第六章(四)

 教皇がストレッチャーで運び込まれた。崩れた壁の粉と硝子の破片を踏みながら、部屋の中央に進んだ。

 コレットたちは、既にスイス兵によってどこかに連れて行かれた。恐らくこれから取り調べが始まるのだろう。ただしコレットはそのまま病院送りになるだろう。

 レオやハリーは、拘束を解かれ、花暖たちと一緒に教皇を待っていた。

 教皇のストレッチャーに車輪の固定をすると、運んできた人たちは部屋を出ていった。

 扉が閉められ、礼拝堂の中にいるのは、花暖たちの他には、ガザーロ国務長官がただ一人立ち会う。

 礼拝堂のあちこちには、燭台が点々と並べられている。教皇を包む白いシーツが蝋燭の明かりで、オレンジ色に染められる。また、床に散らばった硝子の破片が、蝋燭の明かりを反射し、まるで星空に浮かんでいるようだ。

 花暖は燭台の間を抜けて、亜麗亜を伴い祭壇にゆっくりと向かう。

 教皇が運び込まれる間、何の歌を歌えばいいのか悩んでいた。その答えを教えてくれる者はだれ一人いなかった。ミチルに聞いても首を横に振るだけ。亜麗亜にしても、いくつかの候補は上げてくれたが何となく相応しくないような気がした。

 祭壇の前に立ったものの、まだ迷っている。

 振り返り、黒い聖母の絵を見た。アヴェ・マリア。それも考えた。でも誰のアヴェ・マリアを歌えばいいのだろう。シューベルトかグノーかストラビンスキーか。過去二千年の間に、数々の音楽家によって作り出された無数のアヴェ・マリアの中から、どれを選べばいいというのか。

 しかし、花暖の心に引っかかっているのは、歌の題名だけではなかった。さっきのコンサートの時のように、歌詞にたより、本当の自分の心の表現ができないのではないかという、不安があったからだ。

 いっそのこと、スキャットで歌ったらどうだろうと考え始めた時だった。再び花暖の脳裏に、アヴェ・マリアの文字が浮かんだ。そうだ、あの曲なら歌えるかも知れない。

「あっちゃん、あの歌覚えてる。米山先生の家で教えてもらった、アヴェ・マリア。あっちゃん一緒に聞いてたでしょ」

「うん」

 大きな声で返事をした亜麗亜に頷き、体を回し、教皇を見つめた。そして、瞳を閉じると、右手で亜麗亜に合図を送り、歌い出した。

 花暖は自分の経験を、教皇の人生と重ね合わせた。

 このストレッチャーに横たわる老人は、教皇に在位してから、常に命を狙われているのだ。反キリスト教徒、革命を隠れみのにした破壊活動をするテロリスト。そんな人たちに脅えながら生きていたのだろう。

 そして、よりにもよって、自分の仲間に裏切られ、意識が戻らなくなり、未だ夢の世界から戻ることが出来ないでいる。

 教皇と自分とでは年齢も国籍も性別もまるで違う。しかし暴漢に襲われ、目の前で祖父を殺された。そして、未散が仕組んだ芝居とはいえ、誘拐され、銃で脅され、死ぬ思いをした。その恐怖、悔しさ、惨めさは痛い程よくわかる。

 願わくば助けてあげたい。目覚めさせてあげたい。自分はカトリック信者でも、キリスト教徒でもないけれど神に祈った。

 いや、祈るべきは神よりもマリアだ。

 執り成しの聖母。神と人との間に位置し、最後の審判の際には、死者の罪の軽減を執り成すと言われているマリア。もし、この老人が罪を犯したのなら、許してあげて下さい。これまで、数々の奇跡を起こした、あなたなら出来るはずです。この人が、このまま目を覚まさなければ、均衡が破れ、紛争や戦争を起こす国が現れるかも知れません。真に平和を願うならば、今一度、奇跡を見せて下さい。

 花暖は歌っているのを忘れるくらいに、必死で祈った。気が付いた時には、目を明けていた。喉の感触から、自分が歌っていたことが感じ取れた。

 こんなに、夢中で歌ったのは初めてだ。この歌い終わった後の、清涼感と昂揚感は、今まで味わったことがない。辺りを見回すと、礼拝堂内にいる誰もが、微動だにせず、たたずんでいる。

 しかし、花暖の耳には無数の拍手が聞こえた。まるで、天界にいる精霊たちが、礼拝堂に集まって来ているようだ。

 花暖が求めていたのは、これかも知れない。誰かに上手に、歌を聞かせるのではなく、自分のありったけの思いを歌に込めて、それを世界中にとどける。目の前の観客はその一部でしかなく、自分の相手は、地球上の全ての人だ。いや、それだけじゃなく、動物や植物、生きとし生けるもの全部なのだ。特定の相手だけに聞かせるものではない。花暖はそう感じた。

 恐らく、今の歌も、教皇に聞かせたのではないのだ。花暖は自分の祈りを、天にとどけようとしたのだろうと思った。だからこそ、自分でも納得できる歌が歌えたのだ。

 改めて、教皇を見つめた。夢の世界にいる教皇にも、歌がとどいたのだろうか。

 教皇は眠ったままだ。しかし、教皇の周りに、不思議な現象が起きていた。礼拝堂の床中に散乱していた硝子の破片や壁の粉が集まり、正三角形を四つずらして重ねた大きな、一二の角をもった星が教皇を取り囲んでいた。

「クラドニの音響図形だわ」頬を濡らしたミチルが言った。「でも、こんなの信じられない。まさに奇跡よ」

 その言葉を聞きながら、花暖は祭壇を離れ、教皇に近づく。

 教皇の横に来ると、花暖はシーツの下から教皇の腕を出し、手のひらを強く握った。すると、その手が握り返して来たのだ。

 はっとして、教皇の顔を見る。そこには、潤んだ瞳を見開き、無言で頷く教皇がいた。

 花暖は一瞬驚いたが、もう一度、手を強く握り、笑顔で教皇に応えた。その瞬間、花暖は自分の意識が遠くなるのを感じた。

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