1-1 第一の殺人と姫島さん

 眼が醒めたのは、もう少しで時間表示が三桁から四桁に繰り上がろうという、そんな折のことだった。

 言外に起きなよ寝過ぎだよと告げる、マイナーなゲームソフトのマスコットを象った可愛らしい置き時計。名残惜しい感触の蒲団から這い起きて、レースと薄地のプリントカーテンを一気に引き開ける。

 あー眩しい。

 でもいいね陽の光って。こんな爽快感を味わえない吸血鬼という種族は、人生の半分は損しちゃってるね。ちょっと不憫ふびんというか、可哀想だよ。って何の心配してんのあたしゃ。

 ウガーッ、と、さながらオークの如き咆哮ほうこうを放って大きく伸びをした。乙女の恥じらいはこの際棚上げ。この伸びがすっごく気持ちいいのだからして。

 でも、こんな時間まで眠れるなんて実に珍しいことだ。

 確かにこのゲームソフト開発事業部、勤務時間さえ割っていなければ数十分の遅刻は不問に付されるんだけど、いつもならもっと早い時刻にマリン辺りが起こしに来てくれるはずだった。ただ一言添えておくと、実際は勤務時間を超過してもノルマ達成に及ばないことしばしばで、取り分け締め切り間際は徹夜に次ぐ徹夜という、労働基準法形無しのまさしく地獄の様相を呈することになるから、遅刻し放題というわけではないし、決して楽な仕事でもない。断じて。

 なんで起こしに来ないんだろう。昨日までの努力と功績を讃えられて、眠りの特権を授かっているのかしら。だとしたら、あと数刻は寝ていても平気かも。

 そんな身勝手な胸算用は、扉を叩くいささか気忙きぜわな音に敢えなく破られた。


「待って、今開ける……」


 こっちの返答を待つ間もなく、ドアは素早く開け放たれた。あれ? さては鍵をかけ忘れたか。なんとまあ無用心な。


「おはよ。起きてた?」


 マリンだ。なんだか切迫したような、蒼白い顔をしている。


「今起きた」

「鍵もかけないで?」


 あんた、勝手に開けといてそれはないでしょう、と突っ込む暇すら与えず、マリンは息急き切って、


「そんなことより大変なの。鵜飼さんが死んだの」

「えっ?」


 鵜飼さんが、死んだ? そう言ったふうに聴こえた。


「鵜飼さんが……死んだ?」半信半疑で訊き返す。

「そう、しかも」


 そこで言葉を切ると、マリンはきょろきょろと廊下に眼を配り、室内へそっと足を運んだ。そして置いてあった段ボール箱に思い切りつまずき、盛大にコケた。


「イッター! ちょ、何これ」苦悶の表情を浮かべてうずくまる。

「あ、ゴメン。それ余った年賀状とか古い資料とか」

「捨てなよもーう、イタタタ……」


 段ボールは後でどうにかするとして、しかも、の続きが気になる。足を抱えるマリンに近づく。後ろ手にドアを閉めると、彼女は声を潜めて、鵜飼さん、殺されたんだって、と囁いた。


「えーっ、まさかぁ……嘘でしょ」

「ホントだって。ソースは御船さんだもん。今朝ここに電話があって、近くの路上で鵜飼さんの死体が見つかったって」


 近くの路上? 鵜飼さんはこの近所で殺害されたのか。


「電話って、警察の人?」

「うん。もしかしたら、後で聞込みに来るかもしれないって」

「皆集まってるの?」

「とっくに揃ってるよ。後はシイちゃんだけ」


 そういうことか。誰も起こしに来なかったのは。そんな余裕すらなかったってわけね。

 手早く着替えて使い捨てのコンタクトを着ける。だいぶ前にやめた眼鏡は、ずっとケースに仕舞われたまま長らくデスク上の置物と化していた。先に出たマリンを追って、わたしは二つ隣の部屋扉を開けた。

 スタッフが結集した広めの室内を、重苦しい雰囲気が支配していた。誰もが自席に身を沈めて押し黙っている。デバッグ要員のアルバイト、陸奥むつくんも既に来社していて、あてがわれたパイプ椅子に所在なげに腰を下ろしていた。わたしは遅れてきた気まずさもあり、なるべく物音を殺して座席に着いた。

 しまった。顔を洗うのを忘れた。仕方ない、せめて目ヤニくらいは取っておこう。

 席が一つ空いている。

 ソフトウェア開発事業部唯一の営業マン、鵜飼さんの席だ。備品も書類もそのままのデスク。傍らに置かれたユリの花の花瓶は、御船さんの心遣いによるものだろう。あの座席が埋まることは、今後あるのだろうか。


「揃ったな」


 黒褐色のサングラスにスーツという平生通りの出立ちの神埼大先生が、重々しく口を開いた。昨晩もお酒が入っていたはずなのに、宿酔ふつかよいという風情でもない。


「残念なことになった。新たな企画も立ち上がり、いよいよ携帯型ゲーム機用ソフトへのシフトも軌道に乗りかけた矢先に、こんなことになるとは。鵜飼くんも悔やんでも悔やみきれん心境だろう」


 御船さんがハンカチを手に、声を殺してはなすすった。涙目を超え、憂いを帯びた眼許が赤く腫れている。マリンの円らな瞳も潤んでいたけど、そっちはわたしが床に放り出しておいた段ボールのせいかもしれない。


「差し当たり、今後の業務に関しては通常通りでいく。ただし、いくら我々のモットーが少数精鋭といえど、営業職がいなきゃ仕事が成り立たんから、本社に連絡して臨時のヘルプを回してもらうことになるとは思う」


 大先生の言う通り、この職場は人員が滅法めっぽう少ない。営業の鵜飼さんが亡くなってしまい、今や総勢六人だ。よく本部から足切りされずに済んでるよ。まあ、そのために以前のゲームソフト全般の取り扱い業務から、手堅く携帯ゲームのソフト制作へと規模を縮小したんだけど。

 この少人数でフルCGフルオーケストラの超大作ソフトは無理だとしても、零細クリエイター集団ならではのフットワークの軽さ・機敏性で、携帯用の地味な良作だったらコンスタントに作れるはず。うまくシリーズ化の波に乗れば量産だって不可能ではない。と思うんだけど。希望的観測が過ぎるだろうか。


「……そういったわけで、警察側としては、今回の一件を殺人事件と断定し、怨恨・通り魔両方の線から犯人を洗い出していくということだ。その際にはここの社員にも、もしかすると捜査に協力してもらうことになるかもしれない。警部の方から直々にお達しがあった」


 怨恨? 捜査に協力? つい先刻、マリンが聞込み云々と言っていたのはこのことか。


「万が一呼び出しがあったら、業務に差し支えない範囲でいいので応じてほしいとのことだ」

「それ、要するに僕らも容疑者圏内に入ってるってことですよねぇ」


 口をすぼめてそう言ってきたのは、長い髪を後ろで束ねたバイト君だった。不満の色が細面で彫りの深い相貌から滲み出ている。


「あんまり突っかかるな。形式的なものだろ、あくまで」

「だけど気分のいいもんじゃないですよ、ねぇ若王子さん」と肩をすくめ、終始無言のプログラマーに水を向ける。


 当のプリンスは押し黙ったきり、顔を上げようとしない。御用達のディオールの眼鏡に隠れた眼光は、余人の窺い知るところではなかった。


「なんにしろ、早く解決してくれるに越したことはないんだ。要請があったら速やかに従うように。いいな?」


 場を締め括るように大先生は言い放ち、背後のアナログ時計を振り返った。


「済まんが早速呼び出されてるんだ。俺はこれで失敬する。酢堂すどうくん、後は頼む」


 そしてそのまま出て行くかと思いきや、唐突にわたしを指差して、


「それとお前。お前は寝癖を直せ。見苦しいぞ」

「あ、はい。すいません」


 この場は手櫛てぐしでやり過ごすしかない。

 にしても、あの大先生、わたしの名前忘れちゃってるのかな? もう長いこと名前で呼ばれていない。

 本名はおろか入社以来すっかり定着しているペンネームの〈シイナ〉でさえ、大先生には使ってもらった記憶がなかった。バイト君にすら〈バイト〉とか、不在時は〈バイトの彼〉とか言っているのに、こっちはずーっと〈お前〉呼ばわり。この分だと、わたしがいないときは〈あいつ〉とか陰で言われてるんだろうなぁきっと。

 大先生が姿を消すと、ピンと張り詰めていた空気が俄かに緩んだようだった。

 バイト君が身なりに違わぬ軽い口調で、マジヤバイッスよ、神埼さんソッコー疑われてるじゃないッスか、この仕事大丈夫スかね、と捲し立てている。彼にとっての心配事は、職を失うことの一点に集約されているようだ。

 やがて仏頂面のプリンスが、不安を煽る一方のバイト君を連れ出して部屋を後にした。恐らく隣室で資料の読み合わせだろう。新作ソフトのプログラミングに取りかかるのかもしれないけど、今日は早めに切り上げそうな雰囲気だ。基本的に営業の鵜飼さんとはバッティングしない仕事内容なので、業務上体感できるほどのデメリットは生じていない模様だった。


「呼び出されたのって、大センセーだけ?」髪を整えるのをやめ、向かいのマリンに囁きかける。


「うん。それと、さっき御船さんにSuicaの再発行手続きのやり方訊いてたから、そっちの用件もあるんじゃないの」


 おおかた酒席のどさくさで落としたのだろう。どうせならわたしの名前も再発行して常時拐帯かいたいしていてほしいものだ。


「マリンはさ、詳しく聞いてるわけ?」

「鵜飼さんのこと?」ここでマリンは言葉を切り、事務デスクに一瞬眼をやった。いつも笑顔を絶やさない麗しの御船さんが、放心の態で項垂れているのが見ていて痛々しかった。仕事も手につかない様子だ。

 マリンはデスクに肘を乗せ、顔を突きつけてきた。


「少しね」声のトーンがいつになく落ち込んでいる。御船さんを配慮してのことだろう。「でも、電話を受けた御船さんとプロデューサーの会話を横で聞いてただけだから、詳しいってほどじゃないよ」


 そう前置きして、マリンは静かに話し始めた。

 曰く、鵜飼さんの遺体が発見されたのは今朝未明、場所はビルの裏手を百メートル余り行った先にある狭い小径、死因は刺殺らしいけど現場に凶器なし、多分現場検証中。


「こんなところかな」


 それだけ? 死亡推定時刻とか、目撃証言は?


「それだけ? って顔しないでよ。たかが業務連絡の電話で、警察がうちらに事細かく教えてくれるはずないじゃない」


 確かに。一般市民に開示してくれるのは、大雑把なアウトラインのみのようだ。


「んで、どうすんの」次はこっちが質問される段となった。

「どうするって、何が」

「シイちゃん、大仕事は昨日まででしょ。プロデューサー先生もいなくなっちゃったし、今日はどうすんの、フケんの?」

「そっか。どうしようかな」


 まだそこまで考えてはいなかった。わたしにとっての仕事上の峠は昨日無事越えたから、言われてみれば今日からしばらくの間は、急務というほどの作業は残っていない。皆無じゃないけど、敢えて今する必要のない仕事ばかりだ。


「ならさ、姫島さんに逢ってみたら?」


 姫島さん! おお姫島さん!


「ずっとボヤいてたじゃん。全然逢ってないって。メールして、逢えるかどうか確認してみなよ。こないだのヴァレンタインも、結局チョコ渡せなかったんでしょ。うかうかしてると、今度は警察に呼ばれてこっちが都合つかなくなるよ」


 我知らずマリンの手を取り、固く握り締めていた。あんたやっぱり親友だよ。いや、大親友に昇格だよ! たった今から。


「偉いっ!」マリンのふくよかな手を揺すりながら、寝起きドッキリを思わせるかすれ声で言葉を継いだ。「あんた天才だよ、マリンちゃん。天才の発想。もしこの恋が成就したら、〈アンプレ〉のアニバーサリーケーキ奢ったげるよ」

「クレイジーパフェもつけてよね。アボガド乗ってるやつ」


 それを言うならアボカドだ。でも訂正しないでおこう。神埼大先生みたいで野暮ったいし、彼女に恩はあっても恨みはない。心情的にはどんなに感謝してもし足りないくらいだもの。


「もっちろん! アボガドでもアボガドロでも、なんでもトッピングしていいって。ねえ、もし姫島さんがオッケーだったら、マリンも行かない?」


 このナイスな提案に、しかしマリンは首を振って、


「遠慮しとくよ。デートの邪魔しちゃ悪いでしょ。それにあたしのほうはまだイメージの色づけとか結構作業残ってるしね」


 さっすが大大大親友。なんて健気なコなんだろう。しかも並んで立つのが恥ずかしいくらいナイスバディだしさ。その豊かなバストの十分の一でもいいから、わたしに分けておくれよ。わたしが男だったら絶対放っておかないのにねえ。い奴め。


「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわ。ごめんね」

「いいっていいって。愛しの姫島さんによろしくね。あとデートの結果だけはちゃんと教えてよね」


 ありったけの謝意を込めマリンの手を握ったのち、そろそろと席を立つ。

 廊下に出てからはダッシュで〈瞑想室〉に飛び込み、木製のテーブルに転がっていた携帯電話を掴み上げた。キーを押す指ももどかしく、記録的な速さでメールを送信。

 あ、しまった。直接電話したほうが早かったか。そう思って姫島さんの電話番号を捜しているところへ、メール着信の報せ。

 ……やったあオーケーだ!

 正午に駅前公園噴水前で待ち合わせ。これまたコースレコードに迫る勢いで返信したのち、心の中で快哉かいさいを叫んだ……と言ってしまうと、鵜飼さんに対して少々不謹慎過ぎるだろうか。

 いやいや、そんなことはない。

 外出時にわたしを襲う気味の悪い感覚のことで、遅かれ早かれ姫島さんとは連絡を取り合う予定だったんだし、ただ単にその行為が早まっただけのことだ。そう自分に言い聞かせた。渡りに舟、じゃない、これこそ不幸中の幸いと言うべきか。

 逸る気持ちを抑えて会議室に戻る。

 指で作った◯印をマリンに見せると、音のない拍手のジェスチャーが返ってきた。ホントありがとう、百万の援軍を得た気分だよ。

 それから、最前と同じく意気消沈している御船さんの許へ向かった。

 そういえば昨日の晩、就寝前の挨拶をしにここに立ち寄ったとき、鵜飼さんから電話があったんだっけ。ともすると、生きている鵜飼さんの最期の声を聴いたのは、御船さんなのかも……そう考えると、どうしても悔やみきれない、切ない思いに駆られてしまうのは致し方ないことではある。


「すいません。ちょっと出かけてきます」

「あ……はい、ごめんなさい」と、慌てて胸を張り、気丈に微笑む御船さん。「いってらっしゃい。今日は風がなくて天気もいいですから、コートは要らないと思いますよ」


 さり気ない気遣いが大変心に沁みた。こういうささやかな配慮を身につけている女性になりたいなあ。そのほうが姫島さんも気に入ってくれると思うし。

 よっしゃ出発だ……ん?

 マリンの動きが何やら変だ。自分の頬をぱちぱち叩く仕種をしつつこっちを見ている。おいおい、その心配はないって。いくらなんでもスッピンで逢ったりはしないから。それにあんまり長期間スッピンでいると、化粧の腕まで鈍ってしまいそうだ。

 三本指を立てての、ちょっと気取った別れのポーズをマリンに向け、再び〈瞑想室〉へ駆け込んだ。

 これから時間ギリギリまで、鏡との睨めっこが始まるわけだ。家に戻って洋服を持ち出す暇はない。ここにある服だけで、最強のコーディネイトを見極める必要がある。歯も磨いておこう。念入りに。他意は全くないけど。


 一介のシナリオライターのファッションセンスが試されるときが、久々に……実に久方ぶりに巡ってきたのだった。



「あのっ、一緒に送ったわたしの写真、見てくれました?」


 声を弾ませて上目遣いに見上げると、姫島さんはそれはもう眼も眩むばかりの天使の笑顔を浮かべて、


「うん、見たよ。可愛く写ってたね。職場で撮ったの?」

「そうなんですぅ。慌てて写したんで、実はスッピンなんですけど。眼の下にクマとかできちゃってて。やだ恥ずかしー」

「え、そうなの? 気づかなかった」姫島さんはそう言い、眼を丸くしてこっちを見つめた。照れるなあ。姫島さんも先月まで忙しかったみたいだけど、元気そうで何よりだった。


 噴水の前で待ち合わせた姫島さんと、目下大手ファストフードのチェーン店へ向かっている真っ最中だった。

 姫島さんは心理コンサルタントを生業とする、相談事務所の所長さん。従業員は姫島さんを入れてもたったの三人とかなり小規模だ。姫島さん曰く、人件費もかさむし半ば道楽みたいなものだからね、と、現状に不満は抱いていないご様子。ただ所長秘書のポストは設けていないそうなので、近い将来わたしが就任することになるのだろう。これは希望ではない、愛の女神による預言だ。


「本当はもっとおしゃれしたかったんですけどね。服の持ち合わせがなくて、結局こんな普段着っぽい恰好になっちゃいました」

「いいよ気にしなくて。僕もこんな軽装だし」


 職場の着替えの中にスカートがないのは致命的だったが、何年も穿かずにいるスカートの類いなんかよりも、穿き慣れたパンツルックのほうがコーディネイトに失敗しないはず。というより、姫島さん自身さほどファッションにはこだわらないたちらしいので、マニュアル通りの服装で固めても大して効果はなかったかもしれない。そういう飾らないところも、姫島さんの大いなる魅力の一つなのだ。

 お昼時ということもあって、清潔な店内は会社員やら学生やらカップルやらで坩堝るつぼの如くごった返していた。

 並んで待ちながら、早速口を切る。


「あのぅ、わたし急いでたんで、メールに細かく書けなかったんですけど」

「ああ、うん。会社の方が亡くなったんだってね」

「それもそうなんですけど、それだけじゃないんです」


 え? と、姫島さんが怪訝けげんそうに訊き返してきた。


「なんか、わたし誰かに見られてるっていうか……つけ狙われてるような気がするんです」


 退勤時にしばし感じる〈視線〉のことを打ち明ける。説明を聞き終えた姫島さんは、そうだったんだ……と呟いて黙考にふけった。信じてくれるかどうか不安だったけれど、最後までちゃんと聞いてくれただけでもわたしは嬉しかった。


「それって、今日の事件とは関係あるの?」と姫島さん。


 そこまでは判らなかった。でも関連性を仄めかしておいたほうが、姫島さんの心配の度合いは甚だしく変わってくるに違いない。


「関係ないかもしれないんですけど、もしかしたらって思うと、なんだか怖くて」

「そうだね。警察の人には伝えた?」

「あ、いえ。まだ実害とかないんで」


 警察に話すのはまだ早い。何故なら、姫島さんを頼る口実を失ってしまうからだ。それだけは全力で避けないと。


「早めに話したほうがいいんじゃないかな。実害があってからじゃ遅いよ」

「はあ、でも……もうちょっと証拠を揃えないと、向こうも動いてくれないと思うんです」


 うーんとうなり、またも黙考に入る姫島さん。わたしを気にかけてくれるのはめちゃくちゃ嬉しいけど、その浮かない顔を見ていると、過度に心配させるのも悪い気がしてきた。


「最後にその視線を感じたのはいつ?」

「昨日です。昨日の夜……それまでほとんどカンヅメ状態で、やっと昨日帰れるところだったんですけど、外に出たらやっぱり変な視線を感じて、結局帰れなくて」


 姫島さんが眼を細める。遠くを見るような、虚ろな表情。こ、これは……素敵過ぎる。

 と、不意に眼を見開いた姫島さんは、ああ、ようやく思い出した、と言って、


「さっきからずっとタイトルが思い出せなくてね。〈オルター・イーゴ〉だよね。理央りおちゃんが原案とシナリオを手がけてる」

「あ、はい!」


 名前憶えていてくれたんだ。もう何ヶ月も前のことなのに。さっすが姫島さん。肩書きだけの酔いどれプロデューサーとは訳が違うよ。才色兼備の男性版。天は二物を与えたもうた。


「昨日販売元からゴーサイン出たんで、いよいよ本格的に動き出す予定だったんです。なのに、鵜飼さんがあんなことになっちゃって」

「そうか。気の毒だったね」


 鵜飼さんの人柄を思い返す。別段親しい間柄じゃなかったけど、明るくて気さくな人だった。誰かの恨みを買うようなタイプじゃない。少なくとも表面上は。

 注文の順番が回ってきた。姫島さんと同じランチセットを選び、メニューが来るのを待つ。


「でも、わたし以外のスタッフは今日も普通に働いてるんですよ。一応社運が懸かった一大プロジェクトっていう触れ込みなんで」

「いや、本当に凄いと思う。そんな大きな企画の構成を、理央ちゃん一人で頑張ってるんだからね」

「えへへ、ちょっと大袈裟ですよ。そんな大層なこっちゃないッスよ……じゃなかった、ないですよぉ」


 よし今だ! 本日初のスキンシップのチャンス到来。姫島さん着用のクリームホワイトのシステムジャケットを、肘で照れ隠しに突っつく。あ、甘えるみたいにしなだれかかったほうが良かったかな? いやいや、さすがにそこまではやりすぎか。

 無言で微笑みかける姫島さん。年齢もわたしと大して違わないのに、大人の貫禄が仕種の随所から絶賛放出中である。

 嗚呼ああ、これだよ。この笑顔が見たかったんだ。多少の寝不足に一番効果的なのは、カフェインでも適度な運動でもない。

 愛の力だ。


「クリエイター系の仕事なんて、僕には想像もつかないな。ものすごくシビアなとこなんだろうね」

「忙しい時期はきついですけどね。わたしなんて末端の人間なんで、言われるまま動くだけですよ。締切りを気にしいしい」

「それでも専属のシナリオライターなんだから、信頼されてるんだよ、きっと」

「いえいえ、そんなことないです」


 確かに、今のわたしは信頼などとは程遠い、専属の名を借りた飼い殺しに近い状態だった。


「専属なのをいいことに、ホントこき使われるんですよ。買出しとか、あと延々デバッグやらされたり、触ったこともないスクリプトエンジンいじらされたり」


 フリーになりたい気持ちもなくはない。しかし、いざフリーになったところで、稼げるだけのキャリアも知名度もない。当分は現状に甘んじるしかないだろう。

 注文のメニューを乗せたトレイを受け取り、姫島さんに続いて二階席へ。当然のように二人分の代金を払ってくれるのも、姫島さんの数限りない魅力の一つだった。完璧すぎる。

 景色のよく見える窓際の座席に、横並びに座る。平板なトレイを占めるジャンクフードたちも、会食の相手と状況次第で見事なご馳走に変わるのだ。


「これから学生時代の友人と会うことになってるんだ」


 ある程度食が進んだところで、姫島さんはそう切り出した。


「お、女の人ですか?」危うくハンバーガーの切れ端を喉に詰まらせそうになった。

「いや、男だよ」姫島さんはウーロン茶のカップを置いて、「たまに臨時で事務所の手伝いとかしてもらっててね。ここ三ヶ月ぐらいヨーロッパ旅行に行ってたんだけど、それが今日帰国するっていうから、空港まで迎えに行くんだ」

「へぇ、うちのお爺ちゃんとお婆ちゃんも、今フランスを旅行してるんですよ。同じツアーですかね」


 何故か姫島さんは微妙に表情を曇らせた。でも、それも束の間だった。


「いや、多分違うと思う。あいつのは旅行っていうより放浪に近いかな。気儘きままな一人旅って言ってたよ」

「そうなんですか。うちのお爺ちゃんたちもすっかり満喫してるみたいで、もう何日も連絡よこさないし。可愛い孫を置き去りにしたっきり」


 それを聞いて苦笑する姫島さんを見上げながら、わたしも空港まで一緒に行っていいですか? と、眼を輝かせて尋ねた。ひょっとしたら眼を剥いていたかもしれない。


「あ、いや、ごめんね。ちょっと説明しにくいんだけど、その」言葉を選ぶのに難儀している様子で、姫島さんが口ごもる。「悪い奴じゃないんだけど、ちょいとばかり難のある奴でね。なんていうか、理央ちゃんには刺激が強すぎると思うんだ」

「刺激、ですか」


 刺激に関してはなんら問題ない。カレーは中辛までなら充分いける。足ツボマッサージも大好きだし。


「ほら、理央ちゃんあんまり寝てないっていうから、今日ぐらいはゆっくり休んだほうがいいんじゃないかな。その友人には君のことちゃんと伝えておくから」

「むー」


 むくれ顔を作って俯いた。その刺激物らしき男性に紹介されるのはかなりどうでもよかったけど、姫島さんとの貴重な時間をこんなに早く切り上げてしまうのは勿体なさすぎる。わたしの健康を案じての、姫島さんなりの厚意なのだとは思うけど。

 ……ん? もしかして姫島さん、その男の人と顔を合わせることで、わたしの気持ちがそっちへ傾くのを危惧きぐしてるんじゃ?

 そうだ、そうに違いない。わたしが寝てない云々も、会わせたくないが故の言い訳に聞こえなくもない。いや絶対そうだ。

 なあんだ、姫島さんも結構焼き餅焼きなんだ。意外といえば意外。嬉しい誤算だね。わたしはついついにやけてしまう顔を懸命に引き締めつつ、


「……じゃあ、そうします。その人によろしくお伝え下さい」と、努めて低いトーンで言葉を返す。


「ごめんね。場合によっては相当頼りになる奴なんだ」


 場合によってはという物言いがすこぶる気になったものの、敢えて触れないでおく。それより、今のうちにもっと甘えておかなきゃ。恋の鞘当てに関して姫島さんが感じているであろう負い目を、利用しない手はない。わたしも随分と駆け引き上手になったものだ。


「姫島さん以外に頼れる人なんて必要ないんだけどなあ」

「僕には無理だよ。理央ちゃんを護る努力を惜しむつもりはないけどね」


 ジーンと来た。その言葉が何にも勝る慰めであり、明日への活力となるのです。あー生きてて良かった。


「なんていう名前なんですか、その人って?」


 すかさずわたしは姫島さんの友人に興味がある素振りを見せた。こうすれば姫島さんは一層危機感を募らせて、必ずや即答を避けるはず。そしてわたしへの想いを益々強固なものに!

 ところが姫島さんは、無双むそうというんだ、とあっさり答えた。


「こいつがね、どういうわけか事件性の強い事柄にやたらと強いんだ。今日の件はともかく、ストーカーのほうは力になってくれるよう持ちかけてみるよ」

「はぁ……わたしとしては姫島さんに護ってもらえれば、あとはどうでもいいんですけど」

「本当にごめん。もし僕のいないときに何かあったら、メールでも電話でもいいから連絡して。すぐ駆けつけるから」

「判りました」あまり聞き分けが悪いと印象まで悪くなりそう。この辺で引き下がることにする。「その代わり、何かあったときはすぐに来て下さいね」

「うん。僕の電話番号は知ってるよね」と言いながら、姫島さんは懐からやや大振りな外観のスマートフォンを取り出した。通常の携帯電話では機能的に物足りないのだろう。もう何もかもが〈さすが!〉の一言に尽きる。さっすが姫島さん。

 何度か端末を操作したのち、姫島さんはスマホを仕舞い戻した。


「ゆっくり食べようか。あと三十分ぐらい平気?」

「はいっ」


 姫島さんに用事がなければ、三十分といわず三十時間でも三十日でも一緒にいたいところだ。


「ところで、ゲームの内容って前に言ってたのと変わりないの?」


 気を遣っているのか、殺人事件やストーカー云々とは異なる話題を姫島さんは振ってきた。


「そうですね。シナリオも今のところ大きな変更はないです」

「ロープレだよね」

「はいっ」


 ゲーム機本体の二画面を利用した、マルチビューシステムの異世界ファンタジーRPG。戦闘は複数キャラの配置・陣形及び地形効果を含むコマンド選択方式という、割とオーソドックスなもの。


「確か主人公が二人いるんだよね」

「そうなんですぅ。この現実世界で生活してるごくフツーの高校生と、異世界に住む凄腕ハンターの話なんですよ。あ、異世界っていっても、中世ヨーロッパを模した、まあありがちなファンタジー世界なんですけどね」


 ふんふんと姫島さんが頷いている。なんて聞き上手なんだろう。わたしは説明を加えるべく、唇を舌で素早く湿らせた。


「最初は全然関係なくストーリーが進むんですけど、それぞれの世界で冒険していくうちに、偶然生じた〈特異点〉のせいで時空が歪んじゃって、少しずつ干渉が始まるんですよ」

「特異点?」

「はいっ」


 質問のタイミングも完璧。見事な会話のキャッチボールだ。よっぽど相性がいいんだろうなあ、わたしたち。


「まず、こっちの世界の主人公が持っているパソコンと、向こうの世界で崇拝の対象となっていた巨大な〈〉が、〈特異点〉の影響で相互干渉を始めちゃうんですね」

「パソコンと、鏡……」

「はい。その〈鏡〉は神の似姿を映し出すと言われていて、みんな怖がって誰も近寄らないんですけど……で、その〈鏡〉と共鳴した主人公のパソコンが起点になって、ネットワークで繋がっていたほかのコンピューターも一斉に暴走し始めるんです。そうすると、〈特異点〉の果てに身を潜めていた〈異形のもの〉と呼ばれるおぞましい化け物たちが、個々のコンピューターと一つの〈鏡〉を経由して、二つの世界にどんどん溢れ出てきちゃうんですね。それ以外にも、こっちの世界じゃ大地震が相次いで建物が倒壊したり、向こうじゃ〈虫の嵐〉と呼ばれるイナゴの群れが大量発生して農作物を荒らしたり、とにかく天変地異が続出するんです」

「ああ、思い出したよ。そのイナゴの大群が、実はコンピューターによる〈バグ〉の侵出なんだっけ」

「その通りです!」


 素晴らしい注釈。思い出したって言ってるけど、実は当時の説明を何もかも憶えていて、敢えて聞き手に回っているのかも。記憶力抜群の上に、なんて奥ゆかしい……。


「実はこっち側の主人公は、パソコンを使ってファンタジー小説を書いてるんですけど、自分ではオリジナルと思っていたその設定が、何故かあっち側の世界と驚くほど似通っていて、本来パラレルな関係にあった二つの世界が、〈特異点〉を介して不可避的に結びつくことになるんです。パソコンと〈鏡〉が、お互いの世界を行き来する〈通用口〉になって」

「現実のほうの主人公は、女の子なんだよね」

「はい、女子高生です。対するハンターは同じ年代の男の子なんですけど、お互い惹かれ合ったりなんていう展開は一切なくて、運命の悪戯が重なった結果、最後には命を懸けて戦い合う予定なんですけどね。ラブコメっぽいの苦手なんで」

「そうかい? でも、運命に導かれて戦う二人っていうのも、充分ロマンチックだと思うよ。早く完成するといいね」


 最高の励ましだった。思わず知らず熱くなる目頭を素早く拭って、


「ありがとうございます! わたし頑張ります、いえ、頑張りまくりますから」

「あはは、いやそんなに頑張らなくていいよ。程々にね」


 それから別れるまでの間を、新作RPGの設定時の苦労話や、わたし髪伸ばしたほうが似合いますかねー、とかいう他愛ない雑談で過ごした。当然、渡せなかったチョコのフォローも容れておいた。

 姫島さんの知合いだという刺激物……問題児? にはこれっぽっちも期待していないし興味もないけど、即座に駆けつけるという姫島さん自身の言質げんちを取ったのは大きい。なんなら適当に嘘でもついて、無理矢理来てもらっちゃおうかしら。戻ったらマリンに自慢してやろう。

 名残惜しい別離の後、心配していた厭な視線に晒されることもなく、独りきりでの会社までの道のりを無事通ることができた。

 ビルのごく間近にやって来た辺りで、ちょっとした好奇心に駆られ、回り道をして例の犯行があったという現場に向かってみた。

 古風な民家やブロック塀の立ち並ぶ、車二台の通り抜けですら難儀しそうな裏路地を慎重に歩いていると、遠くのほうで数人の人影と左右に張られたロープが微かに確認できた。あそこが実際の現場のようだ。人影は捜査員だろうか。傍らに停車している大型のヴァンは、警察のものではなさそうだった。報道局のスタッフかもしれない。

 回れ右をして、会社へ取って返す。大先生やマリンの証言が、俄然がぜん現実味を帯びて脳裏に甦ってきた。

 机上のユリの花が、この上ないリアリティをもってまざまざと思い出される。お伽話にしか出てこない想像上の生き物が、出し抜けに目の前に現れたような、そんな新鮮な驚きが胸の鼓動をいやというほど速めた。

 わたしの職場の眼と鼻の先で、同僚が死んだ。他殺体となって発見されたのだという。

 そして、さっき姫島さんが指摘したこと。舐め回す視線のような、あの気持ち悪い〈感覚〉と殺人事件との間に、何か関係があるのだとしたら……。

 もし仮に、犯人の足取りが警察の力をもってしても追いきれなければ、事件はまだまだ続くのかもしれない。

 だとしたら、次に狙われるのは……わたしなのか……?

 恐ろしい推理を披露した姫島さんを、わたしはちょっと恨んでしまった。裏口を通ってビル内部へ駆け込むまで、例の〈視線〉を一切感じなかったのが、せめてもの救いだった。

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