第一章(二)
アイドルに憧れているのではない。CDの売り上げでは自分の方が遙かに多いのは分かっている。
『天使の歌声』 『高音の女神』 『天国の女王』などと賛美さてれいた時が懐かしく思える。つい数ヶ月前のことなのに。
このアイドルの少女とは雑誌で対談した事があり、その考え方が自分とは全く違ったのに衝撃を受けた。
彼女は歌も上手く十分アーティストとして活躍出来る。しかし、アイドルとして活動しているのは、その方が皆に注目されるし、お姫様になった気分でいられるからだそうだ。
その考えが良いのか悪いのかは分からない。少なくとも祖父のいいなりになって歌をうたい始めた自分に比べれば、考えて行動している。
歌っているのが自分の意思なのか祖父の意思なのか、楽しいのか楽しくないのか、そもそも歌いたいのか歌いたくないのか、判断出来なくなっている。だからパンフレットのアイドルと自分を比較すると、どうしても卑下してしまう。
良くも悪くもパンフレットに集中出来たせいで、コーラスの不協和音もさほど気にならなくなった。一旦集中し始めると周りが見えなくなる。その集中力のおかげでさまざまな『音』から逃げることが出来るのだ。
「ここ、座っていいかしら」
不意に耳元で声がして体が跳ねた。
声に反応して右に向くと、一人の女性が立っていた。白いスーツの上下に薄いピンクのパンプス。どこかのグラビアから出てきたようなプロポーション。彫りの深い顔立ちに褐色の肌。見た目は日本人に見えない。日本語で話しかけられたが、発音が微妙に違う。でも、アルトの心地いい声だ。
「どうぞ」
緊張しながらも微笑んだ。
彼女は優雅な身のこなしで腰を下ろしす。黒くて長い少しウェーブのかかった髪がふわりと舞う。
『また髪伸ばそうかな』切ったばかりの髪を引っ張った。
彼女の顔が近づく。
「あまり上手じゃないわね。あの人たち」
苦笑いをしながらコーラス隊を見る。視界の端に牧師さんがいた。牧師さんはどうやらコーラス隊よりも、彼女の方が気になるようだ。しかし視線を感じたのか、慌てたように手に持っていた雑誌に視線を移した。
「あなたには辛いんじゃない。耳が良すぎるのも大変ね」
一瞬で体が硬くなった。この人は自分の事を知っている。それもかなり詳しく。歌手であることは知っていても、この敏感すぎる耳のことまで知っている人はそんなにいない。
公の場でこの話題に触れた事が無い。人によっては魂と引き替えにしてでも欲しがる能力だが、自分にとっては厄介者でしかない。音楽関係者に羨ましがられる度に『欲しいなら持ってってよ』と心の中でそう叫んでいた。
「何かご用ですか」
おずおずとたずねる。
「あの人たち知っているのかしら。自分たちが世界的な歌手の前で歌っているのを。私なら出来ないわねそんな大それたまね」
彼女は問いかけに答えず、そう言って口を押さえて笑い出すをこらえている。
「そうそう。言い忘れてたけど私はパキータ・未散・ベルナルド。私のことはミチルと呼んでね。母の国の人だし、私もこの名前が気に入ってるの。よろしくね、カノンちゃん」
差し出された手を反射的に握り返した。呆気にとられたものの未散の屈託のない笑顔には好感がもてた。押しの強い人は苦手なのだが不思議と嫌な気分にはならなかった。
未散が花暖を見つめていた視線を窓の外に移した。
「雨が上がったみたいね。そろそろ退散しない」
外を見ると黒い雲はかかっているものの、遠くに青い空が見える。ミチルの正体は気になるが、それよりも独創的なコーラスから離れたかったので未散の言葉に従った。
牧師さんにお礼を言った。牧師さんは名残惜しそうに二人を引き止める。その重点はかなりの割合で未散に置かれているようだ。
それを振り切るように、もう一度お礼を言って頭を下げると、牧師さんが読んでいた雑誌が目に入った。薄い雑誌だった。商業誌ではなく教会関係者が作っている業界紙のようなものだろう。
大きな写真が載っているのが目につく。知っている顔だった。この人の前で歌ったこともある。
ローマ教皇ヨハネス二四世。花暖が日本に帰る寸前に、アメリカ訪問をしていたところを暗殺者に狙われ、命は取り留めたものの未だ意識が戻らないと聞いている。優しいお爺さんだったのを覚えている。
でもここの教会はプロテスタント系だったはずだ。それ程キリスト教、いや世界にとって重大な事件なのだろう。世界情勢には関心は無いが、多少なりとも知っている人が苦しんでいるのは辛い。
雑誌をもっとよく見せてもらおうとしたが、未散に肩を抱かれて引きずられるように教会を後にした。
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