異世見草紙

ジュウジロウ

黄昏時の落とし物

 ふと気を抜いたばかりにこうして道に迷ってしまうのは、この町に馴染んできたという証拠かもしれない。

 そう思いながらも、一也かずやはすっかり途方に暮れていた。

 人も車もまったく通らない道路の、四つ辻の真ん中で、もうどのくらいの時間、立ち往生し続けているだろうか。辻から伸びる四つの道のうち、帰りに道につながっている道は、どれなのだろう。なんだか、どの道を選んでもますます迷ってしまいそうな気がする。

 だからといって、このままここから動かないわけにはいかない。すでに辺りは暗くなってしまっている。けどまだ、かろうじて、薄っすらと周りの景色は見えるから。だから、今のうちに、歩かなければ。でも、どっちへ。

 空を見上げ、深まっていく夜の暗さを思わず確かめてしまう。

 明るい月が電線の向こうに見える。白い大きな音符みたいに。


 ――月。さっきは、あんなところにあったっけ。


 俺は動いてないはずだ、と、一也は自分の足元に目を落とす。街灯の光を映して黒く濡れたように見える、マンホールの蓋。自分の足は、さっき月を見上げたときもこの上に乗っていたはず。こうして、同じ場所で、同じほうを向いて、ついさっきも月を見上げたはずなのに。

 もう一度空を見ると、月は分厚い雲に覆われていた。


 さっき見たとき、月の近くに雲なんかあったっけ?


 一也は、マンホールの蓋の上でゆっくりと一回転してみる。辻から伸びる四つの道の先は、それぞれ空の色が違う。薄暗い空。まだほんのりと明るい空。その二つの間の、深い紺色の空。どの空のあるほうを目指せば家に帰り着けるのか。

 いや、待て。あっちの空は、さっき見たとき、あんなに明るかったっけ? 

歩道橋の向こうの空。この四つ辻に来る前、あの歩道橋に登って、向こうを向いて景色を眺めたから、よく覚えている。あっちは、確か空がいちばん暗いほうだったはず。日が沈んだあと、明るかった空が暗くなるというならともかく。それならまだ、さっき見たときから意外と時間が経ってたんだな、と思うこともできるけど。その逆なんて。


 おかしいぞ。どうも、この道はおかしいぞ。

 一也はようやく本当に不安を感じ始めた。


 自分の他に道行く人もなくて。車も走ってなくて。そして、今気づいたけれど、周りに民家はあるのに、どの家の中からも人の声や物音が全然聞こえてこない。それに、さっき歩道橋に登ったとき。橋の上から見た景色も、今思い出してみると妙だった。やけに明かりが少なかったのだ。街灯とか、民家の窓の明かりとか、そんなのばかりで。スーパーの看板の明かりとか、自動車専用道路の陸橋の上に連なる道路灯とか、そういうものが見えなかった。迷う前にいた場所を考えれば、そこからさほど離れたわけでもないだろうこの辺りからだって、そんなになんにも見えないなんてことは、ないはずなのだけれど。


 ここは。

 どこなのだろう。

 自分はどういう道に迷い込んでしまったのだろう。

 もしかしたら、ここは――。

 この世の道では、ないのかもしれない。


 この町なら。いや、ここがもといた世界とは違う世界だったら、あの町なら、と言ったほうがいいのだろうか。自分が住んでいる、あの町。月ノ辻町つきのつじまち。あそこからなら、こういう場所に迷い込んでも不思議はない。迷子になるとたちが悪いのがあの町だ。あの町で迷うと、気づかぬうちにこの世ではない世界――異世ことよに迷い込んでしまうことが、時々ある。そういうのは、神隠しとか呼ばれている。自分は今、たぶん、その神隠しに遭っている真っ最中だ。


 どうしよう。

 帰らないと、早く。

 帰り道を見つけないと。これ以上暗くならないうちに。これ以上深く迷い込んでしまわないうちに。でないと。なんだか。よくないことになりそうな気がする。


 辻の真ん中に立ったまま、ぐるぐる、ぐるぐる、一也は回った。でも、そうして何回周りの景色を見回しても、どちらへ行けば家に帰れるかなんて、やっぱりわからない。


 静か、だ。

 音がというよりも、気配が、周りに全然感じられなくて。ここには今、息をしているのも、心臓を脈打たせているのも、体温を持っているのも、自分一人だけしかいなくて。どんどん、どんどん心細くなってくる。


 誰か、通りかかってくれないだろうか。

 こんな道でも迷わずに歩いているような人。

 こんな道でも、帰り道を尋ねたら教えてくれそうな人。


 そう、たとえば――。


 一也の頭の中に、とある人物の顔が思い浮かんだ。

 そのとき。

「一也」

 不意に。本当に不意に、後ろから声を掛けられて、一也はつんのめって転びそうになるくらいびっくりした。ついさっきまで、周りのどこにも人の気配なんてなかったのに、その声はすぐ背後で聞こえたのだから。

 でも、それは、聞き覚えのある声だった。

 一也は振り返った。

 そこにいたのは。

「先輩……」

 その顔を見て、一也はホッとした。

「よかったあ。先輩、ちょうどいいところに……」

「そうだろう、そうだろう」

 わかってるさ、と言うように、「先輩」は笑った。

 見慣れた笑み。

 見慣れた、色。

 今日はもう、空の下のほうに沈んでしまった、黄昏時の色。それは、「先輩」の髪色だった。

 この「先輩」の髪の毛は、黄昏時と同じ色をしているのだ。

 もうすぐ夜が来ようかという、こんな薄闇の中でも。あるいは、真昼の太陽の光の下であっても。先輩の髪の毛はいつも、そこだけ、一人だけ、夕暮れの街角に立っているみたいな色をして見える。


「あのな。ここに来る途中、おまえの落としもん、拾ったからさあ」

 そう言いながら、先輩は、自分の上着のポケットに手を入れた。

「それ、渡そうと思って。追っかけてきたんだ」

「落し物?」

「ああ。ほらよ」

 と、先輩は、ポケットから取り出した「それ」を一也に見せた。

 「それ」は、ひと組の足跡、だった。

 足跡が付いている何か、ではない。ただの、足跡だけ。夕陽に照らされた道路の色をした、靴の足跡。

 先輩はそれを、ポイ、と一也の足元に放り投げた。

 すると、右の足跡が落ちた所から、少し離れた所に、新たな足跡が現れた。足跡の爪先は一也のほうを向いているから、新しい足跡は、一歩、向こうに下がるようにして。それから、左の足跡の向こうにも、同じように。右、左、右、左。足跡が増えていくたびに、靴音が鳴る。

 足跡は、ちょうど人が歩くくらいの速さで、後ろ向きに歩くように道の奥へ伸びていき、靴音も、だんだんと遠ざかっていった。

 夕陽に照らされた道路の色をした足跡は、暗くなった道の上に、ぼんやりと浮かび上がって見える。まるで、夕陽色のライトの上から、足跡の形に切り抜いた覆いをかぶせて、その光を地面に落としたみたいだ。


「おまえが夕暮れ時に落とした足跡だ。これをたどってけば、もと来た道を戻れるぜ」

 その言葉に、足跡から目を離して、一也が振り向くと。

 もう、そこに先輩の姿はなかった。

 残っているのは、ずっと遠くまで続いている、足跡の道標だけ。

 その「落し物」をたどって、一也は、薄暗がりの道を歩き出した。



                    +



 四つ辻を抜けて。

 曲がりくねった川沿いに進んで。

 石橋を渡って、その先にある、児童公園の中を通り抜けて。

 遠くに見える、古い大きなお寺の屋根、らしきものを横目に。

 シャッターの下りた、色褪せた看板の精肉店の前を、通り過ぎて。

 細い横道に入って、そこから続く田んぼの畦に踏み入って、田んぼを抜けて――。


 目に映るそれらの景色は、相も変わらず、見覚えのないものばかりだった。

 先輩は、確か、足跡をたどっていけば「もと来た道を戻れる」と言っていたのに。本当に、これが自分の通ってきた道なんだろうか。一度通ったはずの道を、こんなにも、全然覚えていないものだろうか。でも、夕暮れ色の足跡は、間違いなくこっちに続いている。


 一也は、なんだかまた不安になってきた。

 さっき出会った、あの人。

 あれは、本当に、自分の知っている「先輩」だったのだろうか。

 もしかしたら……。

 いやな想像が膨らんでいく。

 もし。もしも。

 この世界に迷い込んできた人間を、待ち受けて。さらに深く、深く、二度ともとの世界に帰れなくなるような場所まで、誘い込むような。そんなモノが、ここにいたとしたら。

 運悪く、そんなモノに、出会ってしまっていたとしたら。

 だったら、この足跡は。

 これは、本当に、自分の足跡なのか?

 そうだ。せめて、それだけでも確かめてみよう、と一也は思った。


 道端にしゃがみ込んで、足跡をじっと見つめる。それから、履いている靴を脱いで、その靴を、足跡の上に重ねてみる。

 ぴったりと重なった。大きさは、どちらも同じか。

 じゃあ、足跡の形は、どうだろう。

 靴を裏返して、靴の裏と、足跡の形を、一也は見比べた。


 ――違う。


 並べてみると、それは一目瞭然だった。靴の裏に刻まれた、溝の形とか、配置とかが、全然違っていた。足跡のそれに比べて、自分の履いているこの靴の裏側は、なんだかやけに安っぽいというか、手抜き感のある造りだ。実際に安物だったから、そこはしょうがないけども。


 ともかく、だ。

 やっぱり、これは、自分の靴の足跡じゃない。

 一也は再び途方に暮れる。

 どう、すればいいだろう。これから。

 進むか、引き返すか。

 引き返したってどうにもならないのは、わかりきってる。もともと道に迷っていたのだから。迷う前に歩いてたところまで戻れなきゃ、意味がない。けど、だからって、このままこの足跡をたどって進めば、どんな場所にたどり着くやら、わかったものじゃない。


 一也は、地面の足跡に目を落としたまま、溜め息をついた。

 そのとき。

 一也は、ふと気づいた。

 この足跡、最初に見たときよりも、なんだか色が薄くなっていないだろうか。

 どうも、そんな気がする。足跡をたどって歩き始めた頃は、もっとこう、夕陽に照らされた道の色が、夜道にくっきりと……。

 ――夜道?


 一也は、足跡から顔を上げて、周りを見回した。

 夜、じゃない。いつの間にか、周りの景色は、夕暮れの名残を残す色に染まっていた。その色の中に、足跡の色がいくらか溶け込んで、それで、色が薄まったように見えたのだ。

 この足跡を、遡るようにたどって、歩いてきたからだろうか。

 なら、このままもう少し、この足跡を遡っていけば……。


 一也はまた歩き出した。

 とにかく、見知らぬ夜の町から離れたくて。さっきまでの不安も忘れて。歩けば歩くほど、 おぼろげになっていく足跡を見失わないよう、地面だけを見つめながら、足を速めた。

 道の色と、足跡の色は、どんどん近づいていって。

 やがて、足跡の色が、完全に周りの色の中に溶けて、見えなくなった。


 顔を、上げる。

 その途端、人ごみと雑踏が、一也を包んだ。


「――あれ?」

 一也は、そこはかとなく見覚えのある駅前に、立っていた。

 知っている場所、ではあった。今までに、一度か二度、訪れたことのある駅だ。周りに人もたくさんいる。さっきまでいた町のような、おかしな雰囲気もない。

 ここは、夕暮れ時の、月ノ辻町だ。

 帰ってきたのだ。あの、この世ならぬ世界から。

 ――でも。


「よう、一也」

 声を掛けられて、一也はハッと振り向いた。

「先輩……」

 一也は、戸惑いながら、わざとらしいくらい笑顔の先輩を、睨みつける。

「先輩。どういうことですか、これ」

「え? 何がだ?」

「何がだ、じゃないですよ。先輩、あの足跡をたどってけば、もと来た道を戻れるって言ったじゃないですか。ここ、全然もと来た道じゃないんですけど。道に迷う前、こんなとこ立ち寄った記憶ないですよ俺!」

「いやあー、はっはっは」

 先輩は、決まり悪そうに笑って、頭を掻いた。

「わりーわりー。どうやら、おまえの足跡と間違えて、別のやつが落としてった足跡、渡しちまったらしい」

「ま……間違えちゃうようなものなんですか? そういうの……」

「いや、道理で。お前の靴にしちゃ、高そうな靴の裏の足跡だと思ったぜ」

「悪かったな、貧乏で!」

 ここが自宅から徒歩二時間の駅でも、電車を使って帰ろうとは思わないくらいにな……。

 と、一也は低く小声で吐き捨てた。


「先輩。一応聞きますけど、先輩って、今、手元に電車賃とか……」

「一銭も持たんぞ。俺は基本的に、電車もバスも使わねえし」

「そうですか……」

 うなだれて、一也は深く溜め息をついた。

「まあ、そう落ち込むな」

「あんたが言うな」

「まあまあ。お詫びにさ、今日は、これ以上道に迷わねえよう、俺が家まで送ってってやるからよ」


 と、いうわけで。

 一也はそのあと、先輩といっしょに、約二時間の道のりをたどって、家に帰ることになったのだった。

 夕暮れ色の足跡を、遡ってたどって。あの夜の町から、せっかくまた、夕暮れ時に戻ってきたというのに。

 結局、家にたどり着いた頃には、再びとっぷりと日が暮れていた。





 -終-

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