1-2 救済
紅い夕陽は遥か遠方の建物の谷間にあって、強い斜光を下界の至る処に投げかけていた。
陽が完全に没するまでには、まだかなりの猶予がある。だけれども急いだほうがいいことに変わりはない。活動できる時間は、思ったほど長くないのかもしれない。体力的なものだろうか。夜中に〈家〉に帰り着いてから、瞬く間に眠りに落ちてしまった。
そして翌日。
昨日と似たルートを通り、昨日よりも更に先へと、夕暮れの迫る街路を進む。歩道を行く人の数も、前日に比べると格段に増えている。自転車に乗っている人も少なくなかったが、それら通行人の大半は制服姿の学生だ。
とうとう思い出したのだ。
己がしようとしていたこと、しなければならないことの一つを。
たった一つ。それでもゼロと一の差は決定的だ。
創作活動。
そう、自分はファンタジー小説を執筆していたのだ。
舞台は中世ヨーロッパ――イメージとしてはイギリス、それもスコットランド近辺だろうか――を彷彿とさせる緑豊かな異世界。
そこで荒々しい猛獣たちの狩猟を生業としていた一人の青年が、各地で発生する〈虫の嵐〉とそれに伴う数々の異変、更には凶悪なる〈異形のものども〉の襲撃に巻き込まれながらも、天才的な狩りの腕と持ち前の傲岸不遜な態度を武器に、雄々しく生き抜いていくという筋書き。どこの賞に応募するでもなく、取り敢えず完成させることを目指しての、実質的な処女作。
自分にとっての最大の関心事を、どうして今の今まで忘れてしまっていたのだろう。
ただ、現状ではどうしてもそれを後回しにせざるをえない。一刻も早く書き上げたいところだけれど、執筆に戻るのは当分先になりそうだった。せっかく思い出したのに。原稿のほうは今しばらくPCの中で眠っていてもらおう。いつか完成のときがやってくることを信じて。
今日、自分はとある決心をしていた。
〈これ〉を見てしまった以上、もう〈家〉の中でじっとしているわけにはいかないのだ。
〈これ〉が何を意味するかはまだ判らない。判らないけれども、不吉な前兆であることは疑いえない。
未だ正体を現さない上、実在するのかも定かでない謎の追跡者。それが、欠けた記憶の混乱が生んだ単なる妄想なのかどうかを、今一度確かめなければならない。
でも、どうやって?
直接的な手がかりはゼロに等しい。しかし手がかりに結びつく可能性を秘めた、一筋の光明とでもいうべきものを、幸いにも〈家〉で見つけることができた。それが示している住所へ行けば、凡ての謎が解明されるかもしれない。
あの〈家〉にあったということは、自分とも無関係ではないだろう。行ってみる価値はある。
更にもう一つ。
これは単なる推量に過ぎないのだけれど、もしかしたら自分は学生なのではないだろうか。そんな気がしてならない。眼もくれず通り過ぎる、あるいは自転車で追い越していくブレザーやセーラー服を眼にするたびに、焦りめいた苛立ちが心の奥底に沸々と沸いてくるのだ。ここでこんなことをしていていいのか、学業に専念すべきではないのか……。
鏡に映った顔立ちからすると、高校生だろうか。中学生にしては齢を取りすぎている。ただ、〈家〉のどこからも学生服は出てこなかった。となると、大学か専門学校生か。いずれにせよ、学生証の類いも見つからない現状では、推測の域を出ることは不可能だ。己が顔を見ても何一つ思い出せない腑甲斐なさが、不穏にざわめく感情に一層拍車をかけていた。
所々に立つ電信柱の標識を頼りに、一路目的地を目指す。
人通りが多いほうが、却って心に余裕を生むようだ。突然〈彼〉に襲われるという恐怖を拭いきったわけではないけれど、この通行人の多さならば助けだって容易に呼べる。そもそも人目につく歩道の真ん中で凶行に及ぶとは思えない。
大通りを逸れて幾つか角を曲がると、じきに閑散とした住宅地に着いていた。
思ったより手間取ってしまった。土地勘がないのだ、仕方がない。
テレビ局の取材陣らしき人々が道を占領していたため、いきなり迂回を余儀なくされ、夜間に見た景色とは勝手が違うこともあり、幹線道路に出るまでに大幅に時間を費やしてしまったのだ。
それからICカードを拾った例のコンビニで、ここの近郊が掲載された地図帳を立ち読みし、予め記憶しておいた住所を基に目的地を確認した。地図を買うお金がないのは残念だったけれど、歩いて行ける距離だと判り安心した。
あのICカードは持ち主の許に戻ってきたのだろうか。
そんなことを考えながら交番を通り過ぎようとしたとき、ここで道を尋ねたほうがよほど早回りだったのではと思い至った。いやしかし。
それはできない相談だ。昨日までなら頼りにしても良かったけれど、もはや警察を当てにしている場合ではない。様々な事態がこちらの思惑を嘲うかのように、好き勝手に動き始めてしまっている今となっては。
ともあれ日の暮れかけた今、目的地と同じ町丁目に、こうしてやって来たわけだ。昨夜見た数棟の高層ビルは、左手に回りながらもその威圧的な巨躯で、高さに劣る住宅の数々を
自分を救ってくれる頼みの綱が、その目的地にあってほしい。
切なる願いを胸に、尚も込み入った住宅街を捜し歩いた。もっと暗くなると、電柱の地名表示も見づらくなる。最悪の場合、逢魔が刻に近所をこそこそ嗅ぎ回る不審者として、通報されてしまう虞もある。そろそろ目当ての場所に辿り着いておきたいところだった。
人の往来はすっかり途絶え、記憶の中の番地とかなり近接した処に近づいてきた。
……?
何かの気配を感じ、はっと視線を右に移す。
細い鎖で繋がれた柴犬が、手狭な庭にちょこんと座っていた。愛嬌のある真っ黒な双眸で、こちらをじっと見つめている。子供の柴犬だ。あまりの可愛さに撫でてやりたくなったけれど、捜していた邸宅が隣の家だと判り、軽く手だけ振ってその場を離れた。
とうとうここまで来た。
ざらついた塀の一部に、〈
大きく息を吐き、
よくある一戸建ての民家。きれいな外装だ。反面、経年数は長そうだった。
しばらく玄関の周辺を観察したのち、思い切って呼び鈴を押そうと、音符の意匠を施したボタンに手を伸ばしかけたところで、はたと気づいた。
出てきた家の人に対し、なんと言えばいいのだろう。
名前を告げて、その後は? ここに来た理由?
苗字も来歴も生活環境も忘れてしまいました、実を言うと貴方のことも存じ上げないのですが、ここに来れば何か情報が掴めるのではと思った次第です、あと誰かに追われている予感がします、誰かというのは〈彼〉のことです、その〈彼〉が何者なのかまでは判りませんが、取り敢えず助けて下さい、危害が及びそうになったら是非匿って下さい……。
これを不審者と言わずして、なんと言おう。頭を抱えたくなった。
いやしかし、ここで引き下がっては意味がない。まだ第二の手段がある。
直接声をかけなくとも、己の存在を先方に伝えることができれば、それが引き金となって突破口を見出せる。
建物の裏手に回ってみた。
大きなサッシ戸に覆われたいかにも日本家屋っぽい縁側は、部屋の障子戸もぴったり閉ざされ、人の気配を露ほども感じさせなかった。その他の窓という窓も皆カーテンが閉められており、家人は出払っている様子だった。
玄関先に戻る。
今まで隠し持っていたメモ紙を取り出し、文面を再度確かめた。
次なる一手はこの手紙だ。家の人が不在だったときに備え、〈家〉を発つ前にしたためておいたものだった。念のため持ってきておいて本当に良かった。これがなかったら、今日の外出は文字通り無駄足になるところだった。
大体、顔を合わせた後の現実的な対応を検討していなかったのは大間抜けだった。一応目的地には到達できたのだから、今回は幸運なほうだろう。
玄関扉の横に挟んでおけば、確実に帰ってきた家人の眼につく。けれどもそれはできない。
表にあった郵便受け……あれがいい。入り口の塀の前まで引き返し、懐より取り出したそれを郵便受けに差し入れ、奥のほうまで押し込んだ。
コトン、と受け皿に落ちる音。
望みは託された。どうか自分を助けてほしい。自分にまつわる種々の謎を、解き明かしてほしい。
ふぅ……洩らした吐息が、声になって出ていた。心の重荷がほんの少し取れた気がした。額を擦る。僅かに汗ばんでいる。
「ちょっとアンタ」
予期せぬ言葉と肩に当たった手の感触に、思わず飛び退きそうになった。
だ……誰?
年の頃は五十代そこそこ、過剰なパーマを頭部に当てた小太りの中年女性が、手提げ袋にネギを挿した典型的な買い物帰りの主婦の姿で目の前に立っていた。その排他的な表情は、余所者に対する疑念に満ち満ちていた。
「何してんのそんなとこで」
「い、いえ、別に……」
「怪しいコね。ここじゃ見かけない顔だし」
建物から出てきたのを見られたのだろうか。しかし、少なくとも物盗りでないことは自分で証明できるし、疚しいことなど何一つしていない。これは言いがかりに等しい。
「すいません。ひょっとして、こちらのお宅の方ですか」
違うけど、としばらく
「ここの家の人、確か何度も自転車盗まれてんのよ。だから、もしかしたらと思って」
自転車泥棒と間違われたのか。それならば身の潔白は明らかだ。
「ち、違います。そんなんじゃありません。外から眺めてただけです」
「なんで眺めてたのよ」
「えっとその、知り合いの家に似てるなあと思って」
「怪しいねぇ」随分と疑い深い女性だ。夕陽を浴びた立ち姿が現実味のない陰影を帯び、何か化け物じみた雰囲気をまとっているようでもあった。
「そこの新聞受けも探ってたみたいだし、自転車以外の何かを物色してたんじゃなくて?」
「そ、そんなことありません」
……何かを入れたふうには……見られなかったらしい。
少し安心した。
「そう? まぁ見た目そんな感じじゃなさそうだけどね」
見た目でなければ、何をもって訝しく思ったのだろう。相手をするのが段々
「このお宅の方、ご存知なんですか?」
「顔は知らない。あたしこないだ引っ越してきたばっかだから」女性は
予想だにしないところから、貴重な情報が入ってきた。
三人家族。
「どういう家族構成なんですか?」
ところが女性は眉根を寄せると、またもや疑わしげに、
「何よアンタ、やっぱここの家嗅ぎ回ってるわけ? やだちょっと、興信所の人?」
「いえ、あの、そんなんじゃありません」
「なら探偵か何か? やだわーもう」
下校中の小学生が数人、何事か騒ぎ立てながらこちらに近づいて来た。もうこれ以上ここにいても無意味だ。
「すいません。この辺で失礼します」
「当然よ。なんだか知らないけど、あんまりこの辺をうろうろしないでちょうだい」
「すいませんでした」
一度として振り返ることなく、ひたすら角を曲がり続けた。
最後は少々締まりが悪くなってしまったものの、当初の目的は果たせたのだから諒とすべきだろう。及第点はつけていいと思う。
陽の光が少し、弱まった気がした。この分なら日暮れ前に〈家〉に戻れる。
久しぶりの安堵。肩の力がすっと抜けていった。肩の左右両方が、さっきからずっと力みっぱなしだったことに、今になって気づいた。
一刻も早く、彩羽家の彼女にあの書置きを見つけてもらいたかった。〈家〉の所在地が不確かなせいでこちらの住所を書けなかったのはとても残念だったけれど、その代わり自分の名前はしっかり書き残してある。書置きを元に当方の存在に気づき、あわよくば棲家を捜し当ててほしい。そこまで期待するのは酷だろうか。
〈あれ〉を見たときの、〈彼女〉の反応も気がかりといえば気がかりだ。なんのことだか判ってくれるだろうか。
怯えてしまい、こちらの捜索を断念してしまうことも考えられた。ただ、賭けに出るしかないのだ。どのみち持ち帰るわけにはいかないのだから。
次第に道幅が広くなり、何某かの予定を持った、あるいはただ帰宅するだけの歩行者が増え始めた。
西の太陽はしぶとく地上にとどまっていたが、気温は体感的にも低くなっていた。道行く学生らの中にも、制服の上に薄手のベストを羽織っているのが見受けられた。
仮に先刻の臆測が本当で、実は学業に専念すべきどこかの学生なのだとしても、自分如きが勉強をして何になるというのか。自己の記憶すら忘れた者に、それ以外の何かを憶える資格などない気がする。あたかも
いっそのこと、自分にまつわるありとあらゆる事象が、およそ
疲れた。
早く帰ろう。
〈家〉でゆっくり羽を伸ばして、今夜はぐっすり眠りたい。眠ってしまいたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます