第2話 霊、それは実は……な話

 夏休みに一緒に行くことになった紫藤さんとの出会いを思い出してみる。


 あれは、まだ新学期になって、クラスの皆の名前と顔とが一致した頃だった。

 一番仲のよかったのは、最初に話しかけて来た前の席の東堂で、隣の席の委員長とも緊張せずに話せるようになった頃。

 僕は霊感があるだとか、視えるとかそんな話をしたりしてはないのに、なぜか僕の所に相談があると言って来る生徒が何人かいた。──それも大体女生徒が。大体――その中にはなぜか男子は一人もいなかった。

 どこからそんな話が回っているのか、何でだろうと思っていたんだけど、身に覚えのない僕にはさっぱり分からなかった。



「城見くん、あの……ちょっと相談が」

 クラスで一番可愛いと噂の委員長が窓側の席に居る僕に話しかけて来た。

 癖なのか少し首を傾げていて、座っている僕が見上げると髪の揺れる胸元に視線がいってしまって、慌ててもう少し上へと顔を上げる。

 長いまっすぐな黒髪が腰の辺りで揺れている姿が可愛くて見惚れそうになる。

 ほんのちょっぴり期待しつつ、不自然になってないか気にしながら笑顔を向ける。

 誰だってそんな時は期待したりするだろう?

「委員長、何?」

「実は……、その……」

 困ったようにはにかむ委員長の頬が少し赤らんでいて、可愛いなと見惚れつつも、まさか告白? とやったね、僕にこんな可愛い彼女が……とか心臓がドキドキと音を立てて鳴り始めた頃に、それはあっさりと裏切られた。

「私の友達なんだけど、写真に霊が写ってるのを見てからいつも誰かに見られてる気がするって言うの。

 一度、話をしてもらえると嬉しいんだけど……だめ……かな?」

 言いにくい話を出来たとばかりに、ほっとしたように髪をかき上げる仕草に、小さくて可愛い耳がちらりと見えて、話の内容にはがっかりしたけど、ちょっと得した気分になった。

「……委員長、なんでその話を僕に?」

 また霊絡みかと思いながらも、うんざりした顔をしないようにして、委員長を見る。

「あ、東堂くんが、そういう話なら城見くんがいいだろうって」

「──っ」

 思わず、ちっ、と舌打ちをしそうになった。

「……とーどー……」

 低い声でちらりと離れた席の奴と遊んでる東堂実篤を見ると目があって、何の真似だか舌を出して片目を瞑って手をひらひらと横に振られた。

「てへぺろのつもりかよ……ったく」

 東堂の可愛い子ぶった様子に委員長が横にいるにも関わらず、つい、ため息をついてしまう。

 可愛い女の子がやるならまだしも、お前がやっても可愛くないし、似合わないからやめろっていつか言ってやろう。


 東堂の奴に、僕が霊関連に強いと知られたのは、僕の一つ年上の姉、秋音のうっかりのせいだった。

 以前、東堂に、秋音が「飛んでっけー♪」と歌いながら霊(視える人には投げられて泣きそうな顔で飛んでく霊が、視えない人には投げてる振りにしか見えない)を空に向かって思いっきりブン投げるのを見られた事があって、あれは何だ、お前の姉さんは何をしてたんだ、などと追求されたのがこの面倒でいて、気の進まない心霊相談室のきっかけだった。

 ――まぁ、受けた以上はちゃんとしてはいるんだけど。相談の大半が気のせい、勘違いで本物なんか一件もないからやってるだけなのかも知れない。

 別に女子にばかり相談されるからやってるってことじゃ……ないと、思いたい。


「あ、ごめん委員長、で……その友達とはいつ会えばいいのかな?」

 とりあえず、委員長と今よりもっと仲良くなれるかもってチャンスだし──いや、委員長の頼みだし、と相談を先に続けてもらうことにした。

「本当っ、良かったぁ。

 じゃあ放課後に──部室に来て……」

 委員長のクラブは、どこだったかな、と思い出そうとして──。

「あ、ううん、やっぱり教室で。

 遅れて来る子とかいたら話しにくいし」と続けられた。

 そうだ、委員長のクラブはテニス部だった。

 あの短いスカートいや、スコートから覗く足が眩しくて、とてもテニスコートの近くになんて行けないし、行けば多分、おそらく、絶対に、痴漢扱いされる女子テニス部だ。

 テニス部は部室=更衣室で、とてもじゃないが、まともな神経ならお邪魔出来ない場所だった。

 委員長とその友達がいたって、他の部員に痴漢扱いされないとは限らない。

 ──というか、絶対疑われる!

 運動部の女子部の部室棟は、ほぼ間違いなく女子更衣室だから、そんな所をうろうろしていたら、痴漢や覗きを疑われても仕方ないだろう。

 そのテニス部の部室にか、と怯えかけた時に訂正されて、密かに残念ながらもほっとする。


 授業終了のチャイムが鳴って、掃除も終り、教室から人気がなくなって僕だけになった。

 ──気が重い。

 本当はこういった話には極力関わりたくないのに、うっかり引き受けた心霊関係の相談。

 今までは本物の心霊相談もなかったのが不幸中の幸いってもんだけど、祓う力もないし、視るしか出来ない僕に相談されても、何の解決にもならないのにと思いながら、授業の終わった教室で委員長とその友達とを待っている僕。

 ため息が出ては肩を落としてしまう。

 せめて、相談に答えられる能力とか霊力があればいいのに。

 

「城見くん」

 鈴を振るような耳に優しい声に、待ち人来ると書かれたおみくじを思い浮かべて、教室の入り口の方に振り返ると、制服ではなく、テニスのラケットを片手に持つスコート姿の、見知らぬ綺麗な女生徒と、残念ながら制服だった委員長とが居た。なんでスコートじゃないんだーって心の中で呟くのは僕の、いや誰もが思う事だろう。

 座っていた机から降りて、相談に嫌そうな顔だとか、疲れたような顔をしないように気をつけながら、ちゃんと身体ごと向き直る。

「委員長、……と、お友達だったよね」

 委員長の後ろから遠慮がちに出て来るスコートの女生徒の姿にも声をかける。

 委員長の友達は、とてもテニスをしているような人に見えない気がしてしまう。

 背が高めで、髪はショートカットの明るい色、外見で判断するのもどうかと思うが、どうみても気弱な大人しいタイプには見えないのだけど……。

 委員長の後ろにおずおずといった雰囲気で立っている彼女の姿は……どう考えても見掛けのイメージと違うような気がしてしまう。

 凛とした、という表現が似合いそうな顔立ちなのに、俯き加減で視線を合わそうとしない彼女の態度は、内向的な、怯えるウサギのような引っ込み思案のようにしか見えない。本当にテニスを明るくやってたりするんだろうか?

「は……じめまして。

 実はこの写真を撮ってから、いつも誰かに見られているような感じがして、怖くて怖くて……」

 ……名前を聞く前から相談の中身を言われてしまった、どうしよう。

 意外にせっかちなんだろうか?

「あ、あのね、城見くん、この子ったらすっごく霊とかそういうの苦手で、最近は夜も見られてるような視線が気になって眠れないんだって」

 彼女をフォローするように委員長が焦って口に出した途端、スコートの彼女が隣でこくこくと涙を流しながら頷いている。

「毎晩、同じ時間に窓の方から音がして……それもうめき声みたいな、苦しそうな息とかが……」

 その時、ちょうど窓にサッカーボールが飛んで来て当たり、割れなかったけどガシャンと大きな音がした。

「きゃあっ!」

 その音に声をあげて、しゃがみこむ委員長の友達の姿に、よっぽど怖いんだなと思いながらとりあえずはその原因の写真を見ようと手を差し出してみる。その手を驚いたままの顔で見つめて、おずおずと手を差し出され、慌てて握手じゃないんだーって言葉を告げる。

「え、と……とりあえず写真を見せてもらってもいいかな」

 その言葉に握手じゃないと気づいたように焦って手を放して、裏返しの写真の端っこを指で摘まむようにして僕に渡して来る。……彼女はどれだけこの写真を見たくないんだろうとか、思う前に、なんというか……その、汚い雑巾を摘んで渡されているような気分になってしまった。うん、実にそういう汚物の渡し方? そんな感じがして受け取ったのは写真なのに、汚く汚れた雑巾かゴミを受け取った気持ちになってしまった。

 渡された写真を、表に無造作にひっくり返してみると、三人の女生徒が高校の制服を着て笑っている写真で、目の前の彼女が一番左に写っていた。

 どこに霊が、とまじまじと写真を眺めて、ふと違和感に気付く。

 何がひっかかるのか、何に違和感を感じたのか、ゆっくり視線を這わせていき、ひとりの女生徒の肩に置いた手がひとつ多いのに気が付いた。

「ん?」

 委員長と彼女の二人が何かを言いたげに僕を見ているのは分かっていたが、今ここで目を離すと見つけられなくなってしまいそうな、そんな気がして写真の【手】をしばらく見つめて、その手が単なる写り込みや光の加減ではないことに気付く。

「……本物、の心霊写真だ。

 けど……おかしいな」

 そう、本物の霊で、何かあるなら、この肩を置かれている真ん中の女生徒ではないのか、と思わず首を傾げながら、何かこう、心霊写真にありがちなものとの違和感を探していて、【手】が肩を掴んでいるのではなく、ピースをしているのに気づいて噴き出してしまった。

 噴き出した僕を見ている二人に何でもないと堰き込みながら、大した心霊写真ではないけど、違う意味でレアな写真だなと思いつつ、顔を引き締めて写真から顔を上げる。

「普通こういった写真に写ってる霊だと、こっちの真ん中の人に何かあると思うんだけど、何で……えーと……あなたに?」

 そういやまだ名前を聞いてない、と名前を呼ぼうとして間の抜けた問いかけになってしまった。

「あ、すみません、私、相澤さんと同じテニス部の、紫藤響子といいます。

 そう……ですよね、普通なら真ん中の……ナカちゃんに、なのに……どうして私ばっかり……」

 謝りながらおずおずと、遠慮がちに名前と写真の説明をしてくれる紫藤さんの目から、泣き止んだはずなのに又、頬に涙が零れ落ちそうになっているのを見て、泣き出してしまうんじゃないかとドキっとした。

 綺麗な人の涙って、どんな理由でも絵になるよなとか思って、そうじゃないって自分に突っ込みを入れつつ意識を元に戻す。

 どうやら問題になりそうなナカちゃんとか言う真ん中の人ではなく、紫藤さんだけに霊障らしいものがあるらしい。

 このレアな【笑える心霊写真】にそんな霊障があるんだろうか。

「毎晩音がするのはこの写真を撮った後から?」

 いつからだったのか、はっきり覚えてるだろうか?

「……多分……」

「じゃあ、この写真を撮ったのは何時、何処で?」

 場所に問題があって、たまたまだろうか、それとも──憑いてきてしまったのかを考える。

 もし、そうなら僕ではどうにもならないから、秋音の手を借りることになる。

 この笑える心霊写真からは起きそうにないと思えるのもあって、とりあえずは紫藤さんが納得するように霊の仕業だったら、という仮定で進めてみよう。

 それでどうにかなる解決・安心となったらいいんだけど。

「確か……皆で母校の中学校に挨拶に行って、その時に記念にって学校の敷地内で撮ったと……」

「……仕方ないな……、今晩か都合のいい時に、紫藤さんの家に行かせてもらってかまわないかな、それでちょっと様子を見てみたいんだけど。

 ……あ、家の中にも、部屋にも入れてもらわなくてもいいから」

 窓の外に聞こえるっていうんだから、家の側でその時間見張ればいいか。

 さすがに、同い年の女の子の部屋に入らせてもらうのは……気まずいし。

 それで万が一、危害のある霊だったら秋音に来てもらって……。

「じゃあ、今晩お願いします!

 本当に、毎日毎日……怖くって……」

 泣きそうな声の紫藤さんの肩を、委員長が抱いて宥めている。

 女の子が目の前で泣くとか、可愛い子がとか、そういうのを抜きにしても、何も出来ない分、僕には居心地が悪い。

 美少女が二人で慰めあってるとか、アニメとかマンガとかならいい場面なんだろうけど。生憎僕にはそんな趣味はない。

「じゃあ、夜に、またということで。

 委員長、あとで詳しい住所とかメールか電話で頼むよ」

 そそくさとカバンを手にして、教室から出て行こうと彼女たちに背を向ける。その時、ふいに背中に誰かの視線を感じたような気がしたが、振り向けば泣いてる紫藤さんが目に入ってしまうかも知れないから、気のせいだとそのまま廊下に出て帰ろうと足を向ける。


 紫藤さんには何も憑いてないのは視て分かっていた。

 なら、場所に、なのか。

 あの心霊写真が関係してるとは思えないが、霊なのか。

 それとも、他に理由があるのか、それは夜になってみないと分からない。

 さて、どうやって姉たちを説得して夜に出かけるか……。

 秋音はまだしも、世話焼きで家事一切を引き受けて留守を預かる大学生の姉、夏海の説得は難しそうな気がする。

「とりあえずは夜、だよな」

 考えながら歩いていたら、思わず口に出してしまっていて、気づいてちょっと恥ずかしい。

「冬樹―っ」

 名前を呼ばれた途端に、背中にドーンって衝撃があって、カバンで背中を叩かれたのに抗議しようと振り返る。

「痛いな、何すんだよっ」

「何よー、おねーさまにその口の聞き方はっ」

 そういや今週は掃除当番だとか言ってたな、それにしても、同じ時間に帰ることになったのも久しぶりだ。

「背中が痛いんだよ、相変わらず乱暴なんだから。

 そんなんだといくつになっても嫁に行けねーぞ、秋姉」

「何よー? こう見えたってモテるんだからな、そんな心配要らないよっ、まったく弟のくせに」 

 まぁ、黙ってればモテないこともないだろう。

 バレンタインのチョコは友チョコもあったが、本命チョコっぽいのもたくさんあったのを思い出す、差出人は主に女子だと思うけど、紙バッグに二つはあったチョコの山はモテてる証拠じゃないだろうか。

 すらりとした均整の取れた身体に、身内びいきかも知れないが美人の類だし。

 難を言えば、スレンダーなのは胸も、なんだけど、そういうのが好きな人もいるだろう。

 ただし、言葉より手が早いんだ、この人は。

 僕にとっては、美人の姉というよりは乱暴者の姉のイメージの方が強い。

 小さい頃はガキ大将を泣かせて、代わりにその座についたこともあったっけ……。

「はいはい、そのおモテになる秋姉の彼氏とやらはいったい何処にいるのかな、僕は見たことがないんだけど」

 実際の所、どうなんだろうとちらと秋音の顔を眺めるが、図星を差されたような顔をしていて、聞こえませんよーといった顔でピーピーと口笛を吹いていた。

 ああ、やっぱり、まだ彼氏はいないんだ。

 あれ、本人曰くモテるというのはどこからきた根拠なんだろう?

 女子だけでなく、男子にも人気があるらしいっていう噂は本人は知らないだろうし。

 そんな事を考えていると、秋音の腕が首に回されて、引き寄せられる。

「ちょっ……苦しいって」

「おーきくなったよねー……冬樹。

 ちょっと前まではこーんなだったのに」

 ちょっと前まで、と秋音は胸の下当たりを空いてる方の手で示して、僕に顔を擦り付けてくる。

 頬と頬とが擦られてくすぐったいやら、恥ずかしいやらで、押し返して離れようとするにも秋音の力が強くてままならない。

「ちょっ、秋姉っ、この……バカ力っ。

 離れろよーっ」

 家の近所でこんな事してたら恥ずかしい、とか思っていると後から声が掛けられて、急に首が楽になった。

「もうっ、秋音ったら何やってんのよぉ」

 上の姉、夏海の声だった。

 僕ではムリだった、首を締め付ける秋音の腕が解かれてほっとして、二人の方を見る。

 ぐいぐいと秋音の腕を両手で引っ張っている夏海、こうやってみるとつくづく秋音はバカ力だというのがわかる。

 夏海の方が身長も低いせいか、こうして二人を見ていると姉妹がじゃれあってるように見えて微笑ましい、見てるだけなら。

「もー、わかったってばー」

 秋音は観念したのかそう言って腕から力を抜いて、ほっとしたと思ったら、今度は二人して僕の両側に並んで片方ずつ腕を掴まれた。

「……あのー、お、お姉さま方?」

 僕の身長が一番低いから、両側から腕を取られるとまるで連行される犯人だか、捕獲された宇宙人のような図になってしまう。

「腕が、腕が死ぬーっ」

 二人に引きずられて、追いつかなかった足がずるずると地面を擦り、両腕に重さがかかって脇やら肘やらビキビキときしむ音がして二人に離してくれと訴えてみる。

 右腕と左腕とに、胸が当てられていて双方違う感触――片方だけはぽよんと柔らかいが、そんなことを思う暇すら与えられない。

「あ、ごっめーん冬樹、大丈夫?」

「ごめんねぇ……痛かった?

 秋音が離してくれないからだよね」

 さらっと妹のせいにして僕の頬に手を伸ばそうとする夏海。

「夏姉……、夏姉のせいでもあるだろ」

 夏海の手を避けるようにして後ずさりして、二人からとりあえず距離を取る。こんな時は二人共に触られないようにするのがベストだったりする。

「夏姉さんが必要以上に冬樹に構うから」

「だぁってぇ、秋音が冬樹を独り占めしようとするから」

 いったい道端で何の会話をしてるんだ、と思いながら二人を後にして歩き、着いた家のドアを開けてさっさと中に入る。

 何で僕よりも姉の方が怪力なんだろう、海外の父に付いて行ってる母の遺伝子だろうか。思えば、うちの姉たちは全員怪力みたいなもので、そんなじゃなく力が普通の男子の自分とはえらい違いだ。

 とりあえず少し寝ようと、部屋に入った途端にぐったりと肩を落としてしまった。

「……疲れた……」

 携帯のアラームを三時間後にセットして、窮屈な制服を脱ぎ捨てると、Tシャツとジーンズに着替えてベッドに寝転がる。

 目を閉じてベッドに身体を預け、部屋のドア閉めたかなと思い出したが、腕がもう上がるのを拒否しているのでそのまま眠ることにした。

 意識が落ちる寸前、柔らかい毛に宥めるように撫でられたような気がしたが、それが何かと思う前に眠り込んでしまった。


 ピピッ!ピピピピッ!

 携帯のアラームが鳴って起こされる。

「ん……時間か」

 ベッドで寝返りを打つと何か違和感が。それに狭い。

 何か嫌な予感がして、そっと目を開ける。

「な、何してんだよーっ!」

「ん……にゃ……冬樹おはよー」

「おはよーじゃねーよ、おはよーじゃっ!

 何で人のベッドに入り込んでんだよっ!」

 僕の横に秋音がいて、思わず身体を起こして身体を支えようと付いた手が、何か柔らかいものに触れた。

 何だろうと手を動かすと、むにむにと柔らかく形を変えて、ぼんやりした頭で枕にしちゃあ柔らかすぎると考えていた。

「ん……ぅん……」

 色っぽい声が側で聞こえて、びっくりして目が覚める。

 手で掴んでるものが原因か、と思い当たり起き上がると掴んでいたものが夏海の胸だと分って、慌てて手を離す。

「……夏姉まで」

 頭痛がしたような気がして額を押さえる。

 ようするに、僕を挟んで夏海と秋音が川の字になって眠っていた、ということか?

 呆れてしまって盛大にため息をついてしまう。

 狭いんだけど! 三人なんて寝れる大きさのベッドじゃないんだけどなぁ……。

 なんで弟の狭いベッドに一緒に寝ようなんて考えるんだろうなぁ……。

 ピピピピッ!

 気が付けば携帯のアラームが鳴りっぱなしで、切り損ねていたのを漸く止める。

「何やってんだよ、本当に……」

「だって、夕ご飯に呼びに来たら気持ちよさそうにしてるんだもーん」

「冬樹がご飯に降りて来ないから悪いのよ。

 呼んで来るって迎えに行った秋音も戻らないしぃ」

 二人して僕のせいだと言い出す。

 ……えーと、要するに、寝る時にはちゃんと鍵をかけろってことだな?

 僕の部屋って鍵あったかな……無かった、な。

「分かったよ、悪かった。

 で、夕飯のおかず何?」

「カロリー控えめ、エリンギ入り和風大根おろしソースのハンバーグよぉ。

 冬樹の好物でしょ」

「エリンギの食感が食べたーって気になるんだよね、私も好きーっ」

「そう、お肉少な目にしてエリンギのみじん切り入れてぇ、大根おろしのしょう油ベースソースがいいのよねぇ、エリンギはノーカロリーだしねぇ。

 ちょっと大きめに作ってもカロリー控えめだから安心だしねぇ。

 おしょう油とみりんの和風ソースは、夏海特製オリジナルソースよぉ」

 にこにこと夏海と秋音が僕の頭の上で話している。

 うん、確かに美味しいとは言ったけど、僕がカロリー控えめにして欲しいと言ったわけじゃない。

 成長期なのにそんなダイエット食みたいな肉少な目のハンバーグってどうなんだろう、だから僕は姉よりも身長が低いのかもとか考えて、早く大きくなりたいと切実に願った。

「僕は夏姉の作るものだったら何でも好きだよ」

 そういってベッドから降りて、階下にと向かう。

 階段を降りている途中で夕食の匂いが漂ってきて、お腹が空いているのを実感する。

 ああ、お肉の焼けたいい匂い、これはお腹が……と思ったら起きたばかりで空腹だったのか、腹がぐぅぐぅと音にして知らせてくる。

 僕の部屋から夏海の嬉しそうな声と、秋音のずるーいとか言ってる声がするが、いつものことだと気にしないでおくことにする。


 ほかほかの……とは言えないくらい少し冷えた味噌汁とご飯が並ぶテーブルについても、二人がちっとも下に降りて来ない。

 まだ僕の部屋に居るんだろうか?

 とりあえず約束の時間までにそう時間はないので、もくもくと夕食を口に運ぶ。

 確かに美味しい。

 普通のハンバーグの一.五倍くらいの大きさの肉を箸で切ると、切った途端に肉汁らしきものが溢れて、しょう油風味の大根おろしソースと絡まる。それを口に入れるとしこしこした感触と溢れる肉汁とソースが舌の上でからまって、絶妙な味になる。

 歯ごたえだけではエリンギで増量しているのは分からない。

 分からないけど、出来れば肉のもっと入ったハンバーグが食べたい。

 食べ終わり、洗い桶の中に食器を浸けて、冷蔵庫の麦茶を飲みながら、夏海の作る弁当とかを見たらお嫁さんにしたい人、大学ナンバー何位になるんだろうと考える。

 きっと、可愛い美人系だし、かなり上位だろうと思うとちょっと自慢に思えた。

 それなのに、何で彼氏が出来ないんだろう。

 僕としては秋音よりも早く出来ると思うだけに、本当にそれが謎だった。

「さて、ちょっと約束より早いけど、そろそろ行こうかな」

 財布はポケットにあるし、このまま行くことにしよう。

 リビングの床に寝転んだ虎が、どこかに行くのかと尻尾で挨拶してくれたのを、一瞬連れて行こうかなと思ったが、寝てるのを邪魔するのも悪いしとそのままにしておく。

 秋音はともかく、夕食も済んだ遅い時間に、家を出て行くのを夏海に説明するのが面倒だと思ったけど、僕の部屋から降りて来ないので丁度いい。

 しかし、未だに二人共降りてくる気配がない、僕の部屋で一体何をしてるんだろう。

 ひょっとしてあのまま僕のベッドで寝てるんだろうか?

 まぁ、見られてまずいものとかは無かった……はずだし、出かけるのを優先させようと家を後にする。


 午後十時少し前、委員長の送ってくれたメールの住所の場所に到着する。

 紫藤さんには僕の携帯を委員長が教えてくれているということなので、このまま家の周りを歩いて様子を見てみることにした。

 怪しい視線か音を感じたら電話が来ることになっているので、携帯はマナーモードにする。

 霊とかではなかった場合も想定して、気付かれないように音は出さない。

 電気の点いていた部屋の中で、一階にある花柄のカーテンの部屋が紫藤さんの部屋、そこがよく見える場所から少し離れ、そこから見えないように電信柱の陰に姿を隠す。

 一分、二分──五分、待っているとポケットの中で携帯が震えた。

「はい──城見です」

 極力声を抑えて電話に出る。

『城見さん、今いつもの視線を感じました』

「わかりました、見て来ます。

 携帯は切らずにそのままで様子を聞いていて下さい。

 じゃあ、お願いします」

 携帯を胸ポケットに入れて、紫藤さんの部屋がよく見える場所に足音を立てずにそっと近寄って行く。

 角になったそこに、あと数歩という所で気付かれたのか、砂利を踏む音がして、走り出そうとする足音を慌てて追いかける。

「おい、お前っ!」

 声をかけ、肩に手をかけるとそれは──小太りの生きてる人間だった。

「な、なんだよぉ。

 ボクに何か用なのかよぉ」

 鼻息のやけに荒い、体の割りには虫の鳴くような、といっても、綺麗な声とかじゃなく、小さな擦れたような聞き取りにくい声でそいつがしゃべった。

 胸に双眼鏡がぶら下がっている、霊現象でなく、覗きだ、痴漢だ、女の子の敵だ。

「お前、紫藤さんの部屋、その双眼鏡で覗いてたな。

 どういうつもりだ?」

「な、何だよぉ、ただ見てただけじゃないかぁ、ボクの邪魔するなよぉ」

 聞いてるだけでイライラしてくる声だ。

「城見くん、どいてーっ!」

「え?」

 軽快な足音と共に、僕に声がかけられて振り向いた途端、白いものが目の前を横切って──それが足だと分かった時には──。

「うぉおぉんっ!

 酷いよぉ、きょーこたん。

 痛いよぉ」

 地べたに這い蹲って、顔を押さえているのはさっきの奴で、その前にあれだけ幽霊を怖がっていた紫藤さんが立っていた。

 青いTシャツに黒のミニスカート、その短いスカートで僕の目の前まで足が上がっていたのかと思うと、さっきまでの大人しそうなイメージがガラガラと崩れ落ちていく。

「全部……あんたなのね?」

「し、紫藤さん?」

 どうやら紫藤さんが僕に声をかけながら奴の顔に蹴りを入れたらしい。

 奴の顔に足跡が黒く、くっきりと付いている。

 心なしか紫藤さんの声が低くて冷たい気がする。

 教室で初めて会った、あの大人しげな姿はどこにも無い。

 ああ、極度の怖がりって委員長が言ってたなぁ……、人間相手なら怖がることもないってことか。

 なんて、考えていると何やら鈍い音がドカスカと足元でしている。

「紫藤さん、やりすぎないように……」

「何か言った?」

 奴の白いTシャツのあちこちに足跡が付いている、そして、僕を振り向く紫藤さんの声が怖い、綺麗な顔をしているだけに非常に怖い。

 つり目がちの目が怒りで更につり上がっているように見えるのは気のせいだろうか。

「うわぁん、きょーこたん、やめてよぉ。

 ボクはただ見てただけなのにぃ

 好きだからいつも見てたのにぃ」

「見てただけだぁ……!

 こんな夜遅くに窓の外からっ、いつもいつもっ、気持ち悪いっ!

 このストーカー野郎っ!」

「だって、だってぇ、きょーこたんが好きなんだよぉ、今日なんかそこの男と仲良くしゃべってたから気になってぇ」

 ああ、教室で視線を感じたのはこいつだったのか。

 ていうか、こいつどこから覗いてたのかなぁ……ああ双眼鏡かぁ……。

 現実逃避のように、どこから覗いてたのかと考える、まぁ、同じ学校じゃなさそうな年に見えるし、塀の外からかなぁ、双眼鏡の倍率ってどこまで見えるのかなと考えていた。

 鈍い音がして気が付けば、奴が腹を押さえて体を丸くしている。

「ふーっ……」

 ため息をついた紫藤さんがにっこり笑って振り返る。いや、本当にあの儚げで大人しいと思ってたのは間違いで、これがいつもの紫藤さんなんだろうなぁ。

「城見くん、夜遅くにありがとう。

 幽霊じゃないって分かったから、後は任せてよ」

「あ、ああ、そうだね。

 警察に通報するにしても僕は邪魔になるだろうし……」

「明日、改めてお礼に行くから」

 教室で見せた、か弱そうな姿はどこにもなく──多分これが普通なんだろう──眩しいくらいにすっきりとした笑顔の紫藤さんに軽く手を振って、ポケットに手を入れるとまだ通話中にしたままだった携帯を切り、紫藤さんの家を後にする。


「女の子って怖い……」

 大分離れてから僕は呟いたが、ともかく幽霊の仕業でなくてよかったというべきなんだろう。

 ――紫藤さんのためには。


 翌日の昼休み、約束通りに紫藤さんが教室に来て、お礼だと学校の側にある人気のパン屋の包みを置いていってくれた。

 中にはいつもなら高くて買わないサンドイッチなんかの惣菜パンとか、ソーセージ入りのデニッシュや甘いフルーツのデニッシュパンなんかが入っていて、とても充実した昼休みとなった。

 フルーツデニッシュは初めて食べたけど、何で今まで食べなかったんだろうと後悔したくらいの美味しさだった。

 みずみずしくて、ちょっと酸っぱいグレープフルーツの粒々がプチンと口の中ではじけて、甘いカスタードクリームとふんわりした舌ざわりの生クリームといっしょになって、とろけるような感触が、デニッシュパンのバターの香りに包まれ、サクサクとした食感と共に喉を通って行く。

 う、うまいっ、うますぎるっ!

 女の子っていつもこういうの食べてるんだなぁ、グルメだなぁ。


「うまそうだな、一個くれよー」

 東堂がパンにが手を伸ばしてきたが、面倒ごとを増やした原因のくせにと、その手を叩いてパンを遠ざける。

「なー、城見―俺たち親友だろー?」

 はて、いつから僕と東堂が親友になったんだろうか。

 今度機会があったら笑いながら聞いてやろう。

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