第二章(五)

 時計の針は既に夜中の2時を回っていた。今日は黒田が持ってきた仕事を受けるか断るかの返事をする日だ。

 早く眠らなければいけない。そう思いながらも花暖は眠れずにいた。返事がまだ決まっていない。いや、九割は決まっている。

 断るしかない。亜麗亜を人前に立たせるわけにはいかない。それは十分わかっている。しかしそれでは自分の気持ちは。

『歌いたくないの』心に問いかける。

 分からない。自分でもどうしていいのか。本当に歌が好きなのか、それともただ歌うことが自分を表現出来る唯一の手段だから歌っているのか。

 あの事件が起こるまでは、祖父に言われるままに歌ってきた。何の疑いもなかった。でも祖父が亡くなってからは自分の進むべき方向が見えなくなった。

 誰も花暖に歌を強要しない。自由になれたはずだ。

 歌いたければ歌えばいいし、歌いたくなければ歌を捨てればいい。でもどちらも選べなかった。誰かに従うことに慣れてしまって、自分で決断する力がないのだ。他人の手によって始まった花暖の人生。その方向を変えるのは、やはり他人の手によってでないと難しいのかも知れない。

 でもその肝心の祖父が亡くなってしまい、花暖の呪縛を解く者がいなくなり、花暖の心はますます迷路に入り込んでしまった。

 大きくため息をつきベッドの上に体育座りになり、一冊の本足下に置いて表紙を見つめた。題名は『海の星』マリア様のことをこう呼ぶのだそうだ。

 米山にマリア様について調べるように宿題をもらったので早速次の日学校の近くの本屋で買ってきた。

 しかし花暖が今その本を目の前にしているのは宿題をするためではない。答えを見つけるきっかけが欲しかったからだ。

 栞の紐を摘まんでページを開く。半分位まで読んだ。ここまで読んで分かったのは、聖書の中でマリア様についての記述は意外に少ない。この本によると、マタイやルカの福音書には処女懐胎の記述はあるものの、マルコやパウロの福音書には書かれていない。ヨハネの福音書には神に選ばれた特別な女性ではなく、普通の女性としてのマリアが登場するだけだ。福音書全体でもマリアの記述はほんの数ページあるかないかなのだそうだ。

 その数行の記述からマリア学なるものが発展し、それこそ世界中で知らぬ者がいないほどの母親の代表になった。

 それともう一つは、マリア様を神格化しているのはカトリックで、プロテスタントはあくまでもマリア様は神を産んだ女であり、神ではないとして崇拝の対象にはなっていない。宗派によっては話題にものぼらないらしい。

 本の続きを読み進める。『この人も私と一緒だ。だって神様に無理矢理イエス様を産まされたんだもの。それで勝手に周りに祭り上げられたんだもの』

 マリア様に同情した『抜け出せなかったんだ』

 神に与えられた道を進み続け、イエスの母親と言う肩書きだけが存在理由であり、自分というものがなかった彼女に憐れみを感じた。

 答えを求めて読み出した本だったが、マリア様の運命に自分を重ね合わせることで、ますます落ち込む結果になってしまった。

 これ以上読み続ける気力が無くなり本を閉じた時だった。視線を感じドアに目を向けると微かにドアが開いている。

 訝しげに、そしてやや恐怖を覚えながらドアを凝視していると、ゆっくりドアが開いていき人影が現われた。

 一瞬体を硬くしたがすぐに力が抜けた。そこに立っていたのはパジャマを着て枕を抱いた亜麗亜だった。

 ドアの陰で立ち尽くす亜麗亜を招き入れる。

「おいで」

ベッドの端に寄り、亜麗亜の入るスペースを空けると、亜麗亜はうつむいたままベッドにもぐり込んだ。

 亜麗亜も眠れないのだろう。自分の事で皆が悩んでいるのを知っているからだ。

 花暖も亜麗亜と枕を並べて布団の中で手を握ってやった。暫くの間黙っていたが静かに話し始めた。

「あっちゃんは気にしなくていいんだよ。これはお姉ちゃんの問題なんだから」

 亜麗亜が花暖の腕に顔を押し当てて小さくかぶりを振る。

「歌いたいの」

 亜麗亜が顔を見つめてくる。妹のその瞳が語る言葉を読み取ろうとした。

 妹にとっての歌とはなんだろう。自分と違い、妹は祖父に強制されたのではなく、花暖の歌う姿を見て自然に真似ながら歌うようになった。自分の意思で歌ったのだ。そして自らの『深層にある意思』で歌わなくなった。自分で決めた道だから自分で道から外れた。花暖のように他人の手助けを必要としないのだ。いっそ声が出なくなったのが自分だったら気が楽だったのにと思った。『あっちゃんが羨ましい』そう考えながらも亜麗亜を慰めようと話しを続ける。

「あっちゃんはおじいちゃんが大好きだったんだよね」

「そのおじいちゃんが死んじゃったから歌わなくなったんだ。でもお姉ちゃんはおじいちゃんが嫌いだったの。怖かったから、歌わないと叱られたから」

 亜麗亜を慰めなければと思いながら、口から出た言葉は祖父への恨みに変わってしまった。

「最初は楽しかった。簡単な歌を歌っただけで褒めてくれたから。でも、だんだん難しい歌を歌うほど厳しくなってきたの。舞台が終わってからも出来なかった所を何度もやりなおさせられたの。疲れたから休みたいって言っても許してくれなかった」

 視界がぼやける。話しを止める事が出来ない。

「お友達もあまりいなかった。学校が終わったらすぐにレッスンがあったから遊べなかったの。米山先生は好きだったけどお友達じゃないもの。あっちゃんはそんなことなかったよね。歌うの上手だったからあまり練習しなくてよかったから。でも私は下手だったから何倍も練習しなくちゃいかなかったの」

 亜麗亜とつないだ手に力が入る。

「あんなに一生懸命練習したのに褒めてくれなかったの。だから褒めて欲しくてもっもっと練習したの。でも褒めてくれないまま死んじゃった」

 ここまで話した時自分の中から自制しようのない何かがこみ上げてくるのを感じた。

「皆はね、私一人の歌じゃ聞いてくれないの。あっちゃんと一緒じゃないと駄目なんだって」

 亜麗亜の手を振り払い、布団をはねのけ亜麗亜に馬乗りになる。

「どうして歌わなくなっちゃたの。お姉ちゃんが嫌いだから。お姉ちゃんが困るのを見たいから」

 亜麗亜は大きく首を振った。

「だったら歌って。ほら、Aの音出してごらん」

 亜麗亜は口を開けて声を出そうとしているが、うめき声のような発声にしかならない。そんな妹を見ながら両手を亜麗亜の首に絡みつかせた。

「やっぱりあっちゃんはお姉ちゃんが嫌いなんだ。歌えなくなった鳥がどうなるか知ってる。殺されちゃうんだよ」

 亜麗亜の首にかかっていた手に力が入り、徐々に絞まっていく。

 花暖の目に涙が溢れてくる。自分で何をしているのか分かっているが、それを止める事が出来ない。

 亜麗亜も泣いている。しかし抵抗する気配が全く無い。ますます腕に力が込められた。

 亜麗亜が口を大きく開け、舌をばたつかせ、白目をむいた刹那、花暖を支配していた何かが突然体を離れた。

 花暖の力が抜ける。

 慌てて亜麗亜の首から手を離した。

 亜麗亜は体を起こし首を押さえて大きな咳を何度もしている。

 花暖は震えながら、膝立ちになったまま呆然と見つめている。

 呼吸が整った亜麗亜が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を花暖に向けてきた。

 花暖は事の重大さに気づき、震える手を差し伸べながら、ゆっくり亜麗亜に近づく。

 亜麗亜も両手を前に出し花暖の手を求める。

「ごめんね。ごめんね」

 亜麗亜を抱きしめながら、何度も何度も泣きながら謝った。亜麗亜も花暖にしがみつきながら泣いている。

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