第二章(一)

 玄関の扉をそっと開けると靴を脱がずに立ち尽くし耳をすます。

聞こえてきたのは母の栞の声だ。声の様子からすると、あまり険悪な雰囲気では無いようだ。もっとも平穏な時などほとんど無い。あるのは必要以上に陽気な時と、無関心、そしてどうしようもなく獰猛な時だ。

 靴を脱ぎ、階段を通り過ぎて、そのまま一番奥にあるダイニングキッチンに向かった。

 開いている扉からそっと覗くと、母が食卓の椅子に座っている妹の亜麗亜の目線まで腰を落として話しかけている姿が見えた。「あっちゃん、お皿並べるの手伝ってくれるかなぁ。もうすぐ、お姉ちゃん帰ってくるから」

 亜麗亜は答えずに下を向いた。

「やっか。やじゃしょうがないなぁ。それじゃあ、お母さんが頑張って一人で並べよう」

 母は左手を腰に当て右手を高々と上げて、ひょうきんで大げさな仕草で立ち上がった。

 そのままの姿勢で食卓を回り込む時に、花暖のいる扉の方に体を向けたので、母に見つかってしまった。

「あら、お姉ちゃんお帰り。最近遅いのね」

 無言で頷き亜麗亜に近づく。

「機嫌悪いんだ今日は」

 そう言って亜麗亜の長い髪を撫でてやると、下を向いたまま花暖のスカートをつかんできた。

 亜麗亜は一昨年にデビューしてから、花暖と二人で可憐な姉妹としてクラシック界の話題を独占してきた。しかし今の亜麗亜にその面影はない。

「そうでもないんだよ。昼間は結構手伝ってくれたんだよ」

 戸棚から食器を取り出しながら母が答える。

「一緒に洗濯物、畳んだんだよねぇ」

 母が亜麗亜に振り返り、首を大きく横に傾け微笑んだ。

 亜麗亜はそれが楽しかったのか、今までとは打って変わり、下を向いていた顔を上げて母と花暖に笑顔をふりまく。

 祖父が死んで亜麗亜の声が出なくなってからこんな調子が続いている。躁と鬱の繰り返し。今日などはまだ良い方だ。時には奇声を発して物を投げつけ、手が付けられない状態になることもある。

祖父が殺されたのは去年の暮れ。あるボランティア団体が主催したミニコンサートだった。花暖がいつも踏んでいる大舞台とは違い、小さな教会で行われた。

 いつものコンサートなら警備の人も多く、会場を出るまで守ってくれる。しかし、あの時はかなりオープンなコンサートだったため、人の出入りが激しく警備が隅々まで行き渡っていなかった。

 歌い終わり、教会を出た時にそれは起こった。花暖は両親と一緒に歩き、その前を亜麗亜が祖父と歩いていた。

 ファンに見送られ、教会の前の短い階段を亜麗亜と祖父が下りた時、若い男が飛び出してきた。その手には大きなナイフが握られ高々と振りかざされていた。

 標的は亜麗亜だったらしいが、祖父が亜麗亜を庇い刺された。男はすぐに取り押さえられたが、祖父は心臓に達する深い傷を負い即死に近い状態だった。

 異常なファン心理。憧れの対象を殺して自分だけの物にしようとする身勝手な思い込み。そのせいで祖父が犠牲になったのだ。

 目の前で祖父が殺されたために、そのショックは大きく、亜麗亜は声が出せなくなってしまった。病名は心因性発生障害。

 医者には環境を変えるように勧められ、もともと花暖たちの歌手活動に消極的だった父は帰国を決めた。

 亜麗亜は小学校に転入し、五年生のクラスに席を置いたが、未だに学校には行っていない。毎日、母と二人で過ごしている。

 この母がいるおかげで陰鬱になりそうな家の中にどうにか小康状態をもたらしている。いつも前向きで明るいこの母に触れて亜麗亜も当初よりは落ち着きを取り戻している。

 母は食器を鏡がわりにして『Ah!je ris de me voir~』 とファウストの宝石の歌~なんと美しきその姿~を歌っている。亜麗亜の機嫌が直ったので嬉しいらしい。

 その様子を見て花暖と亜麗亜は目を合わせて微笑む。

 機嫌が直った亜麗亜は母のもとに行き手伝い始めた。

「お姉ちゃん。早く着替えないとレッスンに遅れるわよ」

 母にせかされて二階の部屋に着替えに上がった。

 夕方五時から八時までは歌のレッスンに通う。その前に花暖だけが軽く食事を済ませ、レッスンが終わる頃に帰ってくる父と一緒に本格的な夕ご飯となる。

 コーンスープとパン一切れで食事を済ました花暖は、レッスンに出かけようとしたが亜麗亜がしがみついて離れない。一緒に行きたいらしい。

 母と相談した結果、連れて行くことにした。亜麗亜のしたいようにさせてやるのが回復の近道だと考えた。

 レッスン先の先生には母が電話で連絡した。以前にも同じ事があり、先生も快く承諾してくれた。


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