僕らはそれでも君を守る
寒い冬の夜だった。
冷たい雨が降っている。
僕は傘もささずに駅舎から夜の街に飛び出した。
(それにしても)
と僕は思う。長年好きだった女性に、こっぴどいふられかたをしたものだ。それまではいい雰囲気だと思っていたのだ。六歳年下だけど、中身は随分と大人でしっかりした女性だった。僕がジョークを言えば、即座にジョークで返す。ボケとツッコミみたいに息が合っていた。趣味の読書も一緒で、お互いに好きなミステリーを交換して読んだりした。僕はいつも食事をおごり、彼女は「いつもごちそうさま」って言っていたっけ。それもすべてパーになった。僕が「君のことが好きだ」と告白したばっかりに。
それからは電話を掛けたりメールを送ってもなしのつぶて。ついには着信拒否されてしまった。フェイスブックもブロックされて、彼女のプロフィール写真も見えない。彼女の住んでいるアパートを訪れれば警察を呼ばれ、僕は職務質問というのを人生で初めて受けた。いい経験だ。もちろん悪い冗談だけど。その後、彼女は引越ししてしまった。もう居場所もわからない。共通の友人に聞いたら、体調を崩して、実家に帰ったという。そんなに僕がストレスなのか。問いただしたくて、大まかな住所しか知らない、彼女の実家に乗り込もうと、東北新幹線に乗ったが、結局明後日の方向に行ったみたいで、東北の紅葉を電車から眺めるだけに終わった。後日、例の共通の友人から「今度実家を訪れるような真似をしたらストーカー規正法で訴える」と宣告された。「ああ、これがストーカーって言うんだ」と僕は自分が知らず知らずのうちに犯罪者になっていることに気づき、彼女を忘れることにした。でもさみしい、会いたい、逢いたい。そんな気持ちで日々を生きている。彼女は僕にとって何だったのか、夏の日に降る通り雨みたいなものだったのかと考え込む日が続いた。そんな状態でまともな仕事を出来るわけもなく、クライアントを怒らせることも一度や二度でもなく、職を失うような危機に面した。ああ、僕の仕事ですか? フリーのライターです。
とにかく今の僕はどん底だ。神も仏もありはしない。いたらぶん殴ってやる。でも強烈な天罰を食らうだろうだな。神様仏様、殴ったりしませんから、また彼女に会わせてください。元の関係に戻してください。もう「好き」だなんて言いません。ただ、一緒にいられればいいんです。贅沢は言いません。友達であったらそれでいいんです。LINEしたりフェイスブックに書き込みをしたり、泣いたり笑ったり一緒にできればいいんです。懸命に祈ったが、彼女は戻ってこなかった。
僕は冷たい雨の中を、とっても悲しい思いを胸に宿して歩いていた。北風が身にしみる。コートは雨でぐちゃぐちゃだ。明日は着られないかもしれない。一着しかないコートだ。どうするんだ。明日は、雑誌の編集長との大事な打ち合わせがある。コートもなしに出かけるのか? 風邪をひいてしまうぞ。いや、もう充分、風邪をひく要素は出来ている。いっそ、バックレようか。しかし、相手は大手の出版社だ。二度と仕事は来なくなるだろう。この業界は横の繋がりが強いから、他の大手からも仕事の依頼は途絶えるだろう。行き着く先はなんだ。タウン誌の編集か? いくらもらえるんだ。どれだけ働かされるんだ。ああ、この地獄から這い上がるためには、そう明日は死んでも打ち合わせに行くんだ。さあ早く家に帰ろう。暖房に当てればコートは乾くだろう。今は冬だから空気は乾燥している。加湿器は今夜、使わずに寝よう。とにかく、コートを乾かすんだ。僕は急ぎ足で家路を歩く。商店街を抜けると、街灯が一気に減って、あたりは暗くなる。痴漢にご注意だ。まあ僕が痴漢にあうことはないが、若いお嬢様方は要注意だ。あっ、まさか僕が痴漢に間違われることないかな? 一度はストーカーと間違えられた僕だ。痴漢の冤罪を受ける可能性だってなくはない。今、ちょうど僕の前を歩いている女性だって「背後から痴漢っぽい人がついて来ている」と思っているかもしれない。そう考えている時、どこかで、
『にゃー』
と蚊の泣くような声がした。「野良ねこ」か? と思っているとまた、
『にゃ』
ともっとか細い鳴き声がする。「これは子ねこの声だ。捨てねこかもしれない」と思って周りを見回すと排水溝の陰に、なにかいる。やっぱり子ねこだ。雨に濡れ、小さく震えている。「これはいかん」と僕は子ねこにそっと手を差し伸べた。その時、右手の方角からピンクの手袋をした女性の手が伸びてきた。僕の手と同時に子ねこを掴む。「えっ?」と僕が振り向くと、先ほど、僕の前を歩いていた女性がかがんでいた。その顔は僕がこっぴどくふられた彼女と瓜二つだった……
「要するにさあ」僕は語り始めた。「あの時、君と僕が同時にミケを拾おうとしたからさあ、恋が芽生えたんだよね」彼女は吹き出しながら相槌を打った。「はいはい。その話は何度も聞いたわよ」僕は意に返さず話を続ける。「あの後、僕らはどっちがミケを保護するかで揉めたよね。でも結局、君はアパート暮らし。僕はペット可のマンション。僕が保護することに決まったんだ。そしたら君が『飼育に必要なものは私が買います』って言うから僕は『結構です』なんて低音で答えたのさ。何せ君はあの娘にそっくりだから僕は少し、緊張していたんだ。いつ、君が『この人痴漢です』って叫ぶかと思ってさ」「失礼ね。そんなこと言うわけがないでしょ。子ねこを拾う優しい男性なんだから」「そうだね。僕の誤解だった。だから一度僕の家に行って……そう、君は傘を持っていた。僕らは相合傘で僕の家まで行った。そして、車に乗ってホームセンターへ行き、子ねこの必需品。ねこミルク、ねこトイレ、ねこ砂、爪とぎなんかを買って帰ったんだよね」「そうそう」「それから僕が君をアパートまで車で送った。そうしたら君が僕の携帯電話のアドレスを聞いた。あのころスマホなんてあんまり出回ってなかったね」「そうね」「そしたら僕ったら『フェイスブックはやってますか?』って唐突に聞いちゃったんだ。馬鹿だね。心の傷を埋めようとしていたんだ。あのころフェイスブックなんて少数派。ツイッターがようやく広まったころだった」「私は『やってません』って答えたのよ。でも続けて『今夜からやります』って言ったのよね」「そうだった。君のフェイスブックは写真も何もなくて地味だったなあ」「今ではiPhoneで写真を撮ってアップしてるわよ。ミケの写真をね」「そう、それから、君はミケに会うため僕の家に遊びに来た。その時の君の僕に対する気持ちはわからないけれど、僕は君を見るたびドキドキしていた」「『この人、痴漢です』って叫ばれないかどうかで?」「違うよ。君のことが気になって仕事が手につかなかったのさ。僕はトラウマを背負い投げで投げ捨てて、君に告白した。正直、ビビったね。またこの前と同じ結果になるんじゃないかと思ってさ」「でも私はオッケーした。そして二人は結婚した」「うん。こうして考えてみるにミケは僕たちの縁結びの神さまだね」「そうね」「だから僕たちはミケが天寿を全うし天国に旅立つまで彼女を守らなければいけない」「肝に銘じます」
ミケが来てから僕の生活は公私ともにハッピーになった。まずスポーツ雑誌『ナンダー』に連載したものに加筆修正をした『超人の恩人』が予想以上に売れ、僕のことを“スポーツライターの第一人者”と呼ぶ人が出てきた。お世辞でも嬉しかった。それから音楽雑誌『ロック・フェス』にこれまた連載の『音楽の魔術師』も単行本になり印税が入った。その他、色々な雑誌からオファーが来て僕はウハウハ状態であった。テレビにも出た。朝の情報番組のコメンテーターだ。でも、人見知りで小心者の僕は一言も喋れず、プロデューサーさんから「次は喋ってくださいね」と優しく怒られた。次はなかったんだけどね。この経験を生かし、本業で頑張ろうと思っていた僕に、仕事のお誘いがあった。医学日月社という医学専門書の出版社で、理系に弱い僕は断ろうかと思った。だけど、はっきり言ってギャラがすごくいい。さすがお金持ちのお医者さん相手に商売している出版社だ。僕は飛びついた。その内容はアフリカで今、流行している、新種の病気のことだった。「現地まで行って取材するのですか?」と僕が聞くと「ええ、お願いします。コーディネーターが付くので安心です。ただし病気を移されないでください。死にますよ。致死率八十パーセントです」と脅された。僕は行きたくなかったがギャラの良さはそれを凌駕する。ミケをみどりさん(唐突だが妻の名前である)にお願いして、アフリカ、タンザニカ共和国に向かって飛び立った。
タンザニカ共和国の首都に着くと、僕はコーディネーターのサンバ氏と合流し、必要な物資を調達した。首都ドラマは日本と同じくらい物資があり、我々は苦もなく必要なものを取り揃えることが出来た。サンバは言う。「我々が向かうのはタンザニカ国立公園の南にあるラジオという町です。車で十時間以上かかります。道は整備されていないので、かなり揺れます。でも大丈夫。ドライバーのマンボは優秀なドライバーで……あれ? マンボ、マンボ?」いくら呼べどもマンボは来ない。多分逃げたのだ。それだけ、蔓延している病気が恐ろしいものなのだろう。「仕方ありません。私が運転していきましょう」サンバは悲壮な顔つきで言った。
サンバの運転は最悪だった。よっぽど運転を代わってやろうかと思ったがやめた。この悪路では誰が運転しても変わるまい。僕は頭を天井に、尻を座席に交互にぶつけながら耐えていた。まる一日かかって(予定の倍以上掛かった!)ラジオという町に着いた。マンボが運転していたらそんなには掛からなかっただろう、たぶん。
町はゴーストタウンのようだった。誰一人で歩いていない。我々二人は、町に一つだけというホテルで休んだ。サンバの疲労度は僕の何倍も高い。彼は高いびきで眠った。うるさくて僕は寝られなかった。翌日、我々は国連の指揮のもとにあるラジオ町営病院を訪れた。僕は『顔にぴったりフィット』というマスクを三重にしていた。幸運というか、なんというか病院には国連から派遣された日本人医師の野口さんと、動物学者の羽柴さんが居た。まず、そんなに忙しくなさそうな羽柴さんに話を聞く。だいたい、なんで動物学者が病院にいるのだろう。ちょっと不思議だった。
「まず、言っておきますが今回のウィルスはヒトからヒトへは感染しません。その点は安心してください。患者に触れても問題ありません」
「じゃあ、何から移るのですか?」
「ねこです」
「ねこ?」
頭の中が空白になった。
「ウィルスはねこからねこへ広まります。でもねこは発症しません。そして、ねこからヒトへ感染します。そうするとひどい病気を発症します。今、ドイツ、スイス、アメリカでワクチンの開発が急ピッチで行われていますが、まだ完成の目処は立っていません。お二方もねこには近寄らないでください」
そうか、それで動物学者がいるのか。
「ねこを見かけたらどうすればいいのですか?」
「国連チームに言ってください。可哀想ですが処分します」
なんだって! 可愛いねこを殺処分するのか!
「ねこを殺さないで済む方法はないのですか?」
「ワクチンが開発されるまでは無理です。殺処分して焼却しなければなりません」
「焼却したら、ウィルスが飛散するのじゃありませんか?」
「大丈夫です。高熱で焼却するとウィルスも死にます」
「そんなあ、都合いい」
僕は本音を言ってしまった。
「私だって、可愛いねこを殺したくはありません。でも、そうしないと人類が滅亡する恐れだってあります」
「大げさな」
「もし、ワクチンが出来なかったらの話です。この地球にねこのいないところなどありません。その全てがウィルスに感染する可能性があるのです」
「ううん」
僕は考えてしまった。ミケを殺処分しなければならない日が来るのか。あの約束はどうなる。『ミケが天寿を全うし天国に旅立つ日まで、僕らは彼女を守らなければならない』という誓いを。
ついで診察、治療を終えた、野口医師に話を聞いた。
「どんな様子ですか?」
「町からねこを排除したので、新しい患者は減りつつあります」
一体何匹のねこを排除したのだろう。心の怒りを隠し、質問する。
「どんな症状なのですか?」
「まず四十度以上の高熱が出ます。そして身体中の粘膜から出血します。目から、鼻から、口から、毛穴から、肛門から、性器から。そして出血性ショックで死に至ります」
「助かる方法はないのですか?」
「対処療法で約二割の人が回復します。これは体力の問題です。子供や、老人の致死率はほぼ百パーセントです」
では、と言って野口医師は治療に戻った。
「なんとも恐ろしい病気ですね。ねこなんかみんな死んでしまえ」
サンバが叫んだ。僕はサンバを殴りつけた。羽柴さんが止めてくれなければどんなことになったか分からない。
サンバと一緒にホテルに戻る気にはならない。その気持ちを察してくれたのか、羽柴さんが「ウチに来ませんか」と言ってくれた。サンバからパスポートと帰りのチケットをふんだくった僕は、羽柴さんの家に行った。車で五時間くらいである。あの悪路を羽柴さんはスイスイ運転する。快適なドライブだった。サンバのやつは、きっとペーパードライバーだったんだ。きっと。
羽柴さんの家で美味しい食事をいただき、僕は眠りについた。ベッドは二つあった。「息子がいたんですよ。今は日本に行っている」羽柴さんは言った。羽柴さんはいびきなんてかかなかった。だから僕は安眠出来た。サンバなんて糞食らえだ。
次の日、羽柴さんが首都ドラマの空港まで車で送ってくれた。五時間は掛かる。「病院はいいんですか?」と僕が聞くと「毎日、行くわけではありませんから」と羽柴さんは答えた。
空港に着くとサンバがいた。非常に気まずい。サンバは僕に近寄ってくると「私、動物愛護精神に欠けていました。発言を取り消します。ごめんなさい」と謝ってきた。それなら僕も「殴って悪かった。ごめんなさい」と頭を下げた。和解の握手をする。別れ際、サンバは「この病気を他山の石と思わないように」と言った。難しい日本語知っているなあ。僕は見当違いのことを考えていた。彼の忠告は正しかったのである。のちに分かる。
日本に帰ると今回の取材をもとに単行本として出版した。しかし、売り上げはいまいちで増刷とはいかなかった。この本が増刷に増刷を重ねるのは、その一年後である。本のタイトルは『ねこインフルエンザウイルスの恐怖』であった。僕は「ねこ」の文字は入れたくなかったんだけど、編集部が無理やり付けてしまった。でも文句は言えなかった。だって、ギャラが良かったんだもの。
横浜ノゲラシア動物園で一頭のベンガルトラが死んだのは僕が『ねこインフルエンザウイルスの恐怖』を書いたちょうど一年後のことだ。ベンガルトラの死体は三人の飼育員によって園外に出され、動物専門の火葬業者によって荼毘に付された。
最初に発症したのは若い飼育員だった。勤務中に倒れ、意識不明となった。救急車が来た時には全身から出血し、ひどい有様であった。救急隊員は「これはもしかすると危険な病気かもしれない」と、感染病指定病院の、みなとみらい総合病院に患者を連れて行った。しかし、病院に到着するや否や飼育員は死亡してしまった。その頃ノゲラシア動物園では新たに二人の飼育員が倒れ、同じ頃、火葬業者の従業員もバタバタと倒れた。みな、死んだベンガルトラに触ったものたちであった。あまりの人数に、みなとみらい総合病院はパニックに陥った。だが、検体を国立感染症研究所に送るとすぐに、病気が『ねこインフルエンザウイルス』によるものと分かった。これで患者からの二次感染がないことが分かり病院のパニックは落ち着いた。しかし、今度は野毛を中心とした住人が恐慌した。野毛には野良ねこ、地域ねこがたくさんいた。保健所には「早くねこを駆除して」との電話がジャンジャン掛かり、一方町では「ねこを殺すな!」という動物愛護団体と住人の一部が乱闘騒ぎを起こす事態となった。状況が動いたのは、いつも野良ねこにエサをやっていた、稲田タネさん(86)が全身から血を吹き出して死んでいるのが発見されたからだ。これによって、野良ねこ、地域ねこからウィルスの感染の危険性が立証されたわけで、政府は野毛地域に非常事態宣言を出し、ねこの処分を決めた。その中に、飼いねこも含まれていたため、事態は大問題に発展した。「うちのナナちゃんは家から一歩も出てませんウィルスに感染するわけないじゃないですか」中年の女性が叫ぶ。しかし対応に当たった神奈川県警の警察官は「国で決まったことですから」と無情にもナナちゃんを回収する。「器物破損で訴えますわ!」ねこが生き物ではなく、飼い主の所有物であると知っている中年女性は正論を吠える。それに対し警官は「国の非常事態宣言はすべての法の上に立ちます」とナナちゃんを持ち去る。哀れ、ナナちゃんは毒ガスで命を断たれることになる。田中幸太郎さん(68)は包丁を持って、飼いねこのポンタを守ろうとした。しかし、警官に威嚇射撃をされた後、太ももに拳銃の弾を食らってもんどりうった。警官の非情な飼いねこ回収は脅迫的でもあった。いくら日頃、市民の警察と言ってもこの強引さでは市民の信頼を失いかねない。それだけの圧政であった。
僕は考えた。僕の町はまだ非常事態宣言は出されていない。しかし、野毛に比較的近い場所にある。宣言が出されるのも時間の問題だ。ねこはいぬと違って散歩などしないし、飼うために鑑札などいらない。バックれるならそれも出来そうである。だが、敵もさるもの。ドラックストアやホームセンターでねこのエサを買う人を尾行して、飼いねこを暴いているらしい。まず僕はねこのエサを買うのをやめ、塩分のない鰹節を大量に買い占めた。塩分はねこの体に毒である。それからねこトイレの砂を近所の公園から失敬することにした。不便だが、仕方ない。そして、警察が強制捜査に入れぬよう、扉をリモコン式にして僕とみどりさんしか出入りできないようにした。でも、何か足りない。僕には自衛官の知り合いがいる。石井陸佐という。彼も相当なねこ好きである。自宅は千葉なのでねこ狩りの被害には合っていないようだが、今回の警察の仕打ちに憤慨している。彼に僕は率直に言った。「家を完全武装化し、警察を殲滅する!」石井は少し驚いた顔をして「私は国家のために働いているのであります。国の命令で動く警官たちを殺傷することはできません」と常識的なことを言った。僕は怒った。「石井よ、お前のねこたちが無残に毒ガス送りになってもいいのかよ。それでも国に従うのかよ」「そ、それは……」石井は動揺した。そして「私は何をすれば良いのでありますか?」と聞いてきた。「武器を横流しせよ。マシンガン、手榴弾、それに戦車があれば完璧だな」「ちょ、ちょっと待ってください。戦車は無理です」「なら迫撃砲だ。いざとなったらお前も僕の家で戦うんだ」僕は無茶を言った。本当は拳銃の一つでも手に入ればいいのだ。ミケを助けられないなら自分が死ぬ。信念のために死ぬ。三島由紀夫みたいでかっこいいじゃないか。しかし、僕は知らない。石井が僕の無茶振りを本気にしていたことを。
ついに横浜市全区に非常事態宣言が出された。患者は三十人を超えた。何千人もの命が失われたタンザニカ共和国に比べたら微々たるものだが、これからパンデミックを引き起こす可能性は十分ある。横浜には各都道府県の警官が応援に入って、物々しい状態になった。警官たちはまず、野良ねこ、地域ねこの駆除に入った。それは普段の仕事と勝手が違うもので、警官たちは苦労した。ざまあみやがれである。その間に僕は家の完全武装化に着手した。石井は我が家に、本当にマシンガンを十丁横流しして来た。それを玄関、ベランダに設置する。ベランダのものは観葉植物で迷彩した。我が家は三階なので、レンジャー部隊が屋上から攻めてくる可能性もある。刀剣屋に行って槍を五本買ってきた。槍を買うには身分証明書がいる。僕は正直に書いた。どうせ後には引けない戦いである。負ければ死あるのみ、勝てばミケの命は守られ、僕は銃刀法違反で刑務所暮らしが待っている。どのみち僕の人生は終わりだ。どうせならでっかい花火を打ち上げたい。そこに石井が来た。武装状況を見聞するという。まず、彼が目をつけたのはお隣との壁だ。「敵が壁を破って突っ込んでくる可能性がある。マシンガンを2台づつ、用意するんだ」僕は言われるがまま、マシンガンを装備した。「ベランダの槍だが、現代のものは美術工芸品の色が濃い。実戦には役に立たない。それよりも出刃包丁を多数用意しろ。触れただけで、敵にダメージを与えられる」「わかった」僕はホームセンターで出刃包丁を二十丁購入した。ホームセンターの店員さんはびっくりした顔をしたので、「回転寿司屋を作るんだ。食べに来てね」と大嘘をかましてきた。「あとは戦闘員だな」石井は言った。「僕一人で戦う」というと「愚の骨頂、素人が一人で扱える銃器ではない」石井は言った。「まず私が参加する」いいのか? 自衛隊員が。「それから我が部隊の中で今回の政府のやり方に反感を持つねこ好き自衛官が十人いる。それらを暫時この家に入れる」「それは頼もしい」「それから一番大事なのは、みどりさんを実家に帰すことだ」「駄目だ、みどりさんも戦うって言っている」「身重の体でか?」「えっ?」「お主、気付いてないのか? 私はここに来た時から分かっていた」僕は慌ててみどりさんを呼んだ。「君、妊娠しているの?」みどりさんは笑って答えた。「ばれちゃった」「みどりさん、君は実家に帰りなさい」僕は慌てて言った。「でもミケを最後まで守るって約束が」みどりさんは残念そう口尖らせた僕「今までミケが一番だった。でもこれからは赤ちゃんが一番。ミケは二番。でもミケの命を守る決意に変わりはない。僕はこの戦いで死ぬかもしれない。君と僕の子を無事に産んでくれ」「はい。分かったわ」みどりさんは素直に答えた。
僕はみどりさんを車に乗せて彼女の実家まで送った。そしてご両親に「僕に何かありましたら、赤ん坊とみどりさんを宜しくお願いします」と言って家に戻った。
鰹節、砂場の砂の努力が実ったか、警官はなかなか来なかった。もしかしてスルー? その間に石井の募った自衛隊有志が続々やってくる。こんなに人数要らなかったかしらと思ったら、不意に警官がやって来た。「おたく、猫飼っているでしょ」初めからそうきたか。「いいえ」とぼける僕。「本当? 近所の人が飼ってるっていてたんだけどなあ」「いましたけど、去年死にました」「ああ、そう。じゃあ部屋見せてくれる?」といって靴を脱ぐ警官。その瞬間、玄関と居間を遮っていたカーテンが開かれ、二台のマシンガンが姿を現した。「なんだこりゃあ」靴も履かずに警官は逃げ出した。石井がニヤリと笑い「初戦は我が方の勝利。しかしこれからが本当の戦いだ」「おー!」僕と十人の自衛官は気勢をあげた。
その頃、逃げ出した警官は本部に無線を送っていた。「横浜市○○区マンションピエール311号。武装したテロリストらしき男が数人、ねこを守っている模様。至急、応援を頼みます。機動隊も必要です」「了解」
「本部長! ついに出ました。『ねこテロリスト』が」捜査一課長が県警本部長に報告する。「ホシはマシンガンを準備しているようです」「人数は? 銃器の数は?」本部長が尋ねる。しかし、捜査一課長は「不明です」と卑屈に答えた。「なんだ現状を把握できなきゃ対応のしようもないじゃないか。担当の警官は何をしてたんだ?」「銃器はカーテンに隠されていたようです。警官はマシンガンに驚き、撤退したようです」「いっそ、撃たれてでも現状を把握すればよかったのに」本部長は歯嚙みした。「よし、まず人数を揃えて玄関を破壊する。しかしこれは陽動だ。特殊部隊を用意して屋上からベランダに降下、ホシを挟み撃ちにする。いいな」「はっ」捜査一課長は準備に走った。
「いよいよだな」石井がニヤリと笑う。「戦闘は私たちがする。お主はねこを守れ」「分かった」
自衛隊員たちが持ち場に着く。
『ドンドンドン』警官たちが玄関を叩き壊そうとしている。しかし、玄関には先ほど、テーブルと椅子でバリケードが作られていた。一方、特殊部隊は屋上に到着、311合室に降下準備をしている。「それ降下」隊長の一声のもと十人の特殊部隊が降下する。311号室のベランダが近づく。その時、二人の男が現れ、用意した槍で特殊部隊隊員の脇を突き刺す。「うわあ」「痛い」突き刺したところで出刃包丁を使い、隊員を吊るすロープを切り裂く。「わあ」二人が脱落する。「怯むな」隊長が叫び四人が滑り降りる。待っていたのは窓辺に置かれたマシンガンだった。
『ダダダダダアー』
四人の隊員は吊り下げられた状態で絶命した。
「降下中止」隊長はやむなく、そう指示した。
一方玄関のバリケードがようやく破られた。
「それ行け!」
捜査一課長が指示すると、待っていたのは、やはりマシンガンだった。
『ダダダダダアー』
炸裂するマシンガン。十人の警官が鳥の巣になった。
「引け、引けえ」捜査一課長は青くなって叫んだ。
マンションピエールの駐車場に、対策本部が置かれる。本部長は冷や汗をかいている。すでに十六人の命が奪われている。
「これはもう、警察の能力を超えている。自衛隊の派遣を要請しよう」
本部長はこれで自分のキャリアとしての出世の道は断たれたと思っていた。今、なすべきことはテロリストをぶっ殺すことしかなかった。
政府は神奈川県警から要請のあった自衛隊派遣を認めた。陸上自衛隊、東部方面隊、東部方面混成隊が横須賀から急行する。
僕はミケと一緒に寝室でテレビを見ていた。テレビはさっきからウチの事件を緊急生放送している。テレビトキオを除いては。自分のマンションが画面に映し出されている。なんだか別世界のようだ。自分がこの事件の主役だったのだが、今は石井たち自衛隊有志が主役の座を奪ってしまった。もう僕に出る幕はない。ただ、ミケを守ることだけが僕の使命だ。そんなことを考えていた時、テレビにニュース速報が流れた。今やっている放送自体がニュース速報なのに、その上まだニュース速報があるのかいなと思っていると、画面の上に『アメリカの大手製薬会社メディカルインポータント社が、猫インフルエンザウイルスのワクチン開発に成功』との記事が流れた。僕は一瞬、何のことかわからなくなったが、頭を整理すると興奮した。「わあ、これでねこが殺されなくなる」僕は慌てて石井にこのことを伝えに行った。石井は「これでねこどもの命が救われる」と涙を流した。そして「我が事成れり。あとは死すのみ」とつぶやいて、持参してきた短刀で切腹をしようとする。「や、やめろよ」と僕は叫んだが「私は自衛隊員の職責にありながら、職務を放棄し、犯罪者に成り下がった。この上は自害するのが道理」と言って切腹してしまった。同志の一人が介錯する。死す間際、石井は「すべては私が主導したこと。そういうことにしてくれ。皆の罪が軽くなる」と言って果てた。なんていい奴だったんだろう。僕は泣いた。それから、白旗を上げて降伏した。
裁判で自衛隊同志は「すべては石井が計画し、我らが賛同したもの」と証言し、僕は脅されて協力しただけと口を揃えた。僕は本当は首謀者なのに、石井とその仲間の証言のおかげで、無罪になった。しかし、警官十六人を殺した罪は重い。同志たちは死刑、または無期懲役となった。本来は僕が死刑になるべきなのに。僕は良心の苛責に耐えなければならなかった。だから仏壇を買って、石井たちの冥福を祈った。そんなことで救われることはないんだけど。気持ち、気持ちですよ。
失われる命あれば、残される命もある。殺される運命にあったミケの命は長らえた。猫インフルエンザウイルスのワクチンが開発され、世界のすべてのねこに投与されることになった。莫大な資金が必要になるが、悲惨な病気で亡くなる人がいなくなると思うと、それは必要なことだなと思う。
ミケが僕にすり寄って来る。ご飯が欲しいんだなとすぐ分かる。あの排水溝で震えていたミケももう6歳、あと十年生きれば、天寿を全う出来るよね、と僕はみどりさんに言う。みどりさんは元気な男の赤ちゃんを産んでくれた。僕は裁判で立ち会うことは出来なかったけれど、みどりさんのご両親の話ではびっくりするくらいの安産だったそうだ。その子、守ももう二歳。もし僕が死刑だったらこの世では会えなかったんだと思うと涙が出てくる。この事件を経験してから僕は涙もろくなった。僕は色々な人に助けられ、支えられて生きているんだと思う。
こんな僕だけど、自信を持って言えることがある。
「僕は命をかけてミケを守った。僕とみどりさんを取り持ってくれた捨てねこミケ。僕とみどりさんはこれからも君を守る」
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