第一章(三)
教会を出るとこの辺りも黒い雲が消えて青空が広がっていた。
舗装されていない路には水たまりがいくつも出来ていた。買ったばかりの靴と白い靴下を汚さないように、しきりに飛び跳ねながら水たまりを避けて歩く。未散を見るときびきびした歩きで、器用に水たまりを回避している。
やっとの事で舗装された路に出た二人は並んで歩く。この路は散策コースになっていて、森を一周して再び同じ場所に戻って来るようになっている。
路の両側には白樺の木が規則正しく並んでいる。葉は秋も近づいたせいか少し色が変わり始めている。花暖は殆ど毎日学校帰りに、ここに来て時間を潰す。現実逃避をするにはもってこいの場所だ。
二人はしばらく黙ったまま歩いていた。未散の足音が聞こえる。スタッカートのきいたタンゴのようなリズムだ。
未散を横目で見る。話しかけてくる気配がない。花暖が話しかけてくるのを待っているのだろうか。さっき教会で見せた押しの強さが感じられない。
「私の後をつけていたんですか」
堪えきれずに沈黙を破った。
「本当は駅で待ち伏せしていたんだけど、声を掛ける前にカノンちゃん走り出しちゃうんだもの追いかけるの大変だったわ」
「日本での住所はプロダクションしか知らないはずなんですけど、どうして分かったんですか」
「今みたいな時代に普通に暮らしている以上、完全に姿を隠すなんて無理よ。あなたのご両親のクレジットカードの使用状況を調べたら最近は日本の限られた地域でしか使用されていない。そこから居場所を割り出したの。目撃情報なんかもSNSに載ってたりするからね。本当に姿を消したければ、一つ所に留まるのを止めるか、何処かの山奥で人との交流を一切断って静かに暮らさないとダメよ」
日本に帰ってきてからも不審な視線を感じたり、無言電話がよくかかってくる。人混みにいたくなかったのはそのせいでもあるのだが、改めて聞くと背筋に寒いものが走る。
「脅かすつもりはないのよ。ただ私はカノンちゃんの大ファンなの。カーネギーでのコンサートは最高だったわ。また聞きに行きたいな」
「それを言うために、わざわざいらっしゃったんですか」
訝しげにたずねる。犯罪に関係するような人には見えないが、クレジットカードの使用状況を調べるなんて普通の人ではないのは確かだ。相手の真意がわかるまで用心しなくてはいけない。
「理由の一つではあるわね。でも、あなたの歌を待っているのは私だけではないはずよ」
「ひょっとして仕事の話しでしょうか。それだったらプロダクションを通してもらわないと困るんですけど」
「そうね。でもその前にカノンちゃんの意思を確認したかったの。やる気のない人の歌を聴いたってしょうがないもの」
歌いたい気持ちはいつだってある。でもみんながそれをさせてくれない。
「わたし一人だけですよ」
「やる気はあるってことね。でも妹さん一緒じゃなきゃ駄目なの」
やっぱりそうだ。だれも自分を単独で見てくれない。いつも妹とセットでしか仕事が来ないのだ。
下を向いたまま黙った。怒りを必死で堪える。
「怒ったの。これまでにも同じ事が何度もあったのね。世間は本来の実力よりも見た目の華やかさにひかれるものね。何も分かってない人が多いのよ」
「あなたには分かるんですか。だったらなぜ二人でなんて言うんです」
未散を睨みつけた。
「二人でなきゃ成功しない仕事だからよ。どちらか一方だけでは無理なの。でもカノンちゃんだけでも歌う意思があるって言うのが分かって良かったわ」
「まだやるなんて言ってません。どこの誰だか分からない人と仕事の話しが出来るわけないじゃないですか」
冷静に話しを続ける未散にイライラがつのる。
「酷いことを言ってると思っているでしょう。でも現実を受け止めなければ駄目よ。断るのはあなたの自由だけど、そうしたら歌うチャンスが一つ減るわ」
「現実を見ていないのはあなたの方でしょ。妹は歌えないんですよ。仕事なんて無理です」
「それについては私も考えているわ。最大限に協力するつもりよ。それにはあなたの協力が必要なの。姉としてのあなたの愛情がね。あればの話しだけど」
心がまさぐられた気がした。
「もう止めて下さい。とにかく仕事の話しはプロダクションを通してからにして。ここで失礼します。さようなら」
申し訳程度に頭を下げ、家のある住宅街を目指して走った。
心の中でしきりに『逃げたんじゃない』と自分に言い聞かせながら。
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