第五章(二)

 ガザーロ国務長官を乗せた車は、空港の手前の検問所で止められた。

 過剰なまでの警備体制。警察のみならず、軍隊まで駆り出し防備を固めている。手に手に小銃や重火器まで担いでいる者もいる。

 検問の仮設のバリケードを守っている兵隊が、車の窓に顔を寄せる。運転手はウィンドウを下げて、通行証を提示する。兵隊はそれだけでは物足りないのか、車の中を覗き込み、乗車している全員の顔を見回す。

 兵隊は更に、全員の身分証明書の提示を要求して来た。車内にいるのは、ガザーロの他に、運転手、助手席にガザーロの秘書の司祭、後部座席にガザーロを真ん中にして、両脇をSPが固めている。

 この男は私を知らんのか。一瞬、憤慨したがこの状況ではそれも致し方ない。考えてみれば、自分はここでは外国人なのだから。何とか自分を抑えて、秘書を通じて身分証明書を渡した。

 やっとのことで納得した兵隊に通行を許され、車は空港の駐車場に入っていった。

 それにしても、何という馬鹿騒ぎだ。今更、誰が襲うというのだ。あの、ただ眠っているだけの老人を。

 実質的に、教皇の実務を代行しているのは、この私だ。襲われるのは私の方ではないか。私こそ守られるべき人間のはずだ。それが何故、検問で調べられなければならないのだ。

 一度は引き下がったものの、先程の怒りがぶり返して来た。思わず前の座席を蹴る。驚いて振り返った秘書を睨み返す。秘書は弾かれたように前を向いた。

 最後の花道を飾ってやろうと、慈悲をかけたのが仇になった。ことごとく、苛立たせる教皇だ。

 車を降りたガザーロは空港職員に、駐車場から一般の到着ロビーを横切り教皇が運ばれる特別の到着ゲートに案内された。

 ゲートに行くまでに、新聞や雑誌のカメラマンの焚くストロボに襲われた。ロビーを占拠しているのは、新聞記者ばかりでは無い。テレビ。それも世界中のテレビ局が、自分の陣地を争いながら、ひしめいている。

「なんとか、ならんのか。あの馬鹿どもを排除しろ」

 やり場のない怒りを回りの者にぶつけた。本気で言っているのではないが、言わずにはおれなかった。

 周りの者もそれがわかっているのだろう。ガザーロの言葉には、誰も反応しなかった。ガザーロも、それは気にしなかった。

 やがて、ゲートが開く。

 まず、アメリカの政府関係者が降りて来て、空港職員と、ヴァティカンの外務省の役人に書類を渡し、サインを受け取る。これで、アメリカの責任は無くなったという訳だ。ここからは、イタリアとヴァティカンの管轄になる。

 空港周辺の物々しい警備も、あの過ちを再び、起こさないためだ。ここで何かあれば、アメリカへの賠償責任要求にも影響が出てくる。

 手続きも終わり、医師や看護婦と思われる集団に囲まれて、ストレッチャーに横たわる教皇が姿を現した。

 実に哀れな姿だ。過去幾人の教皇が、毒殺や縛り首にされが、まるで、それを見ているようだ。

 哀れな老人を見送ると、一人の司祭がガザーロの前に立ち頭を下げた。

「よく来てくれた、コレット君。もう少し落ち着いてからと思っていたんだが、私も君の力が必要なんだ」

「とんでもありません。教皇猊下のお供が出来るなど光栄です。それに、私のような者の力が必要ならばいくらでもお貸しします」

「ありがとう。詳しい話しは後だ。今夜、私の部屋に来て欲しい」

 それだけ言うと、ガザーロは、再びロビーに向けて歩き出した。

 先程までひしめいていた報道陣が、教皇の通過と共にすっかり消えていた。その様相の急変さに、怒りを通り越した空しさが込み上げて来た。


 教皇の引き取り手続きが一段落したのは、夜だった。今頃は、部下たちが、アメリカから教皇に付き添って来た連中を接待している頃だろう。

 そんな必要がどこにある。奴らは、一国の元首を守れなかった連中だ。接待どころか、さっさと追い返せばいいものを。これも国の体面というやつか。

 馬鹿げた席に出る気にならないガザーロは、挨拶もそこそこに、自分の執務室に引き込んでいた。

 ノックの音がした。

「どうぞ。入ってくれたまえ」

 ノックの主はわかっていた。ドアが開いて、コレットが入って来た。

「悪いな。君も荷物の整理などで、忙しいだろうに」

「いえ、大した荷物ではありませんので、すぐにかたづきます」

 コレットに椅子を勧めて、着席させた。

「次期教皇の選出が難航している」

「対立候補が、乱立しているそうですね。昼の間に小耳にはさみました」

「さすがだな。情報が早い。それでこそ呼んだ甲斐がある」

「それで、私は何をすればよろしいのでしょうか」

「乱立しているとはいえ、相手はカッペラーリ枢機卿ただ一人だ。他の候補は取るに足りない」

「しかし、あの方が出て来られるのは、あらかじめ、予想されていたのでは、ないのですか。慌てる必要も無いかと思いますが」

「ところがだ」声が大きくなりそうになったのを抑えた。「当初、私の側についていた、ガンガネリ枢機卿が、カッペラーリをの側に回ったんだ。恐らく裏工作があったのだろう。カッペラーリを推挙したのは、ルチアーニだ。あいつが、ガンガネリを引き込んだに違いない」

「ルチアーニ様、カッペラーリ様といえば、現教皇猊下とは師弟の関係にある方たち。最後のあがきでしょう」

「だが、ガンガネリを取り戻せば、こちらの勝ちは決まったも同然だ。その説得を君に頼みたい」

「しかし、私はガンガネリ様とは、一、二度お会いしただけで、それ程親しいわけではありませんが」

「君はガンガネリの側近の、ブラスキとは、懇意だそうじゃないか」

「ええ、ブラスキ司祭は、私の神学校時代の恩師で、今でも可愛がって頂いています」

「ブラスキを通じて、ガンガネリを説得して欲しい。ガンガネリは、ブラスキをかなり信頼しているというからな」

「承知しました。成功するかどうかわかりませんが、やってみましょう。ただし、多大な期待はご遠慮下さい」

 コレットが立ち上がり、ザガーロの机の前までやって来た。

「弱気な言葉のわりには、自信ありげな表情じゃないか。君なら大丈夫だろう。大いに期待しているよ」

 頭を下げたコレットの視線が、机の上で止まっている。ザガーロは、その視線の先を見た。そこには、二つ折りにした粗悪な紙でできた一枚のパンフレットがあった。

「これかね」

 つまみ上げて、コレットに渡す。自分でも、まだ中身は見ていない。内容だけは、口頭で聞いた。

「音楽会をされるのですか」

「ああ、急な話しだが、教皇のために式典局が企画したんだ。こんな忙しい時期にのんきなもんだが許可したよ。私にも出席しろとさ」

「教皇様は、音楽がお好きでしたから、お喜びになられるでしょう」

 コレットは、パンフレットを開いて、それに見入っている。やや、表情が険しい。

「何か問題でもあるのかね」

「イタリアの音楽家の方ばかりだと思っていましたら、いろんな国の方がいらっしゃるのですね」

「そう聞いているが」

「これ程、大規模な音楽会になると、警備も大変になるでしょうし、中止された方がよいのではないでしょうか」

「なに、そんなに大げさなものじゃないよ。人数も少ないし、時間も短い」

「しかし、場所が教皇様のお館というのは問題では」

「音楽会が行われるのは、館の中庭だし、出入り口は、衛兵に守らせてあるから、大丈夫だよ」

「しかし」

 コレットの言葉を、手で制した。

「君は、コンクラーヴェに専念したまえ。余計なことに気を使わなくてもいい」

 コレットは納得したのか、一礼して部屋を出て行った。

 一人になったガザーロは、椅子を回転させ窓の外を眺めた。景色には、冬の足音が聞こえる。

 降誕際までには、決着をつけるつもりだったが、この分では年が変わってしまうだろう。そう思うと、ガザーロは大きくため息をついた。


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