第六章(二)

 ノブの回る音に驚き、花暖は祭壇に走った。レオとハリーは花暖の行動にただならぬものを感じたらしく、花暖たちを祭壇の陰に隠し、自分たちはその前に立ちはだかっている。花暖は祭壇から少しだけ顔を出して扉を見つめた。

 扉が音も無く開く。普段の二人なら入って来る人物を取り押さえるところだろうが、今の状況ではそれができない。何もしなければ、迷い込んだと言い訳ができないでもないが、下手に動くと教皇暗殺犯として逮捕されてしまう。

 廊下の薄明かりが扉を開けた人物の姿を浮かび上がらせた。黒く長い丈の服に赤い帯。神父さんだ。これなら何とか言い逃れができそうだ。花暖は安堵のため息をついた。

 しかし、その神父が扉を閉める瞬間、神父の右手に光る物が見えた。あの形は間違い無く拳銃。花暖の緩みかけた気持ちが一気に緊張した。

「動かない方が、賢明かと思いますよ。私を倒したところで、扉の外には仲間が待機していますから。もはや、あなたたちに逃げ場はありません」

 銃口を祭壇に向けて神父が近づいてくる。顔はまだよく見えないが、声には聞き覚えがある。中庭で練習している時に会った変な神父だ。

「見た顔だな、あんた」

 レオには顔が見えたらしい。それに神父を知っているようだ。

「アメリカの教皇猊下の病室以来です」

「そうそう、コレット神父さんだっけ。それにしても、神父さんにしちゃ、えらく物騒な物を持っているじゃないか。使い方は知ってるのかい」

「あなた程ではありませんが、安全装置をはずして、引き金を引く。それだけ知っていれば十分だと思いますよ」

 コレット神父が、部屋の中央に立ち止まり、花暖たちに向けた銃口をさらに腕を伸ばしてかまえる。

「デザートイーグルか。カトリックの坊さんにイスラエル製の銃なんて、洒落がきついんじゃないか」

「主は言われた。汝の敵を愛せよ」

 薄笑いが腹立たしい。

「これまで我々の邪魔をしていたのは貴様なのか」

「動かないで下さい」コレット神父がハリーを制止する。言葉こそ丁寧だが、暗闇の中で瞳が異様に光っている。「私に教皇猊下を襲撃したり、FBIアカデミーに火を放ったりする力などありませんよ。やったのは全て、反教皇のテロリストです」

「やけに事情にくわしそうじゃないか。どこから仕入れた情報だ」

「いろいろと教えて下さる方がいらっしゃいますので」

「その情報を持ってテロリストの一味に加わったってわけだ」

「心外ですね。こう見えても私は聖職者ですよ。それが犯罪組織に加わるなどあろうはずがありません。それに守秘義務があります、知り得た情報を他人に漏らすなんて考えられませんよ」神父は不敵に笑う。「しかし、私もまだまだ修行中の未熟者です、ついうっかり口を滑らす、なんてこともあったかも知れません」

「その相手が、たまたま教皇の命を狙うテロリストや犯罪組織で、しかもその相手が欲しがっている情報だけ、口をすべらしたって言うのか」

「犯罪者にも信者はいます。可能性としてはゼロではないでしょう」

 本来、人を幸せにする聖職者が、こともあろうに、人の命を奪おうとするなんて。神父の勝ち誇った態度に花暖は憤りを感じた。

「しかし、我々をどうする気だ。このままでは、貴様も言い逃れは出来ないぞ。我々と一緒に逮捕されるつもりなのか」

「いいえ、逮捕されるのは、あなたたちだけですよ。罪状は、コンサートに乗じて館に忍び込んでの絵画、美術品の窃盗といったところでしょうか。あなた方の身柄はヴァティカンが拘束し、ヴァティカンで裁かれます」

「俺たちが裁判で、お前のやったことを喋るとは思わないのか」

「ここで、私の言葉とあなたたちの言葉のどちらが、信用されると思いますか。私のようなまじめな聖職者と、教皇の館に忍び込んだ不審者の言葉と」

「いい加減にして」祭壇の陰に隠れてやり取りを聞いていた花暖だったが、神父の傲慢な態度に我慢できなくなり飛び出した。

「あなたは恥ずかしくないんですか。カトリックの人は皆、教皇様を尊敬しているはずです。それなのに、その教皇様の命を狙うなんて、カトリックの神父として失格です」

「おやおや、ついこの間まで心が病んでいたとは思えない程、元気なお嬢さんだ。そのまま、落ち込んでいてくれれば、私もこんな真似をする必要もなかったのに。練習中のあなたの歌を聞いた時は、大変素晴らしくて、絶望的でしたよ」

「よくもそんなことを」花暖はたまらず、目に涙を浮かべた。「イエス様の前で罰当たりな。それにマリア様も見ているのですよ」

 花暖は祭壇に振り返り、その上に掲げられたイエス像と黒いマリアを見上げながら、神父を諫めるように言った。

「マリアだと」神父の表情から、余裕の笑みが消えた。「そんな者のために、私の信仰心があるのではない。何が聖母だ。何が天使の女王だ。そんな女、ただの貧しい田舎娘にすぎん。神と同列に並ぶなど、おこがましい」

 突然のコレットの変貌ぶりに、花暖は驚愕した。神父の穏やかだった声が、喉から絞り出すような雑音になる。まるでホラー映画で見た、悪魔が乗り移った人のように。

「でも、イエス様がこの世に出て来られたのも、マリア様がいたからじゃないですか。それは聖書にも書かれていることです。彼女もまた、神に選ばれた人なんですよ」

「黙れ。マリアなど、主が降誕なされるための単なる通過点だ。マリアでなくても、誰でもよかったのだ。現にマリアは、主の他にもヨセフとの間に子供を作り、肉体の快楽に溺れているではないか」コレットの声が小刻みに震える。

「あの女こそ魔女リリトの生まれ変わり。男を惑わし狂わせるものだ。ただの売女なんだ。主でさえ誘惑していたに違いない。それに飽き足らず、今度は私までも誘惑しようとしている。私の、この崇高な信仰心を惑わし、地獄に導こうと画策しているんだ。あんな物、私が教皇になった時には、即刻ぶち壊してくれる」

 尋常ではなくなったコレットの顔が激しく歪む。

「あなたは寂しい人。あなたに悩める人を救うなんて無理です」

 花暖は神父に恐怖よりも、哀れみを感じた。

「そんな目で私を見るな」一言叫んだかと思うと、今までの歪んだ表情が消え、まるで無表情になった。「終油の秘蹟は私が授けましょう」

 コレットの銃口が、花暖に向けられた。すかさず、ハリーが盾になるが、それが精一杯のようだ。神父との間には距離があり、飛びかかろうにも、それまでに発砲されてしまうからだ。

「マリアの側で死ねるんだ、天国行きは間違いないだろう。幸運に感謝しなさい」

「汝殺すなかれってのを、聞いたことがないのかい」

 レオが言った。

「肉体とは、霊の入れ物に過ぎません。肉体を破壊するということは、霊を開放するということです。さあ、あなたたちを悪しき肉体から開放してあげましょう」

 このままでは、自分でなくても、誰かが撃たれる。でも、こんな時に自分に出来ることなんて何もない。どうすればいいの。

 半ば混乱した状態で神父を見つめ直した花暖は、神父の立っている場所が、さっき花暖が立っていた場所なのに気が付いた。あそこは音の集中する場所。それにコレット神父は花暖のような、異常な程の過敏な耳の持ち主だ。

 一か八か花暖は歌い始めた。

 歌を歌うと言うよりは、さまざまな音を出していると言った方が正確だろう。二つの音程を交互に素早く鳴らす、トリルという技法だ。通常は二度の音程差で鳴らすのだが、花暖が今出している二つの音は、AとE♭のような相容れない音程ばかりだ。

 普通の人間にはどうということはないのだが、花暖やコレットのような人間には耐えられない苦痛となる。しかも、コレットの立っている場所には、あらゆる場所から反射した花暖の出した音が、何重にもなって飛び込んでくるのだ。

 花暖には、コレットの今の状態がはっきりわかる。まず、気分が悪くなり吐き気をもよおす。次に目の前の光景が歪んで見える。自分が立っている感覚がつかめない。恐らくそのまま倒れても気が付かないだろう。


「や、止めろ」

 意識が朦朧としているコレットが、花暖たちに向けていた銃口を逸らした。

 その瞬間を、レオたちが見逃すはずがなかった。二人は、ほぼ同時に行動を開始した。打合せをしていたかのように、各々が別々に動いた。

 ハリーが、花暖の体を床に伏せさせる。花暖は一瞬、悲鳴をあげ歌を止めた。そしてハリーにの誘導に従った。

 その間に、レオがコレットに向かって突進している。

 花暖の歌が止まって、態勢を持ち直したコレットがレオに銃口を向けるが、時既に遅しで、レオがコレットの銃を持つ手をつかんだ。

 そのまま、銃を取り上げられればよかったのだが、コレットの抵抗が激しく、思うようにいかない。

 苦し紛れにコレットが発砲する。弾丸は礼拝堂の壁を破壊する。何百年の歴史が染み込んだ壁が、白い煙をあげて無残にも崩れ落ちる。それだけではない。放たれた弾丸のいくつかは、天井を色鮮やかに覆っていた焼絵硝子に命中し、硝子の細かな破片がもみ合う二人に降りかかった。

 二人は硝子の破片で血を流しながらも、銃を奪いあっている。

 レオがなんとか銃を叩き落として、コレットをねじ伏せた時、扉が開いた。外で待機していたコレットの仲間が、中の騒ぎに気が付き入ってきたのだ。

 だがそれは、予測済みだ。レオがコレットともみ合っている間に、ハリーは既に扉に走っていた。

 仲間は五人。しかし、いかに数で勝ろうとも、神父と訓練を受けたFBI捜査官とでは勝負は見えている。

 一番最初に入って来た神父の顔面に拳がめり込む。鼻が折られた神父は、その場に血だらけになって、気を失って倒れた。

 後に続く二人の内の一人は、ハリーの回し蹴りに腹をやられ、もんどり打ってうずくまった。

 片割れの神父は、果敢にもハリーに飛びかかったが、あっさりと投げ飛ばされ、頭から床に激突した。

 一人が、刃が波打った大きな剣を振りかざして襲いかかった。恐らくスイス兵の武器庫から持ち出したのだろう。

 しかし、ハリーに動揺はない。いくら大きな剣でも当たらなければ、棒きれとなんら変わりはない。

 案の定、神父は剣に振り回されてハリーに切りかかるどころではなかった。一刀目をかわされ、床に火花が散った瞬間、後頭部に一撃をくらい、前にのめり込んだ。

 残る一人は、その惨劇に恐れをなして背中を向けた。しかし、その僧衣の襟首をつかんで勢いよく引っ張る者があった。ハリーではない。ハリーは剣を振り回した神父を取り押さえている最中だ。

 レオだった。コレットをネクタイで縛り終えたレオが、格闘に参加して来たのだ。レオは神父を後ろ向けに投げ飛ばし、神父は頭から床に落ち、鈍い音と共に沈黙した。

 危険が去ったことを確認した花暖、亜麗亜、ミチルが、泣きながら縛られて床に横たわっているコレットを横切ってレオとハリーの側に駆け寄った。

 全員は無言で見つめ会った。これで全てが終わったことを覚悟していた。

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