0-2 徘徊

 〈〉を離れ、人気の絶えた路地をゆっくり歩いていると、遥か遠い先に、暗闇に屹立きつりつする窓明かりのまばらな高層ビル群が確認できた。強まってきた風音が、不気味な口笛のようだ。

 つと立ち止まり、耳を澄ませた。風がやむまでの、短い間。

 この道を進めば、あのビルのどれかに通じているのだろうか。

 しかし、あそこが目的地というわけではない。どちらかというと、目的を探して歩いている状態に近い。

 いや、それも正しくない。目的はあった。

 この土地をもっとよく知ること。

 この世界をより正確に把握すること。

 つまり、本来向かうはずであった場所とここがどれだけ離れているか。異なっているのか。その点を最優先に調べておきたかった。

 自動車の行き交うせわしない音が、不確かな距離感を伴いつつ近づいたり離れたりを繰り返している。未だ視認はできないけれど、付近に大きな車道があるようだ。

 家並みの奥にぼんやりと闇が薄まっている箇所、あれがそうだろうか。割と都心部に近いのか、あるいは幹線道路の開通している郊外か。

 夜の帳が完全に下りた、もの寂しい裏通り。

 住居の表札。電信柱に設置された地番表示。現代日本の兆候は、ここかしこに散見できる。乾いた風が再び吹き荒れ始めた。

 由々しき事態だった。

 どうしてこんな処に迷い込んでしまったのだろう。ここは自分のいるべき場所ではない。

 しかも、問題はそれだけではなかった。

 本来の目的地が一体どこなのか、それが全然思い出せなくなっていた。

 判らない。大事な記憶が欠落している。

 自分の苗字でさえもが、意識内のあらゆる領域からきれいさっぱり失われていた。

 所持品は皆無。〈家〉の中にも、身許を示すものは何一つ見つからなかった。せめて今着ている上衣が学校指定のジャージであれば、胸に縫いつけてある名札で氏素性が知れたかもしれないのに。

 表の大通りに出た。

 交通量は多いものの、それに引き換え歩道は猫の額ほどの広さしかなく、人通りは疎らだ。

 運良く知り合いに行き当たったりしないだろうか。淡い期待を胸に、時たま通り過ぎる人をちらりと上目に見やるが、ヘッドライトに浮かび上がるのはどれも記憶にない顔で、こちらに眼を向けることもなく足早に後方へ消えていく。無関心な様子がいかにも都会的で、吹く風の冷たさもあいまってちょっとした感傷に浸らずにはいられなかった。

 疑問は尽きない。

 家族に関する事柄も、一切思い出せない。

 何人家族? 何人兄弟? 己のバックグラウンドがことごとく奪われている状態。〈家〉はあるけれども、根無し草に等しい境遇。

 結局のところ、自分は何故存在するのだろうか。生物学的に言うなら、種の保存辺りが順当なところか。哲学的かつ少々荷の重い、そんな問いに図らずも対峙することになり、抑え切れない嘆息を洩らしてしまう。

 ほかの人々には当てはまるとしても、種の保存という回答は、こちらが設定した問いかけの正しい答えにはなり得ていない。レーゾン・デートル。存在理由。小理屈を弄ぶ知識階級気取りが用いそうな言葉。

 溜め息に続いて苦笑が洩れ出た。

 普段使いもしないドイツ語はすぐ出てくるのに、小学校にも上がっていない子供たちでさえ自明な己の苗字が、記憶から抜け落ちてしまっているのだから。本末転倒だ。

 もはや認めないわけにはいかない。

 記憶喪失。

 断片的な記憶喪失に見舞われているのは、ほぼ疑いなかった。

 心因性のものか、それとも外部に起因するものか。頭に外傷はなさそうだから、恐らくは前者か。けれども断言はできない。原因も記憶の外にあった。

 経歴のない人間、来歴を持たない人間など存在しない。それを無いものと捉えてしまうのは、ただ単に忘れているだけなのだ。この夜の世界が書割りでないのと同様に、それは確固たる事実だった。

 歩道の脇に、一際光の集中している箇所がある。

 電話ボックス。

 ひょっとしたら、電話帳のどこかに自分の氏名が掲載されているかもしれない。でも、それを見て思い出すという見込みがない上、膨大なページの隅々まで隈なく調べ上げるのは至難の業だろう。徒労に終わる。

 電話ボックスの横。

 手入れを怠ったがために、隊列を崩しつつある背の低い植込み。街灯の周りを衛星のように飛んでいる一匹の蛾。よくある日常の一コマ。外見だけ見れば、路傍に佇むこの姿は夜の只中にすっかり溶け込んでいることだろう。なのに、場違いな感じは依然として否めない。

 どこまでも深い闇夜が周囲を取り巻くこの世界で、そもそも何をするべきなのだろうか。

 判らないことが多すぎる。

 もしかすると、判らないことだらけの現状から逃げ出したくて、こうして歩を進めているだけなのではないか。ひたすら歩き続けることで、迫り来る不安を紛らわせようという悪あがき。じっとしていると、体の内面から湧き出る負の感情にむしばまれずいまで取り込まれてしまうような、漠とした不安。


「……誰……」


 低く呟いた。

 とてもか細い声だったけれど、声の出し方までは忘れていない。歩けるし、喋れる。

 通行人がいないのをいいことに、歩きながら鼻歌を歌ってみた。出鱈目でたらめな節の調子外れなハミング。それでも黙々と足を進めているのに比べて、多少は気分が上向いてきた。

 ただ、このまま独りぼっちの強歩大会を続けていれば、やがて両脚に溜まった疲労物質に耐え切れなくなり、立ち止まらざるをえなくなるのは明白だ。脚が限界を迎える前に〈家〉に戻ろう。なんなら近所の公園で休憩を取っても、誰にも注意なんてされないはずだ。そんな場所があればの話だけれども。

 緩やかなカーブを描く下り坂の途中に、二十四時間営業のコンビニが軒を構えていた。上方から見ると、かなり危険な地点に建設されている。速度を落とし損ねた大型車両の、格好の餌食になりかねない。

 駐車場を直進し、本棚の並んでいるガラス窓の前に立つ。

 数人の客とレジに立つ細面の店員。立ち読み中の学生と思しき青年と眼が合ったけれど、すぐに相手の視線は手許の週刊誌に戻った。

 店の品物に、別段用はなかった。

 小腹は空いていたものの、我慢できないほどでもない。第一持ち金がない。財布自体持っていなかったのだ。

 店内の壁掛け時計で現在時刻を確認し、その場を離れようとした瞬間、靴底の下で何か異様な、硬質な物音がしたのが聴こえた。

 なんだろう? 慌てて足を退ける。

 カード状の物体が一枚落ちていた。

 コンビニの照明を受け、キラリと反射したその物体をゆっくり拾い上げる。

 プラスチックの硬い肌触り。JR東日本が発行しているICカード〈Suica〉。中でもこれは定期券機能がついた〈Suica定期券〉だった。駅名・路線名・利用可能期間等々が刻印されたカードの下に、〈カンザキ ソウイチ様〉と、所有者らしき氏名がカタカナで記されていた。

 これは一体どうしたものか。

 もしも定期の紛失に気づいていれば、落とし主はさぞや困っていることだろう。このまま元の場所に置いておこうかとも思ったが、ほかの人が踏みつけでもしたら、カードのどこかを破損してしまうかもしれない。自分の体重が許容範囲ギリギリの線だったかもしれないのだ。かといって密かに持ち去ってしまうわけにもいかない。

 コンビニに足を踏み入れる。

 会計を待つ客の姿はなかった。一本調子な店員の挨拶をやり過ごして、直接レジに向かう。


「これ、店の前に落ちてたんですが」


 年齢不詳の店員が眉をひそめ、露骨に迷惑そうな顔になったけれど、あ、そうスか、判りました、と軽い口調で答えてこちらの差し出したICカードを受け取った。スイカ用の読み取り機を導入しているレジで、電子決済も可能なカード類を蔑ろに扱うことはできなかったのだろう。

 店を出る頃には、二人目の客に向かって店員がカードの持ち主かどうかを確認していた。



 その後も大した出来事は起こらず、大小様々な数え切れない車たちに追い越されながら、順調に歩道を進んだ。

 コンビニと同じく年中無休で、しかもより歴史の古いであろう交番の前を通り過ぎたりもした。ここで巡査に件の落とし物を渡しておけば、厭な顔をされずに済んだろうか。

 いっそ交番に駆け込んで、苗字や家族構成や来歴や、その他諸々を尋ねてみようかとも考えた。まともに取り合ってはくれないだろうけれども。

 こんな夜更けに厄介な奴が飛び込んできたなぁと呆れられ、戯言たわごとと受け流されて、身分証もないので当分の間保護されるのが落ちだろう。警察に頼っても目的は発見できないし、達成もできない……なんとなくではあったけれど、そんな予感が消え去ることはなかった。

 いつしか止めていた鼻歌を再開し、更に歩く。

 休憩できそうなベンチや、広場のような場所は見当たらない。最初に見えた高層ビルとの距離は、半分くらい縮まったろうか。

 今日の散策は切り上げて〈家〉に戻ろう。信号を渡り、今までの行程を逆に辿ることにする。

 収穫がなかったわけではない。地を這う亀の歩みのように緩慢ではあったけれど、少しずつ、忘却の彼方から浮かび上がってきた事柄がある。足裏への刺激が、脳に良い影響を与えたのか。やはり人間たるもの、何はなくとも二本の脚で地道に動き回ってみるに限る。

 車両が猛スピードで横切るたびに、足許から伸びる自身の影法師が同じ速度を保って路面を滑る。気紛れなライトの故に思い通りに動いてくれない、もう一人の自分。もう一人……。

 ……ひょっとすると、〈彼〉もここにいるのでは……。

 

 ……彼というのは、一体誰のこと?

 そこまでは思い出せない。その先の記憶は、依然ロックがかかったままだ。

 不意に足許をすくわれたような、軽い眩暈めまいに襲われる。

 そう、もう一人いる。

 この世界に……現代日本を彷彿ほうふつとさせるこの異質な空間に自分が迷い込んだ以上、〈彼〉も必ず来ているはず。そんな気がしてきた。

 理由は? その謎の人物がここにいる理由とは、根拠とはなんなのだろう。

 それに答えるには、同時に自分自身がここにいる理由を、突き止めなければならないのではないか。

 向かいの交番を過ぎ、曲がり坂に差しかかる。

 ここに自分がいるということは、間違いなく〈彼〉もいる。コンビニを越え、一段高い平地に立つ。さっき通った場所に、もしかしたら〈彼〉もやって来ているかもしれない。

 後ろを振り返った。

 むろん誰もいない。見晴らしの悪い場所ではなかった。

 時が経てば、いずれ〈彼〉と顔を合わせることになるのだろうか。〈彼〉と出会えば、何が起こるのか。

 背筋がゾクリとあわ立った。

 続いておこりかかったかのような身震い。

 寒い? 気温は低いがそこまで冷え込んでいない。肌着の中に忍び込む風もない。

 こんな感情は初めてだった。

 怖い。絶対に〈彼〉と会ってはいけないという警告を発するかのように、体の震えは断続的に続いた。

 どうして恐れる?

 単に顔を合わせる程度のことが、何故こんなにも恐ろしいのだろう。少なくとも、互いに礼を交わしたのち、優雅なドレスに着替えて楽しいお茶会に同席するようなことはまずありえない。本能がそう訴えていた。危険信号を発していた。

 失った記憶を捜す一方で、この世界のどこかにいる……しかもどこにいるかは判らない、厄介な〈彼〉から身を隠し続けなければならないのだ。

 逃げつつ追う、そんな器用な芸当が果たして可能だろうか。

 とにかく、こちらの人相が割れているかどうか、それが一番の問題点だった。顔を知られていなければ、当面は遭遇の心配は杞憂となる。さしたる特徴もない、眼鏡をかけただけの若者など、世間には腐るほどいる。そういうオプションを好む異性ですら、少なからず存在するくらいだ。

 とはいえ、顔がバレていない保証はどこにもない。用心するに越したことはない。先ほどは不用心にもコンビニ店員と接触を持ってしまったが、今後はもう少し慎重に動くことにしよう。こちらは丸腰、完全に無防備なのだ。

 アスファルトを蹴る脚の動作を、わずかに速くした。

 幹線道路を離れると、あとは光の乏しい裏道を〈家〉に至るまで歩き続けることになる。慣れない夜道を、元通りすんなりと引き返せるかがまず気がかりな上に、不審者と鉢合わせになる二次被害もできれば避けたいところだ。その相手が当の〈彼〉だった日には……。

 失くしてしまった記憶の中に、謎の人物についての情報が隠れている可能性はある。早いうちに思い出しておかなくては。施錠された錠前をこじ開け、欠けた断片を拾い集めて。

 逆に自分のほうが不審者扱いされるかも、という暢気な考えを頭の隅に追いやり、幅狭い裏路地へ体を滑り込ませた。

 遥かに見上げた満月は、表面のクレーターも確認できそうなほど、きれいに澄み渡ってこちらを見返していた。

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