第六章(三)

 天井から落ちた硝子の欠片が沈黙を破った。花暖は欠片が落ちてきた場所を見上げた。何発も銃弾があたった焼絵硝子の天井だが、幸いにも隅の方にいくつかの穴は空いているものの、中心のキリストや天使たちはなんとか無事なようだ。

 しかし壁などは酷いものだ。古いせいもあって、弾があたった所は大きなクレーターになっていて、クレーターの下には壁の粉が小さな山を築いていた。

 改めて空しさが花暖を襲う。

 絶望にうちひしがれる中、亜麗亜が、自分を見上げていのに花暖は気づいた。目に涙を浮かべている。余程、怖かったのだろうと思い、抱きしめてやろうとした時だ。亜麗亜が両手で花暖の胸を叩いた。表情をよく見ると、何かを懸命に訴えようとしている。口が半開きになり、口が小刻みに震えている。

「ダメ………歌をあんな風に使っちゃ」

 一年ぶりに聞く、亜麗亜の声だった。

 涙ながらに花暖を責める亜麗亜を、花暖もまた、頬を濡らしながら見つめた。抱きしめることもできずにただ立ちつくす。

 誰よりも歌うことが好きな亜麗亜にとって、『武器』として歌を使用した花暖は許せなかったのだろう。そして、その行為が亜麗亜の心の叫びを爆発させた。

 震える腕を、ゆっくり亜麗亜に差し出す。

「ごめんね」亜麗亜を抱き寄せて、二人は床に膝をついた。「お姉ちゃんが悪いの。ごめんね」

 それ以上の言葉もなく、ただ泣いている花暖の耳に、大勢の足音が聞こえて来た。これだけの騒ぎをおこしたのだ、ばれないわけがない。来るべき時が来たのだ。覚悟はできていたが、やはり身が縮み上がる思いだ。

「カノンたちは、さがっていろ」

 レオの言葉に従い、ミチルと共に礼拝堂の隅に移動する。

「そこで座って、抱き合うんだ」ハリーが指示する。「震えているんだ。君たちは、我々に無理やり連れて来られて、コレットたちに襲われた。いいな」

 事前の約束通り、失敗した時は二人が全責任を取る。

 扉が勢いよく開くと、槍をかまえたスイス兵がなだれ込んで来た。二人は抵抗しない。あっさりと捕獲された。

 花暖たちも捕獲されないまでもスイス兵に囲まれている。

 でも、逮捕されることよりも亜麗亜の方が心配だ。せっかく、声が戻ったのに、こんな怖い思いをしたら、また声を失ってしまうのではないかと思うと気が気でない。

 扉付近を固めていた兵士が、左右に割れた。兵士の間を歩いて来るのは、ガザーロ国務長官だ。

 コレットに襲われて時間の感覚が無くなっていた。そうか、コンサートはとっくに終わっていたのだ。

 国務長官は、捕らえられて膝をついているレオとハリーの前に立った。

「何の真似だ。こんな所まで何をしに来たのだ、お前たちは」

 国務長官が吠えたせいか、もろくなった天井の焼絵硝子の破片が、ぱらぱらと落ちた。

「こう見えても、カトリック信者なんですよ。少しでも神様の近くに寄りたいと思いましてね」

 レオの軽口に呆れたのか、国務長官はハリーを見た。

「これは、我々のプライドの問題です。国と国との駆け引きに巻き込まれた、一個人としてのささやかな抵抗。でもそれに、彼女たちを巻き込んでしまった。我々が国から受けた屈辱を、逆に我々が彼女たちに与えてしまって、申しわけなく思っている。彼女たちは私が騙して連れて来ました。彼女たちに罪は無い。開放してやって下さい」

「ここに倒れている神父たちは。彼らに何をした」

「それは、彼らに聞いて下さい。特にコレット神父に。何のために銃や剣を用意して、我々が忍び込むのを待ちぶせしていたのか。事前に察知していながら、あなたに報告しなかった訳を」

 その言葉に、コレットの存在を思い出した花暖は、神父の姿を捜した。

 コレットは縛られたまま、芋虫のように体をくねらせ、「マンマ、マンマ」と呟きながら、黒い聖母の絵に向かって移動している。精神が壊れたのだろう。

 ガザーロは、床で痛さに苦しんでいる他の神父を締め上げて、事情聴取をした。

「優秀だと思っていたが、くだらん男だったようだな。所詮、エリートなんて、こんなものか。全く、役に立たん」

 花暖にはその言葉が許せなかった。コレットが可哀相だからじゃない。聖職者の、それも教皇に次ぐカトリックの最高位にある聖職者の口から、人間を否定する言葉が出たのがショックだった。

「あなたこそ、最低の人間です」花暖は、自分に向けられている槍をつかみ、立ち上がった。「あなたが本当に、イエス様の教えを理解しているとは思えません。それじゃ、コレット神父と変わらないじゃないですか」

 ザガーロが、花暖に近づく。その様子を花暖は視線を逸らさず睨つけている。

「私は、人生の全てを信仰に捧げて来たんだ。こんな、自分の信仰に迷った、革命家まがいの男と一緒にするな」

 国務長官の、声の風圧に飛ばされそうだ。

「信仰とは、人々を幸せにするためのもの。でも、あなたの信仰にも、コレット神父の信仰にも、他人を導こうとする姿が見えないわ。ただの自己満足よ。権力を手に入れるだけの道具に過ぎないのよ」

「馬鹿な。今でこそ、一線を退いているが、若い頃は教会を預かり、戦時中は信者たちの先頭に立ち、反戦運動もやった。投獄され、殺されそうにもなった。それでも、平和のために戦ってきたんだ。それを、こんなやつと同じだと言うのか」

「人の命を軽く見ている点では同じです。あなたは、教皇様の命を狙ったわけじゃないですが、助けようとしたのでもありません」

「そんなことはない。教皇が倒れてから、どれくらい私が働いたか知っているのか」

 ガザーロは、薄暗い中でも、はっきりわかるくらい顔を赤くして怒鳴る。

「それは、教皇様のためじゃなく、ご自分の権力への執着、ただの自己満足です。あなたの心に少しでも、教皇様を目覚めさせようという気持ちがありましたか」

「いや、それは」

 ガザーロの表情が、怒りから狼狽に変わった。

「教皇が倒れ、意識が戻らないとわかった時には、既に後継者選びを始めていたんじゃないですか」

「それのどこがいけない。国を預かる者として当然じゃないか」

「そうかも知れません。でもそれは、やるだけのことを、やってからでもよかったんじゃないでしょうか」

「これは神に誓って言う。私は、教皇が倒れたのを喜んだことなど、一度もない。確かに、教皇とは教義上の解釈の違いで、衝突していたが、聖職者として、人の死を望んだりしない」

 一気にそれだけ言うと、ガザーロは黙り、花暖を見つめた。そして、ややあって、静かに口を開いた。

「私は、どうすればいいんだ」

「国務長官」

 ミチルが花暖の両肩に手をかけて訴えた。

「花暖に歌わせて下さい。最後の望みに賭けて下さい。お裁きはそれから受けます」

 国務長官は、一旦目をつむり、考えこむ。そして、再び目を開けた。

「わかった。明日にでも準備に取りかかろう」

「いいえ、今すぐお願いします。花暖の感情は、今までにないくらいに高ぶっています。教皇様の心に届く歌を歌えるのは、今この瞬間しかありません」

「場所は」

「この礼拝堂です」

 ガザーロが、スイス近衛兵に向かって叫んだ。

「教皇を、お連れしろ。すぐにだ。全責任は私が持つ」

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