第二章(三)
レオの車はアカデミーの車なので乗り捨ててきた。後で職員が処理するだろう。ハリーのBMWは金をかけて改造しているだけに乗り心地が良い。
車に乗るなり渡された資料を眺める。教皇の治療経過が書いてあるらしいのだが、ちょっとした辞典くらいの分厚さだ。
「俺、車で本を読むと酔っちまうんだよ」
ハリーに訴えたが無言で拒否された。一瞬窓の外の木々に目をやったが、諦めてページをめっくった。
初めの方はケガの部位や傷の大きさなどが書かれている。そのあたりの情報は知っているし、今はほぼ完治しているので読む必要はないので飛ばす。
大幅に飛ばし現在の状態を調べる。意識が戻っていない以外に目立った症状がない。
「俺の診断だと命に別状はない」
「それでは困るんだ。中途半端は」
「じゃあ天国に逝かせてやれよ。神様に会えるなら本望だろうさ」
「貴様がFBIはもとよりアメリカとも縁を切って、我々に迷惑がかからぬように、中東の何処かの国の仕業に見せかけて実行するなら止めはしない」
「俺にどうしろってんだ。さっきも言っただろ、医者じゃないって」「何も貴様に教皇を治せとは言っていない。その先を読め」
再びページをめくる。退屈な小康状態が続く。
「この作家、文学賞なら予選落ちだな」
ページをめくる手が止まった。そこにはこう書かれていた『7月19日。一時意識が回復。歌う』
「どう言う意味だ、歌うって」
つい大きな声が出た。そのタイミングで急カーブを曲がったので、頭をガラスにぶつけてしまった。
「書いてある通りだ。歌ったんだよ。はっきりとじゃないが、側にいた者が確かに聞いたと言っている」
「分かるように説明しろよ」
「その日の午後だ。警護をしていたFBIの捜査官が、不謹慎にも教皇の傍らでラジオを聞いていた。そこへ通常の放送とは違う番組が飛び込んできた。恐らく素人が違法に作った番組と思われた」
「トラッカーじゃないか。走りながら違法にFM放送をながしている奴がいるぜ」
「問題はそこじゃない。流れていた歌だ。その捜査官の証言によると、教皇が突然その歌に合わせて声を上げたと言う。まるで歌っているようだったと」
「偶然だったんじゃないのか。信じられないね」
「しかし音楽によって病状が回復したり、音楽が人の脳波を変えたりするという事例はある」
「知ってるよ。1/fゆらぎってやつだろ。リラクゼーションのCDなんかに使われてる。でも、それとこれとは別だろ」
呆れて資料を後部座席に放り投げた。
「そうかも知れん。しかし我々には僅かな可能性でも見逃すわけにはいかない。そこで我々はその歌を探し始めた」
「なんて曲だ」
「それが、その捜査官はロック専門でな、流れていたのは専門外の曲だった。オペラかなにかだったらしいがハッキリしない。だから、その放送を流していた人物を探す一方で、可能性のある歌を片っ端から教皇に聞かせた。それこそCDショップにある曲全部だ」
「でも目は覚めなかった」
「だが意識こそ戻らなかったが、ある歌手の歌声に対してだけ微かに脳波に反応が見られた」
「誰だパヴァロッティーか」
ハリーがダッシュボードを指さした。レオはそれを開け中から一枚のCDを取り出した。そのジャケット写真には二人の少女が愛らしく笑っていた。
「何だ子供じゃないか。中国人か」
「日本人だ。貴様は知らんだろうが、世界的に有名なソプラノ歌手だ。ラビエルの少女と呼んでいる。癒やしの天使という意味だ」
「何でさっさと呼び寄せて歌わせないんだ。ギャラが高いからなんて言うなよ」
「残念ながら天使は心を病んでいる。現在歌える状態にない」
レオはフロントガラスまで上げた足をばたつかせて笑った。
「悪い冗談だぜ。癒やしの天使が癒やされるのを待っているのか。それを俺にやれって。残念だけど俺が相手にするには若すぎるぜ。後10年は待ってくれないと駄目だな」
「その少女たちには我々が派遣したエージェントが接触している。エージェントが少女たちをアメリカに連れて来た時にサポートにあたるのが仕事だ」
「へっ、馬鹿馬鹿しい。そんな夢物語に付き合ってられるかよ。大体、俺はこの事件には関わりたくないんだよ。名誉挽回のチャンスをくれたつもりなのかよ」
声高にになり、フロントガラスを蹴った。
「さあな、理由は私も知らない」
ハリーが静かに語った。
「貴様を指名してきたのはそのエージェントだ」
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