第五章(一)
ホテルで、シャワーを浴びて、ミチルがワシントンのホテルから持ってきた下着とスエットスーツに着替える。
ベッドの上で、亜麗亜とじゃれていると、ミチルが呼びに来た。ミチルについて会議室のような部屋に行くと、既にレオとハリー、それに主任が来ていた。
「座って。ちょっと話しが、ややこしくなってきたの」
花暖と亜麗亜が席に着くと、早速マシュマロマンが口を開いた。
「実は、ヴァティカンが教皇の身柄の引き渡しを要求して来た。勿論、アメリカ政府並びにFBIはヴァティカンを説得しているが恐らく無理だろう。公式発表されればそれまでだ。今日明日にも発表されるだろう」
「それで、重い体を上げて、急いで迎えに来たのか」
「そうだ」主任はレオを指さしながら言った。「しかし、来てみればこの始末だ。黒い煙が立ち上っているのを見た時は、心臓が潰れそうだったよ。お前の顔を見る度に寿命が縮まって行くよ。やるなら一思いにやってくれ」
レオは、噛みつきそうな主任から目をそらし口を尖らしている。
主任はため息をつきながら、花暖に視線を移す。
「時間が無いんだ。疲れているだろうが、ミストヨシマには一刻も早く、教皇のいる病院に来てもらいたい」
「わかりました。私もそのつもりでした。すぐに連れて行って下さい」
花暖が席を立ちかけた時、誰かの携帯電話が鳴った。
主任の携帯だった。部屋の隅で電話の応対をしていた主任が、花暖たちの所に戻って、力無く言った。
「テレビを点けてくれないか」
未散がテレビのスイッチを入れると、ニュースをやっていた。ニュースキャスターが淡々と伝えていた。
『先程、ヴァティカン市国のガザーロ国務長官から、教皇ヨハネス二四世がアメリカの病院で治療中である事を発表しました。近く、次期教皇選挙が行われるため、教皇をヴァティカンの病院に移すとの事です』
チャンネルを変えたが、どのチャンネルも教皇に関する臨時ニュースばかりだった。
「終わったよ」
短くそう言うと、主任はその巨体を小さな椅子にあずけた。
花暖は、テレビのニュースを茫然と見つめていた。
やがてニュースが終わり、通常の番組に戻った。コメディードラマの笑い声が腹立たしい。
ミチルがテレビを消し沈黙が流れる。
「でも、まだアメリカにいるんでしょ」ややあって、花暖が言った。「今すぐ行けば間に合います」
「駄目なんだ。今の電話はうちの局長からで、教皇覚醒プロジェクトの中止を言い渡された。我々が教皇に会う事ができなくなってしまった。もし許可無く病院に入り、無理やり教皇に近づけば、間違い無く射殺される」
「局長に説明すればいいじゃないか。なんなら、俺が腕ずくで話しをつけてやってもいいぜ。あの野郎には、一発お見舞してやんなきゃと思ってたしな」
「無理だ。これは政府の決定だ。FBI内部だけですむ話しじゃないんだ。もうあの病院の指揮権は我々には無い」
「FBIの威信はどうなるんです」ハリーが熱くなっている。「このまま教皇を帰せば、FBIは世界中の警察機構、諜報機関から無能のレッテルを貼られてしまいますよ。主任はそれでもいいんですか」
「私の個人的意見など、国家の前では無力なんだよ。いいか、アメリカ政府はFBIを切り捨てたんだ。フーバー時代の幻想は捨てるんだな。FBIはもはやヒーローにはなりえないんだよ」
ミチルは苛立たしげに、窓の前を行ったり来たりしている。髪を掻き毟り、時折小さな声を発している。
「ミチル。君も諦めてくれ。もう決まったことなんだ。君は良くやった。正直これ程上手く行くとは思っていなかった」
「納得出来ません」ミチルは小走りにテーブルに戻り、両手でテーブルを叩いた。「後一歩なんですよ。教皇に会って、歌うだけんなですよ。今回のプロジェクトの責任者は私です。その私に、一言のことわりも無く計画を中止するなんて酷い。こんな不当な命令には従えません」
ミチルの言葉に、主任の怒りも爆発した。
「じゃあ、どうしろってんだ。今から病院に乗り込もうってのか。既に軍も動き出しているんだ。一歩でも敷地内に踏み込んでみろ、雁首そろえて蜂の巣にされるぞ。それに、もし歌ったとしても、教皇が目覚める保証は無いんだ。そんなもののために、命を掛けると言うのか。馬鹿を言うんじゃない」
主任の剣幕に押されて、誰もが黙ってしまった。
「どうしても、駄目なんですね」
花暖は主任とは目を合わさずに、ぽつりと言った。
「散々、引っ張り回した挙句に、全てが無駄になってしまった。君たち姉妹には、本当にすまないと思っている」一瞬の沈黙があり、主任は言葉を続けた。「私は今まで、クラシックなんて、てんで興味が無かったんだが、このプロジェクトのために、初めて君たちの歌を聞いた。衝撃的だったよ。こんな素晴らしい歌があっなんて、心から感動した。今回の事にめげずに、その素晴らしい歌を聞かせてくれ」
花暖は、怒りを誰にぶつけることも出来ずに両手で顔を覆った。
花暖はあれから、三日間をワシントンのホテルで過ごした。誘拐だの、火事だのと、いろいろあったので、疲れが一度に出てしまい、この三日間、熱のためにホテルでひたすら眠っていた。看病はミチルがしてくれた。
ミチルは、花暖の看病の合間に、亜麗亜の心理療法も行っていた。ミチルは非常に責任を感じていて、日本にも一緒に行き、亜麗亜が完治するまで日本に滞在すると言っている。EAPも辞めるそうだ。 レオとハリーも空港で別れるまでは任務中という名目で同じホテルに滞在している。主任に対するささやかな抵抗である。特にレオはFBI本部には帰りたくないらしい。
ただし、それも明日までだ。花暖の熱も下がったので、いよいよ明日、日本に帰らなくてはならなくなった。レオは嘘でもいいから入院しろ、などと言って花暖の帰国を遅らそうとしていたが、そんなわけにもいかない。
花暖にしても、このまま日本に帰るのは非常に心残りだが、仕方がない。
諦めてスーツケースに荷物を詰め込んでいる。亜麗亜は荷物の整理もせずに、さっきからテレビに釘付けだ。
「あっちゃん。自分の分は自分でやらないと。お姉ちゃんやってあげないからね」
寝そべって、ビスケットをほおばっている亜麗亜に声をかけた。亜麗亜は花暖をちらりと見ただけで、すぐにテレビに戻った。今日は気分がすぐれないようだ。しょうがない。亜麗亜の分の荷物も詰めなければ。小さくため息をついた。
それにしても、アメリカに来てからは亜麗亜は、以前程は暴れることが無くなった。少し穏やかになっている。以前は花暖に対しても、心を閉ざしている時がよくあったが、最近ではそれが少なくなった。ミチルのセラピーが効果を表しているようだ。
再び荷物の整理にかかった花暖を、亜麗亜がクッションを投げて呼んだ。見ると、テレビを指差している。
画面には、空港のロビーや玄関、それに飛行機の映像が目まぐるしく入れ代わっている。その画に合わせてアナウンサーが喋っている。朝から何度も流れている映像だ。
やがて、現場のアナウンサーの声が乱れ、現場の人の動きが慌ただしくなる。
画面は、カメラが恐らく隠し撮りしたであろう映像に切り変わる。
人垣の間から、時折見え隠れするストレッチャー。その上で横たわっているのは、花暖がこの数日間、一時も忘れたことがない男性。ローマ教皇ヨハネス二四世。
教皇は今日の午前中にヴァティカンに特別機で飛び立った。この映像を見る度に、自分の無力さ、不甲斐なさ、絶望感、苛立ちなどの複合した感情が、花暖の心に重くのしかかる。
「また、こんなの見てるの」
ミチルも明日に備えて荷物の整理をしていたが、それが終わったらしく花暖たちの側にやって来た。あきれ顔で花暖たちを見ている。
「何度みても、現実は変わらないのよ」
ミチルはテレビのリモコンを拾い上げ、スイッチをオフにした。亜麗亜は不満そうな顔をして、ミチルを睨んだ。ミチルも負けじと睨みかえしている。
「ほら、あっちゃん、荷物詰めなよ」
花暖が声をかけると、亜麗亜は諦めたらしく、自分のスーツケースを取りに行き、くちゃくちゃに、荷物を入れ始めた。
部屋のチャイムが鳴り、出てみるとハリーだった。
「準備は終わったのか」
言いながら、亜麗亜の様子を見て、苦笑いする。
「レオさんは」
「後で来る。最後の夜だから、プレゼントを買いに行った。それと、主任も来るそうだ。明日は忙しくて、空港まで来られないので、今晩別れを言いたいと言っていた」
やがてレオが、両手にワインだのウイスキーだのを抱えて、現れた。
花暖と亜麗亜は、ポケットから無造作に取り出された、小さな箱を一つづつ貰った。包みを解くと、小さなオルゴールで、蓋を開けると、シューベルトのアヴェマリアが流れた。
「不謹慎よ、お酒なんて。あなたたち、まだ任務中でしょ」
ミチルがたしなめる。
「今更、誰も襲って来やしないよ。教皇は帰ったんだぜ」
「それなら、さっさと自分の家に帰りなさいよ。ここにいる必要は無いわ」
「ここの方が、俺のアパートより住み心地がいいんだ」
レオは、勝手にグラスを用意してワインのコルクを抜いた。花暖と亜麗亜には、オレンジジュースが用意された。
ミチルは呆れて物が言えない、といった表情だ。
ささやかなパーティーが始まり、暫くすると、主任が訪れた。レオに噛みついたのは、言うまでもない。しかし、最後には諦めてパーティーに参加した。
酔いが回って、レオと主任が口論となった時、電話のベルが鳴った。多分、両親かマネージャーの黒田だろう。プロジェクトが中止になった時点で、日本に連絡してある。さっきレオが言ったように、もう隠す必要はないのだ。ただし、誘拐の話しは口が裂けても言えない
電話の相手は、黒田だった。
「ご心配おかけしましたけど、明日は予定通りの飛行機で帰ります」
飛行機の時間は事前に報告してあるので、確認の電話をくれたのだと思い花暖はそう言った。
「それなんだけど、変更出来ないかな」
「どうしてですか」
「急に仕事が入ったんだよ。久しぶりの仕事だしさ、断りたくないんだよ」
「それは、かまわないですけど」ちらりと、亜麗亜を見た。「私一人でですか」
「そうなんだ。出来れば二人がいいんだけど、向こうも、事情をわかってくれて、是非花暖ちゃん一人ででも来て欲しいって言っているんだ」
「本当ですか。わかりました、お受けします」
久しぶりの仕事に、花暖は踊り出したい気分だった。
「それで、場所はどこなんですか。この近くなんですか。ホテルも私が手配しておきますけど」
ステージの大きい小さいは、関係無かった。
「それが、ちょっと遠いんだ」
黒田が言い難そうにしている。
「どこなんですか。どこにだって行きますよ」
花暖も黒田の態度に心配になる。とんでもない所なのだろうか。まさか、アマゾンのジャングルの奥地でコンサートがある訳ないし。
「イタリアなんだ」
花暖の血が沸騰する。
「ひょっとして、ローマですか」
受話器を置いて振り返った花暖に、全員が注目している。黒田とのやり取りが聞こえていたようだ。
「ローマに行きます」ミチルたちの視線が痛い。
「仕事が入りました。日本には帰りません。チケットが取れ次第、明日にでもイタリアに発ちます」
「どんな、仕事なの」
ミチルの目が、輝いたような気がした。
「以前、サンタ・チェチリア音楽院主催のコンサートに、呼ばれたことがあるんです。今回その音楽院が、教皇様に声援を送る意味を込めて、コンサートを開くそうです。急な話しですけど、いろんな歌手や音楽家が集められて、私もその中の一人に選ばれたそうなんです」
「まさか、教皇様の前で」
「前回は、サンピエトロ広場で、教皇様を招いてのコンサートでしたが、今回はさすがにそれはありません。でも、今度は教皇様の館だと聞いています」
「主任」レオが主任の肩に腕を回す。肩を組むというより、肘の内側で首を締めるという感じだ。「知っているんだろ。教皇がどこで眠っているか」
「それは、言えん。最高機密だ」
主任は抗いながら、答えを拒否する。レオの腕に幾分、力が入った気がする。
「病院なんですか」
ミチルも詰め寄る。
「私は何も知らん」
「教皇の館なんですか」
「知っていても答えられん。第一、あんな所で治療など出来るはずないじゃないか」
「ありがとう。教皇の館ですね」未散が言い切った。「主任は正直な人ですね。嘘をつく時、体や表情に如実に変化が表れます。教皇の館を否定する時は体が硬直し、瞬きの回数も多い。それに、非常に早口になり、言葉の数も多くなる。心理学を学ぶ学生にとっては、ぴったりの実験体ですわ」
その言葉を聞いて、レオは主任を放した。
「スターには、付き人が必要だよな」
「マネージャーや、スタイリストってとこかしら」
「ボディーガードもだ」
「馬鹿なことをするな。勝手な行動は許さん。今から、貴様たちは国外どころか、許可無くこのホテルを出ることも禁止する」
主任は必死で、叫んだ。かなり焦っている。
「残念だが、主任にその権限は無い」
ハリーが静かに拒否する。
「それに、私は本日付けで、EAPを退職しています。FBIに拘束される義務はありません」
主任は暫くミチルを睨んでいたが、あきらめてレオとハリーに矛先を向けた。
「ミチルはそうかも知れんが、お前たちは違うぞ。拘束の権限は無いが、仕事の指命権は私にある。レオは臓器売買組織の潜入捜査。ハリーは連続バラバラ殺人の捜査を命じる。これに逆らえば、命令違反で即刻逮捕する」
「私には、二年分の休暇が溜まっているはずです。明日から長期休暇に入ります。これは私の正当な権利の行使であり、それを拒否するならば、裁判で争うことになりますが、それでもいいですか。恐らく私の勝利に終わると思います。何にせよ、裁判所に告訴してからの話しですが。タイムリミットは明日の朝までです」
主任は唸っている。
「レオ、お前には休暇は残ってないぞ」
「爺様の墓参りだよ。止めたりすると、罰が当たるぜ。それに、宗教問題に口出しすると、後で後悔するよ」
「そんな理屈が通るとでも、思っているのか」主任が吠えた。「いいか、お前たちのやろうとしていることは、国際問題に発展しかねないんだぞ。現職のFBIの捜査官が、教皇の館に忍び込むなど、言語道断だ」
「退職すれば、問題は無いと。ならば、今すぐ手続きをお願いします」
ハリーが言った。
「そんな、問題じゃないんだよ」主任は頭を抱えて、ソファーに、へなへなと落ちるように座った。「頼むよ。私の責任になってしまうんだよ。やっとここまで、勤め上げて来たのに、目茶苦茶だよ」 泣いているようにも見えた。
花暖は、主任の前で絨毯に膝をついて座り、主任の手を握った。「無茶なことはしません。誓います。私がいるのに、危ない真似をするはずがありません教皇様の前で歌えるチャンスがあれば、歌ってみたいというだけなんです」
「しかし、それだけでも大変な事件なんだよ」
「主任は政府の決定に満足しているんですか。悔しいとは思わないんですか」
ミチルが、主任の横に座った。
主任は抱えていた頭を上げ、全員を見渡す。
「本当に、無茶はしないな。無理だと思ったら、すぐに帰って来るんだな」
「はい」
花暖はきっぱりと答えた。ミチルもうなずいている。
「当たり前じゃないか。俺が主任を困らせるようなことをするはずないだろ」
「お前は黙ってろ」レオに鋭い視線を送り、ハリーに言った。「ハリー、この馬鹿に絶対におかしな真似をさせるんじゃないぞ」
「承知しています。今回の件は、我々の個人的な行動です。主任は知らなかったことにしていればいい」
しばしの沈黙の後、主任が口を開いた。
「わかった。ただし、一つだけ脳みそに刻み込んでおけ、相手が神父様だからって油断するなってことだ。私は若い頃に大使館員の肩書きでローマで活動していた。その時に、あるアメリカ人の投資家がヴァティカン銀行とトラブルを起こして、私が調査に当たり、ヴァティカンの神父たちから事情聴取をしたが、それは酷いものだったよ。ごまかし、詭弁、嘘のオンパレードだ。だれ一人として、まともに答える奴なんていなかった。本当に聖書を読んだのかって言いたいくらいだ。良いか、奴らが相手にするのは神様だけなんだ。人間なんてゴミ以下にしか思ってないんだ。だから自分の神様を守るためには何だってする。気に入らないものは全て魔女裁判にかける連中なんだ。あそこが神聖な場所なんて、微塵も思うな。あそこは悪魔の城だ」
主任の真剣な眼差しに、花暖は一瞬たじろいだ。
「我々も、カノンやアリアがいる以上、危険なことはしません。しかし、主任の言葉は肝に銘じておきましょう」
ハリーが答えた。
「良いだろう。連絡だけは、毎日入れるんだぞ。それと、ミス・カノン。危なくなったら、真っ先に逃げるんだ。わかったね」
主任に笑顔で応えた花暖だったが、一人無関心にテレビを見ている亜麗亜に目をやり、亜麗亜を置いて行くかどうかを迷っていた。
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