第三章(一)
父の車で仕事の依頼人の指定するホテルに向かう。助出席に母、花暖は亜麗亜と後部座席に乗った。亜麗亜と目を合わさないように窓の外ばかり眺めていた。
昨日は亜麗亜と二人で抱き合い泣きながら眠った。
朝目が覚めると亜麗亜がベッドから消えていた。慌てて亜麗亜の姿を探した。まさか昨夜の出来事を苦にして自殺。そんな考えが浮かんで亜麗亜の部屋に走った。そこには花暖の心配をよそに、鏡の前でポーズをとっている亜麗亜がいた。
亜麗亜は花暖に気づくと洋服を両手にぶら下げて花暖に見せてくる。一つは白いワンピース、もう一つは紺のジャケットに黒のスカート。今日着ていく服を選べと言うのだ。戸惑いながらジャケットの方を指差した。亜麗亜は笑顔で頷くとワンピースを放り出してジャケットを壁に掛けた。
亜麗亜の首に目をやると薄く赤いあざが残っていた。改めて自分のした行為の愚かさに後悔した。
黒田から電話がかかってきたのは出かける直前だった。初めの約束では事務所に向かうはずだったが、花暖が悩んでいると知って、直接会いたいと言ってきたらしい。そこで急遽依頼人の宿泊しているホテルで落ち合うことになった。
着いたのは十時を少し回った頃。ロビーで黒田と合流してエレベーターに乗る。19階で降りて黒田がチェックインカウンターで来たことを告げる。
出迎えたのは見覚えある女性だった。たしか名前をミチルと言った。
「来てくれたのね。ありがとう」
ミチルは花暖と亜麗亜の手を取ってそのまま部屋に引き入れた。
大きなスイートルームだった。部屋の中央のソファーに案内された。花暖と亜麗亜は並べて座らされた。
全員が席に着いた花暖の右隣に黒田亜麗亜の左に父、母の順だ。
ミチルは花暖の向かい側の単独の椅子に座る。ミチルの左隣にもう一つ椅子が空いていた。
ルームサービスの運んできた飲み物が置かれる。大人達はコーヒー、花暖と亜麗亜にはオレンジジュースが配られた。
ミチルはブラックコーヒーを一口すすると話し始めた。
「本日はお集まりいただき有り難う御座います」
ミチルが自己紹介代わりに名刺を全員に配る。日本語で書いてあった。肩書きは『心理セラピスト』となっていた。
「以前いただいた物とは違いますが」
「ごめんなさい黒田さん。訳あって身分を隠していたのです」
「そんな怪しげな人と同席するのはごめんですな。帰らせてもらいます」
父が間髪を入れずに席を立ちかける。仕事に反対だった父にしてみればミチルが身分を隠していたことは言い口実になったようだ。これで黒田への顔が立つと思ったのだろう。
「おかけになって頂けませんかお父さん。お帰りになるならお止めしませんが、もう少しだけ私の話を聞いて貰えませんか」
ミチルは冷静な態度で言った。表情も変わっていない。
「そうよ、お話を伺ってからでもいいじゃない」
母がなだめると、父はいささか性急過ぎたと思ったのか、ばつの悪そうな顔で腰を落とした。
ミチルは母に軽く微笑み、話しを続けた。
「黒田さんには、さる実業家からの依頼で私が代理人ということでお話していたんですけど、それはこの仕事が極秘任務だからです。本当の依頼人はFBIです」
任務だのFBIだのの聞き慣れない言葉に花暖の思考は停止した。
「あなたはFBIの方なのですか」
父がやっとの事で言葉を発した。
「厳密に言うと違います。私はFBIの職員支援プログラム、ESPと呼んでいますが、FBI捜査官の心理セラピストです。しかし今は臨時にエージェントとして活動しています」
ミチルが手帳とバッジを父の前に差し出した。父はそれを手に取って丹念に調べている。
「以前FBIを取材した事がある。その時見たバッジに確かに似ている。EAPの存在も聞いたことがある。しかし簡単には信用できない。あまりにも話しが突飛すぎる」
「本当なら身分を明かさないつもりでした」父からバッジを返してもらいながらミチルが話す「でもこのまま黙って花暖ちゃんと亜麗亜ちゃんを連れ出すのは不可能と判断して、ここに集まってもらったのです」
「私たちが犯罪に関係しているのですか」
花暖は黙って聞いていたが、見えない話しにたまりかねて口を開いた。
「いいえ、そうじゃないわ。あなたたちには人助けをして欲しいの」ミチルは花暖に微笑んだ。「ローマ教皇が倒れたのは知っているわね」
花暖は無言で頷く。
「場所は言えないけど、現在はある病院で治療中なの。体の傷は治ったけど、車から落ちて頭を打って意識不明。多分神経の何処かが分断されたのね。でも、あなたたちの歌が一瞬だけ意識を呼び起こしたのよ」
「私たちの歌にそんな力はありません。偶然じゃないんですか」
「最初は私たちもそう思ったわ。でも調べるうちに歌や音に不思議な力があることがわかってきたの」
「ゆらぎってやつですか。それなら以前、科学雑誌で取り上げられて実験に参加しましたけど、気持ちが落ち着くとか集中力が出る程度で、病気を治す力があるなんて言ってませんでしたよ」
「それだけでは、ないのよ」ミチルはまた一口、コーヒーを飲む。「声には、耳で声として聞き取れる一六㎐~二0k㎐までの音と、それを外れた、音として認識出来ない音。いわゆる、超音波や超低周波が含まれている場合があるの。あなたたちの歌声を調べた結果、特に超音波が含まれていることが判明したの。超音波には、人の気持ちをリラックス効果があるのがわかっているわ」
「でも、それくらいじゃ」
言いかけた花暖をミチルが片手で制した。
「音を馬鹿にしちゃいけないわよ。例えば、イルカに触れ合って、自閉症の子供が治ったなんて話しを聞いたことがあるでしょ。最近の研究では、それはイルカの出す超音波がなんらかの影響を与えていると言われているの。それだけじゃない。イルカやクジラの仲間には、超音波や超低周波を武器として使って、魚を捕ったりするものもいるわ。コウモリは、超音波をレーダーとして使用しているし」「だから、どうだって言うんですか。私はイルカやコウモリじゃありません」
花暖は、自分が怪獣みたいに言われている気がして、少しむっとした。
「ごめんなさいね」そんな花暖を見て、ミチルが笑いながら謝る。「話しがちょっとそれたけど、それだけ音には大きな力があってこと。私たちは日常、いろんな音に囲まれて生きているの。音が私たちの体に与える影響は、想像以上なのよ。音によって、病気が治る人もいれば、反対に悪くする人もいるの。そして、あなたたちの歌には、人を癒す力があるわ」
言葉の最後になると、ミチルは花暖を真剣な眼差しで見つめていた。
花暖が反論しようとした時、先に父が口を開いた。
「でも、先程から、『あなたたち』と言われていますけど、花暖はともかく、亜麗亜は今は歌えません。ミチルさんのご希望を叶えるのは、無理だと思いますが」
花暖も同じ意見だった。ミチルが真剣なのは、何となく理解が出来る。でも、無理なものは無理なのだ。
「そのために、私が派遣されたのです。心理セラピストとして、今までにも、何人かの亜麗亜ちゃんのような子供を治してきました」「しかし、何人ものセラピストやカウンセラーに、亜麗亜を診せたが、この子は未だに話すことが出来ないでいる。今更、あなたが診たところで、治るとは思えませんが」
「勿論です。私一人では限界があります。亜麗亜ちゃんの治療には、FBIはもとより、アメリカ政府が完全にバックアップします。恐らく、世界最高の治療が受けられるはずです」
父が何かを言いかけた時、ドアをノックする音が聞こえた。
「もう一人のお客様がいらしたようね」
ミチルが席を立ち、ドアを開ける。花暖はそれを目で追う。なぜかミチルは困惑したような顔をしている。
そこには、初老の男の人が立っていた。後ろにはもう一人、もう少し若い男がひかえている。二人はミチルの案内で部屋に入って来た。
どこかで見た顔。思い出した、国会中継やニュース番組で見かける人。この間も、どこかの国の偉い人とテレビに映っているのを見かけた。外務大臣の、確か飯塚という人だ。「遅れて来て、悪いが。この後も予定が詰まっているんだ。早く済まそう」
飯塚は、ずかずかと、ミチルに案内されて席まで歩く。偉そうな人。花暖はそう思った。
他の人たちを見ると、亜麗亜以外は、呆気にとられている。花暖もあまり興味がないので、それほど緊張はしていない。
「始めまして、飯塚です。よろしく」
一礼して腰を下ろしたが、言葉の丁寧さとは裏腹に、椅子にふんぞり返っている。後ろにはもう一人の男の人が立つ。多分、秘書なのだろう。
「私だけでは、信用してもらえないと思って、外務大臣に来ていただきました」
「この件には、日本政府も関与している、ということですか」
まずい、と花暖は思った。父の顔が、ジャーナリストの顔になっている。
「そうでは無いが、我が国と米国とは協調関係にある。米国政府からのたっての願いとあれば、致し方ない」
「政府が、一宗教に力を貸すというのですか」
「ヴァティカンは単なる宗教国家では無い。いいかね、カトリック信者は世界で十億人と言われている。全世界の五人に一人の割合だ。その中には世界各国の要人もたくさんいるんだ。ヴァティカンは、国土面積こそ小さいが、国民が世界中に散らばった、世界最大の国ともいえる。その国の元首が倒れたとあっては、国際儀礼上、知らぬ顔も出来ないではないか」
人を威圧するような大きな声。これが、この人の武器なのだろう。それにしても、国会の会議場ならともかく、この小さな部屋でやられてはたまらない。ましてや、極秘の会談をしているというのに、誰かに聞かれたらどうするのだろう。この人は、あまり利口とは思えない。典型的な日本の政治家だ。
「しかし、教皇が倒れたのは、アメリカ政府の責任じゃないですか。いくら、要請があったとはいえ、外務大臣が直々に出向いて来るとは、解せませんね。裏があるとしか思えない。アメリカに恩を売っておいて、その見返りを狙っているんじゃないですか」
「馬鹿な憶測をするんじゃない。これだから、字書き屋は嫌いなんだ」
真っ赤になっている。父は痛い所を突いたようだ。
「大体、米国政府が君の娘の病を治してやると言っているんだ。黙って行けばいいじゃないか」
「いい加減にして下さい」テーブルを叩く音と振動と共に、母が叫んだ。「今は、娘たちと教皇様の未来がかかった問題を話しているのですよ。国家間の利害なんて些細なことで言い争っている場合じゃないはずです」
母が言い終わると、透かさずミチルが立ち上がった。
「飯塚外務大臣、ご協力ありがとうございました。後は私が話します。どうぞお引き取りを」
ミチルは手をドアに向けている。
「失礼じゃないか」
憤慨しているが、動揺しているようにも見える。
「私はFBIからこの件に関して全権を任されています」ミチルが外務大臣の言葉を遮る。「本来、あなたの力を借りるつもりはありませんでした。これ以上あなたがここにいて、話しがこじれた場合、私はあなたを提訴しますが、それでもよろしいですね」
しばらくミチルと外務大臣のにらみ合いが続いたが、やがて外務大臣が立ち上がった。
「勝手にしろ。どうなっても知らんからな」
外務大臣は秘書を連れて、出て行った。ドアが閉まった瞬間、ドアを蹴ったような音がした。
父を見ると、母に叱られたので、またばつの悪い顔をしている。
「ごめんなさいね。だから、政治家なんて呼ぶのは嫌だったの」ミチルが花暖と亜麗亜の顔を見ながら、謝った。「だけど、あなたたちのお母さんて、カッコいいわね。憧れちゃうわ」
恥ずかしそうにしている母を見て、花暖と亜麗亜は顔を見合わせて笑った。
一呼吸おいて、ミチルが再び話し始めた。
「話しを戻しますが、私たちは全力を尽くして、治療に当たります。どうか、ご承諾願えませんか」
「いいですか」おずおずと、母が言った。「これは、強制的に、この子たちを連れて行っても駄目だと思います。もし、亜麗亜の声が戻っても、心のこもらない歌で、教皇様が目を覚ますでしょうか。私はこの子たちの気持ちに任せようと思います。この子たちが嫌だと言った時は、残念だけど、諦めて下さい」
ややあって、ミチルが口を開いた。
「そうですね。セラピストの私が大事なことを忘れていました。わかりました、この件は花暖ちゃんと亜麗亜ちゃんの意思に任せたいと思います」
ミチルが花暖たちに向かう。
「もう、私は何も言わないわ。自分で決めて」
「でも、もし私が断ったら、ミチルさんの責任になるんじゃないですか」
「それは、気にしなくていいの。なんとでもなるから」
花暖の気持ちは決まっていた。教皇さまや、ミチルには悪いが、亜麗亜を政治の道具にするなど出来ない。アメリカ政府が治療してくれると言うが、さっきの飯塚のような政治家に振り回されて、最悪の結果になる可能性も非常に高い。それに、肝心の亜麗亜に治る気持ちが無ければ、どんな治療も無駄になる。
返事をする前に、亜麗亜を見た。亜麗亜も花暖をもの言いたげに、見つめていて、花暖はその瞳の奥にある思いを読み取ろうとした。 突然、亜麗亜が立ち上がった。そのまま、ミチルのもとまで、歩いて行く。亜麗亜はミチルの手を両手で握り、微笑んだ。
「本当にいいの、あっちゃん」
花暖が驚いて立ち上がり、亜麗亜の肩を抱く。亜麗亜は振り返り、大きくうなずいた。
しばし、花暖は亜麗亜を見つめていたが、やがて、ミチルに言った。
「わかりました。アメリカに行きます」
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