第2話 ディーリングルームにおける付随した事件 -The Minor Incindent in Dealing Room-

 和泉隆平はビルを出たところで足を止めた。

 隣を歩いていた榊が訝しげに振り向く。

「お疲れ様です、先生」

 ビルの正面のガードレールに腰掛け、足をぶらぶらさせていたのは千束だった。今日は細かいチェックのブラウスに黒いミニスカートだった。制服のときの姿からあまり変化が無く、和泉は少し安心した。

「白石君、どうしてここに?」

「以前、名刺を頂いたので、それを頼りに」千束は小首を傾げて続けた。「ご迷惑でしたか?」

「いや、別に構わないけど……」

「何? 誰? この子」

 榊が半歩和泉に近づいた。

「ええと……。前にアルバイトしていた学習塾の、僕の後任講師」

 和泉はどう答えたものか迷った末に、そう口にした。

「白石千束と言います。はじめまして」

「ふうん。俺は和泉の同僚の榊誠一。よろしく」

 二人が挨拶を交わすのを待って、和泉は口を開いた。

「それで、どうしてここに?」

「はい。その、昨日のお詫びとお礼を」

「別にそんなの良いのに。バイト代だって貰ってるし……」

 首を傾げて、和泉は答えた。

「何をしてあげたんだ?」榊がにやにやしながら和泉に訊く。「こんな可愛らしいお嬢さんに」

「代講しただけだよ。急に行けなくなったって連絡が来たんだ」

「あの、そのときの経緯もお話したくて。凄いことがあったんです」

「だってよ。良いじゃん、ちょっとその辺で話でもすれば」

「うん。まあ、お礼とかお詫びとか抜きでなら」

 三人は連れ立って歩き始めた。和泉たちが働くビルは東京証券取引所の斜向かいにある。東証に沿うように三人は歩き始めた。

 四月も半ばを迎え、桜はすっかり散ってしまったようだった。青々とした葉が街路樹に茂っている。ビルの合間を吹き抜ける風もどこかねっとりとしていた。

「ところで」和泉は斜め後ろを歩く榊に声をかけた。「どうして君がついてくるんだ?」

「ディーラーとしての性だな」榊は澄ました顔で答えた。「一番賑わっている銘柄の、一番大きい注文にコバンザメのようについていく。それがディーラーってもんだ」

 三人は横断歩道を渡る。東証の裏側で、千束は立ち止まった。

「ここが東証ですよね。ニュースなんかで流れるところ。先生はここで働いてるんだと、ずっと思ってました……」

「昔はディーラーもここで立合してたらしいけど。今はネットワーク経由だから、会社の椅子に座りっぱなし」

 和泉の説明に頷きながら、千束は並んだ柱の向こう、東証の巨大なガラスの玄関を見上げていた。

「入っていけば? たしか無料で見学できたはずだよ」

「本当ですか!? 是非」

 三人はドアをくぐった。受付で入館証を貰って、二階の展示スペースに入る。千束は情報端末のデモ機を見つけて小走りに向かっていった。

「うげ。引け後にチャートなんて見たくないわ、俺」

 榊がそう呻いたが、和泉は肩を竦めただけでやり過ごした。

 興味深そうにあちこちを見て回る千束の後を、和泉と榊は付いていく。コバンザメが二匹、ビルの中を回遊した。

 すでに取引は終了しているので、特に面白い物はない。東証の歴史ブースやらティッカーを眺めていたが、しばらくして満足したのか千束が足を止めた。チープなテーブルとチェアが置かれた休憩スペースがあったのでそこに入る。和泉は自販機で三人分飲み物を買った。千束が慌てて財布を取り出すのを押し止める。

「昨日はありがとうございました」

 席に着いて千束は深々と頭を下げた。茶色いショートの髪が不規則に揺れる。

「どういたしまして。お役に立てたなら何より」

 千束が顔を上げるのを待って、和泉は問いかけた。

「それで何があったの? そのことを話に来たみたいだけど」

「はい。実は昨日は友人と一緒にサークルの見学に行っていたんですけど、そこで事件に巻き込まれまして。それで塾に行けなくなってしまって」

「事件? 穏やかじゃないなぁ……」

 和泉は缶のタブを空けて一口飲んだ。ブラックのコーヒーのえぐい苦みが舌を刺す。

「ところで、何のサークル?」

「投資サークルです。株とかFXとか」

「そんな興味持ってたんだ」和泉は思わず首を傾げた。「知らなかった……」

「そんなことより事件って何?」

 榊がそうせっつく。千束は慌てたように居住まいを正した。

「はい。そのサークルは、部室としてキャンパスの近くにマンションの一室を借りていて、そこを見学していたんです。デイトレーダーをしている先輩が何人もいらっしゃって、話を聞かせて貰っていました。そうしたら、急に警察が入ってきて、先輩の一人を逮捕しました」

「……へえ」

「そりゃ凄い場面に居合わせたもんだ」

 和泉と榊が素直に驚く。千束が少し胸を張ったように見えた。

「ところで、罪状は?」

「金融商品取引法違反って言ってました。見せ玉らしいです」

「見せ玉ねえ」榊がぼやいた。「まあ、ありがちな話だ」

 和泉も黙って頷いた。株取引関係で逮捕という話題が出ると、罪状は見せ玉かインサイダー取引のどちらかがほとんどだ。その中でもディーラーやデイトレーダーは見せ玉、一般の個人投資家や会社役員はインサイダーが多い。

「見せ玉って話には聞きますけど、具体的にはどんなものなんですか?」

「約定させるつもりのない注文を出して、株価を操作する行為のことだね。例えば……」和泉は顎に手をやった。

「白石君が大量の株を持っていたとする。それで、今よりも少しで良いから高い値段で売りたい。だけど中々値上がりしない。なので、今の株価の下に、いかにも買いたいような素振りで、大量の買い注文を出す。安い値段だから取引は成立しないけどね」

「それを見た他のディーラーが、先回りして上を買うわけだ。下から値上げしてきたときに売ろうと思ってな。株価が上がったところを見計らって、元々持っていた株の売り注文を出す。それから素知らぬ顔で、下に指してた偽の買い注文を取り消す。無事、高値で売れました、ってわけ」

 和泉を引き継いで、榊が説明した。千束はそれを聞いて首を傾げた。

「何だか聞いている限りでは、それも一つのテクニック、という気がしますけど」

「おいおい」

「聞いているだけだとそうかもね。でも実際に市場に参加している身としては、そんなことされたら堪ったもんじゃない。立派な犯罪行為だから刑事罰も受けるし、課徴金だって課せられる。自分で取引するつもりがあるなら気をつけて」

 和泉は一応釘を刺しておいた。千束がこくりと頷く。それから缶の紅茶を一口含み、また話し始めた。

「それで、逮捕された先輩と一緒に、参考人として警察に色々質問されてしまいました」

「ふうん」和泉は首を傾げた。「何か参考になる情報を持っていたの?」

「いえ、たまたま部室にいただけです。なのに連れて行かれてしまって……。先生に連絡するにも警察の許可が必要でした。実はあの電話をしていたとき、後ろに警官が立って話を聞いていたんですよ。もう、今思い出しても信じられない……!」

 話ながらそのときの気分を思い出したのか、千束は憤懣やる方ないといった風情でそう言った。

「でも、私たちはほとんど部外者だったので、早めに解放されました。悲惨だったのが他の先輩方で、自分が被疑者でもないのに、パソコンとかも全て押収。部室のパソコンで大学院の研究をやっていた先輩なんて、慌てて外付けのハードディスクを買いに行って、データをコピーして持ち出す羽目になっていました。それも全部警官の監視つきで」

「そんなに厳重なのかよ。見せ玉なんて注文履歴だけで十分判断出来るだろうに」

「余罪を疑ったんだろうね。インサイダーとか」

「それはまた」榊が肩を竦めた。「盗撮の証拠とかが見つかったりしてな」

 千束は何も反応しなかった。榊が面白く無さそうに鼻を鳴らす。

「ところで、どうして部室のパソコンで院の研究なんてやってたんだ? 普通は大学の研究室とかでやるもんだろ?」

「投資アルゴリズムの研究をしている方だったんです」

「アルゴかぁ」榊はまたぼやいた。「流出しちまえばいいのに」

 榊の気持ちは和泉にも解った。アルゴリズムの出す注文は、普通のディーラーやデイトレーダーの出すそれと特徴が異なるため、対処に困ることがある。ディーラーの中にアルゴリズム取引を毛嫌いしている者もかなり多い。もっともそのうち何割が、自分の実力不足をなすりつけているだけなのかは判らない。

「流出ってどういう意味ですか? その先輩も似たようなことを言っていたんですけど、何が問題なのかよく解らなくて……」

「アルゴリズム取引は簡単に真似できるからね。儲かってるアルゴが流出すると、みんなが同じ取引をしようとする。すると早い者勝ちになる。コロケーションって言うんだけど、取引所の中にサーバを置いて、ミリ秒単位で注文出したりし始めるんだけど、結局加熱しすぎてどこも儲からなくなる。流出しないうちが華だね」

 和泉の説明に、千束は目を白黒させながら頷いた。特に面白い話でもなかったので、これ以上解説せずに和泉は話を戻した。

「まあ、大変だったね」

「はい。でも、貴重な体験でした」千束はにっこり微笑んだ。

「ところで、その逮捕された先輩は何か言ってた?」

「何が起こっているのか、理解していない様子でした。見せ玉についてはずっと否定してましたけど」

「ふうん」榊は頬杖を突いた。安っぽいテーブルが鈍い音を立てる。「大きい注文出してると、見せ玉っぽい状況になったりするからなぁ。もしかしたら本当に冤罪だったりして」

「よっぽど何度も繰り返さないと逮捕までいかないだろう? 意図的にやっていた可能性はかなり高いと思うけど」

 千束は今度はにこにこしながら話を聞いている。そんなに面白い話題かな、と和泉は疑問に思った。

「ところで、その逮捕されたデイトレーダーってなんて名前? 俺、何人かデイトレやってる知り合いもいるからさ……。まあほとんどディーラー崩れだけど」

「天沼先輩です。ええと、天沼鏑先輩」

「天沼鏑? それってkabraじゃないの? ……そういえば昨日からブログの更新が止まってる」

「あ、もしかしてお知り合いでした……?」

 千束が一転不安そうになる。和泉は慌てて手を振った。

「いや、面識があるわけじゃないけど」榊が和泉の方を見る。「ネット上では有名なデイトレーダーだよ。何年も前からコンスタントに儲けを出してる。デイトレーダーの間では半ば伝説的な存在だね」

「あ、そういえばネット上では有名って聞きました。リアルではたかられるから伏せてるらしいですけど……」

「可能性は高そうだね」和泉は腕を組んだ。「でも、ブログとか見ていた限りだとそんなことしそうなタイプの商いじゃないと思うんだけどなぁ……」

 ブログの記述を和泉は思い出す。淡々と銘柄と成果だけを書き込むだけの日が多くて、具体的な手法などが載ることはまずない。それでも傾向としては強い銘柄についていっていることが多く、また見ている銘柄数が多いことも特長の一つだった。

「あのさ、白石君」和泉は少し声音を変えて言った。「もし出来ればで良いんだけどさ、kabraの注文履歴を見られないかな。銘柄と日時と株数が入った一覧。ネット証券で注文出していたなら、履歴は簡単に出せると思う」

「……ええと」千束は首をひねった。「頼んではみます。でも、本人もいないし、誰に頼めば良いんでしょうか。淡雪先輩かなぁ」

 千束は頬に手を当てて、そうぶつぶつ言った。少し口元が緩んでいる。それから、和泉の方を悪戯っぽい目を向けた。

「でも、どうして見たいんですか?」

「純然たる興味だね。あれだけの期間、コンスタントに利益を出し続けられる手法に対して。リアルタイムじゃないから、チャートと付き合わせることくらいしか出来ないのが残念だけど」

「ううん、まあ確かに人の手法を知ることは勉強にはなるけどなあ。注文履歴から読み解こうなんていう気はさらさら起きないね」

 和泉は理由を説明したが、榊はばっさりと言ってのけた。

「面白いですね。同じディーラーでも、全然考え方が違う」

 千束は両手の指を開いて、顎の下で合わせた。

 榊が唇を片方吊り上げて言った。

「儲かれば何でも良い世界だからなぁ。稼いでる奴が一番偉い。シンプルだろう? ま、それで捕まってちゃ世話無いけどな」




     *




 白石千束は疑問をぶつけた。

「ねえ、有紗。質問があるのだけれど」

 千束たちは秋葉原に来ていた。

 淡雪たちが押収されたパソコンの代わりを調達するという話を聞いて、千束と有紗はついてきていた。自由が丘で東の運転する車に拾って貰った。ベージュのワンボックスには東と瑠夏と淡雪が乗っていて、山中は不参加とのことだった。

 駅前の駐車場に車を置いて、電気街を巡った。パソコンの調達と聞いていたので、てっきり本体を購入するのだと千束は思っていたのだが、買ったのはパーツばかりだった。購入を決めるのはすべて淡雪で、その箱を東と千束が持って歩く。一度荷物を置きに車に戻ったほどの体積と質量だった。有紗は興味深げにきょろきょろしていた。瑠夏は退屈そうだった。

「何かしら?」

「どうして今日は服装が変ではないの? とても変だわ」

 今日の有紗はごくごく普通の格好をしていた。シンプルなブラウスの上に無地の淡いピンクのカーディガンを羽織っていて、グレイのフレアスカートを履いている。髪もただ流しているだけだ。驚くべきことにフリルもリボンも一つも見当たらない。大学入学以来の平均から大きく乖離していた。

「まず変な服装というものを厳密に定義していただきたいものですけど」有紗は口元だけにっこりと微笑んだ。危険な笑い方と言って良い。「高校時代、千束が特定の曜日だけはお洒落してきたのとは、まったく違う理由よ」

「そんな事実はありません。そもそも、制服だったじゃない」

「なら、無意識の行動だったのね。いじらしいけどいじましいこと。それにお洒落というのは服装やアクセサリではなく、心構えの問題です」

 大通りに面したドーナツ屋だった。二階のテーブル席に五人は座っている。壁際の奧に東と瑠夏。少し間を開けるように淡雪。千束は淡雪の正面に腰掛け、有紗がその隣で涼しい顔をしてコーヒーを一口飲んだ。

 有紗はいつもコーヒーを飲んでいるな、と千束は思った。そういえば、和泉も同じだった。講師室の机にはいつも、ブラックのコーヒーが置かれていた。

 千束はドーナツを一口かじった。ドーナツの代金はすべて淡雪が支払った。千束たちは固辞したのだが、荷物を持って貰ったお礼だと言って押し切られた。その理由に千束は少し釈然としなかった。

「しかし、凄い量ですね。質量も値段も」

 床に幾つも置かれた荷物を見ながら有紗が言った。パソコンのパーツが詰まった大きな紙袋が二つ並んでいる。そして極めつけは小型のキャリーカートに乗った段ボール箱。中にはパソコンのケースが入っている。淡雪が購入した際、ただのケースが意外に高価だったため千束は少し驚いた。他の難しそうなパーツやソフトウェアの方も値段が張ったが、何だか凄い機能がありそうだったので正確な判断は難しかった。

「仕方ありません。でも、モニタや通信機器、UPSが無事だったのは幸いでした」

「こんなにたくさん必要なら通信販売の方が良かったのでは?」有紗が箱の方を見遣りながら尋ねる。

「そうはいきません。ケースのエアーフローはもちろん、マザーボードのレイアウトやCPUファンの大きさ、グラフィックボードの占有スロットなどは、写真だけではイメージしづらいですから」

 それに、と淡雪は微笑んで続けた。

「有紗さんも、服やアクセサリーは通販で買うより、お店に行って選んだ方が楽しいでしょう?」

 有紗はぱちくりと眼を瞬かせてから、優雅に頷いた。

 千束はそれを横目に見ながら、ドーナツをもう一口かじった。チョコレートの部分に差し掛かり、上品な甘さが口の中に広がる。

「それにしても」東が話を切り出した。「二人から連絡が来るとは思わなかった。天沼先輩の一件で、もう二度と来てくれないと諦めてた」

「たしかに衝撃的ではありましたけど……」千束は口の中の物体を飲み込んで答えた。「元々興味のある分野ですし、何より先輩方は素敵な方ばかりでしたから」

「そうかしら?」淡雪が首を傾げる。「みんな株のことばかり考えている、変人ばかり」

「そこが良いんです」有紗が口元を緩めた。「これが、妙に新入生に優しくて色々気遣って、早速歓迎コンパを開こうなどと提案するような人ばかりでしたら、多分、初日の昼休みだけで退散していました」

「ううん」東が唸った。「小宮さんは難しいなあ」

 淡雪が小さく微笑みながら有紗の方を向いている。千束にはよく解らないが、有紗のことを気に入ったようで少しホッとした。

 今までの傾向として、有紗に対する評価は両極端になることが多い。すなわち、とても面白がられて気に入られるか、蛇蝎のごとく忌み嫌われるかのどちらかだ。その二つを隔てるものが何なのか、明確な基準を、まだ千束は持っていない。

「そういえば、今日は山中先輩は?」

「いつもの通り、部室にお籠もり。自分のノートパソコンを持ち込んで、発注出来るようにしていたみたいです。元々彼はそんなにパソコンのスペックが必要な商いの仕方をしないので。とはいえ、マシンを持ち運ぶのは面倒だということで、パーツは二台分調達していますけど」

「へえ。やり方によってパソコンの機能も全然違うんですね」

 千束の感想に、淡雪は少し首を傾けた。

「ええ。もちろんです。けれど一番大きいのは、ユーザがどれだけPCのスペックに興味があるか、かもしれません」

「なるほど」有紗は床に積み上げられたPCパーツの山を見ながら頷いた。

 ドーナツを食べながらおしゃべりが進む。千束は有紗の物言いに何度かハラハラしたが、淡雪はその度にさらりとかわしていた。

「実は、一つお願いがあるんですけど」

 話が一段落したところで、千束は切り出した。

「何かしら?」

「天沼先輩の注文履歴を見せていただけませんか? 銘柄と株数と、発注の日時の一覧」

 千束は真っ直ぐに淡雪の方を見て言った。

「え? そんなもの見てどうするの?」しかし声を上げたのは東だった。「数字が並んでるだけで別に面白いものでもないと思うけど」

「面白いかどうかは本人が決めることですけれど」

 淡雪が千束の方を見返した。値踏みするように、少し細められた眼が千束を射貫く。

「パソコン無くなっちゃったから、見られないんじゃないのぉ?」

「パソコンの方のバックアップは取ってあります。手元のデータが壊れていなければ、サークルの立ち上げからずっと履歴は残してあります。それに、証券会社の方にログが残っているので、そちらを参照すれば問題ありません」

 首を傾げた瑠夏に、淡雪は表情を変えずに答えた。目線はまだ千束の方を捉えたままだ。千束も、その目を見返す。

「履歴を見て、何に使いたいのですか?」

「チャートと照らし合わせてみたいんです。どんなタイミングで買うのか、とか傾向が見えてくるかもしれないですし、商いの参考になればと思って」

 千束は和泉との会話を思い出しながら答えた。淡雪の方を見つめ続けていることは出来なかった。

「興味深いアプローチですね。参考になる可能性が高いとは思いませんけれど……」

「じゃあ……!」

 千束はいつもより二○○ヘルツほど高い声を出した。しかし淡雪は首を二度横に振った。

「それを判断するのは私ではありません」淡雪は千束を睨むようにして言った。「天沼君が許可すればいつでもお見せしましょう」

「……解りました」

 千束は頷いた。有紗が肩に手をかける。

「その天沼先輩は今どうしていらっしゃるんですか?」

「警察に拘留中だってさ。そのうち立件されるって聞いたけど」

「面会は出来るんですか?」

 有紗が躊躇無く訊く。東は目を白黒させた。

「さあ、知らないけど……。え? 面会するつもり?」

「だって、天沼先輩の許可がないと、注文履歴が見られないんでしょう?」

 そう言って、有紗は千束にウインクした。千束は心の底から戦慄した。

「ええと」有紗は鞄から携帯電話を取り出して操作し始めた。「拘留中の被疑者と面会……正式には接見って言うのかしら、出来るみたい。一度に三人くらいは会えるのね。あら、場合によっては警察から制限がかかることもあるみたいだけど……、こればっかりは直接訊いてみないと駄目かしらね」

「有紗……」千束は戦きながら言った。「私、ドーナツアレルギーの人って初めて見たわ」

「ええ、実はそうなの」有紗はにっこりと微笑んだ。「私、ドーナツの穴を食べるとショックで心臓に毛が生えてしまうのよ」

 毛が生えている自覚があったのか。食べなくても毛むくじゃらなのではなかろうか、と千束は思ったが、口にはしなかった。

「その毛は、きっとピンクのリボンで結ばれているんでしょうね」

「ええ、もちろん。ツインテールです」

 珍しく冗談を言った淡雪に、有紗はさらりと返した。それから東の方を向き直る。

「後で良いので、天沼先輩が捕まっている場所の連絡先を教えて下さい」

「いえ」淡雪はそう言って小さく笑った。「近いうちに私も会いに行こうとは思っていましたから。その時に声をかけるようにします」

「ありがとうございます」

 千束と有紗は礼を言った。淡雪は手を左右に振ってそれに応えた。

「千束、今日はアルバイトじゃなかったの?」

「そうだけど……」千束は腕時計を見た。十五時五分前。後場が終わる間際だった。「今日は夜だけだから。時間はまだまだたっぷりあるわ」

 今日は十九時半から高校二年の数学の授業があるだけだ。先週、急遽和泉に代わってもらった授業だった。

「千束ちゃんは何のアルバイトしてるの?」

「塾講師です。四月からですけど」

「すごおい! やっぱり、頭良いんだねぇ。瑠夏には絶対出来ないよ」

「いえ、そんなことは……」

 千束は部分否定した。

「そろそろ行こうか」

 全員の皿とカップが空になったのを見計らって、東が声をかけた。異存はなく、連れ立って店を出る。また東と千束が荷物を持った。駐車場まで行って紙袋を詰め込む。淡雪はその中から部品を幾つか小さな紙袋に取り分け、手に持ったままシートに座った。

「千束」

 後部座席に千束と有紗が並んで腰掛ける。乗り込んだ瞬間、千束の耳元で有紗が囁いた。

「私、とっても楽しみだわ。和泉先生とドーナツを食べに行くの」




     *




 白石千束は疲労していた。

 五人はマンションの廊下を秒速五○○ミリメートルほどの速度で歩いていた。東はキャリーカートにPCのケースを載せて引っ張っていて、他の四人も手に中身の詰まった紙袋を持っている。地下の駐車場に停めた東の車から部室まで持っていくのがことのほか面倒だった。重い上に箱が大きくて嵩張る。油断すると紙袋が裂けそうだった。

 これだけの質量を七階まで持ち上げるための力学的エネルギーについて千束は考えた。質量と高さと重力加速度の積。エコロジーからほど遠かった。見せ玉と同じくらい不遜な行為だと思った。無理して持ち上げてはいけない。

 部室のドアの前で淡雪は立ち止まった。一度荷物を床に置いて、鞄の中から財布を取り出しセンサに押し当てる。開けた扉を東が足で押さえている間に床の荷物を持ち上げ、部屋の中に入っていった。手に重い荷物を持っているのに、その足取りはどこか軽そうに見えた。

 東、瑠夏、有紗の順で玄関に入る。千束は荷物を抱えたまま、最後尾に続いた。上がり口に荷物を下ろし、ブーツのファスナーを下ろしているところだった。

「山中君っ!?」

 部屋の中から差し迫った声が聞こえてきた。淡雪の声だった。

「先輩?」

 東と有紗が慌てて室内に向かう。瑠夏は靴を脱ぐのに手間取っていた。千束も急いで、もう片方のファスナーに取りかかる。しかし、脱ぎ終わる前にさらに二つ、意味を成さない声が響いた。それでも情報の伝達という意味である程度は機能していた。

 やっと靴を脱ぎ終えて千束は部屋に上がった。すぐ後ろを瑠夏がついてくる。短い廊下を抜けて、小走りにダイニングへ駆け込む。

 開け放しのドアから中に入る。状況はすぐに見て取れた。部屋の奧、リビングの床に山中がうつぶせに倒れていた。淡雪がしゃがみ込んで呼びかけている。東はその脇で立ち尽くしていた。

「ひゃっ!」

 耳元で瑠夏の、引きつった声がした。

「東先輩、救急車!」

「あ、ああ!」

 有紗の声に、弾かれたように東は携帯電話を取りだした。

 遅ればせながら千束も山中の脇にしゃがみ込む。淡雪と力を合わせて、彼の身体を仰向けに転がす。焦げたような臭いが鼻につく。

「あ……」

 千束は山中の顔を覗き込む。目を見開いたまま硬直していた。口も半開きで、端から少し涎が垂れている。髪が所々焦げている。息をしていないのは明らかだった。

 淡雪が山中の右手を包み込むように握る。思い直したように手首を軽く握って指を押し当てる。五秒、十秒。千束は息を呑んでそれを見守った。親指と人さし指が黒く変色している。さらに人さし指からは血が滲んでいた。

 千束も山中の左手を掴んだ。

 温かい。

 山中の手首を掴む。

 邪魔な腕時計を外す。

 針は十一時四十分頃を指していた。

 手首に指を押し当てて、

 脈動を感じようとする。

 しかし何も感じられなかった。

 それが、

 純粋に脈打っていないからなのか、

 自分の取り方が下手だからなのかは

 判断出来なかった。

 手を離す。重力に引かれて力なく山中の腕が床に落ちた。まるで引っかかるところのない落ち方だった。

「東君、警察にもお願い」

 東が携帯電話を耳から離すのを待って、淡雪は声をかけた。

「あ、はい……」

 東が項垂れるように頷く。それを確認してから淡雪はまたじっと山中を見つめた。

「……?」

 山中の頭の脇、二十センチくらい離れた場所に、円筒形の物体が落ちているのに千束は気がついた。手を伸ばして慎重に拾い上げる。

「それは?」

「ええと」千束は目を近づけた。「……スタンガン、って書いてある」

「千束……」

 有紗がぎゅっと千束の手を握る。千束はそれを握り返した。

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