュした。

 一直線に、猛回転して向かってくる手錠に向かって、女子は右手で握っていた剣を正面から突き出した。

 手錠と紅い光刃の切っ先が衝突し、金属音と共に火花が飛び散る。少女の周囲に、破砕された手錠の破片が四散した。

 AYAの挙動の中に、一瞬の動揺が見えた。しかし、すかさず次の手錠が、数本同時に放たれた。

 仮面の女子は、走りながら床を蹴り、身体を横に倒しながら前方へ向かって剃刀のような跳躍をした。間一髪、第二波の手錠が身体の真下を僅かにかすめて後方へ抜けて行った。

 横倒しになった女子の身体は鋭いきりもみをしながら、AYAに肉薄した。身体の回転と共に、剣から放たれる紅い光が、AYAの全身を、脳天から真下に向けて貫いた。

 刹那、利陽土は眼前のAYAの姿が、弾けるように、左右に分断される瞬間を見た。

 断面から大量の光の粒子が四方に噴出し、利陽土の身体をすり抜けて行った。

 同時に、何者かがどこかで見た無数の情景、言葉、記憶、そして様々な「色彩」……膨大な情報が利陽土の脳に流入し、今それが起こっているように「見えた」気がした。

 一瞬とも永遠とも思える時間の空白。

 そこから覚めると、利陽土は未だ床にへたり込んでいる自分を確認した。目の前には、あの仮面の女子が無言で直立して、利陽土を見下ろしていた。


(一体……何が起こった?)


 床を見回すと、あちこちに金属の破片が落ちていた。その中の一つを何気なく拾い上げてよくよく見ると、手錠の鎖が切断された物だった。利陽土は息を飲んだ。頑強な鉄のリングが、完璧に、それこそ定規で測ったように二等分されていて、「斬られた」というよりは、「元々そのような形で造形されていた」ようにも見える。とても、人間業とは思えなかった。

「な……何が起こったんだ……?」

 先ほど心で思ったことを、今度は声に出して反復した。

「陰と陽、裏と表、生と死……生きとし生ける者は……いえ、神羅万象全ての物は、その本質を『二等分』することが可能なの」

「え……?」

「その対象の『核』を見出し、断層を突くことで、細胞分裂させるように、対象を分断する……『コア・スプリッター』よ」

「ええと……」

 利陽土は、何かを質問しようとしたものの、言葉に詰まってしまった。何をどのように言えばいいものか、思考が停止してしまっている。

「利陽土君ね。危なかったわ。わたし、あなたのことをずっと見てたのよ」

「え? 見てた? ぼぼ、僕を? な、なんで?」

 呆けた声でおうむ返しに利陽土は呟いた。生まれてこの方、誰からも注目されず、社会の片隅でひっそりと生きて来た利陽土にとって「見られていた」というのは、最も似つかわしくない言葉だった。

「君……いい匂いがするわ……」

「え? え? に、に、匂い?」

「ええ……生の中の絶望と……死の中の希望の香り……」

 抑揚のない、しかし春の蒼穹のように澄み切った声で、彼女は呟いた。

 まるで静謐と対話するように。

 そして、少女の全身は、ほの赤く光る「もや」をまとっている。

 それまで利陽土が触れたことも無い、柔らかく、優しい色合いを持った光だった。

 意味が通らない、歯車がかみ合っていないちぐはぐな言葉。

 どう返答していいのかまるで判らず、利陽土は半ば無意識に、その時最も自分が欲していた答を求めて、一つの問いを口にした。

「ええと……じゃあ、君は? 君の名前は?」

「ミリ……」

 彼女の顔を覆っていた、乳白色の仮面がうっすらと、花柄の意匠と共に半透明になって行った。

「ミリ……さん?」

「そうね。君が覚えてくれるなら、通り名も名乗っておきましょうか……ミリ・スカーレットエッジ……」

 そう言い終わると同時に、仮面は完全に消滅し、その下に隠されていた彼女の素顔が露わになった。

 利陽土が、一瞬だけそれを認めた直後、彼の意識は混濁し、生暖かい闇の底へユラユラと沈み込んで行った。

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