ウォクスの歌
武内秀眞
第一章(一)
駅を出ると鼻をつく酸っぱいような臭いが街を覆っていた。ここの駅は地下にあるために全く気がつかなかった。
花暖はこれから起こることを知っていた。同じ経験はこれまでに何度も経験している。ここに居れば回避出来るかもしれない。しかし人が多すぎる、離れた方が安全だ。この駅の周辺は熟知しているし、何処に行けば良いかも知っている。
足早に歩く。『あそこなら大丈夫、お願いもう少し待って』
しかし、その祈りも空しく一瞬の閃光と轟音が鳴り響き、無数の弾が花暖に襲いかかる。弾は花暖の華奢な体を激しく打ちつけ、服には弾の痕が秒を追うごとに増え続ける。
悲鳴を上げたい。でもそれは出来ない。一刻も速く目的地に行かなくては。鞄を楯にして頭を庇いあの場所に向かって必死に走った。体を打ちつける弾が服に円形に痕を刻んで行き、瞬く間に円形が見えなくなる程重なり合う。
目的の場所が見えてきた。これで助かる。速度を上げ一気に駆け抜け、飛び込んだ。
ショートに切った髪や、ブレザーの制服についた水滴をはらいながら、天を仰いで呪った。『最悪。この制服まだ二日しか着てないのに。もう少し待ってくれてもいいじゃない。天気予報でも夕立があるなんて言ってなかったわよ』
濡れた制服をハンカチで拭きながらだんだん気持ちが落ち着いてきた。『でも冬服で良かった。夏服だったら透けていたわ』衣替えしたばかりなのが幸いした。
雨宿りに選んだのは、住宅街とは反対側にある白樺並木の中にある小さな教会だった。平日にこの辺りを散歩している人は少ない。こんな雲行きが怪しい時に歩いている人など皆無だ。だからこの場所を選んだのだが、それが間違いだったと思い知った。
教会の中から歌声が聞こえてきたのだ。反射的に体を固くする。そっと扉の横の窓から中を覗くと、ママさんコーラスであろうか、十人程の女性が二列に並び、その前に先生と思われるかなり太った女性の指揮で賛美歌を歌っていた。
両手で耳をふさぐ。『聞いちゃだめ』はっきり聞こえなくても空気を伝わってくる歌声の振動を体全体で感じることができる。『この人たち、すごく下手』
さらにまずい状況になった。中にいた牧師さんに見つかってしまった。
片言の日本語で、中で雨宿りをしなさいと言うのだ。一度は断ったものの、人の良さそうな牧師さんの誘いに断り切れずに、とうとう教会の中に入ってしまった。
一番後ろの席に腰をかける。気休めだが少しでもコーラス隊から離れていたいのだ。『雨が上がるまっでの辛抱よ』自分に強く言い聞かせる。
花暖が入ってきたために一度中断したコーラスが練習を再開した。それは体で感じ取った通りの出来映えだった。耳に栓をしたいのを我慢する。いつも持ち歩いている携帯オーディオには、お気に入りのマリアカラスが入れてあるが、ヘッドフォンを装着するなど出来るはずもない。もしそれが見つかり、正体がばれれば嫉妬やねたみの対象になるのは必至だ。
我慢がならないのは、コーラス隊の基準音がばらばらなのだ。ある人は基準音を440Hzで声を調律し、別の人は441Hzで調律している。いや基準音が一緒でも他の音に上手く移行出来ていないのだ。
普通の人なら気にならないだろうが、わずか1Hz周波数差を聞き分けるこの耳のせいで、その1Hzが奏でる唸りが襲ってくる。
ハーモニーのとり方が悪いため、上のパートのA音に対して、下のパートがE♭の音を出している。『あの後ろの列の右から2番目の人だわ。そこはFで歌うのよ、下手くそ』
昔から音楽家に忌み嫌われ、中世のの音楽理論家により『Diabolus in musica』『音楽の悪魔』と呼ばれていた、最悪の減4度の不協和音に耳が侵される。目の前が歪んでくる。『どうして皆平気なの』泣きそうになる。
目の前の光景に色が浮かんでくる。それぞれの音に対して様々な色が脳裏に現われてくる。それは教会の焼き絵硝子のような美しいものではなく、まるで絵の具を洗ったバケツのように濁っているのだ。
これ程酷い症状があらわれたのは久しぶりだ。普段でも多少の似たような現象はあるが、他に集中出来る事や気の紛れる物があれば大体は回避出来る。
しかし、今の心理状態では難しいかも知れない。そもそもアメリカでの事件以来、教会には良い思い出がない。
帰国して以来、出来るだけ家にはいたくなかった。祖父が亡くなったあの事件のショックで声が出なくなってしまった妹を見ているのが辛かった。声が出なくなるという事が妹にとっても自分にとってもどれ程辛い事か。同じ立場だったら死んでしまったかもしれない。
そんな避難行動の最中にこれ程まとまって音楽の禁じ手を聞かされてはたまったものではない。
カバンをまさぐる。『何か気が紛れるもの無いかな』
教科書の間から出てきたのは学校がある駅の近くにあるCDショップが配っていたパンフレット。今、一番人気のあるアイドルの女の子の新譜の広告だ。歳は自分と変わらない。
パンフレットの中のアイドルは眩しいくらいの笑顔で自分を見つめている。まるでその子に責められているようだ。
ため息をつく。『こんな風になれたらなぁ』
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