第二章(二)
歌の先生の米山は、祖父の恩師の息子で祖父よりも少し年下。若い頃に世界中を旅してきてクラシックのみならずいろんな民族音楽にも精通している。
花暖の最初の先生で、この人に才能を見いだされたと言ってもいい。アメリカに住んでいた時もよく遊びに来てくれていた。花暖や亜麗亜も米山にはなついていたし、子供のいない米山も花暖たちを孫のように思っているようだ。
先生の家は花暖の家から歩いて二十分の所にある。
玄関の『春の第三楽章』のチャイムを押すと、ピンクのシャツにジーンズ、頭にはシャツと同じ色のベレー帽をかぶった先生が出迎えてくれた。
花暖は亜麗亜の頭を手で下げながら挨拶をして家に上がる。米山に先にレッスン室に行って準備をするように言われた。
レッスン室は廊下の突き当たりを右に曲がった一番奥。中には電子ピアノやヴァイオリンなどの楽器が置いてある。グランドピアノは無い。
米山によるとピアノは歌、特に合唱には適さない楽器なのだそうだ。ピアノは十二平均律音階で調律されている。しかし自然に発せられる音は純正律音階に従っている。その二つの音階には微妙な周波数のズレが生じるため十二平均律音階に合わせて合唱すると上手くハーモニーが得られない事がある。
花暖も何度かピアノ演奏で亜麗亜と歌ったが、その度に気持ちが悪い思いをした。特に花暖のような過敏な耳を持っているとその度合いが強い。花暖はピアノ単独の音も不自然で嫌いだ。
ピアノの様な鍵盤楽器を純正律音階に調整すると、各調ごとに調整しなくてはならない。従って途中で転調が出来ず、ハ長調ならハ長調でしか演奏出来ない。それを解消するためにわざと音程をずらし全ての調に無理矢理対応させたのが十二平均律。
それを嫌った米山はピアノの代わりにスイッチ一つで調律を変えられる電子ピアノやシンセサイザーを使っている。
先生が来るまで腹式呼吸で精神のリラックスと体の調整を行う。とりわけ声帯の緊張を解きほぐしコントロール出来るように体を調整する。
花暖の声帯はハイソプラノやコロラトゥーラソプラノ、それ以上の非常に高い周波数の声が出せる。
また花暖は通常の声から裏声への声区の切り替えが非常に上手く全く違和感がない。
呼吸法が一通り済んだ所で亜麗亜に目をやると、置いてあったヴァイオリンを手に持っていた。しかし祖父に弾き方を教わっていて知っているはずなのに、持っているだけで弾こうとしない。
やがて米山が入ってきた。
今日の課題の楽譜を渡された。
「アヴェ・マリアですか」
「そう、カッチーニのね。歌詞は“Ave Maria”だけ。それを感情込めて歌ってごらん」
そう言われて困惑した。歌詞があれば情景が浮かんで感情移入しやすいが、こんな歌詞が無いに等しい歌をどうやって歌ったらいいのか分からない。
「僕が思うに花暖は技術的には完璧だ。でもね、技術も大事だけど歌は心で歌うものなんだ。花暖にはそれが欠けてる。まだ十六歳だからしょうがないと思うけど、プロの歌手としてやっていくなら、そういう勉強もこれからは必要だよ」
それは感じていた。新聞や雑誌で褒め称えられるのは歌の技法で感動をしたなどの論評は極端に少なかった。
コンサートでも観客の拍手がどこに向けられているかわからない時がある。このままではいけないと思っていた。
「とにかく一度歌ってごらん」
米山に言われて歌ったものの、納得のいく出来映えではなかった。自分がもどかしくってしょうがない。
「なにがいけないんでしょうか」
自分でも信じられないくらいにか細い声で聞いた。
「それは花暖が自分で探さなくちゃ」
その後も何度も歌ったが進展はなかった。
「花暖はマリア様について知っているかい」
「キリストのお母さんて事だけ」
「まずはそこからだな。歌の題材を知ることだよ」
考えてみればこれまでにもマリア様のみならず、宗教に関係した歌もたくさん歌ってきた。しかし歌詞の意味を深く考えなどしなかった。
キリスト教徒ではないし他の宗教を信仰しているわけでもない。何かしらの影響は受けているのだろうが意識したことはない。
ローマ教皇の前で歌った時もそれ程緊張しなかった。サン・ピエトロ広場も大きな野外舞台だなと思った程度だった。
すっかり自分のレッスンに気を取られていて、亜麗亜の存在を忘れていた。悪戯でもしていないかと思い首をめぐらすと花暖の後ろで座り込んでいた。どうやら米山との会話を聞いていたようだ。顔つきは真剣。やはり歌の事になると気になるようだ。
このまま亜麗亜が歌えるようになってくれればと願った。
時間切れでレッスンは終了した。先生からは次回までにマリア様について調べて、歌の背景を理解してくるように宿題をもらった。
帰りは遅くなるので母が迎えに来る。助手席に花暖が座り後部座席に亜麗亜が乗る。
「お父さんは」
「もう帰っているわよ」
父の音弥は、あの事件を機に花暖たちを歌の世界から遠ざけたかったみたいだ。米山のレッスンを受けに行くのも快く思っていないようだったが、周りからの勧めもあって何とか認めてもらった。
父はフリーライターで芸能界の情報にも詳しい。それだけに花暖や亜麗亜を普通に育てたいのだろう。
現在はアメリカと日本の二重生活を送っている。
慌てて帰って来たので向こうでの仕事も沢山残っているし、日本での仕事の段取りもまだ出来ていない。約一ヶ月ごとに日本とアメリカを往復している。
「黒田さんが来ているの。仕事の話しがあるみたいよ。お父さんはあまりいい顔はしていなかったけど」
マネージャーの黒田は仕事がなくなった花暖のために走り回ってくれている。
家に着き中に入るとダイニングから二人の声が聞こえてきた。声の様子からするとかなりもめているようだ。
「・・・・・・だよ黒田さん。まだそんな状態じゃじゃないんだから」
「でもですね、これはチャンスなんですよ」
「ただいまお父さん。いらっしゃい黒田さん」
二人に割って入った。取りあえず最初から話しを聞かないと分からない。
「お帰り花音ちゃん」
黒田の援軍を得たかのような笑顔に迎えられた。
黒田は真面目で花暖たちのためによく働いてくれるが、少々やり過ぎる時があり、しばしば父と対立する。
食卓の父の隣に座る。
「お仕事の話しって聞きましたけど」
「そう。何でも海外の富豪なんだけど、豊嶋姉妹の大ファンなんだって。その人の主催するコンサートに二人で出演して欲しいいんだ。歌うのは花暖ちゃんだけで、亜麗亜ちゃんは横にいてくれるだけで良いって言ってくれてるんだ」
脳裏に昼間の女性が浮かんだ。タイミングが良すぎる感じがする。
「だから駄目だって。花暖だけならともかく亜麗亜は人前に出せる状態じゃないんだ。どうしても二人でないと駄目ならその話は断ってくれ」
「これだよ。花暖ちゃんもお父さんを説得してよ。お仕事したいでしょ」
「でも」
妹に視線を移した。自分の事が話題になっているので気にしているようだ。母の後ろに隠れて背中にしがみついている。仕事をしたいのはやまやまだが、亜麗亜を人前にさらすなど出来ない。
気を利かした母が亜麗亜を連れて出て行った。
花暖は黒田に向き直る。
「一度その人と話しをさせてくれませんか。ちゃんと説明して分かってもらいますから」
「そうは言ってもねぇ」
「ここらが潮時じゃないか花暖。普通の生活に戻るチャンスだ」
「何言ってるんですか。逆ですよ。これから更に飛躍するチャンスなんです。豊嶋花暖の存在を再び世間に認知させるんですよ」
どちらの言ってることも正しいように思える。
しばしの沈黙があった。
「もう少しお時間頂けませんか」
「先方は出来るだけ早くと言っているんだけど。分かった今度の日曜日まで待ってくれるように頼んでみる」
黒田は席を立った。
「でも、お父さん。僕はこの仕事にかけてますから諦めませんよ」
黒田を見送り家族そろっての夕食になったが、父は何も話さず亜麗亜も落ち込んで料理にあまり手を付けていない。いつもは母の楽しいお喋りで盛り上がるのだが、今日はとても気まずい雰囲気での食事になってしまった。
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