第三章(二)
出発は次の日の月曜日の午後となった。学校には仕事で、しばらく休むと届けた。黒田もプロダクションには、最初にミチルが持ってきた仕事の話しとして報告している。この件に関しては口外しない。また、教皇が運良く意識が戻っても、花暖たちの存在を一切公表しない約束をした。
アメリカに行くのは、花暖と亜麗亜、ミチルの三人だけ、父や母は見送りだ。父は仕事でアメリカにも来るので、その時は会う予定だ。アメリカでの仕事はミチルに全て任すという話しにしているので、黒田はミチルに本当に仕事になりそうな話しをもらい、花暖たちが治療に専念している間に、そちらに力を注ぐと言っていた。
「二人とも、風邪なんてひいちゃだめよ。ガラガラ声で歌えないから」
母が花暖と亜麗亜の頭を撫でながら言った。
「うん」花暖が笑顔で返し、亜麗亜を後ろから抱きしめた。「あのね、帰ってきたらお母さんの作った、ちらし寿司が食べたい」
「はい、はい。じゃあ、美味しいの作って待ってるからね」
母の言葉を最後に、花暖たちは搭乗ゲートへ歩き出した。
ワシントン行きの飛行機に乗り込む。亜麗亜とミチルが二人で座り、花暖は二人の後ろの席に一人で座る。花暖の横はわざと空席にしてある。ワシントンまでの十数時間、亜麗亜に対する心理テストやカウンセリングを行うためだ。
花暖は自分も受けるのかと、以外だった。ミチルの話しでは、本人だけでなく、家族との関係も調べないといけないからと言われた。亜麗亜に、あんな酷い行為をしてしまった花暖は、それを聞いて心配になった。
亜麗亜はミチルにすっかりなついていた。さすがにセラピストだけあって、人の心をつかむのが巧い。ミチルは亜麗亜と遊びながら、テストを行っているようだ。
機内の照明が落とされた。亜麗亜を見ると、眠っている。花暖はまだ眠れなかったので、読書用の照明をつけて、本を読んでいた。乗客は以外と少なく、まばらだったので、回りを気にする必要もない。わざわざ、花暖の横の席を確保することもなかった。
ミチルが花暖の横に来た。
「眠らないなら、お話ししていいかしら」
花暖は小さな声で、はい、と返事をして本を閉じた。
「何の本なの」
「マリア様について、書かれているんです」
あの夜から、花暖はこの本を読んでいない。自分のような者が、マリア様を調べるなんて、おこがましい気がしたからだ。
「あら、あなた、カトリック信者だったの。資料には、書いてなかったわ」
「そうじゃないんですけど、アヴェ・マリアを歌うために、読むように歌の先生から言われたんです」
「それで、何かわかった。得るものはあったの」
「まだ、よくわからないですけど。マリア様も私と一緒だなと思ったんです。神様から一方的に、イエス様の母親役を押しつけられて、一生をイエス様を育てるために、捧げさせられたんですから。その代償に神様みたいに崇められたって、嬉しくない」
「歌が嫌いなんだ。お祖父さんが歌えって言ったから」
「嫌いじゃないです。でも何だか、自分の意思が無いようで、嫌なんです」
ミチルが、手を差し出すので、持っていた本を渡した。ミチルは数ページ、パラパラとめくる。
「漢字が多くて、読めないわ。私、喋るのは得意なんだけど、漢字って苦手なの。書けるのは、自分の名前の『未散』と、ママの名前くらい。でも、漢字って便利よね。文字そのものが、意味を伝えているんだから、誰が書いたって同じ意味にとれる。だけど言葉は同じ文章でも、言ってる人によって、違った内容になるもの。歌だってそうよ。同じ歌でも、歌手によって伝わり方が違う。やっぱり、それには声っていうものが、重要な役割をしていると思うの」
「その話しなんですけど」花暖はミチルから本を受取ながら言った。「歌で、意識不明の人が目を覚ますなんて、信じられないんです。意識が無いなら、歌なんて聞けないじゃないですか」
「そうでもないわよ。意識不明って、必ずしも患者さんが何も意識していないと言う意味じゃないの。外にいる私たちに患者さんの意識があるのか無いのかわからないと言う意味もあるの。脳の障害で、神経の一部が遮断されて、考えていることが、口や手足に伝わらなくて、表現出来ないだけの人もいるの」
「聞こえている、場合もあるんですか」
「実際に意識が回復した人で、枕許で家族が、もう駄目かも知れないって言っているのを覚えている人もいるわ」
「でも、教皇様が、そうだとは限らないでしょ」
「声って、要するに空気の振動なの。電波と同じ、合成された波形に過ぎない。電波は目に見えないし、耳にも聞こえないけど、ラジオやテレビなどの受信機を媒体として、我々は映像や音声を認識出来るでしょ。それと一緒で、人間は耳だけじゃなく、その他の器官で、可聴周波数を外れた音を認識しているのよ。だから、意識が無くて歌が聞こえなくても、あなたたちの歌声が教皇様に伝わるはずだわ」
「だからと言って」声が大きくなったので、慌てて、小さい声にした。「声が伝わったって、その遮断されていた神経がつながるのとは別じゃないんですか」
「人間はね。絶えずリズムをきざんで生きているの。心臓は勿論、細胞の一つに至るまで、固有のリズムがあるの。だから、神経細胞の持つ波長で刺激してやれば、遮断していた神経が復活する可能性はある。でもそれだけじゃ駄目で、亜麗亜ちゃんもそうだけど、外界との接触を絶っている人は、深層意識がそうさているの。だから、言葉では言い表されない感情を、その人の深層意識に訴えかける必要があるわ。あなたたちの歌声には、特殊な波長が含まれていて、それが教皇様の持っている波長と合致したのよ。前にも言ったでしょ、イルカの超音波の話し。あれと同じで、イルカの超音波の語りかけが、人の心を癒すんだと思うわ」
そういえば、テレビで、イルカと自閉症の子供が遊んでいる映像を見た。最近では、イルカに触れ合うツアーなども企画されていて、参加者がイルカに、べたべたと触っている光景も見た。
スチュワーデスが花暖の席に近づいて来た。いくら乗客が少ないとはいえ、夜中に少し話しをしすぎたみたいだ。
ミチルが亜麗亜の隣の席に戻ろうと立ち上がった時に、花暖はミチルに聞いた。
「イルカは、誰に癒してもらえるんですか」
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