歌声は残らなかった
僕は、取材のために東急東横線K駅に降り立った。JR横浜線も通るこの駅は、閑静な住宅街の玄関口として知られている。その東口は綱島街道が貫き、交通量も多く、乗用車やトラック、バスなどがひしめくように通行している。喧騒の絶えない場所である。一方西口は再開発も進み、かつては大量にあった放置自転車は撤去され、歩行の便も良くなった。改札を抜けて階段を降りれば、駅に隣接するスーパーマーケットの駐車場が見える。今は十二時まで営業するこのスーパーマーケットの駐車場は夜になっても満車状態で立錐の余地もないが二十年前、このスーパーマーケットは八時で閉店し、九時にでもなれば広い空間が出来ていた。そこに、いつしか一組のバンドがストリートライブを敢行して多くの観客を集め、最盛期には駐車場が聴衆でいっぱいになり、溢れ出した人たちが公道にまで溢れ返り、警察が出動するほどの騒ぎになったことがあるという事実を覚えている人はいるであろうか。それは横浜伊勢佐木町で路上ライブを行っていた、あの人気デュオにも匹敵する、いやそれ以上のものだった。だがそのデュオが現在、爆発的な人気を誇り活躍しているのに対し、あれだけの聴衆を集めたそのバンドは、音楽メジャーはもちろん、インディーズにもその姿はない。地元の人々も、うっすらとその記憶を持っているか、すっかり忘れてしまっているのが実情である。果たして、そのバンドはどうしてしまったのか。なぜ、メジャーデビューもせずに終わってしまったのか。その理由を探るのが僕の今回の取材の目的である。そのバンドの名は、『荒鷲健アンドザ・ドーナッツ』。略して『アンドーナッツ』である。
『荒鷲健アンドザ・ドーナッツ』のメンバーは5人。リードボーカルの荒鷲健、リードギターの朝倉譲、キーボードの白鳥純、サクソホンの燕九郎、ベースギターの中西竜だった。彼らは地元の高校の同級生で、とても仲が良かったらしい。みんなで、放課後の屋上に集まり、練習をしていたようだ。初めはどこの素人バンドとも同じように、有名バンドのコピーをしていたようだ。五人の実力にかなり隔たりがあり、技術を高めていくには既存の曲を繰り返し練習することで指を慣らしていくしかなかったのだ。では、そのメンバーを一人一人詳しく紹介することにしよう。リーダーでボーカルの荒鷲健は自衛隊のパイロットを父に持っていたが、事故で失い、母と二人で暮らしていた。そんな寂しい生活の中で、父の遺品であるアコースティックギターを手に取り、曲に合わせて窓際で歌を歌っていた。母はその声を聴いて、「父親に似ていい声だわ」と言った。それが嬉しくて、弾き語りを毎日のように披露した。その声は透き通り、近所でも評判になった。リードギターの朝倉譲は幼い時に両親を犯罪者に殺されるという余人にはない暗い過去を持ち、今は親戚の家に預けられていた。その悲惨な過去を忘れるためにエレキギターを始め、その当時、県下に争うものなしと言われるほどのプレイヤーになっていた。性格はやはり事件の影響で少しひねくれていて、斜に構えているが、メンバーとはかなり打ち解けていた。荒鷲健とはライバル的な関係で、時には喧嘩もした。ただし、信頼関係はあるようだった。その腕前から他のバンドからの誘いが絶えなかったという。キーボードの白鳥純は某大企業の社長のお嬢様で、父の会社が音響メーカーを傘下に持つことから、メンバーに最新の楽器を無償で提供していた。彼らの音楽が高校生のアマチュアバンドの域を越していたのはその影響ではないかと僕は見ている。サクソホンの燕九郎は貧困な家庭の生まれである。母は早くに亡くし、飲んだくれのアルコール中毒の父と暮らしている。子供の頃から家庭内暴力にあっていたらしい。そんな彼がサクソホンに目覚めたのは、サクソホン奏者丸太に出会ってからである。丸太は小さい体から管楽器特有の情熱的な音を出し、テレビでも活躍していた。やはり、小柄な燕九郎は感動し、丸太への弟子入りを希望し、テレビ局で“出待ち”をしていた。最初は無視していた丸太も、その熱心さに負け、「俺はなあ、弟子は取らねえ。だがお前の情熱には負けた。これをやる」と自らのサクソホンを燕九郎にくれた。「しっかり練習しろ。そしていつか俺とセッションしようぜ」と丸太に言われた燕九郎は喜んで練習に励んだ。だが当時はサクスホンの教本など、東京の大型楽器店にしかない。燕九郎は金がなかったから万引きをした。幸いというかなんというか、店員には見つからなかった。しかし、燕九郎はしばらくしてから良心の呵責に苛まれた。それを救ったのが、リーダー、荒鷲健である。彼は燕九郎に「いつか有名になって、謝りに行こう」と言って慰めた。それ以来燕九郎は「丸太さんは師匠。健は兄貴」と呼ぶようになった。反対にベースギターの中西竜は裕福な家庭の育ちである。性格はおっとりして小さなことにはこだわらない。それが音楽にも現れる。ちょっとくらい間違えても気にしない。だからバンドのお荷物的存在だった。しかし、リーダーの健は「竜のおおらかさはバンドの宝だ。俺は絶対、竜をやめさせたりしない」と中西竜をかばった。中西竜も荒鷲健の心の内を知り「おら、絶対間違えない」と研鑽を約束した。だから、一流とはいかないまでも及第点は取れるベースギターになった。
彼らがスーパーマーケットの駐車場でストリートライブを始めたのは、そこでバイトをしていた荒鷲健が、スーパーマーケットの店長に「ご迷惑はお掛けしませんから、夜、駐車場で練習させてください」と頼んだからだ。その店長は自身も昔、バンドをやっていたので「ああ、この近隣は住宅もないし、あんまり遅くならなきゃいいよ」と親切に言った。なので九時から十一時まで、駐車場で練習することになった。とてもラッキーだった。その上、アンプやマイク、キーボードの電源もスーパーマーケットから取らせてもらった。それにアンプなど大きいものは昼の間、駐車場の端に置かせてもらう許可までもらった。このスーパーマーケットの店長の温情がなければあの奇跡的な集客は不可能であっただろう。大恩人である。それから、コード類は白鳥純が父親に頼んで用意してもらった。『荒鷲健アンドザ・ドーナッツ』の旅立ちは本当に幸運の連続だった。まだ慣れぬうちは、彼らはオリジナル曲を演奏するのをためらい、コピー曲を演奏していた。練習だからそれでよかったのだ。通勤通学帰りの人たちの反応は全くなかった。それどころか酔っ払いに「うるせい、騒音だ」と絡まれたこともある。それに対し、朝倉譲は殴りかからんばかりに激怒したが、中西竜がそれを巨体で受け止め、酔っ払いには「すまんことです。練習をたくさんして、上手になりますから今は勘弁してください」とやんわりなだめて事なきを得ていた。中西竜はバンドの緩衝材だった。音楽の方向性で荒鷲健と朝倉譲はよく揉めた。荒鷲健はボーカルを重視したバラード調の曲を好んだのに対し、朝倉譲はギターソロメインのハードな曲を望んだ。お互い自己主張が激しいのである。実際、取っ組み合いの喧嘩もよくした。それを押さえて、両者を引き離すのが中西竜の役目だった。本気で喧嘩をすれば、中西竜にかなうものはいない。だが彼は平和を愛する博愛主義者だった。そんな中西竜をバンドメンバーは愛していた。だから少しミスするくらい大目に見ていた。燕九郎のサクソホンもお世辞にも上手とは言えなかった。何せ、自己流である。時に金切音を出し、メンバーを失笑させた。それでも彼は努力した。盗んだ教則本を熟読し、貧しいながら丸太のステージに通い、最前列で見た。「弟子は取らねえ」と宣言していた丸太もそれには感心し、ステージ後、燕九郎を舞台に呼び寄せ、稽古をつけてやったり、ただでステージが観られるように、マネージャーに口を利いてくれたりした。ただし、燕九郎の才能には懐疑的で、「お前、将来は俺のマネージャーになれよ」と言ったりもしていた。
潮目が変わったのは、彼らがオリジナル曲を演奏するようになってからである。詞は、荒鷲健が作り、作曲と編曲は朝倉譲と白鳥純がした。朝倉譲は荒々しいロック調の曲を作り、白鳥純はポップやバラード調の曲を作った。荒鷲健はバラード調の曲が好きだったので白鳥純の曲をよく採用した。朝倉譲はそれが不満であった。そして、最初に演奏したのが、『二人』である。
『二人』
もう疲れたよ
つまらないことで 喧嘩したり 傷つけたり
バカみたいさ
少し休もう
何が大切で 何を信じて生きればいいか
わかるまで
君の姿映した 鏡に恋していた
本当の君を 知らずに
鏡は砕け散った 僕は後ろを振り向いた
何もなかった
傷は癒えたかい?
穏やかな暮らしで 料理作ったり 洗濯したり
それもいいね
でも二人して
ふざけあうことも
生きる歓び 青春の日々 気付いたよ
僕の姿映した 瞳に恋していた
本当の僕を知らずに
瞼は伏せられた 僕も瞳を閉じていた
何も見えない
周りの目に映った 二人に恋していた
本当の愛を知らずに
鏡は砕け散った 僕らは後ろを振り向いた
光が射した
このしっとりとした、やや暗めの詩は、その当時の荒鷲健と白鳥純の関係を描いたものだった。いわば、荒鷲健から白鳥純へのメッセージソングであった。二人は付き合っていたのだが、その頃、関係がギクシャクしてきた。その原因は朝倉譲にあった。朝倉譲と白鳥純が作曲を一緒にしているうちに親密な関係になってきたのだ。それに嫉妬したのか、荒鷲健が「俺も作曲に参加する」と言い出した。それに対し白鳥純は「余計な口出しはしないで、作詞に専念して」とピシャリと言い放った。これで荒鷲健がキレて、二人は冷たい関係になってしまった。だが、二人とも嫌いになったわけではない。荒鷲健の一方的な思い込みだった。二人がこの状態になって、バンドの状態も悪くなる。中西竜は荒鷲健に言った。「もっと自分に素直になった方がええぞ」と。その一言で荒鷲健は反省し『二人』を作詞した。この詞を見た朝倉譲は「これは俺の性に合わない。健と二人で作曲しなよ」と促した。「そうね」白鳥純は頷くと、荒鷲健の元へ行った。この時の朝倉譲の心情は分からない。身を引いたのだろうか。それとももともと白鳥純には気がなかったのであろうか。とにかく、『二人』は、荒鷲健と白鳥純の二人の手で完成した。
『荒鷲健アンドザ・ドーナッツ』が夜のスーパーマーケットの駐車場で『二人』を演奏し始めると、ポツポツと通行人が足を止めて聴き入るようになった。今まではなかったことであった。中にはこの前の酔っ払いもいて「いいねえ。青春の苦い思い出が甦ってくる」と言って、中西竜に千円札を渡した。中西竜は「こんなもん、いらんがな」と言って返そうとしたが、酔っ払いは全速力で走って行ってしまった。「あれ、本当に酔ってんのかなあ?」と中西竜は首を傾げた。
聴衆が少し付くようになると早急に二曲目が必要になって来た。一曲だけではすぐ飽きられる。荒鷲健は早速、二曲目、三曲目を作った。
『ファラディ』
ファラディ 夏の日
君と初めて会った あの浜辺で
君は遠い波を見てた 濡れた瞳で
その黒目がちの瞳に 僕の姿が映った時に
何かがはじけた
僕と君の凍りついた 心が溶け合って
星になった
ファラディ 遠い日
君と初めて会った あの浜辺で
僕は遠い昔を見てた 濡れた頬して
僕の荒んだ気持ちに 君の面影見つけた時
何かが壊れた
君と僕の凍りついた 思い出が夜空で
雪になった
『何も言えなかったよ』
何も言えなかったよ
君の瞳を 揺らす涙に
それは 生きることに疲れて
もうどうでもいいやと 投げやりな
言葉と うらはらな
自惚れていたんだよ 君になら無理言ったって
大丈夫だと
強い君の心に 傷をつけてしまったのは
僕の罪だね
何も聞けなかったよ 君の頬を濡らす涙に
それは 歩くことに疲れて
もうどうにもなれよと 投げやりな
気持ちと うらはらな
気付いてはいたんだよ このままじゃ駄目なことは
初めから
僕の弱い心を 君に預けたのは
僕の罰だね
この二曲は一曲目の『二人』と併せて、『瞳三部作』と呼ばれていた。内容が少し似ているのは荒鷲健の才能の限界だろう。それでも、三作目が出来る頃には、噂が噂を呼んで、毎回五十人ほどの聴衆が来るようになった。それにつけて、熱心なファンも生まれだして、毎回、花束やプレゼントを持ってくる女性もいた。人気一番は、やはり、荒鷲健で二番目は朝倉譲、男性のファンは白鳥純の美貌にメロメロになっていた。燕九郎や中西竜にもファンは付いた。しかし、バンドのメンバーはその状況をよく分かっておらず、ただ、「自分たちの音楽を聴いてもらえる」と単純に喜んでいた。一番幸せな時だった。
「なあ、どっかの会場でライブをしようよ」と言ったのは中西竜だった。「いいね」と燕九郎も乗って来た。それを抑えたのは朝倉譲だった。「バカ言うな。三曲ぐらいの持ち歌でライブなんか出来る訳ねえ。せいぜいどっかのバンドの前座くらいだ」と朝倉譲は怒った。「なら、みんな。高校の文化祭に出ようよ。俺が申請してみる」荒鷲健が提案した。考えてみれば、彼らはまだ高校生であった。自分の高校の体育館で歌う。身の丈に合った提案である。「さすが、兄貴。頭の出来が違うぜ」燕九郎が褒めちぎると、朝倉譲が「じゃあ俺、ライブ用の曲を一本書いてみる。健、いいよな」と荒鷲健に同意を求める。「ああ、いいよ」荒鷲健は鷹揚に答えた。だが、その曲はとんでもない代物だった。
『ブッラックシャドー』
(ブラックシャドー)俺を殺すのは誰だ!
(ブラックシャドー)俺を生かせるのはなぜだ!
夜のしじまに 突然現れ ピストルを撃つ
俺はこの狂った世界で 一輪の花を探す
俺はこの間違った世界で 幸せの青い鳥を探す
(ブラックシャドー)俺を殺すのは何か?
(ブラックシャドー)俺が生きてるのはなぜだ?
冬の吹雪に 閉じ込められて 斧を投げつける
俺はこの狂った世界で 一輪の花を咲かす
俺はこの間違えた世界で 幸せのかけらを作る
(ブラックシャドー)俺のこの命は誰のもの
(ブラックシャドー)俺のこの命は君のもの
(ブラックシャドー)今なんで生きてるのか
(ブラックシャドー)今なんで殺さないのか
狂った世界で狂人と嘲笑われて 間違った世界で狂人と避けられて
君が 君だけが僕を救う 君が 君だけが僕を信じてる
狂った世界の住人が笑う 間違った世界の住人が襲ってくる
君を守るため 僕は引き金を撃つ
僕を守るため 僕は斧を投げつける
この世界は真実なの? それともまぼろし?
この世界は幸福なの? それとも悲惨?
わからないまま僕は生きてる 君はどうだい?
ブラックシャドー
完全にイっちゃっている曲だった。けれど荒鷲健は「譲らしくていいじゃないか。たまには俺もシャウトしたかったぜ」と褒めた。燕九郎と中西竜は口を揃えて「こりゃあ、覚えるのが大変だあ」と嘆いた。
彼らの高校の文化祭は文化の日を挟んで三日間行われた。事前の審査は難なく、通った。荒鷲健は『ブラックシャドー』を曲目リストに敢えて入れなかった。文化祭の審査には歌詞の提出が求められていた。それを見て教師が可否を決めるのである。『ブラックシャドー』の歌詞を見たら、教師はブッとぶに違いない。「じゃあ、歌わないのか?」と不満げな朝倉譲に、荒鷲健は「きっと、アンコールが起きる。アンコール曲は審査の対象にないからな」と笑った。
文化祭での『荒鷲健アンドザ・ドーナッツ』の出番はなんと大トリであった。文化祭実行委員の中に夜の駐車場でのミニライブを見たものが居たようだった。「時間はたっぷりある。練習と行こうぜ」メンバーは屋上に集まった。「練習はいいけれど『ブラックシャドー』はどうするの?」白鳥純が荒鷲健に聞いた。「音量を最低限にしてやる。俺は家に帰って録音したテープを聞きながら歌う。それで大丈夫だろう」荒鷲健は答えた。白鳥純は「それで、息が合うかしら」と首をひねった。
文化祭三日目、メンバーは体育館にいた。この日は、吹奏楽部や合唱部の演目はなく、軽音楽部と有志のグループの演奏のみだった。「後学のために聴いとこう」と荒鷲健が提案し、五人で他のグループの演奏を聴いた。するとすぐに、朝倉譲が「こんなの耳の毒だぜ」と吠えて席を立った。他のグループの実力はそんなものだった。「譲の言う通りかもしれないな」荒鷲健は言い、みんなでそっと席を離れた。「焼きそばでも食うかな」のん気に中西竜がつぶやいた。みんな緊張感はないようであった。(平常心でやれたらいいな)荒鷲健は思った。
僕らが舞台ソデで待機していると、文化祭実行委員のメガネ男子が近づいてこう囁いた。「時間、押してるんですよ。ここ使えるの、5時までなんです。マキでお願いします」荒鷲健は戸惑った。アンコールが出来なくなるということだ。朝倉譲がムクれるのが目に見えた。まあ、仕方ない。これで、教師との無駄な諍いもないであろう。荒鷲健は諦念した。燕九郎がこっちを向く。「さあ、兄貴行こうぜ」と。荒鷲健たちは『二人』から演奏を始める。『二人』にしても『ファラディ』にしても『なにも言えなかったよ』にしてもノリノリの曲ではない。しっとり聴かせる曲だ。一曲歌うごとに大きな拍手はもらえるが、会場がどよめくということはない。こりゃあ、アンコールは無理だなと荒鷲健が思いながら『なにも言えなかったよ』を歌い終えると、拍手に礼を言うのもそこそこに、朝倉譲が、前面に出てきて演奏を始めた。はじめ戸惑っていた観客も、迫力のギターソロにノッてきた。「OK!」と荒鷲健が叫ぶと、白鳥純が『ブラックシャドー』のオープニングを弾き出した。横目で荒鷲健がソデをを見ると、文化祭実行委員のメガネ男子が両手でバツを作っている。しかし盛り上がった観客を置いて演奏を止めることなど出来ない。荒鷲健は『ブラックシャドー』を熱唱した。体育館が震えるほどの歓声が起きた。
荒鷲健は文化祭が終わるとすぐに、職員室に呼ばれた。文化祭実務責任者の渡辺女史(数学科)にこっぴどく怒られた。
「あなたねえ、まず時間が迫っていると言ってあるのに、勝手にもう一曲演奏したんだって。おかげで閉会式が一時間も遅れたのよ」
「すみません」
「それに最後の曲はなあに? 『殺す』だの『狂った』だの汚い言葉を使って。高校生らしさのかけらもない。はっきり言って不良の曲よ」
「すみません」
「あなたたち、屋上で練習しているそうね」
「はい」
「今日から校内での練習は禁止にするわ」
「はい。すみません」
「でも、三曲目までは良かったのにな」
なんだ。渡辺女史は体育館にいたのか。荒鷲健は思った。校内での練習が禁止になると、荒鷲健たちは、スーパーマーケットの駐車場での練習兼ミニライブに集中した。そして、荒鷲健は作詞、白鳥純と朝倉譲は作曲に没頭した。朝倉譲は作詞にも手を染めていた。こうして『晴れのち晴れ』『虹色』『鳥が舞う』『僕らは光の中へ』といった荒鷲健作詞の曲が数々生まれた。なんとなくそのタイトルは「空」をイメージしたものが多かった。もしかしたら戦闘機パイロットだった父に、想いを寄せていたのかもしれない。一方朝倉譲はハードな曲を作った。『Punch、Punch、Punch!』『dark side』『どこまでも走り抜ける』『受粉』などである。朝倉譲の作るハードで際どい曲を荒鷲健の澄み切った声が放つと、不思議な違和感が生じ、いつまでも耳に残るものとなり、聴衆の評判はとても良かった。アンコールの声が響き渡り、約束の十一時を過ぎてしまうこともあった。そしてだんだんと聴衆も増えていき、駐車場は箱詰め状態になってくる。無許可の露店まで出来る騒ぎとなり、警察が動きだす事態となった。荒鷲健は今度は所轄のお巡りさんのお小言を食らうことになった。リーダーは辛いのである。
「あのね、基本的には君たちの行為は何も悪くないのよ」
お巡りさんはそう切り出した。
「でもね、公道にはみ出す人が出ると、交通事故の危険性があるのよ。それに、露店なんかが出ると、食品衛生法とか何とか、いろいろと問題があるのね」
「はい。すみません」
「ああなると、許可制になるんだけど、君ら未成年でしょ。それに他人の土地だし、難しいんだな」
「はい」
「だから、かわいそうだけど、あそこで演奏するんはNGだな」
「ええっ?」
「ええっ、たって駄目なもんは駄目。あんなところじゃなくて、きちんとしたライブハウスでやれば良かべ」
「ああ、そうですね」
「だろ、分かればよろしい」
こうして『荒鷲健アンドザ・ドーナッツ』の駐車場ライブは出来なくなってしまった。
「さて、どうしよう」
荒鷲健が頭を悩ませてると、
「警察の言う通り、ライブハウスでやればいいわ」
白鳥純が事もなげに言った。
「でも、お金がかかるよ」
「そこはあたしと竜でなんとかするわよ」
「そうか」
『荒鷲健アンドザ・ドーナッツ』には二人、裕福な家庭の子が居た。
一ヶ月後、『荒鷲健アンドザ・ドーナッツ』は横浜野毛のライブハウスで初めての屋内ライブを行った。今までは無料でやっていたので、お金を払ってまで聴きに来てくれる人がいるのだろうかと、不安だったメンバーだったが、前売り券はソールドアウト、当日券はなしという盛況ぶりだった。
「すごいな」
と荒鷲健が客席を覗くと、いつも駐車場ライブを聴きに来てくれる見知った顔が何人もあった。意外だったのは、あの渡辺女史が来てくれていたことだ。
「へえ」
荒鷲健の話を聞いてメンバーは一様に驚いていた。
ライブは結果から言えば大成功だった。序盤は朝倉譲の作るハードなロックで聴衆の心を解放させ、後半はポップからバラードへと流れていき、しんみりさせる。客席には涙を流す者もあった。荒鷲健はラストに、自身渾身の作を歌った。
『空』
空よ 君に伝えよう
今僕がここにいることを
空よ 君には見えるかい
たくましく痩せこけた 僕の姿を
君を探して 旅に出て
苦しい日もあったよ
だけど 僕には希望がある
君といつか 再び会える日を
空よ 君には聞こえるかい
僕が君を呼ぶ その声を
空よ 君は微笑むかい
いつまでも君を 忘れぬ僕を
君を求めて さまよい歩き
泣きはらした夜もあったよ
だけど 僕には夢がある
君といつか 再び踊る日を
空よ 君に伝えたい
心から溢れ出る この思い
空よ 君には見えるかい
今も君を愛してる この僕を
その電話が荒鷲健の元にかかってきたのは、ライブが成功を収めた一週間後のことであった。
——突然恐れ入ります。わたくし、エポック・メイキングレコードの南部と申します。
エポック・メイキングレコードといえば大手だ。
「はい」
少し体が震える荒鷲健。
——少しお話がしたいのですが、お時間のご都合いかがですか?
「ああはい、いつでも空いてます」
——ならば、明日にでもいかがですか?
「はい」
荒鷲健は横浜駅の喫茶店で会う約束をして電話を切った。
(このことをみんなに話すべきだろうか)
悩む、荒鷲健。
(いや、まだ何の話かわからない。明日、聞いてみてからにしよう)
そうすることにした。体はまだ震えていた。
翌日。
荒鷲健はエポック・メイキングレコード事業部部長、南部と向き合っていた。
「はっきり言いましょう。あなた方をスカウトしたい」
「あ、ありがとうございます」
「私は君の声に惚れてしまったよ。そして、ギターの……」
「朝倉譲です」
「そう、朝倉くんのギターテクニック、これには恐怖すら覚えたよ。危険なほどに素晴らしいテクニックだ」
「ありがとうございます。朝倉を褒めていただいて、自分のことのように嬉しいです」
「そうか、なら話は早い。次回にでも契約しよう。次に会う時は、朝倉くんと、キーボードの娘はなんて言ったかな?」
「白鳥純です」
「うん、名前もいいね。白鳥くんの三人で来てください」
「えっ? あとの二人は……」
「とりあえず三人で結構」
「そうですか」
「今度、いつ空いているかな?」
「いつでもいいです」
「じゃあ、早いほうがいいな。明日の午後にしよう」
「はい」
荒鷲健は目の前の冷めたコーヒーを飲み干した。
その日の夜、荒鷲健は二人に電話した。
「エポック・メイキングレコードの人が俺たちと契約しようと言ってきた。それで明日会うことになっている。来られるよな」
それに対し、朝倉譲は、
「空いてるさ。空いてなくたって開けるさ」
と大喜びした。ニヒルな彼にしては珍しいことだ。一方、白鳥純は、
「ああ、そう」
と冷静だった。荒鷲健はそれが少し不満だった。
運命の日がやってきた。朝倉譲と白鳥純は燕九郎と中西竜がやって来ないことを不審に思った。それに対して、荒鷲健は、
「なんか、今日は二人とも来なくていいらしい」
と答えた。
「なんか変なの」
と白鳥純は言い、朝倉譲は、
「そんなことどうでもいい。遅れるといけない。さあ早く行こう」
と二人をせき立てた。かなり興奮しているようだ。
場所は昨日と同じ喫茶店だった。南部はもう来ていて、コーヒーをすすっていた。
「やあ、荒鷲君。こちら方は初めてだったね。南部です。どうぞよろしく」
「よろしくお願いします」
「こんにちは」
「では早速、契約の話をしよう。エポック・メイキングレコードは君たち三人と契約したいと思っている」
驚いたのは荒鷲健だった。
「三人? じゃあ、燕と竜は契約してもらえないんですか?」
南部は答えた。
「そうだ、あの二人にはプロになる技量はない。よって契約は出来ない」
荒鷲は食いさがる。
「俺たちは、俺たちは五人でやって来たんです。それを三人だけと契約するなんて、そんな話には乗れません」
「だが、我々には二人と契約する意志はない」
「じゃあ俺、帰ります。この話はなかったことにしてください」
荒鷲健は席を立った。
「じゃあ、私も」
白鳥純も立ち上がった。残るは朝倉譲のみ。
「君はどうするんだ?」
「俺は……お世話になりたいです」
朝倉譲はきっぱり言った。
「そうか、だが君一人とは契約出来ない。あの二人を説得できるか?」
「します。必ずやります」
「では、説得に成功したら、ここに連絡してください。良い報告待っているよ」
「はい」
南部は街の中に消えて行った。
朝倉譲は奇策を使った。エポック・メイキングレコードが三人だけと契約するという事実を燕九郎と中西竜に伝えたのだ。
「ええっ?」
はじめは息を飲んだ二人だったが、
「まあ、俺たちに力量がないのも事実だからな」
「そうだな」
と納得した。
「頼む、二人から健のことを説得してくれないか? 純は俺がやる」
「分かったよ譲。それだけお前はプロになりたいんだな」
竜が言った。
燕九郎と中西竜の訪れを聞いて、荒鷲健は驚いた。もっと驚いたのは二人が言った言葉だった。
「兄貴、俺たちのことは気にしないでくれ。俺は学校を卒業したら丸太さんのマネージャーになるって決めてんだから」
「そうだ、おらも親父の後を継いでパン屋のチェーンの社長になるだ。おら、いつもお腹を減らしてるだろ。食べ物が近くにあれば安心だ」
二人とも荒鷲健にプロになるよう勧めた。それに対し荒鷲健は、
「何言ってんだ。俺たち五人で一人前なんだ。俺たちはそれぞれ欠点がある。それをみんなでカバーしてここまで来たんじゃないか。譲のことなら心配するな。俺が説得する。五人全員と契約してくれるレコード会社を待とう。駄目ならインディーズでもアマチュアでもいいじゃないか。聴いてくれる人は絶対いる。あのライブハウスでの成功を思い出せ。少しでも聴衆がいるなら、俺は満足だ」
荒鷲健の言葉に燕九郎と中西竜は泣いた。朝倉譲の目論見は失敗に終わった。
一方、朝倉譲は白鳥純の説得に当たっていた。
「なあ純、俺は健の歌声を世間に広めたい。今のままじゃ健はプロになれない。これって宝の持ち腐れだろ。そうは思わないか?」
「でも、健はリーダーとして五人揃ってのプロデビューを図っているわ」
「燕と竜はプロになる気はない。俺の前ではっきりそう言った」
「えっ?」
「あいつらは、俺たち三人がプロになることを望んでいる」
「でも……」
「純は健にプロの歌手になってもらいたくないのか?」
「それは、なってもらいたいわ」
「あの実力を世間に知らせる。俺たちはそのサポーター役になろう」
「うーん」
「純は健が好きじゃないのか? 愛する男がメジャーデビューするのを見たくないのか?」
そこに白鳥純の父親が入って来た。
「朝倉くん、わしは君の情熱的なギターテクニックと歌詞に惚れている。エポック・メイキングレコードは三人揃わないとプロデビューさせないと言っとるようだが、わしが一言添えれば君一人でもプロになれる。荒鷲くんは五人にこだわっているようだが、そんな根性ではプロの厳しさに耐えられない。今、荒鷲くんとウチの純が付き合っているらしいが、わしは朝倉くん、君こそ純の相手にふさわしいと思うぞ」
「お父さま、勝手にいろんなこと決めないで!」
「わしの意見を素直に聞いていればいいんじゃ」
バシッと純の父親は純の頬を叩いた。そこに、荒鷲健から電話が入った。
——純、譲がそこにいるだろ。出してくれ。
「うん」
「俺だ」
——話がある。今夜、鶴見川の下水処理場の裏に待ててくれ。
「ああ」
電話は切れた。
鶴見川には下水処理場があり、その裏には細かい砂利で出来た、ジョギングコースがあった。五人の高校にも近い。雨が降ってきた。最初に朝倉譲がバイクで現れた。後ろには白鳥純の姿もある。
「チッ、呼びつけておきながら、まだ来てないのかよ」
朝倉譲は文句を言った。その時、荒鷲健、燕九郎、中西竜が中西竜の運転でパン屋のバンでやってきた。
「健、もうお前は必要ない。俺は純と二人でプロになる」
朝倉譲は叫んだ。
「そんなの嘘。あたしは五人でやりたい」
白鳥純も叫んだ。
「譲、目を覚ませ。お前のギターテクニックが群を抜いているとはいえ、世間にはまだまだ上がいる。一人でやって、失敗すれば、何も残らないぞ。五人で協力すれば、お互いの失敗もカバー出来る。元の鞘に戻るなら今だ。考え直せよ」
「やだね。俺を取り戻したいなら、土下座するか、俺と純と一緒にデビューしろ。それとも腕ずくで来るか」
「ああ、腕ずくで行くぜ。お前の根性叩き直してやる」
荒鷲健は素早く、朝倉譲の胸元に食い込んだ。
「やめろだ」
中西竜が止めに入ろうとするが、燕九郎が止めさせる。
「これはライバル二人の決着の時だ。好きにやらせろ」
「ウォリャー」
荒鷲健のストレートが朝倉譲の顔面にヒットしようとする。とっさに手で避けようとする朝倉譲。その掌にパンチが入った。
「あああああ」
絶叫する朝倉譲。
「あっ」
慌てて駆け寄る白鳥純、燕九郎、中西竜。
「まずい、利き腕の指が折れているぞ」
「早く病院に連れて行かなくちゃ」
右手を抱え、痛みを堪える朝倉譲。その姿を呆然と見つめる、荒鷲健。中西竜は運転免許を取ったばかりである。彼はおぼつかない様子でパン屋の番を走らせた。朝倉譲を病院に連れて行くためである。
荒鷲健は叫んだ。
「俺はなんということをしてしまったんだ。名ギターリストの運命を駄目にしてしまったんだ」
荒鷲健はとっさに鶴見川に飛び込んだ。それを取り押さえようとした白鳥純も川に転落した。燕九郎も中西竜のバンで病院について行ってしまったため、目撃者は誰も居ず、二人の救出は遅れに遅れた。
僕のK駅での取材は空振りに終わった。当時のことを記憶している人は皆無だったからである。僕が図書館で当時の新聞縮刷版を見ようか、鶴見川に行ってみようかと考えていると、
「おーい」
と声を掛けられた。
「やっぱりそうだ。お前か」
声の主は中西竜であった。
「久しぶりだな。あれから二十年も経ってるわ」
「そうだな」
「ところで指はどんな調子だ?」
「一般生活をする分には支障はない」
「ギターは?」
「弾けるわけない」
「そうかあ、指が動かないか」
「いや、健と純を殺してしまったようなものだ。もうギターは弾かない」
「今、何してるだ?」
「東京でルポライターをしている」
「なんでまた、ここに来ただ?」
「心にけじめをつけるため、あの事件を調べている」
「燕には会ったか?」
「ああ、丸太さんの事務所の社長になっていた。お前は?」
「パン屋の店長だな。うまいぞ、食べに来るか?」
「今日は遠慮しとこう」
「そうかあ」
「ところで、二人の墓はどこにある?」
「鶴見の苦災寺だ。純のお父さんの計らいで二人一緒に眠っている」
「なあ、竜。あの頃のバンドの録音テープなんてないか?」
「うん、残念だけど、ないなあ。でもどうしてまたそんなものを」
「俺の曲を歌ってくれた健の透き通る声が聴きたくてな」
「残念だったな、譲」
「ああ、じゃあな」
僕は駅に向かって歩き出した。あの時僕が自分勝手な行動をしなければ、二人は死なずに済んだ。僕の指の怪我は大したことなかった。でも僕は二人を思うとギターを弾くことが出来なかった。三流の大学に行き、三流のルポライターをしている。今度の取材はその時の贖罪をしたいと思ったからだが、心の重しは取れなかった。このルポは世間に出すまい。それにしても残念なのは、荒鷲健の美声がもうこの世にないことだ。
歌声は残らなかった。
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