第1話 実働4時間半の人々 -Investment Dealers and Day Traders-

 和泉隆平は日課をこなしていた。

 まずは発注端末の確認。今日の利食いは五十八万七千円。最後の三文抜きが大きかった。オーバーナイト、すなわちポジションを取ったままで日を跨ぐ銘柄は無し。市場に出ている注文を表示した板画面も順次確認してみるが、大引けでおかしな動きになった銘柄も無いようだ。

 情報端末の五分足チャートを次々切り替えて確認していく。ほとんどが右上がりの強い動きをしている。今日は日経平均先物に断続的に買いが来ていて、それに値嵩ハイテク株が引っ張られて相場を牽引したようだった。

 ディーリングをする上で、日経平均先物は非常に重要である。実物の株式から算出される日経平均と、日経平均先物は連動している。片方の値段が動くと、もう片方も必ずそれに追随する。先物が上昇した瞬間に、現物の株式に一斉に注文が出るようになっている。裁定取引と呼ばれる手法だ。

 今日は株価の割に為替はほとんど動いていない。裁定取引を解消する注文が出れば、今日伸び悩んでいた金融か小売あたりが明日は来るかも知れない。

 高値で引けた、特に年初来高値近辺にいる銘柄をピックアップして頭に叩き込んでいると、脇に同僚の榊誠一が立った。遠慮した風もなく、発注端末の画面を覗き込んでくる。もう一人、隣の席の新人ディーラーの栗田がこちらに目を向けていた。彼はつい先週証券外務員試験に合格したばかりで、実際の商いは始めたばかりだったはずだ。

「儲かってんなぁ」

「ほとんど引けだけだよ。相場の割には伸びなかった」

 和泉隆平は隣に立った榊の顔を見上げながら言った。榊は勝手に発注端末のマウスを操作して、今日の商い履歴を呼び出した。

「鉄鋼と通信と、海運ね。今日はそこまで強くなかっただろ?」

「ああ。輸出関係の方が良い動きだった。気づくのが遅れた」

「いや、このチャートでこれだけ儲かれば上出来上出来。……うわ、よくこの板でこんな枚数出せるな」

 榊が引け間際の注文を見ながら、片方の唇を吊り上げた。

「空売りしていた奴らが踏めてなさそうだったから」

 マウスを手に取って、和泉はチャートの上にトレンドラインを引いた。切り上がったトレンドの押し目のラインが、かなり綺麗に揃う。しかし大引け間際、最後の押し目だけは反発が早い。

「この辺で買い戻したいだろうから先に買い占めて、ショートの売りも全部買って、慌てて踏みに来た奴に全部ぶつけた。多分買いオーダーも入ってた」

「ふうん。相変わらず押し目拾うの上手いな」

 榊はそう言って頭を掻き、続けた。

「どうにもこう、こまめに拾っていくのは出来ないんだよな、俺は。下がってるのがどこで止まるか考えるよりは、強い銘柄に素直に乗っていく方が楽な気がして」

「たしかにそっちの方が値幅も取れるし、大きく儲かることも多いんだけど」

 和泉は画面のチャートを見ながら言った。

「上がってる、ってことは買ったディーラーも多いと言うことで。潜在的な売り注文が積み重なってるってことでもあるから」

「どこで崩れるか判らないし、崩れ方も酷い、か」

「そういうこと。特に新システムになってから、なかなか速度についていけなくなったから」

「いきなり売りを出されるよりは、板に出てくれた方が良いか。それはそうだけどさ。実際、どんくらい持ってるのかなんて判らないじゃないか」

「持ってるかどうかは判らないけれど、売る気があるかどうかはある程度読めるだろ」

 和泉はそう言って、栗田の方に目を向けた。一瞬目が合う。和泉はゆっくりと発注端末の板画面に視線を戻した。

「値段が急に下がって、下はスカスカ。上からショートセルも降りてくる。もし自分がポジション持ってたら一も二もなく投げたい場面なのに、それでもそこから下がらない。となったら、もう持ってるディーラーがいないか、もしくはよっぽど根性座った奴しかいないってことになる」

 和泉の言葉に、榊は苦笑いを浮かべた。

「そりゃ理屈ではそうなんだけどな。思い切って買ったは良いけど、崩れちまったら投げるところ無いだろ」

 持っている株が値下がりしてしまい、泣く泣く売り払うことを、投げる、と言うことがある。逆に空売りしたものの値上がりしてしまい、仕方なく買い戻すことを、踏む、と表現する。株取引をする者にとってはどちらも一般的な用語だ。

「その時は諦めて下まで投げきる。まあ、場合によっては上に売り指しで出して下を拾い集める、なんて悪あがきをすることもあるけど、取り返せることは稀だな。やっぱり最初の一手を外したら、素直に諦めた方が得策」

 ふんふん、と栗田が頷いている。それを横目に眺めながら、和泉は榊に尋ねた。

「お前はどうだった?」

 和泉の問いに、榊は何も言わずに両手の指をすべて立てて左右に振った。一見、お手上げ、のポーズに見えるが、表情が違うと言っている。今日は大台に乗ったようだ、と和泉は判断した。

「へえ。榊の得意そうな相場だったもんな」

「ああ。寄ってすぐ買って、結局大引け近くまでずっと持ってた。今日は数えるほどしか注文出してない」

 榊はそう言って、ふふんと鼻を鳴らした。

「先物に変な買いが来てたからな。値嵩株買って我慢していれば絶対大儲け出来ると踏んだ」

「僕にはそれを我慢できることの方が、よっぽど信じられない」

「いや、実際かなり気は使ってるんだけどな。流れが変わったらすぐ売れるように常に枚数セットしているし」

 和泉はくるりと椅子を回して榊の方に向き直った。パーカーとジーンズのラフな格好だった。髪の毛は金に近い明るい茶色。自営扱いのディーラーとはいえ、とても兜町の証券会社で働いているとは思えない外見だった。

「さて、と。そんじゃあ俺はそろそろ帰るけど」

 榊は机の上の電波時計をちらりと見た。和泉もつられて目を遣る。十五時二十五分だった。

「じゃ、お先」

「ああ」

 ひらひらと手を振って榊は足取り軽く部屋を出て行った。今日は祝杯でも上げるのだろう。もっとも和泉の知る限り、榊が引け後に祝杯を上げるか自棄酒を呷る以外のことをしていたためしがない。

 和泉は情報端末のウィンドウを最小化してブラウザを立ち上げた。普段見ているサイトに更新が無いかRSSリーダを走らせながら、巡回する。

 知り合いのディーラーやデイトレーダーのブログがいくつも更新されていた。今日は相場が良かったため、儲かっている人が多いようだ。嬉々として成果を報告していた。

 巡回しているサイトの一つで、和泉は手を止めた。kabraという、ネット上では有名なデイトレーダーのページだった。早速今日の取引の概要がアップされている。主に輸出系の大型株を扱って、大きな利益を上げたようだった。

 kabraは二年ほど前から有名になってきたデイトレーダーで、プロフィールなどはほとんど公開されていない。カルト的な人気を誇り、デイトレーダーの間では生きた伝説として祭り上げられている人物だ。最初は巨大掲示板に書き込みをしていたが、やがて自分のホームページを持つようになった。毎日の商いをそこに淡々と書き込み続けている。ここ半年ほどはあまり調子が良くなかったようだが、最近になってかなり盛り返して来ている。

 いくつかのブログにコメントを付けたりメールに返信をしてから、和泉は情報端末のモニタだけを消して立ち上がった。隣の席でチャートと格闘している栗田に声をかけてから部屋を出る。机の上の時計はまだ十六時にもなっていなかった。







 白石千束はとても緊張していた。

 油断すると、手と足を同時に出しそうになる。ゆっくりと呼吸を意識しながら、部屋の前方まで歩いて行く。ホワイトボードの前まで行くと、左回りにくるりと反転した。

「こ……」

 いきなり言葉に詰まった。こほん、と咳払いをしてから、気を取り直して言い直した。

「こんばんは」

「……」

 誰も返事をしない。値踏みをするような視線がいくつも突き刺さる。千束は思わず目を伏せた。

 用意してきた言葉を頭の中で思い出す。何とか笑みを作って言葉を繋げる。

「これから一年間、数学を担当する白石千束です。よろしく」

 やはり返事は無い。じろじろと遠慮のない視線が返ってくるばかりだ。

 負けじと胸を張って千束が部屋の中を見渡した。横に五席並んだ机が縦に四列。二十人座ればいっぱいになってしまう学習塾の小さい教室の中、座っているのはたったの七人。男子が四人で女子が三人。全員、中学生になったばかりのはずだ。中に二人ほど、見かけた顔があった。

 千束はホワイトボードの脇に置かれた机に自分の荷物を置いた。参考書が三冊とノートが二冊。生徒の名簿が一枚。筆記用具が詰まったペンケースが一つ。これはホワイトボード用のマーカーを各色詰め込んでいる所為で、中華まんのように膨れあがっている。

「さて、あなたたちは中学生になったばかりだと思うけれど」

 机に片手を置いて、千束は話し始めた。どこかに触れていないと、まっすぐ立っていられる自信が無かった。

「いくつか変わったことがあるでしょう。制服を着るようになったり、授業ごとに担当する教師が変わったり」

 二列目、左端の席に座った少女と目が合う。すると彼女はボブの髪を揺らして、小さく頷いた。

「その変化の中に、数学があります。小学校では皆、算数を習っていましたね?」

 少女の頷きを目にして、千束は今度は全員に問いかけた。思惑通り、座った生徒の何人かが頷く。返事は無いが、じっと見つめられ続けているよりはよっぽど喋りやすい。

「算数が数学へと変わります。算数では勿論、足し算や引き算、かけ算……。分数や小数なんかも習ったかな。要するに数の計算の方法を扱う学問でした」

 千束はペンケースのファスナーを開けて、中から黒いマーカーを取りだした。それからホワイトボードの一番上に、大きく『数学』と書いた。慣れていない所為で、少し右下がりになってしまった。なんだか不吉だが気にしないことにする。

「数学も、……そうね。基本的にやること自体はそんなに変わらない。数を足したり掛けたり……。でも実際の中身はまったく違う。算数が数を計算する練習なのに対して、数学は概念を処理する学問になります。数は、ただ概念を理解しやすくするために利用するだけ、という場合がほとんど。まあ素数のように、数自体の性質を扱うものもあるけれど……。それはごく一部の例外。だから、算数では使わなかった新しいことがいくつも出てくるの」

 千束はそこで言葉を切って、教室をもう一度見渡した。話している間に、段々緊張が取れてきたのを自覚する。いくら初めての経験とは言え、相手は十二、三歳の小学校を卒業したばかりの子供。特段、問題がある生徒はいない、と前任の講師からも聞いている。

「あなた、数学で新しく出てくるもの、何か知ってる?」

 千束は目があった体脂肪率の高そうな男子に、そう問いかけた。彼は一瞬目を瞬かせたが、すぐに元気よく答えた。

「方程式!」

「そうね。その通り。方程式が出てきます。勝利の方程式、とかテレビで聞いたことがあるかな?」

 千束はそう言ってホワイトボードの、さっき書いた『数学』の下に点を打ってから『方程式』と書いた。今度はちゃんと真っ直ぐ書くことが出来た。

「それと一緒に文字、も使います。基本的にはアルファベットね。中学に入ると英語も習うようになると思うけれど、ヨーロッパやアメリカで使われている文字。xとかyを使うことが多いかな。それを計算の中で使います」

 『文字式』と書いた後、続けて『マイナス』『ゼロ』と千束は下に書いた。

「他にもマイナスやゼロを数学では使います。両方ともなんとなく意味は解ると思うけど」

「先生! ゼロは小学校でも出てきました! お釣りはゼロ円です、とか」

 三列目、真ん中の席に座ったツインテールの少女がそう言った。挑戦的な目つきと口調だった。

 千束は持っていたマーカーの蓋を閉めた。それから彼女に向かって、なるべくにこやかに笑いかける。目が合うと、彼女はじっと見返してきた。

「そうね。数字のゼロ。1の前の数で、1より1小さい数としてのゼロ。そういう使い方は今までもしてきたんだけど、数学で使うゼロは少し特別なの」

 千束はそこでううん、と首を二十五度ほど傾けた。どう説明したものか、咄嗟に思い付かなかった。

 ふと、ずっと前に講師が言っていたことを思い出す。

「ええと、1足す0はいくつかしら?」

「1に決まってます!」

 千束の問いに不満そうに、彼女は答えた。

「じゃあ、そっちの君、1引く0は?」

「1です」

「じゃあ君、1掛ける0は?」

「0!」

 二列目の右側。二人仲良く並んで座っている男子に千束が問いかけると、緊張した面持ちでそれぞれ答えが返ってきた。

「じゃあ、1割る0は?」

 千束はツインテールの少女にもう一度問いかけた。

「えーと……0?」

「違うわ」

「じゃあ1」

「それも違う。……分かる人、いるかしら?」

 千束は部屋の中を見渡した。誰も答えない。千束と目が合うと、視線を逸らせたり下を向いたりする。

 恥ずかしがること無いのに、と千束は思った。元々小学校や中学校で扱う範囲では無いし、そもそもそんなこととは関係なく『知らない』ことは恥ずべきことではない。『知らない』ことをきちんと自覚していれば良い。

「そうよね。答えはね、ないの。……ちょっと違うかな。答えが無い以前に、問題が間違っているの。つまり、間違ったのはあなたではなくて、私」

「えー? 何ですか、それ?」

「0で他のものを割ってはいけないの。0というのはそういう性質を持った、特別な数。他にもいくつか、決まり事や特別な性質があるけれど、それは追々」

 千束はホワイトボードに書いた『ゼロ』をマーカーでなぞって線を太くした。

「その数がゼロなのか違う数なのか、という点がとても大事なの。問題を解く上で、ゼロであるかどうか確定させられるかどうかが勝負の分かれ目と言っても良い」

 教室内の生徒、七人全員が狐に抓まれたような顔をしていた。けれど、千束はそれ以上説明をせずにまたマーカーの蓋を開けた。

「他にもルートや冪乗などが出てくるわ。……そうそう、0の0乗も普通は使われないわね」

 そこまで話して、教室中にクエスチョンマークが飛び交っていることに千束はようやく気がついた。

 下を向いてふう、と小さく息を吐く。

「ごめんなさい。全然関係ない話をしてしまいました。ええと……。そうそう、中学校の話よね……」

 千束はちらりと、廊下側の壁に掛かったアナログ時計を見上げた。授業が始まってから長い針はまだ四分の一πほどしか動いていない。角速度が低下しているのではないかと、千束は訝しんだ。

 今日は新しい年度になってから、初めての塾での授業だった。まだ彼らが中学校に進学してから一週間。学校の方でまともな授業が始まったとは考えづらい。新しい範囲を教えようにも学校に先行した内容を教え込むのも考えものだし、かといって最初から小学校の復習では生徒のモチベーションが低下する。雑談というか、小話を多めにしてクラスに慣れされておくように、と塾長から指示が出ていた。

「そうね。学校が変わって、クラスのメンバーもだいぶ変わったでしょう? 他の小学校から来た子もたくさんいると思うし、逆に今までの友達が別の中学に行ってしまったり」

 アメリカンコーヒーのようなことを語っていることを自覚する。喋りながら千束は自己嫌悪した。

 二ヶ月前まで千束はこの学習塾の生徒だった。個人経営の小さな学習塾で、千束は中学の二年生から通っていた。高二までは今千束が教えているようなクラスでの授業。受験を控えた三年になってからは、主に個別指導を受けていた。

 自分が受けていた授業を思い出す。問題演習の合間合間に入る講師の小話。言葉数は多くなくても、ウィットとエスプリに富んでいて、とても面白かった。

 授業が終わった後、毎週のように担当講師のところまで質問に行っていた。いや、質問していたのは最初の二、三回目くらいまでだった。授業時間でなく教室でもない場所だからか、勉学に関係ないことでも、色々と相談に乗って貰った。その何でもない雑談のために塾に来ていたと言っても過言ではない。

「勿論、塾も同じ。貴方たちもお互い知らない人がいると思うし、私もよく知らないわ」

 講師があまり喋らなかったことを思い出す。勿論、千束自身がたくさん話しかけていたから言葉を挟む余地がなかったという面もあるのだろうけれど。

「なので、一人ずつ自己紹介して欲しいな。名前と学校は必須ね。後は趣味と好きな物と……まあ、言いたいことがあれば何でもどうぞ。質問タイムも必ず設けること」

 今考えてみれば講師は皆、生徒自身に喋らせようとしていた節がある。毎週九十分や百二十分といった授業の時間中、全て講師の側で話のコンテンツを提供するのは無理がある。余り認めたくはないが年代にも開きがある。

「じゃあ、前から順にお願いしようかな……」

 白石が二列目に座ったボブの少女を見ながら言うと、彼女は形の良い眉をひそめた。唇が少しとんがっている。

「先生からお願いします」

「え?」

 先程から挑戦的な態度を向けてくるツインテールの少女がいきなり言った。

「まず、先生がお手本を見せて下さいよ」

「……私?」

 慣れない『先生』という響きに、思わず千束は自分の顔を指さした。小馬鹿にするように少女が言う。

「もちろん」

「……そうね。分かりました。ではまず私から」

 千束はそう言って覚悟を決め、アスパラガスのように背筋を伸ばして立った。お腹に力を入れ、声を張る。

「白石千束です。このクラスでは数学を担当します。趣味は読書。ミステリーをよく読むけれど、基本的には雑食です。好きな物は、……そうね、紅茶かな。アッサムをミルクティにすることが多いです。得意な科目は数学。逆に社会科は少し苦手でした」

 二秒ほど考えてから、千束はゆっくりと自己紹介した。

「何か質問はあるかしら?」

「先生、何歳?」

 ぽっちゃりした男子が単刀直入にそう訊く。

「……いくつに見える?」

 千束は苦笑しながら、そう問い返した。駄犬のような質問だと思った。

 塾長から年齢と学生であることは隠すように言われている。生徒はともかく、親が学生バイトの講師を嫌がる傾向があるそうだ。つまらないことだ。自分自身が勉強していた時期から、なるべくタイムラグが少ない方が傾向として優秀ではないだろうか。

「えーと、二十八くらい?」

 千束はとてもショックを受けた。にっこりと笑顔を作って、平板な声で千束は宣告した。

「君には今後、宿題を十割増しで出してあげるね」

「え、ええっ!?」

 少年が困惑した声を上げる。

「なあ、十割増しってどういうことだよ?」

「ん? 十倍ってことじゃないのか?」

 並んで座った男子が囁き合う。小声でツインテールの少女がバーカ、と呟いたのが聞こえた。誰に向けられた言葉かは判らなかった。

 千束は頭の中でだけ頭を抱えた。どうやらこのクラス、相当教え甲斐が有りそうだった。

「他には?」

 ボブの女の子が控えめに左手を挙げる。どうぞ、と千束は手の平で質問を許可した。

「恋人はいますか?」

「……いません」

 思わず素直に答えてしまった。その直後、正直に口にしなくても良かったことに気がつく。

「好きな人は?」

「……」

「いるんですね?」

「……ノーコメントで」

「どんな人ですか?」

 対応を誤ったことを千束は悟った。最初の乾いた目線とは正反対の、爛々と輝く七対の瞳が千束を射貫いている。

「ええと、その」

「その?」

「……」

「先生?」

「……これはその、特定の誰かを指しているわけではないのだけれど」

 うんうん、と生徒たちが頷く。期待に満ち溢れた表情だった。

「コンセプチュアリストが好きです」

「こ、こんせぷ? どういう意味ですか?」

「英語の授業のために辞書を買ったでしょう? 家に帰って引いて見て下さい。……そうね。君への来週までの宿題」

 千束は先程の勇敢な男子に向かってそう言って、ホワイトボードにconceptualistとブロック体で書いた。

「では私の自己紹介は以上です。次は貴方、お願いね。もちろん恋人の有無と好きな異性のタイプも含めて」

 千束はそう言ってボブの女子を促して、自分はホワイトボードの脇の席に座りこんだ。







 白石千束は手を離した。

 ぱさ、と金属製のポストの中に書類が落ちる。語学科目の履修登録申請の用紙だ。その軽い音に少し不安になる。本当にこれで手続きは大丈夫なのだろうか。

 後ろに今入れたばかりのものと同じ用紙を持った男が立ったので、千束はそそくさとそこから離れた。廊下の端、通行の邪魔にならない場所に立っていた小宮有紗のところに小走りで駆け寄る。

「お待たせ」

 有紗はひらひらと手を振って廊下を歩き出す。すると手以外の箇所もひらひらと揺れた。高校の頃から見慣れた顔が、見慣れない服装に包まれている。同じように進学しただけなのに、こうまでも印象が違うものだろうか。

「希望通りの授業を取れると良いわね」

「こればっかりは抽選だから。それに経済学部は語学はそんなに気にしなくても大丈夫みたい」

「羨ましい。文学部は語学落とすとそれだけで留年だから、とても大変なの」

 有紗はそう言って、けれど涼しい顔をしていた。

 二人連れだって校舎の中を歩く。玄関から建物の外に出ると、三限の授業が終わったばかりのキャンパスの中庭は人いきれでむんむんしていた。二十歳前後の、千束と同年代の姿が圧倒的に多い。しかし統計的に有意なのはそれくらいだった。服装も髪の色もばらばらで、時折外国人とおぼしき姿も見受けられる。そんな多種多様の人間たちが、三々五々連れ立って歩いたり、立ち話をしたりしている。

 その人間の群に、千束は少し目眩を覚えた。制服着用が義務付けられていた、千束や有紗が通っていた高校とは全く景色が違う。

 こんな、生まれも育ちも全く違う人たちが同じ場所に集まっている。きっと目的も異なるのだろう。研究がしたいのか、あるいは学歴が欲しいのか。それとも、モラトリアムに都合が良いと判断したのか。

 私はここに何しに来ているんだろう。

 ふとそんなことを思う。

 ただの憧れで選んで、

 それ以外に理由はない。

 なんとなくここにいる。

 なんとなく?

 違う。

 追いかけて。

 背中を追いかけて。

 違う。

 足跡を、

 なぞっているだけ。

 その先に、

 背中はないと知っているのに。

 自分でも解っている。

 無駄だと解っている。

 だけど、

 無駄じゃないことって何だろう。

 意味があるとは、

 どういうことだろう。

 追いかけるのは、

 近づきたいから。

 近づいても、

 そばに居られるわけじゃない。

 近づくことへのアプローチ?

 言語が異なっても意味は同じ。

 同じ場所に立つことが、

 近づくことに繋がるのか?

「千束、四限はないんでしょう?」

 有紗の声にふと我に返る。

「千束?」

「……うん。ないよ」

「私もないの。ちょっとお茶でもしていかない?」

「良いよ」

 二人はキャンパスを出て、駅の方に行くことにした。どんな店があるのかまだ詳しく知らないのでリサーチがてらぶらぶら歩くことにする。

 キャンパスから見て駅の反対側。西口から外に出るとバスロータリーが正面にあった。そこから放射状に狭い道が広がっている。ちょうどその一本からバスが入ってきたところだった。狭い上に人通りが多い道を、窮屈そうに旋回している。デザインに問題があるのではないか、と千束は訝しんだ。

 有紗が前に立って歩く。千束はそのフリルの多い服を見ながら後に続いた。高校時代は制服姿ばかりで、有紗の服装の趣味までは知らなかった。

 チェーン店のファストフードが多い。千束たちには縁遠そうだったが、焼き肉やラーメン屋なども目に付く。これが学生街というものらしい、と千束は納得した。

「ふう。なんか、食べるものには困らなそうだね」

 二人は目に付いたレトロな雰囲気の喫茶店に入った。全部で三十席ほどの店内は、半分くらい席が埋まっていた。やはり学生らしき姿が多い。二人は窓側の席に向かい合って腰掛けた。メニューを開くのもそこそこに、中年のウェイトレスにオーダーする。

「学食もあるしね。もう行った?」

「ううん、まだ。なんだか気後れしちゃって」

 注文した飲み物がすぐに運ばれてくる。千束はホットのミルクティ。有紗はアイスコーヒーだった。

「そうね。薄暗いし入りにくい感じ」

「それにサークルの溜まり場があるとか聞いたから。空いてるからって変なところに座ると、いきなり怒られるんだとか」

「胡乱な風習ね」

 有紗はそう言って、ストローでアイスコーヒーを啜った。半透明の円筒形の内部を、黒い液体が気圧差によって吸い上げられていく様が見える。

「千束は何かサークル入るつもりかしら?」

「え、うん……」

 有紗の問いに、千束は一瞬言い淀んだ。羽織ったカーディガンの裾をいじりながら答える。

「ええと、投資サークルに入ってみようと思っているんだけど」

「投資? 株とか為替とか?」

「うん、そう」

 千束の言葉に、有紗は少し驚いたようだった。ただでさえ大きい瞳が三割ほど表面積を増した。

「そういうものに興味あったのね」

「うん……。前からちょっと、面白そうだと思ってて」

「ふうん。ちょっと意外かも」

「そうかな?」

 有紗はコクコクと頷いた。その度にピンク色のシュシュで一つに纏められた髪がさらさらと揺れる。

「ところで、千束。全然関係ないのだけれど」

「なあに?」

「昔、何かの本に書いてあったジンクス。特定のプロ野球球団が好きな女性には彼氏がいる」

「ええと」千束は眉をひそめた。「どうして?」

「普通の女性はそんなに野球なんかに興味ないじゃない。でも付き合っている相手が野球好きで、その話をしたり一緒にテレビを見たりしているうちに、段々女性の方も嵌ってしまう」

 千束は有紗の方を見た。にやにやと笑っていた。

「とても可愛い仮説だと思わない?」

「……ええ、とても」

 千束はミルクティに砂糖をスプーン半分入れて、くるくるとかき混ぜた。液面に細波が立つのを見ながら問いかける。

「有紗は? 何かやりたいこととかあるの?」

「今のところ特には無いわ。知り合いを増やしたいし、何か入ろうとは思ってるんだけどね。無難なのはやっぱりテニスとからしいけど」

 そう言って、有紗はぺろりと舌を出した。

「運動はご遠慮したいところ。エネルギーの無駄。まったくもってエコでない」

 千束は有紗の身体を上から下まで眺めた。まったく日焼けしていない白い肌。手足も細く、日常的に運動していないのは明らかだった。服装も動くことをまるで考慮していないように見える。中の人ともども、ガラスケースにでも入れて飾っておくのが望ましいデザインだった。

「……ゴスロリ研究会にでも入ったら?」

「ゴスロリ? 今もしかしてゴスロリとおっしゃいました?」

「ええ、おっしゃいましたが」

 有紗は一瞬柳眉を逆立て、一度ため息を吐き、それから自分のブラウスのフリルを右手でちょこんと抓んだ。

「いいかね、千束君。これはゴスロリではなく甘ロリに分類されるのだよ。覚えておきたまえ」

「有紗君、私にはその二つの違いがさっぱり判らないのですよ」

「判らない? さっぱり? やっぱり」

「マイノリティだという自覚はあるのね」

「それはもう。むしろそこが大事なの。人とは違う私はちょっと格好良い。そこが空腹と同じくらい大事なスパイス。もちろん、純粋にこういう格好が好きだというのは大前提なのだけれど」

 そう言って、ふふん、と鼻で笑った。

「解るような解らないような」

「なので、もしロリータファッション研究会のようなものがあったとしても、私は入らない。そこにはきっと私のような人が掃いて捨てるほどいて、だからそんな場所には決して近づかない」

「サークルとはそういう、同好の士を求めて入るのが一般的なのでは」

「そんな普通の感性、私には必要ない」

 有紗は胸を張ってそう言った。バストの部分がたっぷりしているデザインのブラウスなので、とても強調されて見えた。

 千束は左手でカップを取って、暖かいミルクティを三分の一ほど飲んだ。若干渋みが強く、あまり美味しくなかった。

「有紗と知り合って丸三年になるけど、貴方のことが良く解らなくなった。いえ、解っていなかった、というべきかしら」

「私も千束が投資のサークルに入るって言い出すなんて、想像もしなかった。おあいこおあいこ」

「……そうかもね」

 そう言って千束は曖昧に頷いた。

 ボンヤリとした目線で有紗は窓の外を眺めている。その横顔を千束は見つめた。桜色のチークがほんのりと乗っている。ぬらぬらと輝く唇が色っぽい。

 高校に通っているときにはあまり化粧をしていた印象はなかった。もっと派手な同級生がいくらでもいた。元々学校以外では熱心だったのか、それとも環境が変わるに当たって一念発起したのかは判断がつかなかった。

 千束は一つため息を吐いて自分の服装を見下ろした。今までは学校にも塾にもずっと制服で行っていたので、あまりワードローブは豊富ではない。

「千束、この後は?」

「人と会う予定。ええと、まだ時間はあるけど」

 腕時計を見下ろして、千束は答えた。十五時を十五分ほど過ぎた辺りだった。連絡するにはちょうど良い時間帯だった。

 千束は携帯電話を取り出した。折りたたまれた筐体を開き、メール機能を呼び出してから液晶画面を二秒ほど眺め、結局閉じ直してテーブルの上に置いた。

「何時?」

「十七時の約束。自由が丘」

「そう。……ならもう少し話していようか」

 こくり、と千束は頷いた。

「運動系でも甘ロリ系でもないサークルだったら、どんなのに興味があるの?」

「無い」有紗はぴしゃりと言い切った。「趣味はあるわ。好きな物だってもちろん。だけど、それを他人と共有したいとは思わないわ」

「だったら、わざわざサークルに入らなくても良いのでは?」

「精神的な充足を求める、という動機に関して言うなら、確かに私はサークルに入ることを必要としていない。だけど、それとは別の問題として、大学という空間の中で手っ取り早く知り合いを増やすのには、サークルに入るという選択肢はとても魅力的」

「有紗の言い様だと、まるで他人を必要としていないみたいなのだけれど。同好の士を見つける気も無いみたいだし……」

 千束はそう言って首を傾げた。有紗はストローでアイスコーヒーを啜ってから、にっこりと微笑んだ。

「そんなことは無いわよ。例えば私と千束はまったく違う趣味をしているけれど、私は千束と話すのは楽しい」

「……ええと」

「ああ、逆かも知れない。違うから面白いし、興味深いのかも。思考のプロセスも物事の優先順位もまったく異なるから。同じものを見て、同じ音を聞いているはずなのにね。どうして千束はこんなに可愛いのかしら」

 有紗は心底不思議そうな顔でそう言った。ストローでアイスコーヒーに入った氷をくるくると回している。

「そういう意味で言うと、私は全然興味のない分野のサークルに入った方が良いのかしら。まあ、自分の身体を動かすなんて、想像しただけでもぞっとしてしまうけれど」

「それだと文化系の大抵のサークルは候補になってしまいそうね。運動系のサークルのマネージャーという手もあるし」

「そう言われるとそうかしらね。まあ、敬愛する方以外のお世話をする気なんてさらさら無いけれど……。結局、何をやってるサークルなのか、よりはその中にいる人がどれだけ面白そうか、という方が私にとっては重要ですもの」

 千束は椅子の背もたれに深く腰掛けて、有紗から距離をとった。なるべく特定の場所に焦点を合わせずに、彼女のフリルに包まれた全身を視界に収めるようにする。

「有紗は、どんな人に興味があるの?」

「そうね。……まず第一に変であること。これは必須ね。それから自分ではそのことに気がついていないこと。ただしこれは絶対条件ではないわ。気がついていても気にしていない場合もあるし……」

「……なんだか馬鹿にされている気がするのだけれど」

「それと出来れば適度に鋭いことね。のれんに腕押しではつまらないもの。でも鋭すぎてはからかい甲斐が無いから駄目ね」

 有紗はそう言って、ぺろりと舌なめずりをした。それからテーブルに肘を突いて、手の平に顎を載せた。二人の顔が近づく。

「千束はどんな人が嫌い?」

「舌鋒が鋭い人かしら」

「千束は自分が嫌いなのね」

「そうね、あまり」千束も同じようにテーブルに肘をついた。「好きではないわ」

 有紗は何も答えずにまた窓の外を見遣った。千束もつられて目を向ける。商店街の通りに人の姿はまばらで、寂しげな印象を受けた。

 同じ大学生と思われる一団が大声で騒ぎながら店から出て行く。ドアが閉まるとき、据え付けられたベルがけたたましく鳴った。

「どこが?」

「どこが嫌いかと聞かれて、しっかり答えを見つけてしまうところかしら」

 頬杖を突いたままの有紗は、チェシャ猫のように眼を細めた。くぅくっと咽の奧だけで笑っている。

 千束はカップに残ったミルクティを飲み干した。少し冷めて、渋みを増していた。

「投資サークルってどんなことをするの?」

 有紗が問いかける。その両目はじっと千束の方を見つめていた。人形じみた無感動な瞳。口元は笑顔で、でも大きな目は少しも笑っていない。

「端的に言ってしまえば、どうやったら儲かるかの研究だと思うけれど」

「お金が欲しいなら働けば良いじゃない。アルバイト、始めたんでしょう?」

「金銭的な目的だけでなく、ゲームじみた面白さもあるわ。財務や業績を調べたり、過去のチャートや注文が出ている板から動きを予測したり。儲かれば嬉しいし、失敗すれば損するかも知れないというスリルも味わえる」

「ふうん。ギャンブルの類とあまり変わらないように聞こえる。競馬だって過去の勝敗やコースとの相性とか、果てには血統まで調べるとか聞いたけど」

「短期で利益を出そうとしている限りでは、あまり変わらないかもね。投資額に対して期待されるリターンが、多少は良いくらいかな……」

 聞いた話を思い出して、千束は答えた。心持ち、有紗が身を乗り出して聞いている。

 千束自身には、まだ金融取引の経験はない。受験が終わった時点でネット証券に口座の開設手続きはしておいた。未成年だったため両親の承諾が必要で、説得するのに少し骨が折れた。鎖骨は折れるためにある、と以前塾で聞いたのを思い出した。

「ふむ。つまり資産運用であり、ゲームであり、ギャンブルなわけね。多機能すぎてあまり品は無いかしら」

「少し語弊があるし穿ちすぎだけれど、おおむね間違ってはいないわ」

「なるほど。少し興味が出てきた」

 有紗はそう言って、顎を持ち上げて背筋を伸ばした。

「私も投資サークルの見学に行ってみようかしら」

「……さっき、興味がある分野のサークルには入らない、みたいなことを言っていなかった?」

「興味を持ったのは、株自体ではなくてそれをやろうとする人たちに対して、よ」

 そう言って、有紗は片方の唇の端を、吊り上げた。

「株なんて小難しくて真面目そうで難解な用語もずらずら出てきて。でも、やってる目的はお馬さんの駆けっこと一緒。どんな人がどんな顔して取引しているのか、ちょっと気になるじゃない」







 和泉隆平は少し急いでいた。

 日比谷線から直通で東横線に乗り入れた電車から、和泉は自由が丘駅のホームに降り立った。目の前にはアクリルの転落防止パネルがあり、それを回り込んで階段を下りる。横幅は二メートル以上あるが、途中で柱を避けるためか踊り場のところで二十度ほど曲がっているため人の流れが滞っている。デザインに問題があるのではないかと和泉は訝しんだ。電車の到着を待つ人が列を成している大井町線のホームを半分ほど通過し、駅の南口から外に出た。小さい方の出口だからか、ここまで来ればそんなに混雑はしていない。

「お待たせ……」

 腕時計を見ながら和泉は言った。十七時八分。帰り際に栗田に捕まって、少し遅刻をしてしまった。

「い、いえ。今来たところです……」

 小声で千束が返事をする。淡い黄色のブラウスに、デニムのスカートだった。大きな帆布のトートバッグを肩にかけている。

 私服姿を目にするのは珍しかった。和泉が講師をしていたときには、千束はいつも制服のブレザー姿で塾に来ていたので、その印象が凄く強い。正直言って見慣れなかった。

 夕方の繁華街は人通りが多い。二人は改札の正面を避けて、柱の陰に移動した。

「ご飯を食べるにはまだ早いか。カフェとかで良い?」

「はい」

 和泉の問いかけに、千束は目を合わせないで答えた。和泉はその視線の先を追ってみたが、CD屋の大きな広告パネルが設置されているだけだった。女性歌手がマイクを丸呑みしそうなほど大きな口を開けている。和泉には見覚えのない顔だった。

「どこか行きたい店はある?」

「いえ、お任せします」

 ふむ、と二秒ほど考えて和泉は歩き出した。三歩ほど後ろを無言で千束が付いてくる。和泉は気になって何度か振り返ったが、一度も目は合わなかった。

 線路沿いの道を五十メートルほど歩いて、和泉は行きつけの喫茶店に入った。店の前にはためく幟には自慢の自家製チーズケーキがいかに美味しいのかを喧伝してあったが、和泉は一度も頼んだことがない。いつもコーヒーか、その類だった。

 少し薄暗い店内の奧、壁側の席に二人並んで腰掛けた。形状としてはカウンター席に近いが目の前は壁だ。しかし天板の上方は壁が二十センチばかり凹んでいてスペースを確保してある。モダンな装飾を施された照明がその窪みに据え付けられて手元を淡く照らしており、妙に淫靡な雰囲気があった。

 席に着くとすぐ、二十歳過ぎくらいの女性店員がメニューと氷水を持ってやってきた。和泉はメニューを開きもせずにブレンドコーヒーを頼み、千束はしばらく親の敵のようにページを睨んだ後、同じようにブレンドを頼んだ。

「そうだ、入学おめでとう」

「ありがとうございます」

「大学はどう?」

 千束は二十五度ほど首を傾げた。

「まだ本格的な授業は始まっていないので、なんとも。でも、色んな人がいて、少し驚きました。とても自由で、だから何をしていいのか少し迷いますね」

「まあ、最初はそんなものだと思うけれどね……」

 千束がコーヒーに砂糖とミルクを入れる。それを横目に見ながら和泉はカップに口を付けた。この店のコーヒーはかなり苦い。しかしコクがあってお気に入りだった。

「結局のところ、自分がやりたいことをやればいい。勉強でも趣味でもなんでも。時間はたっぷりあるし、色んなしがらみからも一番解放される時期だ」

 言ってから和泉は頬を掻いた。ステテコのような言葉だと自分でも思った。

「先生は大学時代、どんなことをしていたんですか?」

「もう君の先生じゃないんだけどね……」

 和泉はそう口元を緩めて、ううん、と考えた。大学時代のことをざっと思い出す。しかし驚くほど、大学にいた記憶がなかった。

「遊び呆けていた、かな。将来のためとか自己研鑽の類とか、有意義な活動はまったくやっていなかったと言って良い。ただ純粋に楽しそうなことを延々やって遊んでいた」

「遊んでいた」

 千束はそう鸚鵡返しに言った。彼女はさっきからスプーンでコーヒーをハムスターの乗った車のように回している。しかし一度も口をつけていない。

「四年で無事卒業出来たのが奇蹟だと言って良い。何しろ週休五日制を試験的に導入していた」

「そうなんですか?」くすくす笑いながら千束が言う。「私も試してみようかな……」

「お薦めしないよ。リスクに見合うだけのリターンを得られる保証もないし」

 和泉の言葉に千束は少し目を瞬かせた。それから悪戯っぽく微笑んだ。

「遊んでいたって、女の子とですか?」

「バイト先に女の子はたくさんいたね。小学生から女子高生までよりどりみどりだった。同じくらい男の子もいたけどさ……。まあ、対象を自分で選べたわけじゃないし、正直あんまり関わりたくない相手もたくさんいた」

「アルバイトは有意義な活動ではないんですか?」

「賃金を得るというのが主な目的である以上、決して有意義ではないね。お金は結局のところ手段に過ぎないから。けれど比較的恵まれた環境だった。時間対効果も高いし、授業を行うことによって得られたことも少なからずあった。そういう意味では、たしかに意義はあったかもね」

「例えば、どんなことですか?」

 矢継ぎ早に繰り出される質問に、和泉は五秒ほど考えた。

「そうだね……。言葉にするのは難しいけど、自己と他者と普通について考える機会と実験の場を得た」

 千束の手の回転運動が止まり、垂直に引き上げられた。スプーンをソーサーに置いて、ようやく一口中身を飲んだ。

「自分と他人は違う。そして、世の中の平均値、つまり普通の人がどう考えてどう行動するか。そんなことを考えた」

「自分と他人が違うなんて、当たり前のことなのでは?」

「そうだよ。人はみんな違う。そう意識していない人も多いみたいだけどね……。そんな一人一人異なる性質の生き物をたくさん集めて平均を取ったものが普通。その普通と比べてあまり差が大きくない人を普通の人と言い、大きく異なる人を個性的とかもっと直截的に変人と言ったりする。閾値は、そうだね、ヒストリカル・ボラティリティで言うなら2σくらいかな……」

 千束の首が傾けられる。卒業してから茶色く染められた髪が不規則に揺れた。違和感の原因が服装ではなく、髪の色の所為だと、和泉は今になって気がついた。

「ところが、普通の人は大抵、周囲の人はみんな普通の人だと感じるようだ。そして、普通の人同士なら同じことを同じように考えると思い込んでいる。自分が当たり前のことだと思えば、それは世間的に当たり前だと思い込む。なにか情報を得たときに、誰もが同じ判断を下すと無意識のうちに判断し行動する」

「人がそれぞれ違うというのは、当然だとしても。そこに普通がどう絡んでくるんです?」

「自分と他人の考え方のプロセスの違い。それを意識するのと同時に、普通と乖離を考える必要がある。自分が世の中の平均とどんな点でどれくらい違うのか。相手はどうなのか。この三者の違いの程度や質を考える必要があるし、上手く読み解ければそれを利用することだって出来る」

「利用?」

「単純に、普通の人ならこうするだろう、という予想を立てて先回りする。或いは、意図的に誤認させる状況を作り出して、相手の行動を誘導する。そこに普通の人と相手の差異を修正値として増減すれば、自分に有利な状況を作り出せる可能性が高まる」

「人を操れる、ということですか? あまり現実的だとは思えませんが……?」

「そうだね。行動を操ることは難しい。でも思考や認識を固定化させることは十分可能な場合が多い。逆に先入観を持たせないのは難しい」

「そんなことを塾での授業中に?」

「意識するかどうかは別として必要だった。自分と生徒のあまりの認識の違いに愕然としたからね。ある意味では生徒をいかに化かすか、というのが授業の肝だと言っても差し支えないだろう」

 千束は首をひねった。しかし和泉はそれ以上何も言わなかった。授業を重ねてみれば、言っている意味を実感する日も遠くないだろう。それを言葉にして考えるかどうかは判らないが。

 コーヒーをまた一口すすって、壁に掛かっている額に入った絵に目を遣る。印象派の少女を描いた複製画だった。

「そんなに違いますか?」

「そうだね」和泉は一度言葉を切った。「ディーラーとファンドマネージャーくらいには違う」

「私と先生ではどのくらい違いますか?」

「ディーラーとデイトレーダーくらいかな」

 和泉は絵を見たまま答えた。

「ええと」千束が少し迷った声で言った。「株も大学時代に始めたんですか?」

「いいや」

 和泉は現在証券会社の契約ディーラーである。会社の資金を元手に株の売買を行い、得た利益から経費を差し引き、残りの四割ほどをインセンティブとして貰う。たくさん稼げればプロのスポーツ選手並の高給取りになれるが、結果が出せないとあっさり首になるところも同じである。

 昨年度まではディーラーと塾講師の二足の草鞋を履いていた。ディーラーは基本的に市場が開いている十五時までしか仕事がない。時間的に余裕があり、塾長に請われて週に二回ほど授業をしていた。

「株を始めたのは入社してからだよ」

「え? そうなんですか?」

「そうだよ。会社に入って初めて株の取引をした。と言うより、未だに会社資金以外で売買をしたことはない」

「どうしてそれで、ディーラーになろうと思ったんですか?」

「君はどうして大学に入ったんだい?」

「え?」

 千束は目を丸くした。

「そんな程度のことだよ。多分……」

 和泉はそれ以上何も言わない。じっと千束の目を見た。視線が合うと、千束は目を伏せた。

 先程のウェイトレスが背後を通る。手に持ったケトルからグラスにお冷やを注いで貰う。

「僕がディーラーになったのは、費用対効果が一番高いと思ったからだよ。仕事は実質市場が開いている四時間半のみ。給料は本人次第で天井知らず。こんな環境は、他にちょっとない」

「そう、なんですか」

 千束はぎくしゃくと頷いた。

「ところで、塾講師はどうしてお辞めになったんですか?。今までずっと並行してやってきていたのに」

「それはもちろん、君が講師になるって聞いたからだけど」

「……え?」







 白石千束は立ち往生していた。

 隣にいる有紗も恐らく似たような状況だろう。

 とにかく広い。広すぎる。しかも同じテーブルと同じチェアが同じように延々と配置されている。真上から見たら現代アートだと勘違いしそうなくらい幾何学的だった。映画館の座席のように、番号がついていることを期待したが、そんなものはどこにも見当たらなかった。最高学府の一施設なのに、それくらいの知恵や工夫を巡らす職員は今まで一人も居なかったのか、と千束は少し憤然とした。

 手元のチラシに目を落とす。窓から三列目、西側の入り口から十七番目のテーブルと記されていた。十七は千束の好きな数字の一つだったが、この場合は部屋の中央付近となっていて、いたく都合が悪かった。

 千束は二桁の素数が好きで、約数の多い合成数は苦手である。素数も三桁まで行くと品がないが、二桁の素数同士の積などはとてもお洒落だと思っている。以前クラスメイトにそう語ったところ、虚数のような扱いをされたのでそれ以来誰にも言っていない。

 当たりを付けて学食の内部を見遣る。しかしさっぱり区別が付かなかった。テーブルに株券でも積み上げておいてくれれば判りやすいのだが、そういうサービス精神は無かったようだ。株券電子化の所為で実物を手にする機会がなくなったからだろうか。

「数える?」

「うん。手分けしよう。私が数えるから有紗は人にぶつからないように誘導をお願い」

「適材適所ね」

 昼休みの学食は多くの学生とごく少数のそれ以外の人間でとても混み合っていた。テーブルとテーブルの間隔は二メートルほどであまり余裕はなく、しかも二人は麺類のどんぶりが載ったトレイを持っていた。もちろん鞄やチラシもあり、有紗に限ってはスカートもふんわりと広がっている。

 有紗が先導して、それを楯にするように千束が続く。途中で何度か人とぶつかったりしたものの、二人は何とか無事に目的のテーブルまでたどり着いた。しかし無事なのは人間とどんぶりの中身であって、トレイの表面は保守対象外である。

 六人掛けのテーブルの席は二つしか埋まっていなかった。かなり明るい赤茶色の髪をした男性と、長い金髪の女性が並んで座っていた。

 テーブルの表面の約二割ほどしか使っていないように千束には見えた。つまり二人の距離が異様に近い。ほとんど肩が触れあうような距離で座り、二口に一度は顔を寄せ合い何事か話をしている。

「あの」

 有紗がその男に声をかけた。よくぞこの雰囲気の中、話しかける気になるものだ、と千束は感心した。

「ここが投資サークルの溜まり場ですか?」

「んー?」

 億劫そうに男が顔を上げる。トレイを持っている二人の姿を見て、訝しげな表情になった。女性の方もきょとんとした顔をしている。

「そうだけど、なにか用?」

「興味がある人はここに来るようにって、チラシに」

「ふむ」男は一つ頷いた。「え?」

 それから酷く驚いた。

「何? サークルの参加希望者!?」

「あ、まだそこまでは……。ちょっとお話を聞かせて貰えないかと思って……」

「あ、うん。そうだよな。良いよ良いよ。座って!」

 男は二人に椅子を勧める。女性は少し不機嫌そうに千束たちの方を見ながら、少し男から身体を離した。

「俺は東。東健吾。法学部の二年。それでこっちが……」

「平山瑠夏」

 女性は短くそう言った。それから気を取り直した様に微笑む。東が口を開いた。

「二人は新入生だよね?」

 千束と有紗は頷いて、簡単に自己紹介をした。それをとても嬉しそうに東は聞き、それから携帯電話を取り出した。

「ちょっと待ってて。他のメンバーも呼ぶから。あ、ご飯食べちゃいなよ。伸びちゃうから」

 東と平山の向かいに二人は並んで腰掛けた。空いた席に鞄を二つ置いて、どんぶりに立ち向かう。

「ええと、ルカって、どういう字を書くんですか? 珍しいお名前ですよね」

「解るかなぁ……。瑠璃の瑠に、夏。瑠夏思うんだけどぉ、有紗とか千束の方が珍しい名前なんじゃないかなぁ……」

 舌っ足らずの、ゆっくりとした喋り方だった。しかも一人称が名前だった。今までこんな調子で話す知り合いがいなかったので、千束は困惑した。

 それにしても。千束は思った。ずいぶん派手な女性だ。長い金髪は若布のようにうねっているし、顔の表面も彩り豊かだ。服装も四月の割に肌の露出が多い。有紗とは正反対の手段ながら、女性であることを強くアピールしているという点で共通していた。

「いやあ、それにしても女の子が二人も来てくれるとは思わなかった」

 携帯をテーブルの上に置いて、東がそう朗らかに言った。余りににこにこしていて、少し千束は警戒した。

「ところでどうしてこのチラシ、『食事持参の上溜まり場まで』なんですか? わざわざ食べ物を持ってくるように指定している意味が解りません」

「んー?」

 チラシの上、有紗が指さした箇所を東と瑠夏は目を平たくして見た。そして二人とも首を二十度ほど捻った。

「ホントだ! 変なのぉ」

「たしかにおかしな話だけど。そのチラシ作ったの俺じゃないからなぁ。たしか淡雪先輩が作ったから、何かしら理由があるんだろうけど」

「淡雪先輩?」

「ああ。篠淡雪先輩。理工学部の院生で、サークルの副代表。さっき連絡したからすぐ来ると思うよ。ちょうど今生協に来てたところって言ってたから」

「部室があるんですか? だったら溜まり場なんて必要ないのでは?」

 有紗の疑問に東はふふん、と得意そうに笑った。

「部室って言ってもキャンパスの中には無いんだ。近くのマンションを一部屋借りて、そこで活動している。キャンパスの部室棟からじゃネット経由で注文出すのが難しいし、セキュリティの問題もあるからね。わざわざ外に借りているんだ」

 胸を張って東はそう言った。千束は蕎麦を掬う箸を止めて、質問した。

「それって、家賃とかはどうしてるんですか?」

「そりゃもちろん、投資の収益から出てる。そういうサークルだからね」

「でも損が出ることもあるんですよね? 相場が悪ければ家賃が払えなくなることだって……」

「まあそうなんだけどね。でももの凄いデイトレーダーがうちのサークルにはいるから」

 東が軽い笑顔を浮かべながらそう言ったとき、テーブルの脇に人が一人立った。

「お待たせしました」

「あ、淡雪先輩。お疲れ様です!」

 平板な声で挨拶をして、淡雪と呼ばれた女性は瑠夏の隣に腰掛けた。白いシンプルなワンピースを着て、黒い艶やかな髪をまっすぐ伸ばしている。どことなく、浮世離れした雰囲気があった。極彩色の瑠夏の隣だから余計そう感じたのかもしれない。

「貴方たちが見学希望者ですね?」

「あ、はい。そうです」

 淡雪のシンプルな問いかけに、有紗が微笑んで答える。浮世離れしているのは二人とも同じだが、方向性は正反対だった。

 千束と有紗は先ほどと同じように自己紹介をした。しかし淡雪はあまり興味が無さそうに聞いていた。

「天沼先輩たちは来てないんですか? 紹介しようと思っていたんですが」

「オーバーランチしたポジションがあるから離れたくないと言っていました」

 淡雪の答えに、千束は腕時計を見下ろした。針は十二時四十分を指していた。ちょうど後場の取引が始まったところだ。和泉も同じように相場に向かっているのだろうな、と千束は思った。

「オーバーランチを気にすると言うことは、日計で商いをしている方なのですね?」

「ええ」淡雪は意外そうに千束の方に視線を向けた。「板やチャート以外の需給が絡むのを避けたがっているから。自分の目に見えない要素が入り込むのが嫌なのですね」

 篠は抑揚のない声で言って、ふと気がついたように微笑んだ。

「篠淡雪です。理工学部数学科の院生です」

「淡雪先輩も投資をなさるんですか?」

「ええ。投資というか、実験というか。研究と実益を兼ねて」

 ちょいちょい、と有紗が千束のブラウスの袖を引いた。千束が振り向くと、とても真面目な顔をしていた。

「千束、貴方たちはさっきから何語でしゃべっているの?」

「今度株の本貸してあげる」

「千束はどうしてそんな詳しいの?」

「有紗が甘ロリに聡いのとそんなに変わらない理由で」

「ふむ」有紗は頷いた。「つまり愛の為せる業なわけだ」

 千束は言葉に詰まった。少々不自然な間だと自分でも思ったので、何も答えず淡雪の方に向き直った。

「サークルには何人くらいいらっしゃるんですか?」

「名簿の上では二十人ほどかしら。最近はあまり顔を出さない人も多いけれど。逆に名簿にないのに入り浸っている人もいます」

「えへへ。瑠夏のこと」瑠夏はばつが悪そうに笑った。「でもでもっ、どうせあんまり人もいないんだしぃ」

「失礼。お気に障ったなら謝ります。文句を言っているつもりではなかったのですが」

 淡雪が小さく笑う。東が話を戻した。

「ええと、サークルのメンバーのうち、半分くらいは長期投資メインなんだ。割安だと思う株を買って、何ヶ月も持ってる。そうなると、毎日来たってすることないしね。逆にFXとかやってる人は一日中貼り付いてて顔を出す暇も無かったり。さっきの日計ってのは、一日の間に取引を完結させることだよ。買った株は、その日のうちに全部売っちゃうんだ」

「見学に来ればいいじゃん。特に活動日も時間も決まってないし。普段来てる女子は瑠夏と淡雪さんしかいないけどぉ」

「良いんですか? 是非お願いします」

「千束。午後一でパンキョーの授業があるけど早速サボり?」

 有紗が少し冷たい声で、千束を窘めた。

「あ、そうか……」

「最初だし、場中は止めた方が良いと思います。のんびり案内出来る状況じゃない可能性もありますから」

 淡雪が口を挟んだ。

「じゃあ場が閉まってからにします。三限目が終わった後に向かえばちょうど良いくらいですよね?」

「そうだね。じゃあ、授業が終わったらここにまた来てよ。部室まで案内するから」

 東が浮かれた様子で提案する。千束は一度有紗と顔を見合わせてから頷いた。

「ところで、サークルの活動って何をしてるんですか?」有紗が首を傾げた。「スポーツなんかと違って、イメージが湧きづらくて」

「投資全般に関する情報交換かなあ。長期投資の方だと、ファンダメンタル的に有望な銘柄をそれぞれ教えあって議論してる。スイングとかデイトレだと、テクニカルとか板の見方とか手法に関する話題が多いかな。ちなみに俺はスイングをメインでやってるから、チャートばっかり見てる人」

「ふむ」有紗は力強く頷いた。「文学部の私はまずは語学の勉強からだ」







 白石千束は気になっていたことを質問した。

「ところで、どうして溜まり場に食糧持参の上集合なんですか?」

「理由は主に二つです」

 十三時からの三限目、一般教養の情報リテラシーの授業を千束と有紗は受けた。初回の今日はキャンパス内のパソコンの基本的な使い方についてだった。普段自宅で使っているときと違って、幾つも制限があるが、どのキャンパスのどの端末からでも同じ環境を利用できるのは魅力的だと千束は思った。有紗はずっと携帯電話をいじっていた。大学のパソコンなどまったく必要なさそうなほどの携帯端末の使いこなし方だった。

 また、通常のパソコンルームだけではなく計算機センターと呼ばれる部屋があり、研究などで複雑な計算が必要になる場合にはそちらも利用できるとのことだった。最新の高性能サーバを複数台並列に繋ぐことによって、劇的に計算速度を高められる。そう講師が自慢気に語っていた。ただし、利用条件やセキュリティなどは相当厳しいらしい。

 授業後、また学食に舞い戻ると先ほどの三人が待っていた。彼らに連れられて学食を出て、一度生協に立ち寄る。適当に飲み物や食料を買い込んたところだった。

「一つ目は逃げられないためです。昼の学食はとても混み合っていますから、新入生は席を確保するのも大変です。席を提供することを餌にして先に食べ物を買わせてしまえば、直前になって話しかける気を失くす確率が減るでしょう? それに食べている間は席から離れずにいてもらえます。その間に少しはコミュニケーションが取れます」

「なるほど」

「話をしたから入って貰えるとは限らないのでは? それとも、話をすれば入って貰えるだけの自信があるんですか?」

 淡雪の答えに千束は頷き、有紗は首を傾げた。

「そんな話術はありませんが、どちらにせよいきなり逃げられるよりはマシです。けれど投資なんてニッチなジャンルのサークルを冷やかしに来るような新入生は、私たちの活動に対してかなりの興味を持っていることが推察できます。最初から共通言語を持っているので、話題にも困りませんし、初対面の緊張を乗り越えられれば参加してくれる可能性はかなり高いという判断はあります」

 淡雪はそこで小さく笑って、有紗の方を見た。

「一部の例外を除いて」

「いえ、とても興味が出てきました。主に淡雪先輩に対して」

「それは光栄ですね」

 有紗の返事に、淡雪は無表情のまま返した。

「ところでぇ、有紗ちゃんの服って可愛いね。ひらひらぁ」

「……ありがとうございます。でも有紗ちゃんはやめて下さい」

 瑠夏の物言いに、有紗は一秒ほど間を開けて答えた。

「嫌? じゃあ、なんて呼べば良い?」

「有紗ちゃん以外ならなんでも良いです」

「ん-、じゃあ、あーちゃん!」

「構いません」

 千束は首を傾げた。有紗の判断基準がまるで理解出来なかった。しかし今までに理解出来た試しがないので今回も諦めた。

「こういうのってぇ、着るの大変じゃなあい? 瑠夏にはちょっと無理だなぁ。可愛いのは可愛いんだけどぉ」

「ええ、まあ。慣れれば何とでも。それより、平山先輩の外見もとてもシックだと思います。私にとって」

「えー? 瑠夏、そんなこと言われたの初めてー」

 瑠夏がころころと笑う。英単語の違いに気がつかなかったようだった。

 歩きながら千束は有紗の服を引っ張った。幸い、掴む箇所には困らなかった。

「もう少し言葉を選びなさい」

「迷惑をかけても良い相手なら選んでいるけど?」

「私も友達を選んだ方が良いのかしら……」

 二人が小声で応酬していると、東が口を挟んだ。

「君たち、面白いな。幼なじみか何か?」

「いえ。高校からです。三年間クラスが一緒で」

「ふうん。もっと長いつきあいかと思ったよ。すごく仲が良さそうだから」

 東が感心したように頷く。千束と有紗は顔を見合わせた。淡雪が前を向いたまま口を挟む。

「あまり期間は関係ないでしょう」

「そういえばぁ、淡雪さんたちって、学部の頃からずうっと一緒なんでしたっけ?」

「ええ。もう丸五年になります。けれどこの二人のような愉快な会話になることはまずありません」

 首を傾げた二人に、東が説明した。

「淡雪先輩はこのサークルの立ち上げメンバーの一人なんだ。他にまだ在籍しているのが天沼先輩と山中先輩。三人とも院に進んで大学に残ってる。相場にも生き残り続けてる」

「二人とも部室にいたのでこの後会えるでしょう。今日は機嫌も良いでしょうし」

「どうしてですか? って儲かってるからか……」

 自分で解決した有紗の言葉に、淡雪は小さく頷いた。

「ちなみにぃ、瑠夏と健ちゃんはぁ、もう三年目なのです!」

「健ちゃん? ああ、東先輩のことですか」有紗は瑠夏の方を三秒ほど見つめた後、東の方に向き直って言った。「三年もおつきあいしているんですか。凄いですね」

 有紗はどうやら不機嫌なようだ、と千束は判断した。慌てて淡雪に問いかける。

「それで、二つ目の理由はなんですか?」

「それは秘密です」淡雪はくすくすと笑った。「投資と同じで物事には適切なタイミングがあります。まだそれを明かす時期ではありません」

 淡雪の言葉を聞いて、千束は第二の理由について想像を巡らせた。部室があるにも関わらず、わざわざ学食を集合場所にした理由とは一体なんだろうか。目的はサークルの魅力をアピールすることで、間違いはないだろう。しかし、どのようなプロセスを辿るのか適当な仮説は思い付かなかった。

 五人は連れ立ってキャンパスから外に出た。横断歩道は渡って、幹線道路を北に向かって歩く。五十メートルほど進んで小径に入ったところで、先頭の東が足を止めた。

「ここだよ」

「ここ、ですか?」

「凄いでしょぉ?」

 瑠夏が自慢気に言う。有紗は何も答えず目の前の建物を下から舐めるように見上げていった。千束もその視線の先を追う。エントランスは洒落た彫刻が施され、その上には上品なバルコニー。そこから上は首が痛くなるほど続く外壁。視線の角度は最終的に鉛直方向からわずか十二分の一πほどの傾きになった。

 エントランスの向こう、マンションの壁までの水平方向の距離は約七メートル。千束は三角関数を使ってマンションの高さを見積った。途中で自分の目の高さを計算に入れていなかったことを思い出して、慌てて上方修正する。

「三十メートルくらいかしら」

「え?」千束は驚いて有紗の方を見た。自分の見積もりとほとんど変わらなかった。しかし、有紗がそれほど数学を得意にしていた印象は無かった。逆に語学や社会科では非常に優秀だった。「どんな計算したの?」

「どんなって……」有紗は首を十五度傾けた。「もちろん足し算と掛け算。どうして?」

「いえ、私とほとんど同じ数値だったから……」

 千束は軽くショックを受けた。有紗は不審そうな顔をしている。東と瑠夏はぽかんとしていた。

「面白そうな話をなさっていますね」淡雪が立ち止まって口を挟んだ。「白石さんは三角関数。小宮さんは……多分、窓の高さと枚数から計算したのかしら?」

「え?」

 千束と有紗の声がユニゾンした。

「どうして解ったんですか?」

「視線を追っただけです。白石さんは、屋上をやけに気にしていましたし、小宮さんは下からじっくり見上げていっていました」

「……なるほど」有紗は首を傾げて微笑んだ。「ちなみに、淡雪先輩ならどうやって計算しますか?」

「考えつく限りの方法を使って算出します。そして、最後にすべての答えの平均値を出します」

 淡雪は迷った風もなく、そう答えた。それから歩みを再開する。

 意外な答えだった。千束の中に、淡雪のような思考プロセスはまったく無かった。建物の高さというものは数字で表すことが可能なもので、つまり答えがただ一つに定まる類のものだ。それなのに、複数の手法で計算した答えの平均値では、最初から正解を出すことを放棄しているように思えた。

「ここの七階の部屋が部室です」

 すたすたと歩いて行く淡雪の後を慌てて二人は追った。鍵を差し込んでオートロックを解除すると、恭しく自動ドアが開いた。広々としたエレベーターに乗り込むと、合成音声が礼儀正しくお出迎えしてくれた。千束はこの機能の存在意義が一生かかっても理解出来ないと思った。解らないことに関しては有紗の思考パターンと同じくらいだろうか。

 ほとんど震動しないエレベーターを降りて、また淡雪の後に千束たちは続いた。ホールから広い廊下に出て三つ目の扉の前で淡雪は立ち止まった。表札には何も書いていない。淡雪は財布を取り出してそのまま壁の横のセンサに押し当てた。通常の金属の鍵ではなく、カードキーを利用しているようだ。扉の向こう、広い玄関にはしかし脱ぎ散らかしたように靴が数足、散乱していた。

「どうぞ。見ての通り、あまり綺麗にはしていないけれど」

「お邪魔します……」

 千束は若干緊張しながらドアをくぐった。有紗は涼しい顔で可愛らしいストラップ・シューズを脱いですたすたと室内に入って行っている。慌ててその背を追った。

 廊下を抜けると元々はダイニングキッチンとして想定されたであろう部屋だった。キッチンはそのままの機能を保っているし、ダイニングにも小降りのテーブルがちゃんと設置されている。しかしリビングの方は壁際の二面に長机が並びアームチェアも三脚ある。机の上にパソコンのモニタが九枚も並んでいて、少々異様な雰囲気を醸し出していた。しかしマウスとキーボードは三組しかなかった。

「お、お疲れ」

 椅子に二人の男性が腰掛けていた。部屋に入ってきた千束たちに向かって片手を上げる。

 手前に座っているのはかなり明るい金髪の痩せぎすの男だった。白いワイシャツの上に薄手のカーディガンを羽織っていて、夜の繁華街にいそうな雰囲気の服装だった。少し眉をひそめるようにして千束たちの方を見ている。

 部屋の奥、反対側の机に向かってもう一人、茶髪の男が座っていた。髪は短く服装もシンプルで、あまり洒落っ気はない。こちらはにこにこと笑顔を浮かべていた。

「二人が見学者?」

「ええ。白石さんと小宮さん。二人とも新入生だそうです」

 淡雪の紹介を受けて、千束と有紗はまた自己紹介した。四月に入ってからもう何度目か判らない。初対面の相手には自動的に自己紹介する機能が実装されていれば良いのに、と千束は思った。

「俺は山中悟。こっちは」

「天沼鏑だ」

 部屋の奥に座った男の言葉を引き継いで、面倒くさそうに金髪の男が言った。

「この二人と淡雪先輩の三人が、サークルの創設メンバーなんだ。部室の鍵を持っているのもこの三人だけ。カードキーだから合鍵を作るのが面倒でさ」

 東がそう口を挟みながら、ダイニングテーブルのチェアに腰掛けた。その隣に寄り添うように瑠夏が座った。千束と有紗も反対側の席に着く。淡雪は山中たちと同じ、リビングの方のアームチェアにゆったりと座った。

「ここが部室になります。と言っても、普通のマンションですけれど。冷暖房完備でネットもし放題。キッチンもあってゆっくり御飯も食べられますし、シャワーも自由に利用可能。勧めないけれどベッドルームもある。どう、魅力的ではないかしら?」

「学食に食料持参なのは、部室のメリットを強調するためだったんですね」

「ええ。今ある手札を最大限に見せる手段を模索しました。新入生は大抵、あの学食の雰囲気に圧倒されるものですから。私も未だに苦手ですし」

 千束の指摘に、淡雪はちらりと微笑んで頷いた。

「何の話?」

「勧誘チラシのキャッチコピーに対する考察です」

 山中の疑問に、有紗が答えた。山中と天沼はその説明に首を傾げたが、誰も説明しなかった。

「先輩方は毎日ここで取引を?」

「研究とか授業もあるから、毎日ずっとというわけにはいかないけど。暇があれば大抵。でも、三人の中では僕が一番少ないかな」

「相場を見ていないと儲けるチャンスも見つけられない。ここにいる方が大学にいるよりよっぽど有意義だからな、俺にとっては」

 山中と天沼が千束の疑問に答える。

「じゃあ、ほとんど証券ディーラーみたいな生活なんですね」

「ああ。でもディーラーは会社の金を元手に出来るからポジションを大きく取れるけど、その分ピンハネされるからな。俺くらいの腕があれば、デイトレーダーの方が儲けは大きいよ」

 天沼はそう言って、唇の端を持ち上げた。椅子をくるりと千束たちの方に回転させた。じろじろと、二人に交互に視線を向けている。

「ディーラーの方がリスクも少ないのでは? 大きな損失を出しても、自分の身に降りかかって来ませんし」

「損失? そんなもん出したことない」

「出してないわけじゃないだろう。それが問題にならないくらいに利益が大きいんだ、天沼は」

 面倒そうに言った天沼を、フォローするように山中が言う。

「ちょっと、ごめんねぇ」

 瑠夏がバッグを持ったまま立ち上がる。そのまま廊下の方に消えていった。どうやら洗面所の方に向かったようだった。

 それを見送ってから、東が切り出した。

「そういえば、一番部室にいる率が高いのって、実は淡雪先輩ですよね?」

「ええ。私の場合、相場を見るのと研究が一致していますから。院の研究もここにいた方が捗ります」

「研究って何をなさっているんですか?」

「投資アルゴリズムの開発です。相場の値動きをコンピュータで監視して、決められたルールに沿って発注タイミングを決定するシステムを構築しています。どのようにルールを組めばもっとも効率よく利益を出せるのかが主な研究テーマです」

「パソコンが勝手に稼いでくれるということですか? それは夢のような話ですけど」

「それが目標です。けれどコンスタントに利益を出すアルゴリズムを開発するのは非常に困難です」

 淡雪は足下のパソコンを指さした。先ほどの授業で千束たちが使っていたような普通のパソコンより二回りほど大きい。

「このパソコンを使って相場のデータを解析しています。ただ、どんなに優れたアルゴリズムであろうとも、市場で利益を出すというジレンマからは逃れられません」

「ジレンマ?」

「ええ。大きく分けて二つの問題があります。取引の目的は端的に言ってお金を増やすことです。しかし市場全体ではゼロサムゲーム……利益と損失は合算するとゼロになります。つまり、常に儲かるシステムを構築するには、常に損をしている市場参加者が必要です。ただし、これはアルゴリズムに限った話ではありません」

 淡雪の説明に、二人は頷いた。

「もう一つの問題点は、アルゴリズムは誰にでも真似が出来るということです。ソースを入手しさえすれば、誰にでも完璧なコピーが可能です。同じ手法を使う参加者が増えれば、後は早い者勝ちの世界になってしまいますからね。なので、どこのファンドもアルゴリズムが流出しないように細心の注意を払って管理しています」

 淡雪は落ち着いた口調で説明した。有紗が中途半端に頷いた。

「コーヒー淹れますけど」東が立ち上がってキッチンの方に向かう。「みんな飲みますよね?」

 部屋にいる全員が頷いた。それを見て、東はコーヒーメーカーにせっせと豆をセットし始めた。

「二人はどうしてこのサークルに?」山中が穏やかに問いかけた。「自分で言うのもなんだけど、あんまり人気があるジャンルじゃないだろう?」

「面白そうだったので」

 有紗が簡潔に答えた。

「興味があったからです」

 千束も答えた。他に答えがあるとは思えなかった。

「明確な動機ね」淡雪がそう言って、小さく笑った。「とてもプリミティブで素敵」

「意味が解らん」

 天沼はそう不機嫌そうに言った。右の膝が小刻みに揺れている。

「そんな興味本位だけで儲かるほど、株は甘くない」

 千束は和泉のことを考えた。彼と株の話をしたことはほとんど無い。どれくらい興味を持って仕事をしているのかは良く判らなかった。

「天沼先輩はその筋では有名なデイトレーダーなんだ」

 東がコーヒーカップを両手一杯に抱えて戻ってきた。千束は手伝おうとしたが、手を振って断られた。

「毎月何百万って儲けてる。うちのサークルがこんな良い部屋を維持し続けていられるのは先輩のおかげだよ」

 東の言葉に天沼は胸を張った。膝の振動も止まっている。

 千束は天沼の席のパソコンを見遣った。本体は淡雪の物と同じように足下に置かれている。マウスやキーボードは一組しかないが、モニタはドレッサーの三面鏡のように置かれている。画面にはチャートや板画面が所狭しと並んでいた。

「すごいパソコンですね」

「ああ、画面が広くないと仕事にならないからな」

「やっぱり、トレーディング用の特注品なんですか?」

「いいえ」と、淡雪が首を振った。「私が組み立てました。使っているパーツは普通のパソコンと同じですよ」

「えっ!? 自作なんですか。凄い!」

 千束は思わず床に置かれたパソコンを覗き込んだ。今までに見たどのパソコンよりもかなり大きい。横にして線を引けば、将棋を四局同時に出来そうなくらいだった。

「パソコンの組立なんて簡単なものですよ。仕様が決まっているものをただ繋ぎ合わせるだけですから」

 微笑みを絶やさないまま、淡雪はそう言った。

 東がコーヒーを注ぐ。穏やかな薫りが室内に充満した。

「ほら、こんな風に部室でコーヒーを楽しむことだって出来る。サークルの入部届にサインするだけで、貴女も毎日使いたい放題」

「なんだか、サークル自体より部室の宣伝をされているみたい」

 有紗がにっこりと微笑んで東に返した。

「活動内容が地味だからね。他にアピールできそうなポイントがないんだ。新入生が見学に来てくれるチャンスなんて滅多にないから」

「天沼先輩が有名なのでしょう? そこを売り出せば、興味を持つ人だって出てくるのでは?」

「……俺は表だって名乗るのはネット上でだけにしている」天沼は苦虫を噛み潰したような顔でそう言った。「リアルで言ってたかられても困るし。金目当ての奴なんてどこにでもいるからな」

 千束は天沼の格好を見遣った。どれも値段が張りそうな衣服だった。素材や仕立てが良いのが遠目からでもはっきりと解る。有紗の服と良い勝負だった。似合っているかどうかは判断を避けた。

 その時、突然大きな音がした。

「きゃっ!」

 同時に、室内の照明がすべて落ちる。

 千束は身を竦ませた。窓から射し込む光で、視界に問題はない。そのまま周囲を窺ってみるが、それ以降特に何も起こらなかった。

「停電、かな?」

「そんな感じですけど……」

 山中と東が小声で言う。二人とも、不安そうだった。

「ご、ごめんなさい~」そこに瑠夏が戻ってきた。「ドライヤー、水の中に落としちゃったぁ」

「なるほど。漏電の所為でブレーカーが落ちたな」天沼が立ち上がった。「洗面所?」

「そうです。セット直してたら、手が滑っちゃって」

 タルトのように甘い声で瑠夏は言った。

「まったく、瑠夏ちゃんはドジだな」

「ごめんなさぁい」

 天沼が洗面所に向かいながら馴れ馴れしく瑠夏を小突く。瑠夏は可愛らしく謝った。千束は思わず東の顔色を窺ったが、はっきりと解る感情は浮かんでいなかった。。

「まずコンセント抜いて。それからブレーカー戻すだけ」

 洗面所から声だけが聞こえてくる。すぐに、蛍光灯が元通り点いた。

「乾くまでそのドライヤー、使えないからな」

「えぇ!? 瑠夏、髪まだ濡れてるのにぃ」

 話しながら二人が戻ってくる。

「今使うとまたブレーカー落ちるぞ。二三日は放置しておくこと。嫌なら新しいの買って来な」天沼が片方の唇を吊り上げて言う。「これでも俺は電気の専攻なんだぞ」

「はぁい」

 唇を尖らせながら瑠夏が座る。すぐに東に寄りかかるようにじゃれついた。東はその濡れた髪を、ポケットから取り出したハンカチで拭いてあげていた。

「んー。痛ぁい」

 瑠夏が呻いた。見ると指先から血が流れている。

「落としたときに引っかけちゃったの」

 東がその指を黙ってくわえた。思わず、千束はその姿を凝視した。

 淡雪が洗面所の方に行ってすぐ戻ってくる。手には救急箱を持っていた。中から消毒液と絆創膏を取り出す。

「どうぞ」

 瑠夏が差し出す指を、丁重に東が治療する。

「そのパソコン」有紗が唐突に口を開いた。淡雪の方を見ている。「ブレーカーが落ちたのに、ずっと動いていますね」

「はい。UPSを噛ませて停電対策がしてあります。そんなに長時間持つものではありませんが。取引時間中に落ちてしまったら大変ですからね」

 千束もつられてパソコンの方を見た。一度落ちてから再起動したのではなく、先程までと変わらずに動作している。相場時間外のはずだかチャートがいくつか動いている。目を凝らしてみてみると、為替だった。

「ところで、それのどこを見たら値段が上がるかどうか判るんですか? ええと、その……」有紗は天沼の席の画面を指さした。「グラフみたいなのを見たって、次に上がるか下がるか判断出来ないじゃないですか」

「グラフ?」

 有紗の指を追って、視線がモニタに集まる。

「これはチャートって言うんだよ。ローソク足だね」

「ローソク? へぇ……」

 画面を覗き込んだ有紗に、山中が優しい口調で説明する。

「これは五分足って言って、ローソク一個で五分の動きを表しているんだよ。他に一時間足とか日足、週足なんてのもある。白いのはその間に上がったってことで、逆に黒いのは下がったっていうこと。横線が始値と終値だ。こういうヒゲが出ているのは、一度上がったあと戻って来ちゃったことを意味している。あと、この線は移動平均で、こっちはヒストリカル・ボラティリティ」

「ふうん。何だか難しいですね」

 有紗はそう言って不満そうに画面を人差し指の長い爪でつついた。山中が苦笑いを浮かべ、天沼は鼻で笑った。

 千束は一口コーヒーを飲んだ。飲み慣れていない上にブラックだったので、少し苦みが気になった。淡雪の方を見ると、黒い表面に息を吹きかけていた。

「それで、これのどこを見ると次の動きが判るんですか? 火を付けると上昇気流が生まれるとかですか?」

「怖いこというなあ……」

 山中がぼやく。

「まあ、特にどこがって言うのはないよ。トレンドラインとかゴールデンクロスとか色々言われてるのはあるけど。天沼はどう?」

「……え? あ、そうだな……。まあ、雰囲気だよ。雰囲気」

 山中に振られて、天沼は少し上擦った声を出した。

「そういうのは淡雪の方が得意だろ」

「……いいえ。私なんて数字を捏ねくり回しているだけですから。一番儲かっている人が説明してあげて。やっぱり毎日相場と接している人の言葉の方が重みがあるでしょう?」

 淡雪は平板な口調で言って、コーヒーを一口飲んだ。

「そうだな」天沼は少し考えた。「やっぱり、特にこれと言うのは無いな。そんな単純なものじゃない。でも、見れば判る」

「特に重視している点はどこですか?」

「特に重視? ないな。全体を眺める。細かい点に捕らわれないことが重要だ」

「そうですか」

 有紗はそう言って、椅子に座り直した。

「山中先輩はどこを見ていますか?」

「僕? そうだねぇ……」山中はちらりと天沼の方を見てから言った。「トレンドって言って、値動きは波を作ることが多いんだ。その波が崩れる瞬間に、大きく値段が動くことが多い。そういうタイミングを狙ってるかな」

 山中は説明しながら自分のパソコンを操作した。綺麗に波打っているチャートを見つけ、それが崩れるところまでマウスで線を引いた。

「ほら、こういうところ」

「なるほど」

 チャートは今まで揉み合っていた高値を突破した直後、一気に駆け上がっていた。

「見てる人が、なんとなく止まりそうだなっていうポイント。そこを越えた瞬間、予想を裏切られた人が慌てて反対の注文を出すからこういう動きになる。予想が外れたときの動きを予想するんだ」

 山中は画面を見つめたまま、そう言った。

「ふうん。結構、心理戦なんですね。もっと、なんかこう、合理的に儲かる方法を算出出来るのかと思ってました」

「そういうやり方もあるよ。淡雪が作ってるアルゴリズム取引なんかはその最もたるものだね。他にも長期投資の場合には財務指標を参考にしたりするし……」

「短期の場合はそんなこと関係ねえよ。次の一瞬に上に行くか下に行くか、それだけだ」

 天沼はそう言って、東から受け取ったカップを呷った。それから自分のパソコンの画面に向き直る。

「合理的に算出出来るものなどありません」

 淡雪が突然、そう言った。

「株価自体が、何らかの数式で算出されたものではなく、人の思惑のみを反映したものですから」

「人の思惑? 株価がですか?」

「はい。現在の株価、とは業績や財務状況、社会情勢や経営方針によって決まるものではありません。株を売り買いしている市場参加者の判断のみで決まるものです」

「ええと……」千束は首を傾げた。「どういう判断なんでしょう? 取引する人は買うか売るか、見送るかの三種類の行動しか出来ないと思うんですが」

「ええ、一人一人にフォーカスを当てるとそうなります。しかし集団として市場参加者を見れば話は違います。株を買う人たちは、『この値段で買っておけば将来的に儲かる』、という判断の基で注文を出しています。売っている人たちは逆に、『ここは売っておいた方が得だ』、と考えているわけですね。その両集団の思惑が均衡する値段。それが現在の株価です。そんな、集団の心理などという不確定なものを合理的に判断することなど、誰にも出来ません」

「……そうなんですか?」千束はもう一度首をひねった。「でも、アルゴリズムって数式で出しているんですよね?」

「ええ、そうです。しかしそれは、厳密に計算する類のものではないのです」

 淡雪は千束の方に向き直った。目が合うと、淡雪はゆるりと微笑んだ。

「アルゴリズムはどういう点を重視して作るのですか?」

「貴女、ラーメンはお好き?」淡雪は笑顔のままで答えた。「マンションの裏にとても美味しいラーメン屋さんがあります。あの味を再現できたら教えて差し上げます」

「……失礼しました」

 淡雪は涼しい顔でコーヒーを飲んだ。

「あーあ」山中が明るい声で言った。「淡雪は秘密主義だからなあ」

 淡雪がちらりと山中の方を見る。視線を受けて、山中は肩を竦めた。

「千束ちゃんは凄いねぇ」瑠夏が目の中もキラキラさせて言った。目の周りはさっきからずっとラメで輝いている。「すっごく詳しいんだね」

「ええと、平山先輩も投資をするんですよね?」

「ううん。しないよぉ」瑠夏はしれっと答えた。「瑠夏は、健ちゃんがここにいるから来てるだけ。天沼さんもいても良いよ、って言ってくれたからぁ」

「ああ……」千束は二度頷いた。「そういえば、サークルの正式なメンバーではないんでしたっけ……」

「それとね、実は先輩でも無いの」

「え?」千束はしげしげと瑠夏のことを眺めた。メイクが濃いので年齢の判別が難しいが、自分よりは年上に見えた。

「だって二人はK大生でしょ? 瑠夏、違うもん」

「……はあ」

 いったいどういう経緯でこの部室に入り浸っているのだろうか。千束は訝しんだ。東がきっかけということまでは想像に難くないが、天沼がどう関係しているのかは解らなかった。

 会話が途切れる。その合間に、インターフォンのベルが鳴った。

「あれ?」

 東が中腰に立ち上がってから、首をひねった。

「今の、オートロックじゃなくて、そこのインターフォンでしたよね?」

 東は訝しげな顔のまま、壁に据え付けられた受話器を取った。

「どちら様ですか? え? ……はい、はい……」

 千束は東の後ろ姿を見遣った。困惑が背中からにじみ出ている。すぐに東は通話を切った。

「誰だった?」

「なんか、公正取引委員会の人でした。山口さんって方らしいんですけど、誰か知ってます?」

「……は?」

 東は玄関の方に向かった。本人も三十五度程度、首をひねっている。

「どうぞ」

 一番入り口に近い積に座っていた千束からは、玄関の様子がよく見えた。東が玄関の扉を少し開けると、外側から凄い勢いで引っ張られ前のめりになった。

 先頭にはスーツ姿の、強面の男が二人。その後ろには制服姿の警官がいるのが見えた。

 スーツ姿の男二人が、一枚ずつ紙を掲げた。

「警察です。金融商品取引法違反の疑いで、天沼鏑の逮捕および、室内の家宅捜索を行います」

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