第五章(四)

 その夜、黒田に言い訳するのが大変だった。本当のことなど言えるはずもない。

 ミチルは何とかごまかせる。ミチルとは日本でも面識があるし素姓もわかっているので、今回のプロジェクトは終了したが、亜麗亜の専属セラピストとして同行したと言ったら、いぶかりながらも納得したようだ。

「それで、こちらのお二人は」

 返答に困った。昼間は聖ダマソの中庭での歌の練習などで、黒田への言い訳を考えてはいなかった。ミチルのことは本当の話しなので即座に返事をしたが、この二人に関しては打合せなどしていなかった。

「私から説明しよう」ハリーが助け船を出してくれた。ハリーはFBIのバッチを黒田に見せた。「プロジェクトは打ち切られたが、カノンが教皇に近づくというのは、非常に危険な事態が予測される。一部情報がテロリストに漏れている形跡があるのでね。したがってイタリアを出るまでは我々がガートする」

「そんなに、危ないんですか」

「ああ、カノンは完全にマークされている」

「花暖ちゃん。そんなに危険だなんて知らなかったよ。もしものことがあったら大変だし、この仕事断ってもいいんだよ」

 少し、脅し過ぎたみたいだ。

「でも、せっかくの仕事だし私やりたいんです」

 ここでこの仕事がキャンセルなんてなったら、これまでの苦労が台無しだ。花暖は必死に哀願する。

「心配すんなって」レオが黒田の肩を抱く。「一応、表向きの話しだよ。FBIにも面子ってもんがあるんだよ。せっかく協力してくれたお客さんを、プロジェクトが終了したからって、ただで追い返すわけにはいかないんだ。まあ、深く考えるなって」

「こんな所まで付いて来るなんて、大げさじゃないですか。本当に危ないんじゃないですか。私を騙しているんじゃないでしょうね」

 レオは黒田の耳元に口を寄せる。

「違うって。実を言うと俺たち、ここんとこ働き詰めで休んでないんだよ。ちょっとした休暇旅行みたいなもんさ。それとも何か、お前は俺たちの楽しい休暇を邪魔しようってのか。俺、まだ爺様の墓参りもしてねえんだよ。野暮なことは言いっこ無しにしようぜ。子供じゃないんだからさ」

「花暖ちゃん、信じていいの。本当に大丈夫なの」

 心が痛む。人のいい黒田を騙すなんて。でも、嘘を言うしかない。皆のために、自分のために。

「心配いりませんよ。それよりも、黒田さんは、お仕事の心配をして下さい。音楽会の方はイザベラさんが世話をして下さるし、黒田さんの仕事って無いですよ。私が練習している間は、お仕事を取りに行ってくれててもいいくらいです」

 黒田は、無言で皆の顔を眺めていた。

「本当に、危なく無いんですね。少しでも危険な様子があったら、すぐに連れて帰りますからね」

 黒田はレオの腕を振り払いながら言った。まだ、完全には納得していないような口ぶりだが、何とか丸め込めたみたいだ。ほっとするも、花暖は黒田の顔をまともには見られなかった。


 次の日も、花暖は朝早くから聖ダマソの中庭に足を運んだ。やはり、長い間歌っていなかったので思うように歌えなかったのだ。発声練習や呼吸法は毎日かかしたことが無いが、歌うとなると話しは別だ。一曲まるまる歌うのはかなりの精神力、体力が必要だ。いろんなことがあったとはいえ、それにかまけて歌の練習をしていなかった自分を呪った。

 他の出演者は別の場所で練習していたり、午後からだったりで、午前中は花暖の貸切り状態だ。ヘルベルト弦楽四重奏団も今日は来ないらしい。

 黒田は、サンチェチリア音楽院に挨拶がてらに次の仕事を取りに行った。帰って来るのは午後になるらしい。

 ハリーは情報を集めるために、どこかへ行ってしまった。ローマにもFBIの出先機関があるのだそうだ。

 レオは花暖のガードで付いて来たはずだが、教皇の館に探りを入れるために、姿を消してしまった。さっきもスイスの近衛兵にしきりに話し掛けていたが無視されていた。中世の古風な格好をしていて冗談のようだが、中身は誇りを持った本物だ。レオは忍び込むのは難しいと言っていた。

 亜麗亜とミチルは、亜麗亜がサンピエトロ大聖堂に行きたがったので、ミチルが付き添っている。したがって、この中庭にいるのは花暖とイザベラおばさんの二人だけだ。

 花暖の演目は、ロッシーニの『ラ・パストレラ』をア・カペラで歌うことにに決めた。羊飼いの娘の心情を歌った可愛らしい歌だ。

 この音楽会にはそぐわないかも知れない。もっと教会に相応しい曲もあるのだが、クリスチャンでもない自分が、キリストを尊ぶ歌を歌うなんておこがましい気がしたので、宗教色の少ない曲を選んだ。クリスマスソングなら今や宗教色が薄れているのでいいかも知れないが時期的に少し早い。苦肉の策で当たり障りのない歌を選んでしまった。

 昨日歌った時は、ミチルたちや四重奏団の四人は絶賛してくれた。しかし、自分では満足のいく出来では無かった。時々、音が微妙にずれるのだ。わずかに一ヘルツなのだが、花暖には我慢できないずれなのだ。前後の音とのバランスが悪く、歌っていて気分が悪くなる。

 普通の耳を持っている人にはわからないだろう。あの場でわかっていたのは、亜麗亜だけだった。

 もう一度歌ってみる。昨日よりは、音のずれる箇所が少ないが完璧じゃない。

 大体、この場所が悪いんだ。周りを高い建物に取り囲まれ、声の反射が強すぎる。エコーが二重三重になって戻って来る。そのせいで、前に出した音と、今出そうとする音が合わない時に、耳に入った音に合わせようとする気持ちと、譜面通りに出そうとする気持ちが混ざりあい、音がわずかながらずれてしまう。

 でも、文句を言ってても始まらない。花暖は大きく深呼吸をして気持ちを入れ替えた。練習あるのみだ。


 昼近くになり、ようやく完璧に歌えた。考えてみれば、ここまで休み無しで、歌いっぱなしだった。喉が少し疲れた。

 少し休もう。そう思って、聴衆用の椅子に歩き出した時、中庭の隅に一人の若い神父さんが立っているのが目に入った。

 神父さんは微笑み、音の無い拍手をしながらゆっくりと近づいて来る。

「大変素晴らしい、お歌でした」

 英語で話しかけられた。正直ほっとする。イタリア語は挨拶程度しかできない。

「ありがとうこざいます。でも、まだまだ練習しないと」

 謙遜ではない。楽譜通りに歌えただけで、感情が聞き手てに伝わっているかは疑問だ。今度は内面的な練習が必要だ。

「昨日の練習も拝聴していました。昨日は所々、わずかに一セント程の音のずれがありましたが、今日は完璧じゃないですか」

 神父が言ったセントとは、一九世紀にイギリスのエリスが考案した、音の振動数比を表わす単位だ。例えば、一般に使用されている一二平均律音階では、ドからレまでの全音では二百セント。ミからファまでの半音では百セントである。ただし、花暖が使用する純正律音階では、その数値は変わってくる。

 この人も耳が敏感なんだわ。異常な程に。

「それでは、失礼します。明日のコンサートを楽しみにしています」

 返答に困っている花暖をさっしたのか、神父は去って行った。

 あの神父さんは誰だったんだろう。名前を聞くのを忘れた。イザベラおばさんに聞いたが、おばさんも知らないと言う。唯の通りすがりの、音楽好きの神父さんだったのだろうか。それにしても、音楽に詳しい神父さんだった。音楽に興味が無くても耳が敏感な人はたまにいる。でも音のずれた場所を、的確にずれの度合いを指摘するなんて音楽を勉強した人に違いない。

 時計を見ると、花暖の持ち時間が残り少ない。少しだけ休む予定だったが、神父さんと話しをしたので、時間が無くなってしまった。仕方がないので、休憩無しで練習を再開した。

 歌い始めた所へ、亜麗亜と未散が帰って来たのが視界の端に映ったが、そのまま歌の練習を続けた。

 練習が終わる頃には、時間を計ったように、レオも姿を現した。 ホテルに送って行くと言うイザベラおばさんを断り、花暖は歩いて帰ると言った。ホテルまでは、歩いても30分くらいで着く。前回来た時も、ゆっくりローマの町並みを見られなかった。ここにいるのも後わずか。少しでも街を歩いてみたい。

 亜麗亜たちも花暖に同行する。明日の予定を確認した後、おばさんに手を振り、聖アンナ門を出た。

 歩きながらミチルとレオに、さっきの変な神父さんの話しをした。

「神父と歌って、讃美歌ぐらいしか思いつかないけどな」

「そんなことないわよ。クラシックのルーツをたどると、教会にたどり着くのよ。それも、このヴァティカンにね」

「そうですね」ミチルに続いて花暖が説明する。「今みたいな楽譜ができたのが、教皇グレゴリウス一世の時代。グレゴリオ聖歌ってあるでしょ。グレゴリウス一世が、キリスト教区で一斉に讃美歌を歌わすために、楽譜をまとめたと言われています。その頃はネウマ譜という四線譜だったんですけど、それが五線譜の原形なんです」

「じゃあ、それまでの楽譜はどんなやつだったんだ」

「リズムを表わす記号だけだったり、音の高さを線で表わしたり、いろいろです。ネウマ譜にしたって、四分音符や八分音符といった、音の長さを示す記号がなかったんです。だから、グレゴリオ聖歌はリズムやメロディーの変化があまりないんです。これをモノフォニーと言います」

「その単一のメロディーの音楽から、ポリフォニーと言われる多声部音楽が発展して、今の音楽が確立したのよ」

「だから、音楽に詳しい神父さんがいても不思議じゃないんですよ。ヴィヴァルディは司祭でしたし、サンタ・チェチリア音楽院の名前にもなっている聖チェチリアは、天界から聞こえて来るような音楽を聞き、それを表現するために、オルガンを発明したと伝えられています」

「へー、結構音楽ってキリスト教に関係が深いんだ」

「キリスト教だけじゃありません。多かれ少なかれ、音楽は宗教に何らかの関わりがあるんですよ。お祭りには音楽がつきものだし、オペラも結婚式の余興から始まったし、お経なんて、歌って言えば歌ですから」

「でも、コンサートで歌う歌を、宗教色の無いものにしたのは、どうして」

 ミチルはいぶかしそうな表情だ。

「そこまでわかっているなら、わざわざあの曲にしなくてもよかったと思うんだけど。どの曲を選んでも一緒じない。多少なりともキリスト教に関わりがあるんだから、いっそのこと、讃美歌やオラトリオからの曲にすれば、コンサートの趣旨に合っていたと思うわよ」

「それは、私も考えたんです。でも、やっぱり、私の口から神様を讃える言葉なんて」

 花暖は口ごもった。

「考えすぎなんだよ、カノンは。もっといい加減にやればいいんだよ。俺なんて、ミサに行ったのはガキの時ぐらいだぜ。でもあの曲、俺は好きだよ。明るいし、それにソプラノがきれいだ。カノンはどれくらいまで高い声が出せるんだ。マライヤ・キャリーは七オクターブ出せるって言ってるけど」

「C5以上でも出せますけど、C5で四000ヘルツを超えています。人間が聞き取れる限界が六000ヘルツですから、それに近くなると、声としてではなく、音としてしか感知できなくなります。笛のような音ですね。だから私は、必要以上に高い声は出しません。歌詞がわからなくなりますから」

「それに花暖は、可聴領域を超える、超音波の領域まで声が出せるのよ」

「すごいね。今度からカノンの歌を聞く時は、測定器持って聞かなきゃな」

「止めて下さい。怪獣みたいで嫌です」

 ちょっと腹が立った。ミチルやレオは笑っているから余計だ。

「でもさ、あのコンサートの会場って、教皇の館なんだから、あそこで歌えば、教皇の耳にもカノンの歌声が届くんじゃないの」

 レオが、花暖が怒っているのを感じたのか話題を変えてきた。

 それについては、花暖もレオと同じことを考えていた。あの建物のどの部屋にいるかは知らないが、どの部屋にいようとも花暖の声が聞こえないはずがない。それなら無理に館に忍び込むこともない。

「それは無理ね。歌を聞かせるなら、最も効果的に聞かせなくちゃ効果は望めないわ。具体的に言うと、教皇のすぐ側で、耳だけじゃなくて体全体で感じさせなきゃいけないの。骨を通じて脳に刺激を与えるのよ。勿論、歌い手側の花暖の心理状態も大切だわ」

「やる気があるか、ということですか」

「一言で言えばそうなんだけど、微妙に違うのよ。教皇様に起きて下さい、と言ってもそのままじゃ伝わらない訳でしょ。言葉だけじゃ駄目なの。気持ちを伝えることが大切なの」

「でも、どうやって」

「そこで、さっきの可聴領域を超える声が必要になるのよ。確か日本で会った時も言ったと思うけど、あなたの声には、通常の歌にも超音波成分が含まれているの。恐らくそれが、あなたの歌を、素晴らしいと感じる要因の一つなんだと思うの。その超音波成分が歌詞以外に、聞き手に感情を伝えるものだと考えられるの」

「俺、歌を聞いてて、そんなの感じたことないぜ」

「勿論、それは意識下での話しだから、はっきりと感じることはできないわ。それに個人差もあるし。波長が合うってやつ。教皇様と花暖は、かなりの部分で波長が合っているのよ。だから、教皇様を覚醒させる確立が高いの。他にも歌の上手い歌手はたくさんいるけど、波長がこれ程合っているのは花暖だけよ。でもさっき言ったように、花暖の感情が高まって、それが超音波成分に乗らなければならないの」

「そんなこと言われても、下意識のことだから、私にはどうしいいいかわかりません」

「そうだよ。具体的に言わないとカノンも困るよ」

「そうね。取り合えず、教皇様が目覚めるように祈りながら歌ってよ」

「いい加減だな」

「しょうがないでしょ。今まで誰もやったことがないんだから。それに、亜麗亜ちゃんがこの状態で、サポートしてくれないから、一人で歌わなくちゃならないし。かなり思い入れを強くしてくれないと駄目だわ」

 今回の作戦が成功するか否かが、全て自分にかかっていると言われたのと同じだ。それも、誰の力も借りられないし、方法さえ教えてくれない。

 途方に暮れた花暖は天を仰いだ。ここは神の国。今にも天使が降りて来て、花暖に神様の教えを授けてくれるのを渇望した。


 いよいよコンサートが始まる。花暖がトップバッターだ。花暖たちは館内の部屋で出番を待っていた。控え用に与えられた部屋だ。花暖たち以外には出演者はいない。時間をずらして入り、演じ終わった者は順に帰って行く段取りになっている。警備の都合上そうするそうだ。

 緊張して足が小刻みに震える。久しぶりに人前で歌うからじゃない。花暖の意識はその後の行動に注がれている。館に忍び込み教皇様の前で歌わなければならないのだ。それも、誰にも気づかれないように。その反面、教皇様には、はっきりと感情が伝わるように歌うという無理難題が待っている。

 そのことを思うと、心拍数がどんどん上がってくる。じっとしているのが苦痛だ。ヴァティカン中を走り回りたい気持ちになる。こんな気持ちは、今までのコンサートでも経験したことがない。

 それは、他の皆も同じようだ。さっきから誰も話しをしない。ハリーはいつもの無表情が更に無表情になっているし、レオは窓の外を見つめながら、ぶつぶつと一人言を言っている。ミチルはコンサートのパンフレットを何度も読み返している。最終打合せで部屋を出ている黒田以外で普段通りなのは亜麗亜だけだ。

 黒田が呼びに来て、いよいよ出番だ。

「はい」

 大きく返事をして席を立つ。

 控室から中庭に出る出口は、観客席の横だ。花暖は拍手に迎えられて、ゆっくりとステージに歩く。一緒に部屋を出た亜麗亜たちは、出口の手前で待機している。

 ステージに立った花暖は、一礼して観客を見た。人数はそんなにいない。せいぜい、30人ぐらいだろう。中には知っている顔もいる。一番前の真ん中に座っているのは、ヴァティカンの国務長官。前回来た時にも会ったし、教皇様が倒れた時には、連日のようにテレビに出ていたのでよく知っている。

 その他にも、イタリアの音楽関係者などの顔も見えた。花暖は、昨日会った変な神父さんがいないか捜したが、あの神父さんの姿は見えなかった。

 拍手が鳴り止むのを待ち、呼吸を整え歌い始めた。

 笑顔を絶やさないよう心がけた。心配はいろいろあるが、とにかく今はこの歌を歌い切ることだけを考えよう。

 でも、本当に花暖の歌が観客に伝わっているのだろうか。

 歌詞で『楽しい』と言ったら楽しく聞こえる。『悲しい』と言えば悲しく聞こえる。少なくとも歌の意味は聴衆に伝わるだろう。しかし肝心の花暖の気持ちはどうなのだろう。歌詞で意味が伝わるのなら誰が歌っても同じではないか。花暖が歌う必要がどこにあるのだろう。米山先生にも、花暖は感情表現が下手だと言われた。

 私の歌う意義は何なのだろう。今この場に立っているのは、ただの偶然に過ぎないのだろうか。

 考え始めると、気持ちはどんどん落ち込んでくる。でも、歌っている曲は楽しい歌なのだ。笑顔を絶やしてはいけない。声のつやを消してはいけない。

 花暖の気持ちとは裏腹に、歌い終わると聴衆から、絶賛の拍手を贈られた。花暖も大げさな笑顔と身振りでそれに応え。ステージを後にした。


 コンサートの開催時間は約二時間。そろそろ最後の演奏が始まる頃だ。最後は確か、ヘルベルト四重奏団。

 館の中から、かすかにヴァイオリンの音が聞こえる。今なら演奏の真最中で控室には誰もいないはずだ。

 館を守っているスイス兵に、忘れ物を取りに来たと言って中に入る許可を願い出た。ここには何度も出入りしているし、ついさっきまで歌っていたのだから、スイス兵も怪しんではいないようだ。すんなりと許可をもらった。

 黒田には先にホテルに帰ってもらった。早く日本にも連絡しなくてはならないので、黒田は躊躇していた。しかしFBIの捜査官が二人もついているのだから、一応、安心してホテルに帰った。

 館に入るための入口は一つ、中庭からの入口はいくつもあるが、それぞれをスイス兵が守っている。出入り口さえ固めていれば大丈夫だというのだろう。

 しかし控室は館の中にあり、廊下の曲がり角だ。入口のスイス兵からは見えないし、この階には兵隊や警備の姿はない。時折、巡回の兵隊が回ってくるくらいだ。

 監視カメラの情報はハリーが集めてきた。設置数やカメラの感度、それにカメラの死角になるルート。ハリーの分析によると、容易にクリアーできるらしい。それと同時に、兵隊の巡回時間と巡回路も調べ済みだ。

 それにしても、いくら世界最小の国とはいえ、一国の元首の館のセキュリティーがここまで筒抜けなんて。それなら、花暖のような一般の人間のプライバシーなんてあったもんじゃない。ましてや花暖は、重要人物ではない有名人だ。興味本位のファンも多い。花暖の私生活を知りたがる輩もいるはずだ。守ってくれる人も、その術も知らない花暖のプライバシーなど、手に入れるのは簡単だろう。 花暖たちは、控室を素通りして階段に向かう。

 森閑とした薄暗い廊下。もともとは宮殿として建てられただけあって、壁や柱に贅の限りをつくした彫刻を施し、恐らく値段が付けられないであろう絵画を、まるで無造作にかけてある。

 丸い太い柱は、廊下の中央から振り分けに二列に並び、その両側に部屋がある。花暖たちが控室として与えられた部屋は、ちょっとした会議室ぐらいの広さだったが、その他の部屋も扉の大きさから見て、ほとんど同じだろう。花暖が知っているような『部屋』は、この館には存在しないみたいだ。

 監視カメラの視界を避けて、柱に隠れながら進む。目の前に赤いいエレベーターが見えたがそれは使えない。

 黒い網状の柵に囲まれたこのエレベーターは、教皇専用のもので、今は稼働していない。無理やり動かすことも出来るそうだが、そうすると侵入しているのがばれてしまう。

 エレベーターの横の小さな木造の扉に向かう。レオがノブを回すが開かない。でもレオは慌てていない。予想していたようだ。ポケットに手を突っ込んで何かを捜している。

 取り出したのは鍵だった。どこで手に入れたか知らない鍵を鍵穴に差し込み静かに回すと、小さな音をたてて開いた。

 扉の中は質素な階段だった。

 軋む階段を一列になって注意深く上る。先頭にハリー、花暖、亜麗亜、未散の順で、レオが最後尾で後方を守っている。

 教皇様の自室は、四階のサンピエトロ広場に面した角の部屋だ。教皇様は時々その自室の窓から、広場に集まった信者たちに、祝福のお告げを述べられるので多くの人が知っている。

 しかしハリーの調べでは、教皇様は別の部屋で眠っているという。それも当然だろう。馬鹿正直に自室で寝ているわけがない。それは素人の花暖でも想像できる。現在教皇様がいるのは、一階下の執務室を改造して眠っているらしい。

 こんな調子では、三階に行くまでに、どれ程時間がかかると考えると気が重くなる。いつ見つかるかもわからない緊張状態に耐えられるか不安だ。

 不安なのはレオとハリーも同じだと思う。なにしろ彼らは、銃の類いを所持していないのだ。教皇の館での銃撃戦は、始めから想定していないのだ。もしそんなことをしたら、国際問題になるのは必至。間違って発砲したり、銃が暴発したりしても大事件となる。もし捕まった時に銃など所持していたら言い訳は効かないのだから。 三階に上り切り、後少しで教皇様に会えると思った時だった。レオが囁いた。

「後ろから誰か来たみたいだ。一旦どこかに隠れよう」

「こっちだ」ハリーが誘導する。「いい隠れ場所がある」

 ハリーは事前に屋敷内の部屋を調べあげているので、いざという時の避難場所にもぬかりはないようだ。

 一つの扉の前に立った。扉にはいくつものレリーフが施されている。それだけではない。扉の両側にはたくさんの馬のレリーフが天井から床まで並んでいる。

 中に入った。暗くてよく見えなかったが、焼絵硝子に差し込む月明かりに、ぼんやりと部屋の中が浮かんできた。

 部屋全体の形は、扉の方が四角く、一番奥が丸い万年筆のキャップのような形だ。その丸い部分の真ん中には十字架のキリスト像が掲げられている。キリストの足もとには祭壇があり、燭台が六つ、花瓶が二つ、それぞれが対象に置かれている。天井は焼絵硝子で構成されており、中心にキリストがいて、その周りをたくさんの天使が取り巻いている。

 礼拝堂のようだ。創りはヴァティカンやローマ市内で見た教会などとは違い、かなり近代的な創りになっている。

 キリスト像の両横の壁にもレリーフが彫ってあった。一つは十字架に逆さまにはりつけられた男の人。たぶん皇帝ネロに処刑されるさいに、イエスと同じ刑で処刑されるのは恐れ多いと、逆さはりつけを望んだペテロの伝説をモチーフにしているのだろう。もう一つのレリーフの意味は花暖にはわからないが、やはり何かの伝説を表わしているのだろう。部屋の中央には、円筒形のもたれのついた椅子が置いてある。

 花暖は再びキリスト像に視線を写した。目が暗闇になれるにしたがって、今まで気づかなかった物が見えたのだ。キリスト像の左足に一枚の絵が飾られていた。女性の顔だけの絵だ。ベールを被った色の黒い女性だ。

「あの絵、前に見た覚えがあるな」

 レオの言葉につられて、亜麗亜とミチルも祭壇に近寄る。花暖は何となく怖くて部屋の中央で立ち止まった。ハリーは扉の側で外の様子をうかがっている。

「チェストホーヴァの黒い聖母」ミチルがその絵に視線を固定しながら言った。

「アメリカの教皇様の病室にも同じ物があったはずよ」

「ここは教皇専用の礼拝堂だ」

 人の気配が消えたらしくハリーが扉から離れて皆の所に近づいた。

「教皇が倒れている今、ここに来るのは掃除をする人だけだ。それも、こんな夜には来ない」

 まるで、マリア様を信仰しているみたい。この礼拝堂を改めて見た感想だ。キリスト像は飾っているものの、全体に女性的な感じのする礼拝堂だ。

 皆が祭壇付近にかたまっているので、花暖も寂しくなり、立ち止まっていた部屋の中央から歩き出した。

 しかし、そこで不思議な現象が起こった。今まではっきり聞き取れていた皆の会話が、近づくにしたがって聞き取りにくくなっていったのだ。そういえば、皆は外に声が漏れないように小声で喋っていたのに、どうして離れた場所にいた花暖にはっきりと聞こえていたのだろう。不思議に思って、もといた部屋の中央に戻った。すると、また皆の会話がはっきり聞こえるのだ。

 たぶん、この部屋での音の反射が、部屋真ん中に集中しているのだろう。設計者が意識したのか、偶然かは知らないが、そんな構造になっているのだ。

 知り合いの歌手から聞いた話しだが、ミラノのスカラ座にもそんな場所があって、舞台のその場所で歌うと、声がよく響くので、演出を無視して歌手同士が場所を取り合いするのだそうだ。

 納得して、再び皆に合流しようと歩き出した時だった。扉のノブが回るかすかな音がした。皆は聞こえないようだが、部屋の中央にいた花暖にははっきり聞こえた。





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