第五章(三)
レオナルドダヴィンチ空港は、一昨日テレビで見た光景が嘘のように、平静さを取り戻している。
この空港に降り立つは二度目だ。この空港は現地ではフィウミチーノ空港と呼ばれていて、前回来た時に空港を間違えたのかと少々戸惑ったことを覚えている。
何故かわくわくする。期待感と緊張感が入り交じった変な気分だ。前回の時とは全然違う。この前はただ言われるままに歌いに来ただけ。イタリアだろうが、日本だろうが、アメリカだろうが、花暖には大した違いは無かった。仕事の疲れと、旅の疲れが残っただけで出来ればもう来たくないと思っていた程だ。
だが今回は、大きな目的がある。歌う理由がある。不謹慎かも知れないが、楽しさの方が、花暖の心の大半を占めている。
突然、花暖の背中に誰かがぶつかった。
驚いて振り向くと亜麗亜だった。感慨にふけっていて足が止まっていた。そこに、すぐ後ろを歩いていた亜麗亜がぶつかったのだ。
散々迷ったが、結局、亜麗亜を連れて来た。
始めは主任の家にでも、二、三日預かってもらい父に迎えに来てもらおうと思っていた。しかし、亜麗亜にそれを伝えると本人は非常に嫌がった。花暖やミチルと離れるのが嫌なのが一つの理由。 それともう一つ、花暖と違って亜麗亜は前回のイタリアでのコンサートを楽しんでいた。またやりたいと黒田にせがんでいたくらいだ。だから、イタリアに行くと聞いた時は、その直前まで鬱の状態だったのが途端に元気なった。
治療の一環として連れて行くのいいだろうという、ミチルの勧めもあって、同行させることにした。
税関を出た所で迎えに来てくれているはずの人を探す。前に来た時に世話をしてくれた人が来ると聞いている。黒田とも合流するのだが、彼の乗った便は今夜の最終の到着便の予定だ。
しばらく探していると、巨大な体を揺すって駆け寄って来るおばさんがいた。見覚えのあるおばさんだ。サンタ・チェチリア音楽院の職員で前に来た時に世話になった。ものすごく人なつっこいおばさんだ。名前を確かイザベラと言った。
この音楽会は、主催はヴァティカンだが、窓口となっているのはサンタ・チェチリア音楽院なのだ。
花暖はおばさんの体当たりの洗礼を受け、そして抱きしめられた。亜麗亜も同じように洗礼を受けた。亜麗亜の場合は自分から突進して行った感じだ。
過激な挨拶が済むと、イザベラおばさんはミチルたちの存在に気付き驚いていた。黒田と花暖の二人だけだと思っていたので当然だろう。亜麗亜がいることさえびっくりしていた。
花暖がスタッフだと説明すると、おばさんは早速ホテルに追加で部屋を予約してくれた。
ホテルに行く前に、音楽会の会場となる教皇の館の中庭に案内すると言う。なにしろ音楽会は明後日の夜なのだ。
おばさんは申しわけなさそうに時間が無いからと言い訳をする。そしてヴァティカンの神父さんたちの、浮世離れした感覚や、尊大な態度に、流暢で上品な英語を使って文句を言っていた。そして、よく参加してくれる人がいたもんだとも、言っていた。
車に乗せられ、ヴァティカンに向かった。
やがて、サンピエトロ広場につながる、コンチリアツィオーネ大通りに入る。
「懐かしいでしょ」のおばさんの言葉にうなずく。確かに懐かしい。実際には、二年にもならないが、花暖にはもっと前のような気がした。
サンピエトロ広場が、はっきりと見えてきた。最初に目に飛び込んできたのは、広場中央にそびえ立つ、巡礼者の道標となるオベリスク。そして、広場を包み込むように、半円形に並べられたドーリア式の円柱。その屋根の上からは、140人の聖人の像が巡礼者たちを見守っている。
聖人たちの中央には、大きな十字架を抱え天を指さす初代教皇ペテロ。サンピエトロとは、聖ペテロと言う意味だ。『あなたはペテロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。私はあなたに天国の鍵を授ける』キリストがペテロに語った言葉だ。ヴァティカンを訪れる者なら誰でも知っている言葉だ。サンピエトロ大聖堂はこのペテロの墓の上に建てられている。
ヴァティカン市国は長い城壁に囲まれ、入国するには城壁に設けられた四つの門と、サンピエトロ広場から入る。しかし、四つの門は衛兵に守られていて、許可の無い者は入ることは出来ない。自由に出入り出来るのは、このサンピエトロ広場だけだ。
広場を取り囲む円柱は、コンチリアツィオーネ大通りに面した所が、大きく切れていて、ローマとヴァティカン市国の国境は白い線で描かれていて、巡礼者や観光客を受け入れている。
コンサートの時は、広場に何万人の人が集まり、花暖と亜麗亜の歌を聞いていた。今まであまり思い出しもしなかったが、再びここを訪れその時の光景がありありと浮かんできた。今の自分なら、あの時以上に素晴らしい歌が歌える自信がある。
車は広場の直前を右折した。広場のすぐ近くにある四つの門の一つ、聖アンナ門から入国する。
前回来た時は、巡礼者や観光客同様にサンピエトロ広場から決められた順路にしたがって観光しただけだった。しかしここは寺院や遺跡とは違い司祭などの宗教関係者や、国を運営するのに必要な人々の生活する区域だ。
教皇の館はこの門のすぐ近くにあり、サンピエトロ広場からも見える。大聖堂に向かって右側の四角い赤茶色の建物だ。教皇が元気な時は、毎週水曜日に自室の窓から顔を出し巡礼者たちに対してお告げの祈りをしたり、手を振ることもあったという。
「ガキの頃に一度来た時は、もっと大きな所だと思ったけど、結構こじんまり小ぢんまりした街だったんだな」
レオがぽつりと言った。
「最小にして、最大の国だ」ハリーがレオの言葉を受けた。「国土面積は0・四四平方メートル。歩いて一周したところで一時間もかからない。しかし、世界の人口が50億人、その内カトリック信者が10億人。世界の人口の五人に一人の計算だ。つまり五人に一人がヴァティカンの国民と言える」
「ふーん。こんな、古くさい街がねぇ」
「時間の流れがここだけは別なのよ。何しろ、ガリレオが地動説で有罪になって、それが取り消されたのが一九六五年。それに、大聖年の時に開かれた会議の議題が、この千年間の反省をする、というものだったんだから」
不意に車が止まった。おばさんが降りろと言う。
車から降りた花暖は、改めて建物を見上げた。中世の頃から変わらぬ町並み。建物を形作る赤茶色の煉瓦からは、騎士の足音が聞こえるようだ。
教皇の館を守っているのは、手に長い槍を持ち、兜に赤い羽飾りを付け、黄色と紺の縦縞の服を着たスイスの近衛兵。この軍服はミケランジェロのデザインだと言われている。
一旦教皇の館に入るが、一階部分を素通りしてまたすぐ外に出た。ここが音楽会の会場だ。おばさんの話しだと、聖ダマソの中庭と言うそうだ。教皇の館は、一六世紀に建てられたシクストゥス五世の宮殿で、ニコラウス五世やグレゴリウス一三世の建てた建物とともに、聖ダマソの中庭を取り囲んでいる。
中庭というから、木や草花が生い茂っているのかと思ったら、建物に囲まれた黒い石畳の広い空間だった。
中庭には既に観客用の椅子が並べられていて、その前に演奏者用の椅子が四つ置いてあった。弦楽四重奏だろうか。
「私の他には、どなたがいらっしゃるんですか」
「そうそう、言うのを忘れてたわ」
おばさんから、できの悪いパンフレットを渡された。文化祭のプログラムのような紙には、花暖の他に数組の名前があった。この中の何組かとは、何度か一緒に仕事をしたこともある。
ラトビアのヴァイオリニスト、ギンド・クレール。アイルランドのフルーティスト、ジュリー・ゴールド。ドイツのチェリスト、ヘルマン・リヒテル。そして、アメリカのヘルベルト弦楽四重奏団の四人。目の前の椅子は彼らのものだったのだ。
「楽器も国もばらばらだな」
パンフレットを覗き込んでいたレオが言った。確かに急な仕事で寄せ集めの感は否めない。
「でも、共通点はありますよ」笑いが込み上げて来る。「全員暇で、変わり者ってところです」
音楽界でも一癖ある人ばかりだ。
花暖たちの背中の方で突然、複数の男の言い争う声が聞こえた。花暖たちが中庭に出るために歩いて来た方向からだ。
口論に夢中で花暖たちの存在には気がついていないようだ。男は四人。弦楽四重奏団の四人だ。
「喧嘩してるの、あの人たち」
ミチルが問い掛けた。
「いいえ。あの人たちは、いつもああなんです。あれが、彼らのコミュニケーションのとり方なんですよ」
花暖は彼らとは何度も仕事をした。今回集まった変わり者の内の一組だ。
突然亜麗亜が走り出し彼らの許に駆け寄った。そういえば、亜麗亜は彼らによく可愛がってもらっていた。
「アリア。カノン」
口々に叫ぶ。口論はどこかに行ってしまったらしい。花暖も手を振りながら歩いて近寄る。亜麗亜は、第一ヴァイオリンのリチャードにだっこされている
彼らは昨日の夜に着いて今朝から練習を開始するはずだったが演目でもめていたらしい。意見も空回りしていたので、頭を冷やすために外に出ていたのだそうだ。花暖の知っている彼らは、いつもこうだった。直前まで何かに付けて口論しているが、直前になると不思議と意見がまとまり素晴らしい演奏を聞かせてくれる。
亜麗亜のことも気に掛けてくれていて、アメリカに住んでいた時に一度手紙をもらった。しかし、日本に帰ってからは消息がわからなくて心配していてくれたらしい。
「私が来るって知らなかったんですか。パンフレットに書いてあるのに」
花暖がパンフレットを開いて見せた。
「昨夜できたばかりで、まだ渡してないのよ」
イザベラおばさんが会話に加わる。余っていたパンフレットを彼らに手渡した。
「リヒテルも来てるの。大丈夫なのか、あいつ変わり者だからコンサートがぶち壊しになっちゃうよ」
第二ヴァイオリンのロバートが、顔をしかめる。
「他の連中もそうだよ。まともなのは俺たちだけだ」
この四人の一番の変わり者の、ヴィオラのサミュエルがそう言って椅子に座った。
花暖は笑いながら、ミチルたちの方にそっと目を向けた。ハリーは、辺りの偵察に余念が無いようだ。ミチルも死角を作るようにハリーの前に立っている。レオの姿が見えないが、彼のことだから館に忍び込むルートを探しているのだろう。この建物の中に教皇様がいるのだ。何としても会いに行かなければならない。
「話しはこれくらいにして、練習を始めようか」
練習好きの、チェロのジョエルが言った。
その言葉に他の三人は渋々席に着く。
「音合わせをしよう」リチャードが花暖の顔を見る。「カノン、Aの音を出してくれないか。チューニングフォークを忘れたんだ」
どんな時でも正確な音が出せる花暖は、しばしば一緒にいる演奏家から調律の道具として使われる。
「私、音叉じゃありませんよ」
普段なら怒るところだが、久しぶりに彼らと会った嬉しさもあって笑いながら切り返した。
それにレオやハリーの仕事の邪魔をしてもいけない。しばらく皆の注意を引いておく必要もある。
花暖は久しぶりに、腹の底から声を張り上げた。この建物の中のどこかにいる教皇に届くくらいに。
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