2-1 第二の殺人と自称探偵

 ?

 何これ。

 ……一箇所だけ破かれた襖の障子紙。

 ??

 なんなの一体?

 ちょっとこれ、どういうこと?

 居間の床畳の上に残された書置きの紙を手に、わたしは両脚の震えをどうしても抑えることができずにいた。

 ???

 ????

 寝不足のせいで、変な幻覚でも見てるのかな?

 でも現に紙片はこの手にある。次から次へと立ち昇る疑問符は、折り重なりうずたかく積まれて正常な思考を奪い去っていくようだった。でもこれは事実だ。そう理解した瞬間、全身に戦慄が走った。

 最初に限界を迎えたのは、二本の脚。その場にへたり込み、何度も、何度も何度も皺にまみれた文面を見返す。

 繰り返し。また繰り返し。

 幾度も幾度も。

 恐れていたストーカーが、遂にわたしの実家にまで?

 いや違う。そんなんじゃない。。ありえない。でも。

 でも、だとしたら、どうしてこんなものが……?

 姫島さん……!

 姫島さんに連絡しなきゃ。

 携帯電話を取り出す。指の震えが止まらない。キーがうまく打てない。指が滑る。

 駄目だ、メールは無理。アドレス帳から姫島さんのデータを呼び出してコールした。耳に押しつけた受話器まで小刻みに震えている。無機質な呼び出し音。姫島さん早く出て。永遠に続くような錯覚に、ふっと気が遠くなった。


「……ちゃん、理央ちゃん!」


 ……姫島さんの声。わたしは我に返った。


「き、姫島、さ……ん」


 喉が張りついている。舌がもつれる。滑舌の悪さに自分が情けなくなった。


「理央ちゃんどうした! 何があった?」


 とにかくあらん限りの力を振り絞って、自宅の居間に投げ込まれていたメモ紙の件を訥々と喋った。ちゃんと伝わったかどうか、全く自信がない。意味不明の言葉の羅列に聴こえても致し方ないことだった。

 それでも優しい姫島さんはわたしの訴えを辛抱強く聴いてくれて、


「判った。今すぐそこに行くから、じっとしてて。もし家にいられないようなら、必ず電話して」

「……はい」


 言い知れぬ恐怖は拭い去られた。

 受話器を耳に当てたまま、やがて胸に去来してきた安堵感に、再び意識が遠のいていくようだった。辛うじて心を保つことができたのは、姫島さんが移動中も定期的に声をかけてくれたおかげだろう。


「じゃ、一旦電話切るよ。十分もあれば着くから」


 耳朶に響く無情な話中音が、またもや不安を呼び覚ました。取り敢えず、玄関に鍵をかけなきゃ。

 脚は……なんとか動きそう。畳に手を突いて立ち上がり、隙間風に少々底冷えのする居間を後にする。

 姫島さんの声を聴いたからだろう、幾分平静さは取り戻していた。書置きの内容から考えるに、これを書いた主は既にここにはいないはず。なら、再度引き返すことのないよう、戸締まりだけはしっかりしておかないと。

 扉の施錠を済ませ、玄関に座り込む。

 疲労のせいもあるけど、とにかく興奮が制御できなくなっている。今日は朝からいろんなことがありすぎた。どうしてこんなにも立て続けに起こるんだろう。絶対に何かあるんだ。わたしの想像を絶する何かが。わたしの眼に見えないところで。

 携帯電話が軽快な音色を奏でた。〈ロッカー〉だ。姫島さんだけに設定した着信音。


「姫島さん?」

「ああ、もうすぐ着くから。大丈夫?」

「はい」


 隣家の飼い犬のシドが、一声大きく叫んだ。姫島さんが通ったのを教えてくれたのね。賢い柴犬だけど、姫島さんに吠えちゃ駄目じゃない。

 扉の向こうに人影が見えた。携帯を放り出し、鍵を開ける手ももどかしく急いでドアを開ける。

 姫島さんが立っていた。ライトグレイのニット姿だ。自然と涙が溢れ、瞬く間に視界が滲んだ。


「姫島さん……良かった」

「もう大丈夫だから。安心して。怪我はない?」


 肩から崩れ落ちそうになったわたしを、姫島さんはしっかり支えてくれた。服の上からでも判る、温かい掌の感触。


「わたしもう、怖くて怖くて……」

「どこかで少し落ち着こうか。すぐ外に出れる?」

調


 


「え?」


 誰?

 聴き憶えのない声。姫島さんに集中しすぎていて気づくのが遅れたけど、連れも一緒だったみたい。


「早速その書置きというのを見せてもらおうか。あと熱いお茶も所望したい」

「おい無双、勝手なこと言うな。理央ちゃんはひどい目に遭ったんだぞ」

「知ってる。だがそれは君の都合。我輩はストーキングと殺人事件の解決を乞われただけだ。カウンセリングは本業じゃない」


 この人今、我輩って言った? 自分のことを?


「お、お前なぁ……」


 尊大に腕組みして、不躾なことを言い散らしているこの男性が、昨日姫島さんが言及していた刺激物……難物であるような気がする。きっとそうだ。

 今日び絶滅寸前といった態の一人称を用いつつ、わたしや姫島さんを無視してさっさと玄関に入り、きょろきょろ辺りを見回している。白無地のセーターにダークブラウンのカーゴパンツ。服装的には特筆すべき点はない。ないんだけど。


「家の人は出払ってるね。仕方ない、外面だけでも拝んどこう」


 あっさり見切りをつけた無双なる男は、さっさと建物の横手に姿を消してしまった。挙動がせっかちすぎて、こっちの思考が追いつかない。


「ごめんね。いつもなんだ。でも悪い奴じゃないから。多分、書置きの紙が投げ込まれた縁側を調べに行ったんだよ」

「その包み……」

「あ、これかい?」


 姫島さんは手を離すと、小脇に抱えていた包装物を差し出した。まずい、しくじった。欲をいえばもう少しの間、わたしの傍にくっついていてほしかったな。


「無双のヨーロッパ土産だよ。ベルギーで買った砂糖菓子。理央ちゃんにって」

「それ、本当は姫島さんへのお土産ですよね?」

「う……まあね。鋭いな」


 優しさの塊みたいな姫島さんらしい気遣いだった。初見で嫌われかねない友人を、わたしに対してちゃんとフォローしてくれている。


「わあ、蜘蛛の巣だ!」問題の男は頓狂な声を上げて、「こりゃひどい。髪にひっついた。取れない。あーくそっ、全然手入れしてないじゃないか、ここら一帯。重ねて言うが本当にひどいな」


 姫島さんのフォローも空しく、男に対する印象は奈落の底へと墜落していく一方だった。この気儘な自由落下を回避することは、誰にも不可能なんじゃないかしら。


「ちょっと座ろうか?」

「平気ッス。姫島さんの顔見たら、すっかり元気になりました」これは事実。

「無理しちゃ駄目だよ。顔色悪いし」

「寝不足のせいですきっと。それより姫島さん、さっきの話、もっと詳しく聞いてほしいんですけど」

「ん、うーん……」言葉を詰まらせた姫島さんは、ばつが悪そうな面持ちになって、「その話、無双にも話してくれないかな」

「えーっ」


 いくら姫島さんの提案だからって、これには大反対だ。これ見よがしに唇を尖らせ、顔面全体で憤懣ふんまんやる方ない感じをアピール。あんな奴にわたしの身の上を話したって、なんの解決にもならないと思う。確実に。

 姫島さんは済まなそうに両手を合わせると、


「お願いだよ、この通り。絶対に悪いようにはしない。少しとっつきにくい奴だけど、必ず理央ちゃんの役に立つから」

「……本当に本当ですか?」

「ああ、あいつならなんとかしてくれるはずなんだ。もしあいつでも無理なら、僕なんて絶対無理だから」

「……判りました」愛しの姫島さんに頭を下げられちゃ、無下に断れない。「姫島さんに無理なことなんてないと思うんですけど。でも、姫島さんにそこまで言わせるなんて、あの人何者なんですか」


 姫島さんが答えようと口を開きかけたとき、周回を終えた例の男が、髪の毛や肩口を振り払う仕種をしながら戻ってきた。


「やれやれ、とんだ探索行だった。ときに君……理央嬢と言ったか……家の人はチャリで外出中? 見たところ、自転車置き場に一台もないんだが」


 自転車のことを蒸し返され、さすがにムッとしてしまった。


「うちは自転車なんかありません。二度も盗難にあって、買うのやめましたから」

「なるほど」厭味たっぷりの返事をするも男はさらりと受け流して、「どうりで車輪の跡が古いと思った。なあ姫島くん、立ち話もなんだしどこか料理の美味い店に行かないか。話はそこで聞く」


 無言で眼配せする姫島さん。あまり悪い気がしなかったのは、結果的に姫島さんに貸しを作った形になったからだ。早いうちに返してもらおうっと。どんな形で返してもらおうかしら。やっぱりデートがいいな。奇矯ききょうな邪魔者の一切いない場所で。

 全くもって姫島さんの効果は絶大だった。書置きの恐怖が、事象の地平線の彼方に吹き飛んでしまったのだから。一度居間に取って返し、残された紙片を手持ちのポーチに仕舞い込むと、未来のデートの相手をこれ以上待たせちゃいけないと、玄関へきびすを返した。

 そのときだった。足の裏で何かを踏んだ感じ。祖父が箸でも落としたのか。にしてはかなり冷たい感触。

 思わず息を呑む。悪意あるせせら笑いが、脳内に響くような錯覚を覚えた。居間に投げ入れられたのは、書置きだけじゃなかった。

 ……それは刃のガタガタに毀れた、だった。



「……すると何か? 制作中のゲームソフトのキャラクターたちが現実世界に飛び出してきて、君に警告を与えたと、そう考えているのか。本気でか。真顔でか」


 盛大に吹き溢したトマトジュースを紙のナプキンで乱雑にぬぐいながら、このいけ好かない男は尚もにやにや笑いをやめないでいる。真紅の飛沫しぶきは、斜交はすいのこっちの皿にまで及んでいた。


「自称犬神明と、編集部立会いの下で対談した平井和正の話なら聞いたことはあるが、いやはや、よもやそれがRPGのキャラになろうとは。マスコミが嗅ぎつけたら大騒ぎだ。ゲームのいい宣伝にはなりそうだが」


 うわーしゃくに障るわこいつ。窘めるように睨みつける姫島さんがいなかったら、とっくに席立ってるところだよ。


「おい無双。少しは真面目に聞けよ」

「そりゃ真面目な内容なら大真面目に聞く。だがこりゃあ冗談が過ぎる」

「ちょっと! 紙にジュースついてる。何してんですかもう」


 腹立たしい男は、事もなげに書置きの紙を眼前にかざして威儀いぎを正すと、空咳からせきを一つ放った。


「『突然こんなものを見せてしまってごめんなさい。けれども、あなただけが唯一の救いなのです。どうか助けて下さい。誰かに狙われています。しかもそれだけではありません。どうやら自分は名前以外の、一切の記憶を失ってしまったようなのです。どうかこの家を一刻も早く見つけ出して、自分を助けて下さい。よろしくお願い致します。〈麟音〉」


 そこで言葉を切り、軽快な動作で紙を裏返すと、


「おいおいおいコラコラコラ、なんだこの陰気くさい文章はよ。唯一の救いだと? 笑わせんなガキが。甘い上に青いんだよこの青二才! ところでこれ読んでるお前。いいか? こいつは忠告っつーか警告だ。ご意見無用手出しも無用。俺様がこの麟音(画数多いなこいつ、書きづれえ、むかつくわ)とかぬかす小娘を狩るのはいわば自然の摂理ってもんだ。お前がどこのどなた様かさっぱり知らねえが、狩りの邪魔立てをするならこいつ同様狩っちゃうかもよ(笑)〈超一流の賞金稼ぎ・Yeah!様〉。横文字これで合ってる?』」


 一気に捲し立て、ふんと鼻で息を吐く。

 一枚の紙片の表裏に記された二つの文章。隅っこに小さく書かれた最後の註釈ちゅうしゃくまでご丁寧に読み上げたのち、男は胡乱うろんな眼つきのまま顔だけを上げた。


「君、もう一度だけ訊くが、君は本気でこの書置きの内容を信じているのか。記憶喪失の麟音《りんね》という人物がまず君に宛ててヘルプの手紙を書いた。で、それを見つけた今一人の人物、賞金稼ぎのハンター〈ヤー!〉が、余白に面白おかしく文章を付け足した。結果がこの文面だと」


 返事はしないでそっぽを向いた。二度も同じ説明をしてやる義務はない。


「なるほど。君はよほど自分の創造したキャラクターに愛着があるのだろう。いつしか激突する宿命の二人は、何かが映ると言い伝えられるなんとかの鏡の力でこの世界に……」

「〈捜神鏡そうじんきょう〉です」堪らず口を挟む。さっきも説明したのに、憶える気がないのか。「神の似姿を映し出す〈捜神鏡〉。ていうか、鏡は向こうの世界の……」

「そうそれそれ。ところで〈捜神鏡〉という名前、やはり『捜神記』から? 東晋の干宝かんぽうの」

「あ、はい」

「あれは面白い。震旦しんたん志怪しかい文学の一大傑作。てことはゲームの中にも、やはり『捜神記』に由来する怪異の類いが出てくるのか。それとも仙人・方士の輩か。『三国志演義』でもお馴染み左慈さじとか于吉うきつとか管輅かんろとか」

「いえ、読んだことないんで」

「未読か。是非読んでみるといい。奇妙奇天烈な逸話説話のオンパレード。『南総里見八犬伝』の霊犬八房やつふさのモデルになった、槃瓠ばんこの話もある。まあ一番の傑作といえば、なんといっても干将かんしょう莫邪ばくやの息子が出てくる話だが。我が国の『今昔物語集』や『太平記』にも引用されている」

「今度読んでみます」

「最後、大鍋の中で三人の頭がドロドロに煮溶けて区別がつかなくなるのだ。衝撃のラストだろう。そんな惨状とドライな描写のミスマッチぶりが、なんとも味わい深い」


 ……今度読むって言ってるのに。


「あの……その話、書置きと関係あるんですか?」

「書置き? ああそうか、今そっちの話だっけ」


 臆面もなく男は言い放った。また一つ、男に対する信用度が下がった。


「ええと、〈鏡〉によってこの世界に現れた例の二人」

「違います。〈鏡〉はあっちの世界にあるんです。こっちはパソコンのほう」

「待ちたまえ。あっちとかこっちとか君は言うが、どっちも現実には存在しないんだろう」

「そりゃそうですけど……」


 でも、この現実世界を下敷きにしているのは麟音の世界なのだから、〈鏡〉よりもパソコンから出てくるほうが、まだ現実味がある。

 パソコン?

 そういえば、制作中のゲームのデータも、職場のパソコンの中に……。


「まあ出入り口はなんでもいいが、この現実世界に降臨してもなお、二人は初期設定通りにエスコートされ、一瞬の交錯の後に残ったのがこの紙切れ一枚と。どうせなら、こんな短文じゃなくて大作クラスの自叙伝を物してほしかったが……というわけで姫島くん」


 視界の隅で、男が姫島さんに問題の紙を押しつけている。


「名前は忘れたが、筆跡鑑定の専門家がいたろう。昔世話になった。彼に調べてもらってくれ。あと、この娘の筆跡も併せて」


 なんだって?


「おい、無双……」

「わたしを疑ってんの?」勢い余ってテーブルを平手打ち。皿や飲み物のグラスが軽く音を立てた。「信じらんない! わたしこんな字書かないって」


 こんなものは一目見れば判る。二種類の字体は、わたしが普段書く字と全く違う。


「字体をわざと変えてるのかもしれない」

「なんでそんなことしなきゃならないのよ」

「信憑性を増すため。架空の人物がこの世界に現れたという、狂言の信憑性を」

「だからなんでそんなことしなきゃならないって言ってんの!」

「結構な癇癪かんしゃく持ちらしいが」男はフフンと顎を突き出して、「可哀想に、寝不足のせいで神経過敏になってるんだ。今日はゆっくり休みたまえ。ただし、信じられないというなら、我輩には君の心境のほうがどうにも信じられない。空想と現実の甚だしい混乱」

「あのね……大体さ、あんた折角拾ったサインペン捨てちゃったでしょ。事件解決する気あるの? 何考えてんのよ」

「まだ言うか。そんなに大事なら自分で捜せばいい。どこぞの草叢にでも引っかかってるだろう。それはそうと、いよいよに降格か、我輩の指示代名詞は。敬語も使われなくなって、どこまで落ちていくのかな、我輩の評価は」

「我輩我輩うるさいっての。猫やデーモンじゃあるまいし」

「異なことを。我輩は溺死などしないし、大相撲の解説もしない。シナリオライターというのはこうも感覚が現実離れしているのか」

「あーもううるさい!」


 姫島さんは、手渡された書置きを見つめて小さく息を吐いた。姫島さんも信用してくれないのだろうか。わたしはとても悲しくなった。



 ……三十分ほど前に家を出たわたしたち三人は、主に経済的余裕があるときしばしば利用しているファミレス〈アンノウン・プレジャーズ〉――通称〈アンプレ〉――へ向かうことにした。

 近所で起きた殺人事件のことを、どうもここの店員は知っているらしかった。というのも、〈アンプレ〉のウェイトレスの態度が少し変わっていたからだ。注文を取る合間に、怯えの色合いを含んだ不審な形相で、こっちをチラチラ窺っていた。

 あれ? でも、わたしの職場が二人の被害者と同じことなんて知らないはずなのに。マリンとはこの席で仕事の愚痴ばっかり話しているから、それで足がついちゃったのか。もしくはもっと単純に、姫島さんの知人の人相が、挙動を不審にしてしまうほど異様だったとか。

 料理が来るのを待つ間に、姫島さんに言われた通り、今日一日の出来事を事細かに語った。

 当の無双なる男は早くもコップの水を飲み干し、瞼を閉じて腕を組んでいた。線の細い、繊細な面持ちの姫島さんとは好対照をなす、眉毛の太い強情そうな童顔。謹んで拝聴しようという姿勢は些かも見受けられない。

 というわけで、ほぼ姫島さん一人に話しかけることに決めた。別に男のほうに聞き漏らしがあっても、こっちが困ることは皆無なのだから。聞くも聞かないもそっちの自由だ。


 ……今日、わたしは生まれて初めて警察による事情聴取を受けた。〈すたじお・トランセンデンタル〉営業担当の鵜飼桂嗣けいじが殺害された件、及び、今朝発覚した同事業部のメインプログラマー若王子善哉よしやの殺害に関してのものだ。

 犠牲者が増えたため、事件は必然的に連続殺人の可能性を濃厚にした。と同時に、同じ職場の二人が犠牲となった事実が、否応にも同僚のわたしを捜査に引きり込むという不本意な結果を生んだのだった。

 五階フロア反対側、家具製作下請け会社の空き部屋が臨時の取調室に設えられ、社内に呼び出された計五名のスタッフは、順不同で朝から取り調べを受ける破目になった。とはいえ、わたしは昨夜も五階〈瞑想室〉で寝泊まりしていたので、早朝の廊下でのバタバタした様子は、夢現の中で朧に聞き取ってはいたんだけど。

 当然ながら、犯行推定時刻のアリバイについては、特に突っ込んだ質問をされた。終始無表情な眼の前の刑事に対し、該当する時刻は両方とも休憩室で寝てましたと、わたしは欠伸を噛み殺しながら正直に答えた。他に答えようがないし、心当たりがないばかりか、無実の罪で疑われるのは迷惑千万な話だった。

 中でも不快だったのは、職場内の男性関係についてしつこく質されたことだ。あんな連中最初から眼中にないっての。想像しただけで吐き気がするよ、ったくもう。

 ただ、それに伴い事件に関する様々な情報も得るところとなったのは、今思うと存外の収穫ではあった。眠い眼を擦り、一語一句に至るまで具に聴いていた甲斐があったというものだ。最強の頭脳を持つはずの姫島さんが、これらの情報を整然と組み立てて解決への道を切り拓いてくれる予定なのだから。もう一人のおまけは、おつまみの軟骨の唐揚げでも頬張ってずっと黙っていればいい。確かにあれ美味しいけどね。

 最初の事件の日の夜、鵜飼さんは社内に残っていた御船さんに、今日は会社に寄らないで帰宅する旨を告げたという。しかし実際の彼は職場近くの私道で死んでいた。何故か?

 それは彼の横領未遂疑惑に関係があるのではないか、警察はそう睨んでいるようだった。もちろん、そんなことは初耳だった。プロデューサー大先生ならまだしも、あの鵜飼さんが会社の金を横取りしようとしていたなんて。どうも被害者の身辺を洗っている最中に、行き当たった事実らしい。

 ほかにも、殺された時間帯は前日の午後十一時頃、死因は胸部の刺創による失血死ということまで判明しているのに、肝腎の凶器が現場から消えていることなどが質疑応答の中で浮上してきた。

 一方、プリンスが殺されたのは昨日の夕方、午後五時前後のことだという。

 現場はこのビルから五百メートルほど離れたトンネル脇の歩道。車道とは反対側の花壇に全身を突っ込んだ状態で倒れていたのを通行人に発見されたそうだ。死因は後頭部の打撲傷。詳しくは聴いてないけど、元々壊れていたのか、または犯人の手により壊されたのか、コンクリート製の花壇の破片で頭を打ち据えられたらしい。

 昨日の午後五時頃のわたしといえば、〈瞑想室〉のベッドの上で、着替えもしないで熟睡していた。聴くのを心待ちにしていたアルバム『トランスフォーマー』――ちなみに〈フォ〉の部分の綴りは〈fo〉じゃなくて〈pho〉。ここ重要――の音声データに聴き入っているうち、うとうとと眠り込んでしまったのだ。刑事さんには〈仮眠〉というニュアンスの異なる表現を用いたものの、まあ睡眠に違いはない。次に眼を醒ましたときは午後九時を回っていた。


「ちょっと寝過ぎな気がしないでもないですがね」ペンの尻でこめかみを掻きつつそう呟いた刑事は、すぐさま声音を改めて「ああ、いえ。こっちの話です。連日のカンヅメで、激務が祟ったんでしょうなあ」


 と、眼の下の隈も露に言ってきた。いえいえそちらも大層な激務のようで。

 更にもう一つ、どちらの被害者も財布や金目の物は盗まれていなかったという。つまり物盗りの犯行ではないことを示している。しかも被害者の職場が共通しているのだから、通り魔的犯行の線も薄くなるわけだ。

 ……最後に取調べを終え部屋に戻ってきた御船さんは、昨日を遥かにしのぐほどやつれ、憔悴しょうすいしきっていた。鵜飼さんが予算の横領をはかっていたことを、わたし同様捜査官から聞かされたのは確かなようだった。デスクに弔いの花まで飾っていた御船さんのことだ、受けたショックは想像に難くなかった。


「見たんスよ、俺マジで」


 そんな重い空気を意に介さないで、大先生やわたしに話しかけるバイト君がいた。


「昨日午後イチでここに来たんスけど、途中コインランドリーで、このビルのほうをじーっと見てる怪しい奴がいたんですよ。ほら、こっからでも見えるっしょ。あそこのコインランドリー」


 我が社の窓はビルの裏庭に面している。暖かそうな幅広のヘアバンドを眉毛ぎりぎりに被ったバイト君は、その外れの一角を指差して、


「そりゃもう怪しいのなんのって。野球帽にマスクにグラサンで、完全防備って感じの。やばいオーラ出まくり。あんな恰好じゃ、逆に見て下さいって言ってるようなもんですよ。もち、警察にも話したんスけどねぇ」


 彼はその要注意人物を今度の殺人事件に絡めたがっていたらしく、捜査陣が思ったほど興味を示さなかったことに相当不服なようだった。

 と、しばらく席を外していたマリンが、携帯電話を片手に戻ってきた。


「電話?」

「ん、まあね」


 ぴったりめのトップスの肩をそびやかしながら、携帯をデスクに放り出すマリン。そして誰にも聞かれぬようこっちへ顔を寄せると、


「えらいこっちゃだわ。決定稿のキャラデザ、まとめてプリンスに渡した矢先にこんなことになっちゃうなんて。奇跡の一枚とかあったのに」


 と、口惜しさを言葉の端々ににじませつつそう言い、続けて、


「ねぇねぇ、シイちゃんも聴いたでしょ? 鵜飼さんのこと」

「うん。まさかあの鵜飼さんが、ねぇ」

「なんかさぁ、うちのチームって呪われてんじゃないの?」

「呪われてる? 何それ」


 マリンは至って真面目な口振りだった。


「まぁ呪いは言いすぎでも、何かこう、企画とかゲームの完成を阻止しようっていう、邪悪な意志みたいなもの? そういうのが働いてるのかもしれないなあって」

「なんだってまたそんな」

「判んないけどさ。さすがにチーフプログラマーがいなくなったら進行に思いっきし響くでしょ」


 それはまあそうだろう。しかし、今回のRPG制作で損害を被る者、あるいは制作が頓挫することで利益を得る者というのが、どうにも想定しがたい。となると、謹厳実直を絵に描いたような鵜飼さんの意外な側面が、やはり事件の鍵になるのだろうか。


「そういや、男関係について訊かれた?」

「訊かれた訊かれた。シイちゃんも? あれ完璧セクハラだよねぇ」

「おおかた痴情の縺れってやつを調べてんでしょ。縺れるほどの痴情なんて、うちの職場にあるわけないっつーの」


 ひそひそ声で軽口を叩き合うわたしたちをよそに、バイト君の話はこの屋内のセキュリティ問題へ移行していた。キーカード式にしたほうが絶対安全だとか、表玄関の監視カメラはダミーなんじゃないのか等々、独自の観点からいっぱしの意見を並べ立てていた。

 そうしたり言を、やかましい! と一蹴した天下のプロデューサー様は、ようやく自由行動の許可を得たことと、本日の業務に関しては各自の裁量に任せるというあまり指示になってない指示を与えたのち、コートの裾をひるがえしてあわただしく出て行った。

 いやいや、この状況で任されても、することが思いつかない。今後はプログラミングが業務のメインになるのだ。チーフ格のプログラマー不在のまま、何をすればいいというのか。

 仕事をする気分には到底なれない。

 御船さんには悪いと思いつつ、一旦家に帰ってパジャマや枕カバーその他を洗濯することにした。コインランドリーはやめておく。バイト君の提言が功を奏したというよりは、むしろ経済的理由によるものだ。この事業部の未来に、暗雲が立ちめ始めたのはもはや疑いようがない。財布の紐は可能なだけきつくしておいたほうがいい。

 身支度と帰宅の準備を終えたわたしは、太陽が南中に達した頃、会社を離れた。

 まだ一食も口にしていなかったけど、我慢できないほどの空腹じゃなかった。食事は家に荷物を置いてからにしよう。

 いつものルートで久々の我が家へ。とその前に、隣のシドを撫でてやるのも忘れなかった。最近はご無沙汰だけど昔は散歩に連れていったりしたものだ。ぺろぺろ顔中を舐めてくる可愛いシドに別れを告げ、今度こそ我が家へ。

 鍵を開け中に入り、洗濯機の前に衣類を置いてから無人の居間へ。

 そこで障子紙の異変に気づき、更に畳の上には丸められた紙屑が……。

 黒で書かれた線の細いボールペンの文字と、その下側を所狭しと書き殴った、太めの青いペン字。筆記具も文字の形も異なる二つの文章。何より、それぞれの末尾に見える署名、〈麟音〉と〈超一流の賞金稼ぎ・Yeah!様〉。

 恐るべき符合。〈麟音〉と〈Yeah!〉、これは現在開発中のゲームソフトの、主人公二人の名前にほかならない。

 どうしてここに、この名前が……?



「そういえば、その文字の色」

「は?」


 かなり前にテーブルに並んでいた料理を、姫島さんとは違って話半分に聴きながらせっせと口に運んでいた隣の男が、何かに気づいてわたしの手から強引にメモ紙を奪い取った。


「こっちの、〈ヤー!〉のほうの青い字。姫島くん、これあのペンじゃないか」

「ん? あ、さっきお前が拾ったやつか」

「えっ、ペン拾ってたんですか? それ、見せて下さい」


 掌を差し出してそう詰め寄ると、男はケチャップのついた唇の端を舌で舐め取って、


「ない、捨てた」と素っ気ない返答をした。

「す、捨てた?」

「そう、捨てた。我輩は殊更筆記用具には不自由していない。青のサインペンなど使用頻度も高くない。だから捨てた」

「ど、どこに捨てたんですか?」

「草むら。君の家からそう遠くない所の」


 わたしの表情が不可逆的に曇っていくのを見てとったのか、男はフォークを動かす手を止めて、


「何をそんなに怒ってる。ポイ捨てのことか。どこにもダストボックスがなかったんだ。とがめられるべきは我輩じゃない、最初に捨てた奴か、屑籠を設置していない自治体のほうだろう」

「だって、それがあれば書いた人を特定できる証拠に」

「はあ?」


 なんて呑み込みの悪い男だろう。呆れちゃった。姫島さんはこの男を過大評価しすぎているんじゃないだろうか。

 わたしは血の巡りの悪い男に説明してやった。この署名はわたしが考案したRPGのキャラクターの名前であり、その穏やかならぬ文面から察するに、何やら大変な事態に発展するかも……とそこまで言ったときだった。

 ブッ!

 何かが勢いよく噴出する、異様な物音。

 男が口に含んだトマトジュースをテーブル上に吹いたのだ。ひどすぎる。考え方も態度も、何もかも。



 ……そしてこの頭のよろしくない男による、先程の書置きの読み上げに至ったという次第なのだった。


「まあいい。我輩の評価や人称の如きは、事件にこれっぽっちも関係ない」最後の一口をゆっくりと呷った男は、空になったグラスを脇に置くと、諳んじるように中空を仰いで、「ざっとおさらいをしようじゃないか。ソフトウェア開発全般を取り扱う株式会社ソーダケイク……ソーンダイクみたいな社名だな、でそのゲームソフト開発事業部が〈すたじお・トランセンデンタル〉。プロデューサー兼ディレクターの神埼創一そういち四十三歳。事務職の酢堂すどう御船三十一歳。作画デザイン担当の砂原すなはら茉莉まり二十歳。デバッグ要員兼サブプログラマーのアルバイト陸奥景清かげきよ十八歳。そして企画構成を手掛ける専属シナリオライター彩羽理央二十一歳……君のことだ。ちなみに〈シイナ〉の異名は、下の名前であるリオを〈シナリオ〉から抜き出したもので、命名者はデザイン担当の砂原茉莉、こちらの通称はマリン」


 言葉を止め、含み笑いを浮かべる男。

 どうしたんだ、と姫島さんが尋ねかける。


「いや、もしもオンタリオ湖の近くに住んでいたら、この娘の名前は〈オンタ〉になっていたのかなと思ってね。分散投資に長けた投資家なら〈ポートフォ〉か」

「何言ってんですか」冷たく言い放つ。

「とにかく、以上の五名が主な関係者ということになる。今回の事件の」

「関係者って、わたしも?」口を挟む。

「当然じゃないか。君だって事業部の一員だろう」

「そうだけど、ていうか、なんか容疑者リストみたいな言い方だったから」

「察しがいい。意外と探偵の素養を持っているかもしれない」

「ああそう。どうしてもわたしを疑いたいわけね。勝手にすれば?」


 こんな奴に、敬語なんか金輪際こんりんざい使いたくない。使ってなるものか。


「なあおい、無双」業を煮やしたのか、姫島さんが横槍を容れてきた。もっと言って下さい、もっともっと。「僕はストーカーの調査を優先してほしいんだ。事件のほうは警察に任せておけよ」


 むむっ、本音を言うと両方とも姫島さんに解決してもらいたいんだけど、もっともな一般論ではあった。人が二人殺されている。素人の出る幕じゃないとも思う。


「断る」即答だった。なんとまあ憎たらしい。「警察にできるのは、精々が事件に無理矢理引導を渡す程度のこと。世界中のあらゆる難事件は、〈真相〉を携えて人智の及ばぬ次元に逃れようとする。賞金稼ぎの狩人に即していえば、警察に事件を、探偵という名の狩猟者たちが〈必要がある」


 探偵……この男、自分が探偵にでもなったつもりなの。それとも本物の探偵? まさかね。


「君は観てないのか、今朝のニュース番組」

「ニュース? テレビで流れたの?」


 テレビといえば、昨日現場のすぐ近くで、報道局っぽい8ナンバー車が停まっていたのを眼にしたんだった。


「連続殺人の様相を呈し始めたせいだ。奴さんたちも探偵同様、死体に群がるのが大好きなのさ。既に様々なメディアの手で、この事件は荒らされつつある……とにかく我輩に任せたまえ。ストーカーは後回し。第一、そっちはまだ〈事件〉にすらなっていない」

「そのストーカーが、殺人事件の犯人だったらどうすんのよ」


 口に出した後で、なかなかの名推理なのではと思えてきた。


「面白い。理由を言いたまえ」

「わたしの近くにいる男の人を妬んでるのよきっと」

「ブラボー、いやブラボー」男は気のない拍手で応じて、「君は本質直観の使い手か、さもなくば神通理気じんつうりきの持ち主に違いない。どのみち大した名探偵ぶり。いやおそれ入った」

「はあ? なんの話?」

ねたみによる犯行とすれば、次の犠牲者は姫島くんに決定だ。我輩はあまり近づかないようにしよう。それと我輩、ミステリ読みとしては極右の原理主義者なのでね。できればかのヴァン・ダインが提唱した『探偵小説作法二十則』、その第十四則を適用したいところだ。彼曰く、『殺人方法と推理方法は合理的・科学的たるべし』」


 一つ判ったことがある。

 この男、探偵気取りだかなんだか知らないけど、病的というか、病気だ。最低でもミステリの読みすぎなのは間違いない。


「小説の作法なんて現実と関係ないでしょ」

「無粋の極みだ」鼻で笑われた。なんだか無性に悔しい。「そんな調子だと、第三則の『恋愛を持ち込むなかれ』は到底首肯できないだろう」

「恋愛禁止? バッカみたい」


 わたしは姫島さんに向き直り、笑顔で、


「姫島さん。姫島さんなら、きっとわたしのこと護ってくれますよねっ、ねっ」

「え、ああ、えーっと」


 照れ臭そうにはにかんで頭を掻く姫島さん。恋愛もご法度の世界なんて想像できない。それこそ狂気の世界だと思う。

 ウェイトレスを呼びつけ、探偵気取りは飲み物を追加注文した。またトマトジュースを飲むつもりらしい。どういう味覚? 塩分過多だと思うけど、まあわたしには関係ない。


「君は超論理の世界で自分の取り合いを堪能たんのうしていたまえ。我輩はで行く。しかしそれにしても情報が少なすぎる。君には警察の知合いとかいないのか、理央嬢」

「もしいたら、あんたなんかとっくに追い返してるっての」

「姫島くん、君は一体この娘にどういう教育を施している」

「あのなぁ」と溜め息混じりに姫島さん。

「後で双方の事件の犯行現場を見ておこう。その前に再確認。最初の被害者が営業担当の鵜飼桂嗣三十五歳。ビル裏手の狭い路地で刺殺体となって発見。次がメインプログラマー若王子善哉三十八歳。初めの現場とは正反対の、幹線道路脇の花壇にて撲殺体で発見」


 自称探偵の発言に合わせて、姫島さんが手許のスマホを手馴れたふうに操作する。メモ代わりに入力しているようだ。


「姫島くん、GTOじゃあるまいし、いちいちメモを取るのは面倒じゃないのか」

「いや、慣れればどうってことない」

「直接脳に刻み込んだほうがよっぽど迅速で有効だと思うが。デヴィッド・アレンといったか。GTOの創始者。といってもグレーター・ザン・ワンに非ず」

「……?」


 不審な顔の姫島さん。無理もない。


「それにデヴィッド・アレンという名前も、ゴングの主要メンバーと同姓同名で紛らわしい」


 自称探偵は机をコツコツ叩きながらこっちを見やって、


「君は音楽に造詣ぞうけいが深いのだろう? 〈オルター・イーゴ〉という制作中のゲームの名称も、ドイツのエレクトロ・デュオ・ユニットから取ったとか」

「そうですけど」

「ならゴングは知ってるだろう」

「知りませんゴングなんて」


 敢えて敬語で、なおかつ切り捨てるように答える。

 知らないというのは実は嘘。ゴングのアルバムは三枚ばかり聴いたことがある。システム7……スティーヴ・ヒレッジの流れだったと思う。でも、ちょっとスペイシーで古風なサイケだなぁという軽い印象しかなく、思うままに話のかじを取られるのも不本意なので、ここは話を合わせないことにした。


「ならトリッキー・ディスコは」

「知りません」


 こっちはGTOからの流れか。知ってるけどこれも否定。


「エレクトロを聴くのならブリープも聴くのかと思ったが」


 男は残念そうに首を振ったものの、立ち直りも早かった。


「話が脱線した。微妙に趣味が食い違うために、話題が平行線を辿たどってしまうことは多々ある。音楽然りミステリ然り」

「そんなことより、あんたほどの名探偵大先生ともなれば、情報なんかなくたって犯人の見当くらいついてんでしょ?」


 話が戻ったのをいいことに、厭味ったらしい口調で言ってみた。姫島さんが困ったのと呆れたのを絶妙にブレンドした面持ちでこっちを見たけど、こればっかりは譲れなかった。


「名探偵の称号は謹んで返上願う。単独犯に複数犯、はたまた連続殺人の衣を被った模倣犯の可能性その他諸々、この情報量でどれかに絞りきるのは不可能。関係者の動きが判明しない以上、合理的解釈の導きようもない。それでも何か言えというのなら、最初の事件はというのが、一番信憑性が高い」


 驚きはなかった。この男なら言いかねない。容疑者からいきなり犯人へとランクアップしたわけだ。御船さんまで巻き込んで。


「なんでまた、御船さんを共犯者扱いしなきゃならないわけ?」

「君の言った間取りが正しければ、〈瞑想室〉から下の階へ降りるには大部屋の前を通過せねばならない。酢堂女史の眼に留まる虞がある。だから共犯説を採用した」

「ちょっと待って。それならどうして御船さんの単独犯じゃ駄目なのよ」

「自力でそこまで考えついたか。ご名答。内部告発は酷かなと思ってわざと触れないでおいたが、こりゃ存外に大したものだ。普通に論理も駆使するとなると、我輩や姫島くんの力など不要かもしれない」


 はぐらかされた。しかも完全に揶揄やゆされている。


「ヴァン・ダインも共犯自体は否定していないし、そもそも監視する側とされる側の共犯事例は、我輩の敬愛する巨勢こせ博士が活躍する『不連続殺人事件』にも出てくる。あれは第一級の心理劇だ。哀しくも精緻な犯罪計画と大胆にして不敵な実行力。極上の味わいだよ」


 あれ、恋愛はご法度じゃなかった?


「しかも博士登場シーンの言い回しがまた、古今東西例を見ぬ素晴らしい名文なのだ。『そうですか、避暑はいいな。料理も食えるし、酒ものめるか。然し、今晩はダメですよ』『なぜ』『つらいな、開き直られちゃ。ちょッとお耳を拝借。ア・イ・ビ・キ。分りましたか』『博士も亦然りか。どうせ相手はパンパンだろう』『やいちゃ、ヤボです。先生。明日の夜行で行きます。一足お先きに。あの子もつれて行きたいな』『つれて来たまえ、遠慮なく』『ダメ、ダメ。神聖なる処女は虎狼の中へつれて行くわけに行かないんです』『博士は少女趣味かい。やれやれ。俺はトンマな趣味の奴に憑かれているんだ』……爽快なり、少女趣味の好色探偵。世が世なら拘留こうりゅうされてもおかしくないやり取りだが」


 落研崩れの素人噺家はなしかみたいな、一人二役の話芸。内容は判然としなかったけど、どうせ低俗で下劣な内容だろう。

 姫島さんは慣れているのか、表情一つ変えずにスマホをいじっている。クールでかっこいい。もちろん綴りがKのほうのクール。


「君はミステリは読まないのか」


 正直に答えることにした。この一年の間に読んだものといえば、恋愛小説とファンタジー色の強いラノベばかり。読書量も国民の平均以上読書家未満といった程度で、もしもシナリオライター職の平均読書量なるものをお目にかけることができるなら、自分はそれを遥かに下回っているはず。映画やDVDも観なくはないけど、どちらかといえば話題作や最新のものが好きで、古典的名作の類いには食指が動かない。動画系は完全にミーハー。

 絶対にけなされると思いきや、自称探偵は飄々ひょうひょうとした態度でお代わりのジュースを口中に転がすのみ。こと読み物に関しては、ミステリ以外にはまるで興味がないみたい。


「ところでその〈ヤー!〉という青年ハンター、何を狩る設定なんだ?」

「え?」


 急にゲームの質問を振られ、面喰らい気味に男を見返す。


「何をって」

「書置きにあったろう。狩りの邪魔立てすると云々。こいつは人間でも狩るハンターなのかと思ったのだが」

「やだ、そんなんじゃない」わたしは言下に否定した。「元は、虎や狼とか、人に危害を加える野獣の狩りを生業としてたのよ。それが〈異形のものども〉の出現で、今度はそいつらを仕留めざるをえなくなって……」

「〈異形のものども〉とは?」


 なんて頭の回らない男なの。探偵の名折れね。


「モンスターってやつよ。ゲームの敵キャラには付き物でしょ」

「それなら知ってる。回りくどい言い方をするから、なんのことか判らなかった」


 なんなのこいつ。せっかくの修辞表現をバカにされたみたいで、苛々いらいらが募る。


「この彼、やけに血気盛んな筆調だが、ここで何を狩るつもりなのだろう。モンスターは固より野犬ですらそう見かけない。動物園にでも出向くのか」

「知らないわよ、そんなこと」


 でも、〈ヤー!〉の性質を考えると。


「ただ、割と荒っぽいところがあるから、本人が〈敵〉と判断したら」

「なんでも狩るというのか」


 なんでも……狩る?

 ……人も?


「判らない。なんでもってことはないと思うけど」

「随分厄介な性格に仕立て上げてくれたものだ。すると、もし相手を敵と認めたなら、人間だって殺しかねないと」

「ち、違うって。そんなつもりじゃ」


 姫島さんと眼が合った。本来ならとても嬉しいことなのに、わたしは気後きおくれして視線を逸らしてしまった。なんだか姫島さんに無言の圧力を受けているような、言外に責められているような気がしたからだ。姫島さん、そんな人じゃないのに。


「そんなんじゃなくて、ただその」

「自分にかかる嫌疑を晴らさんがため、架空の人物を犯人に仕立て上げるつもりでないのだとしたら、今の発言はどういう趣旨なんだ」

「ひどい」わたしは激昂した。「あんたがなんでも狩るとか言うから……あんたに言わされたんだからね。あんたのせい!」

「お次は責任転嫁か。ひどいのは君のほうだろう」

「第一、理由がないじゃない。なんだって人を殺したりするのよ」

「君が言う通り、敵と判断したのかも」

「なんでよ」

「それを我輩に訊くのか」男は知る由もない、と言いたげに息を吐いた。

「まあいい。人間を殺しかねないなんてのは、単なる設定に過ぎない。まだ開発の途上にあるゲームの中での」

「む……」


 確かにその通りなんだけど、この男に言われると反論の一つも言い返したくなる。


「設定ついでにもう一つ質問。その青年ハンターは何語を喋るんだ?」

「何語って、言語設定のこと?」

「そう。君がシナリオを手がけた〈オルター・イーゴ〉は、とどのつまり異界の存在を感じ取る能力を持つ女子高校生〈麟音〉と、異形のものどもを狩る賞金稼ぎの青年、通称〈ヤー!〉の二人を主軸とした異世界ファンタジーRPGなのだろう……そういえば、この青年ハンターの本名、当人ですら知らないという設定らしいが、これ君が考えるのを面倒臭がっただけじゃないのか? 渾名あだなのほうも何か投げやりな印象だし」


 質問の内容が変わっている。もちろん無視した。


「失礼、都合の悪い質問だったか。話を戻す。言語設定の件だが、現代日本にいる〈麟音〉は日本人だ、日本語の読み書きに関して全く問題はない。奇妙なのは〈ヤー!〉のほう。彼は生活習慣の甚だ異なる、言うなればファンタジー風異世界の住人だろう。畏れ多くも異世界と銘打っているからには、日本語など使わないし通じぬはず。となれば、実際にゲームで出てくるかどうかは別として、独自の言語を設定していて然るべき。グロンギ語然りコバイア語然り」


 ……設定上は、ウトゥカ大陸の公用語であるブテケ語を読み書きできることになっている。そう返答した。グロンギ語のほうはどこかで耳にした気がするけど、詳細までは思い出せない。コバイア語は完全に初耳。どこの言葉だろう。


「するとここに避けられない疑問が一つ。もう一度確認するが、そのブテケ語というのは当然日本語とは異なる語族に属するのだろう」

「うーん、一応はその世界特有の言語ってことになってるけど、文字の形とか発音は、こっちの世界の英語に相当するっていう設定にしてる」

「英語、なるほど。メディアは問わず、異世界モノの物語に登場する固有名詞の大半は、実在する外国語をモチーフにしているだろうからな。さすれば〈Yeah!〉の署名からは、なんの矛盾も生じなくなる」


 自称探偵は、最前姫島さんが懐中に収めたメモ用紙を服の上から指し示すと、


「その紙には〈Yeah!〉の署名を除けば、あとは日本語しか書かれていない。これはおかしい」


 男の言わんとしていることが、判りかけてきた。判りたいかどうかは別として。


「RPGをプレイする我々が、便宜上異世界言語の翻訳文として、固有名詞以外の文章において日本語表記を許容するのはよしとしよう。スノッブ臭くてあまり使いたくない表現だが、所謂メタ言語としての日本語だ。ところが、ゲーム内における青年ハンターの立場だと、そうはいかない。理央嬢の意見が正しければ、彼自身にとって記載可能なのはその世界特有の言語、ブテケ語のみのはず。こんな砕けた調子の日本語を、本物のハンター君は果たして一文節たりとも書きえたろうか」


 わたしでさえ設定を固めていない特有の言語を、いかなるキャラクターであろうと扱えないのは当然のことだ。確かに男の言い分は一理どころか相当の理を含んでいた。


「だけど……」


 わたしは自説を展開する上で、有利に働きそうな点を挙げることにした。それは〈麟音〉のほうの書置きにあった、記憶を失っているという記述だ。ゲーム内部の〈麟音〉に、記憶障害などという設定は立てていなかった。失われた記憶、それは取りも直さず……。


「なんと、君は主人公となるべきキャラに、背景や来歴を全く作り込んでいないわけか。結構な手抜き工事じゃないか」

「違うって。案はいくつもあるの。まだ固めてないだけ。これからデザイナーやプログラマーと話し合って、細かく決めていくのよ」

「それが君の論拠か。記憶を失ったのではなく、端から記憶など持ち合わせていなかったと。記憶のない〈麟音〉は、それ故同様に記憶としてのデータを入力されていない、ゲームのキャラクターに相違ないと」

「まあ、そうだけど」

「弱い。確かに矛盾はないが、それだけで架空のキャラが現実に現れるという不可能性を覆すには、まだまだ論拠が薄弱すぎる。我輩を納得させるには不十分」

「言われなくたって判るわよ、そんなこと」


 わたしの考えが、臆見に臆見を重ねた砂上の楼閣なのは百も承知だ。完成はおろか、生前のプリンスがどこまでプログラミングを終えていたのかも定かでないPC内部のデータから、意思を持ったキャラクターが超えられないはずの壁を超えてこちら側の世界に飛び出し、あまつさえわたしに接触を図ってくるなんて話、どうしたって冗談か譫言うわごとにしか聞こえない。あまりにも立ちはだかる障壁が、不可能事が多すぎる。

 じゃあ、この書置きを書いたのは?


「大体なんなんだ、この〈ヤー!〉という名前。洋楽好きの君のことだ、ビートルズかヤー・ヤー・ヤーズ辺りから取ったんだろう。まさかチャゲアス? いくら架空の世界だからって、人名にしちゃちとおふざけが過ぎると思うが」


 ふざけてなんかいないし、由来も外れ。これは〈クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤー!〉から拝借したもの。壁の落書きからその名を取ったという、ニューヨークはブルックリン出身の五人組ロックバンド。ヴォーカル、オンスワース君のヘロヘロヴォイスと楽天的なバンドサウンドが痛快で、こちらもオルター・イーゴ同様時間が許す限り愛聴している。本当はこのバンド名フルサイズで使いたかったんだけど、ニックネームとしての実用性がないため最後の三文字だけ使用することにしたのだ。

 閑話休題、と男が居住まいを正す。閑話休題なんて言葉、実際に使う人初めて見たよ。


「二つの署名に関する最も現実的な解釈は、ゲーム内容を知っていた人物……少なくとも主人公二人の名前を知っていた人物の仕業とするもの。殺人事件との関連はさて置き」

「このナイフが最初の犯行の凶器だとすると、無関係じゃなくなると思うんだが」


 姫島さんが言った。着眼点がさすがだ。


「むろん可能性はある。丹念に洗えば血痕などどうとでもなるし、それにこの眼に余る刃毀はこぼれ具合。全くもって興味深い。まるで力任せに金属を幾度も殴りつけたかのような」


 ナプキンの上に置かれた、柄と同じ材質のステンレス製ナイフを男はしげしげと見つめた。好奇に満ちた子供じみた顔つき。


「どこから持ち出したのかしら。会社名とか彫ってないの?」

「ない。しかもありふれたデザイン。特定は難しい」


 気のない返事を放つと、男は人差し指をピンと立てて、


「ナイフの解釈は追々考えるとして……ときに〈麟音〉と〈ヤー!〉の名称を知りえた人物というと、神埼・酢堂・砂原・陸奥、アンド君。この五名以外に心当たりは?」

「……ほかにはいないと思う。でも家族とか、親しい人に喋ってればもっと増えるかも」

「君は姫島くんを容疑者圏内に招き入れるつもりか。見かけに寄らず容赦ない」

「あんたって人は……」


 姫島さんが手で制してくれなかったら、もう二言三言は突っかかってるところだったよ。


「理央嬢も含めれば五人、どうしても自分が疑われるのが厭なら残り四人の筆跡と、その書置きの筆跡を照合すれば、すぐに君の家の障子を破いた悪戯小僧の正体が判明する。のみならず、その二つの筆跡が本当に別人なのか、もしくは同一人物の一人二役なのかも」

「同一人物はさすがにないでしょ。理由がないわ」

「理由など考える必要はない。そのために筆跡鑑定をするんだ。同一人物と判明した後でなら、いくらでも頭を捻ってみせるが」

「取り敢えず全員分の筆跡が要るのね」わたしは面倒臭げに背伸びをしながら、「一度会社に戻って手書きの書類捜さなきゃ」

「存分に捜したまえ。あと誤解のないよう言っとくが、我輩は書置きの主にこだわる君のために提案したまでであって、個人的にはこんな走り書きのメモ、どうだっていいんだ。なんならペンを捨てた草叢の場所も教えてやろうか」


 なんなんだこの高圧的な態度は。最高にむかつく。あーもうっ。


「教えていただかなくて結構です。ほかのみんなの筆跡も手に入り次第、姫島さんに渡しますのでどーぞお構いなくっ!」


 わたしは受け口気味にそう捲し立て、不愉快な会話を振り払うようにすっかり冷めたスパゲッティ・カルボナーラを無理矢理胃袋に流し込んだ。効きすぎた黒胡椒に小さくせる。

 姫島さんは知己の筆跡鑑定家にその場で電話をかけ、会う約束を取りつけたようだ。残るスタッフの筆跡鑑定は後日行い、今日はメモ用紙とわたしの筆跡だけを渡すことで話が落ち着いた。ただ、いずれの文章もわたしが書いたものでないことは確かなので、これだけじゃさほど意味がない。


」何を思ったか、出し抜けに男は誰にともなく呟き始めた。「追われている強迫観念に駆られた少女が、書置きを残して消えた。異世界よりの来訪者は、いずれ書置きを見る者への警告として、更に書き加えて消えた。だから書置きだけがそこにある。だからそこには誰もいない。紙切れを見つけた彼女以外には」

「へ?」


 それは、男本人が却下した考え方のはずだ。何を今更。


「となると、実に様々な仮説が成り立つ。だからこその仮説なんだが。つまり、こんな仮説も成り立つわけだ……ひょっとしてこの二人、こっちが思っているほど、

「何それ」

ということだ」

「だからなんなのよそれ」


 そんな意味深な発言を最後に、男は今までの饒舌じょうぜつが嘘のようにむっつり黙り込んでしまった。奇妙な行動に奇天烈な発言、困った男だ。

 そろそろ職場へ引き返す頃合だった。

 あんなことがあった家には、いくら独り暮らしに慣れているわたしでも戻りたいとは思わない。洗濯物も当分放置状態だろうな。服ならまだ職場にあるし、枕カバーがなくても睡眠には困らない。それに筆跡鑑定に使えそうな書類を、今日中に捜しておかなきゃならないし。姫島さんの役に立てると思えば、俄然やる気もみなぎってくる。お爺ちゃんたちはあと二週間は帰って来ないはずだから、それまで砂糖菓子はとっておこう。

 書置きと一緒にあったナイフはというと、警察に届けようという姫島さんの意見を却下した自称探偵が、証拠品として持ち帰ることになった。ギザギザに波打った刀身に、さっきからただならぬ関心を寄せているのだ。しかし警察への非協力的態度もさることながら、指紋の付着を意に介さず直にナイフを握り締めるその行為は、探偵にあるまじきものだと強烈に思う。

 会計を済ませ外に出る。

 少し歩いたところで自称探偵はふと立ち止まり、身を屈して何かを拾い上げた。どうした? と姫島さん。


「ガムの包み紙。あの店のレジにあったのと同じメーカーだ」自称探偵はその銀紙に顔を寄せて小鼻をひくつかせた。「ミント味か。匂いで判る」

「それ、事件と関係あったりするの?」

「あるわけない。ただのゴミさ」顔も見ないで言い返すと、男はそのまま道端に紙を放り投げてしまった。「我輩は環境に厳しい男だ。赤の他人が捨てたゴミまで世話する義理はない」


 単なる嗅覚自慢か。どうせならご自慢の鼻でメモ書きの持ち主でも嗅ぎ当ててくれればいいのに。下手な探偵趣味に興じるより、よっぽど有意義だ。

 別れ際、姫島さんから就寝時の戸締まり等々、くれぐれも身の回りには気をつけるようにと言われた。直接的な形で姫島さんに護ってもらえないのは寂しかったけど、かけてくれたその言葉だけでも充分嬉しかった。


「そうそう、身勝手な行動は慎みたまえよ。電脳探偵嬢」

「何その電脳探偵って」


 訊くと、わたしの苗字からの連想らしい。彩羽、サイバネ、サイバー。くっだらない。


「あながち的外れでもなかろう。君はPCから、所謂いわゆる電脳空間サイバー・スペースから出てきたを追いかけてるのだから。電脳探偵の捕物帖、一つ観てみたい気もするが。クククク……自分で言っててアホらしくなってきた。電脳、探偵、捕物帖……何もかもアナクロだ。今となっては電脳でさえもね。フフフ」


 一人で喋って一人で笑っている。気持ち悪い。何こいつ。

 姫島さんは、その下らなくて気持ち悪い探偵風情の現場検証に付き合った後で、鑑定家のお宅に向かうとのことだった。こんな奇人変人の類いに翻弄ほんろうされては、さぞかし気苦労が絶えないだろう。

 帰りの道中、姫島さんの安寧を切に祈らずにはいられなかった。



 職場に戻ったのはその二十分後。五階の一角を陣取っていた警察は、わたしが来る前に引き上げたという。鑑識の報告待ちだろうか。

 職場内の様子は以下の通り。

 沈痛な面持ちを懸命に持ち上げて、報告書の作成や電話での応対に追われている御船さん。

 取り敢えず〈開発室〉に籠ったはいいものの、プリンスの遺した難解な企画書を前に、端末も立ち上げずうんうん唸っているバイト君。手にしたハサミで大量にスクラップを作成している。そのハサミで、ついでにあんたご自慢の長髪もわたしと同じ長さにしたろかいな。

 マリンは資料集めのため双方の部屋を奔走し、半ば運び屋と化している。

 そして一向戻ってくる気配のない神埼大先生。

 ……この中に、あるいはここにいない者の中に、あんな質の悪い書置きを残した人物がいるなんて、ちょっと信じられない。プロデューサーの神埼がまあ怪しいかという程度だけど、ゲームのキャラクター名を間違いなく記憶できているかどうか、その段階で既に疑問だった。むしろ、全体的に軽いノリのバイト君のほうが怪しいかも。会議室の住所録を見れば、わたしの住まいも調べがつくだろうし。

 いやいや、それでも書置きの内容にそぐわない部分が出てくる。


 〈どうかこの家を一刻も早く見つけ出して、自分を助けて下さい〉


 この一文がずっと気になって仕方がない。こんな意味ありげな文章を、誰が冗談半分で書いたりするだろうか。〈麟音〉のサインを書き残した謎の人物は、ひょっとして自分の〈家〉を具体的に描写することができなくて、ありのままを書いているんじゃないか。説明不可能な〈家〉。

 例えば……そう、例えるなら、ハードディスク内のデータとか。

 主要キャラの決定稿デザインは、もうプリンスに渡したとマリンは言っていた。となると、開発室の端末のどれかにプリンスがRPGソフト〈オルター・イーゴ〉のプロトタイプを作成していた可能性が出てくる。キャラクターの画像込みのデータを。

 その後、データ内の二人はなんらかの原因で――その原因は電脳を司る神のみぞ知るところだけど、〈家〉――この端末を飛び出して現実空間に出現し、逃走劇や、追跡劇や……。

 殺人を……?

 探偵気取りは言下に否定するだろう。井戸より這い出た長髪の女性が旧式のブラウン管をすり抜け出てくるみたいに、ゲームのキャラが現実世界に飛び出したりするわけがないと。フィクションと現実は別なのだと。

 ただ、わたしとしては今までの事柄を鑑みるに、そこまですっぱり割り切れるような心情じゃなかった。

 あるいは、こうは考えられないだろうか。そもそもわたしの発案じゃなくて、元々存在していた二人をわたしがだけなのだと。〈麟音〉が〈ヤー!〉の存在を無意識裡に感じていたように。それが、実際にデータとして打ち込まれたことで、ゲーム内のどちらの世界でもなく、まさにこの現実空間に出現してしまった……。

 いずれ開発室も調べなきゃと思う。〈麟音〉の世界と〈ヤー!〉の世界、そしてこの現実世界を結ぶ唯一の交点は、あそこ以外には考えられない。

 差し当たり警察に先回りされる心配はなさそうだし、後は誰もいない機会を見つけて、プリンスのマシンを調べるだけ。進捗状況をバイト君に訊くという手もあるけど、変に勘繰られるのも厭だし、こっちで調べれば判ることだ。疑問点はできるだけ晴らしておきたい。

 それにしても。考えは尽きない。わたしの身の回りで、一体何が起きているんだろう。

 何かがおかしい。

 何かが異常を来しているとしか思えなかった。

 考えれば考えるほど、錯綜さくそうし縺れ合う事象の線と線。時系列を追って思考を整理することさえ、今のわたしには困難を極めた。

 世界のどこか見えない処で、正常に働いていた軸みたいなものが、わずかにずれてしまった感じ。その微妙なズレが少しずつ齟齬そごを生んで、違和感が増大していくような。鏡写しの空間なのに、こちらとはてんで違う動きを見せ始めたような。侵蝕していく大地。徐々にではあるが、確実に狂い始める世界。

 鏡。

〈鏡〉。

 ……存在するはずのない〈捜神鏡〉。

 それは本当に存在しないのだろうか。いるはずのない人間が実在するのだとしたら、鏡のほうだって……。

 トイレの鏡に映る自分と向かい合っていたら、なんだかそんなことが思い浮かんできた。せっかく顔も洗い終わったのに、これじゃちっとも効果がない。

 もう一度顔を洗って廊下に出ると、突き当たりの壁ぎりぎりに立ったマリンが、こちらに背を向けて携帯で何か話していた。極度に押し殺した声色。他者に聞かれるのを避けているのは明らかだった。

 わたしにはまだ気づいてないみたい。これ以上の立ち聞きはまずいなと思い、抜き足で休憩室へ。

 そんなわたしの背後から、正月明けから……? 連絡先……兄貴の? 知らないよ……という返答の断片が幾つか聞こえてきた。

 靴音を立てず部屋に入る。普段は翳りの微塵も感じさせない天真爛漫なマリンにだって、他人に知られたくない内々の事情はあるものだ。そんな彼女の直筆の資料を今から捜し回るのかと思うと、意図に反して彼女を疑うような己の行動に、申し訳ない気持ちが陸続りくぞくと押し寄せるのだった。

 ごめんねマリン。あんたが書置きと無関係だって判ったら、まあそうに決まってるけど、わたしのおごりで〈アンプレ〉で好きなだけ食べていいからね。野口先生三枚ぐらいなら、喜んで出したげるよ。

 思い返すのは、あの書置きのこと。

 文面から推測するに、あのナイフは〈ヤー!〉の所持品に似つかわしい気がする。これ以上深入りすると、痛い目に遭うぞ。そういった意味合いを込めて、鵜飼さんを〈狩った〉際に用いたナイフを添えてよこした。

 後半の文章は、やはり殺人者からの警告なんじゃ?

 現実世界の殺人犯、イコールゲーム世界の住人〈ヤー!〉、イコール……この等式が成り立つとすれば。

 犯人は、〈ヤー!〉は……そして〈麟音〉は、誰だっていうの?

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