第10話 「本郷豚肉の唐揚げ」
10年ぐらい前、池袋の顧客を訪問後に当時勤めていた湯島の会社まで帰る途中のことだ。僕は池袋から丸ノ内線に揺られて本郷三丁目駅で降りた。地下ホームから地上に上がって時計を見ると12時15分だった。帰社前に本郷周辺で昼食を食べていこうと考えて、会社にその旨を連絡してから本郷の街を歩いて適当な店を探した。
本郷三丁目には長く続く老舗を含め小さな飲食店が多く、店選びには苦労する。そのまま駅から
ブラブラとしばらく歩くと古臭いビルの前に立てられていた小さな折り畳み式の看板が見えた。看板には何だか妙な片仮名の料理名が手書きで書かれていて、料理名の横には、その料理を説明するように「豚肉のからあげ」と書かれている。驚いたのは看板の横には椅子が置かれていて実物の料理がどんと乗っかっていたことだ。実物の見本なのだ。片仮名の料理名は忘れてしまったが、椅子の上に置かれた料理はかなり美味そうだった。神経が太い人間なら、その場に白飯を持ってきて見本の料理をおかずにパクパクと食べてしまうかもしれない。
豚肉の唐揚げといえば排骨をイメージするが、これは豚肉の小さな塊をカラリと揚げてある。それが十個以上も皿に載っているのだ。
店は路面店ではなくビルの二階にあって、その店のものらしい窓を見上げても外側からは全く見えない。外から中が見えない店というのは風俗とか何とかドラッグを売っているようなイメージで入店しづらいが、そんなことよりも僕は展示してある実物の料理の魅力に負けてビルの階段を上がって店に入った。
店は二階にあって、中に入ってみると大きな窓もあって意外にも明るい。扉を開けると店主らしい若い男性が一人で調理と接客をこなしていた。店内には二人連れの一組のお客がいるだけだった。「いらっしゃい、豚肉の唐揚げでいいよね? つっても昼はこれしかやってないんだよ、あはははは、好きなところに座ってね」
キョロキョロと見回して窓際に座る。窓からの風景はビルばかりで味気ないが、ビルとビルの間からは雲ひとつない青空が見える。窓の下を見ると、忙しなく学生や勤め人のような老若男女が行き交っている。
「おまちどおさま!」ビックリした。早すぎる。あらかじめランチ分を作ってあったんだな。でもそれでいい、大衆食堂はそうでなくちゃ。出荷適量を予測するというのも経営者として重要だもの。
さて、それでもすぐに出てきた割には熱そうだ。レンジで温めたのか? いや、違うようだ。それは口に入れて判明した。再加熱したものならわかるはずだ。今揚げたものらしい。ああ熱い。鶏肉とは違った歯ごたえと豊富に涌き出てくる肉汁はまさしく豚のバラ肉の塊を揚げたものだ。それでは店主が来店客数を予測して調理しているときにたまたま僕が入ってきただけなのだろうか? もうどうでもいい、そんなこと考えるのがもったいないくらいに美味い。衣だけでなく肉そのものにも味が染み込んでいて美味い。きっと昨日辺りから肉をタレに漬け込んでいたのだろう。それにしても美味い。タレは醤油の味だけはわかるが、和風でもない。この旨味はなんだかわからない。
この旨味は肉だけ食べるのではもったいない。一個食べて白飯を口に放り込むと肉の旨味と飯の淡白さがあいまって素晴らしい世界が口の中に拡がっていく。口の中でミートライスエンタティメントショーが開催されているのだ。
僕を見て店主が笑っている。「美味いだろう?」といった表情をしている。僕は心の中で「美味いよ、参ったよ」と言って店主を見た。店主は頷く。なんだかホモっぽい。
それにしても不思議なことに、この店に同僚を案内しようとしたことが何度かあるのだが、この店までたどり着けないのだ。確かに本郷三丁目の表通りにあったはずなのだがね。
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